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騙されたものの罪

2023年05月15日 09時36分33秒 | あれこれ考えること

今日は新聞の休肝日
仕方なく昨日の新聞を読んでいると、昨日気づかなかった欄に目が入った
「騙されたものの罪」のタイトルで深刻な問題提起がなされていた
(文化欄 ドキュメンタリー覚書 宮田仁)

日中戦時中、現場のカメラマンは
(命令されて)言われてプロパガンダにつながる映像を撮ったが
(結果責任として)言われたから撮ったでは済まされない
との認識を、戦後になって口にしている

映画監督の伊丹万作は、戦争の責任問題を問う時
多くの人が騙されていたということで責任が曖昧にされるが
そこには、騙されたものの罪もあるはずと厳しい指摘をしている

そして、今必要なのは国民が騙されたということの意味を本当に理解し
騙されるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し
徹底的に自己を改造する努力に努めることと訴えている

そして伊丹万作は
「騙されていた」と言って平気でいられる国民なら
恐らく今後何度でも騙されるだろう。いや現在でも既に別の嘘によって
騙され始めているに違いないのである」
と続ける

つまりは、激しい自己の追求、それが一人ひとりに必要としているのだが
だが「個の確立」と言われるこの境地になるのは、なかなか難しいようだ

一人ひとりの個々の判断を下すことは、それを許さない空気とか
孤立することへの恐れから、そして多くの人と一緒の判断なら
多くの中の一人でいられることの安心感から無意識的に避けるようになってしまう

責任を伴う自己判断をしないとするこの部分は
フロムの「自由からの逃走」やドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の
「大審問官」のエピソードや、オルテガの「大衆の反逆」でも、
それとなく扱われていると自分は認識している

ところで現代は、みんな騙されていないと言い切れるのだろうか?(何に?)
プロパガンダが巧みだから騙されても仕方ない!
と言って良いものだろうか、、

まずは騙されない自分を作る!
それが肝心なのだが、そういった方向に教育はなされているのだろうか?

心配することは増えることがあっても、減ることは無いようだ!


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