パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

サプライズはなかったけれど!

2006年05月15日 21時11分51秒 | Weblog
久保が外れて巻が入ったワールドカップ代表選手。
この結果は、今の久保のコンディションでは妥当なものだと思う。
いや、そうでなければ不公平だとさえ思う。

個人的には松井が入ってほしかったが
ドリブラー玉田が入ったので、実績が少なすぎた彼は
少し厳しい立場だったかもしれない。

あとDFで松田も入れてほしかった。
(中沢が怪我、レッドカードだったらどうするのだろう)

貢献度が重要視されたらしいが、今でも思うのは
それが果たして公平だったか?と言う点。

確かに呼ばれた人間は多かったかもしれない
しかし、あたえられた時間はひどく差があり
不公平だった。

同じメンバーでやっていればコミュニケーションもとりやすく、
チームとしての熟成も可能だろう
そして、それ故に貢献度は上がるに違いない

多分ジーコは勝負師的要素が強すぎ、
チームのレベルアップをするという役割は
トルシエよりも劣るだろう。

多くの(?)日本人の嫌いなトルシエを自分は
そんなに悪い監督ではなかったと思う
彼は、キャラクターが特異なため、実績が正当に
評価されてない気がする

自由のないといわれるトルシエだが
アジアカップの数々の圧勝、
コンフェデレーションカップのカメルーン戦
W杯のロシア戦等は
そんなに自由はなかったか?
いや、そんなことはなく、結構良い流れでできていて
対戦相手を叩きのめしたと言う点で
彼の作品の傑作だと思う。

幸せな23人!
ここまで来たら、選ばれた選手には頑張ってほしいものだ。
そして、願わくばジーコには冷静に、依怙贔屓なく
勝つための起用をしてもらいたいものだ。
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イメージは、正しいか?

2006年05月14日 22時11分25秒 | Weblog
「以和爲貴」
この17条の憲法が
和(わ)をもって貴(とうと)しとなす
とするのと
和(なごみ)をもって貴(とうと)しとなす
というのではだいぶニュアンスが違って感じるが
(どちらが正しいか知らないけれど)
どちらかと言えば後者の方だといいな、と思ってしまう。

同様に
魔の山(トーマス・マン著)も
魔法の山
となると、のんびりした印象になるように思える
魔の文字がらみでは
魔笛(モーツァルト)も
魔法の笛
となると、どこか締まりはないけど、
よりメルヘン的な感じは強いような気がする。

クラシック音楽では、あだ名がついている曲に人気が偏りがちだけれど
そのあだ名がイメージするものと曲とが
一致してないものだってあるように思えてならない。

もっとも、交響曲第・番とか・・協奏曲では
聴く気も起きないかも知れないから仕方ないかもしれない。

つまり、人は内容よりイメージに左右されることが多い
イメージだけで、知った気になることの多い今の風潮は
少し怖いな、と思う今日この頃なのでした。
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土方歳三は何故、逃げ出さなかったのだろう?

2006年05月12日 22時07分15秒 | Weblog
来た人にもらいあくびや春の雨
うくいすやはたきの音もつひやめる
朝茶呑みてそちこちすれば霞けり

この普通の感覚の俳句を創った男は
1969年 5月11日(旧暦) <新暦では6月20日>戦死した。
男は土方歳三、新選組の副長だった男だ。

どうしても、気になって仕方ないことがある。
何故、彼は負け戦とわかっていて、戦い続けたのだろう?

一般に言われるような、「最後の武士」という言葉で表されるような
美学に準じた行動であったとは、自分には賛成しかねる。

上記のような俳句を創る人間のメンタリティーは
思い込みが激しく一本道を突き進むタイプではない
と思えてならない。

むしろ彼は、表には出さないとしても、実は普通の小心者で
あれこれ悩むタイプだったのではないか?
無鉄砲さよりも、合理的で勝つ確率の高い戦い方を
好んだのは理解できる。

実質的に新選組を運営しながらも
近藤 勇の下についていったのは、
自分が近藤には絶対勝てないところがあるのを
自覚していたからではないか。
つまり、池田屋の時のような行為は
(人数が少なくても近藤は乗り込んでしまったが)
土方にはできなかったのではないか。
そんな、確率の悪い行動は採れない、と言い訳をしながらも
近藤の度胸には、かなわないなあ
と思ったのではないか?


それにしても、頭のいい彼のことだ。
函館の戦いは、兵力からして敗戦は目に見えていたに違いない。
局地戦での勝利ということで一時的な気休めはあったにせよ
最終的に落ち着くところは想像できていたに違いない。

もちろん、それまでに彼がしてきたことからすれば
戦うしか方法はなかったかもしれない。

それでも、どうしても思ってしまう。
何故、逃げ出そうとしなかったのだろうと。

いや、彼の戦いは、逃げ出したいと思ってしまう
自分との戦いだったかもしれない
なぜか、そんな気がしてならない。

思えば、土方歳三について、多くの小説や解説があり
それぞれが違っているのは、
実は彼のことを書いているのではなく、
彼を題材に書いている本人が
自らを語っているからのように思える。

とすれば、自分の土方歳三像は結構軟弱なので
自分は実はエラク軟弱なのだということになる。

もっとも、これは自覚しているのだけれど。

自分の好きな土方歳三の小説は「燃えよ剣」ではなく
「歳三往きてまた」(秋山 香乃)
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登山と読書は似ている?

2006年05月10日 21時38分07秒 | Weblog
どちらも、
自ら働きかけないと楽しめない
という点において、登山と読書は似ている。

説明しなくても
「そうだね」
と納得する人もいれば、説明しても
「そうかー?」
と首をかしげる人がいる。

わざわざ辛い思いをする楽しみは避けて
ゲームなどリアクション的な楽しみが多くなっている最近は
山登りもロープウェイでチョコチョコと行って
写真とってお終い!なんてのが多くなっているようだ。

読書にしても、ハウツウものや写真の多い読みとばすものが多くなっていて、
集中して読んで、想像力を働かさなければ理解できないようなもの(古典)は
読まれなくなっているようだ。

しかし、いったん山登りの楽しみや、手強い本を読み終えた
快感を知ってしまった人間は、もはや容易に得られる楽しみでは
物足りなくなってしまうのではないか?

といっても、最近の自分は正直言って、軟弱だな!
腰が痛くて山には行けないし、
老眼の所為で字が読みづらくて
本も読めないでいる。

つくづく、できる時に(若いうちに)やっておかないと
できなくなってしまうものはあるものだ!
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真面目ばっかりでは???

2006年05月09日 22時36分36秒 | Weblog
キリンカップ ブルガリア戦 1-2の敗戦、残念でした
まだまだワールドカップ程ギリギリの戦いではなかったけれど
このレベルの戦いになるとになりと、いつも思うのは、
日本人は真面目すぎる、ということ。

あまりにも正直な、教えられた通りのプレー、
コースも読まれやすいパス
焦り、苛立ち、怒りなどの気持ちが表情にはっきりと表れてしまう顔

一生懸命やるのを前提にすれば、
その先に、差となって表れてくるのは
「センス」ではないか、と思ってしまう。


センスがあるとかないとか、
このわけの分からない、
誰もが持つわけにはいかない「センス」は
効果的なプレーになっていても、
真面目な国民性の日本人は、
実はあまり好まないかもしれない。

何かのコマーシャルで
「最後は遊びがものを言う」
とあったが、実は本当にそうなのではないかと思ってしまう。
センスは遊びに中から育まれたり、
効果的なプレーは、遊びの要素があるということだ。

サッカーは勝負か、遊びか等というつもりはない。
ただ、願わくばマスコミは額に汗する選手だけを
取り上げるのではなく、
センスのあるプレーをする選手を
額に汗する選手と同じくらいの評価で
なおかつ、適切な解説で紹介してもらいたいものだ。

今日は失敗かな。全然うまくまとまらない。
でも、まあいいや。また、よく考えてトライしよう!
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二度と聴きたくない?演奏

2006年05月08日 22時07分48秒 | Weblog
音楽(CD・レコード)を聴く側のコンディションがよかったり、
その曲を聴くタイミングが良かったり、気分が乗っていたりすると
音楽が心や精神にダイレクトに迫ってきて
一生忘れられない程印象的なものになることがある。

しかし不思議なことに、そのように味わい尽くした演奏(CD・レコード)は
何故かもう一度聴こうという気にはなれないでいる。

いや、聴きたいのだけれど、畏れてしまって聴けないでいる、
と言った方が正しいかもしれない。

つまり、覚えてしまっている、その大事な印象を
改めて聴くことによって台無しにしてしまわないかと
不安になるのだ。

あの有名な、バイロイト祝祭管弦楽団、フルトヴェングラー指揮の第九。
調子の出てきた第2楽章では、楽器が出たり入ったりの立体的になり
深く流れる第3楽章は、トランペットのファンファーレの後の寂寥感。
そして、あの第4楽章、いつまでも続くように思える
コーラスのフェルマータと、その後の弱音から始まるマーチ風の音楽。
最後はアンサンブルが合っていようがいまいが
関係ないように思えてしまう熱狂。

これらは、あまりにも強烈な思い出として残ってしまっているので
もう2度と味わうことはできないと思ってしまうのだ。

同じようなことは、実演で聴いたギュンター・ヴァント指揮 
ブルックナー第8交響曲でもそうだ。
なにかとてつもなく巨大なものを感じて、圧倒されてしまったが
やはり、彼の演奏で同じ曲を聴くのは怖い。
はずれだったらどうしようか?と。

最近ではラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2006で聴いた
ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲変ホ長調K364もそうだ。

昨年購入のムターのと
ウェストミンスターのバリリのを聴いたのだけれど
ん?と思ってしまった。(予想通り?)

物事は比較することによって理解が深まり、
楽しみも大きくなるかもしれないが
2度と聴きたくなくなるような聴き方ができたなら
それはそれで幸せかもしれない、
むしろ、そんな聴き方がもっとしたいな、と思うのだった。
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終わっちゃった!

2006年05月07日 19時36分45秒 | Weblog
「あっ」と、いう間にゴールデンウィークは終わってしまった
最近、この言葉を繰り返してばかりのようだ。

年末年始の休みも、昨年のお盆の休みもそうだった。
毎年の2日間のサッカー合宿も、
ひどくあっさり終わってしまうように思える。

年齢を重ねるに従ってこの傾向は強くなっていく。
考えてみれば、感じる時間の割合は
[生きている日数分の(分母)何日(分子)は]
年々小さくなっていくのだから仕方ないか!

ゴールデンウィークは、賑やかなところは嫌!等と
言っている割には、あまり人がいないところは
なんだか仲間はずれにされたみたいで
寂しく感じてしまうので、結局人ごみの中を求めてしまう?

それにしても、なーんも考えなかったな、この数日間!
そのせいか(?)今は、サザエさん症候群を思いっきり感じている。

さあ、明日からは仕事だっ!
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大きすぎるのは、疲れてしまう。

2006年05月06日 19時58分08秒 | Weblog
当然のことなのだが東京は人が多い。
それも半端じゃない。
久しぶりに出かけると、駅で人にぶつからないように歩くのに
こちらが立ち止ったり、視線をあちらこちらに
運ばなければならず、結構疲れてしまう。

それに、駅自体も大きくて
中央口、西口、東口、・・・口等といろいろあって
以前訪れた風景を探してもさっぱり見つからず
焦ってしまったりする。

今回もやはり同じだった。
(田舎もんの自分は、何日も此処では暮らせないなあ)

音楽祭を終えて、さて、帰路につこうと東京駅を歩いていると
「そうだ、京都へいこう」
のポスターが目に入った。

毎年、秋やら冬、あるいは夏に京都に行ってるせいではなく
また、ポスターの写真が木造の建造物だったせいでもなく
「なんか落ち着くな」
と感じたのだった。


新幹線が横浜を過ぎる頃(?)になると
風景は一気に暗くなってきた。
毎日がお祭りのような、東京都心の賑わいはもう見えず、
のんびりとしていると
「そうだ、サイズが違うのだ」
頭に浮かんだ。

京都の建物はそれほど大きくない。
寺院にしても、奈良よりも小さなものがあるという。

一方、東京の建物は、デカイ!
必要以上に(?)デカイ!
利便性、効率を求めると必然的に大きな建造物を
作り出すことになった、
と言えるのだろうが、
そのために、人は少しストレスを感じてしまうのではないか。

ヒューマンサイズ
人には、心地よく感じられるサイズがあるのではないだろうか?

人は巨大なものには畏敬の念や憧れを持つかもしれない
しかし、それだけだ
そこに住みたいとか造りたいとか、みんながみんな、思うだろうか?
少なくとも自分は、パスしたい。

つまりは貧乏性が身に付いてしまっている生活からの
発想に過ぎないかもしれないが
いろんなものが手に届く範囲(サイズ)にある充足感は
覇気のない小市民の自分(?)には気持ちよいものだ。

思えば、年々大きなものより小さなものに関心が深くなっている。
ということは、やっぱり歳ってことかな?
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ラ・フォル・ジュルネの感想(忘れないうちに)

2006年05月05日 09時14分30秒 | Weblog
5月3日(水)13:45 ホールA
交響曲39番変ホ長調K543
ヴァイオリン協奏曲第5番イ長調「トルコ風」K219
山田晃子(ヴァイオリン)
トウキョウ・モーツァルトプレーヤーズ
沼尻竜典(指揮)

自分にとって今年最初のコンサート。
39番は自分の調子が悪くて、あまり記憶にないけれど
ヴァイオリン協奏曲の方は、よかった!
「この人は、なんて素直な音を出すのだろう」
何の根拠もなく、浮んだのがこのこと。
この曲は、次々とメロディーが溢れ出てくるようなところが好きで、
以前地元で聞いた時も多いに楽しめたけれども
今回も充分楽しめた。
K200番台の曲、結構好きかもしれない。
自由で、軽やかで自然で!

5月3日(水)16:00 ホールA
クラリネット協奏曲イ長調K622
協奏交響曲ホ長調K297-b
ロマン・グィヨ(クラリネット) オリヴィエ・ドワーズ(オーボエ)
ロラン・ルフェーブル(ファゴット) エルヴェ・ジュラン(ホルン)
トウキョウ・モーツァルトプレイヤーズ
沼尻竜典(指揮)

やっぱり、コックリしてしまった。
会場の雰囲気、誘惑に負けて、
強くないのにビール飲んでしまったから。

クラリネット協奏曲が始って、気づくと第2楽章の始まり
そしてまた気づくと終わっていた。
静かでぐっすり眠れた?みたい。
2曲目、普段はおまけみたいにCDに入ってるこの曲
偽作の疑いがあるけれど、
今回は4人の管楽器奏者が気持ち良さそうで
こちらも、うっとり身をゆだねることができた。

5月4日(木)11:00 ホールC
ディヴェルティメント変ロ長調K137
ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲変ホ長調K364
レジス・パスキエ(ヴァイオリン) 今井信子(ヴィオラ)
オーヴェルニュ室内管弦楽団
ゴルダン・ニコリッチ(指揮)

「あれっ、響きが違う。柔らかい」
オーケストラの人がヨーロッパ人だと音も違うのを実感した。
(この後のオーケストラがアジア人だったので、その違いがよくわかった)
このコンサートの白眉はやはりK364の第2楽章
わかっていても熱いものが頬をつたわった。
しかし、決してべたつかず、悲しいくらいあっさりと
名残惜しいのに曲は終わってしまった。
モーツァルトは音楽を思いつき、ベートーベンは発明する。
サラッと作ってしまうモーツァルトの天才ぶりを
あらためて感じるのだった。

5月4日(木)12:45 ホールC
ディヴェルティメントニ長調K136
ピアノ協奏曲第24番ハ短調
ニコラ・アンゲリッシュ(ピアノ) 香港シンフォニエッタ
飯森泰次郎(指揮)

馬鹿だな!全然学習できていない!
またもやビールを飲んで、いい気分になってウトウト。
確かコンサートマスターがスリムな女の人で
もっと近くで見たかったな、なんて思ったが
2階席じゃなんともならず、残念!
オケは、教科書みたいな感じ、
ピアニストはえらく馬力のありそうな人で
ロマン派によく合いそう。
それ以外はたいして記憶になし。
結構好きな曲だったのに無念!
(自分が悪いのだけれど)


5月4日(木)14:45 ホールA
ミサ曲ハ短調K427
カティア・ヴェレタズ(ソプラノ)谷村由美子(アルト)
ヴァレーリオ・コンタルド(テノール)ヴァンサン・ピニャ(バス)
ローザンヌ声楽アンサンブル  シンフォニア・ヴァルソヴィア
ミシェル・コルボ(指揮)

自分にとって最後のコンサート。
滅多に聞けない曲だ。
レコードで持っているが、最後まで聞き通した記憶がない。
生は、いいですね。
否応無しに最後まで聞かなくてはならない。
いやいや、それより結構楽しめたな。

解説にあるように、バッハの影響はあるかもしれないけれど
すぐにモーツァルト流に変わっていくのが面白かった。
響きの中に陶酔する瞬間が幾度となく存在して
ロマン的な要素も感じられたようにおもえた。

反省
チケットは早めに手に入れないとだめだということ。
席は、指定と自由があるものは、僅かしか金額の差はないので
指定にしておくこと。

来年は「民族のハーモニー」国民学派がテーマらしい。

次はこの反省を生かさなくては!
(覚えていたら?)
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モーツァルトのレクイエム

2006年05月04日 22時14分41秒 | Weblog
そのレクイエムは変わっていた。
なにしろ途中から始まった。
本当に曲の半ばからで、前半がどんなだったか分らないが、
いきなり盛り上がった曲調ですすんだ。

「あれっ、どうしたのかな」
と思っても、いっこうに聞き慣れた形に戻る様子がない。

聞いているうちにその響きは、何故だか知らないが
フォーレのレクイエムを思い出させた。
晩年のクラリネット協奏曲、クラリネット五重奏曲、
ピアノ協奏曲27番、アヴェ・ヴェルム・コルプスをも連想させた。

少しすると、ラクリモサが途中で途切れ
「そうか、モーツァルトの書いた通りの音がこれなのだ」
と気づいた。

後で、スタッフの人に聞くと、最初がモーツァルトオリジナル版
ついで、ジェスマイヤー版が演奏されたとのこと。
(よく見ると、パンフレットにも書いてあったが)

これは、ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2006
「熱狂の日」音楽祭2006 モーツァルトと仲間たちの
初日の公演題目の中の一つでのこと。

今年はチケットを頼むのが遅くなって
結果的に、大きなホールでのものしか手に入らなかったが
レクイエムは楽しみにしていたもののひとつだった。

オリジナル版を聞いて納得いったような気がした。
普段聞いているのは、モーツァルトにしては
生々しく、雑味が多いように思えて
(ジェスマイヤーもよくやっているけれど)
頻繁には聞こうと思わなかったのだが
オリジナル版は、もっと直感的ですっきりしていて
これぞモーツァルト!って気がした。

この演奏会は、前半部分だけで「儲け」と感じたのだった。
しかし、座席は1階の最後尾。
少しばかり音的にきつかったのが残念だった。

演奏は
谷村由美子(ソプラノ)ヴァレリー・ボナール・ビュクス(アルト)
ヴァレーリオ・コンタルド(テノール)ステファン・インボーデン(バス)
ローザンヌ声楽アンサンブル
シンフォンニア・ヴァルソヴィア ミシェル・コルボ(指揮)
によって行われた。
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