パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

公平なんだろうか(選挙の視点で考えると)

2019年02月15日 08時28分03秒 | Weblog

偏屈で独断的な思い(気になって仕方ないので)

韓非子か何かの本で今でも記憶に残っていることがある
それは部下に報奨を与える場合、気をつけなければいけないのは
その報奨を授ける判断をした人物よりは、報奨を実際に手渡す役割の人物に
忠誠心が働くようになることが多いのが人間というものという観察眼

なるほど、これは何となく分かる
商売上で本来感謝すべきは消費者であるのに、現実は自分の出世の立場を握る
上司のご機嫌取りが個人にとって最重要事項になっていくことを連想させる
最近良く見かけられる官僚さんたちのみっともない忖度や承知の上のミスも
自分の直属の意向を反映しようとする意識の現れ
それに加えて現代の人間はお金に弱い面がある
雇用関係とか売買においても、契約上では両者が平等とされているものの
現実にはお金を払うほうが強い立場になって、それを両者平等といって
大きな態度をとるのは世間的には疎まれやすい

結局のところ、ひとは自分にお金を払ってくれる人には弱い

こういうことがあるから選挙ではお金で票を買ってはいけないとされる
ところが、そこで最近気になって仕方ないのが、これを合法的にクリアする方法が
有りはしないかということ(特に現職が絡む場合)

ある地方都市では、〇〇会議と言われる実際には市民が何をしているか
よくわからない会議がいくつも存在する(市長の諮問機関としてあるいは補助機関として)
その会議の存在理由はそれなりの理由が付けられているが、その会議がその存在理由を
果たすべく機能しているかと言えば、それはかなり怪しい(市民はその存在も会議の内容も知らない)
ここで問題はこの会議に参加する人には報酬が支払われる点だ(会議はいろいろあってメンバーの数は少なくない)
確かに個人の時間を潰し知恵を借りることになるのだから報酬は当然だとも考えられぬこともない
しかしこれが選挙に結びついていくと想像する少々話はややこしいことになる

選挙において、現職対新人候補との首長の戦いになると
〇〇会議のメンバーは既にいくらかの報奨を現職の首長から受け取っている
(実際には首長からではないが、首長の判断で出ていると思うひとがいても不思議ではない
 韓非子の例のように)
つまりは借りができていると感じやすい(可能性がある)
そういう人が選挙の投票を行う場合、果たして情を切り離した判断ができるか、、が
少し疑問に思えて仕方ない
(しかも〇〇会議に出席し報酬を得る人は少ない数とは言えない)
偏屈・独断を言えば、合法的な選挙に対する金銭授受が行われていると見えないだろうか

ところで、こうした〇〇会議の評価は、行政改革発表会でコストベネフィット分析に基づいて
数字的(金額的)な効果を明らかにすべしと提言された
だが数字に現れない(表しにくい)効果があったものと考えられます、、と
悪気はない行政は定番の答えを繰り返す

正直なところ、この〇〇会議(の一例)を覗いたことがあるが、
これがとても建設的な意味あるものとは残念ながら評価しにくかった
ある指定された日に集まって、メンバーがそれぞれの思いついたことを適当に話してるだけという印象
仮にテーマが難しいならば、各人がその分野の知識を得るための努力とか
日を開けずに集中的に会議を開いて共通認識のレベルを挙げていくことが望まれるが
実際はステップを踏んでいるだけ、、という感じだった

当たり前のように感じるいろんなことが、実は案外不公平だな、、と感じたということ
それにしても権力を持ったものは強い  国も地方も、、
その弊害が、現れつつあるのが現代
さて庶民はどうするか、、、、




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罰を受けていないことは、違反していないことにはならないのに、、

2019年02月14日 20時01分08秒 | Weblog

議員さんと言われる立場の人は選挙区内の人に年賀状を出してはいけないと
公職選挙法にあるそうだ
一般の人はそんな細かいことは知らないので、議員さんからも年賀状が来るのは
当たり前と思ったり、来なかったらお高く止まってるとか、付き合いの悪いやつだ
とも思いを持ってしまうかもしれない
そのくらいのことだからと言うのでもないだろうが、この年賀状の違反については
結果的に大甘の対応(何も罰されることはない)となるのが普通らしいとか

以前、市内のある議員が公職選挙法で禁止されている戸別訪問を行ったとされることがあった
これは、たまたまある会場で議員さん本人もその行為を認めていた
しかし、これでその議員さんがなにか罰則を受けたかと言えば、、何もない
戸別訪問の違反を確定するには、何月何日何時頃来てどんな話をしたのか、、
その録音や録画があるか等の証拠が必要で、その上で細かな手続きがあって
時間もかかるので訴える方も面倒になってしまい、、禁止されていると法律にはあっても
ザル法の類となってしまうのだそうだ

戸別訪問を選挙期日近くにしてるじゃないか、、と思うことがあったが
それは「後援会の加入」への働きかけで、投票への依頼ではないので
許されているのだとか
でも現実にはその訪問は何を意味しているかは、誰にでもわかる
このあたりは法律とは、随分実態を反映しない言葉遊びのようだ

国会でも問題になっているが「なになにできる」という法律文は文字通り「できる」ということで、
強制力を持つかどうかは、よくわからないことが多いようだ
この「できる規定」の、その解釈を巡って少しばかり揉めたことが、自分たちの市民運動の活動の中にもあった
「できる」と同様に「してはならない」という文章も現実的にはかなり曖昧なことが多い
数年前のリコール運動の時のことだ、署名簿は閲覧期間が設けられ誰もが確認できることになっていた
その目的は署名したにもかかわらず不可と判断されていることへのチェックとか
署名した覚えが無いのにもかかわらず自分の署名があるとか、そうしたことの確認のための閲覧で
この閲覧は、こうした目的以外に使用してはならない、と法律には書かれていた

ところが、この地区のみならずリコール運動を起こした場合には、「署名は見られます」
との脅しが威力を発揮する
署名していることを確認した他人が、その署名の行為に対して何やら文句を言ったり、脅しともとられる
発言を行うのは「いけない」とされている
だが、この決まりを破った場合、、つまり、確認のための署名閲覧ではなく別の目的のための閲覧をして
実際になにか行動をしたとしても、実は罰則はないのだ
だから、「してはいけない」と書かれていても、実際にはその効力はない

問題は、できるとか、してはならない、、ということについて、その運用の実態を知っている人は
その知恵を使って、なにか悪いことを、、合法的にできそうという点だ
合法的というよりは罰せられずに、、と言ったほうが正確だが、こういう行為を行う人は
罰せられていないから法には抵触していないくらいのことは言うだろう

法に詳しいということは、法を守るということにならずに、法の隙間・不備をついて
社会的には変でも自分の都合の良いようにできてしまう可能性がある
そしてこの実感が、大人の知恵として「世の中はこんなもん、、」というのは少しばかり寂しい



 

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トリエステと言えばウンベルト・サバ

2019年02月12日 10時02分28秒 | 徒然なるままに

昨日トリエステ出身の女性と会った
トリエステで思いつくのがウンベルト・サバ
この女性は少し真面目なテーマ(ダイバーシティ×キャリア教育)のシンポジウムのパネリストだったが
そのテーマの興味よりもサバの地元の人間だから、直接話してみたいとの思いが強くて
話す機会があるかどうかはわからないがとにかく出かけた

サバの名前を知ったのは須賀敦子さんのイタリアの詩人を紹介した本
何人か紹介された中で、しっくりというかとても素直に心(気持ち)のなかに
入ってきたのがサバで、すぐさま彼の詩集を手に入れた

この中にトリエステを扱った詩がある
まだ見たこともない、まるっきり異国の情景を難しくない言葉で紡いでいるがこれがとても心地よい
外国語の詩を日本語に訳して本当にその良さを感じられるか
リズムとか音の醸し出す雰囲気が伝わるかは確かに疑問が無いではないが
全体の印象としてはなんとなく伝わるのではないかと思っている

この本の成功の大きな理由は須賀敦子さんの抜群のセンスによる訳詩だろう
サバの詩は小難しいというより、柔らかな感受性をそっと呼び起こす感じで
読むのに苦労しないから時々適当にページを開きたくなる

ところでこの女性とはシンポジウムのあとのティータイムで少しだけ話すことができた
すでに別の方と話をしていたのでちょっと遠慮気味に声をかけた
「サバは大好きなんです」「彼の本屋はまだあるのですか」「トリエステにはサバの詩にあるようにユダヤ人が多いのですか?」
彼女はサバの名前が出てきたことに少し驚きを感じたようだ
そして彼女の親戚はサバの名前がついた中学に通っているとか(これはいい加減に聞いたので少し違っているかもしれない)
ユダヤ教会の大きなのが確かにあります、、とも丁寧に答えてくれた

トリエステはサバの詩を読んでからネットで色々調べた
イタリアの都市でスロベニアに近く、海に面した小ざっぱりした街
ヘッセの誕生地カルフに訪れたように、サバ詣でとしてトリエステにもいつか訪れる機会があれば良いのだが
(どこかへ行きたいと思っていることは行けないとしても、なにも望まないことよりきっといいこと)




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みんなと同じという安心感?

2019年02月10日 10時43分33秒 | Weblog

テレビ番組は何故どこの局でも同じようなニュースを同じ時刻に流しているのだろう
と思うことがある
最近では野田市の小学生の虐待死の事件で、児童相談所等の不手際が報道されているが
連日の報道でおおよそのことは理解できているつもりだ
だからそのニュースが始まると(辛いニュースというせいもあるが)チャンネルを変えると
そこでも同じニュースをしている
再びチャンネルを変えると、またもや同じニュースが報道されている

少し前は煽り運転の動画が同じ時刻に多くのテレビ局で使用されていた
そしてその報道のトーンは、どの局も似たような姿勢大きな違いはない
またその前には韓国のレーダー照射騒動で、これまた同じ時刻に同じような内容の報道だった

そしてそれぞれのニュースが別の時刻の番組で扱われると、専門家と言われる人々が
局のはしごで、当たり前だが同じことを繰り返し説明している

テレビ局は視聴率競争をしている現実がある
にもかかわらず、同じような報道(番組)をつくって平気でいられるかが正直わからない

テレビ局は独自な視点を持つことは無いのだろうか
例えば児童相談所・教育委員会・学校の対応の不味さを問うだけでなく
自分の子供に対する暴力が多いのは何故か?(尊属殺人は最近多いのか?)
それは最近のことなのか?それとも昔からあったことなのか?
無条件に子供をかわいいものとする親の気持ちが、最近はそうではなくなってきているのか?
それは社会的な影響があるのか?(もしかしたら生物学的な視点からもヒントがあるかもしれない)
との視点で、報道する気は無いのだろうか

煽り運転にしても、車に乗ると人格が変わってしまう人がいるが何故か
すぐにキレてしまうのは何故か?
そういう人が最近多くなっていないか?
カッカしないためには人は何をすべきか(心の持ち方と社会環境)
残念ながらそうした視点で話は聞いたことがない

テレビ局は視聴率競争をしているというものの、自ら独自の視点をもち独自の報道を
することを怖れていないか、、
これは多くの仲間の中のひとりとして安心したいという、日本人によく見られる傾向の一つなのか

人と変わった視点・考え・行動をする
するとどこかに摩擦が起きる
そんなことは当たり前でその上でどこか妥協点とか同意点、あるいは異なる考えに対する理解が
深まると思われるが、この過程を最近の人は面倒と感じやすくなっていないか

多くの中のひとりとしての存在で安心する
ある時期所有しているもの(購入したもの)で自分を表現しているとの考えがブームになった
都会風の洗練されたグッズを所有し、評判の店舗で購入することが感度の高い人物とされた
実際はそんなことはありえず、単にプロモーションに載せられたに過ぎない(ことが多い)

皆が読んでいる本を読み、みんなが見ている映画を見る
そしてそれをSNSで拡散する
皆が注目している食品をその場所で食べ、写真に撮る
こうして自己承認欲求を満たすと同時に、自分はみんなと同じだと確認し安心する

多くの中にいる自分に対する安心と、そこから離れてしまうことへの不安
この心的なものが、どこの局を見ても同じ報道がなされる理由の一つとして存在しないか
(報道の現場では他社を出し抜くより、記者クラブで仲間はずれにされない方が
 大事なことと思われているそうだ)

こうした傾向は日本人によく見られる傾向なのか
それとも最近の事柄なのか
昔、女子高生に向けて思いついた皮肉を込めたフレーズにこんなのがある
「みんなと同じ、、ダサーい。みんなと違う、、こわ~い」

テレビ局も世間の人も同じなのかもしれない
内閣支持率でも大勢に所属していることで安心したい誘惑からは逃れられないのかも
人と違うということは、度胸も覚悟もいるからな、、、
(そんなのはそのうち慣れるのに)

連休中の暇に任せて、、あれこれどうでもいいこと


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あれこれ思い浮かぶこと

2019年02月08日 09時16分51秒 | あれこれ考えること

残念ながら人は利他的よりは利己的な面のウエイトが高い
だが利己的は多少恥ずかしいと自覚していて、それを補うために
「みんな」がそのように考えているとの安心感を持ちたいと思う

このときの「みんな」というのが具体的な個人名を挙げよと問われると
案外すぐさま浮かんでこず、「みんな」は言葉の勢いだけで使われてしまう
傾向は少なくないのではないか

そしてこの「みんな」という言葉はとても都合よくて、この言葉を使う人は無条件に
「みんな」の考えることは正しいことだ、、と思い込んでいるように思われる

ところが本当に「みんな」が考えたり思うことが正しいか、、
といえば、それはわからないのではないか
政治や経済の世界は何が正しくて何が正しくないかは正直なところ数学や物理のようには出てこない
無理やり答えを出すとすれば「結果」だけで、それによりあのときの選択や解釈は正しかった等の
評価を下すことになる

先のことはわからない
なるべくなら間違いのない未来を予想したい
いや未来は予想すべきものではなく実現するものとの考え方がある
しかしそのためには、判断材料となる各種の情報が正確に目前にあることと
最終的な判断を下す人が洞察力・全人格的な判断力・各種知識・人間にたいする大づかみの認識
熱意等に満ちている必要がある(きっと)

ここでついつい無い物ねだりをしてしまうのが、優秀なリーダーの存在
地方でも国でも優秀なリーダーさえいればなんとかなる、、と考えたい傾向がある
ところが現在目にしている現実は、そのような考えたかたは幻想に近いということだ
本当に残念なことに、この「みんな」が選んだリーダーがその全能感を勘違いして
「みんな」がそうではないと思われるようなことをしつつある

そしてこれが不思議な事に全世界的に同時に起こっている
最近つくづく感じることは、良きものとされる民主主義はとてもデリケートなもので
それは後生大事に祭り上げているものではなくて、常に誰かが刺激を与えて
緊張感をもたらすものでないと機能しないだろうということ

でも、真に難しいのは、人は我がことのように物事に取り組めないこと
利己的なことは関心があっても利他的なことには、、、、、
他人のことは言えないが、、

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付箋を付ける部分が多そうな「大衆への反逆」

2019年02月07日 19時45分30秒 | 

源氏物語の現代語訳と同時進行で読み始めてるのが西部邁さんの「大衆への反逆」

久しぶりの西部さんの本だ
ありがたいことにとんでも長い章が続くということはなく、切れ味鋭い現実味を伴った思考が次々と展開される
そこに出てくる外国人の名は知らない人が多くて閉口するが、つくづくこの人の知の総量は半端ではないことがわかる

源氏物語も人間関係を忘れないうちに読み終えないと何が何だかわからなくなりうそうで
そちらに集中したいが、こちらも興味をそそられてしまう
少しばかり読んだだけでも付箋をつけた場所は何ヶ所かある
オルテガの「大衆の反逆」を念頭においたと思われる「大衆への反逆」
その感想については読み終えたあとで、、、気になる部分を書き起こしながら、、

しかし、現在の日本にこのような全人格的な知識人が思い浮かぶだろうか、、

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4年前の住民投票の記録

2019年02月06日 15時37分12秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

理由があって読み返しているのが、4年前の出来事に関する記録

これは、当時頻繁に投稿していた「新城市の住民投票と庁舎見直し」に関するカテゴリーを
ブログの書籍化サービスを使ってまとめたものだ

今読み返すと物事の雑な理解の仕方、思い込みによる少しばかり偏った見方、真夜中のラブレターみたいに
興奮状態で書かれたであろう部分がいくつか見られる
それは恥ずかしい面もあるが、これらの欠点ゆえにその当時の雰囲気を正確に表している気がする
歴史の資料に一次資料というものがある、当事者の手記・手紙などがそれに当たるが
そこに書かれているのは後に明らかにされる物事の正確な記述ではなく、
当事者視点での理解や認識で、勘違いや思い込みも混じっている
そしてそれがリアリティーがあるものにしている

自分のこの書籍化したものも、そのようなものと同じだ
自分でも、よくもまあこんなに熱くなって長い文章をいくつも投稿したものだと少し呆れるが
今回読み返しても印象に残るのは、何かに怒っているという感情をモロに感じることだ

確かに何かに怒っていた
その怒りがその後の自分のこの分野の運動(市政に関すること)への参加につながっている
現在退屈せずにリタイア生活ができているのは、このことがあるおかげだが、そのきっかけをつくってくれた
怒りも元となった住民投票の出来事は、今となったら感謝すべき出来事なのかもしれない(自分にとっては)

ところで、この書籍化されたものの内容は(目次は)

 

それまで市政に何の関心もなく、市議会議員の名前も知らず、まして市議会とか条例なんぞは
頭の片隅にもなかった人間が、怒りに任せてあれこれ調べ、想像し、考えたこと
それは市とか市民のために行ったことではない
ただただ個人的に納得したかったから
だが、そのうち多くの市民も自分と同じ位の情報量(市政・市議会に関して)をもって
その上で判断できるようになってくれれば良いのだが、、思うようになってきたのも事実

自分は横着者だったので偉そうに言えないが、
市政とか地域活性化とか福祉が他人事ではなく我がこととして
感じられるようになれば良いのだがな、、、と願うこの頃




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100分de名著(大衆の反逆)

2019年02月05日 09時14分30秒 | 徒然なるままに

扱われる本によって見たり見なかったりのNHKの「100分de名著」シリーズ
今回のオルテガの「大衆の反逆」は、普段は一回しか読まないことが多いなかで
再度読み返した気になる本で、自分の理解の仕方が正しかったのかが気になるので
録画して見ることにした

第一回目見終えてホッとした
ポイントは自分でもちゃんと抑えている
ところどころ付箋を付けたり、書き残している文章はこの番組でも扱われていた
普通に読み解けば、そう読める、、ということなんだろうが
みんなと同じのようで安心した、と言う精神状態は、えらく皮肉っぽくなるが
ここで扱われた「大衆」のなかのひとりってことになるんだろうか

自分が書き起こした抜粋部分は

大衆とは、みずからを、特別な理由によって、---よいとも悪いとも---評価しようとせず、自分が《みんなと同じだ》と感ずることに、
いっこうに苦痛を覚えず、他人と自分が同一であると感じてかえっていい気持ちになる、そのような人々全部である。

 オルテガ大衆批判は辛辣を極めている。ただし彼が批判する「大衆」とはよく誤解されるように特定の階層のことではない。
階級や社会的地位とは関係なく、自分の意見を持たずに大勢に流されるような人間たちの事を大衆と呼ぶのである。
従って富裕層や支配者層に属していても、空気に左右されやすいような性格を持っているのであれば、その人間は「大衆」の一員なのである。

100分で一冊を紹介するパターンなので、第一回目は入口の部分
今後、エリートの概念が紹介されることになっていくと思われるが
つくづく感じるのはヨーロッパの知の奥深さ、教養というものへの畏敬の念、全人格的な判断をすべしとする人としての捉え方
これらが当たり前のようにある種の人々には身についていること

話しは飛んで、日本のテレビ番組では専門家・評論家といわれる人々が時と場所、テーマに関係なく
コメントを求められ、それがまるで社会一般の理解の仕方であるかのような扱われ方をする
専門家は専門分野には詳しいかもしれないが、他の分野においては素人にもかかわらず
視聴者も素人だからといって平気で無責任な発言をしがちだ
わかりやすい例では、サッカーの試合について指導者のライセンスも持っていないプロ野球の経験者が
サッカーについてあれこれ言うのがこれに当たる
そして視聴者はいつの間にか見聞きした意見を自分が考えたもの、多くの人の共通意見と理解して安心する

専門家は謙虚に突き詰めていけば、自分は何も知らないというソクラテスの導き出した結論に至ると思われるが
現在の社会においては「専門分野」の見方が絶対視され、そしてそれが科学性を持っていると判断されやすい
例えば原発における事故の確率は、統計学上限りなくゼロに近いだから安全だということになり
人は理性的になって科学(確率)を信じるべきだとの声がある
だがこれは一分野の専門的な見方であって、行動経済学・心理学の面からすると人は損をするのを
得するより嫌う傾向があり、つまりは一旦事が起きてしまえば取り返しのつかないことになる(損する)のを
恐れるのは、傍観者のような確率とかでは表現できない人間の心理的傾向ということで
単なる確率論だけで話を進めるべきではなく、人としての全人格的な傾向をもって選択すべき問題
ということにもつながる

ということで、いろんな話に連想が人が広がりそうな「大衆の反逆」
今後も忘れずに録画しておかねば、、、

 

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今のうちだけかもしれないが(子どもたちとのお遊び)

2019年02月04日 08時38分27秒 | 子どもたちのこと

先月の20日の日曜日に続いて昨日の3時頃、また近所の子どもたちが遊びの誘いに来た
今度は玄関に顔が見えるだけで目的はわかっていたのですぐに暖かい格好をしてでかけた

メンバーは小学4年の女の子が二人、小学一年の男の子が一人
前回より人数が少ない
「〇〇くんは?」
「お誕生会」
どうやら近所の彼の友達もそちらに参加しているようだ

遊ぶ場所を今度は自分らも子供の頃遊んだ神社(金毘羅様)にしようと提案した
遊ぶメンバーが少ないので家にいそうな子の家を訪ねた
ちっちゃな妹は神社まで行けないから今回はパス、、と同級生の女の子
今度は少し離れたところの子を誘いに歩く
その子のお父さんは知っている
そうか、誰々さんのお子さんはこの子たちと同級生なのか、、
と漠然と知っていたことが妙にリアルに感じる
その家はチャイムをならしても応答はなし
結局三人と自分で金毘羅様に向かった

ここなら安心して遊べる
お遊びは今回も「隠れんぼ」最初に鬼を決める
大人の目からすると隠れるところもそれほど無く変化に富んでいなくて
すぐに飽きてしまいそうだが、子どもたちの目は大人のそれと全然違うようで
一回一回鬼が変わるたびに全身全霊で遊びに夢中になっているように見える

鬼の役の子が、隠れてる子を見つけたらタッチする場所からあまり離れずに
(隠れていた子に先にタッチされるのが怖くて)遠くを見て探すので
なかなか隠れてる子を発見できずにいて、盛り上がらなくなったので
次の鬼の役の子は、何メートル以上離れたところまでいかなければならない
と石で地面にエリアを描く

これはなんだか感動した
遊びながら、現実的なより楽しめるルールを作っていく
子どもたちはこういうことまでできるのか、、と
(この方法は既にある方法かどうかは知らないが)
子どもたちの発想力は想像以上で、そういえば金毘羅様の入口付近に並んだいくつかの石を
アスレチックといってピョンピョンと渡って成功した子は自慢して小さな子も負けずにトライした

子どもたちの遊びは、場所と人数さえあれば適当に遊ぶ方法を考えうるのではないか
フト、そんな気さえする

隠れんぼに飽きると、隠れんぼを見ていた三人の男の子が一緒に遊ぼうの声に誘われて
ボールを使ってのパスゲームをすることになった
これがは思いの外盛り上がった
受けての子が高い声をだしてボールを要求する
邪魔する方も必死
大人の知恵はパスが受けれそうな場所にすぐに移動することを考えるが
子供は突っ立ったままここへ、、と要求する
パスを受けられる位置に動くのは良いが、何回か続けると体が重いので息切れがする
一方、子どもたちは走る走る、、、

途中で雨が強くなる気配がしてきたので、楽しかったお遊びの時間は終了することに

前回と今回、もしかしたらあと数回は誘われることがあるかもしれないと思いつつも
中心になって誘ってくれたのが小学4年生の女の子だから、
この子たちはそのうち「思春期(のはしり)」になって遊ぶなんてつまらない、、、
ということになるだろうな、、との寂しい思いも浮かんだ

でもとりあえず、遊びのメンバーに入れてもらっているので今を楽しまなきゃ
彼ら彼女らはこのおっさんを「大人」というより仲間と感じているのじゃないかな
そしてそれは、とても幸せなことのように感じる
あいさつ推進運動のメンバーは、子どもたちを遊んだと話したところ羨ましがっていた
あまり自慢することのない自分だが、これはもしかしたら自慢できることかも


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強いほうが勝ったアジアカップ決勝戦(その資格はなかった日本)

2019年02月02日 08時26分36秒 | サッカー

毎朝ラジオを聞いている同居人が口にした
「サッカーのニュースを何もしないから、昨日は負けたんだな、、と思った」
(日本1-3カタール)

その通り、アジアカップは優勝に届かなかった
自分の生活パターンとは違う夜中まで起きて決勝戦をみていたが、
敗戦に興奮して眠れなかったということもなく、妥当な結果だし、それでよかったと納得した

昨日の試合は強い方が勝っただけ
確かに滅多に見られないうようなスーパーなオーバーヘッドのシュートが一点目に入り
それで全体的なリズムを崩されてしまった感じはある
二点目も完璧なシュートで、守りが多少ゆるい面はあってもあのシュートは蹴ったほうを
褒めるべきで、現実にはあまり崩されなかったのに二点取られてしまったと言う感じ

しかし世界のレベルではこういったワンチャンスをものにする
チャンスの数を競うのではなく、しっかり守らているなかでも一瞬のシュートチャンスを逃さない
その感覚と技術が無いとワールドカップでは良い成績を収められない

ここ数日の日本のメディアのスターづくりと結果が全ての騒ぎ方は、ワールドカップのときと似ていて
どこか違和感を感じざるを得なかった

試合は勝つことに越したことはないが負けたときのほうが、何が欠けていて次に何をしなければならないかがはっきりする
森保監督は試合中に感じた次の練習に活かす(加える)べきものをメモするのだそうだ
この気持はよく分かる
自分も昔試合をする時に何時も、自分たちのチームに欠けている点を実感して、その後の練習の参考にしようとした

日本はいつまで経ってもフィジカルの壁にぶち当たる
日本人より小柄なベトナムとかタイとかのチームと当たると、アジリティで戸惑うことはあっても
彼らとの体格差と経験で対応できてしまう
ところがワールドカップクラスのチームと戦うときは、今度は日本がフィジカルの弱い立場になってしまう
同じ身長でもヨーロッパの選手とは何キロか体重の差があるし、比較的身長の低いアルゼンチンの選手と比べると
胸幅と厚みがぜんぜん違うし、走る姿も彼らはグランドをスパイクでしっかりと掴んで走るのに対し
日本の選手は雲の上を走るように軽い感じに見える
そして個々の競り合いとなるとたくましい彼らに勝つことは難しくなっている

ボールを前に運ぶ作業はパスとドリブルがある
それぞれ長所短所があるが、日本はほとんどがパス
中島翔哉がいるときはドリブルの要素が増えるが昨日は今までのように推進力のないパスに終止していた
パスは選手が疲れないが、手数が多いとどこかに引っかる可能性がある
ドリブルは選手が疲れるが、過程が少ない分だけボールを取られることが少ない
ドリブルには仕掛けるドリブル、距離を稼ぐドリブル、キープするドリブルがあるが
この距離を稼ぐドリブルというのをできた選手は中田英寿と本田圭佑で
それもサイドではなく中央部分で、華麗ではないが力強くできていて
見た目に推進力とキープ力を感じることができた

日本の選手では中央部分でボールを運べる丈夫な選手の必要性を実感
(長谷部は時として鋭いドリブルを見せた)
柴崎はパスセンスはあってもそれだけじゃ、相手は対応できてしまう

昨日は後半になって右サイドに攻め込むのが成功していたが、ハーフタイムの指示かどうかは
わからないがなかなか機能していた
しかし、人数をかけた守りを破るにはカタールの二点目のようなミドルのシュートが必要
これが日本はなかなかできない
仮にやったとしても、ゴールの上を通過するシュートをついイメージしてしまう

ということで、次に何をするか、、何が欠けているかは
このように負けることにより必死に考える機会となる
正直なところ、勝ったほうが良いけれど「優勝の資格は無いな」というのが戦前の気持ちだった
次のワールドカップ開催国ははカタール
アジア予選に開催国カタールが参加しないのは、少し助かる感じ



 

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