偏屈で独断的な思い(気になって仕方ないので)
韓非子か何かの本で今でも記憶に残っていることがある
それは部下に報奨を与える場合、気をつけなければいけないのは
その報奨を授ける判断をした人物よりは、報奨を実際に手渡す役割の人物に
忠誠心が働くようになることが多いのが人間というものという観察眼
なるほど、これは何となく分かる
商売上で本来感謝すべきは消費者であるのに、現実は自分の出世の立場を握る
上司のご機嫌取りが個人にとって最重要事項になっていくことを連想させる
最近良く見かけられる官僚さんたちのみっともない忖度や承知の上のミスも
自分の直属の意向を反映しようとする意識の現れ
それに加えて現代の人間はお金に弱い面がある
雇用関係とか売買においても、契約上では両者が平等とされているものの
現実にはお金を払うほうが強い立場になって、それを両者平等といって
大きな態度をとるのは世間的には疎まれやすい
結局のところ、ひとは自分にお金を払ってくれる人には弱い
こういうことがあるから選挙ではお金で票を買ってはいけないとされる
ところが、そこで最近気になって仕方ないのが、これを合法的にクリアする方法が
有りはしないかということ(特に現職が絡む場合)
ある地方都市では、〇〇会議と言われる実際には市民が何をしているか
よくわからない会議がいくつも存在する(市長の諮問機関としてあるいは補助機関として)
その会議の存在理由はそれなりの理由が付けられているが、その会議がその存在理由を
果たすべく機能しているかと言えば、それはかなり怪しい(市民はその存在も会議の内容も知らない)
ここで問題はこの会議に参加する人には報酬が支払われる点だ(会議はいろいろあってメンバーの数は少なくない)
確かに個人の時間を潰し知恵を借りることになるのだから報酬は当然だとも考えられぬこともない
しかしこれが選挙に結びついていくと想像する少々話はややこしいことになる
選挙において、現職対新人候補との首長の戦いになると
〇〇会議のメンバーは既にいくらかの報奨を現職の首長から受け取っている
(実際には首長からではないが、首長の判断で出ていると思うひとがいても不思議ではない
韓非子の例のように)
つまりは借りができていると感じやすい(可能性がある)
そういう人が選挙の投票を行う場合、果たして情を切り離した判断ができるか、、が
少し疑問に思えて仕方ない
(しかも〇〇会議に出席し報酬を得る人は少ない数とは言えない)
偏屈・独断を言えば、合法的な選挙に対する金銭授受が行われていると見えないだろうか
ところで、こうした〇〇会議の評価は、行政改革発表会でコストベネフィット分析に基づいて
数字的(金額的)な効果を明らかにすべしと提言された
だが数字に現れない(表しにくい)効果があったものと考えられます、、と
悪気はない行政は定番の答えを繰り返す
正直なところ、この〇〇会議(の一例)を覗いたことがあるが、
これがとても建設的な意味あるものとは残念ながら評価しにくかった
ある指定された日に集まって、メンバーがそれぞれの思いついたことを適当に話してるだけという印象
仮にテーマが難しいならば、各人がその分野の知識を得るための努力とか
日を開けずに集中的に会議を開いて共通認識のレベルを挙げていくことが望まれるが
実際はステップを踏んでいるだけ、、という感じだった
当たり前のように感じるいろんなことが、実は案外不公平だな、、と感じたということ
それにしても権力を持ったものは強い 国も地方も、、
その弊害が、現れつつあるのが現代
さて庶民はどうするか、、、、