パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

見て見ぬ振り

2021年04月10日 08時43分30秒 | Weblog

アメリカで起きたアジア系の人に対する暴力行為を、見て見ぬ振りをしていたドアボーイが
解雇されたとのニュースがあった
一企業がどのような理由をつけて解雇したのかわからないが
それを企業の姿勢として行わなければならなかったところが少しばかり残念だ

誰かが理不尽な暴力を受けている
それが目に入ったならば無条件に止めに入る
それが人として当たり前の行為と思えるのだが、個人の判断ではそれができなかった
ドアボーイたちは自分には関係のないことだと見過ごした
それは無関心と言うだけでなく結果的にはその行為(暴力行為)を支持したことになる

このようなニュースを見聞きして、ひどい人たちがいるものだくらいにしか
感じないかもしれない
だがよく考えると、見て見ぬ振りをするのは至るところで見られる

驚いたのは、会食時にマスクを外したり付けたりするのは現実的に難しいので
それを補うために団扇を使うことが提案され、それが予算化されたというニュースだ
最初、冗談かと思った
このとんでもない案は一気にSNS上では批判の対象になった
そしてそれは批判されて当然だと自分は思った
直感的に現実的でないと誰もが思うようなこと、それが現実化されようとしていることは
その案に関与していた人たちは問題ないと感じていたということだ
いや、薄々は非現実的だと思ったとしても声に出さなかったということだ
声を出さないことは結果的にその案の推進を果たすことになったので支持したことになる

道徳的、倫理的などと大げさなことを言わなくても、困った人がいたら助けたいとか
普通に考えれば誰が言おうと現実的でない考えに反対するということが
現在はとても難しくなっているのだろうか

どう考えても無理筋という話は至るところにある
自治体の計画にも呆れるほどそれは見られる
我が市では道の駅「もっくる新城」にドッグランが新しく開設された
この計画を聞いた時の一番の違和感はその面積だ
いったい100平米でどんなものができるのか
できたとしてもそれは犬たちにとって(飼い主にとって)魅力的なものか
この計画は1600万円ほどの予算で行われた

腹を立てながら出来上がった現場を見に行くと、その面積の実感は悲惨なくらい狭い
そしてこれにそれほどまでの金額がかかるのだろうか?
と疑いを持つくらいだった

こうした計画は出来上がってみたいと現実の大きさを実感できない場合が多い
図面とか数字だけで話をするだけでは全体の姿をイメージしにくい
だから数字だけが独り歩きして市議会も予算を可決し、事業は進められていく

出来上がってからでないと実感はわからないかもしれないが、予想することはできる
計画を知った時の最初感じたのは上にあげたように面積の少なさだった
自分がこのように感じたということは、関与したスタッフの中にも同じように
感じたひともいるということだ
そこで問題は、そう感じた人たちは何をしたか?という点だ

公務員は上司の業務上の命令に従わなければならない!と決まりでなっている
だがそれは自分が直感的に感じた違和感を押し殺してまでしなければならないことなのか
公務員は公僕として最小の費用で最大の効果をあげるべく行動するように別の法には書かれている
それを考えると、まるっきり反対ができないというのではなさそうな気がするが
(公務員の経験がないのでこれが現実的かどうかはわからないが)
そうしたことを考えるもの面倒でただただ流れに身を任せるだけなのだろうか

そしてそれは一歩間違うとドアボーイの見て見ぬ振りを続ける姿勢につながる
とは言うものの、ひとは全方位に同情や共感をもって接することはできない
自分でもある悲惨な状態には、無関心ではないとしても何ら行動を起こせないでいるのも事実だ

なにやら小難しい話になってしまったが、ドアボーイの一人でも助けに行ってほしかったように
団扇の案にも反対する人がいてほしかったし、職員の中にも小さすぎるドッグランの計画に
反対する人はいてほしかったということ

 

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他人の声に左右される自己判断

2021年04月09日 08時26分22秒 | あれこれ考えること

今年の秋には我が市でも市長選、市議会議員選がある
全国に目を向ければ直近には参議院の補欠選挙が長野、広島で行われる
選挙といえば、「地盤・看板・鞄」が重要な要素とされている
そのうちの後援組織の「地盤」について疑問に思っていたことがある

ある組織がある候補者から依頼を受けて、あるいは組織が主となってある人物を
投票すべき人物として決めたとする
組織の中心人物は組織の決めた方針に従うのはわかるが
末端の人は組織の一員(例えばその人物を応援する企業の一社員)というだけで
それに従ってしまうのだろうか
無記名で投票をするから組織の意向を裏切ったところでわからない
そのように考えて自分独自の価値観に基づいて判断をするということは無いのだろうか

実際には組織の意向に反する行動をする人たちは一定数はいるようだ
投票後の調査でもそれは明らかにされる
だが大半はそのような行動はとらない

そこで何故、組織の要望に素直に従ってしまうのだろうと考えてみる
直接的に利がある場合は当然応援するのは当たり前だが、あまり自分の生活に関係ない人は
何故、その人物を応援してしまうのだろう
自分で判断しない場合は「あの人が薦めるから」の場合が少なくないと思われる
あの人とは身近な人だったり、信用できる人という類だ
「誰でもいいならとりあえず信用できる人の言うことを信じて投票してみよう」
このような消去法的な選択は多くないだろうか
つまりはマニフェストを読み込んだ上での選択や判断ではなくて、自己判断を保留して
誰かの判断に相乗りするというわけだ

ちょいと思考実験をしてみた
組織からは誰々に投票するように言われているがとりあえず自分を正当化するために
マニフェストに基づく選択をしようする人物を想定する
マニフェストを読み込むわけだが、内容を読み込むことはなかなか難しいので
「あなたの合う人は誰々」といったマッチングのお遊びをしてみる
スタートの問でイエスかノーかを選び次に進み、
今度は選んだ先の問にまたイエスかノーで答えてどんどん進んでいく
そうすると「あなたの考えに近い人は〇〇です」と出てくるようにする

問題はその結果が組織の応援すべき人物と違った場合、
彼は(人は)どのような判断を下すのだろうか
彼は(人は)自分の価値観に基づいて行動するのだろうか
それとも自分の判断が間違っているかもしれないと考え、この実験の選択を捨て去るのだろうか

人は独自の判断を下すことを恐れる傾向があるようだ
ソロモン・アッシュの同調実験という有名な実験があって
その実験ではまず一本の直線が提示され
次にこの直線と等しい長さの直線は次に上げる三本のうちどれか?と問われる
そんなに難しい区別ではないので大半の人はすぐに正解を選ぶ
本当の実験はここからで、外からの声として「正しいのは〇〇」(実験者の答えとは違う)
と発言する人が多いと実験者に伝える
そうすると実験者は先程の意見を変えるかどうか?
というのを調べるという実験だ

自分では正しいと思う選択をしたのに、多くの人はそう思っていないらしい
その事実を知った人物はどのように考え行動するか

この実験の結果は、ある一定数数の確率で自らの考えを変えてしまうらしい
つまり間違っているのは自分だと感じてしまうのだ(薄々は自分が正しいと思っていても)
どうやらみんなと一緒という誘惑は馬鹿にできないらしい
だが、問題なのはみんなの選択と一緒という安心感は、その選択が適切かどうか?
とは違うということだ

人は自分の責任において選択・判断をするというのは思いのほか難しいのかもしれない
こうした人の群れたがる傾向を知ってしまうと、当たり前のように報道される選挙前の
勝ち負け予想等は、本質的な判断を下す妨げになっているような気がする




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オリンピックについて

2021年04月08日 08時42分22秒 | あれこれ考えること

オリンピック
サッカーの若い世代が必死に戦うのはいい経験になるし、見たいと思う
池江璃花子が白血病から戻ってきて驚異的な回復を見せているのは
彼女の努力の積み重ねで素晴らしいことだと思う
だが、それとオリンピック、あるいは聖火リレーをすべきかどうかは問題が違う

結論から言えば、自分は今回のオリンピックは開催すべきではないと思う
そもそもこの夏のオリンピックは違和感のオンパレードだった
日本の7月下旬に屋外で運動をすることは、大半の日本人は暴挙だと感じていたはずだ
熱中症で何人が病院に運ばれたといったニュースが連日流される時期だ
それは他の都市でオリンピックを開催されるよりは、ましとはならない
打ち水とか、早朝の競技開始とか、そうした小手先の対応は真に選手の体を
また観客の体を心配しているのかと疑いを持つ

それに拍車をかけての新型コロナの流行だ
数の上ではアメリカやヨーロッパほどの流行にはなっていないが
第4波は想像以上のスピードで起こりつつある

ここ最近のオリンピック関係の報道を見ていると
先の戦争がどのように行われていったか想像できるような思いだ

聖火リレーはテレビで、どの局も喜ばしい光景として報道されている
だがこの聖火リレーでは報道されていない2つのことがある
その一つはNHKのニュースで沿道で「東京オリンピック反対」と叫んだ人たちがいて
その声は拾っていたはずなのだが、ニュースには音を消されて報道されていた
都合の悪いものは見せたり聞かせたくないかのように見える

もう一つは聖火リレーの主役はトーチをもって走る人たちだけでなく
スポンサー企業もPRの絶好の機会として、先導車では大きな音量を流し
パフォーマンスを披露し、グッズなども配っているらしい
SNSではこうした酷い状況に対し問題提起をしているが、大半の人はその事実を知らない
(スポンサーは好感を得る効果があったのだろうか)

テレビ局や新聞がオリンピックに対して否定的な意見を報道したがらないのは
彼らがオリンピックのスポンサーになっているからだ
せっかくの儲ける機会をみすみす失うようなことは企業としてはできない
純粋にスポーツの観点からだけでなく物事が進んでいる実態は
オリンピックというものが本来どうあるべきものか?を考えるいい機会になるはずだが
問題は情報を受け取るだけの庶民の感じ方とか気持ちだ

池江璃花子の復活に涙し、その他の選手の物語を感動的に伝える
日本という国の存在を普段よりも意識し、金メダルを採れそうの予想に高揚感を覚える
このメディアによる高揚感への拍車は、先の戦争の新聞の報道のトーンに近い気がする
松岡洋右の国連脱退を報じる新聞のトーンは威勢の良いもので
また爆弾三銃士等の報道も実態とは異なる味付けでなされ
本当のことを知らない庶民は何かよくわからない空気のようなものに振り回されている

こうした雰囲気に危機感を感じ、何か物申す人に対して世間はどのように捉えるんだろう
日本の偉い人(?)が決めて一生懸命にしようとすることを反対ばかりしているのは
日本人として変ではないか、、、と思ってしまう人が少くないようだ

少し前のSNSでは、池江璃花子の頑張りとか苦労による復活のニュースを見ても
オリンピック開催はしないほうが良いと言えるのかとの投稿が話題となった
そしてそれはあの界隈の人の支持を受けていた

少し怖いと感じるのは、そこには決めてしまったことは何が何でも行う
それ以外の声は邪魔だ、、と思えるようなトーンが感じられるからだ

宮本亜門や山口香のような信念をもった「開催すべきではない」との意見が
聖火リレーの賑わいの影に隠れ、実際には存在しないかのようになっているのは
とても不安感を感じてしまう

そして偏った報道を受け取るだけの大衆は、正しい判断をできないのではないか
と考えてしまう
それは内閣支持率のアンケート結果にも感じることで
大衆の感じ方の傾向を把握できたとしても、それが良いものかどうかは疑問だ
そしてその調査の数字をみて右に倣え!
としてしまう傾向が大衆にありそうなのは、少しばかり不安を覚えてしまう

それにしてもこんなにワクワク感のないオリンピックは初めてだ
自国で行われるというのに、、

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背景知識

2021年04月07日 08時11分42秒 | あれこれ考えること

気になって読み返しつつあるのがリップマンの「世論」とフロムの「自由からの逃走」
再読あるいは再再読になるが、付箋がつけてあるのでそこだけを拾い読みしている
何故そこに付箋を付けたのか、納得できるものやできないことがあるのはご愛嬌

このような内容だったのか!と、しばしば感じるところが少しばかり悲しいが
年齢によって捉え方が違ってくるといったのとは少し違って
以前は理解力がなかったと思い知らされる思いだ

自分が常々感じていることや考えていることは、完全に自分オリジナルではなくて
こうした本によって熟成されているのだと実感するが、これらの本の著者も同様に
前に表に出された考えとか概念に影響されていると感じる

物理学では前任者の業績を踏まえて積み上げるように、こうした人文関係の分野も
前任者の思考を踏まえて進めているのだと、今回の再読・再再読で強く認識した

特に「自由からの逃走」は、自分がこの1.2年読んでいる本からインスパイアされたと感じる部分がある
マックス・ウェーバーやハンナ・アーレント、マルクス等の行き着いた思考とか認識をベースに
自分のものとして書いているが、「ここはウェーバーの考えたところだな」と思える部分があったりするのだ
(よく見れば参考本として列記されているのかもしれない)

つまりは再読という行為は、その本だけを何度も読むことによって理解が深まるのではなくて
それ以外の本を読むとか、関連した経験をすることによって理解が深まるということだ
それは「背景知識」の量を増やすということに通じるのだろう

背景知識との言葉を耳にしたのはテンミニッツTVだったと思うが
そこではサッカーの外国人監督の通訳は思いのほか難しいことを例を上げて紹介していた
普通の言葉の通訳は問題ないが、その監督の国とか経験者には当たり前になっているエピソードから
共通認識とされている考え方は、言葉通りの通訳では意味をなさないというのだ
日本では「越後のちりめん問屋」という例をあげたとして、外国人に実体は水戸黄門のこと
と説明なしに「越後のちりめん問屋」と通訳しても意味はなさないだろう

目の前にある言葉以外の意味とか知識が多ければ多いもの(あるいはそれらを要求する作品)は
面倒くさいがなかなか面白いということになる

だが最近の世界は、背景知識がなくてもすぐさま理解できるように単純化したり
決めつけられた情報とか考え方が広がっていて、その弊害も感じられると思ってしまう




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ポール・マッカートニーは平和な音楽

2021年04月06日 08時29分28秒 | ポール・マッカートニー

ビートルズ好きの、特にポール・マッカトニーに心酔しているある方が
自身の持つYouTubeチャンネルで「イエロー・サブマリン」や「オブラディ・オブラダ」
を作ったり歌ったりする人が戦争(争い事)を起こしたいなんて考えると思いますか
と屈託なく口にした

すぐさま「自分の言いたかったことはそれだ!」
と思わず声を上げそうになった

「ヘイ・ジュード」「イエスタデイ」「アンド・アイ・ラブ・ハー」「エリナー・リグビー」
「フール・オン・ザ・ヒル」「when i'm64」「レット・イット・ビー」「マーサ・マイ・ディア」
「ゴールデン・スランバー」「アナザー・デイ」その他いろいろの曲を作った人は
重要なメッセージ性に欠けると相棒と比較して批判的に言われることが多かった

確かに相棒の「パワー・ツー・ザ・ピープル」「イマジン」「ギブ・ピース・ア・チャンス」
「ワーキングクラス・ヒーロー」などの社会的なメッセージに富んだ曲と比べるとお気楽な印象は拭えない

しかしそれは音楽を「詞」の分野から判断したことで、音楽のもつ別の分野から判断すれば
それは違った評価がなされるのではないか
それは聞いてて心地よいとか、歌って楽しいとか、みんなで歌いたいとか、自分も作ってみようという気になるとか
つまりは詞とはあまり関係のない音楽の持つ要素の効果は案外馬鹿にできないということだ
音楽を聞いて歌って演奏をして、争い事などをしようと思わない気分にさせるという効果は
わざわざ直接そうしたことを言葉にしなくても果たされるということだ

最近はポール・マッカートニーとモーツァルトの共通性を感じることが多い
モーツァルトはベートーヴェンのようなメッセージ性に富んだ音楽を作ったわけではなかった
また人生観を滲ませるような音楽もそれほど多くない
そしてこの一曲といったインパクトのある曲を残しているわけでもない
しかし、自分にとってはモーツアルトという存在自体、彼が残した音楽があるということ自体が
とても貴重であると感じるようになっている(モーツアルトがない世界は寂しい)
彼の音楽は聞き流しても真面目に聞いても楽しむ事ができる
耳には簡単に聞こえてしまうが、いざ楽譜を見たりすると実際は半音を頻繁に使ったりして
思いのほか複雑なことをしている印象をもつ
ただ彼の音楽は少ない音で必要なことを十分に伝えているといつも感じる
(チャイコフスキーの5番の交響曲を聞いたあとモーツアルトを聞くと
 あんなに大げさに言わなくてもいいのに、、といつも感じる)

ポール・マッカートニーの音楽もモーツアルト同様に直感に満ちている
そしてそれは天性とか才能といった言葉でしか表現できない

先日ポール・マッカートニーの「Junk」のジャズヴァージョンが紹介されたYouTubeを見て
この世紀の天才を生で3回見ることができたのはラッキーだったと感じるのだった

Junk (Live)



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命令と個人の判断

2021年04月04日 09時05分14秒 | あれこれ考えること

お気楽に暮らしていても世間の状況が気持ちに大きく影響する
ミャンマーの軍隊が市民・子どもに銃を発砲し数人が亡くっていることや
アメリカでのアジア人に向けてのヘイトクライムの報道を見るたびに
少しばかり落ち込んでしまう(子どもの死には涙が出てきてしまう)

何故、そんなことが平気でできてしまうのだろう(特に軍人)
背景とか動機とかいろんな説明が為されるが
どうしても理解し難いのはその時の個人の判断だ

人は命令されて、人に苦痛を与えることは平気でできるか?
といった恐ろしい実験がかつてあった
アイヒマン実験と名付けられたもので、被験者が出された質問に間違って答えた場合
担当者は(実はこの人が実験の対象だったのだが)ビリビリと電気を流すボタンを押す
そしてその電圧は間違えるたびに強さを増していく
というもので、命令されたことがどのくらい個人の判断に基づかないで自動的に行われるか
を実験したものだった
この実験は「社会的に役立つものである」という前提をボタンを押す人は聞かされている
つまり自分は正しいことをしていると思い込んでいると、他人が苦痛を感じることでも
平気でできてしまう結果を出している
そしてそのボタンを押すのを命令する人が上司だったりその道の専門家であったりすると
判断に躊躇はなくなるようだ
また、電気を流された人物の苦痛の姿とか声を見たり聞いたりできないようにされた状態では
より逡巡すること無くボタンを押したとの結果が出ている
この実験は電気が流されるのは嘘で、流された人はそのフリとか声を演技したものだが
流石に人道的に問題がある実験ということで以後この手の実験は禁止されてしまったが
それでもハンナ・アーレントのいう「思考停止」(個々の判断はせず命令に従っただけ)
が引き起す結果は見られるものだった

正しいものとされ、命令する人がそれなりの人で、苦痛の様子を知ることもなければ
人は平気で非人間的なこともしでかしてしまう、、
これはとても悲しい現実のようだ
でも気になるのはどうしてもその際の個人の判断のこと

例えば官僚とか職員が上司の命令に従うのが法的なことであったとしても
そこには自分が生きてきて身につけた価値判断等の基準との違いが生まれてしまうことがある
生きることは「社会との折り合い」をつけるだけでなく「自分との折り合い」もつけなければならない
そうでないと結果的に苦しくて仕方なくなる(はず)

この個人の判断という要素を、日本人はあまり考えてこなかったのではないか
時々そう思えて仕方ない
日本社会は自分勝手は横行するが、それは単にわがままの類に過ぎず
真の意味での個の主張等は煙たがられて、嫌われる傾向にあるのではないか


話は飛んで、サッカーでも野球でもバレーでも「〇〇ジャパン」と監督名を
〇〇にいれて語られることが多い
しかしサッカーなどは現実的には、その瞬間瞬間の個々の判断によることは多く
監督さえ個々の判断を信用するしか無いのだ
またチーム一丸でと美辞麗句を並べても、現実的に強いチームは個がしっかりした
(年収の多い)選手が多いチームだ
つまりは個の技術や判断が素晴らしいチームが良い結果を導くことになる

そもそもの考え方がどうも欧米人と日本人とは違っているのではないか?
と感じることがある
個人主義と簡単に言ってしまうが欧米の個の確立をベースにした
「判断するのは自分、判断したことは自分で責任を負う」というものが
日本では自己の責任回避をしたがる傾向があるように思えて仕方ない

急に読み直してみようかと、ある本が頭に浮かんだ
「自由からの逃走」だ
読んで答えが出るとは思わないが、
「命令に従ってるほうが楽!」
を変えさせるのは想像以上に難しいかもしれない



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「受付」と「受理」

2021年04月03日 08時20分11秒 | あれこれ考えること

その道の人には当たり前のことだろうが、一般人にはわかりにくいことがある

昨日のテレビ番組で紹介されたのがその例だ
ある方が持続化給付金か何かの補助金の手続きを申請した
その申請は了解され支給金額も決定されたのと書類が届いたので
そのつもりで設備投資をして、領収書等の必要書類を揃えて
あとは振り込みを待つばかりとしていたのが
届いたのは支給金額はゼロと書かれた連絡だけだった
何が起きたのかさっぱりわからない彼は事務局に問い合わせたが
個々の支払い不可の理由については答えられないとの冷たい対応だった

これを慣れた方々の理屈によると
最初の「申請が了解された」との連絡は、支払金額を含めての申請が了解されたのではなく
とりあえずその申請にエントリーしたことは了解されたということで
金額等については税金が元になっているのでしっかり精査してからでないと
支払われないということだ

税金の使い方を慎重にするのは良いとしても、素人の人が最初の連絡で
補助金がもらえると思うのは無理はないと思う
書類をよく読めばとか補助金の仕組み等を理解していれば
全部が全部申請者の思い通りになるわけではないことがわかるはず
と、この手の書類に慣れた人は言うかもしれないが、それは素人には苛酷な気がする

その必要性があって言葉は使い分けているのだろうが、法的な用語はすんなりと理解できない
少し前に自分たちが起こした住民監査請求では「受付」と「受理」の用語があった
「受付」というのは監査員事務局が請求を受け取ったとの意味で
「受理」は受け取った書類を不備がないかを確かめた上で、調査を行うに値すると判断したという意味
ややこしいのはこの監査請求の答えを出す期間が、受理から60日以内ではなく、
受付から60日以内となっているのだ
「受付」と「受理」が単なる概念の問題だけでなく、現実の作業工程においても
このように使われているので、ややこしいことになる
自分らの場合はこれは大して問題にならなかったが、自分らの後で住民監査請求をされた方は
「受付」はなされたが「不受理」との回答があり住民監査請求の作業は行われなかった
その理由というのは、住民監査請求は自治体に損害があったときにその損害の支払いを
該当するところに請求するもので、今回の場合は契約に瑕疵があったとしても
実態として損害が生じていないので住民監査請求の要件に当たらないとするものだ
瑕疵はあっても損害が生じていないので問題なし、、、
少しばかり違和感を感じるものだが、裁判所ではこのような裁判例があったとのことだ
(監査員事務局はそれだけで不受理としたのではないとしている)

このように法的な文章はその定義やら解釈が直感的にわかりにくい
確かアメリカの話だと記憶しているが、法律の文章はあまりにもわかりにくいので
誰にでもわかるような文章に書き直すように取り組んでいるとか

わかりにくい文章を理解するのは特殊な才能を要することになり
それが専門家による官僚の文書主義、あるいは秘密主義に繋がってしまう可能性もある
地方自治体でも条例は議決が必要だが、条例の執行にあたる規則は運営する当事者が決めることができる
規則が割合自由に好きにできてしまうことは、公文書管理法で国民固有の財産である公文書を
自分たちのつくった法令で都合の良いタイミングで破棄できることを可能にしている

何事も法で縛られているのような社会だが、実態は気をつけないと
法に詳しい良からぬ人間性のグループに振り回されてしまう事にならないかと思うこの頃

それにしても冒頭の補助金の例は酷い!

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楽だが物足りない読書(真に参加していないのかも)

2021年04月02日 08時53分38秒 | あれこれ考えること

ものすごい読書量の人がいる
公開されたその人の読書メーターを見ると一月に20冊以上で
多くは小説類だが、読みやすい類といえども自分には信じられない量だ

いったいどんな味わい方とか頭の構造になっているのか
と興味があるが自分にはできない
速読は一種の才能といえるものだろう

それに挑戦したわけはないが、かたっ苦しい本ではなくて
比較的読みやすい本を最近読んでみた
原田マハの「風神 雷神」と池波正太郎の「雲霧仁左衛門」だ
2つとも上下に別れていて分量も少なくない

これは比較的速読できて一冊読むのに2日くらいだった思う
ただし、味わって読んでいるかといえば、それは怪しい
登場人物が誰が誰だったかを忘れたまま読み続けて、
とにかく筋だけを追っかけていた

これは楽は楽だが、途中でつまらなくなってきてしまった
なにか物足りないというか引っかかりがないのだ
かたっ苦しい本を読んでいる時の、集中とか想像力を要求される
あの抵抗感が無いのだ
もちろん頭の中に情景は浮かび、登場人物を勝手に想像し、彼らは活躍する
しかし、それは思い浮かべているものの自分が参加している感覚ではない
それは傍観者に近い

感情移入と言われる作業が行われるのは、作家と相性がいい場合だろうが
困難を伴い、自らが参加し、参加するような本を読み続けていると
何か(刺激)がないとつまらなく感じてしまうようだ

こんなふうに思ったのは、最近録画されたものを倍速で見る人が多い
との報道を見たからで、消費者ニーズに応えて再生モードも
1.3倍速 1.5倍速 2速で見られるようになっているそうだ

それを多用する人の使い方とか感じ方を聞いたが、その人達の職業は
メディア関係だったので手短に情報を仕入れておくというのは理解できないことではない
ただこれを一般の人が行っている現状は、情報とか物事の理解が表面的なところに
終始してしまわないかとの不安を覚えてしまう

視覚情報に依存するメッセージとか、短い断定的なフレーズの一見わかりやすい情報は
果たして本当に必要なことを伝えきれているのだろうか
最近のツイッターとかインスタグラムによる投稿は
その数は膨大であったとしても少しばかり不安を覚えてしまう

もともとこれらの情報は一部を除いてお気楽な情報が多い
たくさんの人は語っ苦しい話を望んでいない
日常の些細な微笑ましい情報とか、なんとなく自己顕示ができるような機会を
を望んでいるかのようだ

そして自己顕示欲を満たすネタは、現実には内的な欲求ではなく
広く世間に溢れている情報(人気店、人気の場所、人気の映画)等に
後追いして、みんなが同じような感じ方とか伝え方をしているのではないか

情報の掴み方が、世間に溢れているものにのみ左右されるのではなくて
自らの内的な衝動によって必然的に求めていく、、といったようなことは
実はとても大切なのではないか、、と思ったりする

とにかく楽なのは楽でいいけど、物足りなくなるってことはあるのだ
本も面倒くさいのを馬力のあるうちに読まないと、いつか読めなくなってしまう
本棚に並ぶ読み終えた難しい本を見て、ニンマリするのは
苦労して登った山の写真集をみてニンマリするのと似ている

結局は自己満足に過ぎないとしても
困難に立ち向かわなくなりつつある世間の傾向(最近感じられる)は
少しばかり不安!

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