パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

グランパスの失点(予想通りの失点の仕方)

2021年04月21日 08時40分07秒 | サッカー

先日のサガン鳥栖戦でグランパスは久しぶりの失点をした
いつかは無失点の記録は破られると思っていたが、その失点のパターンは思ったとおりだった
それはスパッとしたシュートではなく、タイミングのズレたふわっとしたものになるだろう
更に失点を重ねるのならこぼれ球絡みになるだろう、、、と

最初は林のヘッド、これは素晴らしいシュートで、これが鋭いシュートなら
ランゲラックは守りやすかったに違いないがシュートはゆっくりの頭上を超えてポストに当たって入った
2点目はフリーキックから絶好のこぼれ球が酒井のもとにこぼれ
それを酒井は抑えてズバッと絶妙のコースに蹴りこんだ
少しばかり運のないような失点で、今まで何もかもがうまくいってた反動があるかのようなシーンだった

サッカーを沢山見ていると何故だかこうしたパターンがしばしば見られる
そこには法則性などは無いだろうが、それでもよくあるので
「今日はそういう日」と思うことにしている

あとは連戦の疲労と慢心が頭に浮かんだが、これは人の行うことでそこが面白いところだ
野球ばかりではなくサッカーにも流れがある
試合中だけではなく長いシーズンを通して何をしてもうまくいく時、どうやっても裏目に出る時がある
悪い流れに乗らないようにするのが良いのだが、ここからの抜け出し方は相当難しい
それを含めてのチーム力なのだろうが、狂い出したリズムはなかなか戻らない

良い流れに乗るために開幕当時はどのチームもとにかく負けない試合をしようとする
運動量も多くコンタクトも厳しくするので、開幕戦は引き分けが多い(中断開けも引き分が多い)

流れを悪くしないためにグランパスは次の試合(ガンバ戦)を何がなんでも結果を出さねばならない
今期運のないガンバはガンバで、ズルズルとリズムに乗れない状況は作りたくない
この試合で今季の結果が予想できるかもしれない

それにしても矢張りというか、データに今季のグランパスはインターセプトの数が
他のチームに比べて圧倒的に多いらしい
いつも奪えるボールは奪う、それが徹底されているのだが、守り方で面白いと感じるのだが
練習はどのようになされているのか、練習を見てみたい気がする

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感じること・考えることと、判断・行動の違い

2021年04月19日 08時42分18秒 | あれこれ考えること

蔓延防止等重点措置が宣言されて、その後の人出の変化が報道されているが
流石に減ってるとこもあれば、相変わらすのところもある
外出を控えるのはさほど難しいこととは思わないが、何故そんな簡単なことができなのだろうか
だが、できない理由をあげていけばなんとでも言えそうだ
ブレーキを掛けない若者にインタビューをしても、返ってくるのは割合定番化した答えで
巷で言われていることを繰り返しているだけのように思える
(それで正当化ができると思ってるような)

人の行動はなかなか変わらないものだと実感する
人は(日本人は?)頭でわかっていてもいざ行動に移すとなるとどうしても楽な方に流れる
これはオリンピックのアンケートと行動の違いにも見られる
各種世論調査によれば、オリンピックは延期もしくは中止したほうが良いとする数が全体の7割ほどを占めている
ところがその声は大きな声にならない
大きな声はむしろオリンピックを推し進める聖火リレーとか、代表に選ばれる選手の情緒的な物語に偏っている
約7割の人はそれを眺めているだけだ
そうは思っている(反対と思っている)が行動はしない
こうした傾向はあまりにもありふれて、つい当たり前のように思えてしまうが、ちょっと考えると何か変だ

同様に不思議なのは内閣支持率等の結果で、森友学園とか加計学園、桜を見る会の政府の説明に
納得できるかとのアンケートは納得できないとする割合が多いにもかかわらず
支持率はそれを反映することはあまりない
そして「他の内閣よりまし」などと言った、政府を批判的な目で答えた先程の答えとは矛盾する
選択を堂々としている

半ば理性的な判断が実際の行動とか選択とは違うこのような傾向は、世界でもそうなのだろうか
それとも日本特有なものだろうか

感じること、考えることと具体的な行動を起こす間にはかなりの違いがある
スポーツ等の結果がすべての世界では、感じたり考えたところで(練習等の)行動に移さない限り意味はない
ところが一般社会は行動に起こすことは周囲との摩擦を起こしてしまうと考えてしまうようだ
そして若干心配なのは、実は日本人はあまり理性的な判断を好まないのではないか?
と思えてしまうことだ
理性的な判断を行う人にはエリート意識が強すぎると疎まれる
理性的の判断することとエリート意識とは何ら関係がないにも関わらずだ
(オルテガの大衆の反逆ではエリートは別の定義がなされている)
理屈よりも感情的なもの、あるいは周囲の声、空気に左右されるような気がしてならない

そしてその空気を作り出すものは結果的には大きな声で
それは絶対数の多い声ではなくて、大きい声を効果的に伝える手段を持った少数の人々の声なのではないか

なにか心のなかに違和感を感じていても、特に何かをするわけでもない
ただただ情報と時間を消費するだけの存在の大衆(庶民)
本当にそれで良いのか、、、とつい焦り気味に思えてしまう

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2つの記事(GDPとオリンピック)

2021年04月18日 08時55分31秒 | あれこれ考えること

しばしば彼女は「あの記事読んだ?」と聞く
新聞の読み始めは彼女は後ろから自分は前からで、当然気になる記事も違う
彼女は社会面、地方版やら投書欄を読み込み、自分はトイレで政治経済欄を
さらっと流し読みする(ネットで既に読んでいるので)

彼女は見向きもしないだろう記事に興味深いものがあった
中日新聞の日曜に定期的に掲載される学者やら専門家の意見が述べられる「視座」がそれで
今朝は同志社大学の濱口矩子教授が担当していた
授業の前に当日テーマに関する「湧いてきた疑問」を集めるようにしているらしいが
直近のテーマは「日本のGDP」だった
そこで学生に「湧いてきた疑問」がなかなか興味深かった
「GDPの数値とわれわれの景気実感は無関係なのに、この統計はいったいどういう意味があるか」
「GDPの数値は豊かさの指標か」
「GDPの数値と人間の幸せは関係があるのか」

若い世間を知らない学生がこうした根本的な問を発することはとても良いことだと思う
年を重ねると知らず知らずこうした素朴な疑問は、目の前の現実に追われて無意味な問と
感じてしまうようになるのではないか
だが、社会の矛盾がこれだけ際立ってきた今こそ、こうした根本的な問が継続的になされないと
そして個人個人がそれぞれの答えを出すようにしないと世の中はうまく回らないのではないか
経済学が数式に支配されてばかりでは無味乾燥で、そこに倫理という概念を追加しないと
好ましいものにならないとしたのはノーベル賞を受賞した学者さんだった(アマルティア・セン)

答えのない問いに自らの頭で自分なりの答えを出す
それを誰かと議論の上で戦かわせて、あるときは自分の考えのアップデートを図る
そうしたことの継続が真に身につく考えとなると思うので、この授業を受けることのできる学生は
幸せかもしれない

もう一つ気になる記事があった(これは新聞ではなかったかもしれない)
それは菅首相がアメリカでの記者会見時に、ロイターの記者から
「公衆衛生の専門家から開催の準備ができていないという指摘がある。無責任ではないか」
との質問が出ると、首相は何も答えなかった。という内容の記事だ

違和感を感じてしまうのは、菅さんが答えなかった点ではなくて(それはそれで大変な問題だが)
そのようなことがあったと報道するメディアの姿勢だ
本来ならばこのような記者の問いは、当事者である日本の記者によりされるべきではなかったか
それは全くなされずに、国内では聖火リレーとオリンピック代表戦の情緒的な報道のオンパレードだ
「オリンピックの開催準備不足は無責任ではないのか?」
こうした当たり前の質問が国内では全くできずに
海外からのキッカケを借りてしか間接的に表現するしかない現状は、
結果的にメディアは報道の自由を自ら放棄しているとさえ感じてしまう
それは営利企業としてのメディアの限界かもしれないが、それらの報道で空気が醸成され
大衆は積極的には賛成していなくても沈黙は支持という形で合意形成がなされ(?)
時によると反対意見は異分子のような扱いをされる可能性すらある(と想像してしまう)この国

黙っていること、見て見ぬ振りをすること
自分が行動しなくても代わりの誰かが行動してくれる、、と思いこんでいること
そのように行動してしまうこと怖さをつくづく感じてしまうが、これは杞憂か




公衆衛生の専門家から開催の準備ができていないという指摘がある。無責任ではないか」との質問が出ると、首相は何も答えなかった。「公衆衛生の専門家から開催の準備ができていないという指摘がある。無責任ではないか」との質問が出ると、首相は何も答えなかった。
公衆衛生の専門家から開催の準備ができていないという指摘がある。無責任ではないか」との質問が出ると、首相は何も答えなかった。
公衆衛生の専門家から開催の準備ができていないという指摘がある。無責任ではないか」との質問が出ると、首相は何も答えなかった。
公衆衛生の専門家から開催の準備ができていないという指摘がある。無責任ではないか」との質問が出ると、首相は何も答えなかった。
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欧米と違う日本の反応の仕方

2021年04月17日 09時04分12秒 | あれこれ考えること

商品の価格は需要と供給によって決まるとされているが
マルクスの資本論(しっかり読んだことはないが)では
価格の中には労働という行為が反映されているとしている
(ここで搾取という概念が出てくる)

これはどうやらマルクスのオリジナルな考え方ではないらしいが
そう言われてみると考え方としては、なかなか面白い
(最終的な方法論としての行動(革命)は納得できなくても、この考察は理解できる)

自由主義と社会主義の優劣を競う場合、そのどちらも欠点があって
最近では勝ちを収めたと思われていた自由主義も、その矛盾点やら
内在する深刻な問題故に一方的に良しとすることはできないかもしれない
それで自由主義の本家アメリカの若者の間では社会主義にシンパシーを
覚える人が多くなっているようだ(サンダース支持が若者に多いとか)

世界が狭くなっていろんな人種、民族が入り混じり、科学が進んで
従来存在していた仕事が無くなっていくと人は不安になると同時に孤立化する
複雑な現代では「神様のお告げ」のような絶対的に正しいとされるものは
存在感を失い、色んな意味で個人はアトム化する
こうして孤立化した人は民族・人種・血縁などに自らの拠り所をおぼえて
過度にそれに頼るようになる、、、というのが、排外主義の広がる原因とされる

昨日取り上げた「日本は右傾化したのか」の本の中に気になる文があった

近年の欧米における先行研究に比べて、日本におけるナショナリズムの議論の一つの
顕著な特徴は、新自由主義的な主張を行う政治家の支持との結びつきに注目する点にある。
ヨーロッパの研究では、最終的に極右言説が福祉拡大を重視する労働者の支持を志向することが指摘されているが、
日本の場合はむしろ社会福祉の切り下げを行う言説と結びついているというのである

これはいわゆる「自己責任」の一言で片付けられることを反映しているように思える
自助、共助、公助とあるよう、まずは精一杯個人で頑張れ!とするもので
個人の努力でカバーしきれない現実をいわば精神論で補おうとするかのようにさえ見える
ただこれはウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」にあるように
現在は頑張った結果の現れ!と考えているのかもしれない

しかし、そうは言っても成功するまで頑張り続けるのはしんどいので
虐げられていると感じている極右の人たちが福祉拡大を求めるのは
それが良いか悪いかは別として考え方の流れとしては理解しやすい

だが日本では、その流れにならない
困った人たちが自分たちの立場を、少なくとも人並みにしてくれと訴える行為は
恥ずべきものとか努力不足!と政治家だけでなく庶民も考えてしまっているようだ

この少し冷たい思考は庶民が自然発生的に身につけた考えか、それともお上の言い分を
いつも聞いていて知らず識らず染まってしまったのかは、一度考える必要はある気がする

残念ながらいろんなことは比較することによってしか違いがわからない
社会的に良いことか悪いことかは、演繹法だけでなく他との比較によってしか実感できない

上に取り上げた日本のナショナリズムの一傾向は、どうも違和感を覚えずにはいられないが
こうした思いは偏屈すぎるのだろうか?

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日本は「右傾化」したのか(図書館から借りた本)

2021年04月16日 08時36分24秒 | 

久々に真面目な話題

図書館から借りてきた本の中に「日本は右傾化したのか」(小熊英二・樋口直人)がある
ツイッターなどではネトウヨのツィート、嫌韓嫌中の人々の「日本から出ていけ」等のヘイトスピーチが目立つので
世の中はそうした傾向になりつつあるのかもしれないと薄々感じていたが、統計的な数字から見ると庶民の間には
必ずしもそういう傾向は見られてないらしい

ネトウヨの絶対数はほんの数%に過ぎない
大半の庶民はもう少し穏やかな、しかし行動しない人々から成り立っていると報告している
ここでの右翼とか保守的という人々の定義は、伝統的な価値を守ろうとする人々、歴史認識については独自の解釈
を優先(いわゆる歴史修正主義)する人々、民族・人種・排外主義を声高に唱える人たちのこととしている

それらの声が極端で目立つから必要以上に大きく感じられるのかもしれないとも報じている
またメディアもインターネットの影響を受けてそれぞれの経営基盤が怪しくなっているので
売れる内容の雑誌、書籍、番組を制作しなければならず、極論は注目を集め売れるので
それが極論に拍車をかけることになっているとしている

以前から問題となっている「日本会議」の影響も(庶民の)実数ではそれほど多くは無いらしい
問題なのは、庶民の生活の中の変化はゆっくりと地殻変動などは無いかのような世界では
ジェンダーギャップとか名字の選択などについても全世界的な流れになっていて
右翼とか保守(保守は野党系に対する立場として使われていて、真の意味の保守ではない)の人々の主張は
説得力は持たないにもかかわらず、それらの法律を仕切る政治家においては右翼的な数字は
馬鹿にできないことになっているらしい(日本会議に属する政治家の割合は高い)

福田有恒だったかが日本は「上からの民主主義」と言い切ったが
「ものいわない、行動しない」庶民はその事によって結果的にお上のすることを支持してしまい
欧米の価値観に基づいて導入された民主主義も、自ら勝ち取ったものではなく与えられたものになっている
つまりは日本にはこの手の行動の成功体験がない

この成功体験の無いこと、そして無闇な争い事を避けたいとする日本社会の傾向は
考えようによっては統治しやすいものになりやすい
お上を信用して従順に従ってしまうのは、長年かかって身についた習性かもしれないので
そう簡単に修正できるとは思わないが、それでもこれからは、違和感を覚えるものには物申すとか
反対の意思表示としての行動を起こすことは、将来の人々に対する現在の人間たちの責任と思える

そもそも世の中にはいろんな人がいて、いろんな感じ方や考え方が存在する
それをそれぞれが勝手に主張して、自分たちだけが正しいとするのは一方的すぎる
だから、それらの人々は左脳を使う言語による対話によって妥協点を見つけるようにしなかればならない
この妥協点を見つける行為を日本人は争いごとと感じてはいないだろうか(個人的にそう思うだけ?)
「論破」という言葉があの界隈の人たちは多用する
しかし民主主義の要件とされる「熟議」というのは論破を前提とするものではない

なんだかなあ、上からの民主主義が当たり前になっているのでこの国は
自分たちでなんとか良くしようとするとする癖ができていない気がする
そして討論に対する考え方とか技術的なものも、実は教育の時点で欠けているような気がしてならない

田舎のおっさんが愚痴っても変化はないかも知れないが
何もしないよりはマシだと思うので、、、

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ポール・マッカートニーとモーツァルトの音楽(3)

2021年04月15日 18時37分43秒 | ポール・マッカートニー

このシリーズの3回目

おなじみ「イエローサブマリン」のんびりした陽気な音楽で子どもにも歌えそう

The Beatles - Yellow Submarine


これを聞いて連想するのはメルヘンティックなオペラ「魔笛」からの一曲「オイラは鳥刺し」

Hermann Prey - Der Vogelfaenger bin ich ja - Geneva / Genf

「魔笛」はこのおどろおどろしいタイトルよりも「魔法の笛」としたほうが内容にあっていて
子どもも大人も楽しめる音楽だ
フリーメーソンの思想が云々と言われるが、赤塚不二夫の「それで良いのだ」といった
全肯定的な、いい加減な人間でも生きていて良いのだ、、とするところが、とても救われる

ハイテンションのポールが作った音楽の一つが「ヘルタースケルター」

Helter Skelter (Remastered 2009)

モーツアルトが気合を入れて作った技巧的な音楽が「魔笛」から「夜の女王のアリア」
曲は似ていないが、ハイテンションのところが似てると思ってしまう

世界で数人しか歌えないオペラ「魔笛」夜の女王のアリア

ロックだとかクラシックだとか関係なしに良いものは良い
そして天才同士は、、、なんか凄い、、

 

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ポール・マッカートニーとモーツァルトの音楽(2)

2021年04月14日 16時56分55秒 | ポール・マッカートニー

昨日の続き
ポール・マッカートニーの音楽から連想するモーツァルトの音楽
(単に個人的な思い込みに過ぎないが)

まずは「エリナー・リグビー」
冒頭の張り詰めた感じが、有名な40番のト短調ではなくて少ト短調といわれる
K183の交響曲をつい想起させる

Eleanor Rigby (Remastered 2009)

モーツァルト|交響曲 第25番 ト短調 K.183 第1楽章

少し情感過多の「ロング・アンド・ワインディング・ロード」は、
やはり情感豊かなk364の「ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲から第2楽章」

The Long And Winding Road (Remastered 2009)

ZAGREB KOM 5 • W. A. Mozart: Sinfonia concertante, K 364 - 2. Andante

こうしてみると、もう少し思いつくものがある
何かを感じるということは個人的なことだが、本人はこれしか無い、、、
とまでは行かなくても、相当の確率で正しい感じ方と思っている
なにか不思議、、

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ポール・マッカートニーとモーツァルトの音楽

2021年04月13日 19時22分29秒 | ポール・マッカートニー

最近、(感覚が)つくづく似ているなと思えるポール・マッカートニーとモーツァルト
自動的に連想しそうなのがこの二曲だ(個人的な思い込みだが)
「オール・マイ・ラビング」と「K136のディヴェルティメント」

All My Loving (Remastered 2009)

Mozart - Divertimento in D major, K. 136 (1772)

これらは、いずれも初期の作品
気分的に似てると思うのだが、、、
続いて短いがフッと悲しいような寂しいような曲
「ジャンク」と「ヴァイオリン・ソナタホ短調K304の第2楽章」

Junk (Remastered 2011)

Mozart: Sonata For Piano And Violin In E Minor, K.304 - 2. Tempo di minuetto

まだまだ思いつくのはある
「ロング・アンド・ワインディング・ロード」と「ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲K364の第2楽章」

「オブラディ・オブラダ」とフィガロの結婚のなかのアリア「もう飛ぶまいぞこの蝶々」

人生を変えるとか偉大な一曲ではないかもしれないが
こういう曲があることがとてもありがたい!としみじみ思う

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髭剃り

2021年04月13日 18時24分00秒 | 徒然なるままに

特に出かける要件がなかったので、昨晩は髭を剃らなかった
伸ばしているからと言って、おしゃれな髭なんてものじゃない
ただ面倒なので剃らなかっただけだ

だが2日、あるいは3日伸ばしたものを剃るのは気持ちいい
間違いなく剃っていると感じさせる髭剃りの歯の痕跡
この手応えだけのために髭を剃らずにいるのかもしれない

無精髭っぽいイチローとかタレントさんの髭は手間がかかりそうだが
自分のは気持ちよく剃るだけ、ホント、これがいい気分

もう少し伸ばしたほうが手応えがあっていいが、さすがに同居人に
「ぶしょったい」と文句言われそうなので、今晩のお風呂で剃ることに、、、

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ま、いいか!

2021年04月11日 08時14分17秒 | 徒然なるままに

「ぶっかけ2つと親子丼」
確かに女性はそう言った(そう聞こえた)
先日のこと、免許更新を終えて立ち寄った丸亀製麺
夫婦と思われる二人組は女性が注文をして男性は黙ったままだった

男性が親子丼も食べて、女性はぶっかけだけなんだろうな
と勝手に想像したのだが、、、

女性はぶっかけを受け取ると親子丼もトレイに並べた
あれっ!男性は少食なのかな?少しあてが外れた

次に店員さんが、「ぶっかけです」と渡そうとすると男性は
「違う、あさりうどん」と不満そうに言う

「えっ!」
驚いたのは次に並ぶ自分だった
店員さんは間違っていない!自分もそう聞いた

だが間髪をおかず店員さんは「えっ、すみません」
と、すぐにぶっかけを引っ込めてあさりうどん取り掛かった
男性は付添の女性に「あさりうどんと言ったよな!」と声をかけた
女性はうなずいた
それは悪意と言うよりは、まるっきりそのように当人が思い込んでいる様に見えた

店員さんは大変だな、注文のほうが間違えても訂正しなくちゃならない
こういう時はどうすると教育を受けているのだろうか
「店員さんは間違っていない、その様に聞こえました」
と言ってみたい気がしたが、店員さんの対応が早かったので
わざわざことを大きくすることは無くなった

そんな出来事が頭に残っていた昨日、本を集中して読むために
シロノワールで有名な喫茶店に行った
「ご注文は?」
「アイスコーヒーを」
「甘み入ですか?」
「抜きで」
「フレッシュはどうされます?」
「それは付けてください」

数分後、アイスコーヒーが運ばれてきた
フレッシュが見当たらない
テーブルの上をよく見たがその姿形は見られない
そこで声をかけようと思ったが、不意にもしかしたらアイスコーヒーも
甘味入りで運ばれていないか?と浮かんだ

そこで、ストローで一口飲んでみた
やっぱり、、
こういう時は流れが悪いのか、悪い予想は当たってしまう
アイスコーヒーに甘みがあった

さてどうしようか、、、
ちょいと迷って、テーブルのレシートを見ると
「フレッシュ無し」にチェックが入っていた

「ま、いいか!」
これだけまるっきり反対の対応をされると、かえってサバサバする
人間、間違えることもある、大勢に影響ないから黙っておこう
そう思うことにして、甘み入りのアイスコーヒーを飲み続けることにした

でもなんだか不思議な気分だ
丸亀製麺の出来事があって、その直後にこうしたことがあるとは
でも、ま、いいか!

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