パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

コロナ陽性になってしまった子たち

2021年07月21日 08時34分32秒 | 子どもたちのこと

今朝はブラジルにいる男の子と女の子とZoomで日本語の勉強をするはずだった
ところが、できなくなった

夜中に(向こうは午後)お姉ちゃんからメールが来た
弟と自分がコロナに罹って頭が痛くて熱が出てきたので、今回はパスしたいと

前々からブラジルは陽性者が多いので心配していたが
心配していたことが現実になってしまった
ワクチンはお父さんだけは摂取したと言っていた
(聞いた時はお母さんはまだだった)

最近の彼らは学校にはいかず、午前と午後にリモート授業を受けているらしい
それだけでは、しっかり学べないだろうな、、とこれまた不安になるが
一応宿題は親御さんを通じて出されているみたいだ

お姉ちゃんの方は、最近好奇心が芽生えて、積極的に勉強をしたがっている
様子が見えてきたので、今朝できないのは少し残念だ

だが、短いとはいえ日本語のメールで自分たちの様子を的確に伝えられているのは
自分の外国語の能力よりはずっと上だ

ということで、身近な(?)ところにも、コロナはやってきているということ
自分は今週の土曜日に二回目のワクチン接種を行う
副反応がちょいと不安だが、これらは確率の問題で
射つ射たないは、より安全な選択をするしかない

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分断化を生んだオリンピック

2021年07月18日 10時01分27秒 | あれこれ考えること

結果として、スポーツを通しての一体感とか絆よりも
分断を生んでしまったかもような今回のオリンピック

アンケートを取れば今でも中止とか再延期が半数以上を占めている
ところがメディアは時間が経つにつれオリンピックの感動物語を流し
分断された意見の数字(割合)を反映する報道はなされていない
(バッハさんと泊まるホテルの前での反対運動のニュースは流されない)
メディアは公平中立というものの民間の一企業であるという限界が見えてくる

先日何かでフト耳にした話にメディアの中立公平があって、ドイツの考え方が紹介されていた
ドイツではきっぱりと報道に中立公平などということは現実的にありえないと考えている
あのヒトラーを生んだ過去の経緯、メディアの果たした役割を考えた上での実践的な結論のようで
それでもやはり必要な中立公平を確保するのは、対立する意見を戦わせる場を持つこととしているようだ
新聞・テレビはお互いの主義主張を訴える(これはアメリカのCNNとFOXみたいなものかもしれない)
ところが日本のメディアは独自の意見・主張を持ち、それを表に出すことは公平中立ではないとされる
その結果、中途半端な両論併記のような形になって問題の争点が不明になる
日本人の穏やかな気性(?)が言論の上であっても、争いに至るのは好ましくないと志向するのだろうか

そこで思うのは、人がたくさんいればいろんな考え方が出てくるのは当たり前のことなので
それを当たり前とする文化とか共通認識ができているのだろうか、、という点だ
自分の意見をもったとする、、その人は自分の考えが回りの人と同じか気になる
それは周りと同じのほうが得するといったケインズの美人投票ではなくて
単に自分の考えに自信とか覚悟を持てないからのように思えてしまう
(若者が保守的になっているのは人生経験のない自分らが自分で考えるより
 多くの人が支持する方を選んだ方が無難だと考えているかららしい)
みんなと同じ、、、この安心感は、一歩間違うと少数派の意見を嫌う専制主義的な
あるいは全体主義的な社会に至るのではないかと思えてしまう

結局のところ、議論して何らかの結論に至り、意見を異にする人へのリスペクトを
覚えると言ったという個人の成功体験がないのではないかと思えてならない
これは教育とか慣れが必要なことではないか、、と思われる
議論の戦いは争点が明らかになるので、自分たちの考えだけでなく
相手方のそういう考え方なり解釈があるのか、、と気づくきっかけになる
そして同時に意見が違うとしても、真面目に取り組む人へのリスペクトにつながる

この訓練が現在小市民の1人である自分の現在の関心事
それは広くシティズンシップという言葉で表されるものなのかもしれない

だがここで出てくるより難しい問題は、一般人の「当事者意識」という点で
自分のことは自己責任とされる世の中でありながら
少し想像すれば自らに関わってくると想像される事柄も
安易に他人に任せっきりだったり、無関心だったり見て見ぬ振りをして
自らの問題としては考えないことだ(自分に被害があるときだけは当事者意識を持てる)

この壁は想像以上に大きい
それがために人は代替え手段として間接民主主義のような、特定の人に
判断を任せる方法を作り出したのかもしれない
(そういうことは専門の人に考えてもらおうとする)
だが、その誰か他の人に全面的に任せて方針を決めていくという方法は
結局のところ、一般人の意見の反映にはならないような気さえしてきた

とここまでで、最初に書き始めたときと道筋がだいぶズレてしまったが(毎度のことで仕方ない)
何れにせよ今回の分断のその後はどうなるのだろう

オリンピック終了後の一般人の意識が果たしてどちらに振れるのだろう
暴走した進め方に金輪際信用できないとするか
それとも易易と「パンとサーカス」の戦術に乗ってしまうか、、

これは新しい日本人論が生まれるきっかけになるのかもしれない
だがそれは日本からではなく、外から生まれそう、、、

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気持ちがいいのは朝だけ!

2021年07月17日 08時32分26秒 | 徒然なるままに

朝だけ気持ちのいい季節になってきた
どうやらこの地区は今日が梅雨明けのようだ
とりとめのない話のこれも、エアコンの無い二階ではしんどい
涼しい朝のうちにちゃちゃっと済ませておこう

だがネタが思い浮かばない
朝からフル回転するのは食欲だけで、頭のほうはまだぼーっとしてる
これは毎年そうだ
夏はダメだ
避暑に行く気持ちはわかりすぎるくらいわかる

最近は巣ごもりでどこにも出かけていない
FBはこの時期にあの暑い京都にもでかけている様子が
おせっかいにも知らせてくれる

今年は夜店も中止
小学校ではプールも中止のようだ
月木の近所の小学生と校門までのウオーキングは、来週の月曜日が最後
「ねえねえおじさん、今日、私何するか知ってる?」
「答え言っていい?」
そんな無邪気な一年生との会話も、しばらくはおさらばだ

そういえば、彼女はGW開けは学校に行くのを嫌がって大粒の涙を流した
島根にいるちびっこの一年のわんぱくも急に学校に行きたくなくなったとの連絡もあった
この分だと夏休み明けは少しぐずるかもしれない
でも、その前に身長が伸びているのに驚くだろうな

ということで、ボケ防止のルーティンはこれで終了
暑いのはかなわん
こんな中でオリンピックをするなんて、狂ってる、、
とコロナが流行る前から違和感を感じていた
なんか人がおかしくなっているような、、、、

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ものの言い方、伝え方

2021年07月16日 09時34分14秒 | あれこれ考えること

物事には言い方というものがあるものだ
せっかちな自分がどう思われるような話し方をしているか
知ることは難しいが、できることなら麻生さんのような
話し方でないと思われていたい

「まともだが面白くない話」より「疑わしいが面白い話」
両者を比べると、後者が幅を利かせているのが最近の傾向だそうだ
アメリカが極端な例で、トランプさんの威勢のいい根拠のない決めつけの
話しっぷりは大衆受けをして、まともな議論をしようとする人たちには大きな壁になっている

アメリカに限らず日本でも同じことが言えるのかもしれない
「オリンピックに反対の人たちは反日」と安易に決めつけた「こんな人たち」
の発言で評判を落とした人がいる
バカバカしい決めつけだと思うが、それに一定数の支持者がいるのも現実だ

この極端な決めつけとか、個人攻撃的な言いようは、
人にはかなり魅力的なストレス発散になるようだ
物事を天下国家の問題としてではなく、地元の話題に転ずると
意識高い系の人々は、事情をよく知っているがために物事に怒りを覚えることが多くなる
そしてその怒りは時に個人攻撃というかたちを取る

確かに現在の地元の市議会とか行政はみっともない
行政は自らの正当性を確保するための手続上のミスで
事業計画が2年以上遅れることになった案件がある
情けないのは、そのミスをなかなか認めず謝罪しないことで(国に似ている?)
それがために一部の人からは怒りを受ける様になっている
市議会は(実感としては変わった人たちの集まりと思うが)
どうも個人事業主の集合で普段は良いとしても、時に感情的なもつれが生まれる
そしてそれは大きな問題化する場合もあるが、現実には一般市民には
そのような問題の存在は知られていない

問題は危機意識をもつ意識高い系の人々の他の市民に対する問題提起の方法だ
背景知識としての情報量の差が両者の間には存在する
情報通は、結局はこの問題は個人の問題として「行政は上の顔を見て仕事している」
とか「真面目に仕事をしていない」などのステレオタイプ化した認識を言葉にだすことが多い
それらは自分の知るところからすれば全部が全部間違いではないが、そうばかりとは言えない部分もある
大半の行政職員は小市民的な言われたことを真面目に行うだけで、そこに能力差があるのは仕方ないとして
先のステレオタイプ化した認識とは違う

だが問題はここからで、現状とか実情を他人に説明する時は、誰か悪人を作って説明するほうが
自分にとっても他人にとってもわかりやすいという点だ
自分にとってはある人を攻撃することでストレス発散になるし、聞いてる方は
ややこしい経緯を正確に知るよりは手っ取り早い理解が進むし、どこか面白いので受け入れやすい

その結果、個人攻撃的な物言いが幅を効かせることになっていく
これはツイッターによく見られる傾向で、「悪いのは〇〇」的な投稿やら
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」みたいなところまでに及ぶもののある

個人攻撃とか批判は、こうしてある人にはストレス発散になるかもしれないが、
一方で一部の人には嫌悪感を覚えるものにもなりうる
真面目で情報通でこまめに怒りを発信しているが、そればかりを読まされる(聞かされる)身になると
ちょいと引いてしまうそうな気持ちになるのだ
それが国では、野党は批判ばかりしているとか、個人攻撃ばかりしている!
といった評価につながるものと思われる
(事情通にすればそうではないと言いたくなるだろうが)

少なからず地元の問題に無関心ではいられない自分だが、
多くの人に自分の理解した実情を知らせるには、仮想敵国を作ってわかりやすくするのか
それとも面倒だが事実を細かく伝えて、それから予想されることを伝えるのか
どのような言い方をすれば良いのかは悩むところだ

ということで、真面目だが面白くない話

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あの人たちが訪れた場所

2021年07月15日 10時49分50秒 | 徒然なるままに

勉強はしなければならないと思うと面白くないが、好き勝手に向かえると面白い
好奇心を刺激されて、少しばかり勉強に熱が入ってきた感じなのが
3月まで新城にいて、今はブラジル生活をしている女の子(中学一年相当)

ブラジルに帰る時に、せっかく覚えた日本語を忘れるのはもったいないので
ZOOMで勉強をしてみる?と伝えたところ親御さんも乗り気で
今年の5月から定期的に行っている(時差は12時間で割りとやりやすい)

最初はボランティアで自分が担当していた男の子(今は3年相当)の子がメインで
お姉ちゃんは、そのついでに、、という感じだったのが
お姉ちゃんの勉強は日本語の勉強だけでなく違う要素も入れたので
面白く感じるようになったようだ
例えば「古池や蛙飛びこむ水の音」の575の俳句の時刻は何時だと思う?
と聞いてみたり、その表現意図を伝えたりすると、何か感じるところがあったようだ
そこで松尾芭蕉の名前も覚えた

最近はお姉ちゃんが開始時にモニターの前で待っている
前回、お姉ちゃんにこの写真を見せた


「知ってる?」
と聞くと残念ながら「ううん!」
「新城のここでね、織田信長と竹田軍が戦ったんだよ。
 この柵の向こうには馬にのった兵士がいて、この柵で自分たちを守りながら銃を射ったんだよ」
「織田信長は教科書で習ったことがある」
「その教科書に載っている人がこの新城にきて戦ったんだよ」
「ふーーん」
彼女は知識として織田信長を知っていても、まさかこの地にきて戦ったとは思っていなかったようだ
馬防柵のある東郷地区の子供達は当たり前のように、この地区があの戦いの場所と知っていても
他の地区(千郷とか八名)の子どもたちは教科書の中のこととしか記憶にないかもしれない

この写真を見せたのが前回の話で今回は別の写真を見せた


ふんどし姿のインパクトのある写真で、この人の名前は地元の人は知っているが
他地区の人は知らないと思われる一種のローカルスターだ
彼の名前は鳥居強右衛門(とりいすねえもん)

「この絵は見たことがある」
彼女は答えた、だが彼が何をした人かは知らないようだ
そこで、前回見せた写真の戦いの時、長篠城という城が竹田軍に囲まれて
もうダメだ、、という時に、この男、鳥居強右衛門が城を抜け出して
岡崎の徳川家康のところまで助けを出してもらえるように伝えに行った
その役割を果たした帰り道、長篠城に入る手前で武田軍に捕まってしまった

竹田軍は城に向かって「もう諦めよ、城を明け渡したほうが良い」と訴えれば
鳥居強右衛門の命は救うとしたが、彼は「応援はまもなくくる、今少しの辛抱だ」
とまるっきり反対のことを大声で叫んだ
そこで彼は殺されることになったが、その生き様が武士らしいということで
こうして絵に残されているんだよ、、と自分の知ってる範囲で彼女に伝えた

女の子だから戦いはあまり関心がなかったかっもしれない
だが、看板で見かけた人がどんな人だったのかは、、頭に入ったに違いない

「徳川家康は教科書で習ったけど、徳川家康の娘さんがここの新城にお嫁に来たんだよ
 名前は亀姫って言って、新城小学校からピアゴに向かう道の西に少し行くと
 幅広い道があって、その道を亀姫通りと言うんだよ」

「ふーーん」
聞いてる方は(聞かされている方は?)どんな気持ちかわからないが、徐々にこっちが調子がでてきた
「あのね、松尾芭蕉も新城に来ているんだよ
 多分、新城小学校からピアゴに向かう道路の大きな信号の東の方の家に泊まったんだよ
 そこから鳳来寺に行ったんだよ、、鳳来寺は知ってる」
「うん」
「鳳来寺にはこんな像が立ってるよ」



自分たちが少しだけ住んでいた新城市は、こんなことがあったのか
と彼女は改めて思ったに違いない

後で気がつく寝小便ではないが、あとで気がつくことは多い
もっと前に、あるいはその時に、しっかり学んだり覚えたり行っておけばよかった
などということは自分の生活の中ではしょっちゅうある
あまりにもそういう事が多いので、自分は永遠の未完が自分に与えられた宿命など思ったりする

自分が面白いからと言って、日本名の彼女が面白いかどうかわからない
そこで少し気を使って(?)女の子に興味の湧きそうな恋の話をしてみた
小野小町の和歌からこんなのを紹介した
「思ひつつ寝ればや人の見つらむ 夢と知りせば覚めざらましを 」

どんな内容かだいたい分かる?
「ううん」
「あのね、好きな人のことを思って寝たから夢に見えてきたのでしょうか
 夢とわかっていたなら、目覚めることもしなかったのに、だいたいこんな意味
 その気持ってわかるよね
 どの時代の人も、どの国も同じように感じるってことはとても多くある
 それを知ることは大事だと思うな、、」
彼女はうなずく

これが日本語の勉強か?といえば少し違うかもしれない
でも肝心なのは本人のやる気の問題
やらされるのではなく、なにか面白そうなことを感じて自発的に何かを感じるようになること
それには役立っている、、と勝手に思いこんでいる

せっかくお父さんが見せたいと思った日本に来て、少しの間、暮らした新城
その場所とそこにいた人が、彼女や弟にとって良い記憶の場所であった、、、
そんな思いをいつまでももってもらいたいと思う



 

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地震・雷・火事・親父

2021年07月14日 06時07分43秒 | 徒然なるままに

地震、雷、火事、親父
怖いものを順番に並べたものだが、昨晩の雷はちょいと怖かった

夕方、7時過ぎから約一時間
窓越しにピカッと光ること絶えず、ゴロゴロと下痢気味の音と
時々、怒りに任せての落雷の音
こうなると空を見たくなるが、窓は網戸と雨のせいでよく見えない
ただ雷の例の枝のような軌跡は見られず、雲の上(中)が光っていることが多かった

パソコン大丈夫?
心配性な人の声
彼女の知り合いの家は雷が落ちて火事になったことがあるので、
自然と心配が募る

そう言われると、こちらも不安になる

雷が聞こえなくなってからは涼しい風が吹いてくる
雷はこの寒気(冷たい空気)とあったかい空気のせいか、、、
と勝手に想像する

それにしても、自然は怖い
そして、人間も怖い(コロナとか五輪を省みると)
それに比べれば、親父は怖くない

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ユーロの優勝はイタリア

2021年07月12日 09時55分03秒 | サッカー

日本時間の朝4時開始 
気になるユーロの決勝はイタリア対イングランド

WOWOWの契約はしていないので、ツイッターでリアルタイムの確認するしかない
目覚めて確認した時はイングランドが先制点をとった時だった
眠たい目で、このままイングランドの勝ちかな、、と思ったが
朝のボランティアを終えてスポーツニュースを確認すると
なんとPK戦でイタリアの勝利とあった

それもあるかもしれない!なんとなく納得もした
勝負にこだわったところはイタリアが経験値で勝る
経験なんて抽象的なことだが、それでもワールドカップの優勝も
複数回優勝はあるが、どんなに強くてもオランダやベルギーは栄冠に届かないでいる
優勝した経験のあるところしか優勝できないでいる

そこの何があるのかよくわからないが、
痛みを伴うつらい過去を踏まえた経験というものが、サッカーのチームにも必要なのだと
強く感じる
日本のあのドーハの悲劇の経験は、必然だった
あの時はまだ行く資格が無かったとも言えるが、日本全体があの経験をしたことは
長い目で見ればよかったとも言える
そして、先のワールドカップでのベルギー戦でのタイムアップ寸前のロングカウンター負け
これも国民全体の辛い記憶として経験となる


決勝戦はYoutueの抜粋を見るだけだったが、イングランドの一点目は素晴らしい得点で
今までの勢いそのままの流れだった
イタリアの同点弾は、シュートのこぼれ球をごちゃごちゃしているとこを蹴り込んで
ドイツとは違う勝負強さを感じる得点の仕方だった

結局PK戦になったが、スペインとPK戦を経験済みのイタリアの勝利
イングランドが優勝したら、翌日は二日酔いでも大目に見てくれ!
とジョンソン首相が公言したらしいが、イギリスのこういう余裕のある話は好きだな

ということで大谷のホームランで大騒ぎする日本、アメリカと離れたヨーロッパでは
感情の爆発が抑えられないような大きな戦いの一応結論がついたというところ

急に話は日本に移って
自然発生的に起きる感情の爆発
それらを考慮しないで運営しようとするどこかの国の大会
全てにリアリティを感じない想定の中で進めようとしているが
いつからそんなに想像力のない人の集団になってしまったのだろう
それは知の欠如とさえ思えてくる

もしかしたらこの国はまだ経験不足なのかもしれない
主権者が自らの権利を守るということも、意見を口に出すことも、、
つまり民主主義は真に身についていない気がする

サッカーだけでなくこちらも、、Long long way to go
先は長い

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女性の演奏するヴィターリのシャコンヌ

2021年07月11日 09時29分20秒 | 音楽

今になってわかることがある
それは難しい概念的なことではなくて、もっと世俗的なことだ
子供の頃、大人たちはどうして歌手やタレントの名前、
流行っている音楽を覚えられないのだろうと不思議に思ったものだ

ところが還暦を過ぎた今になると、まさに子供の頃バカにした状況そのものだ
男も女も大勢のグループの名前は覚えられないし(覚える気もないし)
それぞれの見分けもつかないし、音楽も全て似たように思えて仕方ない
そしてそれにシンパシーを感じている若者の気持ちがわからない

話題の店に行くことも、そこで写真を取ることも、急いでトレンドのアイテムを
手に入れることも、流行りのスイーツを食べることも関心がない
それは生命力の低下かもしれないが、あえてそれに逆らう気もない

ただ、歳を重ねてわかることもある(勘違いかもしれないが)
最近、特に思うことの一つが、ヴァイオリンの名曲ヴィターリのシャコンヌは
女性演奏家の方が、男性のそれに比べて曲に対する共感の度合いが大きくて
心動かされることが多い、、ということだ

シャコンヌといえばバッハのそれが有名で、普通こちらのほうが一般的だ
冒頭の低音の動きを基本にいくつかの変奏が展開されて、その技法精神的な充実度は
奇跡に近く、バッハの曲の中では好きな曲のベストスリーに入る
一方ヴィターリのシャコンヌは同じく低音の動きを基本に変奏が展開されるが
それは技巧的というよりはエモーショナルで聴き手にも感情移入を要求するような音楽だ
ヴィターリはバロック時代の作曲家らしいが、この曲はもっと後の時代の人の作らしい
というのが通説になっているらしい
確かにこの曲の内面の表現意欲はロマン派的な要素があるように思える

女と男の演奏の違い
単に思い込んでいるにすぎないかもしれないが、この曲に向かう時、女性演奏家のそれは
この曲を演奏することによって、ある意識を現在進行系で感じ取って、
今まさにそれを経験しているかの様に思われる
一方、男の演奏家のそれは、一曲の起承転結を理解した上で客観的に技巧的に
そして過度にエモーショナルになりすぎないように演奏する

ということで、これらは思い込みなのだろうが、好き嫌いで言えば
自分は女性演奏家の弾く演奏のほうがいつも心動かされる

Youtubeは情報の宝庫で、ヴィターリのシャコンヌの聴き比べのチャンネル(?)があった
これがなかなか面白くて、冒頭のヴァイオリンの音だけで自分は好きだとか
イマイチだな、、と感じることができる
人によって違うということは当たり前の洋で何かとても不思議だ

最近見つけた若い女性の演奏するヴィターリのシャコンヌの動画
圧倒的な世界観の名曲!【ヴィターリ / シャコンヌト短調(Vitali: Chaconne in G minor)】

男性(スーク)の演奏するヴィターリのシャコンヌは
Vitali: Chaconne. Josef Suk

ところで、これを生で聴いたのは宗次ホールでキム・ダミの演奏で、これは良かった

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挙手していない記者が質問をした

2021年07月10日 09時08分39秒 | あれこれ考えること

生放送は時にとても奇妙な映像を残す
その動画はすでに一部のSNSで話題になっているが、昨日の菅さんの記者会見には明らかに不自然なことがあった
司会者は質問のある記者は挙手するように促し、その中から司会者が指名して質問をすることになっていた
ところがマイクの前に立ち質問をし始めたのは、挙手をしていなかった(スマホをいじっていた)別の記者だった
しかも更に奇妙なのは記者の質問が終わらないうちに、菅さんは手元にある用紙を読み始めた

またか!
以前から指摘されているような出来レースの記者クラブの会見の光景だ
ここで一番の危険性を感じるのは、挙手していない記者が質問台に立つのを
見逃している記者が当たり前の様に存在することだ
普通なら手を上げていない人がちゃんと挙げている人を差し置いて質問台に立つとなれば
不平不満が出てくる
そしてそこに険悪な空気が生まれる
しかし、何事も無かったかのように時は過ぎていった

きちんと答えるためには、事前に質問を渡してもらったほうが間違いない答えができる
という理屈は、議会における質問通告による進め方を見習ったものだろうが
答えが質問に対して適切な答えならまだしも、相変わらず論点をぼかした抽象的な答え
あるいは意気込みに終止している
(ここでも記者たちは不満の声を挙げない)

この状態に報道という貴重な役割をになっている方々が、何の違和感もなく
ルーティンワークのように時を過ぎしていくのは想像以上に恐ろしい状態と思う

内々の理屈が世間の一般常識とは異なる場合は珍しくないと思う
いくら緻密な思考の末だとしても、その世界だけで秩序が成り立つものの実世界を反映しないようなものに
果たして意味があるのか、、、と考えたのがヘッセの「ガラス玉演技」の中の名人ヨーゼフ・クネヒトだった
名人は引退して実世界を把握するために世界に向かう
この名人のような思考過程が記者の中には全く生まれなかったのか、、と残念に思う
記者クラブの中の共通認識のようなもの、まずはそれすらを疑う、、そうしたものが見られないのは
人としての内面化の行程を充分に経ていないのではないのか、、と思えてしまう

記者の質問の上手い下手以前に、ジャーナリストというより会社人間としての立場が目立つ最近のメディア人
先の戦争の時、メディアは何をしたのか、、、を振り返ると、
メディアはまたもや同じことを繰り返すのではないのかと不安を覚える

メディアは「誰々がこう言った」というストレートニュースをよく考えずに報道する
だが、そのくらいのことなら誰にでもきる
肝心なのはそこから先だ、、専門的な知識と情報を駆使して、伝えるべき内容は何かと考える
そこから生まれるのは多少感情的な空気が漂うものかもしれない
だが、その方が人の心を打つ場合が多い(報道のピューリッツァー賞はエモーショナルなものも多いらしい)

まるで蝋人形の様な表情で、抽象的な言葉を続ける人たち
そしてそれを各社競うことなく垂れ流しする報道
田舎にいて、ぼーっと生きてるだけの人間でも、最近の社会はどうしても不安を覚えて仕方ない

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目の前に人のいないということ

2021年07月09日 17時36分02秒 | あれこれ考えること

ビートルズがある時期から演奏活動をやめて録音室に閉じこもり
今までにない録音テクニックを磨いて独自の世界観を作り出したが
カナダ人の変人ピアニストグレン・グールドも録音室に閉じこもって
まるで自分との対話のような音楽を残した
(個性的な、新しい発見のある演奏だったが、自分には孤独すぎて辛かった)

ナマで見る人のいないスポーツ競技
オリンピックは首都圏は無観客で行われる様になった
不意に思い出したのはこのビートルズとグレン・グールドのことだった
ビートルズはいろいろやり尽くしたあとで、やはり聴衆を前にした演奏が
必要だと感じるようになった(特にポールは)

音楽で目の前に聞く人の存在が絶対必要だったのは
カラヤンの前のベルリン・フィルの指揮者フルトヴェングラーだった
彼には息をひそめて静寂を待つ聴衆が生み出す緊迫した空気感が必要だった
また肌で感じ取れる聴衆の興奮も彼の指揮に影響を与え、
指揮行為とは聴衆と演奏家の両方でつくるものだと信じていた

スポーツの世界でもきっと肌で感じる観客の興奮や緊迫感がアスリートの精神や身体に
何らかの影響を与えるものと思われる
その証拠にホームのサッカーチームはハイテンションで戦い抜くことができて勝率も高い

録音室で作られる音楽と同じような、まるで記録会のようなオリンピック
果たしてそれが真にオリンピックの戦いなんだろうか
だから観客を入れるべきというのではなくて、そもそも観客がいないような大会は
行われるべきか、、と大いに疑問がある

今回のオリンピックでいろんなことが明らかになった
オリンピックはもはやクーベルタン男爵が望んだ姿にとどまることはできず
単に商業的なイベントになってしまった
そしてその商業的な影響があまりにも大きいために、トランプさんが大騒ぎした
ディープステートがIOCという形で存在するかのような気持ちになった

確かにオーバーエイジが加入して可能性の高いサッカーは
強いチームと戦うところは見てみたい
だが、素直にそれを楽しめないだろうという気も湧いてくる
(それどころじゃない、と)
水泳もソフトボールも体操も、、、今は空虚に、、盛り上げの空気だけが作らていく
へそ曲がりの自分は、これがとても気持ちが悪い

仮に幸運にも被害が少なく終わったとしても、
自分はこのような失態を繰り返した人々を支持することはできない

だが、多くの人はそう感じるか、、、
世の中は難しい

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