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パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

モスクワでの思い出

2022年10月11日 09時45分58秒 | 徒然なるままに

ロシアがソ連だった頃、モスクワを訪れたことがある
流石に自由に出歩くことはできなくて
インツーリストが連れて行ってくれるところだけ見物ができた

覚えているのは、地下鉄の駅がエラく深いところにあったことと
その地下の通路が豪華そうに見えたことだ
インツーリストは、こんなに深いところに駅があるのは
戦争が起きた時に避難場として使うからだと説明をした

今、プロパガンダによって実態を知らされていないロシア人
彼らは大国主義とか西欧の価値観とは少し違った面はあるとしても
自分が見た人とは無邪気な人たちだった

泊まったモスクワのホテルでは二組の結婚式のパーティが行われていた
自分らの席からもカウントを数える大きな声が聞こえた
何事か?と目を向けると、新郎新婦がキスをしていてその時間を
みんなで声をだして測っていたのだ

片方が済むと、もう片方はキスを始める
負けるな!と煽るようにまたもや大きな声が響く
熱気がそこには溢れていた
そんなことが数回繰り返されたような気がする

庶民はこうしたバカバカしいことに幸せを感じる
単純ないい人ばっかりなんだろうな
その時思ったのはこのことだった

現在のロシアとウクライナの関係は悪化する一方
ロシアを変えられるのはロシア人だけ
あの素朴で人の幸せを願う人達が
内側から変えてほしいと切に思う

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エチオピア

2022年10月10日 09時08分09秒 | 徒然なるままに

朝は食事が済むとトイレに行って、そのあと掃除機をかけて
それが終わるとコーヒーを飲むのが日課になっている
コーヒーは豆を手動のミルで挽いて、お湯をかけて30秒蒸らして
それから3回位にわけてお湯を注ぐ様になっている

コーヒーは苦いものと子供の頃は思っていたが
格好をつけてストレートで飲むようになって時間が経つと
コーヒーの味の違いがわかるようになってきた

浅煎り、深煎りの焙煎の程度で味はだいぶ違うが
ミルを回すときの抵抗感も随分違う(音も違う)
浅煎りは引っかかるような感じで少し重い
深煎は拍子抜けするくらい軽い

浅煎り、深煎の区別は豆の種類で変えているのだろうか

コーヒー豆は好きな豆をずっと続けるのではなくて気分転換に目先を変える
近くのコーヒー豆を販売しているところから
ブラジル、エチオピア、ケニア、ブレンドの中から選んでいる
(もう一つグレードが高いのがあったが忘れた)

何でもそうだろうが多くを経験すると感覚が繊細になってくる
コーヒーも苦いだけから酸味、フルーティ、滑らかさ、コク
みたいなものの違いがわかるようになってきた

当たり前のように夏はフルーティーな酸味のあるものを選んでいた
それがエチオピアの豆で、浅煎りでちょっとした酸味が爽やかだ
この豆は夏だけでなく、コーヒーの豆選びの標準になっている
つまり、多くの場合これを飲んで、ちょっと飽きたかなと思うと目先を変えて
それが終わるとまた元に戻るという形だ

コーヒー豆が終わってしまっても店が閉まっているときがある
そんな時は、スーパーに行って豆の状態のを購入する
その中でお気に入りは小川珈琲の商品だ
ちょっと酸味があるのが自分好みで、値段も控えめだし
豆が終わるまでは我慢できる

今日はコーヒー飲んだ?
終わってるから今日はなし!
先程の会話だ

コーヒー豆を販売しているところは土日休業
今日は祝日でも開いているから
自分にとってのスタンダードのエチオピアの豆を買いに行くつもり


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秋に聴く曲(ブラームスとフォーレ)

2022年10月09日 18時49分47秒 | 音楽

秋は世界中で物悲しいような気持ちになる季節のようだ
真上から日光が照りつける日々からやっと開放されて
ようやく考える事ができるようになる秋

後悔と諦めとを静かに受け入れる様になると
聴きたくなる曲はどこか寂しい雰囲気を持つ曲になる

秋に聴く曲で、すぐに思い出すのがブラームスのクラリネット5重奏曲だ
冒頭の寂しさはそれだけで心を鷲掴みにする

ブラームス クラリネット五重奏曲 ロ短調 作品115 ライスター /アマデウスsq. Brahms : Clarinet Quintet

秋はブラームスなのかもしれない
マーラーが嫌ったブラームスの最後の交響曲は、若い頃はナヨナヨしていてなんとなく嫌だったが、
今はまるっきり反対で、マーラーの交響曲は聴かないが、ブラームスの4番は季節になると一度は聴く
冒頭の主題は、実はベートーヴェンの29番のピアノソナタの第三楽章にも出てくる音形だ
ただ、この曲の第4楽章は変奏曲形式だが、なんか中途半端な終わり方のように思えてしまう
それが不思議なことにフルトヴェングラーの演奏だけは、終わったという感じがする
何故なんだろう

カラヤン 最晩年のブラームス交響曲第4番 ライヴ

あと一曲、秋らしいと思うのがフォーレのピアノ4重奏曲第1番の第三楽章だ
まるで夜想曲のような雰囲気で、フォーレの曲の中で好きな方から1から2を争う曲だ

Fauré Piano Quartet No.1, 3mov. フォーレ ピアノ四重奏曲第1番第3楽章

これらの曲は、やっぱりレコードで聴くのが良い
マニアの例にもれず、CDの同じ演奏のを持っているが
空気感と言うか音の厚みというか、雰囲気はぜんぜん違う
いい音かどうかはわからないが好きな音は間違いなくレコードの音だ

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久しぶりに購入した本だったが、、、

2022年10月09日 09時51分57秒 | 

このところ図書館で借りた本ばかり読んでいた
それらはそこにある借りられる本からの選択で
本当に読みたい本ではなかったかもしれない
その反動で、久しぶりに読みたい本をアマゾンから購入した
「歴史とは何か」E.H.カー

だが読み始めると、想像していたのと違って手応えがあり過ぎた
現在と過去の間の対話、歴史の予言、進歩としての歴史、自然科学との関係など
面白いと感じる部分はあったが、歴史家というジャンルに住んでいない人には
引用される文献やら人物に馴染みがなくて手こずってしまった

この本の内容はケインブリッジ大学で行われた講演をまとめたものだが、
聴衆はそれなりの背景知識を持った人で、ヨーロッパ精神の流れをよく知らない自分には
勝手に想像するか無視して読み飛ばすしかなかった

この特殊な歴史家と言われる分野の人にのみ役立つような知識とか精緻な思考は
自己完結して、一歩間違うと広がりを持たず象牙の塔のそれに終始する気もする
それはヘッセが「ガラス玉演技」で名人があえてそうした世界から抜け出し
社会の中で生きようとしたことを思い出させた

歴史学は経済学を含めた社会学の中の一ジャンルとの扱いの方が合理的とした意見に
賛同できない著者だった(?)が、そう考えたほうが無理はない、思ったりした

それにしても欧米人の「進歩」という概念の深さとか経験は、生半可な知識では
追いつけないかもしれない
人間は進歩しうる存在で、時間を経れば(人間社会も)完成に近づくとされる考えは
ある時はヘーゲル、応用としてベートーヴェンの作曲法、分野を変えてマルクスと続くらしいが
このあたりのリアリティは、アジアの島国の素人にはわかりにくい

と言っても、大半は忘れたり理解できなかったとしても、きっと何かが残るだろうな
という実感だけは残っているし、気になるところは印がしてあるので
そのあたりを読み直せば、少しは理解が深まるかもしれない

それにしても、専門家の域にはどの分野においてもなれないという現実に
ちょいと情けなくなってきた

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集団の心理の不思議

2022年10月08日 09時28分20秒 | あれこれ考えること

確かテレビで脳科学者の中野信子さんがポロッと漏らした言葉だった
「集団の中にいると、一人でいる時よりは極端な意見が通りやすい」と
それをなんとかいう概念で説明したが、何と言ったか忘れてしまった

だが、実生活の中でもそうしたことが多いので、気になってネットで
適当な言葉を入れて検索してみると「リスキーシフト」が引っかかった
リスキーシフト

この解説の中で実感するのはSNSの誹謗中傷で
残念なことに身近なグループにもその傾向は見られる
それは人格否定につながるもので、本人の意識の中では
正しいことを言ってるだけと思っているだけかもしれないが
気持ちの良いものではない

そしてそれらの表現は極端さ故にウケることも少なくない
心理学的に興味があるのは、人はなぜ悪口を言うと気分が良いと感じるのだろう
ということ
週刊誌の広告にはこうしたマイナスの気分を引き起こすタイトルが多い
これだけ多いとなると、人間に内在する何かが起因していると思わざるを得ない

「何を言うかは知性、何を言わないかは品性」
先日取り上げたこの言葉が重くのしかかる

極論に走らないためには、グループの中に意図的に反対意見を述べる人を入れる
のが良いそうだ
その反対意見の人は、反対の立場の人がいいそうなことを理解して
このような考え方もある、、、という役割だ
ところが、これが簡単に機能しない
既に出来上がっているグループの中では、こうした意見は受け入れがたいのだ

単なるこうした理解の仕方もあるという事実を伝えるだけでも
それはその意見に共感していると勘違いして拒絶される可能性が高い

この現実はおそらく想像以上に多いと思う
相手の言いそうなことを想像する
それは想像力とかの範囲で共感ではないのだが、それを受け入れないのは
結局はこうした思考法・対処法に慣れていないからだと思われる

民主主義とか対話というのは、実はとてもむずかしいものだと実感する
それは自分を信じるのは良いとして、自分を疑うという癖をつけていないからと思う
自分を疑いながらも自分を信じる、、この内的な葛藤が人には必要だと思うが
きっと空論に聞こえるのだろうな(と思う)

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山の思い出

2022年10月07日 10時12分36秒 | 徒然なるままに

最近登山のYou Tubeばかり見ている
ツイッターもおせっかいなアルゴリズムのおかげで
山の写真の投稿が頻繁に見られる様になっている

自分の最後の山は覚えている
爺ヶ岳がそれで、扇沢からの登山道が極めて歩きやすかった
だがその日は途中から雨で合羽を着る羽目になった
冷池山荘に着いて乾燥室に向かうと
そこは湿った衣服が隙間がないほどぶら下がっていた

結局、近くの鹿島槍へは行かずに次の日は帰ってしまった
情けないが気力も体力も貧弱だった

日本3大急登の一つ、中房温泉から燕岳への道は確か2回経験した
夏の暑い盛りではなかったので想像したよりは苦労しなかった
むしろ徳沢から長塀山経由の蝶ヶ岳の方が嫌になるほどだった印象がある

ところが、何故か燕岳の頂上に行ったのかどうか記憶が曖昧だ

こんな写真を撮っているから多分行ったのだと思うが、どうもはっきりしない
その代わり覚えているのは星空だ
星が腐るほど見えた、天の川を英語でミルキーウェイというのはうまい表現だな
と思ったりした
この年は多分、有名な表銀座のコースで大天井から常念へ行って下山したと思う
(思うという記憶しかないのが情けないが)

2回目はもっと寒い時期で燕山荘がその年最後の営業日だった
道は雪が軽く覆っていた
アイゼンは持っていなかったので、登りは良いが
下りは凍っていたら歩きにくいというか怖いなと思い
登っている途中で次の日の縦走はやめることにした

星が腐るほどあったと印象深かったのはこちらの回だったかもしれない
星空を眺めているやたらと寒くて身体が震え、すぐに室内に逃げてしまった記憶があるような、、

それにしても、そこに行かなければ見えない景色がある
馬の背を分ける、、という現象が目の前で当たり前のように現れ、その表現にうなずいたり
山は結局岩の塊なのだ、、と感じたり
思いの外街の明かりは見えるものだと思ったり
何よりも純粋な世界があるような、そんな気がしたりする

山は一人で登った
相手を気遣うのが苦手なせいとか余裕のないせいもあるが
自分のペースで登らないと疲れそう、、と思ったりもした
どんな山も途中で余裕もないほどしんどくなることはあった
特に夜行で寝不足なので身体が重く、頭の中に浮かぶのは
「小屋についたらビール!」そんなことばかりだった
今でも不思議なのは頭ん中でいつだったか忘れたが
「ダテカンバ、ダテカンバ」と何回も鳴っていたのを覚えている

そしてしんどくて、人のことを思う余裕がないほど
自分自身だけ(の内面)に向かうのが、実は自分の求めていた時間なのではないか
と確信に近いものを感じるのだった

飛行機から見ると日本は山の国だ
そして自分は山が四方に見える田舎育ち
原風景は本宮山

山は良いな、、海と山、、自分は圧倒的に山が好きだ
悔しいが今は腰が痛くて山に行けない

行ける時に行っとかないと、、
いろんなことにこれは言えるかも

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丸と四角

2022年10月06日 11時16分00秒 | 徒然なるままに

最近テレビに出ている若手の社会学者の中に
メガネに丸と四角のレンズをいれた人がいる(成田悠輔さん)
宮台さん以後、自分にこれは!と感じる人もいないが、テレビ局の扱いからすると
この人は有望株らしい

丸と四角の組み合わせ、彼は偶然そうしたのだろうか
そこで思い出したのは京都の北区鷹峯の源光庵というお寺さんだ
このお寺さんには「悟りの窓」という丸い窓と
「迷いの窓」という四角い窓がある
何年か前にこの窓越しの紅葉を見に行った
(せっかくの写真撮影は上手く行かなかった)

そう言えばどこかのお寺さんの掛け軸に
○△□を墨でかいただけの物があった
禅の境地を表しているらしいが、自分にはよくわからない

ということで不意に思い出した京都のお寺さん
2年ほど京都には行っていないので、行きたくなってきた


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再読に挑戦!辻邦生の「ある生涯の7つの場所」

2022年10月05日 10時46分01秒 | 

今は市の図書館の見える場所に陳列されていない辻邦生
北杜夫の親友で「夏の砦」「背教者ユリアヌス」
「春の戴冠」などの名作をものすごい勢いで連発した

最近は離れていたが、今は再読のタイミング!と
本棚のこれが訴えるように目に入った(タイトルがなかなか詩的だ)

「ある生涯の7つの場所」と名付けられた100の小説からなる辻邦生らしい作品で
黄いろい場所からの挿話、赤い場所からの挿話、緑いろの場所からの挿話、橙いろの場所からの挿話
青い場所からの挿話、藍いろの場所からの挿話、菫いろの場所からの挿話から成り立っている
色には色独自の気分があるので、それを一まとまりの主題(場所・人物)を象徴するものとして
アイデアが浮かんだそうだ

これを読んだ頃は辻邦生の創作欲に圧倒されて、勢いで読んだようなもので
部分部分で印象に残るものはあったが、覚えていないというの正直なところだ

本棚から引っ張り出して気になったのは、このきれいな装丁の本の値段だ
それでページ数と価格を確認してみた


最近は毎月のように値上げが続いているが、この質感で980円とか1100円で
販売されていたことに驚く
そう言えば三島由紀夫の「豊饒の海」の単行本も今の文庫本くらいの価格だった

再読は同じ色の挿話をまとめて読んでみようと思う
間に何かを挟むと最近の記憶力では肝心なことを忘れてしまいそうだ
幸い一つ一つはそんなに長くないので、寝転がって読むには最適だ

プロと素人の違いは創作欲とそのエネルギーだとつくづく実感する
素人の自分は味わうだけだが、それでもエネルギーも必要だ

秋になってきたし、ようやく集中して読めるようになってきたかな


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「全体主義の起源」と「歴史の終わり」から

2022年10月04日 09時19分15秒 | あれこれ考えること

読んでも頭に入らなかったり、忘れてしまうことが多いが
それでも大事そうなところは抜き出して残しておくことがある
今日は横着して、それらの紹介を

最初にハンナ・アーレントの全体主義の起源(3)から

代表制という民主的な手続きをとっているものの実態はこうなのだ
とまるで我が国の今の様子を予感しているような内容だ
というより、人はこうした状況を作り出してしまうのだろうか?

より日本の状況に特化した著述があるのは「歴史の終わり」で


なんだかなあ〜、ちょいと不安感を覚えてしまう
世の中のことを我が事の様に感じて、自ら考えてより良いものを目指す
面倒なこうした行為が無理なく当たり前のようにできる社会は
現実にはどこにも存在しないかもしれないが、
それでもある程度の確率でそうした人々がいる世の中のほうが
大人の社会だと思う

極論から極論へ
断定的な決めつけのほうがウケるために広がり
その結果としての多数決が正当化される世の中
こうしたことが頻繁に見られる日本は大人の社会なんだろうか?

 

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今になって、、

2022年10月03日 09時13分45秒 | 徒然なるままに

今になって涙が出てきた

実はアントニオ猪木氏が亡くなったニュースでは心が反応しなかった
一時期、猪木信者だっただけに、その反応は自分でも驚いた
ジョン・レノンがなくなった時は、立ってる脚に力が抜けてしまうほどだったから
それと同様なショックがあるものだと思いこんでいた
ところが、事実の確認だけのような反応しかしない
不思議だ、こんなことなら大好きなポール・マッカトニーのそのときも
心が動かないのだろうか、と不安になった

ところが、ネットで藤波辰爾が猪木さんとの最後の別れの記事を読むと
急に、涙が溢れてきた
一気にいろんな思い出が溢れてきて、あとからあとから涙が出てきてしまった

そして先程モーニングショーで猪木さんの特集をやってる最中は
心が冷静ではいられなかった
同居人にはテレビを見ながら涙を流す姿は見られずに済んだが
まだ後を引きずって猪木氏のことを思い出していた

結局のところ、自分は彼の生き様に惹かれていたのだと思う
なにかに挑戦し続けること
何かを証明するには自らの身体を張ってまずは行動すること
自分にはできないそうしたことが、お手本とすべきものとして
刻まれていた気がする

ショックはいきなりではなく徐々に現れることもあるのだ
人の心は、、、とても不思議だ



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