村上春樹さんの「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を読了した。
私も経験あるが、高校生の時というのは、人間が成長する上で最も微妙な時期だ。エリクソンの性格形成理論では13~22歳は忠誠心(Fidelity)の時代で、アイデンティティと自己混乱感が発現する時期。その忠誠心の時代の最深部が高校生の時期だ。
キーワードはアイデンティティという言葉であるが難しい言葉だ。最近<根源に対する無意識の帰属意識> と明石散人さんが定義されていることを知った。一番気に入っている定義だ。もっと言葉を選べば、<自分の魂の発見>ということかもしれない。そういう時期が青春時代なのだろう。
小説に関しては、まだ読まれていない方も多いと思うし、それを分析する力もない。一読者としてできるのは、それが喚起した何かについて語ることだ。
高校生の時に、自分の魂の声に気づき、それを主張し始めれば健康的であるが、なかなか微妙。魂の声に鈍感だったり、ましてそれを主張する力も乏しい。
人間は弱い。そして、さらに身体や心の成長途上の高校生は弱い。微妙な防衛機制が暗躍してしまう。私の場合も、気の合う仲間がいて、中学校の時とは比較にならないほど深く語り合った・・・つもりであった。しかし、日本の甘えの構造の文化的背景もあるのだろう。いつの間にか、仲間で形成しはじめる同一化の防衛機制と、言葉をのむ抑圧。不思議な接近と離反は日本の固有の文化もあるが、世界的に共有される部分もあるだろう。
今となっては、もういっぱしのおじさんなで巡礼の旅が似合う。今年になってから高校生の時の仲間達にもあった。高校生のときには言えなかった魂の声。そんな言葉も聴いたようだ。
魂の声は、心の防衛機制の言葉とは違う。同一化でも合理化でも反動形成でもない。まして感情転移でもない。多崎つくる君が、最後に語り始めたような健全な言葉なのだろう。
そして、魂の言葉を紡ぐときに人は随分変わる。自分だけでなく他人も変わる。
表現がむずかしく、自分でも何を言っているかわからなくなってきた。高校生のころの微妙にソフトな部分を刺激されてしまったからだろう。
この本で、村上春樹さんがノーベル賞をとって欲しいと切に思う。
主張すること 6/10