昨日は日曜で、自宅にいた。それで、以前に買っていた本を久しぶりに取り出してきた。Dysonの本The scientist as rebel である。この日本語訳が今は出ているのだが、私はもっていないので、原本である。
Dysonの文は英語の構文としては難しくないのだが、それでも知らない単語がたくさん出てくる。それで私のようにあまり英語の強くないものにはなかなか読めない。それでも興味のありそうなところを拾い読みしてみた。それがFeynmanの書簡集に関連したエッセイであった。
Feynmanはあまり論文を書くのが好きでなかったそうで、数十年後に彼がノーベル賞をもらうことになった研究の論文をなかなか書かなかったらしい。あるとき、シカゴの友人の家に行ったときにこの友人夫妻が彼をある一室に閉じ込めて論文を書くことを強制して、書くまでその部屋から出さなかったので、やっと論文を書いたのだという。
自分の成果を論文でなく、講義とか講演で口頭発表することが好きだったらしい。彼は自分では文法に則って英文を書けないといっていたらしい。ところが手紙はきちんと文法に則っていたとDysonはいう。(似た性癖の人に数学者の佐藤幹夫がいる。佐藤幹夫さんが独創的な人であることは多くの人が認めているが、広田良吾さんの話ではだから佐藤さんの講義録が全世界の数学者に読まれているという)
その手紙の一部に家族に宛てた手紙があるが、その中の一つがおもしろかった。これはFeynmanがアテネに行ったときの彼のギリシアでの観察を伝えた手紙である。それによると
ギリシアでは、古代のギリシアが優れた科学業績を挙げたということを学校教育で徹底しているので、子どもたちはその偉大さに打ちひしがれてなかなか現代にその偉大さを精神的に克服することができない。
Feynmanはいう。ヨーロッパで一番重要な数学上の業績はタルタリアによる、3次方程式の解法だという。これはあまり使われないが、これは心理的にはすばらしいもので、これによって近代人は古代ギリシア人のできなかったことをやっと乗り越えられた。そして、人間を自由にする、ルネッサンスに役立ったという。
このFeynmanの話を聞いたギリシアの子どもたちは大変驚いたという。しかし、古代のギリシア人が人間の理性の成果である、科学においては偉大なことを成し遂げたことは事実としても、それに押しつぶされるような雰囲気が現在の学校教育で支配的であるのなら、それは行き過ぎた教育であろう。だから、Feynmanのいうことは正しい。
もっとも私はタルタリアの3次方程式の解法が古代ギリシアを乗り越えた、最大の業績かどうかはわからない。それにしてもFeynmanの書簡集は英語の原本もその日本語の翻訳もいずれも、まだ私はもっていない。あわてて購入するべきだろうか。
上の話は私がDysonの文を読んでその内容を伝えようとしたものだから、正しくないかもしれない。正確なことは原本を読むか日本語訳を読んでみてください。