昨日のドイツ語のクラスが始まる前に医師の I 先生がこのブログをはじめから最新の分まで全部読んだといわれた。そういう奇特な人は他にはいないと思うので、快挙(?)であろう。しかし、これは私の言い分で、他の人にはどうでもいいことだろう。
どうしてそういういうことをなさったのかは聞かなかったが、ひょっとして深夜に寝つきが悪くてそういうことをなさったのかもしれない。それならお気の毒というべきだが、たぶんそうではなくて意識的にされたのであろう。
このブログに読者がいることは書いている本人としては嬉しいことでもあるが、それは一方ではちょっと恐ろしいことでもある。というのはこれは書いている本人の独り言なのだが、その独り言が一人歩きをするという事態にもなるからである。
ブログを書くということはある意味で精神的な内面を公にさらすことになる。自分の内面のもちろん全部ではないが、少なくとも一部をさらしていることである。それが私の全体のどのくらいの部分を占めているかは自分でも判断がつきかねるが、数分の一くらいなのか数十分の一くらいなのか。多分数十分の一くらいだと思うが、それでも自分の中のかなりの部分を表明していることになる。
人間の無意識のコンプレックス(ここではインフェリオリティ・コンプレックスを含むが、そのものよりも広いものを指す)は意識している以上に大きいので、人間全体を評価するにはその全体を評価できる必要があるが、無意識は行動にどう現れるか、ユング派の精神分析学者にでも聞いてみないとわからない。
このブログで話題にしていることは数学とか物理、ドイツ語やフランス語といった外国語、テニスや一般のスポーツや健康、その他日常生活の折に触れた話題とかである。できるだけ政治には触れないでいるが、まったく皆無というわけにはいかない。だが、湯川秀樹がその著書「天才の世界」でとり上げる人として、天才でも政治家と軍人を除いたと同じような考えをある程度は踏襲している。
だから、私のブログが世間一般とかけ離れているだろうことは想像に難くないが、それでも書くテーマには事欠かない。だが、とても狭い見解であることをお断りをしておく。
よく、大学在職中に学生の卒論の添削をした。書いていることがもう一つわからないので書いた学生を呼んでその意図を聞くと、それはこういうことを書きたかったのですという。それではそう書けばいいではないかとその場で私が書き足していたが、書くことがわかっていてもそれを文章にできるかどうかはまた別なのである。自分の思ったことを文章で何とか書けるようになるというのはかなりの修練が必要である。