物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

draft

2012-06-19 14:30:44 | 外国語

draftという英語はいろいろな意味をもっている。「四元数と回転」というエッセイを書いていたので、その草稿に8th draftのように書いていた。

ところが、いま気がついたところではdraftという語でいろいろな意味で日本語でも使っている。一番よく知られているのは野球の選手の選抜のためのドラフトであろう。

また私は大学工学部に勤めていたので、実験室にドラフトと呼ばれる一角があり、そこには有毒ガスとかが発生するようなものを置くのを知っていた。

日本で生ビールをドラフトビールと言ったりもする。はじめに書いたように、もちろん、論文やエッセイの草稿もdraftである。

このごろは工学部でも製図を描く学生があまりいないかもしれないが、製図台のことも日本語ではドラフターと言ったはずだ。

ということで、英和辞書を調べてみた。

1.線で描くこと、線描、設計図

2.草稿

3.通風

4.(積荷などを)引くこと

5.(糧食や軍勢の)調達

6.選抜隊

等の意味がある。draft beerには生のビールという意味もある。なかなか意味の多い言葉である。


放射線実測図

2012-06-19 11:03:55 | 国際・政治

昨日の朝日新聞に「アメリカエネルギー省が福島第一原発の事故後に米軍機で空から放射線の測定をして、その詳細な汚染図を提供されていたのに、これが住民の避難に利用されなかったことがわかった」と報じられた。

文科省の担当者は「提供されたデータを住民避難にいかすという発想がなかった」と述べている。これでは何のための官僚かわからなくなる。

日本では政治家3流、官僚1流などといわれていたというが、こういう有様では官僚も3流ではないか。情報が英語で提供されたために意味がわからなかったなどという言い訳はまさかしないだろうが、それにしても原発事故をまったく想定したことがなかったようである。

担当の部署ならば自分で放射線の汚染状況を測定するか、そうでなくてもそれに関係したデータが重要であるという判断もできなかったというのだろうか。多分、内部ではこれを何とかしなければという人が一人ぐらいいて当然である。だが、上司にそれを無視されて嘆いている人がいるかもしれない。

それにしてもSPEEDIという影響予測システムの公表遅れののみならず、かさねがさねのミスであり、これは単にミスというよりは官庁の体質を表していると考えた方がいいのだろうが、これでは官庁などいらないのではないかとまで言われても返す言葉があるまい。

多分文科省の放射線の担当箇所では人員があまりいないとかしたとしても、一人でも担当者がいれば、何が緊急であり、何が重要かの判断もできないとすれば、免職ものである。だから、若い担当者がこれを何とかしたいといったとしたときにそれを上司がうまく判断できなかったのではないか。

この判断でも文科省には大分甘い評価であろうから、もしそういう人が一人もいなかったのなら、これは文科省など廃止してしまえと言いたくもなる。

このデータは経産省の原子力安全・保安院にも提供されていたという。こちらもデータを公表もせず、首相官邸にも原子力安全委員会にも伝えなかったという。

二つの担当部署にアメリカエネルギー省からデータが伝達されていたとすれば、どちらかが少なくとも政府に伝達をすべきであったろう。他の部署が伝達するであろうから、自分のところは放っておいてもよいとは、考えるべきではない。情報は重複してもいいから、念のためですがと言って、関係部署に伝達すべきものである。

そういう安全策をも考えられないようでは、難しい試験をパスして採用された、国家公務員とはなんだったのか。


記憶欠落

2012-06-18 11:34:16 | 日記・エッセイ・コラム

ときどき、記憶欠落に悩んでいる。歳をとって来ているのだから、当然ともいえるが、昨日もナチの強制収容所だったアウシュウィッツを忘れてしまって妻に教えてもらって、ようやく思い出した。

我々のもっているすばらしいモーツアルト、べートーベン、バッハの音楽もトルストイやゲーテの文学も、はたまた相対論も量子力学も、アウシュウィッツや南京の虐殺を防げなかったので、文化としてみたときにはまだまだ不十分なのではないかというような問題提起が羽仁五郎によってなされている。

その大事なアウシュウィッツを忘れてしまって思い出せないということが私に起こった。

それだけではなく、先週の金曜日のドイツセミナー日の行事に参加した後で、パーティ会場に知り合いと行くときに私がよく知っているはずの温厚な感じの紳士が少し前を歩いているのを見た。ところがこの人が誰であったのか思い出せなかった。

後で、家に帰って妻と話していて、それは愛媛大学教育学部の音楽の声楽教授であった、Sさんだったろうということになった。彼は愛媛日独協会の会長を数年前までされた方で、合唱のグループの指導をされたり、愛媛県の合唱連盟の会長をされている。

そういう重要な人なのに私の頭の回路から欠落をしてしまっていた。歳はとりたくないものだ。しかし、こういう記憶の欠落とこれから闘わなくてはならない。


四元数と空間回転2

2012-06-17 14:59:14 | 数学

6月7日に「四元数と空間回転」という題でブログを書いたが、まだこの原稿ができあがっていない。いまのversionは8th versionである。もっとも手書き原稿は0th versionとしている。

それを午前中に自宅で見ていたら、やはり修正したいところができたので、午後から仕事場に出てきた。

今日は父の日だというので妻が私を一人放っておいて、遊びに行くのはちょっと気が引けたと見えて、大洲か内子にあやめを、一緒に見に行かないかと誘ってくれたのだが、断って原稿を読み返していた。

大体はできあがっており、それを修正したら、ほぼ完了である。この原稿が出来上がらないと実は数学・物理通信の第2巻第2号以下の号が編集と発行できない。

今日は6月17日であるので、ほぼ1st versionから10日たった。極めて仕事がのろいのだが、いつものことである。

昨日は懸案だった図をpicture環境で描いた。もっとも前に描いていた図をコピーして少し変更するということで済ませた。私の原稿は自分で何も変更点を思いつかなくなると脱稿であるが、さて今度は本当に脱稿になるか。


コーパス

2012-06-17 14:18:30 | 外国語

英語の言語資料データ等でコーパスという語を前から聞いていたが、その意味は知らなかった。先日の朝日新聞にコーパスとは英語で全集の意味だとあった。

あれ、そんな意味だったのかとはじめて知ったのだが、その綴りが分からないのであてずっぽうで英和辞典を引いてみたが、どうも行き当たらない。

それで困ったときの広辞苑頼みということで広辞苑を引いてみたのだが、まだコーパスは広辞苑(第6版)には採録されていない。

大抵、私がカタカナ語で困ったときにはこの広辞苑が役立つのだが、今回は手がかりなし。

大きな岩波の英和大辞典を引いてみたのだが、これも該当の語は私の見当をつけた綴りではなかった。しかかたなく妻にどこにも出ていないと告げたのはその新聞をみた朝であった。妻も自分の英和辞典を引いてくれたが、見つけられなかった。

仕方なく、仕事場に行ってなにか仕事を始めていたが、コーパスという語の新しい綴りを思いついたので、小学館のプログレッシブ英和辞典を引いてみたら、そこにやっと見つけた。

それによるとコーパスはcorpusの意味は

1.(文書・法典などの)集成、大全、全集、コーパス、言語資料

2.元本、元金

3.(解剖用語)(特別な性質・機能をもつ)体

とあった。

私が知っていた意味は1の中の「言語資料」という意味だけである。もっともその意味はおよそ見当がついていたが、それを普通の日本語でどういうかは知らなかった。それに今は「全集」という意味を知ったわけである。

大体、言葉なんて、万足卓さんの「ドイツ語への招待」(大学書林)に主張されているように辞書と文法書をくびっぴきで学ばならぬとすればなかなか学べるものではなかろう。

やはり辞書などによってではなく、普通に使われているのを聞いて言葉は、覚えるものである。

それで思い出したことがある。大学で教わった、あるドイツ語の先生は「辞書も引いて来ない学生は嫌いだ」とおしゃられていたのを思い出した。

いつも辞書など引いたことのない身には身が縮まる思いが今でもするが、そういわれたH先生はドイツ語の達人だったからだろう。

兄のドイツ語のM先生が、「H君は松山高校始まって以来ドイツ語がよくできた」といつも言っていたと兄から聞かされていた。このH君こそ私の教わった、H先生であった。

その後、H先生は松山高校の後身のE大学法文学部に教授として転勤されて、数年在籍されたが、そのころ私も同じ大学の工学部に勤めていた。そのころH先生にときどき学内でお見かけしたことがあった。いまでもご健在だろうか。

いつものごとく、コーパスの話題から変な方向へ話がそれてしまった。


石手川ダムの貯水率3

2012-06-16 13:22:42 | 日記・エッセイ・コラム

毎年、5月ないしは6月にここ2年ほどこのテーマで書いている。今年は5月に雨があまり降らなかったせいか、石手川ダムの貯水率が例年よりも8~9%下がっている。77%くらいの貯水率であったと思う。

昨日、約51ミリの降雨があったとかだが、まだその貯水率は0.1%しか今朝は改善していなかった。そのうちに梅雨に入っているので、改善して100%近くまで戻るであろう。

地下水の水位が例年よりもかなり低くなっていて、節水制限に入るとはテレビのニュースで先日見ていたが、ダムの貯水状況が急激に悪化しているとは知らなかった。だが、それもまもなく改善するであろう。

慎重にその状況を見守る必要がありそうである。

(2012.6.25 付記) 昨日、お知らせチャンネルを見たら、石手川ダムの貯水率は97,5%だとかであり、このところの雨で貯水率は回復している。また、地下水の水位も上昇しているので、水不足は当分なさそうである。


自己嫌悪

2012-06-16 13:10:17 | 日記・エッセイ・コラム

先日、自己愛ということについて、パスカルの言説を書いたが、もう一つ自己嫌悪という感情もある。

昨日、ある行事に参加していたのだが、そのときにつまらない見栄を張ってしまい、自己嫌悪に陥っている。これはまったくやりきれない。もちろん、他人から見たらどうってこともないのだが、それにしてもこの自己嫌悪感は強く残っている。

だから、そういうミスを犯さないためには、あまりこういう行事には参加しない方がいいのではとまで思ってしまう。どうも、自分のためというよりも自分でも思いがけない行動を起こしてしまうという危うさを私はもっている。もっと、自分自身をもっと冷たく保つ必要があると感じている。

それはともかくとして日本人の結構多くの人が外(国)語を話すというような状況になっていると感じた。昨日の行事はドイツとドイツ語に関係したものであったが、若い人には昔私がドイツ語に関して味わったようなカオス感はないらしい。それはとてもいいことだと思う。

これは外語への入り方が、直接にその言葉を母語にしている人から学ぶということもあるからに違いない。


ひまわり

2012-06-15 22:01:54 | 映画

ちょうど1週間ほど前に、「ひまわり」という映画を見た。

悲しい話であるが、若いイタリアの男女が2次世界大戦戦争中に愛し合うようになり、結婚する。そして戦争にとられないようにと夫は気が狂ったようなふりをするが、それが発覚して一番厳しいロシア戦線に送られる。

戦争が終わったのに夫が帰ってこない。妻はいっしょに戦線にいた人から事情を聞くが、どこかで生き別れになったことしかわからない。戦死の届けもなく、行方不明である。

夫のことが忘れられない妻(ソフィア・ローレン)はロシアまで夫を探しに行く。どこかの町で生きて働いている夫と出会うが、夫はイタリア人だとは告白しない。

それで、近隣の町を探した妻は夫がきれいな若い女性と結婚して、娘までいることを突き止める。そしてその家を訪ねる。新しい妻はそれが自分の夫の元の奥さんであること悟り、夫が帰ってくる汽車を二人で駅で待つ。

実際に夫が汽車で駅に着いたときにソフィア・ローレンはいたたまれず、その駅に着いた汽車で立ち去ってしまう。

その後、夫は事情の説明のためにイタリアへ帰って来て、まず電話で話をするが、それぞれの事情があって元にはもう戻れないと夫に告げる。

それで夫はロシアに帰ろうとするのだが、あいにくストで鉄道は動かない。それで急遽、元の妻に会うことを決めた夫は妻のところへ行って自分が戦線から退却しているうちに倒れてしまい、記憶喪失になったことを告げる。

そして自分を助けてくれた若い女性の家で看病され、気づいて、その女性とやがて結婚する。

しかし、夫にはロシア人の妻と娘がおり、またソフィア・ローレンには男性がいて、その間に息子ができている。だから、涙ながらにロシアに帰る夫を駅で見送る。

そんなあらすじである。ソフィア・ローレンがロシアに夫を探しに行ったときにその元戦場に今では地平線の向こうまで一面のひまわりが咲いている。というのがひまわりという映画の題名となっている。また、その近くにはいっぱいの戦死者の墓地がある。

こういう、とても悲しい話であり、反戦映画かとも思うが、単純な反戦映画でもなさそうである。これは1970年の作であり、私は映画館では以前には見たことがなかった。

夫が住んでいたところを探して行ったときに、駅の背景が原発であると思われた。これなどは本当にロケをして撮った映像ならば、ウクライナかなと思わったが、本当のところはわからない。

ウクライナなら、ここはもうここはロシアではくなっている。その点でも興味深かった。もっとも背景を勝手に付け加えることは映像技術的にはそう難しいことではないので、本当のところはわからない。

映画がどういう設定になっているのか知りたい。


今日のテーマは?

2012-06-15 21:28:44 | 日記・エッセイ・コラム

今朝、家を出るときは今日のブログのテーマを決めて家を出たのだが、いまブログを書こうとしたら、そのテーマがなんだったかまったく思い出せない。

なんだか格好のテーマがあったと思っていたのに。いつもこんなことでテーマに困っている。いや別に無理に毎日ブログを書くと宣言した訳でもない。だのに常に自分勝手に強迫観念的になっている。おかしな話である。

いつもこのように私自身はちぐはぐである。昼から松山大学と愛媛大学でドイツ国セミナー日という催しが行われるので、昼から出かけた。

1部と2部の催しが終わって、3部の催しなって8時30分くらいまで、パーティに出ていたが、傘を今日はもって行っていなかったので、少し早めに帰った。雨が降っていたが、電停に着いたときにちょうど電車が来たので、それに乗って帰った。雨には少し降られたが、それほどひどくもなかった。やれやれ。

私にはときどきの行事に参加したり、またどこか出かけたり、そういうことがあれば、それを話題にブログを書くが、そういう行事は私には多くない。いつも密かに自分の関心事のことを調べている。

それは私には関心事だが、他人にとってはどうでもいいことである。人生はそういうものである。それでもどうでもいいやとは自分自身はならないから、不思議である。


自己愛

2012-06-14 12:02:01 | テレビ番組

NHKの「100分de名著」のパンセの2回目を昨夜見ていたら、人間は自己愛が強くて、要するに人から褒められたいのだという。

それは目立って褒められたい人もいれば、控え目だということを売り物(?)にして褒められたいと言う人もいるのだという主張らしい。

さしづめ私などは控え目にしていて、それでも人から褒められたいタイプだなと思っておかしかった。いや人から褒められて嬉しくない人などいない。

もっとも控え目にしていて、人に褒められることなどほとんどないのだということをパスカルは忘れているらしい。

それはともかく、自己愛のない人などいない。パンセにははじめそれで自己愛に批判的な論調があるらしいが、結局は人間というものは自分の自己愛からは逃れられないということを100%認めて、人間ってそういうものだと言っているらしい。

人間どこかで自分を肯定できるところがなくては生きていかれない。


原田正純さんの死去

2012-06-13 11:32:26 | ニュース

水俣病の被害者に寄り添った医学者、原田正純さんが先日亡くなったと新聞で見た。一昨日の新聞で見たのだろう。

今日の新聞で彼の短い評伝が載っていた。私は彼の業績をあまり知らないのだが、彼の著書の中に武谷の方法論にしたがった活動をしたとか、または、助けられたとかいうことを書いてあるとどこかで読んだ。だが、まだその著書には接したことがないのだが、いつかそれを読んでみたいと思っている。

私の大学の物理学科の同級生に熊本出身の男がいたが、彼には水俣病の影響はなかったのかどうか。ちょうど私が大学生だった頃にだんだん水俣病の原因が分かりつつあった頃である。

そういう意味では私もそういう歴史の中に生きてきたわけだが、どうもそういう意識は今まで薄かった。これはやはり私がぼんやりと人生を過ごしてきたということに原因があるのであろう。

いつもアウトサイダーで、自分が歴史を作るのだとかいうような意識をもったことがない。それがよかったのかどうか。いつでも世の中の主流の方々が居られて、それらの方々にほんのごくわずかでもいいから何か付け加えるというような人生観に支配されて生きてきた。

だが、原田さんは私のようなひ弱な人ではない。自分で闘った方である。冥福をお祈りしたい。


TEDカンファランス5

2012-06-12 13:26:30 | テレビ番組

昨夜のNHKのTEDカンファアランスはビル・ゲイツの講演だった。彼はいまマラリアの撲滅とか教育に彼の財団の資金をつぎ込んでいるらしい。

マラリアの撲滅も興味深いが、このブログでは教育についてとりあげたい。教育はそれを好まない学者、たとえば、武谷三男、もいるが、実はとても大事な分野だと思っている。

それは教育によって、すばらしい人々を育てることができれば、社会が必ずよい方向に変って行くからである。だが、私の関心のある、故武谷三男は学校で教育を受けることを嫌った。

これは多分個々の個人の自発性を奪うということを心配したのであろう。人から、それが教師であれ、誰であれ、押し付けを嫌った武谷らしいが、彼も研究上でグループのメンバーに研究方針を押し付けたと思われており、そのために核力グループは解散の憂き目にあった。

実際に武谷のグループの指導方針がよかったのかはなかなか判定の難しいところであるが、研究の方針を押しつけた、多分そういう風に核力グループのメンバーからはとられたのではないかと思う。

話がとんでもない方向に行ってしまった。元に戻そう。

ビル・ゲイツはいう。若い先生がすばらしい教師か。No. 若い教師でいろいろと進歩が見られるのは新任の3年まで、あとはまったく進歩しない。修士号をもっている先生がいい先生か。No. 統計で見る限り最低の先生が修士号をもっている教師だと。

これはアメリカの話で日本の話ではないだろうが、それでも多分そんなに日本でも違ってはいないだろう。

ある優れた学校か教師の集団があるのだと話していたが、よくはわからなかった。だが、ビル・ゲイツが教育を重視していることはわかった。優秀な教育を広めて行きたいとの気持ちも伝わった。私も彼の主張に全面的に賛成である。

確かに政治、経済、工業、科学技術も、はたまた大学も日本の現状ではどうなることかと心配になるばかりである。しかし、誰かが社会を変えなくてはならない。

それはどこから変えるか。多分教育以外にはない。そう思って自分にできる小さなことをやっている。

それはやはり人間であろう。それもすべて会社人間ではない、人間であろうか。もっともそういう志の高い人を教育できるのかどうかは心もとない。

多分にそれは単に学校教育の問題ではなく、もっと根源的な家庭環境によるのかもしれない。


伊方原発を止める集会

2012-06-11 16:14:44 | 国際・政治

昨日の6月10日(日)に伊方原発を止める集会が松山市堀の内の公園であった。私の妻がこの集会に参加するというので堀の内まで車で送って行った。

昨日の集会は1300人の参加があって、四国各地から、また、瀬戸内の対岸の山口、広島から、大分からも人がやって来た。これはすごいことである。

それくらい反原発の趨勢は強くなっている。それを無視することは政治的にもできなくなりつつある。

一方で、首相が大飯原発の稼動を決める記者会見をしている。これについては私などは政権を担当するということは辛いことだなとちょっと同情的である。

これは福井県と大飯町とが首相に再稼動の宣言を迫ったので、稼動へと動かざるを得なかった。方向としての脱原発の方向は正しいと思うが、すぐに関西電力等の電力会社が来年以降も利益を出しながら、脱原発へとはすぐに方向付けられそうにもないことが大きな課題である。

市民としてはそんなことは知ったことか。危険なものは危険だ。一度原発が事故したらそこには住めなくなるのだからという。そのことは正しい論理である。

だが、会社としてみたら、原発を止めてしまってどうも赤字経営になりそうだというのであろう。それは大きなジレンマである。

しかし、会社の立場に立って、原発を運転を継続してみたところで、実は使用済み核燃料の原発構内の保管場所の空き具合はあと30%ぐらいしかない。

そういうことを考えると原発には残念ながら、もう未来はない。この見通しは10年くらい以上の中長期的に考えるとまったく正しいのだが、1年、2年のことを考えるとそう単純に言い切ってしまうことができない。

それと、この1年,2年をなんとか電力会社がしのごうとしたとき、そのまま電力会社の利益のために原発の運転を続けようとの考えが必ず会社からは起こってくる。そこが難しい。

電力会社は早急に原発に見切りをつけて、つぎのステップに進まなければならないのだが、そういうことを会社の方から自発的にはしそうにない。できるだけ原発を長く運転しようとするだろう。そのせめぎ合いはとても厳しい。

だから、もう原発は再稼動を許さずとしないと電力会社はまったく新たな一歩を踏み出さないのではないか。そう考える。


マタリ

2012-06-10 15:52:12 | テレビ番組

NHKのSongsで井上陽水の歌を聞いていたら、古くから有名な誰かの歌だとかいうので、歌っていた歌の文句に

・・・(コーヒーは?)モカマタリ

という歌の文句が出てきた。

いつだったかは忘れたが、京都で学会か研究会があったとき、実は昨年夏に亡くなった、私の友人の物理学者K君と京都四条通から少し入ったところの喫茶店に入った。そこでK君が注文したコーヒーがマタリだった。それまでそういうコーヒーを知らなかったので記憶に残った。K君はマタリはモカコーヒーなんだとそのときに私たちに説明をしてくれた。

K君はこの有名な歌の文句からマタリを知ったのか、はたまたそうではないのかそのときにそういう歌の文句があるのだなどと彼は話さなかったから、今となってはもう分からない。K君はそういうネタを明かすような野暮な人ではなかった。

私などは野暮天もいいところでコーヒーの名前などまったく知らない。よく知られたコーヒーにブルーマウンテンだとかキリマンジェロなどというのがあったかな、などということすらおぼろげである。それほど世の中のことを知らない。

アメリカンなどという薄めのコーヒーもある。私などは頭の毛が薄いので、陰であいつはアメリカンだなどと陰口をたたく輩もいるらしい。

同様なことがカクテルにも言える。ピンクレディだとか青い珊瑚礁だとかいうカクテルがあったかな、なかったかなとこれもおぼろげである。最近NHKのドイツ語の講座でCosmopolitanというカクテルの名が出てきた。そういうカクテルがこれは本当にあるらしい。

それで思い出したのだが、数学者の矢野健太郎氏のエッセイに、あるとき数学者が一斉にどこかのバーに出かけてカクテルを注文したというのがある。そしてそれぞれの数学者たちが自分の薀蓄を披露して、カクテルを注文したのだが、中に一人ワイアーストラウスというカクテルを注文した数学者がいた。

バーのウエイターは注文を聞いてひきさがったが、しばらくしてすみません、ワイアーストラウスはあいにくいま切らしておりますと言いに来た。

矢野先生、本当にこういう名のカクテルがあるのかどうか不思議に思って、件の数学者に後でこっそりと聞いたところ、どうもこの数学者のユーモアの、いたずらであって、そういうカクテルはないだろうということであった。

ワイアーストラウスはドイツ人の数学者であることは数学者なら誰でも知っている。それくらい有名な数学者である。

(2012.6.14付記) カクテルということで思い出したのだが、原爆の父として有名なオッペンハイマーはもちろん物理学者だが、彼はときどきカクテルパーティを自宅で開くことで有名だったという。ときどきこのブログにコメントを下さるN博士は若いときにプリンストンの高級研究所で研究をされたことがあるはずだが、この有名なオッペンハイマーのカクテルパーティにひょっとして行かれたことがあるのだろうか。


梼原に行く

2012-06-10 15:08:36 | 日記・エッセイ・コラム

昨日、高知県の梼原に行ってみた。これは妻が知人のKさんを誘って3人で出かけた。一昨日に入梅を気象台が発表したばかりなのだが、昨日は曇りながら、雨は降らず西予市、城川町経由で梼原に着いた。

なかなかきれいな町であり、これなら多くの観光客が来ても当然だと思われる町であった。だが、それほど昨日は訪問者が多いという風でもなく、これは入梅が宣言されたせいかと思われた。

町の駅というところでにんにくを買ったり、観光パンフをもらったり、見所を紹介してもらったりした。

梼原は坂本龍馬脱藩の道の経由地点でもあり、山の中の村というか町にしては進取の気性に富んでいる。いや山の中の町だからこそ進取の気性に富んでいるのであろう。龍馬の脱藩を支援したのみならず、自分たちも脱藩した人が6人もいるということで六志士と言われている。

それらの中で5人は20代後半から30代前半くらいで亡くなっていたが、一人だけ58歳まで生きた方が居られた。

この町の小型水力発電サイトも川越しにであったが、見た。これは9月に妻の従兄夫妻が梼原に行きたいと申し出がすでにあったので、その事前視察という意味も兼ねた、今回の梼原行であった。

雲の上ホテル併設の雲の上レストランで昼食をとったのはもう14時近くであった。ぜひ、また訪れてみたい町である。