衆議院兵庫3区で、1990年から政権交代まで7期連続当選を果たし、2009年5月16日の民主党代表選では「菅元代表の名代」として、「岡田克也首相」をめざす、正しい選択をした、
土肥隆一(どい・りゅういち)元衆議院議員が、
報道によると、さる2016年1月22日、召天しました。
76歳。旭日重光章。心より哀悼の意を表します。
ただ、事前に断っておきますが、政権交代ある二大政党政治において、民主党の敵は自民党であり、けっして民主党内に敵はいません。そのパラダイムは、国民の多くが理解していると私は勘違いしていました。政権交代ある二大政党政治が定着しない中で、民主党の敵は自民党だというパラダイムを分かっていない、国民や国会議員が大多数であることを、ふつつかにも、私は知りませんでした。そのことについて、私は反省しております。私は日本国民を買いかぶっていました。
土肥さんは、日本基督教団牧師で、「十字架委員長」こと河上丈太郎最大野党党首を継承した子息の後継者として、1990年の第39回衆院選初当選。戦後日本政治の一派である「キリスト教社会民主主義」の神戸(Kobe)の議席を守りました。
第39回から第45回「政権交代選挙」まで連続7回当選。
衆議院外務委員長。民主改革連合(民改連)幹事長をつとめました。1998年通常国会の統一会派「民主友愛太陽国民連合」の「連合」は民改連のことです。
政権構想会議4党の幹事長の立場から、民主党立党に参画。菅代表を支えるグループを江田五月さんらと結成しました。
菅さんは、2009年5月の民主党代表選で初めて不出馬。この際、土肥さんの動向が注目されましたが、同期で同じ党で当選した細川律夫さんに誘われ、「同期から首相を出そう」と「岡田克也首相」という正しい選択をしました。
このとき、岡田陣営の出陣式には48名が出席し、残念会に47名が出席しました。この場にいた人は、岡田さんを含めてただ一人政務三役経験者はいませんでした。そして、3年3か月の政権後、1人は総理大臣になり、残りの衆議院議員も1人を除いて全員政務三役になりました。土肥さん一人だけ政務三役になれませんでした。2011年3月10日に離党したからです。
この件は、首相官邸ウェブサイトで「土肥隆一」で検索すると分かるでしょう。次の部分です。
[首相官邸ウェブサイトから引用はじめ]
(記者)
フリーランスで宮崎です。これはお答えいただかなくてもいいのですが、3年半前の代表選に岡田さんが出馬されたときに、当時野党でしたが、マスコミオープンで48人ぐらいの衆参議員が出陣式や残念会のほうに出席されたと思います。
そのときに、当時野党の岡田候補はこういうふうにおっしゃったと思います。このことを一つの励みとして民主党は強くなる。御支援していただいたここにいらっしゃる議員の皆さんの御厚情には、これから恩返ししていく。そのためには、まず政権交代だとおっしゃったかと思います。
私はこれを聞いたときに思ったのは、政権獲得後の具体的には政務三役ですとか、そういったことも含めた恩返しなのかなというふうに、私はそのとき感じました。この48人のうち、この3年3か月に政務三役になれなかった方は5人いらっしゃいまして、そのうち4人は参議院1期生だった方です。もう1人は土肥隆一さんです。
このときの恩返しというのは、そういった論功行賞といいますか、そういう意味だったのか。また、それが結果3年3か月、実際党を運営していく中で、ちょっとこの代表選での内輪での行き過ぎた争いにも若干つながったようにも思いますけれども、その辺今振り返って、3年半前のこの御恩返し発言というのは、どういう意味だったのでしょうか。
(岡田副総理)
私は広く人事権を持つ機会というのはなかったのですね。外務大臣のときは、自分の副大臣2人、政務官3人の人事、あと幹事長のときですね。幹事長のときには、基本的に副大臣、政務官、それから党の役職、そこは私が事実上決めさせていただきましたが、あのときに考えたのは、小沢(一郎)さんに近いと言われている人たちをまず役職につけるということで、かなりの人がそれで役職につきました。そういう意味では、私を応援してくれたということとはちょっと違う判断で人事を行ったということであります。
私を応援していただいた方々に対して、特に報いるとか、そういうことは考えてみれば、あまりしてこなかったし、そういう立場にもならなかったなというふうに思っています。むしろ最初の鳩山内閣で私を目立つ形で応援した人は、ほとんど役職につけないという事態でしたので、例えば玄葉さんとか安住さんとか鉢呂さんとか、鉢呂さんなんかは全く何もなかったですから、逆に干された感じ、結果的には、意図的かどうかは別にして、ほとんど役職につけないような状態でした。
私は自分が外務大臣を受けた後で、そういうことに気がついて、ちょっと非常に申しわけない思いでした。そういう意味では、もう少し気を配るべきだったかもしれません。ただ、その後彼らも菅政権、あるいは野田政権の中で非常に重要な役割を果たしてくれたというふうには思っています。
[引用おわり]
2011年3月10日の岡田克也民主党幹事長記者会見では、「役員会では「本人が記者会見をするので、それを見守っていただきたい」ということを申し上げました。土肥議員とは、電話では話はしております」と語りました。この後、私は土肥さんが民主党幹事長室(衆議院第14控室)に行く土肥さんに同行しました。翌日、東日本大震災。意外とビビりの私は、放射能が怖くてしばらく国会に行きませんでした。
ただ、ここで気づく人はいるでしょう。土肥さんは1995年1月17日にも「届」を出そうとし、阪神・淡路大震災に遭いました。3・10提出は、土肥さんの国会での善行が及ぼしたのだと、私は考えています。
なお、以前にも当ブログで訂正しておりますが、2012年10月16日の首相官邸記者会見会議録内で私が「土肥さんは日本領の平壌の御出身ですけれども」 と語っていますが、これは、「京城(ソウル)」の誤りです。
2009年5月。私はホテルオークラを出て、「長井代助」状態となってしまい、サントリーホールをめざして歩いたら、新橋駅に出ました。日本はこのままどうなってしまうのだろうと絶望しました。しかし、殿に言わせると、「鳩山さんや菅さんより先に首相になっても政権はうまくいかなかった」そうです。
だったら、土肥さんの立場はどうなるんだよ、と言いたいところですが、土肥さんは「正しい選択」をしたということだけは、100年先の日本人に伝えたい。
[当ブログ内から引用はじめ]
[写真]民主党・無所属クラブに復帰した土肥隆一さん。
うれしいビッグニュースが飛び込んできました。
兵庫県第3区(神戸市垂水区、須磨区)選出の衆議院議員、土肥隆一さんが2012年10月16日(火)、衆議院会派「民主党・無所属クラブ」に復帰しました。安住淳・会派代表者が衆議院事務局に届け出ました。近く、民主党に復党するとみられます。
岡田副総理は16日の記者会見で「いろいろなことがあって、御自身責任を明確にされたということだと思います。私は当時幹事長でしたけれども、土肥さんは同期だし、非常に親しい友人でもありましたが、彼のほうから潔く離党ということで、身を処されたこと、非常に残念な思いと、それから土肥さんらしいなと、そういう気持ちで見ておりました。今回、かなり時間もたつ中で、党に入ったということではありませんが、会派に入られたということで、個人的にはよかったなというふうに思っています」と述べました。
私が衆議院本会議で確認していた範囲内では、土肥さんは、この1年半、すべての採決で民主党の党議と同じ投票行動をしていたと思われます。
土肥さんは昨年2月、故郷で開かれた日韓のクリスチャン議員外交において、竹島の領有権をめぐり、韓国議員側に、トラップにはめられました。あたかも日本の与党議員が竹島の領有権が韓国にあると主張しているような情報発信となってしまい、日本でも3月9日から大きく報道されました。慣れない与党議員として軽率のそしりは免れません。猛省が必要でした。が、土肥さんは3月10日午後5時半に記者会見し、民主党を守るために、自ら離党届を出しました。たまたま土肥さんが国会内民主党幹事長室に離党届を出す場面に私も居合わせましたが、入閣経験がない当選7回生なのに、淡々としていたのが印象的でした。そして一晩あけて東日本大震災が起きました。
土肥さんは、1939年、父親が勤めていた(旧)朝鮮総督府があった日本領京城(現在の大韓民国ソウル)生まれ。ちなみに、きょうの岡田副総理会見の中で、私は「日本領ピョンヤンの生まれ」と発言してしまいましたが、正しくは「日本領ケイジョウの生まれ」でした。日本に引き揚げた後、国内キリスト教最大の信者を持つ日本基督教団(プロテスタント系)の牧師を現在まで務めています。政治家としては「十字架委員長」と呼ばれたクリスチャンで、右派社会党の委員長を務めた河上丈太郎の議席をその子息をはさんで引き継いでおり、1990年おたかさん社会党から初当選し、7回連続当選(第44回郵政選挙では比例復活)してきました。
土肥さんは「民主主義の成熟度は政権交代ある政治を国民がいつも保持できることにある」との持論を持っており、河上丈太郎が果たせなかった夢を現代政治に反映しています。(当ブログ内参照エントリー「50数年ぶりに獲得した政権交代という“宝”をドブに捨てるな」と語る土肥隆一さんの肩書きは?)。
民主党では「菅グループ」ともよばれる「国のかたち研究会」の会長をつとめてきた土肥さんですが、複数立候補の代表選では結党以来初めて菅直人候補が立候補しなかった2009年5月の代表選で、同期とともに岡田克也候補を擁立し、選対を務めました。このときの残念会で岡田候補は「きょうここに(小沢一郎氏のしめつけにもかかわらず)お集まりいただいたみなさんには必ずご恩返しをしたい」との「ご恩返し発言」をしており、その8月に結党以来初めて与党になってからは、この残念会メンバーが人事面で優遇されています。一部には「ヘビーローテーション」「メリーゴーラウンド」と言われるほど優遇されています。ただ、衆議院議員の中で、現在まで適齢期でありながら閣僚や政務三役を務めていないのは土肥さん一人になっていますが、10月1日の内閣改造後というタイミングでの会派復帰は、土肥さんが「私なんていいんだよ」と言っているようにも思えます。
[画像]「土肥さんはこの後、午後5時半から記者会見をしますのでそれを待ってください」としながら、親友の離党に悔しさを隠せないようすの岡田克也・民主党幹事長、2011年3月10日(木)午後4時過ぎ=民主党ホームページ内動画からキャプチャ。
土肥さんはホントウに間の悪い人です。1995年1月17日の朝日新聞1面トップは、「新会派「民主」旗揚げ きょう離党届 社党24人参加で分裂状態に」となっており、この記事では、山花貞夫さん、土肥隆一さんら社会党右派(旧政権構想研究会=政構研系)が同日に日本社会党を離党し、新会派を結成するとしています。そして、自社さ政権を支える社会党左派について、「村山富市首相側には、除名処分などによって山花氏らと決定的な対立関係になるのは回避すべきだとの意見も出ているが、村山政権が厳しい状況に追い込まれることは確実だ」との観測を報じています。ところが、この新聞が配られた直後に、神戸直下に阪神・淡路大震災が発生。村山富市首相と小沢潔国土庁長官(自民党)のコンビで、1000人死者が増えたと私は考えていますが、会派結成話も立ち消えになりました。その3年後、第2次民主党の代議士会で山花貞夫さんが一兵卒として、第4控室のイチバン後ろに座っていたことを思い出します。
神戸選出の土肥さんが、東日本大震災の発生の20時間前に、土肥さんが自ら離党を申し出たのは、地味だけどしっかりした21年間の議員生活の積み重ねたことにより、不幸中の幸いということで、疳の虫が働いて、危機管理ができたのかもしれません。
菅直人さんが代表・総理になったときには、枝野幸男幹事長起用の際に、民主党ベテランが不快感を示したとのニュースが流れ、小沢一郎氏の発言かとの憶測を呼びましたが、土肥さんの発言だったというハプニングがありました。菅総理が、グループ会長として長年支えてくれた土肥さんを冷遇した理由は、私はまったく分かりません。しかし、自ら党を離れたことにより、土肥さんはまた新しい活躍の場を得たんだと思います。つくづく政治家は引き際が肝心だと思います。土肥さん、これからもがんばってください。
話は変わりますが、民主党政権において、長年党を支えてきた議員が生まれ故郷に与党議員として凱旋して、国益を損ねかねない行動を取ることが散見されます。そもそも、インターネットによる情報化、新興国の発展によるプレーヤーの増加、国際会議によるマルチ・ラテラル外交の比重が増えている中、議員外交は限界を迎えつつあります。また、議員外交にともなう不透明なお金の流れも国益を損ねる可能性があります。人と人とのつながりを持つことは、紛争を未然に防止する草の根になりますが、やはり与党国会議員として、外国を訪問すると、おもてなしに酔ってしまう面があるようです。
自由党で小沢一郎氏の下、自由党副党首を務め、現在は民主党衆議院議員である、中井洽さんが生まれ故郷の満州国新京(現在の中華人民共和国吉林省長春)に元拉致問題担当大臣として、北朝鮮政府関係者と複数回会ったと報じられています。これについて、土肥さんとの関連で質問を受けた岡田副総理は「政治家ならずとも自分の生まれたところに行ってみたいというのは、気持ちとしては分かります。それ以上については、中井先生に関して、いろいろな事実関係を含めて私も詳細を承知しておりませんので、私もコメントすることは控えたいと思います」と述べるにとどまりました。
[引用おわり]
[当ブログ内から引用はじめ]
[写真]土肥隆一さん
「民主党・無所属クラブ」所属の衆院議員で、衆議院政治倫理審査会(政倫審)会長の土肥隆一さんが、12月9日付でメルマガ68号を発信しました。
土肥さんは「第176回臨時国会がようやく終了した。うんざりと言った気分である。補正予算は衆議院優位により成立はしたが野党の、参議院の問責決議の連発と個人攻撃に終始した」と本音をのぞかせました。
そして、良識の府「参議院」での野党の問責決議連発に対して、「政府の瓦解を狙っているのだろうが、それよりももっと大事な政治的損失」があると指摘しました。私もその通りだと思います。
そのうえで、「昨年の8月総選挙において50数年ぶりに獲得した”政権交代という宝”をドブに捨てる」野党の行為は許されないとして、
「民主主義の成熟度は、政権交代可能な政治状況を国民がいつも保持するところにある」として、政権交代ある政治を守り抜く覚悟を示しました。そして、
「皆さんはその政権交代の政治的変革の実をまだ味わっておられない」と達観した見方を示しながら、「もう少し時間をいただきたい」と“最後のお願い”でメルマガを締めくくりました。
土肥隆一さんは1990年第39回衆院選初当選のいわゆる「岡田世代」。土肥さんは日本基督教団(にほんキリストきょうだん)の牧師さんです。カトリックは「神父」、プロテスタントは「牧師」ですから、土肥さんはプロテスタント系の教会の牧師さんということになります。政権交代をかけた第45回衆院選の兵庫3区では対抗馬の小泉チルドレンのタマが比較的いいとされていたことと、土肥さんが当時70歳ということで、選対に懸念があったようですが、日常活動の活発さで得票率50・0%で勝ち抜きました。目標とする人物はマーティン・ルーサー・キング牧師。
与党になったということで、このブログも時々「幹事長経験者によると~~」という書き方がどうしても増えてしまっていますが、土肥さんも「幹事長経験者」。1998年4月に民主党の合流した4党派の一つである「民主改革連合(民改連)」で、連合の支持を受ける無所属的立場の議員たちと行動しており、幹事長を務めました。そして、政権交代可能な政治のために、民主党結党大会に参加したのです。代表だった参議院の笹野貞子(ささの・ていこ)さんは民主党初代副代表(4人)の一人となりました。笹野参議院議員の跡は福山哲郎官房副長官が継いでいます。議席数に関係なく、幹事長を務めたという経験はすごいと思います。また政権交代すれば、野党として一丸となるので、「幹事長経験者によると~~」というブログの書き方はしなくていいと思いますが、僕もそんなところで、与党としての政権としての重荷を背負うことの大変さを、応援団ながら感じるところです。
土肥さんは福祉の専門家で、当選前から施設の設立・経営の経験があるんだと思います。衆院でも、厚労畑が長く、健康保険法改正案の長時間審議で伝説となった、1998年第140回通常国会の厚生委員会にも所属しました。このときのメンバーは、与党側が小泉純一郎厚相、町村信孝委員長、津島雄二筆頭理事で、野党側が岡田克也筆頭理事、山本孝史次席理事、委員に中野寛成さん、枝野幸男さん、坂口力さん、そして土肥さんという宝石箱のようなメンバーでした。
第39回衆院選はベルリンの壁崩壊直後ということで、社会党が方針転換を迫られ、弁護士の細川律夫さん、仙谷由人さん、筒井信隆さん、議員秘書の松本龍さん、農協の鉢呂吉雄さんら民主党・無所属クラブのエース格が出ています。広島市長に転出した秋葉忠利さん、参議院に転出した岡崎トミ子さんも岡田世代です。おたかさん(土井たか子)ブームの社会党に危機感をいだいた対する自民党も、岡田克也さん、河村建夫さん、石原伸晃さんのほか、参議院に転出した増子輝彦さんら、久しぶりに非世襲議員が大量に初当選しました。松本さんは祖父(と父)が著名な参議院議員、河村さんは県議としては世襲、石原さんは別選挙区で父が衆院議員でした。
輿石東さん率いる参議院のようなすばらしい良識の府と違って、衆議院は政局の院です。政局の院は世論に敏感で、ダイナミックに時代を前に進めなければいけません。土肥牧師も政局にはかかわっていて、長年「国のかたち研究会」の会長をしています。新聞では、菅グループと表記されている政治団体(総務省届出済み)のことです。なぜ国研会長の土肥さんが菅総理から、官邸入りや政務三役入りを命じられないのよく分かりませんが、政倫審会長として、「われわれは懸命に国民の期待に答えようと励んでいるのである」(メルマガ)との決意表明をぜひ実践してほしいものです。
政権交代ある政治を阻害する者。それは過去に、3桁の議席を持った野党第1党を一方的に解党したり、選挙による有権者の選択に基づかない保保連合に走ったり、有権者のチェックが行き届かない12月に政局を仕掛ける師走政局男の存在です。すなわち小沢一郎さんです。
土肥さんは、昨年、「岡田さんを支える“95の会”をつくりたい」と呼びかけましたが、岡田さんはやさしく「ノー」と言いました。政権交代ある政治における与党内権力システムを見通すところまでは、なかなか難しいかもしれませんが、政権交代ある政治をめざす志は菅、土肥、岡田の3人は共有しています。
民主党・無所属クラブが昨夏の信頼感を取り戻せるように、土肥さん、国難ですから、泰然自若として、どっしりと構えてください。頼んます。
[土肥隆一さんのメールマガジンから全文引用はじめ]
どい隆一メールマガジン 68号 2010/12/09
国民の皆さんの期待に応えるために
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第176回臨時国会がようやく終了した。
うんざりと言った気分である。補正予算は衆議院優位により成立はしたが。
野党の、参議院の問責決議の連発と個人攻撃に終始した。
今年の夏の参議院選挙で与野党が逆転しいわゆる「ねじれ国会」となった。
我々はたとえ参議院で不利であっても、国会は議論の場であり、できる限り誠意をつくせば、
修正協議も含めて結果は自ずから落ち着くものと考えてきた。
完全に膠着してきたのは「尖閣諸島」事件がきっかけとなった。
首相は海外におり、仙谷官房長官が事件処理に当った。その処理は必ずしも上出来とはいえないが、
日本が議長国であるAPEC開催を直前にして早期に解決しようと考え、海保が撮ったビデオを非公開にしたのに、海保の中では、生の映像は全部(?)流れ出るという始末であった。
そこで国家の、つまり政府の「危機管理」が問われ、そのやり取りの中で、仙谷氏の発言や態度が問題となり、
仙谷氏の出席する会議には一切出席しないということで、
12月3日の国会締めくくり本会議にも欠席し、仙谷氏が大臣席を降りてから、ぞろぞろと議事場に入ってくるという
まことに陳腐な風景が見られたのである。
仙谷氏に個人的に問題があるのではない。私も長い付き合いのある彼の人物を高く評価している。
大変優れた政治家でもある。識見、能力において民主党の中でも卓越した人物である。
そのユニークさ、個性の故にその発言が野党を刺激した。実は「この男には敵わない」と感じたのではないか。
官房長官はよく総理の女房役というが、稀に見る官房長官像と言えようが、やや出過ぎた女房とでもいうか、出過ぎたことは否めない。
しかし個性の範囲であり、彼を更迭する理由はどこにもないと思う。
野党は、法務大臣、国土交通大臣と問責決議(参議院だけの辞職要求)を立て続けに出し、
それは政府の瓦解を狙っているのだろうが、それよりももっと大事な政治的損失を失わせるものと考えている。
つまり昨年の8月総選挙において50数年ぶりに獲得した政権交代という「宝」をドブに捨てるものと考えるからだ。
民主主義の成熟度は、政権交代可能な政治状況を国民がいつも保持するところにある。
政権交代から1年半。皆さんはその政権交代の政治的変革の実をまだ味わっておられないと思う。
もう少し時間をいただきたい。われわれは懸命に国民の期待に答えようと励んでいるのである。
土 肥 隆 一
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どい隆一HP:http://www.d-wa.co.jp/doi
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[土肥隆一さんのメールマガジンから全文引用終わり]
[当ブログ内から引用おわり]
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