時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

幸福はすべてが幸いとはいえない

2010年04月05日 | 書棚の片隅から

 

 不合理で、煩わしいことも多い世の中を過ごしてくると、いつの間にか身についてしまった心の凝りのようなものを、解きほぐしたいような気になる。そうした折にしばし手にしてきた一冊がある。オスカー・ワイルド『幸福な王子』という小編だ。最初に出会ったのは10代半ばだったが、その文体に魅せられて何度も読み、かなり覚えてしまったほどだった。実はこうした肩こり解消?トランキライザーのような役割をしてくれるものは、他にもいくつかあるのだが、今日はこれにしよう。

 最初手にしたのは、英語と日本語の対訳版だった。出版事情も今のように良くなかったこともあって、紙質も装丁も貧しく、ページが散逸してしまった。ふとしたことで最近新版が刊行されたことを知って、早速手に入れた。Penguin Books Puffin Classicsというシリーズに入っている。この短編、ともすれば子供向けの童話として考えられ、実際児童書のコーナーに置かれていることも多い。ちなみにある大書店でオスカー・ワイルドのコーナーを見たが、『ドリアン・グレイの肖像』『ウインダミア夫人の扇』『獄中記』など他の作品はかなり揃っていたが、「王子さま」はみつからなかった。

 実は『幸福な王子』(および他の関連童話作品)は、大人が読むべき作品と思っている。オスカー・ワイルドは18世紀後半のヨーロッパで時代を代表するセレブリティであり、毀誉褒貶ただならぬ文人だった。生前は悪名の方が高かったかもしれない。しかし、ワイルドが書いたこの小品は、どれをとっても見事なきらめきと深みを持っている。この短編集には『幸福な王子』を含めて9編が収められているが、いずれも珠玉のような作品だ。そこには、愛、裏切り、利己心、純粋さ、犠牲、悪、美しさ、どう猛、残忍、真理、などこの世を組み立てる道具立てはすべて揃っている。ひとつひとつの話の底になにがあるかを考えながら読むのは楽しい。ごひいきの作品『幸福な王子』にも多くのことが含まれている。久しぶりに読み直す。少し最初の部分をご紹介しよう(管理人仮訳)

 幸福な王子

 市を見下ろす丘に建つ高い円柱に、幸福な王子の像が立っていた。王子は全身を純金の箔で覆われ、両目には明るいサファイアがはめ込まれていた。身につけた刀の柄には大きな赤いルビーが輝いていた。

 王子は誰からも賞賛されていた。「王子さまは風見鶏のように美しい」。美術眼があるとみられたい市会議員のひとりが言った。「あまり役に立たないけれども」と、彼は付け加えた。人が彼は実務的でないと思うのを恐れていた。実際、彼は役に立たなかったのだが。

 「どうしておまえは王子さまのようになれないの」と、お月さまが欲しいようと泣く小さな子供に、しっかりした母親は諭し、「王子さまはなにかを欲しがって泣いたりしないのよ」と言った。

 「世の中に本当に幸せなひとがいるとは素晴らしい」とすっかり絶望した男は、見事な像を眺めながらつぶやいた。

 「王子さまは天使のようだね」。深紅の上着に清潔な白い上っ張りをつけ、寺院から出てきた慈善孤児院の子供たちは口々に言った。

(中略)

 そしてある朝、市長と助役はくだんの丘の下を歩いていた。円柱の下を通った時、王子の像を見上げた。そして「おやまあ、なんと王子さまはみすぼらしくみえるのだろう」と市長は言った。「たしかにみすぼらしい!」といつも市長に同調する助役も声を上げ、王子の像を見に丘を登っていった。

 「ルビーは刀の柄から無くなっているし、王子さまの目もとれてしまっている。それにもう黄金の王子ではないぞ」と市長は言った。「これでは乞食と変わらない!」

 「乞食と変わりません!」助役も唱和した。

 「足もとには死んだ鳥が落ちている」、市長は続けて「ここで鳥は死んではいけないと布告を出さないといけないな。」そして、市の書記はその言葉を書きとめた。

 そして彼らは幸福な王子の像を円柱から下ろした。「王子はもう美しくないから、役に立たない」と大学の美術の教授は言った。

 彼らは王子の像を炉で溶かした。そして、溶かした金属でなにを作るかを決めるため議会を開いた。「別の銅像を作らねば」と市長は言い「それは当然私の像だ」と続けた。

 「いや私のだ!」と議員たちは口々に言いつのった。後で議会室をのぞいたら彼らはまだ言い争っていた。

 (話はもう少し続くのだが、読者のお楽しみに)

    
~~~~~~~~~~~~~~~~~

 この話、人間の心を持っていた銅像の王子と一羽のつばめの物語なのだが、読むたびに印象が少しずつ異なってくる不思議な作品である。子供の時に最初に読んだ時は、ストーリーの美しさには魅せられたが、作品が持つ深い意味、とりわけ細部の含意にほとんど気づかなかった。王子の眼下に広がる心貧しく、荒んだ光景、王子に殉じた一羽のつばめの過ごした時・・・・・・。王子とつばめの幸せとは。考えてみると、オスカー・ワイルドは、多数の鋭い金言を残していることでも知られる文人だった。いくつか思い浮かぶ。

仕事とは、ほかになすべきことのない人の逃げ場である。


[削除 2010/04/11: 修正2010/04/15]
人間は不可能なことを信じることができるが、ありそうももないことを決して信じることはできない。

経験とは誰もが自分がおかした失敗につける名前だ。

 

                   
Oscar Wild. The Happy Prince and Other Stories. London: Puffin Edition, 2009.
 原作は1888年。(邦文は仮訳)

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残照:誰にも来る時

2009年12月18日 | 書棚の片隅から

 行きつけのある書店をうろついている時に偶然目にとまった。フランス文学の棚だった。『パリのおばあさんの物語』と題する40ページほどの小さな絵本だ。立派な想定の分厚い本の間に埋もれ、背表紙も数ミリ?程度、ほとんど見過ごしてしまうくらい小さな本だ。かわいそうな本と、思わず手にとって見ると、女優岸恵子さんの翻訳によるものだった。その後知ったところでは、静かな話題となっているらしい。

 パリのアパルトマンに住むひとりのユダヤ人おばあさんの話だ。80歳くらいだろうか。長年の苦労も重なって、心身ともにすっかり衰えている。買い物でもお金の計算はすぐにはできない。家の鍵も良く忘れる。自分の誕生日も忘れることがある。ハンサムでやさしかった夫はすでに世を去っている。息子もいるけれど時々電話をしてくるくらいだ。

 フランスへ初めて来たころ、言葉もよく話せず、つらい思いをしたことの追憶。第二次大戦中のユダヤ人狩りも経験している。夫はナチスによって捕らえられ、収容所へ送られてもいる。決して楽な人生ではなかった。それどころか、これほど苦難に充ちた人生はそうないのではないか。おばあさんは、いまその最後の道を歩いている。明日のことだけを考えて。

 いつの頃からか 周囲に高齢の人たちが増えたことに気づいていた。自分もいずれそうなることは知ってはいるが、まだ大丈夫かと思ったりしていた(笑)。しかし、確実に、そして誰にでも平等にその日はやってくる・・・・・・・・。人生の時間は有限なのだ!

 (ここで天の声?あり、「ブログなんてやめてしまえ」。そのとおりです・・・・・・・)

 この本を手にしてから数日後、夜更かしのつれづれに見たTVで、『残照 フランス・芸術家の家』なる映画に出会う。これも偶然の出会いだった。登場人物の平均年齢は80歳以上、俳優、画家、写真家、音楽家、作家など、それぞれに才能に恵まれ、栄光の日々を持った人々が、人生の最後の時間を過ごす家だ。ひとりひとりが強い個性をとどめている。

 パリ郊外に実際にこうした家があるそうだ。貴族の家を改装した立派なアパルトマンだ。画家のためにはアトリエもあり、ピアノのある立派なサロンもある。しかし、見舞いに来る家族や友人も少なくなって行く。時々、居住者であり、かつて令名をはせた女性ピアニストによるリサイタルも開かれる。入居者は楽しみにしているようだ。ピアニストの指は彼女の意思とは別にとても動かない。若いころは暗譜でひいていたのに。それでも、懸命な努力がしばし空間を充たす。そして、時は確実に過ぎて行く・・・・・・・・




* スージー・モルゲンステルス&セルジュ・ブロック(岸恵子訳)『パリのおばあさんの物語』(千倉書房、2008年)
‘UNE VIEILLE HISTOIRE’ texte par Susie MORGENSTEARN et illustré par Serge BLOCH

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もうひとつの「1688年」

2009年12月13日 | 書棚の片隅から



 先日のブログでジョン・ウイルズ『1688年:バロックの世界史像』について触れたが、実はもう一冊『1688年』がある。17世紀、そして1688年という年が歴史上いかに画期的な意味を持つものであったかを語っている。イエール大学の歴史家スティーブ・ピンカスの手になる後者の『1688年』は、イギリスの著名なジャーナル The Economist の執筆者たちが選んだ歴史部門「今年の一冊」Books of the Year になった。 今年は村上春樹の『1Q84』など年号が表題の本が話題に?

 ウイルズの著作は1688年近傍に起きた世界史的出来事をグローバルな次元で展望したものだが、ピンカスの著作は、1688年に起きたイギリスの「名誉革命」Glorious Revolution に焦点を当てている。この出来事については、ウイルズも当然ながら取り上げている。

 改めて説明するまでもない歴史的出来事だが、1789年のフランス革命などと比較してその世界史的意味は必ずしも正当に理解されてこなかったところがあるようだ。とりわけ日本の世界史教育は駆け足で時間軸上を走ってしまうので、深く考えることをあきらめさせ、興味を失わせてしまうことになりがちだ。歴史の真の面白さは「ゆっくりしか歩けない?年代」にならないと、分からないところがあるようだ。

 この年、カトリック復興をはかったイギリス王ジェームズ二世の専断に憤慨した議会の指導者たちが、新教徒プロテスタントの王女メアリーと夫であるオランダのオレンジ公ウイレムに助けを求めた。ジェームズ二世はトーリー党の国王寄りの感情を高く評価し、トーリー党員のほとんどが信奉している英国国教会を、ローマ・カトリック教会とあまり異なることがない、儀式張った権威主義的構造であると見なし、彼らの国教会主義と激しい反カトリック主義が共存・両立していることを理解できずにいた。

 こうした中で、もしジェームズ二世が王位を継承する息子がいないままに世を去れば、王位は娘であるオラニエ公ウイレムの妻メアリーが王位を継承することになっていた。当時ヨーロッパにおけるフランスの勢力に対抗するウイレムの戦略は、宗教上プロテスタントの反カトリック主義が支えることが多かった。オランダは、ホイッグ党急進派やユグノーの避難する所になっていた。 王や貴族たちがいとも簡単に処刑される時代であったから、事態の推移は当事者にとってきわめて緊張したものであった。結末にいたるまでの経緯も複雑であった。 結果として、翌1689年、メアリー二世およびウイリアム三世として王位についた。

 当初ホイッグ党急進派はウイリアムを国王と宣言するつもりだった。しかし、多くの人は単に選ばれた君主という考えにがまんできず、相続権もあるメアリーが王位につくことを望んだ。そのため王位はウイリアムとメアリーに授けられた。かくして、イングランドでは王位は選ばれるものとなり、君主制は崩壊した。

 そして「権利章典」Bill of Rightsが制定され、立憲政治の基礎が確立された。国王大権とされたものに数々の制約が加えられ、「古来の権利や特権」が包括的に改めて確認された。ジェームズ二世はアイルランドに逃亡し、とりたてて大きな混乱も流血の事態も起こらなかった。しかし、そのもたらした衝撃は深く大きかった。アイルランドにとっては将来を定める出来事となった。この名誉革命は、1789年のフランス革命、そして1917年のロシア革命と並んで世界史を画したものと評価され、世界史で最初の近代的革命としての位置づけが試みられている。

 ピンカスの新著は、単に1688年近辺の歴史的出来事を記述したものではない。現代とのつながりと含意の探索をさまざまに試みている。
とりわけ近代西欧リベラル国家の成立にかかわる興味深い歴史書となっている。イギリスがジェームズ二世を王座から放逐することになったこの革命が、その後の外交、軍事、経済、宗教などにいかなる変化をもたらすことになったが興味深く解明されている。17世紀の面白さを一段と深めてくれる一冊だ。

Britons Never Will be Slaves. Revolution Jubile, Nov. IV 1788.
「イギリス人は決して奴隷にならない」 名誉革命記念貨幣に刻まれた文字


Steve Pincus. 1688: The First Modern Revolution, Yale University Press, 2009, pp.664,

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1688年の世界

2009年12月03日 | 書棚の片隅から

 瞬く間に時が過ぎ、また年末が近づいてきた。例の如く、仕事場に積み重なった書籍や書類の整理を試みる。といって、とりたてて身辺の風景が変わるわけでもない。一種の気休めにすぎない。しかし、以前にも記したことがあるが、少しばかり楽しみでもある。これまでの人生で、読みたいと思った本に出会った時は、できるだけ即座に入手するようにしてきた。そのため、ほとんど供給が需要?を上回っている状態が続いてきた。読書が主たる楽しみ、娯楽であった時代から続く職業病?だが、いまさら改めるつもりもない。

 いつの間にか書棚から流れ出て、床に山積みになっている書籍の中から、忘却の底深く沈んでしまったものを再発見することがある。いつか暇が出来たらと思っていたタイトルが見つかることが多い。今回もいくつか「掘り出し物」があった。

  そのひとつジョン・E・ウイルズ『1688: バロックの世界史像』という一冊を手にする。今から遠くさかのぼる1688年という年に、世界ではなにが起きていたか。いわば同時展開の歴史ドラマである。舞台は5大陸の各地にわたっている。17世紀という時代に格別な関心を持っていたので、いつか読もうと思って発行された年に入手はしていた。描かれているひとつひとつの出来事は、掘り下げ方が浅い感じは否めないが、こうしたアプローチでは仕方がない。直ちに引き込まれて読みふける。

 ひとつの興味深い出来事が記されている。第6章「島の世界」で取り上げられている実際にあった話である。「島の世界」とは、当時のオランダ東インド会社のアジアでの拠点であったジャワ、現在のインドネシアのことである。登場するのはコルネリア・ファン・ネイエンローデ Cornelia van Nijenroodeという名の58歳の女性である。彼女は、1630年に日本の平戸でオランダ人商人と芸者であった日本人女性との間に生まれた。そして、今、1688年に、生まれて初めてオランダを訪れている。目的は、東インド会社の上級社員であった最初の夫で亡くなったピーテル・クノルから相続した財産をすべて持ち去ろうとしている第二の夫ヨハン・ビターの企みに対して訴訟を起こすためだ。バタヴィアの上流社会に起きた事件の一齣である。当時は東インド会社でも、かなりの噂になったらしい。

 実はこの事件、その詳細は以前に読んだ別の本**ですでに知っていた。主人公の女性コルネリアは、幼い頃から「おてんば」(懐かしい響き!)として知られていた。最初の結婚は夫の事業も成功し、膨大な遺産を継承した。残念ながら夫の死後、彼女が再婚の相手に選んだオランダ人の売れない弁護士は、彼女より9歳年下ながら性格も良くなく、相性が悪かったらしい。彼女は前夫から相続した膨大な遺産を奪われそうになる。

 強欲で法律的手管にたけた夫との間に起きた相続事件は、その後15年近くを要する複雑な展開となる。オランダ高等裁判所は最終的に1691年7月にようやく判決を下し、コルネリアに夫と平和に暮らすように命じ、彼女の財産から得られる収入の半分の権利を夫に認める。8月の休廷の後でさらに審議が行われるはずであったが実現せず、コルネリアはその年に世を去ったらしい。他方、ビターはオランダで裕福に暮らし、1714年に死んだ。 

 1688年というと、このブログがしばしば取り上げているフランスやネーデルラントの画家たちが活動した時代にほど近い。ラ・トゥールの息子エティエンヌの晩年に当たる。そして、あのレンブラントの娘夫妻がバタヴィアへ移住した頃だ。交通。通信手段が発達した現代と比較すると、なににつけても不便な時代であった。コルネリアは律儀にも長年にわたり、バタヴィアから平戸にいた母親の親戚に定期的に手紙を書いていた。無事配達されるまでにはどれだけの時間がかかったのだろうか。

 17世紀は、経済のグローバル化がようやく進み出した世界で、人々がお互いの存在を手探りで確かめているような時代だった。厳しい環境風土のなかで、くじけることなく各地で展開されていた人生の営みに感動する。このウイルズの時間軸と地域の広がりの両軸を基準とする見方は、実は美術史などでも最近試みられているのだが、今日はこれでおしまいに。

 
 ジョン・E. ウイルズ、Jr.1688バロックの世界史像』別宮貞徳監訳、原書房、2004John E. Wills, Jr. 1688 A Global History, W.W. Norton

** Leonard Blusse (Diane Webb, Translator), Bitter Bonds: A Colonial Divorce Drama of the 17th Century,

白石広子『バタヴィアの貴婦人』新典社、2008
 本書には江戸時代、バテレン追放令で国外へ追われた人々が、異郷ジャカルタで過ごした人生のいくつかが描かれている。コルネリアについても、記されている

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世界を変えた印刷の力

2009年11月19日 | 書棚の片隅から

インタリオ印刷の工房風景


 最近の「キンドル」などの電子書籍出版の成果を見ていると、ディジタル・インクといわれる文字の技術もさることながら、人物像などの図版の美しさに感心する。人類の歴史において、印刷が果たしてきた役割を改めて考える。

 ジャック・ベランジェジャック・カロなど、17世紀前半のロレーヌで活躍した銅販画家の作品を見ていると、銅版画の精緻さもさることながら、図版と印刷文字の結合の美しさに魅惑され、その技法を知りたくなる。今日、PC上などで文章の間に図版を挿入するのは至極容易だが、木版や銅版の時代はきわめて高度な技術を要した。

 この当時、高い技術を要する印刷は、その多くがヴェネティア、パリ、リヨン、アントワープ(アントウェルペン)などの都市で行われたことに思いいたる。そういえば、あのガリレオ・ガリレイの『新科学対話』も、新教国となったオランダで1638年頃に印刷された。今も学術出版の分野で著名な「エルゼビア社」Elsevir として、その名が残るライデンの「ハウス・オブ・エルゼヴィル」(1569-76年)が引き受けたようだ。2005年には、エルゼビア社の425周年記念祝典が行われた(この出版社の書籍には素晴らしいものが多いが、価格も高い(涙))。

 いうまでもなく、活字印刷の創始者として、ヨハン・グーテンベルグの名はよく知られており、世界史に残る偉大な業績だ。印刷技術・文化の歴史で、それに続く重みが感じられるのが、アントワープ(アントウェルペン)の印刷・出版業者クリストファー・プランタン Christopher Plantin が残した功績とされている。プランタンはその高度な印刷技術と旺盛な出版事業によって、印刷事業の発展に大きく寄与した。しかし、プランタンのことは、日本ではあまり知られていない。

 アントワープのプランタン・プレスは、最盛期の1575年頃は印刷機20台、80人近い職人を雇い、ヨーロッパ中で多数の書籍を印刷、販売していた。当時のヨーロッパでも、印刷業者としては瞠目すべき大規模な事業者だった。

 フランス人だったプランタンChristopher Plantinは、この地に1550年に住み着いた。しかし、最初志した製本と革職人の道を不慮の迫害による負傷であきらめ、1555年頃から印刷業に転じたらしい。実は、この人物の生涯をみると、当時のネーデルラント独立運動ともからんで、波乱万丈、大変興味深い。アントワープという当時、繁栄の極致にあった旧教都市を活動拠点とし、宗主国であったスペインやローマ教皇庁などを主たる活動の場にしていた。プランタンはカトリックを信じていたと思われるが、活動のある時期は熱心なカルヴァン派の人物に支援されていたことなどもあって、その心の内は複雑であったのかもしれない。

 プランタンは印刷、出版者にとどまらず、印刷物や地図の販売業者でもあった。彼はアントワープという地の利点を十二分に活用した。銅版画、木版画をインタリオIntaglioといわれる新たな凹版印刷の技法、ブロック版を活用して、本文中に挿絵として使用した。プランタンは、すでに1560年代にインタリオ印刷の斬新な使途に目途をつけていたが、実際に大規模に活用したのは1570年になってからだった。こうした新しい方式を印刷に利用しようとする試みはそれ以前にもあったようだが、余り注目されなかったようだ。

 出版の世界でもプランタンは多くの斬新な試みを行い、たとえば「多言語対訳聖書」poliglot bible といわれる当時としては画期的な印刷物を創り出した。彼の生涯に制作された書籍は1,887点に達したといわれる。特に1563年のトレント公会議中止以降、標準的なカトリックのテキストの売れ行きは良く、プランタンの新しい技術を使うことを可能にした。特にアントワープを支配していた旧教国スペインの市場が大きく貢献した。

 その成果やその後の印刷にかかわる膨大な資料を、アントワープのプランタン・モレトゥス印刷博物館Plantin-Moretus Museumが所蔵している。博物館で最初に世界文化遺産に認められた。最近、印刷史の研究者Karen L. Bowen and Dirk Inhofは、広い範囲にプランタン工房の印刷物の利用が拡大していった過程を精緻に検討し、その成果を新著とした。著者の一人インホフはこの博物館の稀覯本と史料部門のキュレーターである。

 
16世紀後半から17世紀にかけての時代が、世界史的にもきわめて注目すべき時期であったことに改めて気づかされた。印刷が世界を大きく変えた時だ。現在進行している電子出版も、後世から見ると、間違いなく大きな転換期を画した発明として記憶されるだろう。

 Karen L. Bowen and Dirk Inhof. Christopher Plantin and Engraved Book Illustrations in Sxteenth Century Europe. Cambridge University Press, 2008.458pp. 

●なお、邦文による下記論文は、プランタン工房とプランタン・モレトゥス博物館の訪問記を含む適切な紹介である。
芝木儀夫「アントワープのプランタン~16世紀のネーデルランドと印刷工房の歴史~」『精華女子短大紀要』47-54、2007-2008年

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魔術の世界:『夜のガスパール』から

2009年11月09日 | 書棚の片隅から

Jacques Callot. Scapino and Zerbino

 

 詩を読む機会は、最近まであまりなかった。若い時は比較的よく読んでいたのだが、その後人生の雑事に追われ、詩文の世界とは遠く離れた日々を過ごしてきた。

 ベルトラン(1807-41)の散文詩は、部分的に目を通したことはあった。しかし、韻文詩とは違った斬新さには魅力を感じたが、それ以上に多くを出なかった。最近、ふと手にして目を見張った。以前はなにを読んでいたのだろうか。まったく別の印象であった。ほとんど記憶の底にも残らなかった詩文が、なぜ急に身近なものとなって迫ってきたのだろう。日々感動が薄れ、失われて行く記憶を嘆いていたが、生き残っていた脳細胞もあったのだ。

 ベルトランは、韻文と散文の境界に細心な注意を払い、あまりに短かった人生の最後まで未完と思う作品は惜しげもなく削除することを常に考えていたようだ。鋭く、感性に溢れた詩人だった。内容は深く、今読んでみても、作品をどれだけ理解しているのかまったく分からない。

 ただ、この鋭利な感性を持った詩人が、悪魔、魔術という中世的世界に深く惹かれていたことに驚かされた。19世紀の詩人の世界を、これほどまでに魔術が占めていたことに驚かされた。魔女、魔宴にかかわる部分から、いくつか引用してみよう。


序 
 芸術は常に対照的な二つの面を持っている。言ってみれば、片面はポール・レンブラント*2の、もう片面はジャック・カローの風貌を伝える、一枚のメダルのようなものである。―――レンブラントは白髯の哲学者、寓居にかたつむりの如く隠遁し、瞑想と祈りに心を奪われ、目を閉じて思念に耽り、美、学問、叡智、愛の精霊と語り合い、自然の神秘的な象徴の中に分け入って、生命を使い尽くしているのである。―――一方カローはほら吹きであけっぴろげな傭われ兵、町の広場を気取って歩き、酒場で騒ぎ、ジプシー女を片手に抱いて、自分の剣と喇叭銃しか信用せず、ただ一つの気掛かりといえば口髯に油を塗り込むことだけの男である。

*2 レンブラント・ファン・レインのことと思われる。

 

9. 魔宴(サバト)への出発 

彼女は夜半に目覚め、蝋燭を灯し、箱を手にして身体に秘油を塗り、二言三言の呪いで魔宴に運ばれて行った。
ジャン・ボダン『魔女狂研究』
 

そこに集まった十人ばかり、棺桶を囲んでスープを啜っていた、手にするスプーンは死者の前腕骨。  

暖炉は燠(おき)で赤々と燃え、蝋燭が煙の中に茸の如く林立し、皿から春の墓穴の臭いが立ち昇っていた。  

マリバスが笑ったり泣いたりする時には、顎の外れたヴァイオリンの三弦の上で、弓が愚痴るように聞こえた。  

その時年老いた兵隊あがりが、獣脂の燃える光の中で、机の上にさながら悪魔のように一冊の魔法書を開くと、一匹の蠅が羽根を焼いて落ちて来た。

ぶんぶん唸っている蠅の毛むくじゃらの巨大な腹からは、一匹の蜘蛛が現れて魔法書の縁をよじ登った。  

だが既に、魔法使いも魔女も、箒に跨り、火鋏みに跨り、そしてマリバスは鍋の柄に跨って、煙突を抜けて飛び去っていた。

 

11. 魔宴の時  

     こんなに遅く、誰が谷を通って行くのか?  H・ド・ラトゥーシュ『魔王』  

 

此所だ! ―――はやくも暑い茂みの中、小枝の下にうずくまる山猫の目の燐光が燦いていた。 

夜霧と蛍とに光る野茨の髪を、絶壁の闇の中に浸す巌の中ほどに、  

松林の頂に白い泡を奔らせ、城館の奥深くには灰色の霧となって沫を降らせる、急流の岸の上に、  

魔物の群が数限りなく集まる。ところが背に薪を負い、小径を登る年老いた木樵(きこり)には、物音は聞こえるが、目には何も見えない。  

そして樫から樫へ、丘から丘へ、気味悪く恐ろし気な幾千もの叫び声が混じり合い、響き合う。―――《フム! フム!―――シュッ! シュッ!―――クークー! クークー! クーク-!》  

さてここには絞首台!―――彼女の霧の中から一人のユダヤ人が現れて、首吊り人の腕を拾い、その金色に輝く魔法の光の中で、しめった草むらに何か物を探している。

 

 アロイジウス・ベルトラン作 及川茂訳『夜のガスパール レンブラント、カロー風の幻想曲』岩波文庫、2009年

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ラトゥール: リュネヴィルの悩み?

2009年09月03日 | 書棚の片隅から

C.Marchal..Histoire de Lunéville.Paris:Res Univers,1989, pp.188.

 
 ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは、1593年現在のフランス北東部、ロレーヌ地方、ヴィック・シュル・セイユに生まれ、1620年27歳の時、妻となったネールの実家のあるリュネヴィルへ移住した。この画家はこの地で1652年、59歳で世を去った。その生涯で1年以上の期間にわたり、住んでいたと思われるのは、生地ヴィックと画家生活のほとんどを過ごしたと思われるリュネヴィルに過ぎない。パリ、ナンシーなどへ行っていることは判明しているが、長い期間、居住していた確たる証拠はない。

 ほぼ二世紀半の長きにわたり、ほとんど忘れられていたこの画家は、今では17世紀フランス美術を代表する巨匠の一人にまでになった。ラ・トゥールの生地ヴィックには画家の名を冠した美術館もあって、この小さな町の最大の観光資源となっている。

 他方、リュネヴィルは画家が工房を置き、その制作活動の本拠とした地であるにもかかわらず、画家の活動を思わせる跡はなにも残っていない。度重なる戦火で、工房や住居あるいはそこに残っていたであろう作品もすべて消滅してしまったのだ。

 今日、リュネヴィル宮殿にある観光案内所を訪れて尋ねると、ラ・トゥールの工房があったらしい?場所や、この画家そして家族が訪れたであろう教会の場所などを熱心に説明してくれるのだが、残念ながらそれを当時のように目のあたりにすることはできない。ラ・トゥールの時代にもあったリュネヴィル城、宮殿は、現在の宮殿のある場所に最初築かれたと思われるが、これもそれらしき跡はほとんど見いだすことができない。この画家とリュネヴィルに関わる話はかなり多数あるのだが、実に残念なことだ。リュネヴィル市としては、大きな観光の目玉となりうるこの画家を売り出す具体的材料がなく、切歯扼腕しているに違いない。

  リュネヴィルにとって、唯一の観光資源は、ミニ・ヴェルサイユと呼ばれる壮大な宮殿だ、これは18世紀初めに、ルイ14世の賛美者だったロレーヌ公レオポルドがヴェルサイユにならって建造営したたものである。レオポルドはナンシーの宮殿を離れ、しばしばリュネヴィルに滞在していた。さらにその後スタニスラス王の好んだ宮殿となり、王も1776年に死去するまでここに滞在することが多かった。盛時にはヴォルテール、モンテスキュー、サン・ランベールなどの文人、芸術家たちもしばしば滞在した。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの時代にも宮殿はあったのだが、今日なにも残っていない。ミニ・ヴェルサイユも壮大で往事の栄華を思わせるが、2003年の大火災で修復途上であり、集客力がない。


 最近、フランスの町村シリーズの一冊として刊行されている Histoire de Lunéville  (『リュネヴィルの歴史』)を手にした。しかし、この画家の名前は、biographie des hommes marquans de Lunéville 「リュネヴィルの重要人名録」に、この地に関連する著名人のひとりとして、わずか数行記載されているだけである。他方、生地ヴィックについては、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの生い立ち、作品について記した、かなり多数の文献が刊行されている。リュネヴィルでは、この時代に市史のたぐいも戦火で焼失しているのだから、やむをえないのかもしれない。

 しかし、少し深読みをすれば、リュネヴィル市民にはこの画家について複雑な感情もあるのかもしれない。
17世紀の戦乱・災禍の時代に、ヴィックでパン屋の息子から身を起こし、妻の実家のあったリュネヴィルでは貴族の妻の家系の縁で貴族となり、ルーヴル宮に部屋を持つフランス王室付きの画家にまでなった。リュネヴィルでは、修道院に並ぶ大地主としてしばしば農民などとの軋轢・怨嗟の的となった。

 とはいってもラ・トゥールは自らの作品以外には、ほとんど人格判断の材料となりうるものを残していない。すべて、断片的に残る公文書などからの後世の類推である。しかし、リュネヴィルには、広大な土地も保有した
強欲な画家というイメージが残っているのだろうか。今日のリュネヴィル市民には、郷土が生んだ大画家に複雑な思いがあるのかもしれない。いずれにせよ、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールという画家の本質を理解するのは、かなりの努力が必要なことだけは間違いない。

 

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ガリレイの生涯(3)

2009年08月10日 | 書棚の片隅から

 ブレヒト『ガリレイの生涯』の舞台は見ることができなかったが、この卓越した劇作家の生き方、作品には強く惹かれてきた。とりわけ、『ガリレイの生涯』については、ブレヒトが自らの作品の制作態度について、詳細に覚え書を残していることもあって、彼がいかなる考えの下に、細部の演出を行ったかが迫真力を伴って伝わってくる。17世紀の歴史的事件を20世紀の激動の過程に身を置きながら、いかに解釈し、戯曲として提示するかというひとりの劇作家が立つ位置を知ることができる。

 劇作家でブレヒトの翻訳者でもある岩淵達治氏によると「ブレヒトの演劇の特徴は「異化効果」といわれる「われわれが無意識にもっている先入観を打ち壊すことから始まる。だが異化とは、そのようにして偏見を取り除かれたものが、もう一度偏見にとらわれない新しい目で、その現象を見直し、自らの判断を下すことを言うのである。」(291)とされる。

 こうした劇作家の意図を、意識して舞台を見たり、脚本を読んだりするかどうかは別として、ブレヒトの作品は多くのことに気づかせてくれる。ブレヒトは古典化したといわれているようだが、今日読んでも十分新鮮だ。

 『ガリレイの生涯』に関わる重要なテーマのひとつは、やはりガリレイの歴史的位置づけだろう。ブレヒトはこの点について、次のごときコメントを残している。やや複雑なニュアンスが込められており、読み手が勝手にパラフレーズしてしまうのは問題かもしれない。そこで、前回に引き続き、ブレヒトの言葉をできるだけそのままに以下に引用してみよう。

ガリレイを賞賛するか、弾劾するか?
 もしも私にむかって、――肯定的な調子で――ガリレイの学説撤回は、若干の「疑義」は残すにせよ、この撤回が彼に科学の研究を継続し、その仕事を後世に引き渡すことを可能にしてくれたという理由によって、理性的な行動だったと描かれていますね、と言った物理学者たちが正しいとすれば、それはこの作品の大きな欠陥ということになる。

現実にガリレイは、天文学と物理学を豊かにした、だが同時にこの両科学から社会的な意味を殆ど奪いとることによって豊かにしたのである。天文学と物理学は、聖書と教会への不信を示すことによって、一時期はすべての進歩陣営のバリケードに立っていたのである。それ以後の数世紀のあいだに、それでも大転換がなしとげられたことは事実である。そして両科学はその転換に一役買っていた。しかしそれは革命ではなくあくまでも転換であり、騒動といってもそれは退化して専門家だけの範囲内の討論に堕してしまった。教会と、それと結びついた全反動勢力は秩序整然たる退去を完了することができ、多少なりとも自分たちの権力を主張することもできた。このふたつの科学のほうはといえば、以後二度と社会において昔日の重要な地位に到達することはできず、民衆とあれほど接近することもできなかった。1947年、211

 ブレヒトは当時のカトリック教会、とりわけローマ教皇庁については、次のように述べている。

教会の描き方
 この戯曲のなかでは、教会は、自由な研究と対立するような場合でさえ、ただ権力当局という役割を果たしているだけである。科学はかつて神学の一部門であったのだから、教会は宗教的な権力当局であり、科学の最終決定機関でもあるのだ。しかし、教会はまた世俗的な権力当局であり、政治の最終決定機関でもあるのだ。この作品が示すのは、権力当局の一時的な勝利であって、教会の一時的な勝利を示すのではない。この作品中のガリレイが決して教会に直接に対決しようとしないのは、史実に即している。対決というような方向をもったガリレイの言葉はひとつもない。ひとつでもそんな言辞があったとしたら、異端審問所のような徹底的な調査期間がそれを暴きださぬはずはなかっただろう。214

 知識なしではひじょうにやっていきにくい時代は、まさに最も切り抜けにくい時代である。知識なしでやっていけるように見える時代には、貧困は極度に達している。もう計算できることが何もなくなり、尺度というものまで焼失してしまっている。手近な目的が遠くにある目的を覆い隠してしまう。手近な目的が遠くにある目的を覆い隠してしまう。こういうときは目先の幸福が決定を下してしまうのだ。1947年、222

[個々の場面についてのメモから]

[狡智と犯罪]
 この戯曲の初稿の最終場は今と違っていた。ガリレイは全く秘密裡に『新科学対話』を書き上げていた。彼は愛弟子アンドレアの来訪を契機に、この本を国境を越えて外国に密輸させた。彼の学説撤回が、決定的な書物を完成するチャンスを彼に与えたのだ。彼は賢かったことになっていた。 
 カリフォルニアの稿本では、ガリレイは彼の弟子の賛辞を拒み、彼の撤回は犯罪行為であったこと、どんなに重要な著作によっても、その罪は帳消しにされないこtを証明する。
 もし興味がある人がいたらいっておくが、これが台本作者の下した判決でもある。


 いうまでもないが、ベルトルト・ブレヒト自身のこと。

ベルトルト・ブレヒト作 岩淵達治訳『ガリレオの生涯』岩波文庫、1979年 

 

 

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ガリレイの生涯(2)

2009年08月08日 | 書棚の片隅から

  前回に続き、ベルトルト・ブレヒト「『ガリレイの生涯』の覚え書」から、印象に残るいくつかのフレーズを記してみたい:( )内は執筆年、数字は引用ページ

 朝のイメージも夜のイメージも誤りを招きやすい。幸福な時代というものは、ぐっすりと眠った夜のあとに朝がやってくるというような具合に簡単にはやってこないのだ。(1939年) 208

新時代の粉飾しない実像
アメリカ版への序文
 私が亡命時代の初期にデンマークで戯曲『ガリレイの生涯』を書いていた時、プトレマイオスの世界像を再構成する仕事を手伝ってくれたのは、ニールス・ボーアの助手たちであり、かれらは当時原子を破壊するという問題にとりくんでいた。わたしの意図は何よりもまず。新時代の粉飾しない実像を示すことだった―これは骨の折れる企てであった。208

 われわれが改作の仕事にかかっているまっさいちゅうに、ヒロシマで「原子時代」がデビューした。一夜にして、新しい物理学の創始者であるガリレイの伝記は違った読み方をされるようになった。巨大な原爆の地獄さながらの効果は、ガリレイと彼の時代の権力当局との葛藤にも、新たな、もっと鋭い照射をくわえることになった。われわれは、全体の構成は全く変えずに、ほんのわずかの変更を加えさえすればよかった。すでに原作(初稿)のなかでも、教会は世俗的権力として描かれており、教会のイデオロギーは他のいろいろな権力のイデオロギーと取り換えても、基本的には変わらないものに描いてあった。作品を書き始めたときからガリレイという巨大な人物のキーポイントとして、ガリレイの、民衆と結びついた科学という考え方が利用されていた。 208

 だいたい『学者』デア・ゲレルーデネという言葉には何となく滑稽な感じがつきまとう。何か「調教されたもの」というような受動的な感じがあるのだ。バイエルン地方では、人々がよく「ニュールンベルグの漏斗」ということを話の種にするが、これは一種の脳に注入する浣腸器みたいなもので、頭の弱い人間に、多少とも強制的に大量の知識を流しこむことを言う。知識を注入されても、この連中は賢くはならない。[中略]   

 「学者」は、不能で、血が通わず、つむじ曲がりの人間タイプで、「うぬぼれて」いるが、たいして生活能力のない人間だった。(1946年)

アメリカにおける上演の背景
 
知っておいてもらわなければならないのは、われわれの上演が行われた国、行われた時期が、原爆を製造してそれを軍事的に利用したばかりのところであり、、今や原子物理学が厚い秘密のヴェールに包まれてしまうという状況だったということである。原爆投下の日を合衆国で体験したすべての人にとって、この日は忘れ難い日になるだろう。[中略]

 この台本の作者は、バスの運転手や青果市場の女売子たちが、恐ろしいことだとしか話していないのを耳にした。それは勝利ではあったが、敗北のもつような恥辱をともなっていた。そのあと、軍部と政治家によって、この巨大なエネルギー源のことは極秘にされるようになり、そのことが知識人たちを怒らせた。[後略] (1947年) 210

~続く~

Reference
「渡辺謙アメリカを行く 星条旗の下で生きたヒバクシャたち」NHK 2009年8月7日

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ガリレイの生涯

2009年08月07日 | 書棚の片隅から

 
夏の読書
 
  ベルトルト・ブレヒト『ガリレイの生涯』(岩淵達治訳、岩波文庫、1979年)を再読した。文庫版が出た頃に一度読んだのだが、気にかかる点が多く、もう一度ゆっくり読み直してみたいと思い、書庫の片隅へ別にしておいた。ガリレオ・ガリレイもさることながら、劇作家ブレヒトの生き方にも強く興味を惹かれていた。あの画家キルヒナーの人生遍歴とも重なるところがあった。

 しかし、今回気がついてみると、もう20年の年月が過ぎていた。かなり驚いたことがあった。前回読み切れていなかったのか、以前にも増して次々と新しい発見があった。いくつかは時間の熟成がもたらしたものだった。

 今回再び手にするについては、ひとつのきっかけがあった。
国立西洋美術館・京都市美術館『ルーヴル美術館展―17世紀ヨーロッパ美術』(2009)カタログに収録されているブレーズ・デュコスの『「レンブラントのヨーロッパ」における世界周航、庭園、科学革命』を読んだ時に触発された。特に、ガリレオ・ガリレイについて詳しく記されているわけではない。しかし、17世紀に遠洋航海の時代が生まれるについては、コペルニクス、ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)などの天文学の発達に負うところが大変大きかったのだ。そして、その結果として世界は大きく広がっていった。  

 レンブラント、フェルメールなどの作品と、ガリレオ・ガリレイ(以下、ガリレオと略)の間には、さまざまな意味で興味深い関係が見出される。最近の新しい発見もある。それについて、今は触れない。ただ、17世紀になるまで、すべての知識は哲学の範囲に含まれ、自然、社会、さらに宗教までも哲学の原理の次元で議論されてきた。実際、ガリレオも1610年トスカーナ大公の宮廷哲学者としての地位を得た。 ガリレオは科学の問題について教会の権威やアリストテレス哲学に盲目的に従うことを拒絶し、哲学や宗教から科学を切り離し、「科学の父」と呼ばれることになる。イタリアは当時の先進国だけあって、ガリレオの生涯についてはかなり多くの記録が残っているようだ。

ガリレイの裁判
 ガリレオは地動説を発表した後、軟禁状態での1616年第1回異端審問所審査で、ローマ教皇庁検邪聖省(以前の異端審問所)から、以後、地動説を唱えないよう、注意を受ける。この直後、1616年、ローマ教皇庁はコペルニクスの地動説を禁ずる布告を出し、コペルニクスの『天球の回転について』は一時閲覧禁止の措置がとられた。そして、1633年 第2回異端審問所審査で、ガリレイはローマ教皇庁検邪聖省から有罪の判決を受け、終身刑を言い渡される(直後にトスカーナ大公国ローマ大使館での軟禁に減刑)。  

 ブレヒトの戯曲『ガリレイの生涯』は、ガリレオの人生の後半を巧みに取り上げ、1637年著書『新科学対話』が密かにイタリア国境を越えるプロットで幕を閉じる。『新科学対話』は、ガリレオの原稿が何者かによって持ち出され、プロテスタント教国のオランダで勝手に印刷されたという設定で発行された。知識の流れを国境は阻止できないという考えだ。なんとなくはるか時代を隔てたIT時代の到来を思わせるようなくだりだ。  

ブレヒトの時代
 ガリレオ以上に、ブレヒトについてもかなり関心を持ってきた。残念ながらブレヒト自身の演出『ガリレイの生涯』の舞台は見ることがなかった。しかし、その後、日本で何度か上演されたブレヒト劇はいくつか見る機会があった。

 この岩淵達治氏訳のブレヒトの戯曲台本に加えて、ブレヒト自身が残した詳細な「『ガリレイの生涯』の覚え書」、訳者岩淵達治氏の「訳者あとがき」で、ブレヒトがいかなる時代環境、精神的状況の下で、この作品を制作したか、ほうふつと目に浮かんでくる。 とりわけ、興味を覚えるのは、この作品の制作過程で、ヒロシマへアメリカが原子爆弾を投下している。アメリカ、西海岸へ亡命していたブレヒトは、当然大きな衝撃を受けている。ブレヒトが感じた当時のアメリカ側の原爆の受け取り方がとりわけ注目される。 

 『ガリレイの生涯』は、ブレヒト自身が残した制作過程での詳細な覚え書、そして、演出家岩淵達治氏の透徹した考察が加わって、戯曲の理解を深め、実に
多くのことを考えさせる。ガリレオの時代まで立ち戻れば、最大の問題は科学と宗教との関係であり、とりわけローマ教皇庁の対応が歴史上、大きな注目を集めてきた。

 1965年にローマ教皇パウロ6世がこの裁判に言及したことを発端に、裁判の見直しが始まった。最終的に、1992年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、ガリレオ裁判が誤りであったことを認め、ガリレイに謝罪した。ガリレイの死去から実に350年後のことである。もちろん、この膨大な年月の間に科学の発展が阻止されていたわけではない。しかし、教皇のあり方について、改めて述べるまでもなくさまざまなことを考えさせる。  

 戯曲作家としてのブレヒト自身の生涯も波乱に富んでいた。ブレヒトは1940年、ナチスがデンマーク、スエーデンなどに侵攻したため、ヘルシンキへ逃れ、1941年にはアメリカへ亡命、カリフォルニア州サンタモニカに移住した。しかし、計画したハリウッドへの脚本の売り込みはうまくいかず、戯曲上演の計画も難航し経済的に困窮することになった。しかし、ブレヒトはロンドン、パリ、さらにニューヨークを旅行しながら作品の上演、戯曲制作などを続けてきた。

 戯曲『ガリレイの生涯』をめぐって 30年代初期に書いた戯曲『ガリレイの生涯』の原稿は三度も書き直された。ブレヒトの制作態度は、どれが最終稿というわけではなく、制作がプロセス(過程)としてとらえられている。いずれの段階も、それぞれ固有の意味を内蔵していると考えられている。この間のブレヒトの心の振幅が興味深い。

恐怖のアメリカ
 共産主義者であったブレヒトにとって、当時の米国は決して快適な国ではなかった。1947年10月30日、ブレヒトは非米活動委員会の審問を受ける。ニューヨークで『ガリレオ・ガリレイの生涯』の初公演中であったにもかかわらず、審問の翌日、ブレヒトはパリ経由でチューリヒに逃亡した。西ドイツへ入国が許されなかったためブレヒトはチューリヒに一年間滞在。オーストリア国籍を取得している。1949年東ベルリンに戻り、活動を再開した。  

 ブレヒトにとってナチス
以上に恐怖の場であった当時のアメリカの雰囲気は、特筆に値する。非米活動委員会については、かなり知られているが、とりわけ映画、演劇などのエンターテイメント関係者を目の敵にしていたので、共産主義者と目されたブレヒトにはナチスとは違った恐ろしさが感じられたのだろう。 このブログでもなんどか記したが、当時のアメリカの緊迫した恐怖感を共感・共有できる世代は、きわめて少なくなった。 

 暑さの中での読書にはやや重い読後感を与える作品だが、夜空の星で目を休めながら、17世紀、そして20世紀の大きな時代的転換を考えることは、興味深い。
 
 ブレヒトは自分の芝居の意味を観客に十分考えさせることに大変気を配ったようだ。これはブレヒトの長年にわたる主張だったようだ。この戯曲がアメリカで最初に上演された時の状況については、「覚え書」に次のように記されている。

 上演はベヴァリー・ヒルの小さな芝居小屋で行われた。そして、#1
のなにより心配したのは、ちょうどそのころ酣(たけなわ)だった暑さだった。彼は大氷塊を積んだトラックを劇場に沿って走らせ、そして通風機(ベンチレーター)をまわすように要求した。それは観客が考えることができるためだった#2

*1 俳優チャールズ・ロートンCharles Laughtonのこと、彼の協力でブレヒトが戯曲化。

*2 実際に戯曲作品を読んでみると分かるが、ブレヒトの戯曲には細部にかなり工夫が込められており、それらの含意をくみとるにはかなりの注意が必要だ。

出所:ベルトルト・ブレヒト「ガリレオの生涯」の覚え書。1947年 

 



国立西洋美術館・京都市美術館・日本テレビ放送網・読売テレビ・読売新聞社『ルーヴル美術館展―17世紀ヨーロッパ絵画』(カタログ) 9月27日まで京都市美術館で開催中。

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正しく現実を見る

2009年07月29日 | 書棚の片隅から

 7月28日の全国紙の夕刊そして翌日の朝刊は、2009年度の最低賃金額決定について大略次のように報じていた。

 
2009年度の最低賃金額の改定額の目安が発表された。35県を現状維持とし引き上げを見送り、最低賃金額が生活保護支給額を下回る12都道府県に限って引き上げを打ち出した。その結果、引き上げ幅は全国平均で7~9円と昨年度実績(16円)を下回った。景気後退で産業界の負担に配慮し、賃上げより雇用確保を優先する姿勢を示した。  

 昨年は47都道府県すべてで引き上げを示したが、今回は35県を現状維持とした。昨秋のリーマン・ショック移行の急速な景気後退に配慮した。09年の中小企業の賃金改定率がマイナス0.2%と過去最悪だったほか、失業率も上昇。最低賃金の引き上げの余裕がないと判断した。

出所:「最低賃金上げ、35県見送り」『日本経済新聞』2009年7月28日夕刊
(ここでは、『日経』紙を例にしているが、他の一般紙もほぼ同様な内容の報道である。)

 これを読むと、現在の不況下では、一見やむをえない決定のように読める。しかし、この説明で本当に納得する人は、一体どのくらいおられるのだろうか。新聞は「産業界に配慮、雇用確保を優先」と報じているが、果たしてそういうことになるのか。

 実は、最低賃金の引き上げを実施することが、雇用の減少につながる場合は、他の条件を一定とするというきわめて限られた厳しい前提を設定した特別の場合に限られている。現実の社会ではすべての要因がいわば浮動状態であり、静止していない。現実には、それらの要因を固定化し、賃金引き上げと労働コスト(雇用)に限って、経営あるいは経済への影響を純粋に取り出すことはできない。こうした状況で賃金と労働コスト(雇用)の直接的なリンクを無前提に想定することは、かなり危うい推論だ。

多くの選択肢
 最低賃金を引き上げることで、逆に雇用が増加する可能性もある。高賃金・高生産性が唱えられたこともあった。景気が回復しないかぎり、雇用も増加しないが、賃金が上がらないかぎり、消費も増えない。賃金引き上げが、雇用の減少につながる場合から増加につながる場合を含めて、現実にはかなり多様な可能性(選択肢)があるのだ。

  しかも、仮に最低賃金をこの程度引き上げた場合に、失業が増加することを正確に実証することはきわめて困難なことだ。理論と現実の間には多くの媒介項があり、仮に今回最低賃金率が引き上げられる12都道府県について、雇用の減少が発生したとしても、それが最低賃金引き上げに起因するものか、他の要因によるものか、説得力を持って実証することはきわめてむずかしい。健康診断の際の血液検査のように、早急に結論を出すような標本調査はできない。最低賃金引き上げによって、当該地域に雇用減少という状況が生まれるのは、かなり特別な前提を付した場合に限られる。

 このため、最低賃金の雇用への影響に限っても、欧米でも実証研究の結果は、かなり揺れ動いてきた。それもきわめて厳しい条件を設定した上でのことである。この点は以前にも記したことがある。賃金引き上げと労働コストを短絡して議論することは多くの誤解を生みかねない。 政策効果の判定はきわめて難しく、経験の蓄積が必要となる。

仮説と実証の危険な関係
 最低賃金と雇用の問題に限らず、ひとつの仮説をそのまま現実にあてはめて割り切ってしまうという悪弊は数多い。たとえば、移民を労働力に加えることは、それがそのまま国内労働者の仕事を奪うことにはならない。そうした事態が起きる場合は、特別の状況においてである。同様に、労働時間を短縮することも、現実の社会では必ずしも失業減少にはつながらない。団塊の世代の大量退職が労働力の供給不足と失業減少になるといわれたこともあったが、どれだけ真実であっただろうか。

 男女の採用や賃金面での差別の説明に多用されている「統計的差別の理論」にしても、普遍的な理論ではなく、特定の条件の下で適用されるべき仮説にすぎない。世の中で「差別」という現象を生む要因、メカニズムはきわめて複雑で、単一の仮説で割り切れる場合はむしろ少ない。

 さらに危険なことは、ある小さな仮説とそれに基づく実証と称する作業で得られた結果が、いつの間にか一般化されてしまうことだ。アメリカの専門誌の編集に多少携わって経験したことだが、小さな仮説を立てて、モデルを構築し、それに合いそうなデータを使い、計測結果を出す。そしていつの間にか、その結果が一般的な命題として一人歩きしている。

 世界的な課題である仕事(ジョブ)の創出と消滅の仕組みは、実はかなり複雑だ。いかなる点に問題が潜んでいるか。日本では、たとえば玄田有史さんの力作『ジョブ・クリエーション』(日本経済新聞社、2004年)に、的確かつ精緻に展開されている。

暑さしのぎにはならなかった読書
 これらの問題に関連して、暑さしのぎに(?)、The Natural Survival of Jobsという表題の奇妙さに惹かれて、読んだ一冊がある。最初は比較的軽く読めるかと思ったのだが、読み終わって、かえって暑さが増してしまったような感じがしている。内容は玄田さんの作品の方が格段
に優れていて説得的である。

 しかし、このフランス経済学者(Cahuc and Zylberberg)の作品にも学ぶ点はある。実際に2004年のヨーロッパ経済学賞を受賞している。 この作品(フランス語からの英訳)は、読後感はあまりすっきりしないが、ここに例示したような理論(仮説)と現実の間に横たわる数々の問題点を提示している。大きな本ではないが、大変読みにくい作品で、双手を挙げてのお勧めではない。過度に論争的で、イデオロギーの次元へ傾斜し過ぎているからだ。フランス語からの翻訳にも、問題がありそうだ。

 ただ、読みにくい本ではあるが、労働経済に関わる問題に対する場合、どんなことに注意しなければいけないかという著者の意図はひしひしと伝わってくる。

 ひとつの重要なレッスンは、政府が昨今のように多数の失業者に直面した場合、彼らを雇用の場に戻すためには、きわめて多額な資金とコストを投下しなければならないということだ。失業はひとたびそれが発生してしまうと、その減少のためには多大な支出と犠牲を払わねばならない。失業を経験する人の苦難はいうまでもない。今の世界は、その苦しさをいやというほど味わっている。

 失業をできるだけ生まない経済を創るために、なにをすべきか。現実は仮説の通りに動いているか。別の可能性はないのか。大勢に流されず、時には常識や通念とされることも疑ってみよう。現実は複雑だができるだけ正確に把握する目を養わねばならないと思う。日本の将来を定める大事な選挙を控えた今、次の世代のためにも目前の問題への対応と併せて、広い視野への政策転換を心がけることも必要だ。



Pierre Cahuc and Andre Zylberberg, translated by William McCuaig. The Natural Survival of Work: Job Creation and Job Destruction in a Growing Economy. MIT 2006.

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ゲオルク・ハイム:「不安な時代」の詩人

2009年05月08日 | 書棚の片隅から

Georg Heym. Umbra Vitae (1962年版)表紙(上掲) 





  ザーリュブリュッケンの記憶をさまよっていると、思いがけないことへ連想の糸がつながった。なにが、キーワードになったのか。「大不況」、「新型インフルエンザ」、「不安の時代」? とにかく、完全に忘れ去っていたことが突然記憶に浮かんできた。ゲオルク・ハイムという詩人のことである。
 
 1970年代、ザールブリュッケンの大学に勤務していた友人が、20世紀初めドイツ表現主義の詩人ゲオルク・ハイム Georg Heym (1887- 1912) の詩集 Umbra Vitae「人生の陰」を贈ってくれた。多少見直したいこともあり、
書庫の片隅に眠っていた冊子を見つけ出す。

 このハイムの詩集は小冊子だが、同じ表現主義の画家を代表するエルンスト・ルードウィッヒ・キルヒナー Ernst Ludwig Kirchner のモノクロ木版画holzschnitten と併せて構成されている。キルヒナーは、ハイムの死後まもなく、その作品に魅せられ、それぞれの詩にふさわしい木版画を制作し、自ら詩集の編纂を行った。キルヒナーはもとより、詩人ゲオルク・ハイムの名がどれだけ日本で知られているか、はっきりは分からな
い。しかし、多分一部の愛好家、専門家を除き、ほとんど知られていないと思った方がよいだろう。キルヒナーのことは多少ブログに記したことはあるが、ハイムについてはその時も思い出さなかった。 

 ハイムの詩は、ドイツ表現主義の詩の中で最も完成度の高い作品のひとつとされている。代表的な詩 Umbra Vitae は1912年頃に書かれた。作品はドイツ表現主義の特徴として、この時代特有の暗く陰鬱なトーンに充ちている。詩集には40近い作品が収められているが、ほとんどに当時の社会に潜むさまざまな不条理、矛盾への不安、恐れ、怒りなどが込められている。

 Umbra vitae は、この詩集の最初に置かれている。詩の構成や使われている言葉は、普通の詩とあまり変わりない。しかし、詩に込められた含意を把握するのはかなり難しい。最初読んだ時は、ドイツ語の実力も不足しており、友人の解説に助けられて、なんとか概略を把握したような状態だった。今読み返してみても、やはり難しい。しかし、その後の知識が多少深まったためか、以前よりはかなり理解できるような気がする。なによりも、現代の「不安な時代」に重なる部分がきわめて多く、不思議と胸に迫ってくるものが多い。

Die Menschen stehen vorwärts in den Straßen
Und sehen auf die grossen Himmelszechen
Wo die Kometen mit den Feuernasen
Un die gezackten Türme drohend schleichen.

 Umbra vitaeは上のようなスタンザで始まる。 訳をつけることは専門外、力不足でとてもできないが、詩文全体から受けた漠とした輪郭を感じたままに記してみよう。最初の一節から明らかなように、異様な感じである;

 人々は街路に前のめりに立ちすくんで、天空の大きな兆しを凝視している。その先には、火の尾をつけた彗星が、夜空にぎざぎざと聳える建物を脅かすかのようにはい上がって行く。家々の屋根は星を見つめる人たちで溢れんばかりで、望遠鏡を空へ突き出している。魔術師たちも立ち上がり、星を探し求めている。

 黒衣をつけた病魔が家々の入り口に忍び入り、病人があたりに横たわり、自殺を求める者は深い闇に入ってゆく。誰も失われた自身を求めてあちこち彷徨し、さまざまな武器で箒のように、病や災厄を払いのけようとしている。人間は死の兆しを感じてか徘徊し、死者は野原に埋葬される。動物も茨や藪に埋められる。陸ばかりか海もどんよりと淀み、船も朽ちて波間に行方定まらず漂う。木々も季節が変わるごとに枯れ、長い指のような枝を広げ、倒木として道を塞ぐ。

 死に行く者は立ち上がろうとするが、突然死んでしまう。命はどこに。その目は曇ったガラスのように、暗く陰鬱だ。目覚めている者も悲しみにうちひしがれ、重い悪夢から覚めようと青ざめたまぶたをぬぐう。

 このように作品を覆うのは、なんともやりきれない不安と陰鬱な雰囲気だ。ある部分は詩人の生きた時代の描写であり、悪夢の一部のような所もある。実際、1910年にはハレー彗星が戻ってきた。予期しないことも起きた。彗星が地球に衝突するかもしれないと予想した天文学者もいたほどだった。この詩を読むと、社会が暗い時代を迎え、あたかも滅亡の淵にあるような印象さえ受ける。そして未来への言いしれぬ不安が伝わってくる。前途に何が待ち受けているのか。今年はガリレオ・ガリレイが自作の望遠鏡で、初めて天体観測を行ってから400年目に当たるという。不思議なつながりも感じる。

 ハイムのこの詩が、20世紀初頭の時代的様相をどれだけ反映したものか、あるいは彼が何度も見たという悪夢を描いたものか、よく分からない。実際には両者が渾然一体となって生まれたのだろう。

 この作品が創られてまもなく、ハイムは友人と二人で湖上でのスケートをしている間に、氷が割れて冷たい水中に呑み込まれ、不慮の死を遂げた。24歳という若さだった。さらに、ハイムはこれより1年半ほど前に、この出来事を予感させるような奇妙な夢を見たことを記していた。  

 そして、ハイムの死後まもなく、1914年7月にはオーストリアはセルビアに宣戦布告し、戦渦は次々と各国を巻き込み、第一次大戦に拡大、1918年のドイツ降伏、翌年のヴェルサイユ条約締結による講和成立まで暗黒の時代をもたらした。  

 この作品、全体の印象はきわめて陰鬱だが、まったくの絶望で終わっているわけではないように思える。最後の一節には、重いまぶたをぬぐい、なんとか目の前に光を見出そうとする兆しのようなものが感じられる。ハイムの生きた時代の後、世界は2度の大戦を経験した。イラクやパレスチナの戦渦は絶えることなく続いている。ハイムの見た夢は消えてはいない。

 
  




*
Umbra vitae. Nachgelassene Gedichte. Mit 46 Holzschnitten von Ernst Ludwig Kirchner, Insel-Bücherei. no. 749, 1962.

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会えてよかった:『蜂の寓話』

2009年02月10日 | 書棚の片隅から

 かなり頻繁に書籍の「レイオフ」(処分)をしてきた。本意ではまったくないのだが、陋屋の収容限界があって涙ながらの措置だった。古書店などを通して、再びどなたかのお役に立つものと思ってあきらめてきた。大部分はこの20年くらいの間に整理し、身の回りになんとか見苦しくないほどの空間が生まれた。しかし、いずれ別れる時までは手許におきたいものもかなり残っている

 マンドヴィル『蜂の寓話』(上田辰之助著、新紀元社)は、
レイオフしていないはずだと思っていた。先日、「定額給付金」問題との関連で、思いがけず記憶の底からよみがえった一冊である。その後、幸い書庫の片隅に生き残っていたのを発見した。レイオフされなくてよかったなあ!
  
 奥付を見ると、昭和25年20日第一刷、定価380円とあった。父親から引き継いだ蔵書の中の一冊だ。経済学とはとりわけ関係なかった父親がいかなる理由で購入したのか、今となっては確かめることはできない。『百科事典』(平凡社)、『国民大百科事典』(富山房)、ウエルズ『世界文化史大系』、『日本文学全集』、『プルターク英雄伝』、『ロビンソンクルーソー』など、雑多な本の中にあった。

 価格の実感が湧かないかもしれない。この上田氏の著書が刊行された年の前年、東京都の失業対策事業として、職業安定所が定額日給として支払った額が240円であった。今日の「デイ・ワーカー」に近い日雇い労働者は、この日給にかけて、「ニコヨン」と呼ばれていた。この賃金額を考えると、決して安くはない価格だ。別に稀覯書でもないのだが、ネット古書店の価格では定額給付金では買えない価格がついているようだ。しかし、実際にレイオフされる時は、市場価格の数十分の一?以下なのです(涙)。

 半世紀以上の歳月を経ているため、さすがに表紙もかなり黄ばみ、変色している。紙質も今のように良くなかったことも影響しているようだ。

 本書はマンドヴィルの詩篇の訳書というよりは、この希有な思想家とその作品(詩篇)『蜂の寓話』の学術的研究書だ。本書の終わりの部分に、現著者序文(譯文)、『ブンブン不平を鳴らす蜂の巣』(上田氏譯文)、詩篇(英文)、原著書序文が付いている体裁で、総ページ数(346ページ)の内、250ページ余は上田氏の解説を含めた研究成果である。

 『蜂の寓話』は、再び読み出したら止められない奇妙な魅力をもった作品である。経済活動の根源的意味を考えるには、格好な材料を提供してくれる。いまや政治家の発言の枕詞になった「100年に一回の」大不況のさなか、個人の消費が全体としては美徳になると政治家が説いても、財布のひもは緩むことはあるまい。


悪の根という貪慾こそは
かの呪われた邪曲有害の悪徳。
それが貴い罪悪「濫費」に仕え、
奢侈は百萬の貧者に仕事を與え、
忌まわしい鼻持ちならぬ傲慢が
もう百萬人を雇うとき、
羨望さえも、そして虚栄心もまた、
みな産業の奉仕者である。
かれらご寵愛の人間愚(オロカサ)、それは移り気、
食物、家具、着物の移り気、
ほんとうに不思議な馬鹿気た悪徳だ。
それでも商賣動かす肝腎の車輪となる。

『蜂の寓話』(上田 7ぺージ)
からの一節。

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なぜわれわれは今あるようにあるのか

2009年01月24日 | 書棚の片隅から

Charles Robert darwin (1809-1882)


 このところ、年末から年始にかけて、あるひとつのテーマが頭から離れなかった。といっても、四六時中考えていたわけではない。年末、年始の暇な時間にほぼ限ってのことである。きっかけは、この時期になると、不思議というか、決まったようにこのテーマを考えさせる材料が提示されたからであった。「幸せとはいかなることか」というやや哲学的なテーマだ。自分なりの答は漠然としてはいるが、ある程度まとまってきた。しかし、一般化することはきわめて難しい。  

 「幸せ」といっても、それを構成する要因については、さまざまなことが考えられる。大別すると精神的次元と物質(経済)的次元の双方があり、ウエイトの置き方は人によって大きく異なる。「恒産なければ恒心なし」という言葉に象徴されるかもしれないが、物質的次元へ重心を置く人が案外多い気がする。こんなことを考えている時に年末、ひとつの短い評論*に出会った。

 今年はチャールズ・ダーウインの『種の起源』On The Origin of Species 刊行150周年に当たるため、すでに昨年から今年にかけて、世界中でさまざまな催しや出版が続いている。7月にはケンブリッジ大学でフェスティヴァルまで開催される。この評論もそれに関連したものだ。これを読みながらの感想を少し記してみる。  

 最初に提示されているのは、「富裕であること」 wealthとはいかなることかという難しい問いである。いうまでもなく、「富裕であること」と「幸せ」とは本来まったく独立の概念だが、そこにつながりを見る人もいる。

 これについて、メンケン H.L.Mencken というアメリカの風刺作家は、1949年に「自分の姉(あるいは妹)の夫の年間所得よりも、少なくも100ドル以上多い所得」というかなりひねった答をしている。この数値は、1949年以降のインフレ調整をしてみると、悪い定義ではないとされる。「富裕さ」を感じるには、自分の近くにいる人と比較しての相対的受け取り方が関連するのだろうか。
しかし、依然として疑問は解消されない。たとえば、なぜ現実には、すでに十分富裕な人が他の人よりもさらに金を儲けようとするのか。逆に、なぜ世の中から「貧困」を撲滅することができないのか。

 さらに、問いは続く。イギリスに例をとると、婦人選挙権運動から80年、フェミニスト運動から40年も経過した後でも、平均値でみると男の所得は女よりも多いのか。そして、多くの人は単に皮膚の色が異なるだけで好き嫌いを示すのか。こうした問いについては、伝統的に哲学、社会学、さらには宗教までがかかわり、回答を試みてきた。しかし、これまでの答はいずれも満足できるものではない。目の前の事実について記しはするが、説明はしないのだ。人間であることの本質、核心はなにであるかという根本的問いに答えていないのだ。したがって、そうした考えに基づいた政策は機能しない。それは人々を「彼らが現在あるがもの」what they areにした力を無視するからだとして、それが「進化」evolution の力とされる。そうした力が無視されることの理由は、大変複雑だ。

 この点について、イギリス、ダラム大学の心理学者アンネ・キャンベルAnne Campbellが非常に面白いことを言っている:「進化は首のところで止まっている。言い換えると、人間の身体は発達したが、人間の行動は文化的に決まる」。 適切な教育,社会的条件、あるいはその人が持っているものによって、人間はほとんど考えうる何事もできるように思われるが、実際にはそれができないという推論だ。ダーウィンは、人類は高貴な特性、神のような知性など高尚な力を持っているが、同時に身体のなかにはいまだつつましい祖先の痕跡を残しているとも述べている。 

 他方、「富裕」についてのメンケンの観察は、見事に現代生活の二つの側面を説明する。ひとつは経済成長には壁がないことだ。もうひとつは、いかに国が富んだとしても、貧困は常に存在するということである。しかし、なにがメンケンの観察を説明するか。ここで、ダーウインが登場する。 ダーウイニズムにとって、人生はふたつのことにかかわる。「生存(生き延びること)」と「再生産」(繁殖)だ。「再生産」のほうがより重要度が高い。やや乱暴にいえば、ダーウイニズムの生存のポイントは「再生産」だ。孔雀のオスとメス、牡鹿と雌鹿。人間社会では男女双方が競う。そこでは、ステイタス(地位)とヒエラルキー(階層)が大事だ。そして現代社会では、ステイタスはしばしば金が仲介する。女性は金持ちの男を好む傾向があるとされる。ダーウイニアンは、こうした男が子供のために物質的な準備をする能力があるからと考える。 

 ダーウィニズム が示唆するところによると、実際に重要なことは自由な社会では、自分の力でヒエラルキーを上昇できるということだ。アメリカン・ドリームはその分かりやすい例だ。オバマ大統領が生まれるような条件が備わった国の方がそうでない国よりはよいということだろう。逆に、ダーウィニズムが引き続いて社会主義を支持するのは、経済上の方法で金持ちを貧乏にすることはできても、貧乏人を金持ちにすることはできないからだとされる。

 ここまで考えてきて、学生時代に読んで散々苦労し、それでもあまり分かったとは思えなかった『種の起源』が少し近づいてくれたような感じがしてきた。英語版は初版からみると、かなり記述も変わったようだし、邦訳版もかなり難解だった。

 その後、多少はダーウィンについての知識の蓄積も進み、理解度も深まったとは思う。それでも「進化」と「進歩」とはいかなる関係に立つのか。「豊かさ」には限界があるのか。「幸せ」とはどうつながるのかなど、疑問は尽きない。その後、詳細な解説書や新訳も出たようだ。もう一度挑戦してみようかとも思っている。


* ”Why we are, as we are” The Economist December 20th 2009.
ダーウィン 八杉龍一訳『種の起源』上下(岩波書店)1990年(改訂版)

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給付金よりは?

2009年01月13日 | 書棚の片隅から

 定額給付金2兆円について、ある世論調査*では63%が「やめた方がよい」と答えている。「政府の方針どおり配った方がよい」の28%を大きく上回った。給付金の効果については、すでに多くの議論がなされているが、発想は単純といえば単純きわまりなく、稚拙といえばその通りでもある。

 経済効果は予測できないが、これだけばら撒けば、その幾分かは消費に回るだろうというのが最初の発想ではないか。確かに多くの政策の束のひとつで、これだけをあげつらうのはフェアでないといえば、そうかもしれない。しかし、やはり安易な発想だ。「もったいない」金の使い方というべきだろう。

 周囲の経済政策の専門家を自認する人たちは、これまでどうしていたのだろう。殿のお考え、ごもっともなのか。継続的な政策でない以上、一回限りの線香花火と変わらない。人気上昇を意図したかもしれない政策が、足を引っ張ることになったのは皮肉な結果だ。  

 この給付金の案を聞いた時、どういうわけか、すぐにバーナード・マンデヴィル『蜂の寓話』**を思い出した。マンデヴィル(あるいはマンドヴィル)(1670-1733)は、その主著たる『蜂の寓話』で今日に名前の残る人物だが、その副題に「個人の悪徳は公共の利益」Private Vices, Public Benefitsという余計な?一文を付したがために、予想していなかった論争に巻き込まれ、その理論的充実ができなかったといわれる。

 蜂の巣は、個々の蜂のレベルでは私利私欲に溢れているが、全体としては天国状態だという、この長い詩は、そのまま今日の世界へ移し変えてなにもおかしくない鋭い社会観察、風刺になっている。最初読んだ時その斬新さと鋭利な切り込みに驚かされた。  
 
 マンデヴィルは1670年にフランス系オランダ人として、オランダロッテルダムに生まれ、ライデン大学に入り、1691年に医学博士の学位をとった。併せて哲学も勉強したという。祖先は16世紀オランダに移住したユグノーであったらしい。本人はその後ロンドンに渡り、結局永住することになった。人間の行動が、すべて利己心や自己愛を動機としているというマンデヴィルの考えは、今日では別にどうということはないが、当時は大きな問題となった。最初のうちは故あってか匿名のパンフレットだったこともあって、あまり注目を集めなかったようだが、1723年に『蜂の寓話』という表題と新たな体裁で出版されると、避難ごうごう、ミドルセックス州大陪審院によって告発された。さらにその後も新聞などに、度々非難の記事が掲載されたようだ。  

 結局、マンデヴィルは、生涯こうした対応に追われ続けた。J.M.ケインズを挟んで、J.K.ガルブレイス『豊かな社会』などに代表される「消費は悪徳か、美徳か」という論争テーマにつながっているとも考えられる(この議論は、今日まであまり実のある成果を生んだとは思えない)。  

 マンデヴィルの『蜂の寓話』を読んだのはいつのことか正確には覚えていないが、10台末のころ、父親の書斎で見つけた一冊であることは、H.G.ウエルズの『世界文化史大系』と同じだった(戦後、同じような読書の記憶を共有する人にもあった)。

 当時読んだ邦訳は、現在入手可能な泉谷治氏の新訳ではなく、上田辰之助訳であった。邦語題は、『蜂の寓話 : 自由主義經濟の根底にあるもの』だった。薄い青灰色の表紙がついて、表紙は背表紙を除き、英語で記されていたことまで覚えている。

 記憶が戻ってきたついでに、上田氏訳の古書をアマゾンで探してみたら、なんと23,000円以上の値がついていた。今も記憶に残る本だけに、処分してしまったはずはないのだが。さて、あの本はどこへいったろう?


*  朝日新聞社全国世論調査、2009年1月10-11日、電話にて実施。  

References
**
Mandeville, B., The Fable of the Bees ;or, Private Vices, Publick Benefits. London:Printed for J. Roberts, near the Oxford Arms in Warwick Lane,1714.

バーナード・マンデヴィル、泉谷治訳 『蜂の寓話―私悪すなわち公益』 (叢書・ウニベルシタス)東京 : 法政大学出版局、1985年
本書には、1923年に出版された『蜂の寓話』に対するさまざまな非難、批判への反論として書かれた「続・蜂の寓話」(1929年発表)も含まれている。
上田辰之助『蜂の寓話 : 自由主義經濟の根底にあるもの』、新紀元社、1950年

J.K. ガルブレイス、 鈴木 哲太郎訳『ゆたかな社会 決定版』 (岩波現代文庫) 2006年

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