時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ラ・トゥール瞑想:ノルウエーの闇と光

2013年08月26日 | 書棚の片隅から

 

ノルウエーの詩人P-H ハウゲンによるジョルジュ・ド・ラ・トゥールに
ついての詩集
 


暑さから逃れて

 酷暑、豪雨、旱天と異常気象が矢継ぎ早に日本列島を襲った夏だった。ある日、猛暑の昼下がり、近くの行きつけのイタリアン・レストランに入る。若いイタリア人の経営で、予約が必要な人気の店だ。幸い空いていた。間もなくお隣の席に、中年の外国人男性が一人座った。手持ち無沙汰のように見えたので、コーヒーの時に、「イタリアからいらしたのですか」と聞いてみた。

 すると、思いがけない答えが戻ってきた。「いいえ、ノルウエーですよ。妻は日本人で子供も日本の学校へ行っています」との答えである。近所に外国人が増えたことは、感じていたが、ノルウエーの人までとは思わなかった。なにかと住みにくくなった日本だが、住んでくれる外国人もいることは有りがたいことだ。

原発がない国
 早速今年の猛暑が話題となる。日本の暑さは厳しいが、今はなんとか過ごしていますよとのこと。かつて管理人が訪れたオスロー、フィヨールド探訪の拠点ベルゲンなどの話になる。ベルゲンは雨の多いことで有名で、すぐにその話に移る。ちなみにノルウエーは国土面積は日本とほぼ同じだが、人口は450万人くらいで、自然環境、社会環境はまったく異なる。うらやましいことに水力、石油、天然ガス、石炭とエネルギー資源に恵まれ、国内発電能力の大部分は水力で充足している。原子力発電は基礎研究はしているが、発電所の計画もない。しかし、他の北欧諸国同様、核燃料廃棄物の放射能の減衰年月と〈安全性を考えて最終格納場所まで研究されているようだ。

 こんなことを話題にする日本人はほとんどいないようで、会話は弾んだ。外国に住んでいて、自国のことを知っている人に出会うことは、一寸した驚きで、また喜びでもある。こちらも、最新情報を教えてもらう。

ラ・トゥールに出会う
 
さらに話は思いがけない次元に飛ぶ。ノルウエーの詩人パールーヘルゲ・ハウゲン Paal-Helge Haugen(1941-) の詩集 『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール瞑想』 Meditations on Georges de La Tour のことである。日本では、フランス通といわれる人の間でも、意外に知られていない画家である。ハウゲンはノルウエーでは著名な詩人でスエーデン・アカデミーの文学賞を含めて、ノルウエーの主たる文学賞5つを受賞している。



Paal-Helge Haugen 氏イメージ 

  ラ・トゥールに関する同氏の詩集がノルウエーで出版されていることは、聞いたことはあったが、英語版が刊行されたことは最近になって知った。この17世紀フランスを代表する画家については、実にさまざまな試みがなされてきた。その一端はこのブログでも記している(まとまった紹介を考えてはいるが、果たせていない)。日本ではほとんど知る人も少ないが、世界中でこの画家と作品を題材とした文学作品は数多く刊行されている。

 さて、このハウゲンの詩集は、1990年にノルウエー語で書かれ、同国批評家賞 Norwegian Critics' Prize
を受賞した。そして1991年に英訳もされたが、今年2013年にはノルウエー語と英語並記の詩集が刊行された。17世紀激動の時代に数奇な生涯を過ごしたラ・トゥールという画家の世界と作品について、詩の形式で思索、瞑想したものである。ラ・トゥールの時代と作品について、かなり詳しくないと、理解不能と思われる。

 ラ・トゥールが生きた17世紀ロレーヌの闇と、北欧ノルウエーの闇とは、同じヨーロッパであっても、かなり異なる。しかし、この画家には時代や国境を超えて共鳴しあうなにかがある。


 この詩集が刊行された今年春の出版記念会 Book Raunch において、ハウゲンの作品の一部が紹介かたがた朗読されている。読んでいるのは英語版への翻訳者Roger Greenwald である。この朗読を聞いて、共鳴できる方は、相当のラ・トゥール・フリーク(?)であることは間違いない。


 詩集の概略と朗読の動画サイトはこちら。 

   

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Read by Roger Greenwald 

ちなみにハウゲンが詩の対象としたのは、ラ・トゥールの「ヴィエル弾き」を含む五点の絵画です。

 

Paal-Helge Haugen, Mediations on Georges de La Tour, Translated by Roger Greenwald, BookThug, Canada, 2013.

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記憶の底から高まる時代の緊張

2013年06月23日 | 書棚の片隅から

 




Bernhard Schlink. Der Vortleser.
Zurich:Roman・Diogenes, 1995.

本書の表紙に著者がキルヒナーのこの作品を採用したのはいかなる意味があるのだろうか。


 

 文学座『ガリレイの生涯』を観た帰りの道すがら、時々立ち寄るカフェに入った。充実した観劇で少し疲れた頭を癒したいと思った。カフェの片隅にしばらく座って、いくつかの感想をメモしていたところ、思考の行方は思いがけない方向へ展開していった。舞台の感想については、前回に少し記したし、ガリレオ・ガリレイやベルトルト・ブレヒトについては、かなり前のブログに何回か記したこともある。例のごとく、「17世紀画家シリーズ」からは再三の横道入りだ。


 記憶の仕組みは複雑にもつれてしまった糸玉のようなところがある。しかも、その糸は多くの個所で切れている。一本の糸から次々と思いもかけない事柄が現れてくる。しかし、それは決して連続的ではなく、濃霧の切れ間にふと見える風景のようでもある。論理的にはなにも語ってくれない。そして、この頃は思いついた時に糸口を記しておかないと、再び忘却の深い海に沈んでしまい、ほとんど浮上してこない。

浮かんできた2つの作品

 カフェで観劇の記憶をメモにとり始めた時、急に相前後していくつかの小説や映画のシーンが脳裏に浮かんできた。とりわけ二つの小説、いずれも映画化された。15年から30年くらい前に読んだ作品であった。しかし、これまでほとんど忘れていた。このところ、ブレヒト時代のベルリンやアメリカについて多少考えていたことが、トリガーになったのだろうか。

 それらが突然ほとんど脈絡なしによみがえってきたのは、驚きでもあった。「ガリレイの生涯」の舞台が脳細胞のどこを刺激したのだろう。

 そのひとつはブログでも記したことのあるごひいきの作家ウイリアム・スタイロンの『ソフィーの選択』(1789年刊行)であり、もうひとつはベルンハルト・シュリングによる小説 『朗読をする男、日本語訳:『朗読者』 Der Vorleser、(1995年刊行)、のシーンだった。前者は映画も小説も見た。後者は小説だけだが、著者のアドヴァイスに従い何度か読んだ。いずれも200ページ足らず、文庫版に容易に収まる程度で、決して大きな作品ではない。しかし、そこで問われていることはきわめて重い。だからきっと脳細胞の底に沈んでいたのだろう。愛読書の類ではないが、どこかに強い衝撃が残っていた。

 なぜ、このふたつの異なる小説のことを突然思い出したのか。色々なことが考えられる。後で考えてみると両者には相通じる部分もある。共に主人公ともいうべき女性が、ナチスの収容所における厳しい選択に関わっている。主人公のいずれもが精神の奥深く鋭く刻み込まれた傷を負っている。

 前者では女性ソフィーはナチス収容所収監中、自分の幼い息子か娘のいずれかをガス室へ送る選択を強いられ、残酷な選択をしたトラウマがその後の人生から消え去らない。

 後者では女主人公ハンナ・シュミッツは、ナチス収容所の女看守であった。その時に発生した火災で死亡したユダヤ人の責任を問われている。そして、裁判の被告となり、ある事情で真の犯人の責任を代わって負うような形で長く服役する。

 このふたつの作品ともに、主役あるいは舞台まわしの役割を担うのは、いずれも少年から青年期へ移り変わる年頃の男性である。前者ではスティンゴ、後者ではミヒャエル、そして二人の相手側となった女性は友人の妻ソフィーであり、後者では独身で市電車掌をしながら貧しい日々を過ごすハンナである(とりわけ、ハンナは最初2人が出会った時は40歳近く、少年は15歳だった)。ソフィーの故国はポーランドであり、ハンナはルーマニアだ。さらに二人とも最後には自ら命を絶ってしまうほど、生きて語ることのできない暗い闇の時代を抱えて生きてきた。


朗読をする男
 さて、後者『朗読をする男』のかつての少年ミヒャエル・ベルグは、過去の時代の罪をめぐる裁判で無期懲役となった女囚ハンナの裁判過程にも加わる。自らは裁判官にも弁護士にもなれないと、法学部で法制史の教師として生きる道を選択する。

 ミヒャエルは自らはなにもナチスとは関係がない存在であるにもかかわらず、その後ずっと女囚となった彼女の生涯にかかわる。ミヒャエルが服役して8年も経った時、なにを思ったか、彼が読んだ文学作品や彼女と知り合った頃に読んだ「ホメロス」「ヘミングウエイ」などを朗読し、テープに吹き込み、10年間、飽くことなく送り届ける。読者はなぜ彼女が自分で作品を読まなかったのかと思うだろう。そこにこの作品の秘密のひとつがある。そしてほぼ4年経過した時、短いメッセージが届く。「坊や、この前のお話は特に良かった。ありがとう。ハンナ」。

 そして服役18年で恩赦になり、ハンナは出獄することになる。身よりのないハンナをミヒャエルは訪ねる。かつての中年女性はすでに老女となっていた。そして、なにが起きたか。出所の朝、彼女は自殺していた。彼女の部屋には、ミヒャエルが朗読して送り続けたカセットテープや彼についての小さな新聞記事が、きちんと整理されて残されていた。それからほぼ10年後、大学教授となったミヒャエルはこの幸い薄い女との物語を書いた。

 二つの小説の主人公、ソフィーとスティンゴ、ハンナとミヒャエルの間には、かつて男と女の関係があった。どちらから始まったともいえない年上の女との愛(といえようか)であった。しかし、女の側には贖罪の意識があったのかもしれない。

 この二つの小説を通していえることは、いずれもが単なる男と女の物語ではないことだ。それを突き抜ける暗く深い秘密がある。いずれにも厳しく、残酷に、そして魂の奥をえぐるようななにかがある。ナチスにかかわり、自らが犯した罪。そして、それを裁く仕組みの不条理さ。こうした結末を描く以外に救いの道はなかったのだろうか。

 小説を離れて考える。ある民族の祖先が犯した犯罪は、いったい誰がどこまで責任を負うものなのか。

 ストーリーを記すこと自体、気が重くなる小説である。人間の世界には、いかに多くの不合理、不条理、非正義、悪徳が充ちていることか。「ガリレイの生涯」への思いは、予想もしなかった方向へ広がっていた。



ベルンハルト・シュリンク(松永美穂訳)『朗読者』 新潮文庫、2000年。
映画は『愛を読むひと』(2008年、監督:スティーヴン・ダルドリー)
著者は本書を理解するためには、2度読むことが必要と語っている。

ベルリン、ノーレンドルフ広場での電車の衝突は、1910年に起きた。キルヒナーはこの惨事を描いた。来たるべき時代を暗示するような暗いなんとなく不気味な配色の作品である。


筆者の友人でまったく別の動機で、他人のために本を朗読することを始めた人がいる。この小説と併せて、朗読することの意味を深く考えさせられている。
 

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ガザに盲(めし)いて:ひとつの回顧

2012年11月23日 | 書棚の片隅から

 



 11月21日午後9時、イスラエルとイスラム組織ハマスの停戦が成立した。それまでインターネットの進歩で、リアルタイムで空爆の様子などが伝えられていた。イスラエル、ハマスの双方に責任があるとはいえ、一般市民が無残に犠牲になる残酷な光景は見るにたえない。とりわけ、イスラエル軍の爆撃はすさまじいの一語に尽きる。イスラエルは標的をハマスに設定しているといっているが、かなり無差別に近い。イスラエルとハマスは長年にわたり、市民を巻き込む憎悪と殺戮という「悪魔の罠」から抜け出られない。

ひとまず戦火が途絶えたようでほっとした思いだ。しかし、一触即発状態の緊迫は続いている。すでに24日にはイスラエル兵の発砲でパレスチナ人が死亡したと報じられた。さらに、事態は仲介に当たったエジプトのムルシ大統領の専権への反対という形で他地域へ拡大し、燃え上がっている。人間はなぜこのように残酷に争うのか。この地域の紛争は日本人には最も理解が難しい。おざなりの歴史教育ではとてもわからない。

 戦火の舞台となったのは、パレスティナのガザ。ガザと聞くと、すぐに思い出すのがイギリスの小説家オルダス・ハクスリーAldous Leonard Huxley の『ガザ゛に盲いて』 Eyeless in Gaza(1936) と題する作品だ。若い頃に手にしたが、理解力が不足していた。大変読みにくい妙な小説だという印象しか残らなかった。その後、イギリスに在外研究者として滞在した折に、もう一度読み返した。年の功か、さまざまな蓄積に助けられ、今度はかなり深く読み込めた。

 10数人(20代から60代)からなるあるサークルで、このたびの戦争の話が出てきたので、ふと、この本を知っているかと聞いてみたが、誰も知らなかった。落胆したが気を取り直して(笑)、知っていることを少し話す。帰宅して、翻訳があるかを調べるために、ワープロ上で「めしいて」の部分を表現しようとしたが、そのままでは変換できなかった。『広辞苑』(第6版)には、「めしい」の項目に、(「目癈(めしい)の意)視力を失っていること。また、その人。(倭名類聚鈔 (3))とある。

 このたびの停戦とこの小説の間に、直接的関係はまったくない。題名はジョン・ミルトンが、旧約聖書に基づき、サムソンが、ガザでペリシテ人に目を焼かれて視力を失い、ガザに連れられ、奴隷と共に石臼で穀物を挽く仕事をさせられたという記述に基づいている。実はハクスレーは角膜の炎症で視力が弱く、その治療もあってアメリカ、カリフォルニアに移住している。(実は一時期、管理人も視力に不安を感じて、ハクスレーの『視力改善の技法』The Art of Seeing (1942)という本を手にしたが、あまり効果はなかった。後に理論的にかなり物議をかもした本であることを知った。)


`Eyless in Gaza at the
     Mill with slaves`
                     MILTON

 小説は主人公アンソニー・ビーヴィスとその友人・知人のとの子供から中年までの関係・事件を、時系列的に連続ではなく、時代を行き来しながら、描いた小説である。ビーヴィスは生来の道徳的な臆病さから普通の世の中から距離を置いている。そしてなんとか新しい生き方を探し求めている。いくつかの出来事、特に友人ブライアンが主人公との恋のさや当てで自殺した事件が、ひとつの試金石となっている。さらに主人公が交際していた麻薬中毒などの問題を抱えたシニカルな女性、学校時代から付き合っていたマークという”ごろつき”との関わり合い、などの出来事がフラッシュバックで織り込まれる。1章ずつ丁寧に読まないと理解が難しいが、各章は見事に描かれている。ビーヴィスは自分を平和主義者と思っているが、知的にも洗練されているわけでもなく、徹底していない人物と描かれている。時代は20世紀初め、1910-20年代である。小説はハクスリー自らの生き方と、重なるような部分も見せている。

 作家は神秘主義に深く入り込み、新たな精神世界の探索を求めて、精神科医のハンフリー・オズモンドに自ら幻覚剤の実験対象となることを希望し、メスカリンを服用したりしている。かなりメランコリックな状態にあることも分かる。また、死に望んでは、LSDの投与を妻に依頼していた。

 ハクスリーは小説、エッセイ、詩、旅行記、児童向け読み物など広範な文筆活動を展開した。『すばらしい新世界』Brave New World (1932)などは、ジョージ・オーウエルを思い起こさせる。そして、このブログでも触れたことのある魔女裁判の白眉『ルーダンの悪魔』 The Devils of Loudun(1952)などには、ハクスリーの神秘主義者としての関心がうかがわれる。さらに、ハクスリーはジョルジュ・ド・ラ・トゥールについても記している(The Doors of Perception and Heaven and Hell, 1954)。彼がどこでこの画家の作品を見たかはわからない。ラ・トゥールについて知っている、あるいは書き記している英国人は、わずかな数の美術史家、収集家を除くと、きわめて少ないからだ。しかも、画家の存在もあまり知られていない時代である。ここにもこの時代の底流に繊細に反応していた偉大な作家の視野の広さと鋭敏な感覚を感じる。

 オルダス・ハクスレーは、晩年アメリカにわたり、ハリウッドに住んだ。そこではあのクリストファー・イシャウッド、バートランド・ラッセル、クリス・ウッド、クリシュナムルティなどの神秘主義者のサークルとの交友もあった。この時代が持つ独特な不安、陰鬱な空気を感じる。ハクスレーは、1963年11月22日、ハリウッドの自宅で死去した。ジョン・F・ケネディがダラスで暗殺された日であった。

 

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晩夏;よみがえったある記憶

2012年09月03日 | 書棚の片隅から

 






画像拡大はクリックしてください。


  猛暑の日々も峠を越えたのか、暑さのなかにも秋の気配が感じられるようになった。晩夏の時である。この意味を実感するようになって、かなりの時が経過している。気温が下がり、脳内温度?が低くなったからか、思いがけない記憶が戻ってきた。

  以前に、シュティフターの『晩夏』について短いメモを、このブログに記した時には思い出すこともなかったことである。それが今頃になってまったく突然、閃いたのだ。そのこととは、文芸評論家の高橋英夫氏が書かれた「『晩夏』の無限時間 シュティフターを読む」と題したエッセイを読んだ記憶が、前後の脈絡もなくよみがえってきたことだ。すでに10年以上も前に手にした書籍である。しかし、その内容はかなり鮮明に記憶に残っていた。人間の頭脳の仕組みの複雑さを改めて実感する。

 後回しにすると、たいていは遠い彼方へ記憶が飛び去ってしまう。急ぎ思い浮かんだことのメモをとる。書棚に二重・三重に書籍が押し込まれ、奥の方の書籍は表題が見えなくなり、いまやほとんど本来の役をしなくなっている書庫に向かう。文字通り書棚の片隅ではあったが、案に反して意外に簡単に見つけることができた。

 エッセイは、高橋氏が某大学のドイツ文学科で毎週1回、学生とともに『晩夏』を読まれていたことから始まる。ドイツ語の本文だけで725ページもある著作であり、大学院生といえども、到底1年で読み通せる代物ではない(邦訳では文庫本二冊に収まり、大冊という感じはない)。現に高橋氏のエッセイが初出の『群像』に掲載された1992年時点で、購読開始後7年目になり、ようやくこの長大な著作のほぼ半分に達したところだと記されている。一年間で50ページ弱の進度だから、読了するまでには後7、8年はかかりそうだと記されている。

 もちろん、高橋氏は読了されており、それだからこそ思うことがあって、テキストに採用されたのだろう。しかし、もし学生がこの授業だけで読むとなると、15年近く在学しなければならないことになる。髪が白くなりそうで気の遠くなる時間である。もちろん、高橋氏自身、一年間で読了することなどはお考えになっていないようで、仮に一章しか読めなくても、折に触れて全体について適切な説明、補填はされていたのだろう。

 この作品、読んでいて時間が経過しているのか、ほとんど意識できない。高橋氏が「無限時間」と形容されているように、作品には悠久の時が流れ、ストーリー自体把握するに長い時間と忍耐を必要とする。シュティフターの構想とテーマ展開のあり方に改めて、考えさせられる。インターネット時代の人々にとっては、ほとんど耐えがたい緩やかさかもしれない。

 部分的にほぼ同様な経験をした筆者ではあるが、到底ドイツ語で一冊読み通してみようという意欲はまったく起きなかった。その後、藤村宏氏の翻訳が刊行されて、ようやく全貌を見通せるようになった。ドイツ語学習のテキストに、難解で主題の全容もほとんど分からないこの著作のわずか一部分を使用することは、他にいくらでも適当なテキストがあるのにとその時は思った。しかし、ドイツ語の能力は進歩しなかったが、この難解な作品の存在については、記憶の片隅にはっきり留められていた。脳細胞のどこかにかすかに生き残っていたのだった。

 本書を使ってドイツ語の購読を担当された先生は、その後若くして世を去られたが、高橋英夫氏同様、心中なにか期することがあって、テキストとして採用されたのだろう。

 夏の終わり、西の空の美しい夕焼けを見ながら、また一章でも読み直してみるかという気持ちが生まれている。

 

 


高橋英夫『ドイツを読む愉しみ』講談社、1998年

 

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ローマからパリへ; 芸術センターの移動

2012年08月09日 | 書棚の片隅から

Rome - Paris 1640, Transferts culturels et renaissance d'un centre artistique
Sous la direction de Marc Bayard
Collection d'histoire de l'art
ACADEMIE DE FRANCE A ROME-VILLA MEDiCIS
2010, pp588 
(cover)

  現代の世界で、芸術・美術の中心地(センター)はどこかと聞かれたら、皆さんはどこを思い浮かべるでしょう。。恐らく一つではなく、いくつかが目に浮かぶのではないでしょうか。今日、グローバル・シティと呼ばれる大都市、パリ、ロンドン、ローマ、ニューヨーク、東京、ベルリン、ワシントン、北京などは、それぞれに立派な博物館・美術館群を擁し、都市としても独自の文化的環境を形成・維持しています。

 しかし、17世紀前半までの長い間、イタリアのローマは、ほとんど独占的なアートセンターの地位を享受していました。世界の名だたる文人、芸術家たちは、イタリアの青い空を思い浮かべ、ローマを訪れることを生涯の願いとしていました。ローマは彼らにとって、大きな憧れの地だったのです。

文化は最重要な国家政策
 それとともに、諸国家の形成に伴って、自らの国に新たな文化センターを構築しようとの動きも高まっていました。とりわけ、絶対王政国家として発展の途上にあったブルボン朝フランスは、その中心都市パリをローマを凌ぐ「新たなローマ」に築き上げ、拡大しようと、歴代為政者は多大な努力を続けていました。この時代、政治と文化は切り離せない国家形成の重要な戦略的基軸でした。とりわけ、ルイ13世の下で絶大な権力を振るった宰相リシュリューは、フランス文化政策の強力な推進者だった。17世紀から18世紀にかけて、さまざまな政治・経済的浮沈はあったが、フランスは文化の交流・発展を国家戦略の前面に置き、その推進を図っていました。

  最初の推進者はルイ13世の下でのリシリュー枢機卿でしたが、彼の死後は美術に造詣が深く、その支援者であった重臣フランソワ・ノイェール(1589-1645)などが力を尽くしたが、晩年は不遇でした。その後、この政策はコルベールなどによって継承され、ローマにアカデミー・フランセーズを作るなどの事業が実施されました

宰相リシュリューの権力
 ここで、宰相リシュリューと芸術との関係に記しておく必要があります。このフランス王をもしのぐ権力者は、芸術を露骨に政治目的に使っていました。彼は軍事力と並び芸術文化の隆盛こそが、国家の威信を支えると考え、フランス絶対王政の基盤強化と国家的威信の拡大のため、ローマに匹敵し、さらにそれをしのぐ文化的基盤の形成が欠かせないと考えていました。これまでにもブログで断片的に記してきたフランスの目指した文化政策の方向は、ローマの古典的美術の流れを導入し、フランス風にさらに豪華・華麗のものとすることにありました。そして、その成果として、ローマを凌ぐフランス文化を築き挙げることが目標とされました。それが結果としてフランスの国威を高揚し、ヨーロッパ世界における中心的存在としてのフランスの威信と力を築き上げると考えていたのです。


推進者としてのリシュリュー 
 その政策達成のためには、今日では想像もしえないさまざまな手段がとられた。リシュリューはどの程度芸術を理解していたかという点については、ゴールドファーブなどの研究者は厳しい評価をしている。音楽、美術はよく分からなかったのではないかという。詩的センスも欠いていたとされる。しかし、こうした批判があったとしても、リシュリューはフランスの国家的栄光のために芸術を自らの権力でいかに活用するかに力を注いだ。彼は、詩は分からなくても演説は得意であり、文章にもたけていた。非凡な人物であったことは疑いない。

 その目的達成のためにリシュリューが描いた理想は、究極的にイタリアにおけるルネサンスおよび初期バロックの流れを汲むものをフランス、なかでもパリに導入・実現することであった。その第一段階として、イタリアの水準に追いつくことは、彼の文化政策の大きな目標となっていた。当時からローマとパリの間には、さまざまなアンビヴァレント(愛憎入り交じった)な関係があった。すでに記したように、多数のフランスの芸術家がローマを訪れ、修業し、その成果を具象化し、フランスへ還元してきた。

収奪的美術品の移転
 他方、フランス専制国家形成の具体化を急ぐあまり、イタリアの美術品の収奪、そしてパリへの強制移送ともいうべき行為も行われていました。これまで、あまり知られなかった事実もあります。そのひとつは大量の美術品ならびに宮殿などの造営材料である大理石を、イタリアからパリへ移送することでした。その量たるや、すさまじいものであったことが想像できます。

 当時、リシュリューは、著名な美術品や骨董品の商いを行っていた美術商ニコラ・ペイレスク(1580―1637)に、ローマからパリへの美術品の移送を依頼していた。ペイレスクが驚いたことは、リシュリューが金に糸目をつけず、とてつもない資金を注ぎ込み、骨董品などの美術品を入手しようとしていたことでした。リシュリューはイタリア各地に教皇の認可を得た多数の部下を送りこみ、手当たり次第に美術品などの買い付けを行いました。

 たとえば、1623年の例をみると、112体近い胸像、花瓶、立像などがローマから送り出されているが、その内訳はほとんどなにも記載されていません。とにかく、作品の質よりも量(数)を確保せよとの方針だったようです。目指す目的の実現のために、リシュリューがとった膨大な支出とあからさまな権力の行使に、ペイレスクは言葉を失っていました。

ガレー船による美術品移送 
 この年の移送には、なんと二艘のガレー船が使われています、船底には大理石などが積載され、その上に美術品が置かれました。ガレー船を漕ぐのは互いにつながれた奴隷でした。ガレー船は当時はほとんど帆船に取って代わられ時代遅れとなり、ほとんど使われなくなっていましたが、リシュリューは嵐など波風への対応という点では、ガレー船の方が操船が安定していると考えていた。

 ルイ13世の下で実行された
リシュリューの政策は、近代化の先駆といわれてきたが、実際には古代ローマの威信や勝利のイメージに支えられ、戦利品を積んで凱旋するローマの皇帝のような帝国的イメージに近いものだった。この時代錯誤的な、収奪的ともいえる買い付けと輸送もリシュリューにとっては、ローマ帝国盛時のイメージを呼び起こすものであったのだろう。これらの美術品や大理石は、建設中のパリのルーブル宮殿の装飾や、ポアトウのシャトー・リシュリューの造営のために使われました。芸術の都として世界に君臨するパリではあるが、その背景には植民地収奪のような、すさまじい美術品の移転があったのです。

 世界のアートセンターが、ローマからパリへと移転する歴史的な変動は、関連する画家や彫刻家たちにとっても、大きな関心事でした。とりわけプッサンのようなフランス出身の美術家たちにとっては、フランスに新たなパトロンをいかに獲得するかが大きな戦略目標となっていました。パトロンたちの好みや欲望、期待にいかに対応するか。パリのめぼしいパトロンを獲得しようとの画家たちの野望など、虚々実々の動きが進行し始めます。パリ招聘に先立って、リシュリューから作品を依頼されていたプッサンも、当初この動きに敏感に反応し、リシュリューの野望、名誉欲などを見通し、追従するなど、作品にさまざまな工夫をこらしていました。その後のプッサンのパリ訪問と顛末なども、新たな視点で見直すと、きわめて興味深い世界が見えてくるでしょう。

 



ガレー船のイメージ


本書はローマからパリへの芸術センターの移転の諸相をめぐるシンポジウムの報告書である。17世紀中頃をひとつのピークとする美術界の大きな潮流変化が新たな視角から論じられており、大変興味深い。

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産業革命の父?、産業スパイ?:サミュエル・スレーターの人生

2012年07月12日 | 書棚の片隅から

 

田園的環境の中に建設されたマサチュセッツ州ウオルサムのローウェル設計の繊維工場

左手工場建屋の前にはチャールズ川が流れる。従業員宿舎は林間に点在。
1814年当時の絵画
Source:The 100 events that shaped America, LIFE Special Report

ちなみに、この絵は、1975年刊行の写真雑誌 LiFE 「アメリカを創った100の出来事」に掲載されている。
この歴史を飾った著名雑誌も、2000年5月をもって最終号となった。


 




 ディケンズ・シンドロームは、なかなか抜けてくれない。まだかなりのめり込んでいる。作品を読んでいる間に、さまざまなキーワードが思い浮かんで、あれもこれもと確かめたくなる。ディケンズはまだ手にしていない作品も多く、生きている間にあと何冊読めるだろうかと思う。前回話題とした『アメリカ紀行』は日本の読者の間では、あまり面白くないとの感想もあるようだが、読む人の関心の深さによっても異なるようだ。管理人は数回目なのだが、読むたびに新しい発見がある。


 前回とりあげたローウエル訪問についても、日本の多くの人々にはその意義がつかみにくいかもしれない。しかし、当時(19世紀初め)のイギリス、アメリカ双方の国民にとって、この地はさまざまな意味で大きな注目の的だったのだ。この点を少し書き足してみよう。

 ディケンズ自身がその作品で、さまざまに描いているように、当時のイギリスの産業の労働条件は、繊維工業にとどまらず多くの分野で、児童労働を含めて苛酷、劣悪なものであった。それでも、産業革命の覇者イギリスは、世界の最先進国だった。ディケンズを含めて、イギリスの読者は、新大陸アメリカではかなり理想に近い工場システムが実現しているとの報道に多大な関心を抱いていた。当然、その実態を知りたくなるだろう。ディケンズがわざわざローウエルを訪れた最大の理由はそこにあった。


戦略的重みを持った繊維産業
 19世紀初期のイギリス、アメリカ両国にとって、繊維産業はいわば今日のIT産業に相当するような最重要な戦略産業であった。産業革命以来、世界の先進国であったイギリスは、繊維産業の技術が新大陸に流出することを極力警戒し、繊維関連機械の輸出禁止、関連印刷物の国外持ち出しを厳禁していた。繊維技術は、当時の最先端技術だったのだ。イギリスは世界をリードする繊維産業を擁していた。

 そこにサミュエル・スレーター Samuel Slater(1768ー1835)なる人物が登場する。スレ-ターは、イギリス生まれのアメリカ人企業家だった。スレ-ターは、イングランド、ダービーシャー、ベルパーの農家の8人兄弟の5番目として生まれた。家庭は貧しく、ほとんど小学校程度の教育しか受けられなかった。10歳の時、近くのクロムフォードに作られたアークライトが発明した水力による木綿製糸工場に働きに出た。しかし、1782年父親が世を去ると、彼は工場主ストラットのところへ徒弟奉公に出された。スレ-ターはここで最新の繊維生産技術について、十分な修業を受けた。そして21歳までに、木綿紡績の工場運営についての知識を完全に体得した。

 当時、スレ-ターは、新大陸アメリカで同種の機械の開発に関心が生まれていることを聞き及んだ。他方、イギリスの法律が機械のデザインを国外へ持ち出すことを厳禁していることも知った。スレ-ターは覚えられることをすべて記憶にとどめ、1789年にニューヨークへ向けて旅立った。

驚くべきスレーターの記憶力
 その後の展開を見ると、スレーターが厳重な警戒体制の下で、どこまで膨大な技術知識を文字通り「体得」して、いかなる形で実際の場で生かしたかという点については、きわめて興味深い問題が多々ある。たとえば、複雑な繊維機械の構造、工場建屋、宿舎などの付属施設、さらには労働者の雇用条件まで、ありとあらゆる側面に、彼の考えや知識が生かされているからだ。


 スレーターがアメリカへ到着したこの年、アメリカ、ロードアイランド州ポタケット(これも繊維産業史では大変著名な場所)に水力を利用して、繊維工場を建設しようとしていた企業家ブラウンがいた。技術はイギリスのアークライト方式に倣ったスピンドル・フレームをなんとか設計、設置したが、実用にならず頓挫していた。
 
 このことを知ったスレ-ターは、当の企業家ブラウンに、「イギリスで生産される木綿糸の品質に匹敵する製品が生産できなかったら、自分が提供するサーヴィスへの対価は一切いらない。その代わり、そこでなしとげたことはすべて川へ放り込む」と豪語して、工場建設への技術サービスの提供を申し出た。そのために要する投資の資金、得られた利益は折半の約束で、1790年両者は契約した。そして、途中いくつかの不備、欠陥はあったが、1791年にスレ-ターは工場が操業できるまでにこぎつけた。そして、1793年スレ-ターとブラウンは、ポタケットの工場を正式に開設した。

 スレ-ターは、当時のイギリスの工場で実用化されていたアークライト方式の機械の問題を知り尽くしており、アメリカでの実用化過程で、いくつかの独自の改良も加えた。ちなみにスレ-ターの妻ハンナ・ウイルキンソン・スレ-ターも綿糸の改良で、アメリカ女性として最初の特許取得者となった。



ロードアイランドでサミュエル・スレーターによって設計、製造された水力紡機。
1790年代にイギリスで使われた48スピンドルモデルに近い。
ワシントン・スミソニアン・インスティチューション
大きなイメージを見るには、画面をダブルクリック



評価が二分したスレーター
 大西洋を隔てて、サミュエル・スレーターのアメリカ、イギリス両国での評価は、大きく分かれることになった。アメリカではアンドリュー・ジャクソン第七代大統領が「アメリカ産業革命の父」と称えたが、イギリスでは「裏切り者のスレ-ター」にされてしまった。実は、この間のサミュエル・スレターとさまざまな関係者の動きは、十分に小説になるほど波乱万丈の面白さなのだが、とてもここには書きつくせない。


   
 スレーターのシステムでは、当初は繊維工場に雇用されたのは主として女性と子供(7-12歳)であった。しかし、その後は男性も含み家族のメンバーを対象とするようになった。要するに家族のメンバー全員を雇用する仕組みである。今でいえば会社城下町だが、工場の近くに宿舎、日用品店舗などを作り、教会の日曜学校を支援して子供たちに読み書きを教えたりした。

 スレーターはその後、多くの工場を建設するなどして、1829年にはSamuel Slater and Sonsと称する自分と息子が経営する企業に編成替えし、アメリカを代表する企業のひとつにまで育てあげた。特に、1807年にイギリスがアメリカへの繊維品の全面輸出禁止に踏み切ったこともあって、ニューイングランドの繊維産業は隆盛の時を迎える。


競争力を誇示したウオルサム・システム
 1800年代には、前回記したフランシス・キャボット・ローウエルが大変効率の良い木綿糸・織布の一体工場をマサチュセッツ州ウオルサムに建設。ローウエルの死去した後、「ウオルサム・システム」はきわめて成功し、技術的効率と高い株式配当で注目を集めた。その後、ローウエルの志を継いで、大規模にウオルサム・システムを採用したローウエルの町は、世界に知られるようになった。工場は当時としては画期的な同じ建屋の中での連続生産工程が採用されていた。新大陸では労働力は希少であったため、近隣の農家の若い女性を主力に雇用した。工場で働く労働者の七五%は女性だった。彼女たちは会社が建設した瀟洒な寄宿舎に住み、そこにはハウスマザーズといわれる舎監役の女性がいた。そして、工場では経験やスピードに応じて、毎週$2.50から$3.00が支払われた。これは現代の人には低いように思えるかもしれないが、当時のアメリカの産業では図抜けて良い報酬だった。そして、当時の先進国イギリスをはるかに凌いだ。ちなみに、男性は女性の2倍以上支払われたが、彼らは主として熟練工や監督者だった。こうした労働力構成のため、ローウエルの労働コストは強い競争力を持っていた。



Factory Girls と呼ばれた繊維工場で働く女性たち
Philip S. Foner ed The Factory Girls, University of Illinois Press, 1977, cover


 ディケンスがローウエルをわざわざ訪れたのは、イギリスのシステムをはるかにしのぐ隆盛ぶりが世界に聞こえていたこの企業を自分の目で見たいと思ったからだった。当時のヨーロッパの繊維工場の労働はイギリスを含め、「人間以下」Untermenschenと呼ばれた劣悪な状態であった。児童労働を含む低廉、劣悪な労働条件で経営が行われていた。

 

Sir Samuel Luke Filds,

"Houseless and Hungry"
1869, woods curving
Museum of London, details

ディケンズの時代、家なく、飢餓に苦しむ人々を描いた著名な木版画
 
 
  しかし、こうした牧歌的雰囲気を残したローウエル・タイプの企業は、1850年代になると激化した市場競争と新大陸への大量の移民流入によって、急速に競争力を失い、経営が立ちゆかなくなる。良き時代は急速に失われて行く。

 資本主義がすさまじい展開を始める時代の到来である。



* この記事を書き終えた時、ロンドン・オリンピック参加のアメリカ選手団のユニフォームが、帽子から靴まですべて中国製ということが判明、議論を呼んでいる。全部作り直せという強硬論もあるらしい。自分の着るユニフォームが、Made in China と分かった選手たちの心境は? ニュースのタイトルは、「いったい、どうなってるの」というような意味だが、どうなるでしょう。

"The US uniforms are made in China. How can it be?" ABC News, July 12th 2012.

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ディケンズのアメリカ: ローウエルへの旅

2012年07月03日 | 書棚の片隅から

 


チャールズ/ディケンズ『アメリカ覚え書き』ペンギン・クラシックス、
カヴァーの図柄は複数ある。
Charles Dickens, American Notes,edited by Benita Eisler, 
Penguin Classics, 1842, 2004, cover(various)

 

 『ローウエルだより』 表紙
The Lowell Offering: Writings by New England Mill Women (1840-45),
Harper Colophone books, 1977. cover





  「ディケンズ・シンドローム」にかかると、なかなか抜け出せない。なにしろ世界に文豪の名をほしいままにしてきたディケンズだけに、いずれの作品も読み出すと、手放せなくなる面白さがあって、結局それまで続けていた仕事を放り出して、読んでしまうことになる。今回も『大いなる遺産』を読んでいる間に、いくつかの気になる「キーワード」を思い出し
、『アメリカ紀行』などを読むことになった。実はこの作品、興味深い点が多々あって、これまでに数回は読んでいるのだが。

 ディケンズは生涯に二度(1842、1867年)、新大陸となったアメリカへ旅している。アメリカは、1783年に独立を達成したが、その後、ヨーロッパから多くの文化人が訪れた。チャールズ・ディケンズ(1812-1870)もそのひとりだった。

ディケンズ最初のアメリカ
 ディケンズ、最初の旅は、1842年1月から約半年間、アメリカの主として北東部から中西部の一部を旅している。ディケンズ29歳の時であった。しかし、文筆家として彼の名はすでに新大陸で広く知られていた。

 ディケンズが旅したこの地域は、個人的にも印象深い地が多く、読む度に数々のことが思い浮かんで、とてもブログなど書いていられないほどになる。
ちなみに、この旅でディケンズは、今日ニューイングランドといわれる北東部(ボストン、ニューヨークなどを含む)、セントローレンス川の流域カナダ側、ケベック、モントリオール、トロントから5大湖をナイアガラを経由、エリー湖から大草原地帯のシンシナティ、ルイヴィルなどオハイオ川をセントルイスまで行っている。 さらにニューヨークから南下し、フィラデルフィア、ボルティモア、ワシントン、リッチモンドまで旅した。

ディケンズが旅した地域、邦訳 6-7。 英語版にも簡単な地図がある。

 南部や西部、太平洋岸などへは行っていないので、アメリカ全域を知るということにはならないが、ディケンズという大作家が、当時のアメリカの社会のディテールをいかに感じたかが、生き生きと伝わってくる。

邦訳に出会う
 
これまでは、Penguin Classics の英語版で読んでいたが、たまたま書店で本邦初訳と銘打った文庫二冊(ディケンズ著『アメリカ紀行』、伊藤弘之・下笠徳次・隈元貞広訳、岩波文庫、2005年、原作1842年)が目に入ったので、今回はこれを読んでみた。英語版テキストは、アメリカとイタリアへの旅行記を同一書籍に含めたものも多いが、この文庫では別になっている。イタリア紀行も大変興味深く、これについても、記す機会があるかもしれない。




 
 この旅行記で、ディケンズは訪れた新大陸のさまざまな光景について、母国イングランドと比較しながら、賞賛やアイロニーを含めて生き生きと記している。
なかでも、大変興味深いのはアメリカと比較して、イングランドにおける社会福祉の遅れが指摘されていることだ。ディケンズがさまざまな作品で描いているヴィクトリア朝時代の労働や社会福祉の実態とアメリカのそれが比較されている。とりわけ個人的に興味深いのは、この作家がボストンから当時著名な繊維工業の町であったマサチュセッツ州ローウエル Lowell, Massachusettsまで脚を伸ばしていることだ。ローウエルは、ディケンズなどの著名人の訪問で、さらに有名になった。

 この町ローウエルは、知る人ぞ知るアメリカの繊維産業にとって記念すべき地である。起業家フランシス・カボット・ローウエル(1775-1817)によって、1813年、ウオルサム Waltham にアメリカ最初の木綿繊維工場が建設された。ローウエルの死後、1826年にコンコード川とメリマック川の岸辺に、ローウエルの同僚であったボストン・アソシエイツの設計によって、アメリカ最初の木綿繊維工業の都市として建設された。世界的に有名になり、チャールズ・ディケンス、デイヴィ・クロケットなど、世界中から著名人が訪れた。工場の発達とともに、ヤンキー・ミル・ガールズ(アメリカ人で繊維工場で働いた若い女性たち)に始まり、アイリッシュ、ドイツ、フレンチ・カナディアン、ジューイッシュ、ポルトガル、ポーランド、ヒスパニック、中国などアジア系移民が働くところとなった。

 ディケンズの訪問の目的は、当時すでに世界的に知られるようになっていたこの新しい工場の仕組みを、自分の目で確かめることにあった。実際に現地を見たディケンズには、母国イギリスの劣悪な労働条件の工場とは比較にならない、規律のとれた清潔な職場に見えたようだ。とりわけ、ディケンズはそこで働く若い女性たちの健全さに強い感銘を受けたようだ。彼は次のように記している:

 「私はここで厳かに明言するが、私がその日いろいろと異なる工場で見たすべての人の群れの中で、私に痛ましい印象を与えた若い人の顔は一つとして思い出すことも取り上げることもできないし、また、自分自身の手による労働によってその日の糧を得るのは当然のことであると考えたとして、私にその力があればそこでの労働から解放してやったであろうにという思いを抱かせるような若い娘も、一人としていなかった。」(邦訳 pp.150-151).

 さらに、ディケンズは次のようにも記している:

 「 ここで三つの事実を申し上げようと思うが、それは大西洋のこちら側の大多数の読者をびっくり仰天させるだろう。
   第一に、非常に多くの寄宿舎に共同出資によるピアノがある。第二に、ほとんどすべての若い女性たちは貸し出し図書館に出資している。第三に、彼女たちは『ローウエルだより』という名の定期刊行物─「工場で活発に働く女性たちによってのみ書かれた、独創的な記事の宝庫」 ─を自分たちで作成している。そして、それは、それ相応に印刷され、刊行され、売られる。私はそのうちの中身の濃い400ページをローウエルからはるばる持ち帰り、始めからおしまいまで読んだ。」(邦訳 p.153)。

 さらに、彼はこうも述べている:

 両国を比較したらその対照は強烈なものとなるだろう。というのも、それは「善」と「悪」、清明の光と暗黒の影という対照になるであろうから。それゆえ、そのような比較はしないことにする。そのほうが公正だと思うから。そこで、それだけにいっそう、これらのページに目を向けてくれるすべての人々に切に懇願するしかないのだ。しばしば立ち止まってこの町とわが国のどうしようもない犯罪の巣窟との違いをよく考えていただきたい。〔中略〕そしてまた、最後に、これが最も重要なことだが、貴重な「時間」がいかに猛スピードで過ぎ去っているかを思い出していただきたい。」(邦訳 pp157ー158)。



 ディケンズがイギリスの工場労働の苛酷・劣悪な状況と比較した時、このローウエルの工場の斬新さ、清潔さ、人間らしい労働環境はまさに新大陸が生んだ素晴らしい産物に見えたようだ。そして、母国の現実の早急な改善の必要を力説している。ローウエルの女性労働者たちは、それでも1日12時間は騒音に充ちた工場で働いていたのだが。

 この大作家が感銘して持ち帰って読んだ、働く女性たちの手で書かれた『ローウエルだより』 The Lowell Offering は、実はディケンズの後を追ったわけではないが、管理人も若い頃に夢中になって読んだ一冊であった(これは、いわば現代のホームページに相当するかもしれない。読んでいると、当時のローウエルで働いていた女性たちの話し声やざわめきなどが聞こえてくるような気がする)。そればかりでなく、ローウエルやメリマックなどの図書館、資料館まで出かけ、膨大な史料に圧倒されながらも、あるテーマの探索を続けたことがある。

 ローウエルに代表される工場制労働のユートピア的状況は、長くは続かなかった。厳しい資本主義の大波は、この静かな森の中に作られた牧歌的工場も呑み込んでしまう。



紙幣の図版にまで使われたローウエルの女性労働者
Source: "Lowell Girls" banknote, engraved by the American Banknote Company
ca. 1858. Prints Division, the New York Public Library, Astor, Lenax, and Tilden
Foundation.

 19世紀半ば、世界が注目した工場で働いた女性たちが残した文集 The Lowell Offering も、間もなく中止のやむなきにいたる。後年、記録の整理/編集に当たった編者 Benita Eislerは「あとがき」で次のように記している。

「『ローウエルだより』は、現実と神話の間に挟まれた時間を生きた女性たちの手になる、われわれの最も貴重な記録である。彼女たちが発行を中止のやむなきにいたった時に示した強い復活への願望に、われわれが応えられなかったことを恥ずかしく思う。」
(The Lowell Offering, p.217)



「シャトル・ボビンを巻く女性」
Woman winding shutle bobbins, after a drawing by Winslow Homer
in W. C. Bryant's Song of the Sower, 1871, Merrimack Valley Textile Museum.




The Lowell Offering, Writings by New England Mill Women (1840-1845),
edited with introduction and commentary by Benita Eisler. Harper Colophon Books, 1977, pp217.
 

 

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ディケンズ『大いなる遺産』再読

2012年06月25日 | 書棚の片隅から

 

Charles Dickens, Grreat Expectations,
Wordsworth Classics, 2007, cover


 
  今年
のイギリスは、オリンピック関連、エリザベス女王のダイアモンド・ジュビリーばかりが目立って報じられているが、実はもうひとつ大きな記念すべき年なのだ。イギリスの国民的作家チャールズ・ディケンズ(1812-1870)の生誕200年に当たる。しかし、周囲の若い人たちに聞いてみると名前は知っているが、作品は読んだことがないという人が案外多い。他方、ミュージカルは観たという人にはかなり出会った。本屋に本は溢れてはいるが、読みたい本は意外に少ない。一時期、棚全体を買いたいと思った時もあったが、最近は読みたい本に一冊も出会わずに店を出ることも多い。

 トルストイがシェークスピアを上回る作家と絶賛したといわれるが、ディケンズの作品は、人生の晩年を過ごしている管理人が読み返してみても、さまざまな意味で圧倒的に素晴らしいと思うのだが。

 ディケンズを読み始めたのは中学生の頃だろうか、両親の蔵書にあった『オリバー・ツイスト』、『デイヴィッド・コパーフィールド』、『二都物語』など、片端から読みふけった。訳者の名前は残念ながら思い出せない。最初の頃は多分「世界名作物語」などとして、子供向けに翻案したものだったろう。その後しばらくして、中野好夫氏の訳などで読んだ。自分の仕事が忙しかった間は大分熱が冷めて遠ざかっていたが、先年のイギリス滞在中にclassicsの棚にまたとりつかれ、日本ではあまり知られていない小さな作品を見つけては、今度は原書で読むようになった。思いがけない発見もあった。ディケンズについては、時間が許せば、もうひとつブログを開きたいくらいなのだが、もうその時間はない。

働かされる子供の姿
 この大作家の作品で最初に興味を惹かれるともにショックだったのは、子供が主人公で登場し、しかも子供たちがさまざまに虐待されている描写が多数あることだった。ヴィクトリア朝では日常の光景だったのだが、今日も根絶できないでいる児童労働とも重なるところが多い。主要作品をご存じの方々は、飢えに苦しんだオリヴァー、精神的に病んでしまったスマイク、いつも鞭打たれていたトラッドルとデイヴィッドなどが思い浮かぶのではないだろうか。このブログで、煙突の掃除人chimney sweepのことを書いたところ、予想外に多数のアクセスがあって驚いたこともある。

 かつてアメリカの20世紀初頭の児童労働・女子労働の膨大な文献に埋もれていた駆け出しの頃、イギリスの児童労働にもかなり関心を抱いていた。このブログにも時々、工場で働く子供たちのイメージを登場させたくなる。今でも2億人(5歳-17歳)を越える子供たちが苛酷な環境の下、世界中で働かされているのだ。

ディケンズ自らの体験が
 ディケンズは子供好きであったかという点については、必ずしもよく分からない。1836年に編集者の娘キャサリン・ホガースと結婚、10人の子供に恵まれた。そのうち男児は6人、いずれも名のある文士・文豪の名前をつけられていたが、誰も文学の世界では名をなさなかった。1847年に生まれた長子チャールズ・キュリフォード・ボズ・ディケンズ Charles Culliford Boz Dickensは、父親(Boz)の名声に負けてか、人生もうまくゆかなかったらしい。4番目の子は、アルフレッド・テニソン・ドルセイ・ディケンズ Alfred Tennyson D’Orsay Dickensというように大層な名前がつけられている。皆、荷が重かっただろう。他方、女の子はメアリーとかケイトなど、よくある名前だ。30歳ですでに著名な作家となっていたディケンズは、子供も大作家になることを期待したのだろうか。

 ディケンズの小説になぜ子供の描写が多いのか、本当のところは分からないが、作家が過ごした境遇とはかなり関連がありそうだ。ディケンズの生家は、いちおう中産階級の家庭ではあった。父親は海軍の会計係だったが、金銭感覚に乏しく、母親も同様であったらしい。そのため、生家のあったポーツマス郊外のランドポートからロンドンに移ってまもなくの1824年には家は破産している。ディケンズ自身、親戚の経営していた靴墨工場へ働きに出されている。明らかに、作家のこのつらい経験は、作品でその光景を描き出すことを通して、次の世代の子供たちが同様な苦しみをしないようにとの願いにつながっている。

『大いなる遺産』をめぐって
 ディケンズは、その後エリス/アンド・ブラックモア法律事務所に事務員として勤務したが、まもなく文才が見出されて、『モーニング・クロニクル』紙の記者をしながら、有名なボズ(Boz)というペンネームでエッセイを雑誌に投稿し始め、次第に注目を集めるようになった。
 
  最近読み直して、大変感動したのは名作中の名作といわれる『大いなる遺産』 Great Expectations(1860-61)
だ。

 たまたまBBCの番組 World Book Clubを聴いていて、その愛好者が全世界に広がっていることに改めて感動した。番組はハリエット・ギルバートという大変有能な女性モデレーターの司会で、世界中からコメントや感想を求めるというIT時代ならではのプログラムだ。お膝元のイギリスばかりでなく、インド、アフリカ、カナダ、オーストラリア、マセドニアなど、文字通りグローバルな次元に広がっている。残念ながら、日本からはコメントがなかった。

 ピーター・アクロイド Peter Ackroydなど、気鋭の研究者たちがさわりの部分を朗読したり、世界中の読者からの質問に答えるというディケンズ・ファンにはこたえられない番組になっている。ディケンズの小説は、読後に落ち込んでしまうということがない。それでいて、人生の機微を十二分に堪能させてくれる。どうも今頃になって「ディケンズ・シンドローム」に、かかってしまったようだ。とりたてて、ディケンズのファンではないつもりなのだが。

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リシュリューの軍隊

2012年06月12日 | 書棚の片隅から

 



David Parrott, RICHELIEU'S ARMY, cover



  アレクサンドル・デュマの「3銃士」をもう一度読む、できれば映画としてヴィジュアル化された形でも観てみたいと思った背景には、ある期待があった(今回の試みはその期待に応えてくれなかったが)。こうした歴史にかかわる映画は、その後の研究が進み、さまざまな面で時代考証が加えられているために、時に活字だけの原作に頼るよりは、収穫が大きいことがある。そのひとつの例は、最近見た映画『鉄の女ミセス・サッチャー』にもあてはまった。少し前に刊行された自叙伝 John Campbell. The Iron  Lady を読んでいたこともあって、次第に記憶から薄れつつあった現代史上の激動の時代への印象が強く甦ってきた。

「同時代人」の目で
 
このブログが右往左往しながらも、取り上げている17世紀フランスあるいはロレーヌ公国の世界は、まさに宰相・枢機卿リシュリューとルイ13世、そしてその後を継いだマザランとルイ14世が主要な歴史的人物として登場してくるヨーロッパ史の壮大な舞台であった。できうるかぎり、「その時代に生きた」(コンテンポラリーな)人が体験あるいは見聞した内容に近い環境(情報)で、この舞台を眺めてみたいというのが、本ブログ管理人の基本的スタンスなのだ。ラ・トゥールなどロレーヌの画家たちも、フランス王国とハプスブルグ家、神聖ローマ帝国、スペインなど大国に押しつぶされそうな小国で、歴史の波乱に翻弄されながらも生きていた。

 とりわけ、当時の中央ヨーロッパの実態を理解するについては、フランス、神聖ローマ帝国、スペインなど、大国の間に繰り広げられた幾多の戦争の実態への接近が不可欠に思われる。特に強大な神聖ローマ、ハプスブルグ家に対するフランスの対応が、きわめて大きな意味を持った。

 特にルイ13世の下で重用され、王をはるかに凌駕する政治力を発揮していた宰相リシュリュー(Armand Jean du Plessis, cardinal et duc de Richelieu, 1585年9月9日 - 1642年12月4日)の抱いていたといわれる世界観、構想とそれを実現するためのひとつの重要な手段である軍事力についての考え方を理解することが欠かせないと考えてきた。それは現実にはどの程度の計画性、現実性を持っていたのだろうか。リシュリューは枢機卿としてカトリック教会の聖職者であると同時に、フランス王国の政治家であった。1624年から1642年に死去するまで、ルイ13世の宰相を務めた。その権力は、王を介在してフランスを支配したといわれている。しかし、リシュリュー自身、その生涯において度々政治生命、そして自らの命を失いかねない危機に対していた。

「政治宣言」の本質
 リシュリューは、すでにこのブログでも一端を記したように、新大陸までを版図に含めた世界構想を持っていたといわれる。ヨーロッパの他の大国と争いつつ、その構想を実現するには、それを支える強力な軍事力、統率力、財政基盤などの支援が不可欠だった。

 この稀代の政略家、宰相リシュリューは自ら『政治宣言』 Testament Politiqueともいうべき構想において、自国フランスの持つ大きな問題を認識していた。彼は「地球上でフランスほど戦争に対応する力を備えていない国はない」と自国の抱えるさまざまな不安定さや気まぐれを批判している。このように自らが自国の軍事的弱点を自覚しつつも、「リシュリューの時代」ともいわれる、文字通り画期的な時期を築き上げた。
1624-42年の間における図抜けた戦略家リシュリューの行動は大きな関心事となる。実際、この時代におけるリシュリューの行動範囲を追っただけでも、驚嘆に値する。しかし、リシュリューの構想なるものは、どれだけ計画的に考えられ、将来を見通したものだったのだろうか。

 内部に重大な欠陥を抱えるフランス軍を指揮し、しばしば自ら戦場に赴き、そして時には教会や大貴族たち、そして最終的にはルイ13世の母后マリー・ド・メディシスから厳しく批判、攻撃されながらも、合従連衡、秘密協定などの機略を縦横に発揮して、絶対王制の道を築いていった。この希有な人物を深く理解するには、当時のヨーロッパ大陸で繰り広げられたさまざまな戦争での行動を理解することが不可欠だ。

 30年戦争は1635年に勃発したが、1642年のリシュリューの死去後も続き、漸く1660年までにハプスブルグ・スペイン優位の時代は終わりを告げ、ルイXIV世の時代が幕を開けようとしていた。

 リシュリューはヨーロッパ全域を視野に治めながらも、中央集権化と軍隊維持・運用の効率化を考えていた。長引くヨーロッパの戦争はフランスに多くの負担をかけた。そればかりでなく、戦争や反乱の火種は至るところにあり、兵力、軍備の対応においても、軍隊の中央集権的統制と関連支出の効率化は重要課題となっていた。

貴族が指揮する軍隊

 リシュリューの官僚は伝統的な行政・財政手段で軍をコントロールしようとしていた。1635年以前のフランス軍隊は、貴族による指揮・統制の下で戦争行動を行っていた。しかし、貴族階層にかなり根強く存在していた個人的反目、戦争展開時における構想や戦術スキルの欠如、判断能力などの点で無力な指揮官も多かった。

 実は近代初期、リシュリューの時代のフランスの軍事力については、軍隊の規模(兵員数)が大きな意味を持ち、戦争がヨーロッパ各地で拡大したこの時期に、兵員数が大きく増加し、「軍隊革命」ともいうべき、軍事史上の転機がもたらされたとの説が存在する。しかし、実際にはさまざまな理由で、その実態と実証には疑問が持たれてきた。 

 常時、大規模な軍隊を擁することは、財政的にも問題があり、宰相リシュリュー傘下の軍隊は、30年戦争当時、多く見積もっても7-8万人程度と推定されている(Parrott)。戦費調達の困難、無力な大臣と高い次元からの指揮、兵員に対する文官の多さ、しばしばみられる貴族のセパラティズム、反乱、時代遅れの戦術しか知らない、戦争上のスキルに欠ける貴族の指揮官など、軍隊は多くの問題を抱えていた。その中で、不利な体勢をどう克服するか。
リシュリューは軍人としては、アンギャン公(後のコンデ公ルイ2世)とテュレンヌを取り立て、この2人が30年戦争でフランス軍を率いて活躍することになる。

 長引く戦争で、戦費は国家の財政にとって大きな負担となり、リシュリューは塩税(gabelle)とタイユ税(土地税:taille)を引き上げている。しかし、聖職者、貴族そしてブルジョワは免税、不払いなどの道があり、リシュリューの財政計画は、各地で民衆・農民の暴動を引き起こしている。リシュリューはこれらの反乱にも、過酷に対応した。

厳しい処断
 
こうしたことで、リシュリュー自体も肉体的・精神的に厳しい日々を送った。軍隊を指揮する貴族層の中にも謀反を企図する者もあり、王やリシュリューは、時に驚くほど厳しい対応をしていた。とりわけ、単純な戦術上の失敗などには厳しい処断を下している。たとえば、画家ラ・トゥールの作品の愛好家であり、ロレーヌ知事としてリュネヴィルの防備に従事していたペダモン伯爵 comte de Pédamontは、1637年の戦闘で守備隊が降伏したことで、軍事裁判に処せられている(Parrott 493)

 リシュリューの『政治宣言』も書かれた背景にはこうした事情が存在する。他方、当時のひとつの特徴として、こうしたステートメントを発することで個人的な名声高揚の意味もあったようだ。とりわけ、リシュリューにはフランスの偉大さを誇示する基盤を長期的に構築しようとする意図があったとも推測されている。

ラ・トゥールの田園、帰去来
 
リシュリューに自らの作品 『枢機卿帽のある聖ヒエロニムス』を寄贈したジョルジュ・ド・ラ・トゥールにしてみれば、この権勢並ぶ者なき時代の立役者に庇護を求めたのは当然としても、心中いかなる思いだったのだろうか。リシュリューは、早くからロレーヌをフランスに併合することを目論んでいた。ラ・トゥールは結局、「王の画家」のタイトルを授与されながら、花の都パリを去り、再び動乱の祖国ロレーヌに戻り、そこで人生を終わる。




David Parrott, RICHELIEU’S ARMY, WAR, GOVERNMENT AND SOCIETY IN FRANCE, 1624-1642, Cambridge University Press, 2001.

 本書はほとんど未開拓であったこの分野に、膨大な資料探索を背景に迫った大作。

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美術書の印刷製本に見る技術進歩

2012年05月31日 | 書棚の片隅から


 初夏の訪れとともに、目に触れる植物などの生長の早さに驚かされる。半月ほど前まではほとんど緑が見えなかったような土地に、あっという間に雑草が生い茂っている。
 
 同じようなことが身の回りに起きる。1年も経たない間に、いつ増えたのか、書類・書籍が仕事場を覆うようになる。これまで何度も経験してきたことだ。時々、時間をかけて整理をしないと、必要なものがどこにあるのか分からなくなる。

 この作業自体は存外楽しいところがある。後でゆっくり読もうと思っていた本が、埋もれていた山の間から顔を出したりする。今回もいくつかおもいがけない発見をする。この書籍(表紙上掲)、10数年前にフランスの古書店で求めたものだが、その時はまったく気づかないで過ごしていたあることを発見し、驚いた。タイトルは下記のごとく、イタリア、SKIRA社の美術史シリーズの一巻である。

LA GRANDE HISTOIRE DE LA PEINTURE, RÉALISME ET CLASSICISME AU XVIIe SIÉCLE, Text de Julián Cállego, SKIRA, 1973, pp93.

 この書籍は題名から明らかなように17世紀、とりわけ1600-1670年頃のイタリア、フランスを中心に、リアリズムとクラシシズムの代表的な画家24名を選び、解説を試みたものである。ひとりひとり、主要作品の図版を入れて、紹介している。このブログでもおなじみの名前が多い。

  今回、整理をしながら驚いたことは、図版(一部を除きカラー印刷)の部分が、すべて別紙で貼り付けられていることであった。言い換えると、挿絵に当たる部分は、別に作成され、丁寧に該当ページに貼り付けられている。今回、気がついたのは、刊行されてから40年近い年月が経過し、日本の湿気の多い気象条件が影響したのか、図版が貼り付けられたページが、波を打って
歪んだようになっていることからであった。それまでは、うかつにも図版は本文と同じように、同ページに印刷されていると思っていた。

 1973年というと、カラー印刷が出始めた頃ではないだろうか。イタリアの著名な美術出版社だけに、印刷は大変美しく、近年の印刷と比較しても遜色ないほどである。本書がどのくらいの部数、印刷されたのか分からない。しかし、図版を一枚、一枚、該当ページにしっかりと貼り付ける作業は、かなり大変な労力を要したのではないかと思い、改めて時の経過と印刷技術の進歩に目が覚める思いをした。

LE CARAVAGE
BIERA
GENTILESCHI
VAN HONTHORST
TERBRUGHEN
CALLOT
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 図版が貼り付けられたページの見本

 

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時は移ろい流れて

2011年11月02日 | 書棚の片隅から

 

 

 

   思いがけないことから、マーガレット・サッチャーを知らない人々の時代にいることに気づかされた。その折、ふと思い出したのは、ヴァージニア・ウルフの名作『ダロウエイ夫人』 Mrs Dalloway1925年)だった。これまで文学とはおよそほど遠い分野で仕事をしてきたが、いわば人生の舞台の幕間に出会い、印象に残る文学作品のひとつであった。加えて、最近、ロンドンのビッグベンの内部見学を初めて許された日本人(40年以上にわたり京都大学時計塔守をしていた方)の話が『朝日新聞』(2011年10月29日夕刊)で報じられ、思い浮かんだこともある。

 ウエストミンスターに20年以上にわたって住む主人公ダロウエイ夫人は、鐘の音を聞くたびにさまざまなことを思い浮かべる。鐘の音は帰らぬ時を告げる響きでもある。この作品の象徴的なシーンだ**

 1997年
に映画化され、こちらも大変感銘を受けた。ダロウエイ夫人を演じたヴァネッサ・レッドグレイヴが素晴らしかった。さすがに両親、家族などの多くがスターである家系に咲いた大輪の花だ。舞台、スクリーン上では、すでに数々の栄誉に輝いていた大女優だが、この作品では特に大きな受賞はしていない。しかし、光と陰影が深く混じり合った役柄を見事に演じていた。ウルフの原作が忠実に描かれていたと思う。ヴァネッサ・レッドグレイヴには、個人的にも不思議と思い浮かぶことが多いのだが、ブログではとても書ききれない。

 
最初の出会い
 この作品を初めて手を取ったのは40歳代の頃だったろうか。大変緻密に考え抜かれた構成だが、なんとなく女性作家らしい繊細さを含みつつも憂鬱な作品だなあという読後感だった。これは同じ時に前後して読んだ『灯台へ』 To the Lighthouse についてもそうだった。それが、変わってきたのは、1990
年代半ばにイギリスにしばらく滞在した頃からだった。

 
せわしない日本の日々から解放され、人生に幾度もない貴重な幕間の時間を楽しんだ。ケンブリッジやロンドン市内の書店や画廊に時には週に2-3度足を運んだ。その折、書店のモダーン・クラシックスの棚で目にとまり、違った環境でもう一度読んでみようかと思い、手にした一冊だった。ヴァージニア・ウルフが、経済学者J.M. ケインズも属していたブルームズベリー・グループの一員であったことも、再読を促した背景にあった。

 第一次世界大戦後のロンドンでのクラリッサ・ダロウエイの一日が描かれている。イギリスの6月は光溢れ、爽やかで大変美しい。花々も一斉に咲き誇る。人々は、その時を待って薄暗く陰鬱な長い冬を耐えているかのようだ。政治家を夫に持つダロウエイ夫人は、その日、夫のためにパーティを開く予定を立てている。その一日の中に、彼女の人生の過去、現在、そして避けがたく忍び寄る老いと死が実に見事に重層的に描かれている。


すべてを一日の中に

 一日の中に人生を描き出す構成は、今まさに国家破綻の瀬戸際にあるギリシャの名映画監督テオ・アンゲロプロスによる『永遠と一日』(1998年、ギリシャ・フランス・イタリア合作)でも使われていたアイディアでもある。イギリスの政治家の夫人、バルカン半島の現代移民の前線と、背景はまったく異なる。唯一共通しているのは、作品を鑑賞する側の人生の年輪次第で印象が大きく異なってくることではないか。これほど人間の熟成度が問われる作品に出会うことは、そう頻繁にあることではない。

 
生来かなりの「本好き人間」であることは自認するのだが、近頃の書店で平積みにされている書籍のほとんどは手に取ることはない。書棚であまり人目につかない分野や片隅に押しやられているようなタイトルに関心を持ってきた。

 
この作品『ダロウエイ夫人』には実は多くのversions、そして翻訳があるようだ。最初に手にしたのは、Penguin Modern Classics に含まれた一冊だった。邦訳もいくつか存在するが、手元にあるものは、下記の丹治愛氏翻訳による一冊である。きわめて丁寧な翻訳に加えて、「訳者あとがき」には、作品ならびにヴァージニア・ウルフとその時代環境について、詳しい解説も付されている。混迷と不安に覆われる今日、人生の持つ意味、そしてその微妙に流れゆく世界にしばし浸ってみたいと思う方に、お勧めの一冊である。

 

 

 

 ヴァージニア・ウルフ(丹治愛訳)『ダロウエイ夫人』集英社、1998年。

 
そういえば、ケンブリッジでこの名作を翻訳された丹治ご夫妻にも、お会いしていた。せっかくの環境にいながら、ウルフについて詳しいお話をうかがう機会を逸したことを悔やんでいる。


**
 Mrs Dalloway STIFFENED on the kerb, waiting for Big Ben to strike. There! Out it boomed. She loved life;all was well once more now the War was over.

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「正義」の光と陰

2011年09月24日 | 書棚の片隅から

 

 最近、このブログで話題としたテーマが、ほどなくTV、雑誌などで形は変わるがほぼ似た内容で論じられることが重なり、少し不思議な思いをしている。

 昨日(9月23日)、ふと見た「マイケル・サンデル;究極の選択」(NHK総合午後10;00)で、ボストン、東京、上海の著名大学を結び、IT時代ならではのTV討論を行っていた。9月13日のブログで取り上げたばかりのテーマだった。

 
サンデル教授司会のシリーズ番組のようだが、他の番組は見ていない。今回のテーマは、9.11後、オサマ・ビン・ラディンの殺害をめぐって、オバマ大統領が行った演説に関わるものだった。


「正義」の難しさ
 

やはり、Justice has been done. 「正義は行われた」という大統領の発言について、9.11以後、アメリカの行った戦争とその結果(オサマ・ビン・ラディンの殺害)が、「正義」の名に値するか議論が展開した。学生らしい真摯で、しばしば苦悩のにじむ思考、発言があり、総体として好感が持てる構成ではあった。サンデル教授の手慣れた議論の裁き方も相変わらずだった。

 
しかし、ひとりの視聴者として見ると、この種の番組の常として、多くの満たされない思いがある。結論が出ないテーマであることは当初から予想されるとしても、議論が収斂する方向と詰めがかなり甘い。オープンエンドに近い終わり方だ。哲学者が時間の制約なく、ゆっくりと論理を積み重ねて考える「正義」と、核兵器を持ったテロリストが乗り込んで目標に近づいている一般旅客機を撃墜することに「正義」があるか否かを、TVの限定された時間に論じること自体、かなり危うい議論だ。幸い、大学という舞台を背景にしての机上の(機上の)空論?だから認められる内容でもある。

 
といって、こうした議論が意味がないというわけではない。「正義とはなにか」を問う議論が、国境を越えて行われることは、多少なりとも相互理解への道につながるだろう。戦争などの当事者がお互いの立場を理解することは望ましいことだし、それ以外に本質的解決への道はないだろう。しかし、議論の次元がグローバル化したといっても、今回の番組でも、ほとんどその域外に置かれたきわめて多数の人々がいることを注意しておかねばならない。

抜け落ちている問題
 
今回のテーマに限れば、最大の問題は、イスラム過激派の思想を代弁する人物の考えや反応を聞くことができないことだ。9.11に関連する一連の事件の舞台に登場しながらも、ほとんど正当に自らの考えを述べる機会を奪われている当事者が、発言する場を持っていない。

 
同時多発テロを実行する過激派の考えを知り、理解することは現実には困難だろう。しかし、相手側の考えが十分提示されることなく、「正義」を議論することはフェアとはいえない。その意味で、少なくも多数のイスラム教徒が同じ問題についてどう考えているか、ぜひ知りたい。そこに西欧人あるいは西欧的思考に慣れたわれわれとは異なった問題の理解や思考が存在することは十分ありうることだ。

 
今回の3カ国の大学に加えて、アフガニスタンやイラク、イランなどの大学の学生が参加していたならば、議論はかなり違った方向へ進んだ可能性もある。全体として、西欧、とりわけアメリカ的な議論の組み立てであることにかなりの違和感を感じる。

刻み込まれた陰 
 
かつて筆者が若い頃、大学院寄宿舎のルームメートとして一時期を送った頃、Jという友人の学生がいた。このブログにも記したことがあるが、彼は朝鮮戦争末期に兵士として派遣され、除隊、帰国後、帰還兵(Veteran)への優遇措置によって大学院生としてキャンパスへ戻っていた。一般の学生よりも、かなり年上だった。日常の生活は学生としての忙しさにとりまぎれ、表面的にはとりたてて異様なことはなかった。今思うと、口数がきわめて少ない彼は、アメリカ人学生よりも、外国人で英語もうまくない私と話すことを楽しみにしていたようだった。

 
しかし、彼には大きな悩みがあった。夜間、目が覚め、夢遊病の症状を示すのだ。長い間、本人自身気づいていなかったらしい。筆者自身も知らなかった。一度だけ真夜中に、Jが隣室にいないことに気づき、宿舎内と周囲を探したことがあった。その時は遠く離れたベンチにひとり座っていた。

 
その後、この原因となったトラウマ(心的外傷)を、私に打ち明けてくれたことがあった。戦場に出て初めて銃で「人」を撃ったとぽつりと言った。その結果は口にしなかったし、私もあえて聞くことはなかった。短い会話だった。戦場の光景をTVで見る時、ふとこの時のことが頭をかすめることがある。

 

 

 

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戦争・災厄の17世紀と現代

2011年09月20日 | 書棚の片隅から



Anthony van Dyck
Portrait of the Princes Palatine Charles-Louis I and his Brother Robert

1637
Oil on canvas, 132 x 152 cm
Musée du Louvre, Paris

プファルツ、あるいはパラティネートは、ドイツ南西部、ライン川西岸の地域に相当し、1945年まで旧バヴァリア州に所属;もと近隣の上プファルツとともに、神聖ローマ帝国の公領。
1632年、画家ヴァン・ダイクはイングランド王チャールズII世のお抱え画家として、王と兄弟の肖像などを多数制作した。30年戦争の発端となったプファルツ選帝侯領の若い美男の王子たちの肖像画だが、甲冑で武装していることに注意。


  ピーター・ウイルソンの大著『ヨーロッパの悲劇:30年戦争の歴史』を読むべきか否かで最初ためらったのは、その膨大なページ数と小さな活字であったことは、前回記した。英語で書かれた30年戦争史は、筆者の知るかぎりでもいくつかある。その中では、C.V.ウエッジウッド女史の著作がよく知られているが、その2倍近い量である。しかもウエッジウッドの著作から、さらに70年近い年月が経過している。その間に、世界史上に大きな名をとどめるこの戦争の評価にいかなる変化があったか、興味を惹かれた。とりわけ、これまでの戦史よりも格段に実証に重点が置かれており、実態をより客観的に知ることができるかもしれないと思ったことが、最終的に背中を押した。

労作を手にするまで
 珍しく手に取る前に考えさせられた作品だった。なにしろ、1616年5月23日の戦争勃発まで、前段階の記述だけで269ページもある。しかし、実際にも背景は複雑であり、著者はまずそれを丁寧に解きほぐしている。結果として、あきらめずに読んで良かったと著者に感謝することになった。30年戦争にかかわる文献は数多いのだが、特定の史観が強かったり、実証部分が十分でないものが多く、知りたい部分が扱われていない文献が目立つ。その点、本書は17世紀ヨーロッパ史に関心を持つ者にとって、ウエッジウッドの著作に比肩する必読文献となることはもはや明らかである。著者がこの作品にかけた情熱と努力の大きさに脱帽した。

 これまでの戦史でなかなか分かりにくかったのは、16世紀初頭、ハプスブルグ帝国の台頭の仕組みであり、急速にヨーロッパ世界に支配の手を広げる過程に生まれた数々のグローバルな難題だった。ハプスブルグ家はヨーロッパの主要王家との巧みな婚姻政策といくつかの幸運にも恵まれ、ヨーロッパ中央部での覇権を目指した。その後ほぼ2世紀半にわたり、ヨーロッパの国家体制は大きく変わる。これに加えて、近隣のオットーマン・トルコの台頭が重なり、1529年にはウイーンが占領される事態まで起きた。しかし、ウイルソンが評価するように、神聖ローマ帝国の政治体制は、選帝候領、侯爵領、自由都市国家など、小規模な単位が多数並立する複雑な体制をとりながら、予想以上に機能したようだ。



 

17世紀神聖ローマ帝国領邦都市のひとつ、プファルツ、カイザースラウテルン
Kaiserslautern
Stich von Matthäus Merian, um 1630

 帝国拡大と増大する不安
 さて、
ヨーロッパでの神聖ローマ帝国版図の拡大は、近隣諸国に大きな脅威となる。とりわけ、帝国の西側に位置するフランスはその拡大に対抗する必要を感じていた。その先頭に立っていたのが、宰相リシュリューだった。グローバルな視野を持ったこの希有な政治家への興味も一段と深まる。このブログにしばしば登場するロレーヌ公国は、この時期、2大勢力の緩衝地帯としてかろうじて存続しえた。

 戦争の背後には、宗教的要因も強く働いた。象徴的には1519年に始まったマルティン・ルッターのヴィッテンブルグ教会扉に釘で打ち付けられた「95箇条の論題」提示が契機となる。ヨーロッパの包括支配を目指すハプスブルグ家としては、教会も版図の中にしっかりと位置づける必要があった。しかし、30年戦争を根底で動かしたのは、ウイルソンが明確に提示するように宗教的対立ではなく、あくまで政治的覇権をめぐる争いであった。

 こうした国家体制、政治、宗教の大問題を背景に勃発した戦争は、ハプスブルグ家の思惑とは異なり、次々と各国の介入を生み出し、泥沼状態へ入り込む。1625年のデンマークの進入に始まり、スエーデン、フランス、スペインの進入軍との戦闘が続いた。戦争の拡大する過程では、悪疫や飢饉が重なり、事態を史上例がないほどの過酷で悲惨な状態へと追い込んでいった。戦争自体は断続的であったが、長引くほどに収拾のありかは遠のいた。主戦場となった地、とりわけドイツの領邦諸国は、その後長らく荒廃した。戦争がようやく終結した1648年時点で、神聖ローマ帝国領内で失われた人命は少なく見ても500万人、帝国の開戦前人口の20%近くに達していた。17世紀は天災、飢饉、悪疫などの頻発した時代でもあった。

現代へのつながり
 時代が下り、3世紀半近くが経過した今日、世界を震撼とさせた
9.11の回顧番組を見ていると、同時多発テロ勃発後、アフガン戦争、オサマ・ビン・ラディンの暗殺にいたる過程が、あの30年戦争にいくつかの点で似通った問題を抱えていることに考えさせられた。いうまでもなく、時代背景もまったく異なるのだが、人類がほとんど同じ過ちを繰り返していることに暗澹たる気持ちが強まる。地球上では今も戦火が絶えない。戦争は多くの人命を奪い、貴重な人類の資産を喪失させてしまう。戦勝国にとっても、冷静に考えると決して大きな利得が発生するわけではない。ベトナム戦争の過ちを繰り返さないとの触れ込みで始まったイラク戦争も拡大を続けた。今改めて振り返ると、最大の当事国アメリカにとっては、ベトナム戦争以上に国家的・社会的犠牲の大きな泥沼状態をもたらした。

 9.11の犠牲者になりすまし、被災者ネットワークの代表として売名を図る者の出現に象徴されるように、戦争はアメリカの財政危機をもたらしたばかりか、国民の間に深い精神的荒廃も生んだ。ビン・ラディン殺害で安堵しえないばかりか、アメリカ国民の心の傷跡はさらに深まったのではないか。次第に少なくなってきた同世代のアメリカの友人たちもこのテーマになると、一様に眉が曇る。大国アメリカの再生に大きな期待をかけられたオバマ大統領だが、再選への道は一段と厳しくなってきた。未曾有の天災・人災に見舞われ、大きな重荷を背負うことになった日本も、真の国家戦略・自立のあり方を問われている。

 
 

Peter H. Wilson. Europe's Tragedy:A New History of the Thirty Years War. London:Penguin Books, 2010, 995pp.


☆ 17世紀を振り返ることは、現代のあり方を考えることにつながるとの思いが強まるばかりです。災厄の多い年ですが、皆様のご無事、復旧・復興を祈っております。

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戦争の世紀;30年戦争そして9.11後の世界

2011年09月13日 | 書棚の片隅から

30年戦争の発端となった第二次プラハ窓外投擲事件を描いた当時の木版画
     Matthäus Merian the Elder (1593–1650)?


 神聖ローマ皇帝フェルディナンド2世は、ボヘミア王に選出されると新教徒に対する弾圧を強めた。1618年、5月23日、弾圧に反対する新教徒の貴族たちがプラハ王宮を襲い、国王顧問官ら3名を王宮執務室の窓から突き落とすという事件が起きた(ちなみに投げ出された顧問官などは幸い無傷だったらしい)。プロテスタントのボヘミア諸侯は、この事件を契機に団結し、反乱を起こす。

 

 世界を震撼させた
9.11の回顧番組を見ていると、同時多発テロ勃発後、アフガン戦争、オサマ・ビン・ラディンの暗殺にいたる過程が、30年戦争に多くの点で似通った問題を抱えていることに考えさせられた。いうまでもなく、時代背景もまったく異なるのだが、人類が同じ過ち、愚かさを幾度となく繰り返していることに暗澹たる気持ちが強まってくる。

 

*  横道に逸れるが、筆者にはアメリカがビン・ラディン殺害作戦に成功した日、オバマ大統領の演説でのJustice has been done. 「正義(報復)は行われた」という表現がひどく気になっている。Justice とは、誰がいかなる内容をもって定めたものか。確かに筆者の周辺にも長男を9.11で失った友人など、この世界に大きな衝撃を与えた、あの想像を絶する同時多発テロで深く傷ついた人たちもいるのだが。それに対する報復がそのままJusticeにつながるわけではない。そして、大統領は9.11の10周年追悼演説でも、われわれはイスラムを敵にしているのではないとも言っている。少なくも、アメリカあるいはその一部の人々が思う「正義」であり、世界に普遍的なJustice ではない。他方、オバマ大統領が信じている神はなにかという問題は、大統領選の間にも出ていた。犠牲者の関係者も含め、多くのアメリカ人は、この言葉を聞いて心中どう感じているのか。その心底をひとりひとり尋ねてみたい気がする。TV番組などの報道は数多いが、視聴者が知りたい問題は伝えてくれない。すでに亡くなったが、こうしたアプローチが得意であったスタッド・ターケルのような作家はいないだろうか。


閑話休題

 さて、多くの日本人にとって30年戦争が遠い存在であり、ほとんど理解されていない背景には、西洋史教育の問題があることはすでに前回ブログに指摘したが、そればかりではない。一面では、この戦争の実態が大変複雑で、1618年に勃発し、1648年に終結するまでの時間軸上でも、その内容が大きく変化したことにもある。これまでの歴史家の分類では、ハプスブルグ帝国に対抗する勢力や国家の名前を掲げて、通常次のような4段階に分類されている。


第1段階 ボヘミア・プファルツ戦争(1618-1623年)

第2段階 デンマーク・ニーダーザクセン戦争(1625-1629年)

第3段階 スウェーデン戦争(1630-1635年)

第4段階 フランス・スウェーデン戦争(1635-1648年)

 

 地域としては、今日のドイツを中心に展開した印象があるが、実際にはロレーヌなどを含む現在のフランス、オランダ、オーストリア、スイス、イタリア、ポーランド、スコットランドなどを包含していた、さらにスペイン、スエーデン、ローマ教皇庁などが積極的に介入していた。

 それにもかかわらず、30年戦争の主戦場となったのは、神聖ローマ帝国の版図の大きな部分を占めたドイツであった。戦争は宗教的対立から政治、経済、文化のあらゆる側面に甚大な影響をもたらした。

 このブログの関心事との関連では、美術、とりわけ絵画の分野における傷跡は深く残った。長らくドイツ人は「美術において野蛮人であるというトラウマ」を抱いていたといわれる。そしてその思いは若きゲーテにまで及んでいたようだ(ハンス・ベルティング『ドイツ人とドイツ美術』邦訳
pp.13-14
)。


 この問題は、30年戦争がドイツにもたらした精神的荒廃と強く結びついていると思う。だが、ブログという中途半端な場所で、30年戦史の広大な舞台に入り込むつもりはない。ただ、これまで日本ではほとんど知られていない部分を、同時代17世紀に生きた画家の世界と重ねて、できるかぎり同じ舞台装置の下で少しばかり考えてみたいと思うだけである(続く)。






Hans Belting. die Deutschen und ein Schwieriges Erbe. (仲間祐子訳『ドイツ人とドイツ美術~やっかいな遺産~』、晃洋書房、1998年)


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『ヨーロッパの悲劇: 30年戦争の新しい歴史』を読む

2011年09月07日 | 書棚の片隅から

 

 


 いつから始まったのか記憶が定かではないが、以前からごひいきのイギリスの老舗書店は、シーズンごとにお勧めの書籍リストを送ってきた。特に、
Summer’s Recommendations などと題して、夏の林間、休暇先での読書にお勧めという企画が多かった。大体500冊くらいお勧め本が並んでいる。時にはこれとは別に、筆者の専門分野のお勧めリストなるものを見計らい、制作し送ってくれたこともあった。最近では多くのメディアが同様な企画を行い、ホームページ上などに掲載している。IT
上の書店は、過去の購入記録を基に「お勧め欄」を設定してくれている。記憶力が落ちてきているので、忘れていたタイトルをそこで見つけて助けられることもあるが、頭の中を見透かされているようで開かないことも多い。

現代へつながる歴史の糸
 

わずかな読者の方しか脈絡をたどることができないかもしれないが、ブログ開設当時から少しずつ記している近世初期、17世紀の画家や小説の世界に始まり、現代まで、管理人が強い関心を寄せている時代がある。17世紀、1930年代、そして196070年代の世界である。いずれも「危機の時代」と呼ばれ、それぞれの時代固有の問題を抱えていた。

 

これらの時代を貫くものは、図らずも戦争とそれがもたらす荒廃であり、さらに戦争と強く結ばれた宗教、文化的課題であった。今年はあの9.11同時多発テロから10年目に当たるため、すでに多くの回顧番組・論評がなされている。それらの一部を目にしたにすぎないが、大変興味深い点の指摘がみられる。その時は事実と思った問題が実際は異なり、10年という時の経過を経てやっと見えてきた部分も数多い。歴史の評価には時の熟成が欠かせない。

 

読み応えのある大著 

 3.11東日本大震災の少し前から気になっていた一冊があった。17世紀ヨーロッパで勃発した30年戦争(1618-1648)に関する近刊のP.H.ウイルソンの大著だ。30年戦争はボヘミアにおけるプロテスタントの反乱を契機に勃発し、神聖ローマ帝国を舞台として、現在のヨーロッパ中央部のほぼ全域にわたり拡大した。日本の西洋史の教科では、通り一遍の記述しかされていない上に、遠いヨーロッパの出来事として説明も少なく、多くの日本人には実感が乏しい。

 

 しかし、30年戦争の実像を正しく把握することなくして、近世初期、17世紀ヨーロッパは理解できないと思う。世界史上最初の国際戦争ともいわれるこの戦争は、中央ヨーロッパのほぼ全域を覆い、政治、宗教が複雑に絡み合ったものであった。このブログでも30年戦争を直接とりあげたシラー(シルレル)、ウエッジウッドなどの戦史に触れてきたが、ともすれば結論先にありきとでもいえる印象が強く、客観的情報に欠け、知りたい部分が十分知りえず、隔靴掻痒の部分が残っていた。むしろ、30戦争を舞台とする周辺の著作の方がはるかに興味深かった。もっとも、ウエッジウッド女史の作品は時代考証もしっかりしており、ドイツの史家の思考が先走ってしまった作品よりも、際だって実証的であり、資料情報も豊富だった。


 この戦争がもたらした影響は、大陸ヨーロッパの全域に精神的にも深い傷跡を残した。とりわけ、ドイツ精神の基層において、黒死病よりも、第一次世界大戦、第二次世界大戦、そしてホロコーストよりも残酷にその傷跡をとどめているとさえいわれる。ドイツ人の四分の一近くが死亡したともいわれ、ドイツの長きにわたる荒廃をもたらした。「ヴァレンシュタイン」の劇作は今でも人気があると聞く。今年4月に刊行された『シュピーゲル』誌の歴史特集も、30年戦争が主題だ。

 

 17世紀ヨーロッパに関心を抱くようになってから、シラーなどのストーリーが先にできあがっているような作品ではなく、史実に根を下ろし、全体的展望ができる作品はないかと思っていた。折しも、その点をかなり解明してくれるのではと思ったのが、2009年に刊行され、世界で絶賛を集めた大作、Peter H.Wilson. Europe's Tragedy; A New History of the Thirty Years Warである。主題は30年戦争を対象としながらも、『ヨーロッパの悲劇』である。

 30年戦争では大陸から離れ、高見の見物?とでもみられかねない立場にあったイギリスの歴史家による著作であり、かえって冷静に全体を見通せたのではないかと思われる作品だ。しかし、ほとんど
1,000ページに及ぶ大作であり、ためらっていたが、意を決して読み始めた。直ちに引き込まれたのだが、大著な上に活字のポイント数がきわめて小さく、ついに老眼鏡を作ることになった(笑)。しかし、苦労してなんとか読み終えた印象は、複雑な背景が見事に整理されており、著者のエネルギーに圧倒された。30年戦争に関する決定版ともいえる。歴史家ポウル・ケネディが絶賛しただけのことはある。シラーなどの大著と比較しても、格段に明快である。17世紀を学ぶ者には、本書は必読文献のひとつとなるだろう。

 

 表紙にはすでにこのブログではおなじみのロレーヌの銅版画家ジャック・カロのあまりに有名な光景が使われている。神聖ローマ帝国とフランス王国との間に挟まれた小国ロレーヌ公国が繁栄の時代を享受し、文化の花も開花させたにもかかわらず、その後自滅への道をたどる過程も壮大なドラマの中で的確に位置づけられている。

 
 ロレーヌは形の上では神聖ローマ帝国の一部を形成していたが、実際にはかなり幅広く自律性を維持し、歴代君主はフランスの王室や政治にもさまざまに介入、連携していた。一時は巧みな外交政策で、大国の狭間を生きていたロレーヌ公国がいかなる齟齬をきっかけに反転、衰退して行くか。中央ヨーロッパ全体の展望の中で、その有り様を確認してみたいと思ったことも、本書を手に取った動機のひとつであった。とはいえ、この大作の読後感は簡単にはまとめられない。今後、折に触れて解きほぐしていきたい。

 

Peter H. Wilson. Europe's TRAGEDY: A New History of the Thirty Years War. London:Penguin Books, 2010, pp.996.

C.V. Wedgwood. Der Dreissigisjahrige Krieg; Die Ur-Katastrophe der Deutschen

"Der Dreissigjährige Krieg; Die Ur-Katastrophe der Deutschen" DER SPIEGEL, NR.4  1  2

 

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