時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

幸せは歩いてこない

2011年06月04日 | 特別記事

 6月2日のNHK「クローズアップ現代」が、「幸せのモノサシづくり:震災後」という問題をとりあげていた。比較的、現実的な問題が多いこの番組にしては、少し珍しい?テーマかもしれない。哲学的な大問題でもあり、30分弱の時間で説得的な答がでるとはとても考えられない。国谷裕子さんと糸井重里さんの対談だったが、やはり上滑りの感は否めない。しかし、こうした問題が提起されること自体は、望ましいことだ。

 「1億総中流社会」というかつて流行したフレーズをご記憶だろうか。最近ある会合で、この言葉を今どう感じているか、話のタネにしてみた。出席者の年齢層はばらばらだったが、一瞬にして白けた空気がその場に広がった。日本にそんな時代があったのかという雰囲気だった。

 1990年代初めのバブル崩壊後、所得や資産の拡大が進んだ。震災前には「格差社会」という表現が流行語になっていた。「総中流」時代と比較して、21世紀に入ると、日本社会には傲慢、怨嗟、不安、鬱屈、疲れなど、さまざまなゆがんだ要素が目立つようになった。実はこうした不満の種は既にバブル期に胚胎していた。見せかけの繁栄の裏側に隠されていた社会的不満も、バブルの崩壊に伴って目に見えるようになった。

 その後ほぼ20年にわたって、格差が生み出す問題是正の必要が指摘されながらも、政策の実効は見えてこなかった。人口の高齢化は急速に進み、経済力でも中国に追い越され、日本は息切れしたランナーのようになった。

 「諸悪の根源」は政治?と思い込み、急速に深刻化する問題も、政権さえ代わればなんとか解決できるのでは?と考えられてきたふしがある。そして、世界があきれるほど次々に政治指導者を取り替えてきた。まるで着せ替え人形のようだった。この日本人の「取替え病」は、度を超えてひどくなっていった。しかし、取り替えて一瞬は変わったかにみえても、着せ替え人形の常として、中身が変わることはなかった。日本人自身が変われなかったのだ。「日本破壊計画;未来の扉を開くために」『朝日ジャーナル』(週間朝日緊急増刊3月15日)といった過激な見出しまで現れていた(ちなみに掲載されている原稿のほとんどは、大震災の前に書かれたようだ)。

 自らを変えることのできない愚かさをあざ笑うかのごとく、突如として世界が経験したこともないような大震災が日本を襲う。大地震、津波、原発の重複した恐怖を体験し、生きながらにして、この世の終わりのごとき有様を多くの人々が見ることになった。そこで、ひとはなにを考えただろうか。

 この時代の評価が定まるのは遠い先のことになる。しかし、その表現の形は多様だが、多くの日本人が考えていることのひとつは、人間が生きるということはどういうことなのかという命題ではないだろうか。これだけの苦難を経験して、人間の幸せとは、いったいなになのか人類は「進歩」しているのか。実はこのテーマ、このブログでも何度かとりあげてきた。いうまでもなく、こちらも答えが出ずにさまよっている(幸福の落ちくだりゆくとき)。

 ひとつ分かってきたのは、「幸せ(あるいは幸福)」なるものは、待っていれば棚から落ちてくるようなものではないという至極当たり前のことだ。時には、「幸せ」というものは、実際に存在するのか認知できないほど、はかないものだ。ある人にとって幸福と感じられることが、別の人にはそれとは程遠いものであることも多い。「幸せのモノサシ」は容易には作れない。そもそもモノサシなどあるのだろうか。「最小不幸社会」なるわかりにくいスローガンは、表現そして説明の拙劣さも手伝って、結局国民からモノサシとは受け止められなかった。

  こんなことをとめどなく考えながら、人間世界の苦難をよそに、今年も確実に開花している美しい花々をしばし眺めていた。そういえば、今年は例年記してきたチューリップについて、書くことをすっかり忘れていた。赤い色は、人々に力を与えてくれる。

 

 

 

 

 

 

 殺伐たる風景からしばし目を転じてみました。さて、ここはどこでしょう。

 被災地に花々が咲き乱れる日はいつのことか。ひたすらその日の速やかなことを祈るばかり。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎮魂の旅から(2)

2011年05月16日 | 特別記事

 

 2011年もほとんど半分が過ぎてしまった。今年ほど時の経過が早いと思った年も少ない。これから先半年の間に、何が起こるかそれこそ神のみぞ知ることだが、世界史において、稀に見る激動の年として記録されることはほぼ間違いない。そのひとつはいうまでもなく、3月11日、日本を襲った東日本大震災である。そして、もうひとつは5月2日のオサマ・ビン・ラディンの米軍による殺害である。

 後者については、日本では大震災の報道の中にやや埋もれた感があるが、世界ではすでに、多くのことが語られている。筆者の網膜に深く刻まれてしまったひとつの映像がある。当日、オバマ大統領、クリントン国務長官などホワイトハウスの高官たちが固唾をのんで殺害作戦の実行過程をディスプレイで注視している光景だ。ひとりの人間を殺害する一部始終を、それを指示した当事者が見ているというきわめて異様な映像である。舞台背景の相違などを考慮しなければ、まさに「暗殺者」assasin が、相手を殺害するにいたる過程なのだ。

 ちなみに、assasin とは、『オックスフォード英語辞典』OEDによると、通例、政治家や公職にある重要人物の殺害者に限って用いられる。さらに、語源を遡れば、十字軍時代のアサシン派Assassinを意味し、イスラム教イスマイル派の分派ニザール派の異称であり、北ペルシア(1094ー1256年)を支配し、秘密暗殺団を組織し、貴族、政治家、十字軍などを襲った。戦闘的な狂信的集団であり、要人の殺害に向かう折にはハッシシ(大麻)を飲用するのを習慣としたといわれる。

 オサマ・ビン・ラディンという人物について、ある「死亡記事」Obituaryを読みながら、さまざまなことを考えさせられた。ブログには到底書ききれない思いがある。記事は54歳ですでに現世を去った人物への儀礼もあって、淡々と記されている。その中に次のような一節があった。

 彼の5人の妻のひとりによると、あるところに、向日葵(ヒマワリ)を愛し、蜂蜜入りのヨーグルトを好んだ男がいた。彼は子供たちを浜辺に連れてゆき、星空の下で寝かせた。BBCのワールド・サービス番組を好み、金曜日になると友達と連れだって狩りに出かけた。時には預言者のように白馬に乗っての狩りだった。男はこの対照を好んだ。男が人生で最もよかったと述べたことは、伝えられるところでは、彼の起こしたジハード(聖戦)が、世界を征しているスーパーパワーは不滅だという神話を破壊したことだった。

 記事にはビン・ラディンが述べたこととして、さらに次のごときくだりもあった: 純粋のイスラム教徒とアメリカ人の違いは、アメリカ人は人生を愛するが、イスラムは死を愛する

 この時代を激動させた男の評価は、まだ定まっていない。しかし、一人の人間をめぐる時代の狂気のゆえに、数限りない命が失われ、多くの悲劇が生じた。悲劇は幕を下ろしていない。原子力と宗教という一見遠くかけ離れた存在をめぐって、あまりに多くの狂気が踊っている。そこに理性を取り戻すには、微かにしか聞こえない声に耳を澄ます必要がある。

 Obituary  Osama bin Ladin, The Economist May 7th 2011.

 


=================

 この旅で、予定外で大きな収穫となったのは、京都で開催されていたふたつの特別展であった。このテーマについては、とてもここには書ききれない。

法然上人八〇〇回忌特別展『法然 生涯と美術』(京都国立博物館)
親鸞聖人七五〇回忌『親鸞展 生涯とゆかりの名宝』(京都市立美術館)













 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎮魂の旅から(1)

2011年05月07日 | 特別記事



 このところ、多くの知人、友人との別れがあった。その中には、大震災の最中、突然病を得てなくなられたS先生もおられた。かねて「見るべきものは見つ」といわれていただけに、3.11大震災の一端を体験された直後に亡くなられたことは、お望みの通りの人生であったと思いたい。あの地震と津波がもたらしたすさまじい光景は、多くの人にとっても、一時は末世ここにきわまったように見えたのではないか。不安と騒然とした空気が漂うなか、メディアの注目も逃れ、別れは唐突ではあったが、名実共に激動の年月を過ごされた方の人生を閉じるにふさわしく、厳粛なものであった。

 日本では余震が続く時、オサマ・ビン・ラビンの米軍による殺害が発表された。9.11のワールド・トレード・センターで最愛の息子を失った友人にも、ひとつの区切りがついたようだ。アメリカのメディアの一部には、同胞の敵討ちを果たしたような報道もみられる。しかし、すでにアルカイダの報復宣言もなされている。新たな不安の始まりにすぎない。この時代の狂気に終止符を打つことはきわめて難しい。
 
 いくつかの仕事が重なり、小さな旅をする。節電で暗い東日本を離れて西へ向かうと、なにごともなかったような明るい日本がそこにあった。しかし、落ち着いてみれば、そこここに込められた被災地への思いに慰められる。阪神・姫路大震災を経験した西は、今度は東を支援することになった。かつて、信じられないほどの苦難の日々を過ごした西の人々の経験は、さまざまな形で支援の活動に生かされている。

 短い旅を決めさせたのは鎮魂の思いだった。故人がこよなく愛した古寺がある地を訪れることだった。名残の桜も美しく、やわらかな初夏の光が竹林の間から射し込んでいた。

































コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春を届ける

2011年04月22日 | 特別記事

  震災発生後40日近く経過したのに、なんとなく落ち着かない日々を過ごしている。幸い自分は被災は免れたが、何人かの知人、友人、親戚が被災あるいはそれに近い状態となった。福島第一原発の30キロ圏の少し外側に住むいとこの家族などが抱く不安は、痛いほど伝わってくる。目に見えない放射能という存在、そしてシーベルトという、日常ほとんど聞いたことがない数値で生活を規制される日々が、どんなものであるのか。

 お花見などの気分とはほど遠い日を過ごすうちに、桜も盛りを過ぎてしまっていた。春は世の中の騒然さなどお構いなしに、近くに来ていたのだ。町中で、ふと目についた春の色を少しだけお届けしたい。




被災地そして日本の新生を祈りながら

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

揺らいでいるものは

2011年04月16日 | 特別記事

Georges de Latour. The Magdalene with Two Flames, The Metropolitan Museum of Arts, New York, details.




 

 311日、ひとつの天変地異がこの国を変えてしまった。いや、今も変わりつつあるというのが正確だろう。変わりえなかったら、この国に未来はないのだ。皮肉なことに、過去20年余、政治家たちがいくら変えようとしても変わらなかった国が、一日で激変した。しかし、さらにどう変わるのかは誰も分からない。


 変わることがはっきりしていることのひとつは、この国に新たな原発が生まれることはもはやないということだけだ。福島第一原発の「埋葬」だけでも、10年以上、数十年はかかるかもしれないといわれている。放射能による汚染水を「石棺」墳墓の掘り割りに引き込むわけにも行くまい。どうするのだろうか。専門家たちは口を閉ざしている。

 世界で唯一の被ばく国であるこの国が、自ら作った原発のために被災・被ばくし、他の国まで巻き込んでいる実態には、言葉もない。

 どの程度正確な比較か判然としないが、マグニチュード9は、広島に落とされた原爆の3万発に相当するという。被災地の惨状は、それを否定させない。

 

 戦前1923年の関東大震災、第二次大戦での原爆被ばく、敗戦、神戸・淡路大震災など、大天災・人災は、そのつどこの国の姿・あり方を大きく変えてきた。東日本大震災がいかなる変化を生み出すか、今の段階では誰も語れない。

 

 福島第一原発の報道に関わった専門家・解説者といわれる人々の発言も、当初は楽観的な見通しを述べていたが、日ごとに説得力を失い、ただ危機が近づいていることを述べるだけだ。国民として最も聞きたいことは、語られることがない。TVなどの影響力あるメディアに登場する人々は、正しい情報を正確に伝える責任がある。

 

 カール・マルクスが娘イエニーに残したモットー、「すべてを疑え」が思い浮かぶ。疑うことは、真理の発見につながる道だ。今、揺らいでいるのは、足下の地盤や蝋燭の焔に限らない。政府や専門家への信頼もまた大きく揺らいでいる。

 

* “The Fallout” The Economist March 19th, 2010

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幸福が落ちくだりゆくとき

2011年04月01日 | 特別記事


ジョルジュ・ド・ラ・トゥール『灯火のあるマグダラのマリア』ルーブル美術館(部分)




なんと、わたしたちは、悲痛の持続に目を据えて

悲しみが終わらないのではないか、と思い込むのだ。だが、むし

                       ろ、悲痛こそまぎれもなく、

冬を耐えるわたしたちの簇葉(ぞくよう)、濃く意味深い緑の冬蔦(ふゆづた)

ひそやかな心の年の季(とき)のひとつ――いな季にとどまらず――

場所であり、村落、臥床(ふしど)、土地、住処なのだ。

 

さあれ、ああ、悩みの都市の巷(ちまた)のなんと異(い)なることか。

競いあう騒音が生むいつわりの静寂のなかに、

空虚の型で造られた鋳物が傲然とそびえ立つ、

金メッキの喧噪、破裂音の記念碑(モニュメント)が。

おお、天使ならばこの慰安の市(いち)を跡形なく踏みしだいてしまお

                                  うものを、

(中略)

そしてわたしたち、上昇する幸福を

心に思っているわたしたちは、驚愕にも似た

感動をおぼえることだろう、

幸福が落ちくだりゆくとき。  

 

Und wir, die an steigendes Glück
denken, empfänden die Rührung,
die uns beinah bestürzt,
wenn ein Glückliches fällt.

出所;
R。M.リルケ「ドゥイノの悲歌:第十の悲歌」(檜山哲彦訳)『ドイツ名詩選』(生野孝吉・檜山哲彦選)岩波文庫、

19932009年。
原詩、訳詩は一部分のみ引用。日本語訳のふりがなは( )内に記入。傍点は太字代用。
なお、『ドゥイノの悲歌』の全訳については、手塚富雄訳(岩波文庫、1957、2010改版)に詳細な註解と解説が付されている。

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 

 この国が再び確固として立ち上がれるか、私には分からない。

いずれにせよ、果てしなく長い苦難の道が待っている。

幸い、わたくしはその行く末を見ることはない。

再びこの国に光が射すならば、きっと世界に

誇れる素晴らしい国となっているだろう。

大きな苦しみを堪え忍び、心の痛みを癒しつつ

分け隔てなく人を愛することができる国に。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

若者よ北を目指そう:新生日本・ニューディールへの道

2011年03月25日 | 特別記事

  
 
文字通り晴天の霹靂の大震災。身近に被災された方も出て、落ち着かない。考えてしまうのは、この国の近未来の姿だ。とりわけ、次の世代のことが気になる。

復興の主体
 「復興庁」設置の構想も出始めたようだが、復興のあり方、輪郭が今の段階ではきわめて読みがたい。とりわけ日を追って深刻化した原発問題の解決が焦眉の大問題だ。最大の不安の根源をまず抑え込まねばならない。

 目前の問題に対応しながらも、今後のことも考えねばならない。今回のような事態を、将来絶対に起こさないような安全な町作り、地域計画は誰もが望むところだ。しかし、現在の混乱した状況では、満足しうる内容で将来像の構築が行われるとは到底思えない。地震、津波、原発被災など、考えられる天災・人災から次の世代を守る構想・計画が直ちに出てくるとはおよそ考えられない。これまで出来ていなかったことが、急にできるとは思えないからだ。

 しかし、復興が過去の延長線の上に構想されることだけは、どうしても避けねばならない。この惨事を次の世代で、再び繰り返すようなことは、なんとしても避けねばならない。新しい発想が必要だ。中央と地方の活動の抜本的仕切り直しなど、こうした時しかできないこともある。日本の将来を見据えての決断の時でもある。

 とりあえず、地域の経験の尊重と専門家の提言のすりあわせが必要だろう。阪神淡路大震災の経験は十分に生かさねばならない。安全で健康な地域生活の構築に向けて、少なくとも政策基本軸の設定が必要だ。復興に向けた特別税導入など、財源の創出は欠かせない
。考えるべき対象は被災地にとどまらない。巨大化しすぎた東京都の機能分割、移転は、焦眉の急務だが、都知事候補たちの頭の中にはありそうもない。

 いずれにしても、いまや日本の再生とほとんど同義となった大震災の復興には、想像を絶する数の人々の参加が必要になっている。今こそ「日本・ニューディール計画」が、新たな条件の下で構築される必要がある。とはいっても、それが十全たる形で形成されるのを待っている時間的余裕はない。走りながら考え、軌道修正するのが現実的な姿だろう。
 

大恐慌期の経験に学ぶ
 こうしたなかで、ある記事に出会う*1。このブログでも、取り上げたことのある「
トライアングル・シャツ会社火災事件」である。
1911325日に起きたニューヨーク市のトライアングル・シャツ社の火災惨事をめぐる歴史的出来事である。今月は図らずも、事件発生後100年目に当たり、アメリカではさまざまな記念行事が行われている。 

 実は、この事件が契機となって、1930年代の世界大恐慌に対処するため、アメリカのローズヴェルト大統領が実施した一連の経済・社会政策、「ニューディール」政策が策定され、展開することになったといわれている。女性として初めて労働長官となった、フランセス・パーキンス女史が、後に1911325日を「ニューディール」が始まった年とした。

 
アメリカについてかなり詳しい人でもこの事件をご存じない人が多いのだが、アメリカ社会史においてはきわめて重要な出来事であり、今日でも新たな研究書を含めて多数の刊行物が世に出ている。災害の規模や時代背景は大きく異なっているが、今回の大震災の復興のあり方を考えるについて、いくつかの貴重な材料が含まれている。

 大きな社会改革は、しばしば甚大な被害をもたらした天災・人災などを契機として、発想され、展開することはよく知られている。このたびの「禍を転じて福とする」ことができるだろうか。
  
アメリカを変えた火災事件
 トライアングル・シャツ事件の概略は、上述の本ブログ記事などをご参照いただければよいのだが、これまでブログ読者その他からお問い合わせもあったので、この際一般向きではあるが、きわめて優れた実態報告でもある、デイヴィッド・フォン・ドレール『トライアングル:アメリカを変えた火災事件』*2を、改めて紹介しておきたい。 

 1911年3月25日、退社時に近い頃、ニューヨーク市グリニッチの「トライアングルシャツ社」ビルの作業場から出火した。従業員の中には、帰り支度をしていた人もいた。しかし、火災が発生した時、緊急避難口のドアの鍵がかけられていた。

 この度の福島原発事故での対応には、特別の高層ビル火災にピンポイントで対応できる消防車が使用されていたが、当時、ニューヨーク市の消防隊の高層ビル用はしごは、
6階までしか届かなかった。火災発生の階までわずか6メートル足りなかった。火災は、7階から上階へと燃え広がった。

 火災警報が響いてから30分後には、火災の大半は消火されていたのだが、146人という多数の人が命を落とした。そのうち123人は、若いユダヤ系あるいはイタリア系の移民の女性だった。50人以上は工場の床上に倒れて死んでいた。19人はエレベーターのシャフトに落ち、少なくも20人は脱出装置が重量過多で壊れて死亡、53人が窓から落ちたり、飛び降りて命を落とした。本書はドキュメンタリーな基調を維持しながら、犠牲となったひとりひとりの姓名や属性まで詳細に記している。

 この痛ましい事件の犠牲者の実態から明らかになったことは、彼女たちは、ほとんどがイスラエル、イタリアなどからの移民の子女であったことだ。彼女たちは、ニューヨークなどの古いビルなどにある縫製工場などで、低賃金・劣悪(苦汗)な労働条件で働いていた。

前兆はあった
 この悲惨な事件は、ニューヨークで前年に起きていた2万人以上の衣服縫製業労働者の争議とも関わっていた。争議は低賃金、劣悪な労働条件の改善を求めていた。トライアングル火災事件は、すでに広く浸透していた、こうした劣悪な労働実態が、「発火」したものだった。

 その後、事件は、労働組合、社会運動家なども関わり、労働組合結成、安全な労働環境、賃金改善、時間短縮など、広い領域における社会政策、社会改革への運動が展開する契機となった。
その後の数年間に、連邦と州は、36の新しい立法を導入し、1930年代のニューディールの基盤を設定した。労働者の団結権・団体交渉権・団体行動権を保障し、使用者の不当労働の禁止を定めたワグナー法の名で知られる「全国労働関係法」の発案者R。F.ワグナー、そしてフランシス・パーキンスは、ローズベルト政権の最後まで残って働いた。アメリカが最も「前進した時代」といわれることがある

大きい若い力
 筆者(管理人)は若い頃、たまたまニューディールにさまざまな形で参加した人たちの体験を聞く機会があった。彼らは当時のアメリカの現実に大きな危機感を抱き、事態の改善のために多方面で働いた。多くは20-30代の若者であり、強い正義感を抱き、社会の改革・改善のためにそれぞれの分野で力を尽くそうと考えていた。

 今以上に先が見えない時代だった。情報も不足していた。ほとんどは、自分たちの目の前にある劣悪な現実を問題として、その改善に努力した。今と違って、情報の伝達も不十分であり、経営者や保守派の抵抗も強かったが、努力は次第に草の根から連邦レベルへと集約され、多くの重要な社会立法、制度の実現へつながっていった。彼らの多くは活動を通じて生まれた新しい仕事に就き、アメリカ社会の民主化に寄与した。
 

 明治以来の記録的大震災となったこのたびの地震・津波・原発事故を克服し、復興に向かうためには、気が遠くなるような時間とさまざまな資源が必要になる。この国難ともいうべき大震災を被災者、非被災者の別を問わず、国民それぞれが、自らのものとして共有し、努力しなければならないだろう。

 とりわけ、これからの日本を背負う世代となる若い人たちの積極的な参加が欠かせない。ともすれば、暗く陰鬱な空気が支配しかねない世の中に、光を導き入れるのは若い力だ。ボランティアが自由に活動するには、まだ多くの障壁があるが、それなしに日本の再生はありえない。

 二度と悲惨な災害を起こさない、安全で豊かな生活が営める町づくり
には、長い時間と想像を絶するエネルギーが必要となる。真の危機は、現在の緊急救援段階の後にくるかもしれない。救援疲れで復興が失速してしまうのだ。被災地域は高齢化が著しい。こうした地域の苦難を救うためには、多くの若い人たちの参加が不可欠だ。さまざまな活動を通して、高齢者の経験も知り、彼らも多くのことを学ぶはずだ。新しい仕事の機会も、きっとその中から生まれてこよう。

 

 

References

*1
”The birth of the New Deal.” The Economist  March 19th 2011.

*2
 David  von Drehile. Triangle: The Fire that Changed America. New York: Atlantic Arrow Press, 2003, pp.340.

大恐慌を経験した一般の人々を対象としたオーラルヒストリーとしては、今日下記の作品が比較的容易に入手できる。
Sruds Terkel. Hard Times: An Oral History of the Great Depression

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする