時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

蜜柑が放った人生の輝き

2020年01月12日 | 午後のティールーム

 

この季節、日本の八百屋、スーパーなどの店頭を飾る果物の代表は蜜柑だ。日本は柑橘類が豊富なのか、名前もよく知らない品種もある。その中で蜜柑は日本人の生活に深く溶け込んできた。

みかんを見るとしばしば思い浮かぶ芥川龍之介の短編『蜜柑』を、年末に読み直してみた。長年、ブログ筆者が折に触れ愛読してきた一篇でもある。

舞台は横須賀発上りの二等客車の中である。当時の客車の車窓は開けることができた。しかし、客車を牽引するのは、石炭火力のSL、蒸気機関車だ。トンネルなどに入ると、煤煙が客車に吹き込んできた時代の話である。

芥川本人と思われる主人公は、この列車の二等車に一人乗っている。今の時代ならばグリーン車だろうか。そこに、粗末な身なりで、顔立ちも主人公には貧相に見える十三、四歳の娘が発車間際にせわしなく入ってきた。大きな風呂敷包みを抱え、霜焼けで赤くなった手には三等の切符が握られていた。二等車も三等車の区別も分からないのかと、主人公は見てみないふりをするように努めていた。あたかも主人公の心の平静を乱す存在かの様な扱いである。

列車が走り出し、墜道(トンネル)に入る。客室に煤煙が入るのを気にもせず、女の子は窓を開けようとする。困った娘だと煙にむせながら主人公が思った時、列車は墜道を抜ける。その時、娘は懐から数個の蜜柑を取り出し、窓外で何やら声を挙げている三人の子供たちに投げてやる。それまで小娘のことを視界から追いやりたいほど厄介に思っていた主人公は、一瞬にして事態を悟る。

娘の弟たちが家計の助けにと奉公に出る姉の見送りに、踏み切りの所で待っていたのだ。小娘と見えたのは、この子供たちの姉であったのだ。懸命に手を振る弟たちのために、娘は蜜柑を投げてやった。蜜柑は旅の徒然にとおそらく誰かが餞別代わりに娘に持たせたのだろう。蜜柑は娘の手を離れ、鮮やかな蜜柑の色を見せて子供たちの手に乱落して行った。
 
そして、主人公の心の内などどこ風吹くかのように前の席に戻ってきた娘は、「大きな風呂敷包みを抱えた手に、しっかりと三等切符を握っている。・・・・・・」

作家(私)は、この一瞬の情景を次のように結んでいる。「私はこの時始めて、云いようのない疲労と倦怠とを、そしてまた不可解な、下等な人生を僅かに忘れる事が出来たのである。」


〜〜〜〜〜〜〜〜〜

娘の手を離れた数個の蜜柑が、それまで世俗に汚れ、疲れて落ち込んでいた主人公(芥川)の頭脳に一瞬の輝きを放ったのだ。この短篇に限らず、芥川の作品には『上海遊記』にも散見されるように、当時としてもかなり差別的あるいは侮蔑的な言辞を弄している部分がある。『蜜柑』においても、同じ客車に乗り込んできた娘を視野に入れたくないような存在として描いている。しかし、そのことが主人公の人間を見下したような人生観に、娘の行動が一撃を加えるような衝撃となったことを際立たせている。「疲労と倦怠」の状態にあり、「不可解な、下等な人生」とは、主人公(恐らく芥川)のそれを指すものと考えるべきだろう。

『文末解説』(石川透)によると、芥川はこの題材を、有島武郎が伊太利亜アッシジの旅で目の当たりにした、貴婦人が列車の窓外の子供たちに菓子箱を投げてやった光景を記した『旅する心』(1920年11月)と題した情景から構想したのではないかと、後世の批評家などから推測されているようだ。

しかし、そうだとしても、そのことが芥川という稀有な作家が安易なすり替えを行ったとは考え難く、芥川の非凡な構想力が生んだものとブログ筆者には考えられる。見慣れた蜜柑が宝石の様に輝いて見える。

芥川竜之介『蜜柑・尾生の信他18篇』岩波文庫、2017年

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鴉の話 芥川龍之介『上海遊記』を読む

2020年01月10日 | 午後のティールーム

 


昨年末、NHK「ストレンジャー 上海の芥川龍之介」(12月30日NHK)を見た折、その下敷きとなった、この鬼才とも言われる作家の作品『上海遊記』を読み直してみたいと思った。実はこの作品、ブログ筆者が初めて上海を訪れたほとんど半世紀前にも読んだ記憶があった。しかし、当時はそれほど強い印象を得たわけではなかった。芥川の作品には短編が多いが、この作品も長さは中程度であり、小説というよりは紀行文に分類されるものである。芥川は『大阪毎日新聞』の海外特派員として大正10年(1921年)3月28日、門司から、上海を訪れ、3週間ほど滞在し、その後中国各地を旅している。

今回読みなおしてみると、想像した以上に順調に読むことができた。芥川は31歳、すでに作家として令名を馳せていただけに、自信に溢れた筆致で書き進められている。今日読むと、旧字体の漢字に悩むかもしれないが、ほぼ問題なく読み切れた。この上海への旅は、最初から芥川は体調が悪く、風邪をこじらせ、気管支加答児が全治しないままに日程を延期したり、上海でも里見医院へ乾性肋膜炎の診断で入院したりしている。そして、帰国後しばらくして昭和2年7月23日夜半には、体力の衰えと「ぼんやりした不安」から自殺をするという心身ともに下降し始める時期であった。不眠に悩み、里見医院へ入院中にも医師には内証で毎晩欠かさずカルモチンを呑んでいた。それでも特派員という責任感からか、当時の上海に見たまま、感じたままを生き生きと伝えている。

それにしても、この時、芥川龍之介は31歳。漢籍を含め、その知的蓄積、博識に感嘆する。ちなみに、芥川は東京帝国大学文科大学英文学科の卒業であった。

『上海遊記』は漢字、仮名遣いなどが今日とは異なるが、大きな問題なく読むことができるのではないだろうか。

それでも、ひとつクイズ?を記しておこう。『上海遊記』に次のような記述がある。
 
以下、引用

上海の日本婦人倶楽部に、招待を受けた事がある。場所は確か仏蘭西租界の、松本夫人の邸宅だつた。白い布をかけた圓卓子〔まるテエブル〕。その上のシネラリアの鉢、紅茶と菓子とサンドウイツチと。ーーー卓子を圍んだ奧さん達は、私が豫想してゐたよりも、皆温良貞淑さうだつた。私はさう云ふ奧さん達と、小説や戲曲の話をした。すると或奧さんが、かう私に話しかけた。
 「今月中央公論に御出しになつた「鴉」と云ふ小説は、大へん面白うございました。」
 「いえ、あれは惡作です。」
 私は謙遜な返事をしながら、「鴉」の作者宇野浩二に、この問答を聞かせてやりたいと思つた。

引用終了。

当意即妙、なかなか興味深い対応である。宇野浩二 (1891年〜1961年 )は芥川と年齢もひとつ違いの盟友であり、この応答をどう受け取ったのだろうか。 『鴉』は自明の通り、芥川龍之介の作品ではなく、宇野浩二の小説である。或る夫人が誤ったのは、大正10(1921)年4月1日発行の『中央公論』で、この宇野浩二の「鴉」の後に,、芥川龍之介の「奇遇」が掲載されているためであろう。ところで、この「鴉」とは、なんでしょうか。直ちにお分かりの方には大いなる敬意を表したい(答は本ブログ文末)。

『上海遊記』に描写されている上海は、古い時代の情景が至る所に残っているが、それらが今は全て消え失せているわけではない。今日の上海は、東京を上回るほど活気があり、表向きは近代化しているが、街の裏側に回れば、あちこちに芥川が感じた当時の古い上海の名残りが残っている。


〜〜〜〜〜〜
鴉、 烏     共にカラスと読む。
スズメ目カラス科カラス属およびそれに近縁の鳥の総称。日本では主としてハシブトガラスとハシボソガラスの2種。雌雄同色、黒くて光沢がある。多くは人家のある所にすみ雑食性。秋・冬には集団で就眠。古来、熊野の神の使いとして知られ、また、その鳴き声は不吉なものとされる。ヒモスドリ。万葉集(14)「ーとふ大をそ烏の真実(まさで)にも」
「広辞苑」第6版。

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セピア色からよみがえる:芥川龍之介の上海

2019年12月31日 | 午後のティールーム

 

和平賓館コースター

このところ、タイムマシンで時空を遡る試みが多い。NHK「ストレンジャー 上海の芥川龍之介」(12月30日NHK)を見た。ブログ筆者にとっても、かなり懐かしい場所、上海が主たる舞台となっていた。今からおよそ100年前の大正10年(1921年)3月、大阪毎日新聞の特派員として上海を訪れた芥川龍之介の過ごした世界がそこにあった。予期した以上に迫力をもって再現されていた。

欧米、日本など列強が上海に租界を設け、蹂躙し、欲望をほしいままにしていた時代の中国社会が見事に再現され、映し出されていた。当時の中国は動乱真っ只中、清朝を倒した革命は、やがて軍閥の割拠という混乱に至り、絶望的な退廃と貧困の中にあった。

全編がほとんど上海で撮影されたとされるが、その舞台と人物が見事に映し出されていた。日本映画界を代表すると言われるカメラマン・北信康氏のカメラワーク、映像の美しさに圧倒された。今日の上海は見違えるほど美しくなり、世界有数の大都市となっているが、この時代を彷彿とさせる建物や街並みが至る所に残っている。それにしても、あのセピア色に沈んだ時代の上海が驚くほど感動的に再現されていた。

今は改装されて見違えるほど美しくなっているが、この映画作品の冒頭に出てくるダンスやジャズの光景はかつての和平賓館(1929年サッスーン家により「キャセイホテル」として創業し、幾多の歳月を経て、2010年「フェアモントピースホテルとして改装、再開)が使われたのではないだろうか。だが、確かではない。というのも、こうしたダンスやジャズ演奏が見られた場所は、芥川の頃は未だほとんどなかったはずで、事実、芥川は「万歳館」という今は存在しないホテルに宿泊した。今日に残る写真を見ると、ホテルの建物はかなり立派であったようだ。

ブログ筆者が何度か滞在した頃は、和平賓館はいまだ古いままであり、客室にゴキブリがいたりして驚いたこともあった。南京路の入り口に近く、外灘(バンド)地域のランドマークであった。このホテルのジャズバーは長年にわたり1920-30年代のファンを魅了してきたが、ブログ筆者が訪れた頃はジャスマンはほとんど皆が、オールド・ジャズマンというべき、かなりの年齢に達していた。その後、訪れた時は「フェアモントピースホテル」として新装され、見違えるほど立派な豪華高級ホテルになっていたが、いたる所にキャセイホテル時代の面影が保存されていた。

芥川の上海訪問時にはキャセイホテルはなかったとはいえ、ほとんど同時代の建物である。ブログ筆者は、芥川が船上から望んだガーデンブリッジ近くの上海大楼にも宿泊したことがあるが、こちらは内装も古く、普通のホテル並みだった。しかし、客室から眺める黄浦江風景は格別だった。


ガーデンブリッジから上海大楼を望む

さて、今に残る記録によると、芥川は1921年(大正10年3月28日から7月17日頃)、120日余りかけて、南京、九江、漢口、長沙、洛陽、大同、天津、沈陽などを巡歴した。「老大国」が中華民国になって10年に満たない時期であった。流石に大作家であるだけに、多くの資料、研究が残っている。


江南の春

芥川は、かねて抱いていた理想と目前に突きつけられた現実の断裂に絶望感すら覚えながらも、急速に中国の精神世界の深みへと沈潜していく。上海は「魔都」といわれ、そこ知れぬ妖しさ、いかがわしさを秘めた暗黒な都市であった。『上海遊記』にはそこに生きる妓楼の女たち、そして微かな可能性を信じて革命に生きる男たち(その代表が李人傑こと李漢俊であり、1902年に14歳で来日。東京帝国大学を卒業し、帰国後は21年の中国共産党設立に関わる。27年に軍閥により殺害)との短い出会いの断片が、見事に描かれている。

1920~30年代の上海を映像化した作品は、カズオ・イシグロの傑作『私たちが孤児だったころ』(2000年 )など、いくつか見たことがあるが、1920年代の退廃、貧困、絶望の極みにあった上海がこれだけ見事に映像で再現された作品は見たことがなかった(ちなみにイシグロの作品は、1923年の上海がひとつの舞台となっている)。8Kという映像技術の先端が生み出した迫力に感嘆した。日本が生んだ偉大な作家であるだけに、時代考証もしっかりとしていて、ネット上で見ることのできる研究成果も多い。

芥川は中国の古典文学にも詳しかった。最近読んだ『蜜柑・尾生の信他18篇』(岩波文庫、2017年)にも、その造詣を生かした短篇が多数含まれ、この作家の中国文学への並々ならぬ傾倒ぶりを忍ばせる。上海滞在時、芥川は29歳、その中国文学、社会への造詣の深さと共に、天才の真髄を改めて実感させられる。芥川にとって、この中国への旅はいかなる意味を保ったのだろうか。心身ともに疲労が蓄積したのか、作家は帰国後、1927年7月に服薬自殺している。

「上海游記・江南游記」は、半世紀近く前に初めて上海に旅した頃に読んだ記憶が残るが、新年にもう一度読み返してみたい。



「上海游記・江南游記」講談社文芸文庫、講談社、2001(平成13)年10月1第1刷刊

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『老人と海』を読み直すが・・・・・。

2019年12月19日 | 午後のティールーム


大学共通テストのあり方が教育界に大きな混乱、混迷を引き起こしている。とりわけ英語教育のあり方、評価については、日本は戦後だけでも長い試行錯誤、検討の期間を過ごしているだけに、今回の対応はあまりに拙劣、無責任な思いがする。

英語自習時代を振り返る
ブログ筆者は戦後の英語教育実質ゼロのスタートライン時代から今日まで長年にわたり、研究、教育を含むさまざまな局面で英語と対峙してきた。 当初は英語教材も今のようにヴァラエティに富んだものはなく、せいぜい英会話学校の教材やNHKラジオ講座のテキスト程度(平川唯一「カム・カム・エブリボディ」)だった。その後、英日対訳のテキストなども増加してきた。しかし、かなり長い間、hearing,speakingのためのオーラル教材は少なく、読み書き中心で、学習のスタイルも自習が多かった。読み、書き、話す、聴くの全てに対応できる教師も少なかった。その後、奨学金を得てアメリカの大学院への留学に至る過程で、かなり多くの英語教材と対面した。今とは違って、学部生の留学はきわめて少なかった。ライシャワー大使夫妻が、激励のために渡米前の学生をティータイムに招待してくれた時代だった。1ドル=360円の固定レートの時代でもあった。

ヘミングウエイとの出会い
専門は全く異なるのだが、英語力を高めるための教材は文学作品が多かった。その中で印象に残る作品のひとつにヘミングウエイの『老人と海』があった。簡潔だが力強い表現で、しっかりと主題を伝えていて、愛読書のひとつとなった。今はかなり忘れてしまったが、冒頭の部分はたどたどしいがなんとか覚えている。他に覚えているのは、オスカー・ワイルド『幸福な王子の冒頭部ぐらいになってしまった。

ちなみに、『老人と海』の、冒頭部分を掲載しておこう:

He was an old man who fished alone in a skiff in the Gulf Stream and he had gone eighty-four days now without taking a fish. In the first forty days a boy had been with him. But after forty days without a fish the boy’s parents had told him that the old man was now definitely and finally salao, which is the worst form of unlucky, and the boy had gone at their orders in another boat which caught three good fish the first week. It made the boy sad to see the old man come in each day with his skiff empty and he always went down to help him carry either the coiled lines or the gaff and harpoon and the sail that was furled around the mast. The sail was patched with flour sacks and, furled, it looked like the flag of permanent defeat. 
(Earnest Miller Hemingway, The Old Man and the Sea, 1952)

このたび、新聞でヘミングウエイErnest Miller Hemingway(1899年 - 1961 年)の短編を素材に英文法を学ぶという受験参考書の刊行を見て、書店で手にしてみた。昔、読んだ英文法の参考書は、例文は文法の説明のたために作ったような味気ないものが多かったので、タイトルにつられ、手にした感もあるが、読み始めてみると従来の参考書とは一線を画す工夫がなされており、興味深く読んだ。受験生にも好評であったようで、続編が刊行され、『老人と海』も最終章だけではあるが、取り上げられていたのでこれも読んでみた。表題の目指す「英文法を学ぶ」というよりは、ヘミングウエイの短編のさわりを英文法の手助けで読み直す感じとなった。

倉林秀男・河田英介『ヘミングウエイで学ぶ英文法 1』アスク出版、2019年
倉林秀男・今村楯夫『ヘミングウエイで学ぶ英文法2』アスク出版、2019年

大学院時代の友人に英文学を専門とするアメリカ人(ポモナ・カレッジ教授)や、スペイン語を話すプエルトリコ出身のヴェテラン大学院生(帰還兵への優遇措置による)などがいたこともあって、この作家のカリブ海を舞台とした晩年の小説はかなり話題になった。ブログ筆者は、ヘミングウエイの『老人と海』を1952年に出版したチャールズ・スクリブナー書店のファンだったこともあり、一時はかなりのめり込んだ。スペンサー・トレイシー主演の映画も観たが、あまり印象に残っていない。

マノリンは少年か若者か
『老人と海』は主要な登場人物は老人とマノリンという少年だけという組み立てだが、その組み合わせが絶妙に感じられた。上掲の文法書の著者は、boyという英語を「少年」と訳することに異論をとなえ「若者」としている。ブログ筆者にはやや違和感が残る。「少年」より「若者」の方が、日本語の語感では adult な感じを受けるが、これは日本語の語感の問題のように思われる。老人とマノリンの関係を見ると、マノリンはいわば舞台回しの役割を負っている。言い換えると、この小説には欠かせない人物である。老人に私淑し、親の意思にも反して、老いた漁師を手助けし、弟子のような役割を果たしている。この関係をもし制度化すれば親方漁師と徒弟のような関係にあたる。

アメリカでは徒弟制度は広く形成されなかったが、伝統的な仕事の世界には慣行として受け継がれていた。徒弟がほぼ一人前の大人と認められるのは、徒弟修業を終えて職人としてひとり立ちができる段階に達してからであった。老人とマノリン少年の関係は、伝統的技能の習得の本質も体現していた。少年は老漁師を助けながら、老人の人生観や仕事のやり方を学んでいた。通い徒弟のような日常を過ごしていた。マノリン「22歳」説もあるようだが、ブログ筆者にはあまりしっくりこない。

ヨーロッパ社会における徒弟は親方の家に住み込み、仕事の手伝い、親方の身の回りの仕事などをしながら、熟練を体得していた。文字通り徒弟の仕事だった。彼らは職業などで異なるが、大体12-13歳から17-18歳くらいまで徒弟としての生活を過ごした。徒弟の費用は通常、親が負担した。親としては息子の将来を考え、最もふさわしいと思う親方を選ぶのが普通だった。マノリンの父親も、最も漁獲が多い、練達した漁師のボートに乗れるよう考えていたようだ。老漁師は運に見放されたのか、かなり長い間漁獲に恵まれなかった(上掲引用部分 salao)。マノリンはどこに惹かれたのか、老漁師の身の回りの世話をし、会話を楽しんでいた。マノリンは未だ大人として成人の段階に到達していない、純粋さが残る少年のイメージが浮かぶ。


ヘミングウエイ と子供たち(バンビ・パトリック・グレゴリー)
ビミニでの釣り旅行の記念写真(1935年撮影)
(倉林・今村著付録葉書)

原文と翻訳の間には、いかに優れた翻訳といえども伝達しきれない微妙なものがある。作品中の人物を全て現実に実在したモデルと重ね合わせるという研究者の努力には敬意を抱くが、フィクションと現実の距離にも注目しておきたい。

英語や英文学に関心を寄せる人には、上掲の本は受験参考書というイメージを離れて、読み物としても楽しめる好著といえる。願わくは、『老人と海』の全文を取り上げてもらえたらと思った。

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亡くなって知る人の偉大さ: 中村哲医師を偲んで

2019年12月05日 | 午後のティールーム

 

 


アフガニスタンで中村哲医師が凶弾に倒れたニュースは、瞬く間に世界に伝わった。20年以上前に遡るが、ある国際協力に関わる会で、中村哲先生の講演を聴いたことがあった。日本が誇るべき真に偉大な人のひとりと即座に感じた。日本であったなら人も羨む恵まれた仕事も待っていたかもしれないのに、自ら進んで戦乱の地に活動の場を求め、医師でありながら井戸を掘り、灌漑事業に力を尽くすという想像し難い仕事に生涯をかけられた。

ブログ筆者がアフガニスタンに関心を抱くようになった背景のひとつには、中村哲先生の話がどこかで影響していたかもしれない。先生が日本ではメディアも「カブール」と言う表記で知られているかの地の首都を「カーブル」と言われていたことも、耳奥に残った。

かつては東西文化交流の要衝の地として栄華を極めたアフガニスタンが、その後なぜ低落の道を辿り、世界で最も過酷な戦乱の地と化したのか。一時期、多少のめり込んで調べたことがあった。タリバンの抬頭、イスラム過激派ISの出現など、実態は宗教的対立に政治的要因が絡み、なかなか分かりにくい。中村医師を襲った者がいかなる背景を持つ勢力なのか、実態解明には時間がかかるかもしれない。

今はただ心からご冥福を祈りたい。

 

アフガンに関わる本ブログ記事: 

The Kite Runner (凧を追いかけて) 2005年11月18日

戦火の下のラピスラズリ アフガニスタン 2006年12月9日

カブールの燕たち 2007年3月11日

パリ:行列のできる展覧会(2)  2007年3月28日

もうひとつのアフガニスタン 2007年12月16日

「夜警」の暗闘 2008年7月27日

アフガニスタンに光の戻る日を 2009年9月23日

漂泊のアフガン至宝 2009年10月5日

再会 アフガニスタンの輝き 2016年1月24日

戦火を超えて生き残った誇りうる文化:「黄金のアフガニスタン」展 2016年2月4日

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ガリレオ・ガリレイ『星界の報告』の偽造事件から・・・・・

2019年12月03日 | 午後のティールーム

 


絵画作品では偽作 imitation, fake は、珍しくない。本ブログで取り上げているラ・トゥールにしても《イレーヌに介抱される聖セバスティアヌス》(横型)のように、画家の真作は未発見だが、工房作などの模写、コピーは多数発見されている。これらは贋作というよりは、この作品主題の愛好者、顧客が工房作品でもよいと納得した上で発注していることが多い。一般に贋作とはいわないが、なかには明らかに贋作の範疇に入る場合もある。

偽造されていた『星界の報告』
今回取り上げるのは、それとは異なり、書籍(学術書)の贋作者の話だが、今日よくある海賊版のことではない。古い時代の書籍を初版本の時代にまで遡り、紙、活字、インク、装丁などを専門家にも見破られないように再現、制作するのだ。こうして作られた書物はいかに初版本に似ていようとも偽造本であり、それが市場に出回り高額な価格で取引される対象となると、明らかに犯罪行為となる。このたび、ガリレオ・ガリレイの歴史的名著 _『星界の報告』Sudereus Nunclus_ *1を偽造した犯人をめぐるドキュメンタリー・サスペンスがTVで放映されていたのを見る機会があった。

*1 世界のドキュメンタリー『偽りのガリレオ:世紀を超えた古書詐欺事件』NHKBS、ドイツ 国際共同制作 Ventana Film/rbb/ARTE/NHK 11月27日(水)23:00放送
 
邦訳
ガリレオ・ガリレイ『星界の報告他一篇』山田慶児・谷泰訳、岩波書店、1979年
ガリレオ・ガリレイ『星界の報告』講談社(講談社学術文庫) 2017年

偽造の犯人マッシモ・デカルロは、勤め先だったイタリアのジロラミーニ図書館(ナポリ最古の図書館)から数々の古書を盗み、その紙やインクを使って、ガリレオ・ガリレイの『星界の報告』の複製を行った。後に地動説を唱える根拠となった月の観察記録だ。2005年に鑑定団が「本物」(真作)と認めるが、後にイギリスの若手研究者が贋作と看破した。デカルロは自宅で懲役7年の禁固刑となるが、ドキュメンタリーの取材班に対して「次は見破れない傑作を作る」と自慢のコレクションを披露する。ガリレオ・ガリレイの真の初版本であれば、オークションなどで数億円(推定10億円)はするといわれる。こうした行為は明らかに犯罪であり、刑罰の対象なのだが、贋作者は、専門の鑑定家を嘲笑するかのように、見破られない作品の制作に生きがいを感じているかのようだ。贋作者の異常な心理でもある。デカルロは少しも悪びれることなく、「次は見破れない傑作を作る」と偽造本のコレクションを披露する。

画材、紙質、顔料、活字などあらゆる面について、贋作者、鑑定家が持てる技量の最大限を尽くす。アイロニカルではあるが、こうした偽造本の鑑定をめぐって、鑑定技術も進化する。“史上最高の贋作”を作った犯人と、専門家の攻防は今も続く。決して好ましいことではないが、17世紀の印刷・製本技術の粋を見ることができ、ドキュメンタリーとしては興味深い。

思い出したこと
ガリレオ・ガリレイの名で思い出したことがある。このブログでは既にガリレオ・ガリレイに関わるテーマを2009年、2013年に取り上げている。今回はガリレオ・ガリレイの時代に立ち戻り、これまで指摘しなかった側面を展望してみよう。

ブログ筆者は、恩師の影響もあり、かねてから30年戦争などを題材としたドイツの劇作家ベルトルト・ブレヒトの作品に関心を抱いてきたが、そのひとつに1947年刊行の戯曲『ガリレイの生涯』(岩淵達治訳、岩波文庫)がある。この戯曲は2013年に文学座によって上演された。ブログ筆者も微力ながらその過程に関わる機会があった。

ブログ筆者の関心はブレヒトの作品と生涯への探索から始まった。その過程で、ガリレイの裁判にも関心を呼び起こされた。ガリレイは地動説を唱えて以降、ローマの異端審問所から有罪判決を受け、 1633年、第2回異端審問所審査で、ローマ教皇庁検邪聖省から有罪の判決を受け、終身刑を言い渡される(直後にトスカーナ大公国ローマ大使館での軟禁に減刑)。その後、シエナ のピッコロミーニ大司教宅に身柄を移される。さらに、ガリレイは視力を失い、アルチェトリの別荘へ戻ることを許される(ただし、フィレンツェに行くことは禁じられた)。

17世紀天文学者、科学者、知 識人のネットワーク
『ガリレイの生涯』などを読んでいると、17世紀というITは言うまでもなく、電話すらなかった時代にもかかわらず、かなり迅速に情報が伝達されていたことに驚かされる。とりわけ、知識人の間にはかなり濃密な連絡のネットが存在した。ガリレイの裁判なども、迅速に伝わったことだろう。

ケプラー、ガリレオ・ガリレイ、メディチ家コシモII世、グロティウス、リシュリュー、ハーヴェイ、フランシス・ベーコン、ルーベンス 、デカルトなど、この時代の知識人の間にはりめぐらされたネットワークの存在と役割に気づかされる。今日ではネットワークは、IT技術を駆使して構成されているが、17世紀においては主として書簡の交信によるものであり、時には構成メンバーが旅をすることで、情報が伝達されていた。こうしたネットワークの中心にいた人物の一人が、ニコラ=クロード・ファブリ・ド・ペイレスク(Nicolas-Claude Fabri de Peiresc 1580-1637) である。日本ではあまり知られていない人物だが、もっと見直されていい知識人だ。

ペイレスクはフランスの天文学者 、博物学者、美術品・骨董品収集家、そして役人であった。1611年に オリオン大星雲を発見した。北アフリカを含む、地中海周辺の各地で 月食]の観測者を組織して、その観測結果から各地の経度の差を計算し地中海の正確な大きさを求めた。ペイレスくが送った書簡は残っている限りでも1万通に及び、ヨーロッパ全域の知識人のほとんど全てをカヴァーしたといわれている。骨董品の収集でも知られていただけに、骨董屋ともいわれたようだが、今日に残る人物の活動領域を見る限り、この時代の文化人を取り持つ中心的人物のひとりであったことが分かる。

ペイレスクのパン屋の息子ラ・トゥールの隠れた才能を見出した代官ランベルヴィリエも、この画家の将来性について、ペイレスクとの間で書簡を交わしている。美術品へのペイレスクの関心が窺われる。

ガリレオ・ガリレイには多数の支持者がいたことも分かっている。有罪判決を受け、収監されているガリレイが、ペイレスクに宛てた書簡が残っている。書簡は1635年5月12日付で、内容は異端審問裁判における厳重な尋問、ガリレイの収監状況などが記されている。

ガリレオ・ガリレイの『星界の報告』の偽造に関わる者を追求することはそれなりにサスペンス・ドラマのような関心を生み出すが、400年近い昔において、人間の英知と文化の所産を守り抜こうとするネットワークが形成されていたことにも、注意しておくことも大切と思う。ペイレスクはガリレイやケプラーのような時代を代表するような天文学者、科学者にはなり得なかったが、政治や教会と科学研究を隔離、独立させることに貢献した。そして、可能な限りで、研究のために支援を惜しまなかった稀有な人物だった。

P. N. Miller,Peiresc’s Europe. Learning and Virtue in the Seventeenth Century, Yale U. Pr. 2000

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17世紀から19世紀を歩く:コートルード美術館展:魅惑の印象派への道

2019年11月26日 | 午後のティールーム

 

 

 

最近では、よほどのことがない限り、一日に二つの美術館、美術展を訪れることはない。国内、国外を問わず、午前と午後にそれぞれ別の美術館を訪れることは、多くの場合、ロケーションの点でもほとんど不可能だ。見る点数も多くなり、印象も希薄になる。なによりも、最近では体力的に厳しくなってきた。ひとつの美術展では、3時間が限度だ。かつてはほとんど一日メモを取りながら館内にいたこともあった。しかし、上野公園の場合は、多くの美術館が集中していることもあって、複数の美術館、博物館を訪ずれることは不可能ではない。晴天にも恵まれ、今回は「ハプスブルグ展」に続き、午後に東京都立美術館で開催中の「コートールド展」(~2019年12月15 日)を歩いてまわった。

 

イギリスにおける印象派の殿堂
コートールド・ギャラリー・コレクション THE COURTAULD GALLERY COLLECTIONとは英国ロンドンのウェストミンスター地区にある美術館のコレクションだ。厳密にはロンドン大学附属コートールド美術研究所 の美術館であり、サマセット・ハウス内に設けられている。比較的小規模なギャラリーであるが、印象派のコレクションは非常に質が高い。ブログ筆者もイギリスに滞在中、2度ほど訪れたことがある。これが美術館と思うほど、雰囲気が素晴らしい。冬に行った時は、中庭にアイスリンクが出来ていて、人々がスケートを楽しんでいた。

コートールド美術研究所は、ロンドン大学を構成するコレッジのひとつで、美術史に特化した教育および研究を専門とする機関であり、美術史研究および保存修復に関して世界最高の研究機関のひとつに数えられている。

今回の展示作品はマネ、ルノワール、ドガ、セザンヌ、ゴーガンなど印象派の巨匠たちの名作が多く、これだけ日本へ来てしまうと、本拠のロンドンの方はどうなっているのかと思ったら、大改修のために他の美術館へ貸し出したらしい、これだけ一度に傑作を見られるのは日本の愛好者にとっては見逃せない好機だ。ここだけで、印象派の精髄を知ることができると思うくらい有名作品が目白押しに並んでいる。

富豪の社会貢献
印象派があまり好まれなかったイギリスにこれだけの作品が集まったのは、やはりコートルード家の貢献があったからだ。同家は17世紀フランスでの迫害を逃れてイギリスに移住したユグノー一族の末裔である。最初は銀細工師として名をなしたが、その後、18世紀末に絹織物業に転業した。20世紀初頭には家族経営で「人絹」 あるいは「レーヨン」として知られる革新的な人工繊維「ビスコース」の製造に乗り出した。コートルード有限会社はその後、ヨーロッパ、アメリカ、カナダに 工場を持つようになり、日本も大きな市場となった。

サミュエル・コートルードがこの会社の会長についた1921年は、同社が急成長、繁栄した次期であり、それによって得られた莫大な企業報酬はこのコレクションを可能にした大きな基盤だった。産業革命の生み出した大企業の富が社会貢献に生かされた好例といえる。巨大企業ビヒモスにも光を生む側面があった。イギリス人は古典派にあまり関心を抱いていなかったが、このコレクションは古典派作品を中心に収集することで、イギリスにおける古典派・ポスト古典派研究の中心となった。

マネの《フォリー=ベルジュールのバー》がポスターに取り上げられているが、このほかの画家の作品も、印象派好きには見落とせない。

ポール・セザンヌ (Paul Cézanne, 1839年 - 1906年)の《カード遊びをする人々》(カードプレイヤー)について考えてみた。このブログでも取り上げたことがある(カラヴァッジョ ・セザンヌ・トウェイン)の流れに位置づけられる。

 

ポール・セザンヌ(1839-1906)
《カード遊びをする人々》 
ca.1892-1896
油彩、カンヴァス
60x73cm 

このシリーズは、1890年代初頭から半ばにかけての晩年のセザンヌ芸術の基点であるとみなされている。パイプをくわえてカードゲームに没頭するプロヴァンスの農民の姿を描いている。描かれている農民は全員が男性であり、カード遊びに熱中して顔をうつむけ、目の前の勝負に没頭している。作品に描かれる主要人物(子供を除く)の数で、3人の作品(2点)、2人の作品(3点)の 計5点が確認されている。制作年次は不明だが、コートールド が所蔵するのは、2人が描かれた作品の2番目と推定されている。最も淡い色彩で描かれたオルセー版が、最も優れていると考えられている。このほかに個人のコレクションになっているものがある。

またこのシリーズは、17世紀のオランダとフランスの風俗画の文脈を強く意識した上で、セザンヌ独自に改良して描かれている。このような絵画では、しばしばギャンブルやいかさまの要素が入った光景が描かれたが、セザンヌはもっと単純な設定で、ひたすらゲームに熱中する農民を描いている。モデルはセザンヌの父が所有したエックスの別荘ジャズ・ド・ブッファン  LE JAS DE BOUFFAN で働いていたと思われる。

またカラヴァッジョ などの作品は劇的で深みのある瞬間を描いた作品が中心だったが、セザンヌの肖像画は、ドラマや物語性や人物の性格を特徴づける要素を極力排除している。テーブルには、封がされたワインボトルが二人の間に置かれているだけである。

さらに、シリーズは、1890年代初頭から半ばにかけての晩年のセザンヌ芸術を支える原点であるとみなされている。
 
またこのシリーズは、17世紀のオランダとフランスの風俗画の文脈を強く意識した上で、セザンヌが独自に改良して描かれている。セザンヌはもっと簡素な舞台でどこにもいるような農民に置き換えている。しかし、実際に見ると、絶妙な配置、色使いなど、画家が傾注したエネルギーがじわじわと伝わってくる作品である。
 
また以前は劇的で深みのある瞬間を描いた作品が中心だったが、セザンヌの肖像画は正反対でドラマや物語性や人物の性格を特徴づける要素が欠如している。というより、ことさらそうした要素を排除している。

シリーズの中で、おそらく最も有名であり、最もよく複製されているのが、パリの オルセー美術館に収蔵されたものである。寸法は47.5 x 57 cm と最も小さい。このオルセー版は最も洗練された作品であり、一般に最後に描かれた『カード遊びをする人々』と考えられている。コートルードの作品は、この前に制作されたと推定されている。第3の作品は、カタールの王族が2011年にギリシャの海運王ジョージ・エンビリコスから購入し所蔵するとされており、接する機会が少ない。

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紅葉の上野公園を歩く

2019年11月20日 | 午後のティールーム

 

 

今秋指折りの快晴の日、上野公園(正しくは都立上野恩賜公園)は、紅葉真っ盛り。道路など環境整備も進み、美しい公園となった。ブログ筆者には、子供の頃から親しんだ場所ではある。しばらくぶりに散策を楽しむ。


 

上野公園と云うとまず頭に浮かぶのは、上野動物園(東京都恩賜上野動物園)、同級生のお父さんが飼育課長?をされていた時は、学級全員の社会見学?で、開園時間外に特別に見せていただいたこともあった。子供心になんだか得をした気分だった。 その後、週末など、かなりの回数通った記憶がある。ジャイアント・パンダのいない時代だった。なにかの縁でいただいた上野動物園『上野動物園百年史』(東京都生活文化局広報部都民資料室、1982年)も処分されることなく大切に書棚の片隅に残っている。1936年(昭和11年)、黒豹が逃げた話を聞いたこともある。園内の暗渠に潜んでいて無事捕獲されたらしいが、当時の記録を読むと、かなりの大事件だったらしい。

 

この近辺、上野東照宮の塔が見えたり、並木道も美しい。由緒ありげなこの建物、ご存知の方はおられるだろうか。「旧東京音楽学校奏楽堂」(重要文化財)の看板がかかっている。表示版の説明を読むと、東京藝術大学音楽学部の前身、東京音楽学校の本館校舎として、明治23年(1890)に建築され、日本における音楽教育の中心的な役割を果たしてきた。昭和58年(1983)に台東区が東京藝術大学から譲り受け、昭和62年(1987)に現在の地へ校舎を移築・復元し、「旧東京音楽学校奏楽堂」として一般への公開も開始された。さらに、昭和63年(1988)には、日本最古の本格的な洋式音楽ホールを擁する校舎として、重要文化財の指定を受けている。

2階の音楽ホールは、かつて瀧廉太郎がピアノを弾き、山田耕筰が歌曲を歌い、三浦環が日本人による初のオペラ公演でデビューを飾った由緒ある舞台とのこと。 

平成25年4月より建物保全のため休館していたが、耐震補強や保存修理等の「保存活用工事」や空気式パイプオルガンの修理を終えて、平成30年(2018年)11月2日にリニューアルオープンした。2年くらい前にもこの辺りを通っていたが、気がつかなかったわけが分かった。あいにくこの日は入館できなかったが、近く一度入ってみよう。

東京国立博物館の周辺も広々として、噴水も美しい。折しも御即位記念特別展「正倉院の世界―皇室がまもり伝えた美―」が開催され、入館まで1時間近い待ち時間だった。
少し横道に入ると、木漏れ日が美しい歩道が続く。

上野公園はしばしば「上野のお山」ともいわれた。一見、平坦に見えるが、意外に起伏があり、こうした岡がある。頂上からは不忍池や弁天堂が眺望できる。

 

丘の上の美しい建物が、東叡山寛永寺の清水観音堂(重要文化財)であることは知っていたが、これまでその由来を詳しく知ることはなかった。清水観音堂は、寛永8年(1631)に東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正により建立された。今回、前を歩いて気がついたのは、画面にも見える輪型(月の輪)だった。由緒ありげで、説明などを読んで見て改めて見直した。月の松といわれ、植木の松を造園技術を駆使した植木職人によって、月の輪のように曲げて育てたものだった。明治初期の台風で被害を受けて永らく失われていたが、浮世絵にも描かれていた江戸の風景を復活させるため、平成24年(2012)12月に復元されたとのこと。

清水観音堂は、江戸時代から名所となり、境内の月の松は、江戸時代の浮世絵師歌川広重の「名所江戸百景」において「上野清水堂不忍ノ池」そして「上野山内月のまつ」として描かれている由。清水堂の舞台から見下ろした月の松には近江の竹生島の宝厳寺に見立てて建立された不忍池辯天堂と賑わいを望む事ができる。

知り尽くしていると思った上野公園だが、なかなか見所が多く、一日楽しむこともできる。日本一の動物園、美術館、博物館が林立し、疲れればカフェやレストランにも事欠かない。東京でもお勧めの場所のひとつだ。

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絵を見ることは画家の人生を見通すこと:ラ・トゥールとラウリー

2019年09月23日 | 午後のティールーム

 

L. S. ローリー, 《フットボール》


ラウリーとラ・トゥール
17世紀の画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥール1693-1652)のことは知っていても、19世紀末から20世紀にかけての画家L.S.ラウリー(ローレンス・スティーヴン・ラウリー:1887ー1976)の双方に関心を抱いているファンは、ブログ筆者以外にはまずいないだろうと思っていた。

時代も300年近く大きく離れる上に、ラ・トゥールについて知っていても、ローリーの知名度が上がったのは、比較的近年のことである。とりわけ、後者はイギリス・マンチェスター付近でほとんど全生涯を過ごし、栄誉や名声を求めることもせず、その地を離れることのなかった地方画家であった。晩年、次第に国民的名声を得るが、知る人ぞ知る存在であった。日本で数人の美術家に尋ねたが誰も知らなかった。他方、友人のイギリス人(経済学)に尋ねたら、「よく知っているね!」と逆に驚かれた。彼もファンだった。しかし、ラ・トゥールについては、彼も知らなかった。

見ていた人
ところが、思いがけずも、この二人を好み、美術評論や文学の対象としている人がいることに気づいた(記事最下段)。ジョン・バージャー(1926~ )という現代イギリスの著名な美術評論家、脚本家である。日本では知る人ぞ知る存在だが、絵画や写真について、いくつかの優れた業績を残している。

彼が着目した特異な画家L.S.ラウリーは、ブログ筆者もかねて記したように、1918年以降、イギリス北部の工業地帯であるマンチェスター、サルフォード近傍のイギリス工業社会の変遷を、独特の技法で着実に描き続けた。対象は産業革命で大きく変貌したこの地域で、長く親しんだ農地を追われ、工場で働く以外に生活の方途がなくなった労働者という貧しき人々の日常である。彼らの日常はほとんど生涯を通して変化することはなく、強固に形成された社会階級の最下層として、晴れの日も雨の日も同じような生活を過ごしていた。隣人の喜びも悲しみも等しく分かち合っていた。ラウリーは彼らと同じ場所に住み、画家としての生活を過ごしていた。母親に当初強く反対されたのだが、画家以外に人生でしたいことはなかった。そして、その意志を愚直なまでに貫き通して生きた。

 
ローリー《自画像(青年)》

ローリー《クローザー・ストリート、ストックトン》

産業革命以降、イギリス経済を牽引してきた北部工業地帯は、多少の変化はあったが、長らく同じ劣悪な環境・雰囲気を維持し続けた。日夜を問わず立ち上る濛々たる煤煙で覆われる空は、いつも濃い灰色で薄暗く、雨上がりの後ぐらいしか、青空を見せなかった。

ラウリーは多くの美術家が創作の対象とは考えないような工場、街路、病院、そして貧しい人々の日常を飽きることなく描き続けた。白黒写真しかなかった時代の記録としては、はるかに現実を伝える貴重なものとなった。煤煙で覆われた灰色の空は、季節によって多少の違いはあったが、ほとんど変わることなく、ラウリーの作品を特徴づけた。あたかも、夜なのか昼なのか判然としないラ・トゥールの作品を思わせるものであった。

L.S.ラウリーの作品は一点、一点見れば、平凡で稚拙にさえ見えるが、現在訪れてみれば、そのほとんどが同じ場所に同じ建物として存在しているのだ。街を歩く人々の衣服は、多少異なってはいるが、それほど大きな違いを見せていない。 

L.S.ラウリーの作品が制作された後、世界は1930年代の大不況を経験する。イギリス北部の工業地帯は最大の犠牲を被った地域である。この地域が新たな産業を基盤として再生し、装い新たな姿を見せることを想像することは極めて難しい。

画家はその独特な画法の成果を後世に残すために、常に心がけたこととして、「一度も外国に行かず、一度も電話を引かず、一度も車を持たなかったことである」と述べていた。こうした特異な性格と強い意志を持った画家によって、歴史の記録は残されたのだ。

ラ・トゥール:人の心を打つ真作と作られた話
他方、ラウリーより300年近く前に遡る画家ラ・トゥールは、若い頃から、かなり著名な画家であった。ヴィック=シュル=セイユというロレーヌの小さな町のパン屋の次男として生まれたが、天賦の才に恵まれ、数十点の今日に残る印象的な作品を制作した。いずれの作品も見る者に強い印象を刻み込む。いくつかの作品は、神秘的あるいは謎めいており、一目見たら生涯忘れることはないかもしれない。ブログ筆者もその魔力に取り憑かれた一人だ。

作品の素晴らしさは、画家に生まれつき備わったものであり、今日残る作品が、その秘めたる才能の成果であることは、疑うところはない。フランス17世紀に燦然と輝く金字塔のひとつだ。

 

ラ・トゥール  《マグダラのマリア》作品断片

しかし、画家の生後、今日まで伝えられる話のかなりの部分は後世の所産である。きわめて断片的な古文書史料などから組み立てられたストーリーが伝承されている。《大工ヨセフ》のような神秘的で美しい作品と、強欲な領主のようで、農民に嫌われていたというような画家の人格と作品の間には信じがたい大きな断裂がある。イタリア行きの史料も少なく、多くの謎に包まれている。フランス国王13世の王室付き画家にまで取り立てられたと話もあり、事実と思われる部分もある。後世に作られた話は、従来の美術史の次元を越えた新しい視点から見直される必要がある。

ラ・トゥール 《女性の頭部》(断片)

絵画や写真などの美術作品を正しく「見るということ」(鑑賞すること)の意味と難しさをバージャーは伝えている。「作品を見る」ことは、その作品を制作した画家の人生を見通すことでもある。


ジョン・バージャー(飯沢耕太郎監修・笠原美智子訳、筑摩書房、2005年)『見るということ』(John Berger, About Looking, 1980:美術評論集所収
「ローリーと北部工業地帯」
「ラ・トゥールとヒューマニズム」

ちなみに、バージャーはラ・トゥールの作品から《大工ヨセフ》《鏡の前のマグダラのマリア》《蚤をとる女》の3点を挙げている。しかし、《蚤をとる女》は「私には解釈不能である」と記している。この作品が、ラ・トゥールの真作と判定された時の人々の受け取り方については、本ブログでも記した。筆者はこの作品の発見以来、幾度となく見る機会を得たが、回を重ねるごとに、この作品が持つ絶妙な美しさを共有するようになった。そのために、作品が制作された時代へ出来うる限り近ずくことを心がけてきた。絵画を「見るということ」は、いかに難しいことか。しかし、それは大きな楽しみでもある。



 

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鎮魂の夏:友を偲んで

2019年08月10日 | 午後のティールーム

ケンブリッジの夏のある日

 

文字通り酷熱、酷暑の8月。お盆休みで帰省の大きな流れが動き出した。今年はいつになく、多くの友人・知人と永遠の別れがあった。それぞれに興味尽きない人生の出会いがあったことを思い起こさせる。

7月、イギリスから一通の訃報が入った。長年の友人W.Bとの別れだった。ケンブリッジの自宅での突然死だった。W.B.はケンブリッジ大学ダーウイン・コレッジのマスター(学寮長)やケンブリッジ大学全体の副学長(教育・研究担当)、多くの大学の評議員、学会、政府のアドヴァイザーなど多数の要職を務め、引退の途上だったが、まだ多くの仕事をしていた。

ダーウイン・コレッジ小景 

W.B. 愛称ウイリーとの出会いは、偶然だった。若い頃、ある国際会議の席で隣り合わせた。彼はすでに立派な業績を残していた研究者だった。会議は概して退屈だった。しかし、彼はなにか一心にノートに書き込んでいた。イギリスの優れた研究者はこういうものかと感心して、つまらない講演を見つめていた。しばらくして、彼が見せてくれたのは、なんと退屈な発表者のカリカチュア(戯画)だった。なかなかうまく描けていた。会議の後で、”大人の暇つぶし” an adult’s pastime! といたずらっぽく笑っていた。

その後、あちこちの会議などで出会うようになり、ウマが合うというか、急速に親しくなった。後年、彼が名誉フェローであったウルフソン・コレッジに客員として招聘もしてくれた。ここで筆者が学んだことの一つは、アングロサクソンといっても、アメリカとイギリスでは研究者へとしての教育の考えも、現実の仕組みも大きく異なるという点であった。アメリカでは学問の土台構築の方法などを厳しく仕込まれたが、イギリスでは個人の想像力発揮を促進するよう緩やかな枠組みが準備されていた。幸いにも両者を体験しえた筆者は、教育のあり方について実に多くのことを学んだ。

度々訪れたボートハウス小景

ウイリーからは日本人の友人以上に学んだこともあった。筆者も一端を担い、東京で開催した国際会議などに際しても、その力量と人脈を生かして最大限の支援をしてくれた。引退後も多くの仕事を続けていたが、その中には 地方行政区(Parish Council)の区長まで含まれていた。世界の実態から地域への貢献まで、彼の視野と活動は想像を超えていた。

最近は、BREXITを含む世界の荒廃を嘆いていたが、今は天国で誰かのカリカチュアを描いて楽しんでいることだろう。

今年、旅立たれた友人・知人(W.B.を知る人も多い)を含めて、心からご冥福を祈りたい。

 

 

☆ 筆者が初めて到着の挨拶に行った時、W.B. の研究室には、下掲のターナーのポスターが架けられていた。同時期、筆者の部屋にも同じものをかけていた。不思議な因縁を感じる。

《平和 ー 海の埋葬》

 Peace - Burial at Sea 1842年頃
87×86.5cm, 油彩・画布,  テート・ギャラリー(ロンドン) 

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温故知新の旅

2019年07月26日 | 午後のティールーム

 

 

ある日、急に旅心が高まり、博多まで飛んだ。目的は国立九州博物館だった。これまで何度か訪れる機会はあったのだが、時間の関係で部分的にしか見ていない。東京、京都、奈良の博物館はかなりの回数訪れたのだが、九博は企画展などの噂を聞くばかりでほとんどまともに見ていない。折しも下記の特別展が開催されており、一つの誘いとなった。

室町将軍ー戦乱と美の足利十五代ー
令和元年(2019年)7月13日〜9月1日

経路を考えたが、今回は太宰府から入ってみた。この頃は地方都市でも外国人観光客で溢れていて、宿泊先が制約されることも増えたが、流石に太宰府まではその波は及んでいなかった。それでも天満宮は韓国、中国からの観光客が日本人を圧倒するほどだった。鉄道路線も快適だった。


 

九博は特別展はそれなりに混んでいたが、混雑の原因は修学旅行の生徒たちで、ほどほどの混み方であった。テーマは、「日本文化の形成をアジア史的観点から捉える」ことで、古くよりアジアとの交流が盛んな土地ならではの展示品が並んでいた。

また、常設展示では、通常の博物館のような順路を設けていないので、自分の興味のある時代やエリアから見たり、後ろに戻ってみたり、各々が自由に博物館散策が楽しめるのも魅力になっている。

「戦乱と美」の時代というと、このブログで取り上げることが多いヨーロッパ17世紀を思い出す。しかし、この場合は、少し遡り13世紀から16世紀が対象となる。足利尊氏から足利義昭までの時代である。企画展では現存する13人の室町将軍像を寺外で一挙公開というのが売り物だった。


他方、南北朝・戦国と動乱の時代の将軍家であったため、波乱に満ちた生涯を送った将軍が多く、幕府所在地(京都、室町)を追われた将軍が7人(尊氏・義詮・義稙・義澄・義晴・義輝・義昭)、幕府所在地以外の地で没した将軍が6人(義尚・義稙・義澄・義晴・義栄・義昭)、暗殺された将軍が2人(義教・義輝)、更迭された将軍が3人4回(尊氏[1]・義稙が2回・義澄)、そもそも幕府所在地に入れなかった将軍が1人(義栄)いる。
代数は一般的に「15代(15人)」とされる場合がほとんどであるが、第10代(10人目)の足利義材(足利義稙)が一度将軍職を追われた後に再び将軍職に就いており、就任(任命)と解任(辞任)の正式な手続きが踏まれている。企画展には7代義勝のように、9歳で在位、10歳で亡くなった幼すぎる将軍像も展示されていた。


ブログ筆者は、この時代についての知識が十分ではなかったので、久し振りに音声案内まで借りて大変興味深く見ることができた。もっとも、ブログ筆者は空いていた常設展の方に時間をかけてしまった。館内は撮影禁止だが、見るだけでも十分楽しめる内容だ。東京や京都、奈良の博物館のように、人混みを感じることがなく見ることができるのは素晴らしいと感じた。とりわけ文化交流展示室の対馬宗家の偽造印展示が興味深かった。

この地は「令和」の元号に関連しても、話題の多いところだが、筆者は元号問題はあまり関心がなく、展示は文字通り見るだけだった。

新元号記念特別企画「令和」
「万葉集」巻五(販本)・江戸時代18世紀(原本奈良時代8世紀)[所蔵]九州国立博物館 2019年4月21日(日)~9月29日(日)
「受け継がれる名筆-青山杉雨・髙木聖鶴・髙木聖雨 書展」
太宰府天満宮宝物殿

太宰府駅に出て、太宰府駅→観世音寺・戒壇院→大宰府政庁跡を歩く道も、昔を偲びながらのゆったりとした旅だった。観光ブームはこちらには及んでいなかった。


 

『源氏物語』にも登場する観世音寺は、天智天皇が、母君斉明天皇の冥福を祈るために発願されたもので、80年後の聖武天皇の天平18年(746年)に完成した。古くは九州の寺院の中心的存在で、たくさんのお堂が立ちならんでいたが、現在は江戸時代初めに再建された講堂と金堂(県指定文化財)の二堂があるのみである。境内はクスの大樹に包まれ、紅葉、菩提樹、藤、アジサイ、南京ハゼと季節が静かに移る。

 

日本最古の梵鐘がある「西日本随一の寺院」

昭和34年(1959年)多くの仏像を災害から守り完全な形で保管するため、国・県・財界の有志によって、堅固で正倉院風な周囲の景色に馴染みやすい収蔵庫が建設された。
この中には平安時代から鎌倉時代にかけての仏像16体をはじめ、全て重要文化財の品々が収容されており、居並ぶ古い仏たちに盛時がしのばれる。西日本最高の仏教美術の殿堂のようで、特に5m前後の観音像がずらりと並んでいる様には圧倒される。また仏像の多くが樟材で造られたのも九州の特色といえる。


この太宰府地域、歴史的には極めて興味ふかい所で、長い時間をかけて見てみたい所が多い。思いがけない事実を知らされたり、温泉もあって、心身ともに癒される。これまで、かなりの地域を旅してきたつもりだが、お勧めしたい場所のひとつであることは間違いない。

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時空を超えて:今我々はどこにいるのか

2019年06月10日 | 午後のティールーム

 


まだブログとホームページの違いもよくわからなかった頃、大学の講義や演習とは直接関係ないが、長らく関心を持っていたテーマ、トピックスをメモがわりに記しておきたいと思い、若い学生諸君の力も借りて、HPを設計し、たどたどしく書き始めたのがこのブログ?の始まりだった。若い世代との話題拡大も一つの目的であった。

「危機の時代」を振り返る
インターネットの最大のメリットは、大学講義のようにテーマを制約されて話す必要もなく、かなり自由に論点、トピックスを移動できることが最大の魅力だった。ブログ・タイトルを「時空を超えて」としたのは、筆者の仕事としてきた「現代経済研究」(とりわけ労働問題)と、多忙なままに整理できなかった「17世紀ヨーロッパ研究」(とりわけ美術・文学)、そして17世紀から今日まで何度か浮上した「危機の世紀」のトピックスを、「タイムマシン」のように行きつ戻りつしながら、脳中に眠っている記憶を明示化し、時には多少の議論の材料としたいと思った。何れにせよ、試行錯誤だった。

筆者のその思いは多少満たされた。ブログで筆者の意図を知ったかなり多くの方々から、それまであまり語られなかった興味ある側面を知ることができた、あるいは一人の筆者が書いているのかとの話まであった。トピックスが縦横に変わることがそうした印象を持たれたのだろう。しかし、それこそがブログ筆者の意図したことでもあった。変化の激しい時代を生きる上でも、狭い話題に束縛されることなく、大きく広い世界を視野に入れておきたいと思った。アクセスしてくださる方には、右往左往するトピックスに当惑されたことだろう。

今日につながった17世紀絵画
ブログで取り上げてきたひとつのテーマ、17世紀の画家ラ・トゥールについては、記事を読まれた読者の方が、はるばるフランス、ロレーヌの地から感想を寄せてくださったこともあった。「時間」TIMEと「空間」SPACEという概念に基づいて組み立てたブログの仕組みが
働いてくれた。作品を見ただけでは全く分からなかった画家の生活、時代背景を知ることが出来て、カラヴァッジョを含め17世紀絵画が非常に興味ふかいものになったと感想を述べられた方もあった。17世紀ヨーロッパ市民社会の先進地域のオランダ絵画を見ているだけでは「危機の世紀」と言われたこの時代のヨーロッパを正しく理解することはできない。

2016年には、NHKで俳優モーガン・フリーマンによる「モーガン・フリーマン 時空を超えて」という宇宙を主題とする番組がEテレで放映され、世の中では「時空を超えて」とは宇宙のテーマと思われた向きもあったようだ。しかし、TIME AND SPACE というテーマは歴史、文学その他の領域でも大きな意味を持つ枠組みとなる。

「時空」を構成する概念
時間の概念の導入とともに、その推移に伴い空間は壊れ、それを支える様式・フォルムも壊される。歴史の次元では技術変化に伴い、時間軸上で時間は「速度」を増し、「過去」から「現在」の要素が急速に増加する。時間、空間の次元で「方向」DIRECTION、「フォルム」 FORMは、技術変化に大きく依存、影響を受ける。美術、文学、音楽などが知的活動を促進する。技術変化は時代によりその速度は異なるが、産業革命以降、電気、電信、電話、鉄道、自動車、航空機など次々と起動力を導入した。結果として、社会の伝統的な階層、ヒエラルキーも破壊される。それとともに、世界も次々と新たな展開を見せる。産業革命に関わるトピックスが、頻繁に現れるのは、こうした背景を意図してのことである。


「時間」と「空間」という抽象的概念から成る枠組みは、さらに過去、現在、未来、速度、フォルム、距離などの概念の導入で充実する。そして、画家、音楽家、芸術家などの次元に入れば、「時空を超えて」、「当時」(contemporary)と「現在(」contemmporary)を比較することも可能となる。17世紀に生まれ、活動したが、20世紀初頭まで美術史上忘却されていたラ・トゥールという画家の現代的評価が実現することになる。電灯の発明・普及で、蝋燭の光しかなかった17世紀の光と闇の世界は大きく変わり、その境界は、漠としたものになった。「光」(あるいは昼)と「闇」(夜)という二分された世界は、過去のものとなった。

今やこの世界から闇は奪い去られた。現代人はラ・トゥールが生きた17世紀の闇を知ることがない。そこは魑魅魍魎が徘徊し、魔女たちが支配する恐ろしい世界だった。しかし、現代は夜も電灯が煌々と輝いている。このことは、作品を観る者の環境、心象風景も変えてしまった。ラ・トゥールの作品に描かれた蝋燭一本の光に立ち戻ることはない。そして、いまや作品の裏側まで見通しうる人は少なくなった。時空を超える以外に、画家が思い描いた真のイメージを理解することは出来なくなった。

 


モーガン・フリーマンの番組の原題は”Through the Wormhole”となっている。ワームホールとは、天文学でブラック・ホールとホワイト・ホールの仮説的な連絡路(1593)を意味する。




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いと高き先に見えるものは:ロレーヌ・ゴシックの残像

2019年05月22日 | 午後のティールーム

ノートル・ダムのガーゴイル 

 

去る4月15日から16日(現地時間)にかけて突如として起きた、パリのノートルダム教会Notre-Dame de Parisの火災の実況をTVで見た。世界にその名を知られた大聖堂の尖塔がもろくも崩れ落ちるという予想もしない衝撃的光景である。瞬時に脳裏に浮かんだのは、どういうわけか、あの9.11の光景であった。考えてもいなかったことが起きると、思いもかけない連想が脳裏で働くようだ。


12世紀に建築が始められ、幾多の風雪を経て今日まで人々の信仰の象徴となってきたあの高い塔(地上高約32m)が、2時間くらいの間にもろくも崩れ落ちた。カトリック信徒でなくとも、驚く出来事だった。何か恐るべきことが起きる予兆ではないかと思った人もいたようだ。実際、9.11後、世界は明らかに変わった。そして今、新たな戦争の可能性が語られている。

*A new kind of cold war, The Economist, May 18th-24th, 2019
 Collision course, The Economist May 11th-17th,2019 

この度の尖塔火災崩落の原因の究明は進められているが、未だ正式には発表されていないようだ。少し意外だったのは、木造部分が燃え、石造りの壁が支え切れなかったとのことだ。何度か訪れたことがある場所だが、壮大な石積み、石像、ステンドグラスの美しさなどに圧倒されて、木造部分がどこであるかは全く気づかなかった。

大聖堂の建設は12世紀、1163年に始まり、1225年に完成したとされている。その後の長い歴史においても、今回のような火災焼失は初めてのこととされる。火災発生後、今日までのわずかな間に世界から邦貨換算1000億円を超える、修復に十分な寄付が集まっていると伝えられる。フランス国民のみならず、この聖堂に対する愛と信仰がいかに大きいかがわかる。他方では、それだけの寄付をする財力がどこかにあるならば、もっと直接に貧困層などのために役立てるべきだとの批判もあるようだ。

ブログ筆者はこれまでの人生でかなりの数の寺院、教会などを見る機会があったいt。フランスではとりわけロレーヌの旅をしている間に、多くの教会、修道院などを訪れた。そのほとんどがノートルダム大聖堂と同じゴシック建築である。

聖堂を築いた人たちの熟練養成
ブログ筆者が専門としてきた領域のひとつは、社会における熟練の形成過程であった。長い信仰の歴史を支えてきた教会の石組みを見ながら考えたことは、それを作った当時の職人たちのことであった。こうした大教会・聖堂などの着工から完成までには、通常の民家などと違って、はるかに長い年月を要すると想定されている。確かにサグラダ・ファミリアのように着工後、数世紀という年月を経ても完成に至っていないというような例もある。しかし、多くの建築は数十年くらいの年月で竣工している。これは建築の依頼者や寄進者などのことを考えて計画、工事を進めるからであろう。今回焼失・倒壊したノートルダムの場合も早ければ数年で復元できるのではないかという推定もあるようだ。実際にはほとんど不可能な予感はするが。

教会建築の現場で仕事をするのは、建築設計家の指示に従って作業にあたる石切工、石工などの肉体労働者である。当時は今日と違って、コンピューターも防塵マスク、眼鏡などもなかった。最大の職業病は珪肺であり、きびしい労働環境であった。粉塵と危険に溢れた職場で、切り出された石を成形し、プランに従い積み上げ、モルタルなどで固定するというきつい仕事である。しかし、人々の信仰の場を生み出す石工には、社会の評価、レスペクトもあったようだ。ギルドの成立も早くからあった。

石工だったラ・トゥールの祖父

ブログに記したこともあるが、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの父親ジャンはパン屋であったが、ジャンの父親は石工だった。石工になるためには、親方の家に住み込みの徒弟として入り、親方の仕事を助けながら見よう見まねで技能を体得し、数年の修業を経て、職人として独立することが認められ、さらに経験を積めば、親方職人への道があった。

息子のジャンは毎日の過酷な労働を酒で紛らわす父親の生活を見ながら過ごし、自分はパン屋で生きようと決めたのだろう。しかし、パン職人も見かけによらず、厳しい労働を要求されていた。そうした環境から、画家というきわめて先の見えない職業へと移ったジョルジュの生涯は、職業選択・技能伝達という現代的観点からもきわめて興味ふかい。この点はブログにも度々記している。

Theodore Rieger, Chapelles de Lorraine, Est Libris, Metz, 2003


ロレーヌの残像

石工の労働、教会大聖堂の建築の実際の過程は、それ自体大変興味ふかいのだが、記す余裕がない。

今回はかつて辿ったロレーヌの町巡りで、気づいたことを少しだけ記したい。ロレーヌの町や村には今日でも数多くのゴシック建築による教会が残っている。メッスやナンシーのような大きな都市には多数の宗派の異なる壮麗な教会聖堂がある。ゴシック式の建築はその高く聳え立つ先端の尖ったアーチで、直ちに認識できることが多い。

ゴシックは、ロマネスク様式に続き、12世紀頃からフランスを中心に発達した。筆者にとって興味深かったことは、今日に残る教会のすべてが大聖堂のような威容を誇るものではなく、小さな村や町にはひっそりと祠のような姿で残っているものも多いことだった。そして、どんなに小さな教会であっても、いと高き天に向けての希求を示す突出した屋根と十字架で、直ちにそれと知ることができる。その背景には、地域ごとの宗派の分布なども影響しているのだろう。この点に立ち入る余裕はもはや筆者にはなくなったが、宗教改革、カトリック宗教改革の激動の過程では、ロレーヌという地は、カトリック布教の最前線であり、ローマ教会の主導の下で多くの教会、修道院が建造された。

ラ・トゥールが生きた17世紀、30年戦争を含め、この地は数多くの戦乱を経験してきた。17世紀は史上初めての「危機の世紀」として知られる。21世紀、残る時代がいかなるものとなるか。すでに国家間衝突の動きはいたるところに現れている。その行方がいかなるものとなるか、ブログ筆者は知る由もないが、戦争のない平和な世紀であることを祈るのみである。

 

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よみがえるマリア・カラスの世界

2019年04月24日 | 午後のティールーム

 

久しぶりにマリア・カラス(Maria Callas 1923年ー1977年)の歌唱を聞く。と言っても、映画『わたくしはマリア・カラス』の中である。53歳という若さで世を去った20世紀を代表するソプラノ歌手は、その卓絶した歌唱力と華やかな人生のゆえに、やや神格化されてきた。

1973-74年には来日もしており、日本人にもファンは多く、同時代人でもある。しかし、謎に包まれた部分も大変多い。映画は、未だ公開されたことのない未完の自叙伝やこれまで封印されてきたプライベートな手紙、秘蔵映像や音楽などを彼女自身の言葉と歌で綴られる。より素顔に近いマリア・カラス像が描き出されている。

マリア・カラスはかねて筆者のご贔屓の歌手の一人であり、LPのジャケットが近くに置かれていたこともある。しかし、ある時からあまり聴くことがなくなった。その顛末はブログにも記したことがある。

カラスは、ギリシャ系 アメリカ人の ソプラノ歌手。 ニューヨークで生まれ 、パリ で没し、 20世紀最高のソプラノ歌手とまで言われた。特にルチア(ランメルモールのルチア) ノルマ、ヴィオレッタ( 椿姫 トスカ)などの歌唱は、技術もさることながら役の内面に深く踏み込んだ表現で、多くの聴衆を魅了した。それにとどまらず、その後の歌手にも強い影響を及ぼした。筆者は演歌はほとんど知らないが、偶々歌手の原田悠里さんが最も影響を受けた歌手として美空ひばりとマリア・カラスを挙げていたので、さもありなんと思った。

1938年アテネ王立歌劇場で『 カヴァレリア・ルスティカーナ』( マスカーニ作曲)のサントゥッツァを歌ってデビューした。 1947年には ヴェローナ音楽祭で『 ラ・ジョコンダ』の主役を歌い、 1950年には ミラノ・スカラ座に『 アイーダ』を、 1956年 には ニューヨークの メトロポリタン歌劇場で『ノルマ』を歌ってデビューし、それぞれセンセーショナルな成功を収めた。今日、メディアを通して聴いても、その素晴らしさは直ちに分かる。

カラスの特に傑出した点は、そのテクニックに裏打ちされた歌唱と心理描写、演技によって、通俗的な存在だったオペラの登場人物に血肉を与えたことといわれる。持ち前の個性的な美貌と声質を武器にして、ベルカントオペラに見られるありきたりな役どころにまで強い存在感を現した。

1958年1月2日、 ローマ歌劇場が行った ベッリーニ『 ノルマ』に主人公ノルマ役で出演したが、カラスは発声の不調のため、第1幕だけで出演を放棄してしまった。その結果、場内は怒号の渦巻く大混乱となり、この公演はさんざんな失敗に終わった。

その後、イタリアでのスキャンダルから逃れるようにフランスの 「パリ・オペラ座」 と契約。 1958年オペラ座にておこなわれたデビューコンままを映画化(『マリア・カラス 伝説のオペラ座ライブ』)される。

1973年と 1974年に来日。1974年には ジュゼッペ・ディ・ステファーノ(テノール)とピアノ伴奏によるリサイタルを行った。この1974年の日本公演は前年から始まっていたワールドツアーこれが彼女の生涯における最後の公式な舞台となってしまった。

カラスの私的生活には、取り立てて関心はなかったのだが、映画を見て少し見直した。カラスの最初の夫は30歳年上のイタリアの実業家ジョヴァンニ・バッティスタ・メネギーニであったが、後に オナシス のもとに出奔し離婚。オナシスとの愛人関係は ケネディ 大統領未亡人 ジャッキーとオナシスの結婚後も続いた。その後ディ・ステファーノと恋愛関係に入る。しかしステファーノとの関係も1976年12月末に終わった。

1977年]9月16日、隠棲していた パリ16区の自宅にて心臓発作で、53歳で死去。 遺灰は ペール・ラシェーズ墓地に一旦は埋葬されたが、生前の希望により 1979年に出身地の ギリシャ沖の エーゲ海)に 散骨された。カラスにはやはり青いエーゲ海の血が流れていたのだ。久しぶりにカラスを聴いてみよう。

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モントリオールの思い出

2019年04月12日 | 午後のティールーム

 

たまたまTV番組で、タクシーで「モントリオールを走る」(再放送)を見た。これまでの人生でかなりの数の外国都市を訪れてきたが、この都市にはとりわけノスタルジックな思いがある。学生時代に友人たちと貧しいながらも楽しい日々を過ごし、その後は仕事でかなりの回数訪れている。多分50回は優に越えていると思う。友人・知人も多かったが、今は数人になってしまった。

モントリオールとの縁ができたのは最初は1960年代、ベトナム戦争たけなわの時代であった。アメリカの大都市では黄色い衣、を着たヒッピーが目立ち、反戦運動が報じられていた。ベトナム派遣を忌避してカナダへ逃げる学生もいた。ちなみに 1975年4月30日のサイゴン陥落によってベトナム戦争は 終戦となった。

モントリオールとニューヨークは、同じ北アメリカの都市でもかなり違うように思えた。とりわけ、道路や橋など公共資本がかなり荒廃していた当時のニューヨークと比較すると、モントリオールは落ち着いた美しい都市であった。地理的には、セントローレンス川とオタワ川の合流点に近い島であり、川を望む展望が美しい。周辺には多くの景勝地が点在する。このブログでも一部は記したが、日本ではあまり知られていない所が数多くある。一時はこの大河の流域の植民、開発を新たな視点で描いてみたいと思ったこともあったが、その時間はないようだ。それでも、16世紀半ばから1760年までのいわゆる植民地時代、モホーク・インディアンなどの先住民の居住地やジャック・カルティエ広場など、植民者の名前が残る場所など、記憶が鮮明に残る場所も多い。

セントローレンス川は大河であり、流域には広大な大地が広がっている。移民国家としても、一時は混乱もあったが、総体として出入国管理、共生政策が比較的巧みに運営されてきた。北米3カ国の国境で、カナダ・アメリカ国境は比較的静かにとどまっている。先住民との衝突も多かったが、広大な地域の思いがけない所にまで入植者が入っている。

今では、モントリオールはカナダ第二の都市であり、住民の大半がフランス系カナダ人を中心にしたヨーロッパ系だが、世界各地からの移民も多い多民族都市になっている。筆者がしばしば訪れた1960-1980年代頃は総じて英語が優位なような印象が残っている。友人、知人も多くは英語が得意な人たちが多かった。ほとんどが移民あるいはその子孫であり、フランス系、ベルギー系、ロシア系など出身国は様々だった。

「北米のパリ」とも呼ばれ、ノートルダム大聖堂などフランス入植者の歴史が色濃く残る。住民の大半が フランス系カナダ人を中心にしたヨーロッパ系だが、市内の人口の約32%は非白人と世界各地からの移民も多い。TV取材の対象となった運転手もほとんど移民で、フランス語が得意な人たちが多かった。今では、周辺地域を含むモントリオール大都市圏の人口は約380万人であり、モントリオール大都市圏の住民の7割弱が 第一言語をフランス語とし、フランス文化の薫り高い異国的な雰囲気、フレンチ系の美食レストランが多いことでも知られる。

他方、都市部の住民の1割強の第一言語は英語であり、19世紀の終わりから20世紀の始めにかけて英国系移民によって街が発展してきたことから ヴィクトリア朝の建物が多いなど英国文化も色濃く残る。地上を歩いていると、人通りもさほど多くなく、落ち着いた感じがするが、冬が厳しいので地下街が発達していて、暖かくショッピングができる。モントリオール郊外は、北には ローレンシャン山地、夏は キャンプ、冬はスキー などのアウトドアレジャーで賑わう。秋の「メープル街道」も有名だ

大都市の例にもれず、モントリオールも高層ビル群が目立つが、市内のモン・ロワイヤル山(233m)より高いビルの建設は禁止されている。ちなみにこの山頂からの眺望は昼夜を通して素晴らしい。日本には美しい山と川がこれほど町に近く、対比できる大都市が見当たらないが、景観だけで見れば札幌などが近いだろうか。

 

◆「モントリオールを走る」NHKBS! 1月12日(土)【BS1】20:00~20:50の再放送

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