ピーター・パウル・ルーベンス
《イサベラ・ブラント(ルーベンスの最初の妻)の肖像》
東京展には出展されていない。
Peter Paul Rubens
Isabella Brant, the Artist’s First Wife, ca.1622, black, red and white chalks, pen and ink on うlight brown paper, 38.1 x 29.2 cm
London British Museum
この作品はルーベンスの真作と考れる、チョークとインクで描かれたイサベラ・ブラントの肖像画で二人が結婚して12-3年してからの作品と思われる。スケッチに類する作品だが、人物の特徴が巧みにとらえられている。ルーベンスが肖像画の技法に長けていたことを推察させる。
謎の多いラ・トゥールの修業時代
ほぼ同世紀でありながら、ルーベンスとは全く異なる環境で活動したジョルジュ・ド・ラ・トゥールが生まれ育った16-17世紀のヨーロッパには、多数の画家が活動をしていた。画家ばかりりでなく、彫刻家、建築家など、はかりしれない数の芸術家たちがいた。しかし、ジョルジュのように生来、画業の才能があることが認められていても、画業で生計を立てていけるかは全く未知数であった。それ以上に、いかにして画家となるための修業を行うかが大きな問題であった。
今日でも徒弟制度として一部の職種に残るが、当時の画家の場合、親方の所に弟子入りし、そこで職人、そして親方として一人立ちする上で、必要な知識・技能を習得する必要があった。そのために自然発生的に生まれ、制度化されていたのが徒弟制度であり、工房(atlie, workshop)であった。しかし、工房にもピンからキリまであった。
一般には、すでに画家として力量を社会的に認められている親方の工房へ徒弟として弟子入りし、親方の家へ住み込み、日常の生活を共にしながら、仕事を文字通り見様見真似で習得していく仕組みであった。多くの場合は、親方の家へ住み込む形であったが、例外的には自宅から工房へ通う「通い職人」もいた。ジョルジュがヴィックの町でドゴス親方の所で最初の修業をしたとすれば、この形であったのではないか。
しかし、ジョルジュがドゴス親方の下で修業をしたとしても、その期間は当時の状況(すでに徒弟になることが決まっている若者が一人おり、二人を徒弟にする余裕はなかった)から1年程度であり、その後はナンシーあるいはパリなどで徒弟修業をしたものと思われる。この点についての史料はほとんど何も残っていない。当時の徒弟の期間は地域などでも異なり、4年から8年くらいを要した。いうまでもなく、徒弟の間、親方に収める費用も親方の力量、知名度などで異なったが、かなりの額であった。
徒弟の最大の仕事は、さまざまだったが、そのひとつに親方が使う画材と絵の具の準備があった。徒弟の仕事は、どれを取っても厳しいものだったが、画材の準備もそのひとつだった。例えば、顔料の多くは大理石などの板の上で力を込めてすり潰すことが必要だった。顔料の種類も多く、その配合も複雑だった。顔料から絵の具を作り出すには多くの知識と労働が必要だった。ジョルジュも懸命に努力し、記憶したのだろう。徒弟がなんとか独立して、画家職人になるにはしばしば数年以上を要した。それでも作品制作への注文があるか否かは別問題であった。
恵まれたルーベンス
ピーテル・パウル・ルーベンスの場合は、例外的に極めて恵まれた事例であった。アントウエルペンという大きな豊かな都市で工房入りをし、画業を習得することを目指した。画家組合、聖ルカ・ギルドへの入会を認められた後、3人の親方のアトリエで次々と修行をしたが、1591年から合計8年の年月を費やしている。1594-5年から師事した画家Otto van Veen(1556-1629)は当時のアントワープで最も知られた画家の一人だった。1598年に親方画家として登録されたルーベンスは、その2年後多くの画家が憧れたイタリアへと旅立った。そしてマントーヴァ公の宮廷画家の地位を得て、この地になんと8年にわたり滞在した。
このように、徒弟の過程を終わると職人として、親方の工房で働くか、遍歴職人として各地を旅し、見聞、経験を積むのが通常であった。ルーベンスの場合は、アントワープ当時から多数の後援者に支えられ、恵まれた過程を辿ったといえる。
この時代の画家たちの遍歴、活動の実態を知ると、ルーベンスの場合は、あらゆる点で恵まれた状況にあった。1608年母の危篤の報で、アントワープに戻ったルーベンスはアルブレヒト大公の宮廷画家に迎えられたこと、イサベラ・ブラントとの結婚などが重なり、イタリアに戻ることなく故郷ともいえるアントワープに大きな邸宅と工房を構えた。1610年にルーベンス自身がデザインした新居は、現在では博物館 Rubenshuis に使われているほど広壮なものだ。当時は制作のための工房で、最高級の私的美術品の収蔵場所であり、図書館でもあった。
しかし、これはきわめて例外的なケースであり、絶えず戦乱、飢饉などの渦中にあったロレーヌなどでは到底想像しがたい状況だった。今に残る銅版画などを見ても、イーゼルなどが置かれた作業場と画材などの置き場などがある程度だった。
ヒエロニムス「フランケンIIとヤンブリューゲル兄《アルベルト大公、イサベラ大公妃が収集家の展示室を訪れている光景》
Archduke Albert and Archduchess Isabella Visiting a Collector's Cabinet, Hieronymus Francken II and Jan Brughel the Elswem 1621-23.
ルーベンスはアントワープの有力者で貴族のヤン・ブラントの娘イサベラ・ブラント Isabella Brant と結婚したが、ルーベンスも長い宮廷社会への出入もあって、ほとんど貴族並みの立ち居振る舞いを身につけ、敬意を持って迎えられる存在になっていた。
ルーベンスは、肖像画に大変長けていたと思われ、多くの作品を残しているが、このブログで再三取り上げているラ・トゥールの場合は、肖像画らしき作品をほとんど残していない。これもラ・トゥールという画家にまつわる謎のひとつだ。改めて取り上げることにしたい。