時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

亡くなって知る人の偉大さ: 中村哲医師を偲んで

2019年12月05日 | 午後のティールーム

 

 


アフガニスタンで中村哲医師が凶弾に倒れたニュースは、瞬く間に世界に伝わった。20年以上前に遡るが、ある国際協力に関わる会で、中村哲先生の講演を聴いたことがあった。日本が誇るべき真に偉大な人のひとりと即座に感じた。日本であったなら人も羨む恵まれた仕事も待っていたかもしれないのに、自ら進んで戦乱の地に活動の場を求め、医師でありながら井戸を掘り、灌漑事業に力を尽くすという想像し難い仕事に生涯をかけられた。

ブログ筆者がアフガニスタンに関心を抱くようになった背景のひとつには、中村哲先生の話がどこかで影響していたかもしれない。先生が日本ではメディアも「カブール」と言う表記で知られているかの地の首都を「カーブル」と言われていたことも、耳奥に残った。

かつては東西文化交流の要衝の地として栄華を極めたアフガニスタンが、その後なぜ低落の道を辿り、世界で最も過酷な戦乱の地と化したのか。一時期、多少のめり込んで調べたことがあった。タリバンの抬頭、イスラム過激派ISの出現など、実態は宗教的対立に政治的要因が絡み、なかなか分かりにくい。中村医師を襲った者がいかなる背景を持つ勢力なのか、実態解明には時間がかかるかもしれない。

今はただ心からご冥福を祈りたい。

 

アフガンに関わる本ブログ記事: 

The Kite Runner (凧を追いかけて) 2005年11月18日

戦火の下のラピスラズリ アフガニスタン 2006年12月9日

カブールの燕たち 2007年3月11日

パリ:行列のできる展覧会(2)  2007年3月28日

もうひとつのアフガニスタン 2007年12月16日

「夜警」の暗闘 2008年7月27日

アフガニスタンに光の戻る日を 2009年9月23日

漂泊のアフガン至宝 2009年10月5日

再会 アフガニスタンの輝き 2016年1月24日

戦火を超えて生き残った誇りうる文化:「黄金のアフガニスタン」展 2016年2月4日

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ガリレオ・ガリレイ『星界の報告』の偽造事件から・・・・・

2019年12月03日 | 午後のティールーム

 


絵画作品では偽作 imitation, fake は、珍しくない。本ブログで取り上げているラ・トゥールにしても《イレーヌに介抱される聖セバスティアヌス》(横型)のように、画家の真作は未発見だが、工房作などの模写、コピーは多数発見されている。これらは贋作というよりは、この作品主題の愛好者、顧客が工房作品でもよいと納得した上で発注していることが多い。一般に贋作とはいわないが、なかには明らかに贋作の範疇に入る場合もある。

偽造されていた『星界の報告』
今回取り上げるのは、それとは異なり、書籍(学術書)の贋作者の話だが、今日よくある海賊版のことではない。古い時代の書籍を初版本の時代にまで遡り、紙、活字、インク、装丁などを専門家にも見破られないように再現、制作するのだ。こうして作られた書物はいかに初版本に似ていようとも偽造本であり、それが市場に出回り高額な価格で取引される対象となると、明らかに犯罪行為となる。このたび、ガリレオ・ガリレイの歴史的名著 _『星界の報告』Sudereus Nunclus_ *1を偽造した犯人をめぐるドキュメンタリー・サスペンスがTVで放映されていたのを見る機会があった。

*1 世界のドキュメンタリー『偽りのガリレオ:世紀を超えた古書詐欺事件』NHKBS、ドイツ 国際共同制作 Ventana Film/rbb/ARTE/NHK 11月27日(水)23:00放送
 
邦訳
ガリレオ・ガリレイ『星界の報告他一篇』山田慶児・谷泰訳、岩波書店、1979年
ガリレオ・ガリレイ『星界の報告』講談社(講談社学術文庫) 2017年

偽造の犯人マッシモ・デカルロは、勤め先だったイタリアのジロラミーニ図書館(ナポリ最古の図書館)から数々の古書を盗み、その紙やインクを使って、ガリレオ・ガリレイの『星界の報告』の複製を行った。後に地動説を唱える根拠となった月の観察記録だ。2005年に鑑定団が「本物」(真作)と認めるが、後にイギリスの若手研究者が贋作と看破した。デカルロは自宅で懲役7年の禁固刑となるが、ドキュメンタリーの取材班に対して「次は見破れない傑作を作る」と自慢のコレクションを披露する。ガリレオ・ガリレイの真の初版本であれば、オークションなどで数億円(推定10億円)はするといわれる。こうした行為は明らかに犯罪であり、刑罰の対象なのだが、贋作者は、専門の鑑定家を嘲笑するかのように、見破られない作品の制作に生きがいを感じているかのようだ。贋作者の異常な心理でもある。デカルロは少しも悪びれることなく、「次は見破れない傑作を作る」と偽造本のコレクションを披露する。

画材、紙質、顔料、活字などあらゆる面について、贋作者、鑑定家が持てる技量の最大限を尽くす。アイロニカルではあるが、こうした偽造本の鑑定をめぐって、鑑定技術も進化する。“史上最高の贋作”を作った犯人と、専門家の攻防は今も続く。決して好ましいことではないが、17世紀の印刷・製本技術の粋を見ることができ、ドキュメンタリーとしては興味深い。

思い出したこと
ガリレオ・ガリレイの名で思い出したことがある。このブログでは既にガリレオ・ガリレイに関わるテーマを2009年、2013年に取り上げている。今回はガリレオ・ガリレイの時代に立ち戻り、これまで指摘しなかった側面を展望してみよう。

ブログ筆者は、恩師の影響もあり、かねてから30年戦争などを題材としたドイツの劇作家ベルトルト・ブレヒトの作品に関心を抱いてきたが、そのひとつに1947年刊行の戯曲『ガリレイの生涯』(岩淵達治訳、岩波文庫)がある。この戯曲は2013年に文学座によって上演された。ブログ筆者も微力ながらその過程に関わる機会があった。

ブログ筆者の関心はブレヒトの作品と生涯への探索から始まった。その過程で、ガリレイの裁判にも関心を呼び起こされた。ガリレイは地動説を唱えて以降、ローマの異端審問所から有罪判決を受け、 1633年、第2回異端審問所審査で、ローマ教皇庁検邪聖省から有罪の判決を受け、終身刑を言い渡される(直後にトスカーナ大公国ローマ大使館での軟禁に減刑)。その後、シエナ のピッコロミーニ大司教宅に身柄を移される。さらに、ガリレイは視力を失い、アルチェトリの別荘へ戻ることを許される(ただし、フィレンツェに行くことは禁じられた)。

17世紀天文学者、科学者、知 識人のネットワーク
『ガリレイの生涯』などを読んでいると、17世紀というITは言うまでもなく、電話すらなかった時代にもかかわらず、かなり迅速に情報が伝達されていたことに驚かされる。とりわけ、知識人の間にはかなり濃密な連絡のネットが存在した。ガリレイの裁判なども、迅速に伝わったことだろう。

ケプラー、ガリレオ・ガリレイ、メディチ家コシモII世、グロティウス、リシュリュー、ハーヴェイ、フランシス・ベーコン、ルーベンス 、デカルトなど、この時代の知識人の間にはりめぐらされたネットワークの存在と役割に気づかされる。今日ではネットワークは、IT技術を駆使して構成されているが、17世紀においては主として書簡の交信によるものであり、時には構成メンバーが旅をすることで、情報が伝達されていた。こうしたネットワークの中心にいた人物の一人が、ニコラ=クロード・ファブリ・ド・ペイレスク(Nicolas-Claude Fabri de Peiresc 1580-1637) である。日本ではあまり知られていない人物だが、もっと見直されていい知識人だ。

ペイレスクはフランスの天文学者 、博物学者、美術品・骨董品収集家、そして役人であった。1611年に オリオン大星雲を発見した。北アフリカを含む、地中海周辺の各地で 月食]の観測者を組織して、その観測結果から各地の経度の差を計算し地中海の正確な大きさを求めた。ペイレスくが送った書簡は残っている限りでも1万通に及び、ヨーロッパ全域の知識人のほとんど全てをカヴァーしたといわれている。骨董品の収集でも知られていただけに、骨董屋ともいわれたようだが、今日に残る人物の活動領域を見る限り、この時代の文化人を取り持つ中心的人物のひとりであったことが分かる。

ペイレスクのパン屋の息子ラ・トゥールの隠れた才能を見出した代官ランベルヴィリエも、この画家の将来性について、ペイレスクとの間で書簡を交わしている。美術品へのペイレスクの関心が窺われる。

ガリレオ・ガリレイには多数の支持者がいたことも分かっている。有罪判決を受け、収監されているガリレイが、ペイレスクに宛てた書簡が残っている。書簡は1635年5月12日付で、内容は異端審問裁判における厳重な尋問、ガリレイの収監状況などが記されている。

ガリレオ・ガリレイの『星界の報告』の偽造に関わる者を追求することはそれなりにサスペンス・ドラマのような関心を生み出すが、400年近い昔において、人間の英知と文化の所産を守り抜こうとするネットワークが形成されていたことにも、注意しておくことも大切と思う。ペイレスクはガリレイやケプラーのような時代を代表するような天文学者、科学者にはなり得なかったが、政治や教会と科学研究を隔離、独立させることに貢献した。そして、可能な限りで、研究のために支援を惜しまなかった稀有な人物だった。

P. N. Miller,Peiresc’s Europe. Learning and Virtue in the Seventeenth Century, Yale U. Pr. 2000

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17世紀から19世紀を歩く:コートルード美術館展:魅惑の印象派への道

2019年11月26日 | 午後のティールーム

 

 

 

最近では、よほどのことがない限り、一日に二つの美術館、美術展を訪れることはない。国内、国外を問わず、午前と午後にそれぞれ別の美術館を訪れることは、多くの場合、ロケーションの点でもほとんど不可能だ。見る点数も多くなり、印象も希薄になる。なによりも、最近では体力的に厳しくなってきた。ひとつの美術展では、3時間が限度だ。かつてはほとんど一日メモを取りながら館内にいたこともあった。しかし、上野公園の場合は、多くの美術館が集中していることもあって、複数の美術館、博物館を訪ずれることは不可能ではない。晴天にも恵まれ、今回は「ハプスブルグ展」に続き、午後に東京都立美術館で開催中の「コートールド展」(~2019年12月15 日)を歩いてまわった。

 

イギリスにおける印象派の殿堂
コートールド・ギャラリー・コレクション THE COURTAULD GALLERY COLLECTIONとは英国ロンドンのウェストミンスター地区にある美術館のコレクションだ。厳密にはロンドン大学附属コートールド美術研究所 の美術館であり、サマセット・ハウス内に設けられている。比較的小規模なギャラリーであるが、印象派のコレクションは非常に質が高い。ブログ筆者もイギリスに滞在中、2度ほど訪れたことがある。これが美術館と思うほど、雰囲気が素晴らしい。冬に行った時は、中庭にアイスリンクが出来ていて、人々がスケートを楽しんでいた。

コートールド美術研究所は、ロンドン大学を構成するコレッジのひとつで、美術史に特化した教育および研究を専門とする機関であり、美術史研究および保存修復に関して世界最高の研究機関のひとつに数えられている。

今回の展示作品はマネ、ルノワール、ドガ、セザンヌ、ゴーガンなど印象派の巨匠たちの名作が多く、これだけ日本へ来てしまうと、本拠のロンドンの方はどうなっているのかと思ったら、大改修のために他の美術館へ貸し出したらしい、これだけ一度に傑作を見られるのは日本の愛好者にとっては見逃せない好機だ。ここだけで、印象派の精髄を知ることができると思うくらい有名作品が目白押しに並んでいる。

富豪の社会貢献
印象派があまり好まれなかったイギリスにこれだけの作品が集まったのは、やはりコートルード家の貢献があったからだ。同家は17世紀フランスでの迫害を逃れてイギリスに移住したユグノー一族の末裔である。最初は銀細工師として名をなしたが、その後、18世紀末に絹織物業に転業した。20世紀初頭には家族経営で「人絹」 あるいは「レーヨン」として知られる革新的な人工繊維「ビスコース」の製造に乗り出した。コートルード有限会社はその後、ヨーロッパ、アメリカ、カナダに 工場を持つようになり、日本も大きな市場となった。

サミュエル・コートルードがこの会社の会長についた1921年は、同社が急成長、繁栄した次期であり、それによって得られた莫大な企業報酬はこのコレクションを可能にした大きな基盤だった。産業革命の生み出した大企業の富が社会貢献に生かされた好例といえる。巨大企業ビヒモスにも光を生む側面があった。イギリス人は古典派にあまり関心を抱いていなかったが、このコレクションは古典派作品を中心に収集することで、イギリスにおける古典派・ポスト古典派研究の中心となった。

マネの《フォリー=ベルジュールのバー》がポスターに取り上げられているが、このほかの画家の作品も、印象派好きには見落とせない。

ポール・セザンヌ (Paul Cézanne, 1839年 - 1906年)の《カード遊びをする人々》(カードプレイヤー)について考えてみた。このブログでも取り上げたことがある(カラヴァッジョ ・セザンヌ・トウェイン)の流れに位置づけられる。

 

ポール・セザンヌ(1839-1906)
《カード遊びをする人々》 
ca.1892-1896
油彩、カンヴァス
60x73cm 

このシリーズは、1890年代初頭から半ばにかけての晩年のセザンヌ芸術の基点であるとみなされている。パイプをくわえてカードゲームに没頭するプロヴァンスの農民の姿を描いている。描かれている農民は全員が男性であり、カード遊びに熱中して顔をうつむけ、目の前の勝負に没頭している。作品に描かれる主要人物(子供を除く)の数で、3人の作品(2点)、2人の作品(3点)の 計5点が確認されている。制作年次は不明だが、コートールド が所蔵するのは、2人が描かれた作品の2番目と推定されている。最も淡い色彩で描かれたオルセー版が、最も優れていると考えられている。このほかに個人のコレクションになっているものがある。

またこのシリーズは、17世紀のオランダとフランスの風俗画の文脈を強く意識した上で、セザンヌ独自に改良して描かれている。このような絵画では、しばしばギャンブルやいかさまの要素が入った光景が描かれたが、セザンヌはもっと単純な設定で、ひたすらゲームに熱中する農民を描いている。モデルはセザンヌの父が所有したエックスの別荘ジャズ・ド・ブッファン  LE JAS DE BOUFFAN で働いていたと思われる。

またカラヴァッジョ などの作品は劇的で深みのある瞬間を描いた作品が中心だったが、セザンヌの肖像画は、ドラマや物語性や人物の性格を特徴づける要素を極力排除している。テーブルには、封がされたワインボトルが二人の間に置かれているだけである。

さらに、シリーズは、1890年代初頭から半ばにかけての晩年のセザンヌ芸術を支える原点であるとみなされている。
 
またこのシリーズは、17世紀のオランダとフランスの風俗画の文脈を強く意識した上で、セザンヌが独自に改良して描かれている。セザンヌはもっと簡素な舞台でどこにもいるような農民に置き換えている。しかし、実際に見ると、絶妙な配置、色使いなど、画家が傾注したエネルギーがじわじわと伝わってくる作品である。
 
また以前は劇的で深みのある瞬間を描いた作品が中心だったが、セザンヌの肖像画は正反対でドラマや物語性や人物の性格を特徴づける要素が欠如している。というより、ことさらそうした要素を排除している。

シリーズの中で、おそらく最も有名であり、最もよく複製されているのが、パリの オルセー美術館に収蔵されたものである。寸法は47.5 x 57 cm と最も小さい。このオルセー版は最も洗練された作品であり、一般に最後に描かれた『カード遊びをする人々』と考えられている。コートルードの作品は、この前に制作されたと推定されている。第3の作品は、カタールの王族が2011年にギリシャの海運王ジョージ・エンビリコスから購入し所蔵するとされており、接する機会が少ない。

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紅葉の上野公園を歩く

2019年11月20日 | 午後のティールーム

 

 

今秋指折りの快晴の日、上野公園(正しくは都立上野恩賜公園)は、紅葉真っ盛り。道路など環境整備も進み、美しい公園となった。ブログ筆者には、子供の頃から親しんだ場所ではある。しばらくぶりに散策を楽しむ。


 

上野公園と云うとまず頭に浮かぶのは、上野動物園(東京都恩賜上野動物園)、同級生のお父さんが飼育課長?をされていた時は、学級全員の社会見学?で、開園時間外に特別に見せていただいたこともあった。子供心になんだか得をした気分だった。 その後、週末など、かなりの回数通った記憶がある。ジャイアント・パンダのいない時代だった。なにかの縁でいただいた上野動物園『上野動物園百年史』(東京都生活文化局広報部都民資料室、1982年)も処分されることなく大切に書棚の片隅に残っている。1936年(昭和11年)、黒豹が逃げた話を聞いたこともある。園内の暗渠に潜んでいて無事捕獲されたらしいが、当時の記録を読むと、かなりの大事件だったらしい。

 

この近辺、上野東照宮の塔が見えたり、並木道も美しい。由緒ありげなこの建物、ご存知の方はおられるだろうか。「旧東京音楽学校奏楽堂」(重要文化財)の看板がかかっている。表示版の説明を読むと、東京藝術大学音楽学部の前身、東京音楽学校の本館校舎として、明治23年(1890)に建築され、日本における音楽教育の中心的な役割を果たしてきた。昭和58年(1983)に台東区が東京藝術大学から譲り受け、昭和62年(1987)に現在の地へ校舎を移築・復元し、「旧東京音楽学校奏楽堂」として一般への公開も開始された。さらに、昭和63年(1988)には、日本最古の本格的な洋式音楽ホールを擁する校舎として、重要文化財の指定を受けている。

2階の音楽ホールは、かつて瀧廉太郎がピアノを弾き、山田耕筰が歌曲を歌い、三浦環が日本人による初のオペラ公演でデビューを飾った由緒ある舞台とのこと。 

平成25年4月より建物保全のため休館していたが、耐震補強や保存修理等の「保存活用工事」や空気式パイプオルガンの修理を終えて、平成30年(2018年)11月2日にリニューアルオープンした。2年くらい前にもこの辺りを通っていたが、気がつかなかったわけが分かった。あいにくこの日は入館できなかったが、近く一度入ってみよう。

東京国立博物館の周辺も広々として、噴水も美しい。折しも御即位記念特別展「正倉院の世界―皇室がまもり伝えた美―」が開催され、入館まで1時間近い待ち時間だった。
少し横道に入ると、木漏れ日が美しい歩道が続く。

上野公園はしばしば「上野のお山」ともいわれた。一見、平坦に見えるが、意外に起伏があり、こうした岡がある。頂上からは不忍池や弁天堂が眺望できる。

 

丘の上の美しい建物が、東叡山寛永寺の清水観音堂(重要文化財)であることは知っていたが、これまでその由来を詳しく知ることはなかった。清水観音堂は、寛永8年(1631)に東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正により建立された。今回、前を歩いて気がついたのは、画面にも見える輪型(月の輪)だった。由緒ありげで、説明などを読んで見て改めて見直した。月の松といわれ、植木の松を造園技術を駆使した植木職人によって、月の輪のように曲げて育てたものだった。明治初期の台風で被害を受けて永らく失われていたが、浮世絵にも描かれていた江戸の風景を復活させるため、平成24年(2012)12月に復元されたとのこと。

清水観音堂は、江戸時代から名所となり、境内の月の松は、江戸時代の浮世絵師歌川広重の「名所江戸百景」において「上野清水堂不忍ノ池」そして「上野山内月のまつ」として描かれている由。清水堂の舞台から見下ろした月の松には近江の竹生島の宝厳寺に見立てて建立された不忍池辯天堂と賑わいを望む事ができる。

知り尽くしていると思った上野公園だが、なかなか見所が多く、一日楽しむこともできる。日本一の動物園、美術館、博物館が林立し、疲れればカフェやレストランにも事欠かない。東京でもお勧めの場所のひとつだ。

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絵を見ることは画家の人生を見通すこと:ラ・トゥールとラウリー

2019年09月23日 | 午後のティールーム

 

L. S. ローリー, 《フットボール》


ラウリーとラ・トゥール
17世紀の画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥール1693-1652)のことは知っていても、19世紀末から20世紀にかけての画家L.S.ラウリー(ローレンス・スティーヴン・ラウリー:1887ー1976)の双方に関心を抱いているファンは、ブログ筆者以外にはまずいないだろうと思っていた。

時代も300年近く大きく離れる上に、ラ・トゥールについて知っていても、ローリーの知名度が上がったのは、比較的近年のことである。とりわけ、後者はイギリス・マンチェスター付近でほとんど全生涯を過ごし、栄誉や名声を求めることもせず、その地を離れることのなかった地方画家であった。晩年、次第に国民的名声を得るが、知る人ぞ知る存在であった。日本で数人の美術家に尋ねたが誰も知らなかった。他方、友人のイギリス人(経済学)に尋ねたら、「よく知っているね!」と逆に驚かれた。彼もファンだった。しかし、ラ・トゥールについては、彼も知らなかった。

見ていた人
ところが、思いがけずも、この二人を好み、美術評論や文学の対象としている人がいることに気づいた(記事最下段)。ジョン・バージャー(1926~ )という現代イギリスの著名な美術評論家、脚本家である。日本では知る人ぞ知る存在だが、絵画や写真について、いくつかの優れた業績を残している。

彼が着目した特異な画家L.S.ラウリーは、ブログ筆者もかねて記したように、1918年以降、イギリス北部の工業地帯であるマンチェスター、サルフォード近傍のイギリス工業社会の変遷を、独特の技法で着実に描き続けた。対象は産業革命で大きく変貌したこの地域で、長く親しんだ農地を追われ、工場で働く以外に生活の方途がなくなった労働者という貧しき人々の日常である。彼らの日常はほとんど生涯を通して変化することはなく、強固に形成された社会階級の最下層として、晴れの日も雨の日も同じような生活を過ごしていた。隣人の喜びも悲しみも等しく分かち合っていた。ラウリーは彼らと同じ場所に住み、画家としての生活を過ごしていた。母親に当初強く反対されたのだが、画家以外に人生でしたいことはなかった。そして、その意志を愚直なまでに貫き通して生きた。

 
ローリー《自画像(青年)》

ローリー《クローザー・ストリート、ストックトン》

産業革命以降、イギリス経済を牽引してきた北部工業地帯は、多少の変化はあったが、長らく同じ劣悪な環境・雰囲気を維持し続けた。日夜を問わず立ち上る濛々たる煤煙で覆われる空は、いつも濃い灰色で薄暗く、雨上がりの後ぐらいしか、青空を見せなかった。

ラウリーは多くの美術家が創作の対象とは考えないような工場、街路、病院、そして貧しい人々の日常を飽きることなく描き続けた。白黒写真しかなかった時代の記録としては、はるかに現実を伝える貴重なものとなった。煤煙で覆われた灰色の空は、季節によって多少の違いはあったが、ほとんど変わることなく、ラウリーの作品を特徴づけた。あたかも、夜なのか昼なのか判然としないラ・トゥールの作品を思わせるものであった。

L.S.ラウリーの作品は一点、一点見れば、平凡で稚拙にさえ見えるが、現在訪れてみれば、そのほとんどが同じ場所に同じ建物として存在しているのだ。街を歩く人々の衣服は、多少異なってはいるが、それほど大きな違いを見せていない。 

L.S.ラウリーの作品が制作された後、世界は1930年代の大不況を経験する。イギリス北部の工業地帯は最大の犠牲を被った地域である。この地域が新たな産業を基盤として再生し、装い新たな姿を見せることを想像することは極めて難しい。

画家はその独特な画法の成果を後世に残すために、常に心がけたこととして、「一度も外国に行かず、一度も電話を引かず、一度も車を持たなかったことである」と述べていた。こうした特異な性格と強い意志を持った画家によって、歴史の記録は残されたのだ。

ラ・トゥール:人の心を打つ真作と作られた話
他方、ラウリーより300年近く前に遡る画家ラ・トゥールは、若い頃から、かなり著名な画家であった。ヴィック=シュル=セイユというロレーヌの小さな町のパン屋の次男として生まれたが、天賦の才に恵まれ、数十点の今日に残る印象的な作品を制作した。いずれの作品も見る者に強い印象を刻み込む。いくつかの作品は、神秘的あるいは謎めいており、一目見たら生涯忘れることはないかもしれない。ブログ筆者もその魔力に取り憑かれた一人だ。

作品の素晴らしさは、画家に生まれつき備わったものであり、今日残る作品が、その秘めたる才能の成果であることは、疑うところはない。フランス17世紀に燦然と輝く金字塔のひとつだ。

 

ラ・トゥール  《マグダラのマリア》作品断片

しかし、画家の生後、今日まで伝えられる話のかなりの部分は後世の所産である。きわめて断片的な古文書史料などから組み立てられたストーリーが伝承されている。《大工ヨセフ》のような神秘的で美しい作品と、強欲な領主のようで、農民に嫌われていたというような画家の人格と作品の間には信じがたい大きな断裂がある。イタリア行きの史料も少なく、多くの謎に包まれている。フランス国王13世の王室付き画家にまで取り立てられたと話もあり、事実と思われる部分もある。後世に作られた話は、従来の美術史の次元を越えた新しい視点から見直される必要がある。

ラ・トゥール 《女性の頭部》(断片)

絵画や写真などの美術作品を正しく「見るということ」(鑑賞すること)の意味と難しさをバージャーは伝えている。「作品を見る」ことは、その作品を制作した画家の人生を見通すことでもある。


ジョン・バージャー(飯沢耕太郎監修・笠原美智子訳、筑摩書房、2005年)『見るということ』(John Berger, About Looking, 1980:美術評論集所収
「ローリーと北部工業地帯」
「ラ・トゥールとヒューマニズム」

ちなみに、バージャーはラ・トゥールの作品から《大工ヨセフ》《鏡の前のマグダラのマリア》《蚤をとる女》の3点を挙げている。しかし、《蚤をとる女》は「私には解釈不能である」と記している。この作品が、ラ・トゥールの真作と判定された時の人々の受け取り方については、本ブログでも記した。筆者はこの作品の発見以来、幾度となく見る機会を得たが、回を重ねるごとに、この作品が持つ絶妙な美しさを共有するようになった。そのために、作品が制作された時代へ出来うる限り近ずくことを心がけてきた。絵画を「見るということ」は、いかに難しいことか。しかし、それは大きな楽しみでもある。



 

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鎮魂の夏:友を偲んで

2019年08月10日 | 午後のティールーム

ケンブリッジの夏のある日

 

文字通り酷熱、酷暑の8月。お盆休みで帰省の大きな流れが動き出した。今年はいつになく、多くの友人・知人と永遠の別れがあった。それぞれに興味尽きない人生の出会いがあったことを思い起こさせる。

7月、イギリスから一通の訃報が入った。長年の友人W.Bとの別れだった。ケンブリッジの自宅での突然死だった。W.B.はケンブリッジ大学ダーウイン・コレッジのマスター(学寮長)やケンブリッジ大学全体の副学長(教育・研究担当)、多くの大学の評議員、学会、政府のアドヴァイザーなど多数の要職を務め、引退の途上だったが、まだ多くの仕事をしていた。

ダーウイン・コレッジ小景 

W.B. 愛称ウイリーとの出会いは、偶然だった。若い頃、ある国際会議の席で隣り合わせた。彼はすでに立派な業績を残していた研究者だった。会議は概して退屈だった。しかし、彼はなにか一心にノートに書き込んでいた。イギリスの優れた研究者はこういうものかと感心して、つまらない講演を見つめていた。しばらくして、彼が見せてくれたのは、なんと退屈な発表者のカリカチュア(戯画)だった。なかなかうまく描けていた。会議の後で、”大人の暇つぶし” an adult’s pastime! といたずらっぽく笑っていた。

その後、あちこちの会議などで出会うようになり、ウマが合うというか、急速に親しくなった。後年、彼が名誉フェローであったウルフソン・コレッジに客員として招聘もしてくれた。ここで筆者が学んだことの一つは、アングロサクソンといっても、アメリカとイギリスでは研究者へとしての教育の考えも、現実の仕組みも大きく異なるという点であった。アメリカでは学問の土台構築の方法などを厳しく仕込まれたが、イギリスでは個人の想像力発揮を促進するよう緩やかな枠組みが準備されていた。幸いにも両者を体験しえた筆者は、教育のあり方について実に多くのことを学んだ。

度々訪れたボートハウス小景

ウイリーからは日本人の友人以上に学んだこともあった。筆者も一端を担い、東京で開催した国際会議などに際しても、その力量と人脈を生かして最大限の支援をしてくれた。引退後も多くの仕事を続けていたが、その中には 地方行政区(Parish Council)の区長まで含まれていた。世界の実態から地域への貢献まで、彼の視野と活動は想像を超えていた。

最近は、BREXITを含む世界の荒廃を嘆いていたが、今は天国で誰かのカリカチュアを描いて楽しんでいることだろう。

今年、旅立たれた友人・知人(W.B.を知る人も多い)を含めて、心からご冥福を祈りたい。

 

 

☆ 筆者が初めて到着の挨拶に行った時、W.B. の研究室には、下掲のターナーのポスターが架けられていた。同時期、筆者の部屋にも同じものをかけていた。不思議な因縁を感じる。

《平和 ー 海の埋葬》

 Peace - Burial at Sea 1842年頃
87×86.5cm, 油彩・画布,  テート・ギャラリー(ロンドン) 

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温故知新の旅

2019年07月26日 | 午後のティールーム

 

 

ある日、急に旅心が高まり、博多まで飛んだ。目的は国立九州博物館だった。これまで何度か訪れる機会はあったのだが、時間の関係で部分的にしか見ていない。東京、京都、奈良の博物館はかなりの回数訪れたのだが、九博は企画展などの噂を聞くばかりでほとんどまともに見ていない。折しも下記の特別展が開催されており、一つの誘いとなった。

室町将軍ー戦乱と美の足利十五代ー
令和元年(2019年)7月13日〜9月1日

経路を考えたが、今回は太宰府から入ってみた。この頃は地方都市でも外国人観光客で溢れていて、宿泊先が制約されることも増えたが、流石に太宰府まではその波は及んでいなかった。それでも天満宮は韓国、中国からの観光客が日本人を圧倒するほどだった。鉄道路線も快適だった。


 

九博は特別展はそれなりに混んでいたが、混雑の原因は修学旅行の生徒たちで、ほどほどの混み方であった。テーマは、「日本文化の形成をアジア史的観点から捉える」ことで、古くよりアジアとの交流が盛んな土地ならではの展示品が並んでいた。

また、常設展示では、通常の博物館のような順路を設けていないので、自分の興味のある時代やエリアから見たり、後ろに戻ってみたり、各々が自由に博物館散策が楽しめるのも魅力になっている。

「戦乱と美」の時代というと、このブログで取り上げることが多いヨーロッパ17世紀を思い出す。しかし、この場合は、少し遡り13世紀から16世紀が対象となる。足利尊氏から足利義昭までの時代である。企画展では現存する13人の室町将軍像を寺外で一挙公開というのが売り物だった。


他方、南北朝・戦国と動乱の時代の将軍家であったため、波乱に満ちた生涯を送った将軍が多く、幕府所在地(京都、室町)を追われた将軍が7人(尊氏・義詮・義稙・義澄・義晴・義輝・義昭)、幕府所在地以外の地で没した将軍が6人(義尚・義稙・義澄・義晴・義栄・義昭)、暗殺された将軍が2人(義教・義輝)、更迭された将軍が3人4回(尊氏[1]・義稙が2回・義澄)、そもそも幕府所在地に入れなかった将軍が1人(義栄)いる。
代数は一般的に「15代(15人)」とされる場合がほとんどであるが、第10代(10人目)の足利義材(足利義稙)が一度将軍職を追われた後に再び将軍職に就いており、就任(任命)と解任(辞任)の正式な手続きが踏まれている。企画展には7代義勝のように、9歳で在位、10歳で亡くなった幼すぎる将軍像も展示されていた。


ブログ筆者は、この時代についての知識が十分ではなかったので、久し振りに音声案内まで借りて大変興味深く見ることができた。もっとも、ブログ筆者は空いていた常設展の方に時間をかけてしまった。館内は撮影禁止だが、見るだけでも十分楽しめる内容だ。東京や京都、奈良の博物館のように、人混みを感じることがなく見ることができるのは素晴らしいと感じた。とりわけ文化交流展示室の対馬宗家の偽造印展示が興味深かった。

この地は「令和」の元号に関連しても、話題の多いところだが、筆者は元号問題はあまり関心がなく、展示は文字通り見るだけだった。

新元号記念特別企画「令和」
「万葉集」巻五(販本)・江戸時代18世紀(原本奈良時代8世紀)[所蔵]九州国立博物館 2019年4月21日(日)~9月29日(日)
「受け継がれる名筆-青山杉雨・髙木聖鶴・髙木聖雨 書展」
太宰府天満宮宝物殿

太宰府駅に出て、太宰府駅→観世音寺・戒壇院→大宰府政庁跡を歩く道も、昔を偲びながらのゆったりとした旅だった。観光ブームはこちらには及んでいなかった。


 

『源氏物語』にも登場する観世音寺は、天智天皇が、母君斉明天皇の冥福を祈るために発願されたもので、80年後の聖武天皇の天平18年(746年)に完成した。古くは九州の寺院の中心的存在で、たくさんのお堂が立ちならんでいたが、現在は江戸時代初めに再建された講堂と金堂(県指定文化財)の二堂があるのみである。境内はクスの大樹に包まれ、紅葉、菩提樹、藤、アジサイ、南京ハゼと季節が静かに移る。

 

日本最古の梵鐘がある「西日本随一の寺院」

昭和34年(1959年)多くの仏像を災害から守り完全な形で保管するため、国・県・財界の有志によって、堅固で正倉院風な周囲の景色に馴染みやすい収蔵庫が建設された。
この中には平安時代から鎌倉時代にかけての仏像16体をはじめ、全て重要文化財の品々が収容されており、居並ぶ古い仏たちに盛時がしのばれる。西日本最高の仏教美術の殿堂のようで、特に5m前後の観音像がずらりと並んでいる様には圧倒される。また仏像の多くが樟材で造られたのも九州の特色といえる。


この太宰府地域、歴史的には極めて興味ふかい所で、長い時間をかけて見てみたい所が多い。思いがけない事実を知らされたり、温泉もあって、心身ともに癒される。これまで、かなりの地域を旅してきたつもりだが、お勧めしたい場所のひとつであることは間違いない。

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時空を超えて:今我々はどこにいるのか

2019年06月10日 | 午後のティールーム

 


まだブログとホームページの違いもよくわからなかった頃、大学の講義や演習とは直接関係ないが、長らく関心を持っていたテーマ、トピックスをメモがわりに記しておきたいと思い、若い学生諸君の力も借りて、HPを設計し、たどたどしく書き始めたのがこのブログ?の始まりだった。若い世代との話題拡大も一つの目的であった。

「危機の時代」を振り返る
インターネットの最大のメリットは、大学講義のようにテーマを制約されて話す必要もなく、かなり自由に論点、トピックスを移動できることが最大の魅力だった。ブログ・タイトルを「時空を超えて」としたのは、筆者の仕事としてきた「現代経済研究」(とりわけ労働問題)と、多忙なままに整理できなかった「17世紀ヨーロッパ研究」(とりわけ美術・文学)、そして17世紀から今日まで何度か浮上した「危機の世紀」のトピックスを、「タイムマシン」のように行きつ戻りつしながら、脳中に眠っている記憶を明示化し、時には多少の議論の材料としたいと思った。何れにせよ、試行錯誤だった。

筆者のその思いは多少満たされた。ブログで筆者の意図を知ったかなり多くの方々から、それまであまり語られなかった興味ある側面を知ることができた、あるいは一人の筆者が書いているのかとの話まであった。トピックスが縦横に変わることがそうした印象を持たれたのだろう。しかし、それこそがブログ筆者の意図したことでもあった。変化の激しい時代を生きる上でも、狭い話題に束縛されることなく、大きく広い世界を視野に入れておきたいと思った。アクセスしてくださる方には、右往左往するトピックスに当惑されたことだろう。

今日につながった17世紀絵画
ブログで取り上げてきたひとつのテーマ、17世紀の画家ラ・トゥールについては、記事を読まれた読者の方が、はるばるフランス、ロレーヌの地から感想を寄せてくださったこともあった。「時間」TIMEと「空間」SPACEという概念に基づいて組み立てたブログの仕組みが
働いてくれた。作品を見ただけでは全く分からなかった画家の生活、時代背景を知ることが出来て、カラヴァッジョを含め17世紀絵画が非常に興味ふかいものになったと感想を述べられた方もあった。17世紀ヨーロッパ市民社会の先進地域のオランダ絵画を見ているだけでは「危機の世紀」と言われたこの時代のヨーロッパを正しく理解することはできない。

2016年には、NHKで俳優モーガン・フリーマンによる「モーガン・フリーマン 時空を超えて」という宇宙を主題とする番組がEテレで放映され、世の中では「時空を超えて」とは宇宙のテーマと思われた向きもあったようだ。しかし、TIME AND SPACE というテーマは歴史、文学その他の領域でも大きな意味を持つ枠組みとなる。

「時空」を構成する概念
時間の概念の導入とともに、その推移に伴い空間は壊れ、それを支える様式・フォルムも壊される。歴史の次元では技術変化に伴い、時間軸上で時間は「速度」を増し、「過去」から「現在」の要素が急速に増加する。時間、空間の次元で「方向」DIRECTION、「フォルム」 FORMは、技術変化に大きく依存、影響を受ける。美術、文学、音楽などが知的活動を促進する。技術変化は時代によりその速度は異なるが、産業革命以降、電気、電信、電話、鉄道、自動車、航空機など次々と起動力を導入した。結果として、社会の伝統的な階層、ヒエラルキーも破壊される。それとともに、世界も次々と新たな展開を見せる。産業革命に関わるトピックスが、頻繁に現れるのは、こうした背景を意図してのことである。


「時間」と「空間」という抽象的概念から成る枠組みは、さらに過去、現在、未来、速度、フォルム、距離などの概念の導入で充実する。そして、画家、音楽家、芸術家などの次元に入れば、「時空を超えて」、「当時」(contemporary)と「現在(」contemmporary)を比較することも可能となる。17世紀に生まれ、活動したが、20世紀初頭まで美術史上忘却されていたラ・トゥールという画家の現代的評価が実現することになる。電灯の発明・普及で、蝋燭の光しかなかった17世紀の光と闇の世界は大きく変わり、その境界は、漠としたものになった。「光」(あるいは昼)と「闇」(夜)という二分された世界は、過去のものとなった。

今やこの世界から闇は奪い去られた。現代人はラ・トゥールが生きた17世紀の闇を知ることがない。そこは魑魅魍魎が徘徊し、魔女たちが支配する恐ろしい世界だった。しかし、現代は夜も電灯が煌々と輝いている。このことは、作品を観る者の環境、心象風景も変えてしまった。ラ・トゥールの作品に描かれた蝋燭一本の光に立ち戻ることはない。そして、いまや作品の裏側まで見通しうる人は少なくなった。時空を超える以外に、画家が思い描いた真のイメージを理解することは出来なくなった。

 


モーガン・フリーマンの番組の原題は”Through the Wormhole”となっている。ワームホールとは、天文学でブラック・ホールとホワイト・ホールの仮説的な連絡路(1593)を意味する。




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いと高き先に見えるものは:ロレーヌ・ゴシックの残像

2019年05月22日 | 午後のティールーム

ノートル・ダムのガーゴイル 

 

去る4月15日から16日(現地時間)にかけて突如として起きた、パリのノートルダム教会Notre-Dame de Parisの火災の実況をTVで見た。世界にその名を知られた大聖堂の尖塔がもろくも崩れ落ちるという予想もしない衝撃的光景である。瞬時に脳裏に浮かんだのは、どういうわけか、あの9.11の光景であった。考えてもいなかったことが起きると、思いもかけない連想が脳裏で働くようだ。


12世紀に建築が始められ、幾多の風雪を経て今日まで人々の信仰の象徴となってきたあの高い塔(地上高約32m)が、2時間くらいの間にもろくも崩れ落ちた。カトリック信徒でなくとも、驚く出来事だった。何か恐るべきことが起きる予兆ではないかと思った人もいたようだ。実際、9.11後、世界は明らかに変わった。そして今、新たな戦争の可能性が語られている。

*A new kind of cold war, The Economist, May 18th-24th, 2019
 Collision course, The Economist May 11th-17th,2019 

この度の尖塔火災崩落の原因の究明は進められているが、未だ正式には発表されていないようだ。少し意外だったのは、木造部分が燃え、石造りの壁が支え切れなかったとのことだ。何度か訪れたことがある場所だが、壮大な石積み、石像、ステンドグラスの美しさなどに圧倒されて、木造部分がどこであるかは全く気づかなかった。

大聖堂の建設は12世紀、1163年に始まり、1225年に完成したとされている。その後の長い歴史においても、今回のような火災焼失は初めてのこととされる。火災発生後、今日までのわずかな間に世界から邦貨換算1000億円を超える、修復に十分な寄付が集まっていると伝えられる。フランス国民のみならず、この聖堂に対する愛と信仰がいかに大きいかがわかる。他方では、それだけの寄付をする財力がどこかにあるならば、もっと直接に貧困層などのために役立てるべきだとの批判もあるようだ。

ブログ筆者はこれまでの人生でかなりの数の寺院、教会などを見る機会があったいt。フランスではとりわけロレーヌの旅をしている間に、多くの教会、修道院などを訪れた。そのほとんどがノートルダム大聖堂と同じゴシック建築である。

聖堂を築いた人たちの熟練養成
ブログ筆者が専門としてきた領域のひとつは、社会における熟練の形成過程であった。長い信仰の歴史を支えてきた教会の石組みを見ながら考えたことは、それを作った当時の職人たちのことであった。こうした大教会・聖堂などの着工から完成までには、通常の民家などと違って、はるかに長い年月を要すると想定されている。確かにサグラダ・ファミリアのように着工後、数世紀という年月を経ても完成に至っていないというような例もある。しかし、多くの建築は数十年くらいの年月で竣工している。これは建築の依頼者や寄進者などのことを考えて計画、工事を進めるからであろう。今回焼失・倒壊したノートルダムの場合も早ければ数年で復元できるのではないかという推定もあるようだ。実際にはほとんど不可能な予感はするが。

教会建築の現場で仕事をするのは、建築設計家の指示に従って作業にあたる石切工、石工などの肉体労働者である。当時は今日と違って、コンピューターも防塵マスク、眼鏡などもなかった。最大の職業病は珪肺であり、きびしい労働環境であった。粉塵と危険に溢れた職場で、切り出された石を成形し、プランに従い積み上げ、モルタルなどで固定するというきつい仕事である。しかし、人々の信仰の場を生み出す石工には、社会の評価、レスペクトもあったようだ。ギルドの成立も早くからあった。

石工だったラ・トゥールの祖父

ブログに記したこともあるが、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの父親ジャンはパン屋であったが、ジャンの父親は石工だった。石工になるためには、親方の家に住み込みの徒弟として入り、親方の仕事を助けながら見よう見まねで技能を体得し、数年の修業を経て、職人として独立することが認められ、さらに経験を積めば、親方職人への道があった。

息子のジャンは毎日の過酷な労働を酒で紛らわす父親の生活を見ながら過ごし、自分はパン屋で生きようと決めたのだろう。しかし、パン職人も見かけによらず、厳しい労働を要求されていた。そうした環境から、画家というきわめて先の見えない職業へと移ったジョルジュの生涯は、職業選択・技能伝達という現代的観点からもきわめて興味ふかい。この点はブログにも度々記している。

Theodore Rieger, Chapelles de Lorraine, Est Libris, Metz, 2003


ロレーヌの残像

石工の労働、教会大聖堂の建築の実際の過程は、それ自体大変興味ふかいのだが、記す余裕がない。

今回はかつて辿ったロレーヌの町巡りで、気づいたことを少しだけ記したい。ロレーヌの町や村には今日でも数多くのゴシック建築による教会が残っている。メッスやナンシーのような大きな都市には多数の宗派の異なる壮麗な教会聖堂がある。ゴシック式の建築はその高く聳え立つ先端の尖ったアーチで、直ちに認識できることが多い。

ゴシックは、ロマネスク様式に続き、12世紀頃からフランスを中心に発達した。筆者にとって興味深かったことは、今日に残る教会のすべてが大聖堂のような威容を誇るものではなく、小さな村や町にはひっそりと祠のような姿で残っているものも多いことだった。そして、どんなに小さな教会であっても、いと高き天に向けての希求を示す突出した屋根と十字架で、直ちにそれと知ることができる。その背景には、地域ごとの宗派の分布なども影響しているのだろう。この点に立ち入る余裕はもはや筆者にはなくなったが、宗教改革、カトリック宗教改革の激動の過程では、ロレーヌという地は、カトリック布教の最前線であり、ローマ教会の主導の下で多くの教会、修道院が建造された。

ラ・トゥールが生きた17世紀、30年戦争を含め、この地は数多くの戦乱を経験してきた。17世紀は史上初めての「危機の世紀」として知られる。21世紀、残る時代がいかなるものとなるか。すでに国家間衝突の動きはいたるところに現れている。その行方がいかなるものとなるか、ブログ筆者は知る由もないが、戦争のない平和な世紀であることを祈るのみである。

 

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よみがえるマリア・カラスの世界

2019年04月24日 | 午後のティールーム

 

久しぶりにマリア・カラス(Maria Callas 1923年ー1977年)の歌唱を聞く。と言っても、映画『わたくしはマリア・カラス』の中である。53歳という若さで世を去った20世紀を代表するソプラノ歌手は、その卓絶した歌唱力と華やかな人生のゆえに、やや神格化されてきた。

1973-74年には来日もしており、日本人にもファンは多く、同時代人でもある。しかし、謎に包まれた部分も大変多い。映画は、未だ公開されたことのない未完の自叙伝やこれまで封印されてきたプライベートな手紙、秘蔵映像や音楽などを彼女自身の言葉と歌で綴られる。より素顔に近いマリア・カラス像が描き出されている。

マリア・カラスはかねて筆者のご贔屓の歌手の一人であり、LPのジャケットが近くに置かれていたこともある。しかし、ある時からあまり聴くことがなくなった。その顛末はブログにも記したことがある。

カラスは、ギリシャ系 アメリカ人の ソプラノ歌手。 ニューヨークで生まれ 、パリ で没し、 20世紀最高のソプラノ歌手とまで言われた。特にルチア(ランメルモールのルチア) ノルマ、ヴィオレッタ( 椿姫 トスカ)などの歌唱は、技術もさることながら役の内面に深く踏み込んだ表現で、多くの聴衆を魅了した。それにとどまらず、その後の歌手にも強い影響を及ぼした。筆者は演歌はほとんど知らないが、偶々歌手の原田悠里さんが最も影響を受けた歌手として美空ひばりとマリア・カラスを挙げていたので、さもありなんと思った。

1938年アテネ王立歌劇場で『 カヴァレリア・ルスティカーナ』( マスカーニ作曲)のサントゥッツァを歌ってデビューした。 1947年には ヴェローナ音楽祭で『 ラ・ジョコンダ』の主役を歌い、 1950年には ミラノ・スカラ座に『 アイーダ』を、 1956年 には ニューヨークの メトロポリタン歌劇場で『ノルマ』を歌ってデビューし、それぞれセンセーショナルな成功を収めた。今日、メディアを通して聴いても、その素晴らしさは直ちに分かる。

カラスの特に傑出した点は、そのテクニックに裏打ちされた歌唱と心理描写、演技によって、通俗的な存在だったオペラの登場人物に血肉を与えたことといわれる。持ち前の個性的な美貌と声質を武器にして、ベルカントオペラに見られるありきたりな役どころにまで強い存在感を現した。

1958年1月2日、 ローマ歌劇場が行った ベッリーニ『 ノルマ』に主人公ノルマ役で出演したが、カラスは発声の不調のため、第1幕だけで出演を放棄してしまった。その結果、場内は怒号の渦巻く大混乱となり、この公演はさんざんな失敗に終わった。

その後、イタリアでのスキャンダルから逃れるようにフランスの 「パリ・オペラ座」 と契約。 1958年オペラ座にておこなわれたデビューコンままを映画化(『マリア・カラス 伝説のオペラ座ライブ』)される。

1973年と 1974年に来日。1974年には ジュゼッペ・ディ・ステファーノ(テノール)とピアノ伴奏によるリサイタルを行った。この1974年の日本公演は前年から始まっていたワールドツアーこれが彼女の生涯における最後の公式な舞台となってしまった。

カラスの私的生活には、取り立てて関心はなかったのだが、映画を見て少し見直した。カラスの最初の夫は30歳年上のイタリアの実業家ジョヴァンニ・バッティスタ・メネギーニであったが、後に オナシス のもとに出奔し離婚。オナシスとの愛人関係は ケネディ 大統領未亡人 ジャッキーとオナシスの結婚後も続いた。その後ディ・ステファーノと恋愛関係に入る。しかしステファーノとの関係も1976年12月末に終わった。

1977年]9月16日、隠棲していた パリ16区の自宅にて心臓発作で、53歳で死去。 遺灰は ペール・ラシェーズ墓地に一旦は埋葬されたが、生前の希望により 1979年に出身地の ギリシャ沖の エーゲ海)に 散骨された。カラスにはやはり青いエーゲ海の血が流れていたのだ。久しぶりにカラスを聴いてみよう。

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モントリオールの思い出

2019年04月12日 | 午後のティールーム

 

たまたまTV番組で、タクシーで「モントリオールを走る」(再放送)を見た。これまでの人生でかなりの数の外国都市を訪れてきたが、この都市にはとりわけノスタルジックな思いがある。学生時代に友人たちと貧しいながらも楽しい日々を過ごし、その後は仕事でかなりの回数訪れている。多分50回は優に越えていると思う。友人・知人も多かったが、今は数人になってしまった。

モントリオールとの縁ができたのは最初は1960年代、ベトナム戦争たけなわの時代であった。アメリカの大都市では黄色い衣、を着たヒッピーが目立ち、反戦運動が報じられていた。ベトナム派遣を忌避してカナダへ逃げる学生もいた。ちなみに 1975年4月30日のサイゴン陥落によってベトナム戦争は 終戦となった。

モントリオールとニューヨークは、同じ北アメリカの都市でもかなり違うように思えた。とりわけ、道路や橋など公共資本がかなり荒廃していた当時のニューヨークと比較すると、モントリオールは落ち着いた美しい都市であった。地理的には、セントローレンス川とオタワ川の合流点に近い島であり、川を望む展望が美しい。周辺には多くの景勝地が点在する。このブログでも一部は記したが、日本ではあまり知られていない所が数多くある。一時はこの大河の流域の植民、開発を新たな視点で描いてみたいと思ったこともあったが、その時間はないようだ。それでも、16世紀半ばから1760年までのいわゆる植民地時代、モホーク・インディアンなどの先住民の居住地やジャック・カルティエ広場など、植民者の名前が残る場所など、記憶が鮮明に残る場所も多い。

セントローレンス川は大河であり、流域には広大な大地が広がっている。移民国家としても、一時は混乱もあったが、総体として出入国管理、共生政策が比較的巧みに運営されてきた。北米3カ国の国境で、カナダ・アメリカ国境は比較的静かにとどまっている。先住民との衝突も多かったが、広大な地域の思いがけない所にまで入植者が入っている。

今では、モントリオールはカナダ第二の都市であり、住民の大半がフランス系カナダ人を中心にしたヨーロッパ系だが、世界各地からの移民も多い多民族都市になっている。筆者がしばしば訪れた1960-1980年代頃は総じて英語が優位なような印象が残っている。友人、知人も多くは英語が得意な人たちが多かった。ほとんどが移民あるいはその子孫であり、フランス系、ベルギー系、ロシア系など出身国は様々だった。

「北米のパリ」とも呼ばれ、ノートルダム大聖堂などフランス入植者の歴史が色濃く残る。住民の大半が フランス系カナダ人を中心にしたヨーロッパ系だが、市内の人口の約32%は非白人と世界各地からの移民も多い。TV取材の対象となった運転手もほとんど移民で、フランス語が得意な人たちが多かった。今では、周辺地域を含むモントリオール大都市圏の人口は約380万人であり、モントリオール大都市圏の住民の7割弱が 第一言語をフランス語とし、フランス文化の薫り高い異国的な雰囲気、フレンチ系の美食レストランが多いことでも知られる。

他方、都市部の住民の1割強の第一言語は英語であり、19世紀の終わりから20世紀の始めにかけて英国系移民によって街が発展してきたことから ヴィクトリア朝の建物が多いなど英国文化も色濃く残る。地上を歩いていると、人通りもさほど多くなく、落ち着いた感じがするが、冬が厳しいので地下街が発達していて、暖かくショッピングができる。モントリオール郊外は、北には ローレンシャン山地、夏は キャンプ、冬はスキー などのアウトドアレジャーで賑わう。秋の「メープル街道」も有名だ

大都市の例にもれず、モントリオールも高層ビル群が目立つが、市内のモン・ロワイヤル山(233m)より高いビルの建設は禁止されている。ちなみにこの山頂からの眺望は昼夜を通して素晴らしい。日本には美しい山と川がこれほど町に近く、対比できる大都市が見当たらないが、景観だけで見れば札幌などが近いだろうか。

 

◆「モントリオールを走る」NHKBS! 1月12日(土)【BS1】20:00~20:50の再放送

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ふたつの花の来し方

2019年03月31日 | 午後のティールーム


この国の国民にとって、花といえば桜である。誰もが愛し、様々な思いを重ねる桜、その開花の時を迎えた今年の春は、例年と異なり特別な感慨を与えるものだろう。ブログ筆者にとっても、いつになくこころぜわしい。ひとつの時代が終わり、新たな時代が始まるということにとどまらない。この国の未来、そして世界のあり方に様々な思いが心をよぎる。とは言っても到底、ここに書き尽くせる様なものではない。

チューリップの来し方
ここでふと、もうひとつの花のことを思い出した。以前にはしばらく記していたチューリップのことだ。年々、秋に球根を植え、春に開花するのを楽しみにしてきた。今でも相変わらず、秋には球根を植えている。植える時期、植え方、種類などによって開花のあり方が微妙に異なる。しかし、期待を裏切ることなく、春ともに地上に芽を出し花を開く。その自然の摂理にさまざまなことを考えてきた。今年は今、開花の時を迎えている。桜の開花とほとんど時を同じくしている。

「チューリップ・バブル」の真実は
チューリップというと、思い出すのはオランダであり、その黄金時代の光と陰だ。数年前に読んだいわゆる「チューリップ・バブル」に関する一冊の本*のことを思い出した。このテーマに関する書籍の数はおびただしく、一般向けのタイトルだけでもどれだけあるか、チューリップに囲まれるように住んでいる友人のオランダ人に尋ねてもよく分からないという。

「チューリップ・バブル」というと、通説では1930年代半ば、オランダ(ネーデルラント連邦共和国)の黄金時代に、当時のオスマン帝国からもたらされたチューリップの球根が異常に高騰し、そして、1637年には突如として急激に下落し、社会的な混乱と国家財政的破綻を引き起こし、世界史上初めての投機的バブルとされてきた。ある種類の球根は1932年当時の10倍くらいに高騰したとされる。この急騰・下落によって数千の投資家が破産したといわれる。結果として、オランダの商業を中心に、経済も大打撃を受けたとされ、資産価値がその内在価値を大幅に逸脱して下落し、関係筋に大きな損失を与える現象という意味で、後年比喩的にも使われるようになった。

フィクションの支配からの脱却
他方、結果としてもっともらしいが、「チューリップ・バブル」として、必ずしも実証的裏付けがない群集心理的フィクションが多数出回り、リスクが見えない愚かな騒ぎという、事実とは離れたバブル観が作り上げられてきた。このチューリップ・バブルも信頼しうる統計・資料などで理論的に論証されたものではなかった。誇張も多く実態ともかけ離れていたイメージが形成されてきた。その経緯が次第に明らかになり、出来うる限り事実に即した理解への修正がなされるようになった。ここで取り上げるアン・ゴルガーの著作*1もその方向に沿っての大変優れた作品と言える。この著作は以前にも取り上げ近い将来補足をしたいと考えていた。今回改めて読み直してみた。

ロンドン、キングズ・コレッジの初期近代史の研究者アン・ゴルガーは当時の取引資料などを広範かつ詳細に検討し、一般に伝えられる内容とは異なり、当時のチューリップの球根1株の価格は、まずまず穏当なものであり、破産に追い込まれた取引業者や投資家などの数は今日伝えられるほど多数のものではなかったようだ。こうした調査に基づき、彼女はこのチューリップの球根価格の変動はオランダの経済というよりは、当時興隆していた市民階層の生活態度、文化的価値観、彼らが熱狂したチューリップという花の美しさなど、従来通説となっていた狂乱した経済という見方を大きく書き換えて見せた。顧客が好む花の美的・芸術的側面、それを生み出すための科学的努力と模索など当時の関係者が抱いていたチューリップという花について抱いていたイメージ、市場で歓迎される花の球根の育成、市場化、取引の仕組みなどが、当時の史料に立ち返り、再構成されている。

歴史家の目
大変精緻に書き込まれ、それまで流布していたオランダ経済の大きな栄光と狂乱的破滅というイメージとは、きわめて異なったオランダ社会の文化的側面を提示している。これは、フェルメールについての作品だけに重点を置いた見方を改め、画家とその家族をめぐる制作の裏側により着実な光を当てた経済史家モンティアス*2の分析に通じるものがある。

17世紀のヨーロッパは、その先端にあったオランダのような近代的市民層の勃興によって全てが支えられていたのではなく、現代世界のように、絶えざる戦争、気象変動、飢饉、悪疫、貿易などの国際的関係、政治、宗教的衝突など、多くの要因によって揺れ動いていた。

桜と同様にチューリップの開花期間は短い。二つの花が咲き誇る様を眺めながら、しばし花と人間の関わりを考えていた。

 


References
*1 Anne Goldgar, TULIPMANIA: Money, Honor and Knowledge in the Dutch Golden Age, Chicago: The university of Chicago Press, 2007.

*2 John Michael Montias. Vermeer and His Milieu: A Web of Social History. Princeton: Princeton University Press, 1989.

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セラピーとしてのアート

2019年02月16日 | 午後のティールーム
 

 


 人はなぜ美術館へ行くのか。美術館へ入る前と比較すると、帰りは自分の知的資産が多少なりとヴァージョン・アップ?したと思うだろうか。変な質問と思う人は多いだろう。しかし、人は何かの動機や衝動、期待にかられて、美術館の入り口をくぐるのではないだろうか。

 今,私たちが生きている世界は色々な意味でストレスを生み出す事象に満ちた社会だ。気候激変などの自然現象、戦争、災害、難民、格差、貧困、難病など天災、人災を含めて枚挙にいとまがない。しかし、それらに対処する有効な解決策はほとんど見えないことが多い。希望を失い、来るべき世界のあり方について不安を抱く人たちも少なくない。孤独や不安への救いを宗教に求める人もいる。

 そうした社会であっても、美術館や音楽会に出かける人も多い。ひと時、絵画を見たり、音楽を聴いた後の心に変化は生まれただろうか。絵画などの美術についてみると、ほとんどはなにかの具体的目的を持って制作されたわけではない。広告でない限り、作品は純粋に美的鑑賞のための作品として制作されている。
 
 しかし、近年、あまり気づかれていないが、美術・アートあるいは音楽などにセラピー (therapy: 緊張緩和、精神的安定の治療) 効果があるとして、人々の心に潜む緊張や不安を和らげ、解きほぐす効能を見出したり、期待する動きも現れている。

 人々が絵画作品を見ている時、気がつかない間に心の不安、心配ごとなどを忘れ、結果として癒され、安定感、充足感などを取り戻す。美術館で作品を鑑賞して館外へ出る時には、張りつめていた心の緊張が緩み、一種の幸福感が生まれている。作品を制作した画家たちは多くの場合、そうした効果まで意図してカンヴァスなどに対したわけではないのだが。
 
 それでも時代や環境によっては、作品を観る人たちが描かれたテーマに積極的に癒しを求めた場合も多い。宗教画は本質的にそうした要素を多分に含んでいる。

 分かりやすい例を挙げてみよう。これまで、このブログに記してきた17世紀の画家たちの作品の中でも、《イレーヌに介抱される聖セバスティアヌス》の主題は、16-17世紀に大変好まれた。そのため、多数の異なったヴァージョンがある。瀕死の重傷を負った若者が聖女イレーヌと召使いたちの献身的な介抱で生き返るというストーリーは、明日をも知れぬ不安と危機の時代に生きた人たちには、大きな心の癒しとなり、さらには当時流行した疫病などに対する護符のような意味を持った。こうした底流の下、現代では音楽療法、「臨床美術」という認知症への対応という領域も生まれている。

 これほどまでに直接的な関連を感じなくとも、作品を見てある種の安心感を抱いたり、画家の意図を考え込まされたり、時には笑ってしまうような作品に出会うことは、よくあることだ。
 
 ここに紹介するアラン・ド・ボトン の『セラピーとしてのアート』 Art as Therapy はその点に着目した好著だ。興味深いのはセラピーの対象となるアート(絵画、彫刻、陶磁器、写真、建築、都市計画などを含む) を、「愛」、「自然」、「金銭」、「政治」という四つの領域から検討していることにある。例として取り上げられている作品は古典から現代までありとあらゆるジャンルに渡り、厳粛、静寂、神秘、自然、風景などから風刺的なものまで、多岐にわたる。現代人が抱える心身の悩みが千差万別であるように、人々はそれぞれの状況で癒されるらしい。

 カラヴァッジョの《ユダの断首》など、ブログ筆者は、リアル過ぎてグロテスクな感を受け、あまり見たくはないが、その恐るべき迫真力に驚き、現実以上に恐怖を覚える人もいるだろう。アドレナリンが沢山出て元気になる人もいるのかもしれない。このように、一枚の絵画も見る人によって受け取る印象、効果は大きく異なることもある。

 シャルダンの《お茶を飲む女》、《羽根を持つ少女》などは、見ているだけで、心が和んでくる思いがする。しかし、ド・ボダんの本書は、140点近い作品を取り上げ、一般に考えられている次元を超えて、セラピーとしてのアートを論じている。大変評判になった書籍である。邦訳がないのは残念だが、関心ある方にはおすすめしたい一冊だ。

 

Alain de Botton John Armstrong, Art as Therapy, London: Phaidon, 2013(HB), 2016(PB).pp.240

 

アラン・ド・ボトンは、スイス人、1969年、チューリッヒ生まれの哲学者、エッセイスト。イギリス、ロンドンに在住。父親は、スイスの投資家で美術収集家のギルバート・ド・ボトン。父親の美術熱がアランの人格に強く影響していることが分かる。邦訳がないのが惜しまれるが、英語PB版で容易に読めるので関心ある方にはお勧めの一冊である。共著者のジョン・アームストロンがは歴史家。
 


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アトリエさまざま:画業習得の道

2019年01月18日 | 午後のティールーム

ピーター・パウル・ルーベンス
《イサベラ・ブラント(ルーベンスの最初の妻)の肖像》
東京展には出展されていない。

Peter Paul Rubens
Isabella Brant, the Artist’s First Wife, ca.1622, black, red and white chalks, pen and ink on うlight brown paper, 38.1 x 29.2 cm
London British Museum

この作品はルーベンスの真作と考れる、チョークとインクで描かれたイサベラ・ブラントの肖像画で二人が結婚して12-3年してからの作品と思われる。スケッチに類する作品だが、人物の特徴が巧みにとらえられている。ルーベンスが肖像画の技法に長けていたことを推察させる。

 

謎の多いラ・トゥールの修業時代
ほぼ同世紀でありながら、ルーベンスとは全く異なる環境で活動したジョルジュ・ド・ラ・トゥールが生まれ育った16-17世紀のヨーロッパには、多数の画家が活動をしていた。画家ばかりりでなく、彫刻家、建築家など、はかりしれない数の芸術家たちがいた。しかし、ジョルジュのように生来、画業の才能があることが認められていても、画業で生計を立てていけるかは全く未知数であった。それ以上に、いかにして画家となるための修業を行うかが大きな問題であった。


今日でも徒弟制度として一部の職種に残るが、当時の画家の場合、親方の所に弟子入りし、そこで職人、そして親方として一人立ちする上で、必要な知識・技能を習得する必要があった。そのために自然発生的に生まれ、制度化されていたのが徒弟制度であり、工房(atlie, workshop)であった。しかし、工房にもピンからキリまであった。

一般には、すでに画家として力量を社会的に認められている親方の工房へ徒弟として弟子入りし、親方の家へ住み込み、日常の生活を共にしながら、仕事を文字通り見様見真似で習得していく仕組みであった。多くの場合は、親方の家へ住み込む形であったが、例外的には自宅から工房へ通う「通い職人」もいた。ジョルジュがヴィックの町でドゴス親方の所で最初の修業をしたとすれば、この形であったのではないか。

しかし、ジョルジュがドゴス親方の下で修業をしたとしても、その期間は当時の状況(すでに徒弟になることが決まっている若者が一人おり、二人を徒弟にする余裕はなかった)から1年程度であり、その後はナンシーあるいはパリなどで徒弟修業をしたものと思われる。この点についての史料はほとんど何も残っていない。当時の徒弟の期間は地域などでも異なり、4年から8年くらいを要した。いうまでもなく、徒弟の間、親方に収める費用も親方の力量、知名度などで異なったが、かなりの額であった。

徒弟の最大の仕事は、さまざまだったが、そのひとつに親方が使う画材と絵の具の準備があった。徒弟の仕事は、どれを取っても厳しいものだったが、画材の準備もそのひとつだった。例えば、顔料の多くは大理石などの板の上で力を込めてすり潰すことが必要だった。顔料の種類も多く、その配合も複雑だった。顔料から絵の具を作り出すには多くの知識と労働が必要だった。ジョルジュも懸命に努力し、記憶したのだろう。徒弟がなんとか独立して、画家職人になるにはしばしば数年以上を要した。それでも作品制作への注文があるか否かは別問題であった。

恵まれたルーベンス
ピーテル・パウル・ルーベンスの場合は、例外的に極めて恵まれた事例であった。アントウエルペンという大きな豊かな都市で工房入りをし、画業を習得することを目指した。画家組合、聖ルカ・ギルドへの入会を認められた後、3人の親方のアトリエで次々と修行をしたが、1591年から合計8年の年月を費やしている。1594-5年から師事した画家Otto van Veen(1556-1629)は当時のアントワープで最も知られた画家の一人だった。1598年に親方画家として登録されたルーベンスは、その2年後多くの画家が憧れたイタリアへと旅立った。そしてマントーヴァ公の宮廷画家の地位を得て、この地になんと8年にわたり滞在した。

このように、徒弟の過程を終わると職人として、親方の工房で働くか、遍歴職人として各地を旅し、見聞、経験を積むのが通常であった。ルーベンスの場合は、アントワープ当時から多数の後援者に支えられ、恵まれた過程を辿ったといえる。

この時代の画家たちの遍歴、活動の実態を知ると、ルーベンスの場合は、あらゆる点で恵まれた状況にあった。1608年母の危篤の報で、アントワープに戻ったルーベンスはアルブレヒト大公の宮廷画家に迎えられたこと、イサベラ・ブラントとの結婚などが重なり、イタリアに戻ることなく故郷ともいえるアントワープに大きな邸宅と工房を構えた。1610年にルーベンス自身がデザインした新居は、現在では博物館 Rubenshuis に使われているほど広壮なものだ。当時は制作のための工房で、最高級の私的美術品の収蔵場所であり、図書館でもあった。

しかし、これはきわめて例外的なケースであり、絶えず戦乱、飢饉などの渦中にあったロレーヌなどでは到底想像しがたい状況だった。今に残る銅版画などを見ても、イーゼルなどが置かれた作業場と画材などの置き場などがある程度だった。

 

ヒエロニムス「フランケンIIとヤンブリューゲル兄《アルベルト大公、イサベラ大公妃が収集家の展示室を訪れている光景》

Archduke Albert and Archduchess Isabella Visiting a Collector's Cabinet, Hieronymus Francken II and Jan Brughel the Elswem 1621-23.

 ルーベンスはアントワープの有力者で貴族のヤン・ブラントの娘イサベラ・ブラント Isabella Brant と結婚したが、ルーベンスも長い宮廷社会への出入もあって、ほとんど貴族並みの立ち居振る舞いを身につけ、敬意を持って迎えられる存在になっていた。

ルーベンスは、肖像画に大変長けていたと思われ、多くの作品を残しているが、このブログで再三取り上げているラ・トゥールの場合は、肖像画らしき作品をほとんど残していない。これもラ・トゥールという画家にまつわる謎のひとつだ。改めて取り上げることにしたい。

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新年を迎えて

2019年01月01日 | 午後のティールーム

 

迎春 

混迷する世界の始まりに
これまで新年の初めには、多くの人々がこれから始まる年に期待や抱負を抱き、心の中で、あるいは歴然とそれらを表明してきた。今でもそれがなくなったわけではない。元日のメディアは多くの目標や決意を含めて、新年への思いで溢れるだろう。

他方、いつもの新年とは異なった空気も感じられる。世界は一体どうなってしまうのだろう。EUにはBrexitに象徴される分裂の気配が色濃く漂い、アメリカでも日本でも来るべき近未来への不安を訴える人たちが増えた。年末に寄せられた海外の友人たちのメールにも、そうした思い、強い危機感が綴られたものが目立った。

長らく愛読してきた雑誌のひとつ、The Economist 誌のクリスマス特集の巻頭論説も例年と比較してかなり印象が異なっていた。2、3年前から心なしか、論調が直裁ではなくなっている。経験を重ね、洞察力に長けた専門家にとっても、それだけ今後を見通すことが困難になっているのかもしれない。今年は「ノスタルジアの使い方」”The uses of nostalgia” という表題で、世界に拡大するノスタルジア(懐旧の情、昔は良かった)の風潮を取り上げている。政治家たちは今までにもこれを逆手にとって、未来は過去より明るいと強調してきた。

しかし、最近世界のあらゆる地域で、過去を懐かしむ思いが蔓延し始めた。政治家たちは相変わらず、その風潮に乗っている。典型的にはロナルド・トランプ大統領就任後の「偉大なアメリカを再現する」”Make America great again” という今や多くの人々の耳から離れないスローガンである。そして世界第二の大国にのし上がった中国の習近平主席の「一帯一路」構想に見られるような再び世界に君臨する「中国の夢」”Chinese dream” の実現、「社会主義近代化強国」という覇権への主張だ。いずれも過去の「良き時代」の復活が軍事力の拡大を伴い、臆することなく掲げられている。いよいよ最終局面に入ったイギリスのEUからの離脱、BREXIT の背景にもブラッセルの官僚支配からの脱却、独立性の復活・強化という思いがあり、さらにはロシアのプーチン大統領、日本の安倍首相にも過去の時代への執念がうかがわれる。

表現は様々だが、より小さな国々でも大国の支配から脱却し、自国の独立を目指すという動きが顕著に見られる。この場合は、自国の内乱、様々な内外勢力の介入による国民の破滅的貧窮、荒廃のイメージが強く漂う。

潜在する不安とノスタルジアの効用
ノスタルジアの底流には明暗様々な要因への危惧や不安があると見られる。IT世界の急速な展開、ロボットなどの自動機械がもたらす仕事の世界の激変、「自分たちの仕事は機械に奪われるのでは」との不安、取り残される人たち、格差の拡大、地球温暖化や自然災害の頻発への不安など、要因は際限なく指摘できる。

しかし、ノスタルジアは一般に受け取られがちな単なる懐古趣味に止まらない、と論説の書き手はいう。未来を見通す手段が手元に見当たらないならば、過去の体験事実から学ぶという道があると指摘する。近年、歴史への関心が様々に高まっていることは、こうした方向への一歩であるかもしれない。

何を記してきたのか
この小さなブログ、17世紀のロレーヌ公国という小国が経験した史上最初の「危機の世紀」といわれる戦乱、苦難の世界に生きたひとりの画家のしたたかな生涯をひとつの柱として出発した。現代のシリアのごとき荒廃した地において、天賦の才とわずかな機会をしっかりと把握した画家であった。現代人の目から、その剛直、強欲にも見える生活の一端を批判することはたやすい。しかし、この画家は来るべき時代への深い洞察、精神性を秘めた作品を残してくれた。

この小さなブログに記してきた時空を行き交う細い糸は、かなり多岐に別れる。そのひとつ、ブログ筆者が大きな関心を抱いてきたより近い過去は、1930年代のアメリカ*2である。現代のアメリカ人の多くが、繁栄と恐慌の時代に様々なノスタルジアを感じている。この時代についてはすでにきわめて多くの蓄積が残されていて、筆者が記してきたことは、文字通り小さな断片にすぎない。

さらに産業革命発祥の地、イギリス、マンチェスターで、多くの人たちが背を向けた工業化の影の側面もしっかりと描こうとしたL.S.ラウリーという貧しい人々への深い愛情が込められた作品の数々は、イギリス人でも必ずしも注目しなかったものだが、近年漸く一筋の光が差し込んでいる。年末に会った旧知のオーストラリア人(マンチェスター近辺労働者階級の生まれ、大学教授としてイギリスから移住)は、筆者との雑談でのトピックス指摘に驚き、自分もファンであることを話し、互いに共感した。長い年月にわたる友人であるが、かつては自分の出自はあまり語ろうとしなかった。

そして、話の糸は最近時の巨大企業ビヒモスの衰退という形で現在につながることになる。日産・ルノー・三菱自動車の事件は、後年どのような形で記憶されるだろうか。ノスタルジアは懐古趣味という負の側面ばかりではないが、それから新たな教訓を学ぶことも容易ではないことも改めて記しておこう。歴史は自らを正す「鏡の部屋」のようなものなのだろう。

 

 

  'the uses of nostalgia' The Economist December 4th 2018 - January 2019

 

*2 BARRY EICHENGREEN, HALL OF MIRRORS: THE GREAT DEPRESSION, THE GREAT RECESSION, AND THE USES - AND MISUSES - OF HISTORY, OXFORD UNIVERSITY PRESS, 2015.( バリー・アイシェングリーン『鏡の部屋:大恐慌、大不況、そして歴史の活用と誤用』)



 

昨年は一年を通して多くの友人、知人を失ったブログ筆者にとって、悲嘆の多い衝撃的な年であった。改めてご冥福を祈りたい。

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