The Economist August 21st-27th 2021 cover (この歴史ある雑誌のユニークな点のひとつは、検討過程で上がった表紙の代替案を示してくれることである。)
The Economist August 21st-27th 2021 cover (この歴史ある雑誌のユニークな点のひとつは、検討過程で上がった表紙の代替案を示してくれることである。)
時によりすぐれば民の嘆きなり八大龍王雨やめたまへ
源実朝『金槐和歌集』(1213年)
新型コロナウイルス感染が拡大する中、凄まじい豪雨が日本列島を襲っている。「線状降水帯」の発生など新しい事態を含め、日本列島は明らかに「災害列島」の様相を強めている。こうした大雨をもたらす根源は何なのか。
8月13日、日本全国の新型コロナウイルス新規感染者数は、2万366人と初めて2万人を越えた。東京都については、5773人と過去最多を更新した。重症者数も全国で1478人とこれも過去最多となった。
新聞、TVなどのメディアには、「制御不能」*1との表現が目立つようになった。言い換えると「お手上げ」なのだ。専門家は「自分で身を守る段階」に突入したと述べ、病院などの受け入れ対応も「医療は機能不全」の状況にあると指摘、警告している。
こうした事態になったことについては、多くの問題点が指摘されている。期待された免疫ワクチンの調達と配分も円滑には進まず、デルタ株など新たな変異株の出現もあって、政府のいう「集団免疫」の獲得効果も期待するほどには出ていないようだ。
これまで対策の焦点となったのは、ワクチン接種者の拡大と人の流れの制御であった。
とりわけ筆者が気になっていたのは、感染者数最大の東京都の対応だった。新型コロナウイルスが未だ出現していなかった頃、人口の東京一極集中が問題となり、その分散化が大きな課題となっていた。しかし、小池都政の下では、その意識は顕著に希薄化していたように思われた。
東京都は島嶼部を別にすると、地域は東西に長く東は江戸川区から西は奥多摩町に至る横長の形をとっている。人口についてみると、ひとつの特徴は昼間の人口と夜間の人口の差異が極めて大きいことにあ る。2015年の「国勢調査」*2の数字になってしまうが、昼間人口は1,592万人、常住人口は1,352万人、昼夜間人口比率は117.8%と昼夜の差が極めて大きい。東京都への流入人口は291万人、神奈川・埼玉・千葉の3県で93.6%を占める。大阪市の人口を上回る数が毎日多様な経路で流出入している。
東京都内においても、千代田区、中央区、港区、新宿区などは圧倒的に昼間人口が多く、江戸川区、葛飾区、足立区、練馬区、板橋区、杉並区、世田谷区などは常住人口が昼間人口を上回っている。
東京都の昼間就業者は801万人、昼間通学者は168万人と極めて多い。新型コロナウイルスの感染拡大が深刻化してから、人流の抑制と過密状態の排除が課題となっている。国内における人の流れ domestic migration のフローとストックに関わる問題なのだ。
東京圏は東京都、茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県、神奈川県の1都6県から成る広域移動地域とも言うべき状況にあるのだが、都と県という行政区分へのこだわりが強く、最低賃金などでも都県別に微妙な差がつけられてきた。筆者はそれがどれだけの意味があるのか、以前から疑問を呈してきた。
災害の収束を神頼みにしてはいけない。人智の限りを尽くすべきだろう。
*1「東京 感染「制御不能」『朝日新聞』2021年8月13日朝刊
*2 平成27(2015)年10月1日現在の国勢調査の結果から、総務省統計局公表結果に基づき、東京都が公表した統計に依拠。
これらの中には、半世紀を越えて購読してきたものもある。そのひとつにNational Geographic というユニークなマガジン がある。日本でも『ナショジオ』と略称されたりして、根強い購読者がいる。地理学、科学、歴史、自然など多くのトピックスをカヴァーし、当初からヴィジュアルな写真の効果をアトラクションとして読者を惹きつけてきた。
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N.B.
『ナショナル ジオグラフィック』は、現在はナショナル ジオグラフィックパートナーズ社の雑誌。
創刊は1888年で、ナショナル ジオグラフィック協会創設後9カ月後に、公式雑誌として刊行された。当初の誌名は National Geographic Magazine。
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近年は特定のテーマの特集号もある。最近手にしたATLAS OF AMERICAN HISTORYと題する特集のページを繰っていて、いくつかの感動的な写真が目についた。
このブログでも取り上げた1936年の大不況の中、アメリカ国内の移住によって子供たちとともに生き残ろうとした「出稼ぎ労働者の母親」(Migrant Mother, 1936)と名付けられた有名な一枚も含まれている。さらに、児童労働法が未だ存在しなかった1930年代に、牡蠣の殻をむく仕事をする子供たちの姿を写したセピア色の写真もある。児童労働、女子労働の資料を探索し、1日中図書館に籠っていた時代に出会った一枚でもあった。自分史でも半世紀以上昔になる。
「トライアングル・ファイア」再訪
さらに、このブログでも記したことのあるアメリカ史に刻み込まれた「トライアングル・シャツウェスト工場火災」Triangle Shirtwaist Factory fireに関わる写真も掲載されている。
火災はこの地点に近いアッシュ・ビルディングAsch Buildingと呼ばれていたビルで発生した。工場はこのビルの8-10階にあった。この地域にはロフト・ファクトリー (loft factories)と呼ばれた苦汗労働で成り立ったビル内の小工場が乱立していた。
N.B.
Triangle Shirtwaist Factory工場はこのビルの8~10階を占め、ロシアから移民した経営者二人が所有・経営していた。
火災により 縫製工146人(女性123人、男性23人)が死亡。年齢がわかっている犠牲者のうち、最高齢の犠牲者は43歳であり、最年少は14歳であった 。
所有者が階段吹き抜けや出口へのドアをロックしていた ため、かなりの労働者が、燃えさかる建物の8階~10階から下方の通りへ飛び降りて命を落とした。大変衝撃的な光景であったことは間違いない。
この火災により、工場の 安全基準 の改善を義務付ける法律が制定されたほか、 スウェットショップの労働者の労働条件を改善するために奮闘した国際婦人服労働組合 の成長に拍車がかかった。
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ニューディールが生まれた日
FDRの時に女性として初めて労働長官になったフランセス・パーキンス女史は、トライアングル火災の年には30歳になっていた。彼女は、1911年3月25日当日同時刻に、ストリートからこの恐ろしい火災の有り様を見ていた。逃げ場を失った若い労働者は煙と火焔に苦しみ、窓から飛び降り死亡し、惨憺たる光景だった。
この大惨事を目の当たりにしたパーキンスは後年、この日を「ニューディールが生まれた日」と述べた。フランクリン・D・ローズヴェルトが大統領に選ばれた1932年、彼女に労働長官への就任を依頼した。その後、彼女は合衆国で最初の女性閣僚として、12年間の長きにわたり内閣に留まり、1935年の社会保障法の成立につながる立法過程に大きく貢献した。閣僚退任後は教育分野でコーネル大学労使関係スクールなどで1935年まで教壇に立った。筆者の大学院での指導教授には、彼女たちと共にニューディーラーとして、この時期のアメリカ経済の大改革に従事した人々が多く、大変感慨深いものがある。
ハグについては、国、宗教、文化、あるいは個人的考えなどによって、程度の違いもある。日本人はあまり公衆の場では、ハグはしないといわれてきた。しかし、これも状況は変化してきた。若い人は抵抗が少ないだろう。
こうした問題を多少なりとも緩和する手段として、TVが紹介していたのは、「距離」についての自分の考えを表明する手段としての「カラー・リング(色別腕輪)」だった。緑色、黄色、赤色の3色があり、それぞれが自分の”Comfort Level” (’快適さ、心地よさの水準’)を示している:
緑色:ハグしてもよい HUGGING OK
黄色:肘を突き合わす程度はいい ELBOW ONLY: STILL BEING CAUTIOUS
赤色:あまり近づかないで欲しい NO CONTACT: A FEET APART, NO EXCEPTIONS
これはなかなかのアイディアで、すでに商品化もされているようだ。
さて、貴方はどの色を選びますか。緑色と赤色の人が出会ったらとっさにどうするのでしょう。どうも、このアイディアも完璧とは言えないようです。
苦難の時のアメリカを写した女性写真家
そこで、この写真に関わる歴史をふりかえってみる。
1966年ニューヨークの近代美術館(MOA)は、女性写真家ドロシア・ラングDorothea Langeの回顧展を開催した。この女性写真家単独の展示としては初めての試みだった。ランゲの残した写真は、今ではアメリカ大恐慌期の貴重な写真資料の一部となっている。
皆さんの中には、出稼ぎ(移民)労働者の母親 Migrant Mother として知られるこの写真を見たことのある人が多いのではないか。1936年にカリフォルニアで撮影された。農業労働者のキャンプでひとりの女性が子供を胸に抱き、他の子どもたちと座っている写真は、アメリカ合衆国の歴史において最もコピーが作られた写真の一枚である。
しかし、彼女の大不況期とダストボウルに苦労する移住者の写真以外にも、ラングは20世紀アメリカの歴史的出来事に関する多くの映像を残した。その中には、大戦中に実施された日本人の強制収容所の状況、ブラセロ・プランとして知られるメキシコからの農業労働者の姿などが写されている。しかし、これらの写真の多くはアメリカ政府によって没収されており、長い間公開されなかった。
撮影活動中のドロシア・ランゲ
MoMAの写真部長が1960年代初め、公開を打診した当時、ラングは70歳近く、食道がんの療養中だった。しかし、理由は今日まで定かではないが、彼女は公開に応じなかった。自分が苦労して撮影した写真約800枚が公開を許されず、アメリカ政府によって国家に批判的であるとして没収されてしまったことへの抗議の意味もあったのかもしれない。そして、時が経過した。ラングの没後、写真はアメリカ議会図書館が所有することになり、閲覧が可能となった。
2020年2月、MoMA美術館は「ドロシア・ラング:言葉と写真」と題した個展を開催した。その中に同館が所有する上掲の一枚も含まれていた。アメリカ人の子供たちと共に星条旗に忠誠を誓う日本人(日系人)の子供たちの写真も含まれていた。
子供たちがアメリカ国旗の星条旗に向かい、胸に手を当て忠誠を誓っている光景なのだろう*。それが何の意味があるのか理解できずに見様見真似で胸に手を当てている。その表情が示すように、そこにはアメリカに対するいかなる敵意も感じられない純真無垢な子供の表情が写されている。
Dorothea Lange: One nation indivisible, San Francisco, 1942
「分かちがたきひとつの国」
Reference
Things as They Are by Valeria Luiselli, Dorothea Lange:Words and Pictures, an exhibition at the Museum of Modern Art, New York City, February 19, 2020, Catalogue of the exhibition, MoMA, 170pp.
(端末入力不具合のため、2020/07/31修正加筆)
アンジェ城城壁 Photo:yk
発行されたばかりの美術誌*を見ていると、巻頭に「いつか行ける日のためにとてつもない絵」という特集があり、その最初に「超巨大タピストリー《アンジェの黙示録》という記事が掲載されているのが目に止まった。実はこの作品があるフランス西部の城郭都市アンジェ Angers は2度も訪れていた。
*「いつか行ける日のために:とてつもない絵」『芸術新潮』2020年8月
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この驚くべきタピストリーは、1373年から10年をかけて制作され、完成当時オリジナルは7枚、高さ6m、長さ133m(107.5mが現存)もあったとされる。アンジェはフランス屈指の城郭都市としてのイメージが強い。中心となるアンジェ城は3世紀の終わり、ガロ・ロマン時代から城塞都市として存在したが、1232~1240年頃にSaint Louis (聖王ルイ9世)が大規模な工事を実施、3m の壁の厚みを持つ17の円筒形で、延長952m、面積25,000平方メートル を占める城郭として整備された。見るからにとりつくところがなく、難攻不落の要塞風に見える。16世紀終わり頃、ヘンリ3世の時にさらに強固な城郭に改築された。堅固な城塞の中身は、見事な庭園もあり、美しく整備されていた。
城内には15-16世紀時代のタピストリーのコレクションが多数あり、とりわけ『黙示録のギャラリー』は中世期最大の作品として今日まで継承されている。
『黙示録のタペストリー』(フランス語”Tenture de l’Apocalypse ”あるいは英語の” Apocalypse Tapestry ”)は、アンジュー公ルイ1世の命で描かれたヨハネの黙示録をテーマにしたタペストリーで、1370年代、フランドルの画家ヤン・ボンドル(”Jan Bondol”)が描いた絵を、織師ニコラス・バタイユ(”Nicolas Bataille”)が多数の織工を使って1373年から1377年、そして1382年までかけてタペストリーに編まれたと推定されている。
タペストリーは幅約6メートル、高さ約24メートル。六つの部分に分けられ、90の異なる場面から成っていた。1480年、最後のアンジュー公となったルネが死の直前アンジェ大聖堂に寄贈し、以後同聖堂で保管されていたが、18世紀末、フランス革命によって略奪、破壊され、タペストリーも切り刻まれて多くが失われた。その後1848年、散逸していたタペストリーが集められ、1870年、大聖堂に戻される。1954年には城内に移され、1910年にはかつての司教館はタペストリー・ミュージアムに改築され、大幅な修復作業を経て、現在は城内で展示されている。2016年より劣化修復作業が進められてきた。
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2度目の対面であったが、改めてその巨大さと費やされた労力、年月に目を奪われた。長年風雪に耐え、革命期にはオレンジの木の保護などに使われたらしい。今日では保存のために展示室内の気温、照明、湿度などが適切に維持されるように配慮されている(一部は金庫などに保存されている)。さすがに一部には年月の経過による退色、歴史の過程における粗雑な取り扱いによる劣化などは避けがたいものの、全体としてその偉容を十分とどめている。最初に接した時、その巨大さと迫力に唖然とし、圧倒された。
乗り違えた飛行機
実はアンジェへたどり着くまでの旅が通常ではなかった。協定の調印式の日程に合わせて、航空券などの手配を大学出入りの旅行代理店に依頼していたのだが、それまでの仕事が山積して極めて忙しく、出発当日に旅券、航空券など一式を秘書から受け取って文字通り飛行機に飛び乗った。それまでかなり頻繁に空の旅をしていたので、空港で航空券を受け取ることなどもあり、あまり考えることなくそのまま機内に入り着席していた。
飛行機が離陸してしばらくして、ふと妙なことに気づいた。目にする客室乗務員 CAの多くは日本人だったが、しばらくして、赤い制服の乗務員がいるのに気がついた。そればかりでなく機内アナウンスが日本語、ドイツ語、英語で行われていた。離陸後どうも変だと気づき、手元の航空券を見ると、なんと全日空とオーストリア航空の共同運行便だった。しかも成田、パリの直行便を依頼してあったとすっかり思い込んでいたのが誤りで、成田→ウイーン→パリという便だった。今さら乗り換えるわけにも行かず、そのままウイーンの空港で3~4時間を過ごし、パリに行き、翌朝急行列車でアンジェに向かい、滞りなく学術協定調印式などの仕事を済ませた。帰国後判明したのだが、旅行代理店の手違いによる発券ミスだった。その後は航空券の記載にかなり注意するようになった。
アンジェには不思議な縁があり、1970年代パリに滞在していた頃、現地に赴任していた友人と今はほとんど見ることはないシトロエン2CV(「ドゥ・シ・ヴォ」と呼ばれていた)を駆って出かけたことがあった。日本に赴任しているカトリック司祭の家族を訪ねることがひとつの目的だった。仕事を終わってから空いていると思った夜中に運転し、朝方にアンジェに着く予定だった。しかし、混雑するハイウエイを避けたこともあって、照明の薄暗い田舎道を走っているうちに二人とも眠くなり、ついに路肩に車を止めて3~4時間仮眠をとり、朝方にやっとアンジュに到着したことがあった。あの筒状の黒々とした異様な城塞が朝靄の中に浮かび出てきたことを思い出す。タピストリーにも圧倒されたが、作品の詳細についての知識が十分整っていなかった。
航空券にまつわる出来事は、これまで数々経験してきた。時に想像外のことも起きる。そのひとつ、1967年ニューヨークからパリへ飛んだ時であった。パリ到着後、判明したことはその後ロンドン経由で羽田(成田は開港していなかった)へ向かう便が、なんと羽田→ロンドンと逆向きに発券されていたのだった。およそ考えられないミスであった。PC処理が十分に発達していない時代であったとはいえ、お粗末な事務処理であった。大変恐縮した航空会社は、ロンドンでの高級ホテルと上限の記載なしの食事券を手配してくれ、貧乏学生だった筆者は思いがけずロンドン滞在のボーナスをもらい、大変得をしたような思いをしたことがあった。
さて、『アンジェの黙示録』についても、さらに書くべきことはあるのだが、すでに冗文が長くなってしまった。時が許せば、記すことにしたい。
すでに功なり遂げた詩人の言葉であるだけに、重く響く。
うたごころや詩のこころとは程遠い人生を送り、まさに最後の一日を生きているにすぎない私には、この詩人の言葉をどれだけ理解しているか甚だ心もとない。専門家という言葉はあまり好きではないが、ふと巡り合わせた経済学を職業生活の柱としてきた。しかし、振り返ると、別の道を歩んでいたかもしれない。そうした岐路はいくつかあった。欲望と苦痛に苛まれる日々もあった。
最後の一日になって、もしかすると歩んでいたかもしれない世界を少しでも覗き込んでみたいという思いがつのってきた。そこで生まれたのが、このなんともつかないブログというIT上の代物である。
激動の日々を過ごしたことも、リアリストとしてのくびきから逃れられないものとしたのかもしれない。別の道を選んでも、付いて回ったことだろう。年々厳しくなる世界の姿を見るにつけ、次の世代の人たちに未来は明るいと手放しに告げることはできない。唯一考えられるのは、視野を広げ多くのことを見ることで、人生での免疫力を強めることかもしれない。「できるだけ多くの人生を生きる」、これは若い頃に強い影響を受け、ご自身、「駛けゆく」人生を送られた恩師の言葉でもあった。
「蛙」:ベルリン エジプト美術館蔵
FIGUR EINES FROSCHES
Negade 1 Dynastie, um 3000-2800 v. Chr.
erworben 1905
Elfenbein Hohe 2.7cm・Inv.-Nr. 17569
AGYPTISUCHES MUSEUM UND PAPYRUSSAMMLUNG
Staatliche Museum zu Berlin - Preussischer Kulturbesitz
新型コロナウイルスの感染症に関する対応の過程で、いくつか英語が使われている。これまであまり使われたことのない用語だった。とりわけ、気がついたのは次のような言葉だった。
ステイ・ホーム
ソーシャル・ディスタンシング
オーバーシュート
ロックダウン
パンデミック
新型コロナウイルスとともに、これらの英語あるいはカタカナ英語が日本に持ち込まれたが、最初に接した時に国民の皆さんにどれだけその意味が伝わっただろうか。周囲にいる人たちの反応は、説明がないとわからないと思った人が多いようだった。
日本のメディアは、外来語が好きなのか、かなりの数の横文字が日常生活では使われている。筆者は日本人としては比較的長くアメリカ、ヨーロッパの文化に近い環境で、これまでの人生を過ごしてきたが、しばしばマスコミ、メディアで使われる外国語の日本語への移し方の適切さなどで違和感を持ってきた。
今回の新型コロナウイルスの感染拡大の過程でも、上記のような英語が当然のように用いられてきたが、導入についてはもう少し配慮が欲しかったと思った。
「ソーシャル・ディスタンシング」は「フィジカル・ディスタンシング」へ
ひとつの例をあげてみよう。上記の例で、「ソーシャル・ディスタンシング」social distancing については、最初に使われた段階で、本ブログで少し記している。この言葉自体が大変分かりにくい概念なのだが、WHOは最初使用した時は、現実には一定の「物理的距離」を保つ、 physical distancingを意味したように思われた。ウイルス感染の危険を回避するため、人々が社会の諸活動で近接する場合、感染を防げると思われる距離をとって行動するという内容を伝えたかったようだ。公衆衛生学の分野でsocial distancing がこの意味で使われているならば、その旨の説明が欲しかった。さらに「社会的距離」social distance と「社会的距離を保つこと」social distancingでは意味が異なってしまう。
世界へ新型コロナウイルスが広がる過程で、この用語の分かり難さが表明され、人が互いに近づいて行動する場合には、2メートルくらいの距離をとって行動するという説明がつけ加えられた。要するに説明をしないと正しく意味が伝わらないという問題が起きてしまった。そんなことなら、初めから「物理的距離をとること」physical distancingといえば良かったのではないかということで、最近ではWHOもこちらに切り替えたようだ。さらに、このような重要なガイドラインならば、「(感染を避けるため)適切に距離を空ける」「適度な距離をとる」などの日本語を初めから使えば良いのにと思ったほどだ。
「ステイ・ホーム」は解説がなくとも、なんとなく分かるが、「オーバーシュート」overshoot (目標を越える、外れる)、「ロックダウン」lockdown (封鎖)などに至っては、説明を受ければわかるものの、どうしてわざわざ英語を使わねばならないのかと思ってしまう。日本語を使ったほうが直裁に正しくその意味が伝わると思うのだが。「パンデミック」pandemic (世界的流行病)に至っては、WHOがパンデミック宣言をすることで、ひとつの転機を画するに必要かもしれないが、この言葉に馴染みのない人たちにとっては、どのように受け取られているのだろうか。戦後、英語教育が十分ではなかった環境で育った人には、英語を聞いてすぐに内容が分かるというのはかなり無理なようだ。
いつにない危機感で受け入れた緊急事態宣言も、ようやく解除の日が近づいた。それにしても鳴り物入りで誇示された国民へのマスク2枚の配布、まだ届かない地域も多いらしい。これも説明がないと分からない。
絵画の力、写真の力
ひとりの長い黒衣の男が帽子を被り、マスクをして歩いている。すぐ背後には何やら立て看板らしきものが写っている。中国語らしき文字が読み取れる。その背後には城壁と城塞か宮殿らしき建物があるようだ。人物以外はぼんやりとして夕暮れのような雰囲気である。新型コロナウイルスと関連しているのだろうか。
しかし、説明文らしき見出しには、A LAST LOOK AT PEIPINGの文字が読み取れる。写真右上部には、LIFEと記されている。LIFE の文字の下には小さな文字で次のように記されている。
LI FE Vol. 26, No.1 January 3, 1949
これだけの情報で、何を写した写真であるかが分かる方がおられれば、大変な敬意を表したい。
さらに追加のヒントを差し上げることにしよう。
ここに記された年月、そして立て札が中国語であることは、大きな意味を持っている。中国現代史を振り返ると、この年次は極めて重要な意味を持つ。「1949 年」という時点は、中華民国 の歴史的分岐点であると同時に、中華人民共和国の出発点として重要なベンチマークの地位を占め ている。言い換えると、中華人民共和国の成立と中華民国(後の台湾)の大陸拠点喪失という歴史的時点である。
1948年11月、中国本土では、いわゆる三大戦役が終結し、毛沢東率いる共産党は総攻撃で、国民党が拠点を置く大都市を相次いで占領した。国民党にはもはや共産党人民解放軍の侵攻を食い止める余力がなくなっていた。同年12月には、共産党は、蒋介石・李宗仁・陳誠ら43人の戦犯名簿を発表、他方で国民党行政院は、陳誠を台湾省政府主席に任命した。さらに、国民党中央常務委員会は、蒋経国を台湾省党部主任委員をすることを決定している。そして、1949年1月31日には、人民解放軍が北平に進駐した。
時代の転換を写しとろうとした『LIFE』の試み
これらの歴史的経緯を念頭に置いた上で、この写真の種明かし?をしてみよう。歴史のある写真雑誌『LIFE』は著名な写真家アンリ・カルティエ・ブレッソン Henri Cartier-Bressonを、滞在中のビルマ(現在のミャンマー)から呼び寄せ、共産軍が北平進入を目前にして、紫禁城の一部を背景に、中華民国最後の一光景を撮影した一枚とされる。歴史的に決定的な断絶がこの時に生まれると判断したようだ。背景が曇ったように鮮明ではないのは、黄砂の飛来で空気が汚れ、全体が薄暗くなっている。マスクをした黒衣の人物は、当時の学生姿とみられる。
写真雑誌『LIFE』は1936年の発刊で1972年に終刊している。若い世代の方々には、見たことのない人もおられるかもしれない。しかし、刊行されている間は、世界に多数の読者層を持ち、歴史的記録としても貴重な存在であった。このブログでも何度か紹介したことがある(例えば、Bill of Rights 特集)。掲載されている写真が見る者に迫ってきて飽きることがない。歴史を身近なものとして感じられる貴重な記録文献でもある。
このたび、『LIFE誌と写真の力』*と題し、同誌が刊行されていた間、その写真を主とした読者への印象と説得力を再検討する記念碑的書籍が刊行された。
*
LIFE Magazine and the Power of Photography Edited by Katherine A. Bussard and Kristen Gresh, Princeton University Art Museum, Distributed by YaleUniversity Press, New Heaven and London, 2020
ちなみにその表紙は、鉄工労働者が溶接作業を行っている一枚が飾っている。
ブログ筆者は、前回掲載したイギリスの画家L.S.Lowryに代表されるように、人間の働く姿、産業の状態などを描いた作品に、とりわけ関心を抱き、折に触れ紹介してきた。絵画作品と写真の作品の間には、それぞれ特色があり、興味深いものがある。読者はどんな印象をお持ちだろうか。
この季節、日本の八百屋、スーパーなどの店頭を飾る果物の代表は蜜柑だ。日本は柑橘類が豊富なのか、名前もよく知らない品種もある。その中で蜜柑は日本人の生活に深く溶け込んできた。
みかんを見るとしばしば思い浮かぶ芥川龍之介の短編『蜜柑』を、年末に読み直してみた。長年、ブログ筆者が折に触れ愛読してきた一篇でもある。
舞台は横須賀発上りの二等客車の中である。当時の客車の車窓は開けることができた。しかし、客車を牽引するのは、石炭火力のSL、蒸気機関車だ。トンネルなどに入ると、煤煙が客車に吹き込んできた時代の話である。
芥川本人と思われる主人公は、この列車の二等車に一人乗っている。今の時代ならばグリーン車だろうか。そこに、粗末な身なりで、顔立ちも主人公には貧相に見える十三、四歳の娘が発車間際にせわしなく入ってきた。大きな風呂敷包みを抱え、霜焼けで赤くなった手には三等の切符が握られていた。二等車も三等車の区別も分からないのかと、主人公は見てみないふりをするように努めていた。あたかも主人公の心の平静を乱す存在かの様な扱いである。
列車が走り出し、墜道(トンネル)に入る。客室に煤煙が入るのを気にもせず、女の子は窓を開けようとする。困った娘だと煙にむせながら主人公が思った時、列車は墜道を抜ける。その時、娘は懐から数個の蜜柑を取り出し、窓外で何やら声を挙げている三人の子供たちに投げてやる。それまで小娘のことを視界から追いやりたいほど厄介に思っていた主人公は、一瞬にして事態を悟る。
娘の弟たちが家計の助けにと奉公に出る姉の見送りに、踏み切りの所で待っていたのだ。小娘と見えたのは、この子供たちの姉であったのだ。懸命に手を振る弟たちのために、娘は蜜柑を投げてやった。蜜柑は旅の徒然にとおそらく誰かが餞別代わりに娘に持たせたのだろう。蜜柑は娘の手を離れ、鮮やかな蜜柑の色を見せて子供たちの手に乱落して行った。
そして、主人公の心の内などどこ風吹くかのように前の席に戻ってきた娘は、「大きな風呂敷包みを抱えた手に、しっかりと三等切符を握っている。・・・・・・」
作家(私)は、この一瞬の情景を次のように結んでいる。「私はこの時始めて、云いようのない疲労と倦怠とを、そしてまた不可解な、下等な人生を僅かに忘れる事が出来たのである。」
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娘の手を離れた数個の蜜柑が、それまで世俗に汚れ、疲れて落ち込んでいた主人公(芥川)の頭脳に一瞬の輝きを放ったのだ。この短篇に限らず、芥川の作品には『上海遊記』にも散見されるように、当時としてもかなり差別的あるいは侮蔑的な言辞を弄している部分がある。『蜜柑』においても、同じ客車に乗り込んできた娘を視野に入れたくないような存在として描いている。しかし、そのことが主人公の人間を見下したような人生観に、娘の行動が一撃を加えるような衝撃となったことを際立たせている。「疲労と倦怠」の状態にあり、「不可解な、下等な人生」とは、主人公(恐らく芥川)のそれを指すものと考えるべきだろう。
『文末解説』(石川透)によると、芥川はこの題材を、有島武郎が伊太利亜アッシジの旅で目の当たりにした、貴婦人が列車の窓外の子供たちに菓子箱を投げてやった光景を記した『旅する心』(1920年11月)と題した情景から構想したのではないかと、後世の批評家などから推測されているようだ。
しかし、そうだとしても、そのことが芥川という稀有な作家が安易なすり替えを行ったとは考え難く、芥川の非凡な構想力が生んだものとブログ筆者には考えられる。見慣れた蜜柑が宝石の様に輝いて見える。
芥川竜之介『蜜柑・尾生の信他18篇』岩波文庫、2017年
昨年末、NHK「ストレンジャー 上海の芥川龍之介」(12月30日NHK)を見た折、その下敷きとなった、この鬼才とも言われる作家の作品『上海遊記』を読み直してみたいと思った。実はこの作品、ブログ筆者が初めて上海を訪れたほとんど半世紀前にも読んだ記憶があった。しかし、当時はそれほど強い印象を得たわけではなかった。芥川の作品には短編が多いが、この作品も長さは中程度であり、小説というよりは紀行文に分類されるものである。芥川は『大阪毎日新聞』の海外特派員として大正10年(1921年)3月28日、門司から、上海を訪れ、3週間ほど滞在し、その後中国各地を旅している。
今回読みなおしてみると、想像した以上に順調に読むことができた。芥川は31歳、すでに作家として令名を馳せていただけに、自信に溢れた筆致で書き進められている。今日読むと、旧字体の漢字に悩むかもしれないが、ほぼ問題なく読み切れた。この上海への旅は、最初から芥川は体調が悪く、風邪をこじらせ、気管支加答児が全治しないままに日程を延期したり、上海でも里見医院へ乾性肋膜炎の診断で入院したりしている。そして、帰国後しばらくして昭和2年7月23日夜半には、体力の衰えと「ぼんやりした不安」から自殺をするという心身ともに下降し始める時期であった。不眠に悩み、里見医院へ入院中にも医師には内証で毎晩欠かさずカルモチンを呑んでいた。それでも特派員という責任感からか、当時の上海に見たまま、感じたままを生き生きと伝えている。
それにしても、この時、芥川龍之介は31歳。漢籍を含め、その知的蓄積、博識に感嘆する。ちなみに、芥川は東京帝国大学文科大学英文学科の卒業であった。
『上海遊記』は漢字、仮名遣いなどが今日とは異なるが、大きな問題なく読むことができるのではないだろうか。
それでも、ひとつクイズ?を記しておこう。『上海遊記』に次のような記述がある。
以下、引用
上海の日本婦人倶楽部に、招待を受けた事がある。場所は確か仏蘭西租界の、松本夫人の邸宅だつた。白い布をかけた圓卓子〔まるテエブル〕。その上のシネラリアの鉢、紅茶と菓子とサンドウイツチと。ーーー卓子を圍んだ奧さん達は、私が豫想してゐたよりも、皆温良貞淑さうだつた。私はさう云ふ奧さん達と、小説や戲曲の話をした。すると或奧さんが、かう私に話しかけた。
「今月中央公論に御出しになつた「鴉」と云ふ小説は、大へん面白うございました。」
「いえ、あれは惡作です。」
私は謙遜な返事をしながら、「鴉」の作者宇野浩二に、この問答を聞かせてやりたいと思つた。
引用終了。
当意即妙、なかなか興味深い対応である。宇野浩二 (1891年〜1961年 )は芥川と年齢もひとつ違いの盟友であり、この応答をどう受け取ったのだろうか。 『鴉』は自明の通り、芥川龍之介の作品ではなく、宇野浩二の小説である。或る夫人が誤ったのは、大正10(1921)年4月1日発行の『中央公論』で、この宇野浩二の「鴉」の後に,、芥川龍之介の「奇遇」が掲載されているためであろう。ところで、この「鴉」とは、なんでしょうか。直ちにお分かりの方には大いなる敬意を表したい(答は本ブログ文末)。
『上海遊記』に描写されている上海は、古い時代の情景が至る所に残っているが、それらが今は全て消え失せているわけではない。今日の上海は、東京を上回るほど活気があり、表向きは近代化しているが、街の裏側に回れば、あちこちに芥川が感じた当時の古い上海の名残りが残っている。
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鴉、 烏 共にカラスと読む。
スズメ目カラス科カラス属およびそれに近縁の鳥の総称。日本では主としてハシブトガラスとハシボソガラスの2種。雌雄同色、黒くて光沢がある。多くは人家のある所にすみ雑食性。秋・冬には集団で就眠。古来、熊野の神の使いとして知られ、また、その鳴き声は不吉なものとされる。ヒモスドリ。万葉集(14)「ーとふ大をそ烏の真実(まさで)にも」
「広辞苑」第6版。
和平賓館コースター
このところ、タイムマシンで時空を遡る試みが多い。NHK「ストレンジャー 上海の芥川龍之介」(12月30日NHK)を見た。ブログ筆者にとっても、かなり懐かしい場所、上海が主たる舞台となっていた。今からおよそ100年前の大正10年(1921年)3月、大阪毎日新聞の特派員として上海を訪れた芥川龍之介の過ごした世界がそこにあった。予期した以上に迫力をもって再現されていた。
欧米、日本など列強が上海に租界を設け、蹂躙し、欲望をほしいままにしていた時代の中国社会が見事に再現され、映し出されていた。当時の中国は動乱真っ只中、清朝を倒した革命は、やがて軍閥の割拠という混乱に至り、絶望的な退廃と貧困の中にあった。
全編がほとんど上海で撮影されたとされるが、その舞台と人物が見事に映し出されていた。日本映画界を代表すると言われるカメラマン・北信康氏のカメラワーク、映像の美しさに圧倒された。今日の上海は見違えるほど美しくなり、世界有数の大都市となっているが、この時代を彷彿とさせる建物や街並みが至る所に残っている。それにしても、あのセピア色に沈んだ時代の上海が驚くほど感動的に再現されていた。
今は改装されて見違えるほど美しくなっているが、この映画作品の冒頭に出てくるダンスやジャズの光景はかつての和平賓館(1929年サッスーン家により「キャセイホテル」として創業し、幾多の歳月を経て、2010年「フェアモントピースホテルとして改装、再開)が使われたのではないだろうか。だが、確かではない。というのも、こうしたダンスやジャズ演奏が見られた場所は、芥川の頃は未だほとんどなかったはずで、事実、芥川は「万歳館」という今は存在しないホテルに宿泊した。今日に残る写真を見ると、ホテルの建物はかなり立派であったようだ。
ブログ筆者が何度か滞在した頃は、和平賓館はいまだ古いままであり、客室にゴキブリがいたりして驚いたこともあった。南京路の入り口に近く、外灘(バンド)地域のランドマークであった。このホテルのジャズバーは長年にわたり1920-30年代のファンを魅了してきたが、ブログ筆者が訪れた頃はジャスマンはほとんど皆が、オールド・ジャズマンというべき、かなりの年齢に達していた。その後、訪れた時は「フェアモントピースホテル」として新装され、見違えるほど立派な豪華高級ホテルになっていたが、いたる所にキャセイホテル時代の面影が保存されていた。
芥川の上海訪問時にはキャセイホテルはなかったとはいえ、ほとんど同時代の建物である。ブログ筆者は、芥川が船上から望んだガーデンブリッジ近くの上海大楼にも宿泊したことがあるが、こちらは内装も古く、普通のホテル並みだった。しかし、客室から眺める黄浦江風景は格別だった。
ガーデンブリッジから上海大楼を望む
さて、今に残る記録によると、芥川は1921年(大正10年3月28日から7月17日頃)、120日余りかけて、南京、九江、漢口、長沙、洛陽、大同、天津、沈陽などを巡歴した。「老大国」が中華民国になって10年に満たない時期であった。流石に大作家であるだけに、多くの資料、研究が残っている。
江南の春
芥川は、かねて抱いていた理想と目前に突きつけられた現実の断裂に絶望感すら覚えながらも、急速に中国の精神世界の深みへと沈潜していく。上海は「魔都」といわれ、そこ知れぬ妖しさ、いかがわしさを秘めた暗黒な都市であった。『上海遊記』にはそこに生きる妓楼の女たち、そして微かな可能性を信じて革命に生きる男たち(その代表が李人傑こと李漢俊であり、1902年に14歳で来日。東京帝国大学を卒業し、帰国後は21年の中国共産党設立に関わる。27年に軍閥により殺害)との短い出会いの断片が、見事に描かれている。
1920~30年代の上海を映像化した作品は、カズオ・イシグロの傑作『私たちが孤児だったころ』(2000年 )など、いくつか見たことがあるが、1920年代の退廃、貧困、絶望の極みにあった上海がこれだけ見事に映像で再現された作品は見たことがなかった(ちなみにイシグロの作品は、1923年の上海がひとつの舞台となっている)。8Kという映像技術の先端が生み出した迫力に感嘆した。日本が生んだ偉大な作家であるだけに、時代考証もしっかりとしていて、ネット上で見ることのできる研究成果も多い。
芥川は中国の古典文学にも詳しかった。最近読んだ『蜜柑・尾生の信他18篇』(岩波文庫、2017年)にも、その造詣を生かした短篇が多数含まれ、この作家の中国文学への並々ならぬ傾倒ぶりを忍ばせる。上海滞在時、芥川は29歳、その中国文学、社会への造詣の深さと共に、天才の真髄を改めて実感させられる。芥川にとって、この中国への旅はいかなる意味を保ったのだろうか。心身ともに疲労が蓄積したのか、作家は帰国後、1927年7月に服薬自殺している。
「上海游記・江南游記」は、半世紀近く前に初めて上海に旅した頃に読んだ記憶が残るが、新年にもう一度読み返してみたい。
「上海游記・江南游記」講談社文芸文庫、講談社、2001(平成13)年10月1第1刷刊
大学共通テストのあり方が教育界に大きな混乱、混迷を引き起こしている。とりわけ英語教育のあり方、評価については、日本は戦後だけでも長い試行錯誤、検討の期間を過ごしているだけに、今回の対応はあまりに拙劣、無責任な思いがする。
英語自習時代を振り返る
ブログ筆者は戦後の英語教育実質ゼロのスタートライン時代から今日まで長年にわたり、研究、教育を含むさまざまな局面で英語と対峙してきた。 当初は英語教材も今のようにヴァラエティに富んだものはなく、せいぜい英会話学校の教材やNHKラジオ講座のテキスト程度(平川唯一「カム・カム・エブリボディ」)だった。その後、英日対訳のテキストなども増加してきた。しかし、かなり長い間、hearing,speakingのためのオーラル教材は少なく、読み書き中心で、学習のスタイルも自習が多かった。読み、書き、話す、聴くの全てに対応できる教師も少なかった。その後、奨学金を得てアメリカの大学院への留学に至る過程で、かなり多くの英語教材と対面した。今とは違って、学部生の留学はきわめて少なかった。ライシャワー大使夫妻が、激励のために渡米前の学生をティータイムに招待してくれた時代だった。1ドル=360円の固定レートの時代でもあった。
ヘミングウエイとの出会い
専門は全く異なるのだが、英語力を高めるための教材は文学作品が多かった。その中で印象に残る作品のひとつにヘミングウエイの『老人と海』があった。簡潔だが力強い表現で、しっかりと主題を伝えていて、愛読書のひとつとなった。今はかなり忘れてしまったが、冒頭の部分はたどたどしいがなんとか覚えている。他に覚えているのは、オスカー・ワイルド『幸福な王子』の冒頭部ぐらいになってしまった。
ちなみに、『老人と海』の、冒頭部分を掲載しておこう:
He was an old man who fished alone in a skiff in the Gulf Stream and he had gone eighty-four days now without taking a fish. In the first forty days a boy had been with him. But after forty days without a fish the boy’s parents had told him that the old man was now definitely and finally salao, which is the worst form of unlucky, and the boy had gone at their orders in another boat which caught three good fish the first week. It made the boy sad to see the old man come in each day with his skiff empty and he always went down to help him carry either the coiled lines or the gaff and harpoon and the sail that was furled around the mast. The sail was patched with flour sacks and, furled, it looked like the flag of permanent defeat.
(Earnest Miller Hemingway, The Old Man and the Sea, 1952)
このたび、新聞でヘミングウエイErnest Miller Hemingway(1899年 - 1961 年)の短編を素材に英文法を学ぶという受験参考書*の刊行を見て、書店で手にしてみた。昔、読んだ英文法の参考書は、例文は文法の説明のたために作ったような味気ないものが多かったので、タイトルにつられ、手にした感もあるが、読み始めてみると従来の参考書とは一線を画す工夫がなされており、興味深く読んだ。受験生にも好評であったようで、続編が刊行され、『老人と海』も最終章だけではあるが、取り上げられていたのでこれも読んでみた。表題の目指す「英文法を学ぶ」というよりは、ヘミングウエイの短編のさわりを英文法の手助けで読み直す感じとなった。
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倉林秀男・河田英介『ヘミングウエイで学ぶ英文法 1』アスク出版、2019年
倉林秀男・今村楯夫『ヘミングウエイで学ぶ英文法2』アスク出版、2019年
大学院時代の友人に英文学を専門とするアメリカ人(ポモナ・カレッジ教授)や、スペイン語を話すプエルトリコ出身のヴェテラン大学院生(帰還兵への優遇措置による)などがいたこともあって、この作家のカリブ海を舞台とした晩年の小説はかなり話題になった。ブログ筆者は、ヘミングウエイの『老人と海』を1952年に出版したチャールズ・スクリブナー書店のファンだったこともあり、一時はかなりのめり込んだ。スペンサー・トレイシー主演の映画も観たが、あまり印象に残っていない。
マノリンは少年か若者か
『老人と海』は主要な登場人物は老人とマノリンという少年だけという組み立てだが、その組み合わせが絶妙に感じられた。上掲の文法書の著者は、boyという英語を「少年」と訳することに異論をとなえ「若者」としている。ブログ筆者にはやや違和感が残る。「少年」より「若者」の方が、日本語の語感では adult な感じを受けるが、これは日本語の語感の問題のように思われる。老人とマノリンの関係を見ると、マノリンはいわば舞台回しの役割を負っている。言い換えると、この小説には欠かせない人物である。老人に私淑し、親の意思にも反して、老いた漁師を手助けし、弟子のような役割を果たしている。この関係をもし制度化すれば親方漁師と徒弟のような関係にあたる。
アメリカでは徒弟制度は広く形成されなかったが、伝統的な仕事の世界には慣行として受け継がれていた。徒弟がほぼ一人前の大人と認められるのは、徒弟修業を終えて職人としてひとり立ちができる段階に達してからであった。老人とマノリン少年の関係は、伝統的技能の習得の本質も体現していた。少年は老漁師を助けながら、老人の人生観や仕事のやり方を学んでいた。通い徒弟のような日常を過ごしていた。マノリン「22歳」説もあるようだが、ブログ筆者にはあまりしっくりこない。
ヨーロッパ社会における徒弟は親方の家に住み込み、仕事の手伝い、親方の身の回りの仕事などをしながら、熟練を体得していた。文字通り徒弟の仕事だった。彼らは職業などで異なるが、大体12-13歳から17-18歳くらいまで徒弟としての生活を過ごした。徒弟の費用は通常、親が負担した。親としては息子の将来を考え、最もふさわしいと思う親方を選ぶのが普通だった。マノリンの父親も、最も漁獲が多い、練達した漁師のボートに乗れるよう考えていたようだ。老漁師は運に見放されたのか、かなり長い間漁獲に恵まれなかった(上掲引用部分 salao)。マノリンはどこに惹かれたのか、老漁師の身の回りの世話をし、会話を楽しんでいた。マノリンは未だ大人として成人の段階に到達していない、純粋さが残る少年のイメージが浮かぶ。
ヘミングウエイ と子供たち(バンビ・パトリック・グレゴリー)
ビミニでの釣り旅行の記念写真(1935年撮影)
(倉林・今村著付録葉書)
原文と翻訳の間には、いかに優れた翻訳といえども伝達しきれない微妙なものがある。作品中の人物を全て現実に実在したモデルと重ね合わせるという研究者の努力には敬意を抱くが、フィクションと現実の距離にも注目しておきたい。
英語や英文学に関心を寄せる人には、上掲の本は受験参考書というイメージを離れて、読み物としても楽しめる好著といえる。願わくは、『老人と海』の全文を取り上げてもらえたらと思った。