時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ニューディールを支えた女性

2009年08月24日 | 回想のアメリカ

Book Cover Photo: Mrs. Frances Perkins
Kirstin Downey. The Woman Behind the New Deal: The Life of Frances Perkins, FDR’s Secretary of Labour and His Moral Conscience. Non A. Talese; 458pp. 2009.

 


  今回のグローバル大不況と比較されることが多い1930年代の世界恐慌前後の時代には、かねてから大きな関心を抱いてきた。学生の頃、たまたま周囲に大恐慌を経験した人々がいて回想談を聞いたことが、興味を呼び起こすきっかけになったのかもしれない。しかし、そうした人々も次々と世を去り、今日メディアなどで大恐慌に言及する人々も、文献記録、伝聞などでしか、当時の状況を語るにすぎなくなってきた。他方、最近1930-40年代について、新たな資料による見直しも進んで、かなり興味深い新事実も明らかにされている。

忘れられていた人 
 今夏、一冊の本を手にした。1930年代、アメリカで大不況に対応を迫られた大統領フランクリン・デラノア・ローズヴェルト(略称FDR)の政権下で、女性初の労働長官 Secretary of Labor として働いたフランセス・パーキンス女史Frances Perkins (born Fannie Coralie Perkins, April 10, 1880 – May 14, 1965) の人物伝であるパーキンス自らの手になる回顧録パーキンスからみたFDRについては、このブログでも記したことがある。

 新著は自叙伝ではなく、パーキンス女史に近かった人々の証言や記録などからクローズアップされた歴史的人物伝といったほうがよいだろう。著者カースチン・ダウニーは女性のフリーライターであり、2008年のジョージア工科大学銃乱射事件の報道でピュリツアー賞を共同受賞している。本書はこれまで埋もれていた資料やインタビューなどを積極的に行い、十分知られることがなかったパーキンス像を見せている。新たな資料発見があり、同時代史としても興味深い点が多い。アメリカ人でFDRの時代を知る人は、大体彼女ののことも知っていたが、日本ではFDRはともかく、パーキンスのことを知る人は、研究者を含め厚生労働の分野でもきわめて少ない。


 今日のグローバル不況の下でも、各国政府にとって最大の課題は雇用そして社会保障問題である。景気は底を打ったという一部の観測にもかかわらず、主要国での失業率は上昇を続けており、改善の兆しはまだ見えない。他方、比較の対象になる1930年代大恐慌当時、いかなる背景の下に、どんな政策が実行されたかという点については、必ずしも正確に知られていない。FDRの時代に、いかなる歴史的文脈の中から個々の政策が構想され、実現したかを知ることは、現代的視点からもきわめて重要なことだ。 本書はパーキンスという一人の女性の人物伝としては決定版とはいえないが、当時のアメリカ政界や女史の周囲にいた人々、社会環境がつぶさにうかがわれて大変興味深い。

ニューディールを支えて 
 1930年代の大恐慌時、震源地となったアメリカでは雇用、労働にかかわる諸制度は、ほとんど未整備といった状況だった。資本主義最大の危機といわれた不況の拡大に伴い、失業、労災などの労働問題は最重要な社会経済問題として急速に浮上した。しかし、その問題に対処した人物は、当時はまったく重きを置かれなかった。パーキンス女史はまさにその人であり、閣僚の順位では自ら認めていた通り最下位だった。  

 アメリカ史上最初の女性の閣僚として、パーキンスは公共事業 Public Works Association (後にFederal Works Agency)による雇用創出、全国産業復興法(NIRA)、
失業保険、社会保障(公的年金)などの導入に努めた。さらに、労働法の大幅な改革、最低賃金制の導入、週40時間立法、児童労働の禁止などを実施した。FDRの政権はニューディールの時代として知られるが、組織勢力としては弱い立場にあった労働組合について、団体交渉権、組合組織化の権利の拡充も行われた。FDRの政権は12年間続いたが、彼女はほぼ一貫して労働長官として、大統領を助けて働いた。今日、ワシントンD.C.の労働省の建物の入り口には Frances Perkins Department of Labor と記されている。

リベラリストの働き 
 パーキンスの名前を知ったのは、アメリカで学び始めた頃に、トライアングル・ファイア事件に関する文献を読んでいる時に出会ったのが最初だったと思うが、ほぼ同時にファカルティの何人かから、ニューディール時代の体験談を数多く聞いた。ニューディール政策の実施のためには、実に多数の人たちが働いた。その中心として指導的立場にあった人の多くは、アメリカ社会でもかなり鮮明にリベラルな立場をとっていた。戦後、占領下の日本で、労働政策その他の立案過程に関与した人たちの中に、ニューディーラーが多かったことはよく知られている。  

 パーキンスは名門女子大マウント・ホリヨークを卒業後、婦人参政権が獲得される前から、ニューヨークで社会改革家として活動していた。彼女に決定的な転機をもたらしたのは、1911年ニューヨークのグリニッチヴィレッジで発生したトライアングル・シャツ工場の悲惨な火災事件だった。146人の若い移民の女子労働者などが火炎と煙に巻き込まれ命を落とした。この時、パーキンスは現場の近くの友人の家にいた。そして劣悪な労働条件で働かされていた多くの女子労働者が逃げ場を失い、12階建てのビルの上から飛び下りる惨劇を目のあたりにした。  

 若い社会活動家としてニューヨーク市で働いていたパーキンスは、こうした悲惨な事件を繰り返してはならないと心に誓い、当時の民主党と保守党に働きかけた。当時の民主党は政治的に大変腐敗していたことで知られていたが、パーキンスは臆せず、活動した。彼女がFDRに見出されたのは、FDRがニューヨーク州知事の時だった。

最下位の閣僚 
 FDRが大統領に当選後、労働長官として登用され、FDRの任期のほぼすべて12年間(1933―1945)にわたり同ポストを務めた。ちなみに、FDRの任期を通して閣僚を務めたのは、彼女と内務長官ハロルド・アィクス Harold Ickesの二人だけである。  

 今日と違って、女性差別が厳しかった時代で、彼女はさまざまな脅しや嫌がらせを受けた。パーキンスはしばしば嘲笑の的となったファニーFannie という名前をフランセスFrances に改名までした。30歳代には、男たちの母親のような野暮ったい格好をしているなら、男の政治家も競争相手とはみなさないだろうと考え、流行遅れの衣装を身につけることまでしたようだ。閣僚に任命された後も、男の政治家の妻たちとなるべく同じ席につくように心がけた。FDRの妻エレノアの発案で、閣僚の妻たちの昼食会が定期的に開催されていた。パーキンスは積極的に参加し、側面から自分の考えの浸透を図った。こうした努力にもかかわらずパーキンスに対する差別はひどく、とりわけ労働組合の指導者たちが問題だった。彼らは女性が労働政策を立案、実施するという考え自体をひどく嫌悪していた。

 当時のパーキンス女史の活動範囲は大変広く、現在のボーダー・パトロール(国境警備)もその指揮下だった。劣悪な労働条件にあった炭鉱や戦時下の防衛産業なども精力的に視察していた。  

 他方、彼女の家庭生活も複雑で問題山積だった。夫のポール・ウイルソンは鬱病状態が長く、その人生のほとんどを経費がかかるサナトリウムで過ごした。彼女はその費用を負担していた。一人娘のスザンナは結婚に失敗した後、同様に鬱状態になり、母親の支援が必要だった。パーキンスにとって、晩年までスザンナのことは大きな心ががりのことだった。もっとも二人の関係はその後、パーキンスの晩年には次第に疎遠となっていった。  

 パーキンスは、こうして女性が主たる家庭の稼ぎ手ではない時代に、自らその役割を負っていた。経済的な不安が常に彼女を駆り立てていたようだ。1945年労働長官退任後も、1965年に死ぬまで働いていたのはそのためだったのではないかと思われる。

不思議な縁 
 長官を退任した後、コーネル大学の講師として教壇に立ち、さらに男子だけのフラタニティ・ハウス Telluride House に住み込んだ。そこにいた学生の中には、保守的なインテリ、アラン・ブルームAllan Bloomやジョージ・ブッシュ政権の防衛次官補を勤め、その後世界銀行総裁となったパウロ・ウオルフォヴィッツPaulo Wolfowitz もいた。  

  本書を読んでいて驚いたのは、パーキンス女史に教職の道を開いたのは、たまたま私の指導教授のひとりだったMN. だったことだ。これらの関係者は、今はすべて故人となったが、MN教授(2004年没)夫妻(モーリスとヒンダ)は、パーキンス女史のニューディーラーとしての経験に感銘し、若い世代にその経験を伝えるために教職の道を提案したのだった。パーキンスは喜んでその申し出を受けた。

 180cmを越える長身で髪の毛がなく、眼光鋭いMN教授は
きわめて厳格な指導で知られ、文献の選択、論文の構成から句読点まで細部にわたり徹底して鍛えられた。自分でも meticulous (過度なくらい細心)と思うと冗談をいうくらい、専門領域の議論には厳しかった。英語が母国語でない私などは大分泣かされたが、得難い経験だった。容貌魁偉といってもよい一見人をたじろがせるようなこの人が、実はきわめて穏和で気配りに満ちた人であることを感じたのはまもなくのことだった。

 私的な面では大変親切で、どこで見ていたのか、苦労している留学生などに細かな心配りも怠らず、しばしば自宅に招いてくれた。その後もキャンパスを訪れると、親切に配慮をしてくれ、空港まで送迎してくれたりもした。後年、自分も同じ立場になったら、その何分の一かでも努力しなければと思った。

 当時は大学にもIBMの大型コンピューターしかなく、調査や計測データはすべてパンチカードで入力、PCもなく電動タイプライターが使われ始めた頃だった。MNはアメリカの労働史、国際比較に関する膨大な文献ファイルを作成するとともに、几帳面に日記を残しており、それが今回パーキンス女史の晩年の教職時代を伝える重要な資料になっていた。また、女史が亡くなった時、大学私室に残された多くの書簡などの資料が処分されることを密かに救い、議会図書館に委託し、MN教授が生存中(2004年死去)は公開しないようにしてあった。  
 
 思い起こすと、さまざまな折に大恐慌時代のエピソードを聞いていた。パーキンスを大学へ招いた本人であることは本人の口からは一言も話されなかったが、同僚は皆知っていたのだろう。ファカルティの多くは心情的にもニュー・ディーラーだったから。ファカルティ・ラウンジには、晩年の女史の肖像画が掲げられていた。女史は教室でもしばしば正装、帽子を被って教壇に立っていたようだ。

 ジョン・F・ケネディが民主党大統領に立候補した当時、妻であったジャクリーンが、支持者の女性たちを集めて、パーキンス女史をゲスト・スピーカーとして招いた1960年当時の写真などを見ると、よき時代のアメリカの断片が思い浮かぶ。FDRの妻エレノアとも親しかったようだ。

 話には聞いた大恐慌下の出来事を、当時よりも今の方がはるかに切迫感をもって考えられるのは不思議なことだ。歴史を真に理解するには、ワインのようにある熟成の期間が必要なのかとも感じる。現代史の面白さは、思いがけないことで急速に深まることもある。世界がますます小さくなる今日、相手の国のこともより深く知る必要がある。細部に入り込むことで格段に理解も増す。FDRそしてパーキンスとその時代については、興味深いことが多々あるが、もはやブログの域を超えてしまった。  


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ハドソン川探検記念日

2009年07月21日 | 回想のアメリカ

 

 少し旧聞になってしまうが、7月4日はアメリカ独立記念日だった。さらにあまり知られていないが、この日はニューヨーク市にとっても特別の日であった。あの航空機着水全員救出の出来事で有名になったハドソン川の探検記念日だ。

 北米大陸で知名度の高い河川というと、西の方では怒濤のごとき赤い水で知られるコロラド川、中南部ではマーク・トゥエインの川として知られる滔々と流れるミシシッピ川、東部へ来ると、ハドソン川ではないだろうか。アメリカ・カナダの国境を分けるセントローレンス川も、大変興味深い川だ。とりわけ、ハドソン川とセントローレンス川は、4世紀近いアメリカの歴史と文化に深く関わってきた。

 ハドソン川については、セントローレンス川と共に、特別の思いがある。世界の著名な河川では、ほとんど唯一河口から源流に近いところまで流域を
旅をした経験があり、多数の思い出が残っている。この二つの川がアメリカ経済史に果たした役割はきわめて大きい。その一部はブログにも少し記したことがあるが、幸い興味深いことがかなり記憶に残っている。少しずつ記すことにしよう。

五大湖、大西洋へつながる水運
 ハドソン川を河口から遡って行くと、小さな運河の開鑿などによって、オルバニー、トロイなどを通り、セントローレンス川経由でモントリオール、ケベックまで水路で旅することができる。具体的には、南の方から、ハドソン川の主流を経由し、シャンプレイン運河、リシリュー川、シャンブリー運河を航行して、セントローレンス川へとつながっている。
 
 
セントローレンス川の河口付近はヴァイキングが、ハドソン川の河口付近はイギリス、スペイン、ポルトガルの漁船などが、1400年代に発見していたのではないかと推定されている。1524年にはフランス王に雇われたイタリア人航海者ジョヴァンニ・ダ・ヴェラザーノ Giovannni da Verrazano が,ニューヨーク、ロードアイランドなどの沿岸を航海したようだ。彼の名前はニューヨーク、ハドソン川の河口の大橋梁の名前として残っている。

 ハドソン川の河口は、世界最長の橋といわれるヴェラザーノ橋 Verrazano Narrow Bridge、自由の女神像などで著名だが、河川としての計測の基点は、上流へ少し遡ったPort Imperial Marina というマリーナに置かれていて、ここから上流に向かってプラス、下流に向けてマイナスとして計られている。

 

 マンハッタンの河口から、ケベックまでは水路で568マイルほどの距離だ。ハドソン川は大変変化に富んだ河川であり、その流域は産業革命期以来の多くの企業、史跡、そして自然の美しさに恵まれていて、さながらアメリカ史の一齣一齣が刻み込まれているような思いがする。

 

ヘンリー・ハドソンの航海 
 17世紀初め、オランダ東インド会社はイギリス人
探検家ヘンリー・ハドソン Henry Hudsonを雇い、1609年中国に向けて北西海路の探検を依頼した。当時の探検家といっても多くは一攫千金の野望に駆られた人物も多く、他方新大陸をめぐる各国の利権が渦巻く時代だった。ハドソンは新たな海路の発見には失敗したが、ハドソン川の探検を行った人物として後世に名を残すようになった。ハドソン川、セントローレンス川流域の探検については、ジャック・カルティエ、サミュエル・ド・シャンプレインなどが探検家として知られていて、それぞれ今日にその名を地名にとどめている。

 ハドソンは1609年にこの川をさかのぼる探検行を行い、後に彼の名は川の名前として歴史に残ることになった。しかし、実際にはカルティエ、シャンプレインなども、ほとんど同時期に探検していた。大変興味深いことに、シャンプレイン(Lake Champlainとしてその名が残る)は、ハドソン川を北から南に向けて、そしてハドソンは南から北に遡行しており、その差はほとんど2ヶ月くらいだったらしい。北米の植民時代、ハドソン川流域は、ポルトガル、フランス、オランダ、イギリスなどが競って探検する地域であり、激しい探検競争を行っていたのだ。

 これらの探検家たちによる航海は、狐、鹿、ラッコなど高価な毛皮や木材の交易につながり、オランダの場合は、ビーバーウイック 
Beverwick(今日のオルバニー)に最初の拠点を置くことになった。
 
開発と汚染
 ハドソンは、この川は魚類が豊富であり、沿岸の植物や森林も大変美しいことを見出した。その後、ハドソン川の開発は急速に進み、多くの環境破壊もあった。沿岸に発達した企業は、ハドソン川を廃棄物の投棄場所に使った。ある時期、ハドソン川のある流域には魚などの生物が一切生息しえなくなったこともあった。確かに、何度も訪れたが、上流の一部を除き、水がきれいな川という印象はない。

 1960年代には、環境保全の監視者などが、状況改善の努力を始めた。1972年にはクリーン・ウオーター法 Clean Water Actが制定され、汚染を禁止した。1984年には連邦環境保全局が、ハドソン川の流域200マイルをスーパーフアンド・サイトとして、特別の配慮を必要とする地域とした。こうした努力の結果、ハドソン川の景観は改善され、魚類も戻ってきた。一時はいなくなったハゲタカも、沿岸に巣を作るようになった。魚卵がキャヴィアとして珍重されるちょうざめの養殖を開始した記事をどこかで読んだ記憶もある。

 しかし、問題が解消されたわけではない。流域のウエスチェスターWestchester にはインディアン・ポイントといわれる原子力発電所がある。この発電所は、一日95億リットルの川水を冷却水として使用する。発電所が使用した水は、再びハドソンに戻される。しかし、河川の監視者によると、この温水によって多くの魚類、オタマジャクシ、魚卵などが生息できなくなったといわれている。発電所側はそうした事態は発生していないとしている。また、温度ばかりでなくPCB、発がん性のある毒性の化合物などが流域から流れ込んでいる。

 ニューヨーク市の下水処理システムもかなり老朽化し、豪雨などがあると対応できなくなってきた。そして近年ハドソン川の評判は低迷していた。あの奇跡的な航空機着水の快挙は、ハドソン川の存在を世界に知らしめた出来事となった。

 正確にいうと、ハドソンはこの川を最初に発見したわけではない。いうまでもなく、数千年にわたり先住民族のアルゴンクイン族とイロクオイ族がこの地域に広く展開して居住していた。実際には数百の部族がいたようだ。 

 今年9月には、ハドソンの探検船 Half Moon(二本マストの帆船) のレプリカが建造され、ハドソン川探検の再演がなされることが予定されている。


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裁判官と国民の距離

2009年07月17日 | 回想のアメリカ
 

 アメリカという国を知るにつれて、いくつか驚いたことがあった。それは最高裁判事について国民が大変よく知っていることだった。どの判事がいかなる思想傾向を抱き、どんな判決をしてきたかということについて、多くの国民がかなりよく知っている。それは、日本人が最高裁判事について抱くものとは大きく異なっている。

 7月13日、オバマ米大統領が最高裁判事に指名したソニア・ソトマイヨール氏Sonia Sotomayorの指名承認公聴会の実況中継を見た。第一日は、与えられたほぼ七分間に、判事が自分の経歴、法曹としての考えなどを述べ、その後に続く審問の枠組みを提示する。

 どこかに欠陥はないかと、あれこれ詮索し意地の悪い質問をする議員の前で、自分の生い立ち、判事としての考えを正々堂々と述べる姿は感動的だ。小学校3年までしか行けなかった親たちのこと、自分は努力してプリンストン大学からイェール大学法科大学院を卒業し、判事になったこと、弟もがんばって医学部へ入学したことなどを淡々と語る。

 より具体的にはソトマイヨール氏は、検察官、企業訴訟当事者、連邦地方裁判所判事を勤め、10年前に連邦控訴裁判所第2巡回区・NY(NY,コネティカット、バーモント管轄)に加わったことを述べ、判事としての地裁、高裁などでの実績、そしてオバマ大統領の指名を受けて最高裁判事への道が開かれつつあることを冷静に説明する。自分の歩んできた道は戦いのようだが、そこに希望を見出していると述べる。そして、判事としての自分の使命は憲法の擁護にあると語る。

 公聴会二日目、ソトマイヨール氏は、「経験豊かな賢い中南米系女性」が白人男性より優れた結論を出すことを望む、と語った2001年の発言について真意の説明を求められた。この発言はヒスパニック系を中心とする法学部学生に向けた演説の一部だった。上院議員、とりわけ共和党員は、これまでのソトマイヨール氏の片言隻句をとらえては、人種的偏見があるのではないかと詰め寄る。しかし、彼女はまったく動ぜず、淡々と回答する。

 ソトマイヨール氏は自分の発言がこれほど注目されたことはないと述べ、「適切な裁きを下すうえで、人種や民族、性別が有利にはたらくとは信じていない」と明言する。女性初の最高裁判事に就任したサンドラ・デイ・オコナー氏の「賢く公正な判事になる能力を、男性も女性も同等に有している」とほぼ同じ見解を表明しようとしたものの、表現が不適切だったことを認めた。司法哲学について聞かれても、法律への忠誠が自分の志すところであるとして、政治活動的な判事ではないと答える。 

 最高裁判事としての人間性、法曹としての基本姿勢をさまざまにテストされる。どこかに判事としての欠陥はないだろうかと、猜疑心と策略が潜んだ意地の悪い質問が次々と発せられる。しかし、そうした挑発的な質問にも平静さを失わず答えるこの女性は、実に立派であった。テレビを見ている国民にも、物事に動じない冷静な判事であり、公平な審理ができる人物であることが伝わってくるようだ。上院公聴会という舞台設定ながら、そこには国民との交流・対話があることを感じさせる。

 その感動的な情景を見ながら、やはり日本のことを考えてしまう。この国では最高裁判事は、いつの間にか、どこからか任命され、決まってしまう。任命に際して、国民の前での法曹としての見識の開陳など一切ないのだ。固定した枠内で退職者などが出れば、ただそれを埋めるだけである。ほとんど天下りの場と化しているといってもよい。

 建前の上では、最高裁判所の裁判官は、識見の高い、法律の素養のある年齢40年以上の者の中から任命することとされ、最高裁判所裁判官は、下級裁判所の判事、弁護士、大学教授、行政官・外交官から「バランスよく就任するよう配慮される」とされており、前任者と同じ出身母体から指名されることが多い。

 そこには国民との対話などまったくなく、存在する距離感は絶望的に大きい。国民裁判員制度がスタートしたが、制度が国民の心の中にしっかり根を下ろすには、最高裁判事の任命の実態ひとつを見ても、あまりに深い溝があることを感じないわけにはゆかない。
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最初の100日に向けて

2008年11月21日 | 回想のアメリカ

  「私のミドルネームは、私がいつか大統領に立候補するだろうとは夢にも思わなかった人間がつけたものだ」(大統領選の過程でのある慈善パーティで、アラブ系のミドルネーム「フセイン」についてのジョーク。ちなみに、オバマ氏のフルネームは、Barack Hussein Obama と、ミドルネームがイスラムとのつながりを思わせるものになっている(News Week, Oct. 29, 2008, Japanese edition)


 新年の大統領就任式を約2ヵ月後の1月20日に控えて、オバマ氏の動きは大変めまぐるしくなっている。もちろん、アメリカが震源地となったグローバルな大不況は終息する気配はまったくみえない。それどころか、さらに悪化の動きさえ見せている。あれだけ熱狂した選挙の後の虚脱感も漂っている。間もなく政権を担う者としては、うかうかできないという事情があることはいうまでもない。

 事態は急を告げている。長年にわたりアメリカを象徴してきた世界的自動車企業GMなどビッグスリーまでもが崩壊寸前だ。そして、いうまでもなくイラク戦争の行方はまったく見えない。目の前に立ちはだかる危機の大きさは、しばしば比較される1930年代大恐慌に十分匹敵する深刻なものだ。オバマ氏自身も大恐慌のさなかに大統領の座を受け継いだフランクリン・D・ローズヴェルトと比較されている。他方、ブッシュ大統領は惨憺たる形で退場を迫られることになりそうだ。こちらも、大恐慌になすすべがなかったフーバー大統領と同列に並べられている。


 上に掲げた最近のTime誌(November 24,2008)の表紙、かのFDRのお得意のポーズだった。当時はこのようにオープンカーで遊説ができるほどの安全度だった。FDRはアメリカ歴代大統領の中でも人気抜群の大統領の一人だ。アメリカ国民の多くが、FDRにオバマ新大統領を重ねて「大いなる期待」great expectation を抱いていることが伝わってくる。 

 それにしても、近年の大統領の中ではオバマ氏は図抜けて行動的といえるだろう。あのビル・クリントンでも12月中には主要な役職の指名さえしなかった。オバマ氏は当選後の演説で、「一刻も待てない」 “We don’t have a moment to lose” と述べている。  

 「ティーム・オバマ」の編成は着々と進行しているようだ。オバマ氏が先日までマケイン候補以上に強敵としていたクリントン陣営の人材を、中枢に活用しようとしていることが伝わってくる。共和党系の人材登用の話もあるようだ。アメリカの危機を前に、政党、党派を分け隔てる壁は顕著に低くなった。うわさに上っているヒラリー・クリントン国務長官が生まれれば、これは最強の布陣になるのでは。賢明な二人のことだから、「両雄並び立たず」ということにはならないだろう。

 大不況の克服と並んで、世界が最も期待するのは、オバマ新大統領のイスラム教国への対応だ。彼が演説の終わりにしばしば口にする「神よ、アメリカにご加護を!」God bless America の神が、もはやキリスト教の神にとどまらないことに、大きな期待をつなぎたい。アメリカも多神教の国になっている。アルカイーダは、オバマ大統領はイスラムの敵だと発表し、依然アメリカを敵視する姿勢を崩していない。新大統領と遠い祖先でつながっているイスラム世界への細い糸が世界を救うことを祈りたい。



FDRの山荘 Top Cottage の管理人の孫娘(5歳)と話すFDR。車いすのFDRの写真は、わずか2枚しかないといわれる。しかし、FDRは多忙を極めた日常の中、頻繁にポリオなど難病の子供たちを見舞っていた。(写真出所 Smith 1952)






References
 ’Change, What It Looks Like’ Time November 25, 2008.

Jean Edward Smith. FDR. New York: Harper & Row, 1952.

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スポーツは政治不安のバロメーター?

2008年09月22日 | 回想のアメリカ

  




  スポーツに人気が集まるのは、国民が政治に失望し、関心を失っていることのバロメーターではないかと、半ば本気で考えてしまう。北京五輪まではと、国内のさまざまな不満を抑圧してきた中国政府も、いまや環境、食品問題を始めとして、国内外の不満・不信の高まりに防戦一方だ。為政者が国民の批判をそらすために、スポーツを政治的に利用した例は枚挙にいとまがない。

  こうした関係が明白ではないにしても、政治や社会が不安定で、激動しているにもかかわらず、さまざまなスポーツが人気を集め、活発に興隆していた時代もある。人々が生活の苦しさ、鬱積した不満などを、ささやかな楽しみにまぎらわしていたともいえる。 アメリカの大リーグの草創期がそのひとつだ。国民的英雄となったベーブルースが活躍していた時期、1910年代、大恐慌前の時代である。

  この時代のひとつのモニュメンタルな事件を扱った歴史小説*を読んだ。 1919年、ボストン市警の警官たちが、劣悪な労働条件、低賃金に耐えかねて、組合を組織し、AFL(American Federation of Labor、アメリカ労働総同盟)に加盟し、ストライキに突入する事件を主題としている。アメリカ労働運動史上、よく知られた出来事だが、しばらく忘れていた。

  この年、ボストン市民の安全を守る警官が、突如として一斉争議に入った。きっかけは、当時のボストン市警本部長エドウィン・カーティスが、警官の組合がAFLからの指示で活動するようになると思いこみ、命令を聞かない警部を解雇したことから、警官たちはストへ突入する。市側の対応もできていなかったため、市民生活は大混乱となり、暴動、略奪などが横行し、恐怖が溢れた不穏な状況を生み出した。

  当時のマサチュセッツ州知事カルヴァン・クーリッジは、「誰にも、どこに於いても、いついかなるときも、公の安全に対するストライキの権利はない」と、AFLのサミュエル・ゴンパースに電報を送った#と伝えられ、一躍大衆的人気を集め、1923年、アメリカ合衆国大統領となった。ストを行った警部たちは解雇され、アメリカ労働運動史上、公益性を持つ分野で働く労働者にとっては最初の弔鐘となった。

  20世紀初頭から大恐慌突入までの時期は、アメリカ国民ばかりでなく、世界にかなりよく知られている、きわめてドラマティックな時代であった。今回のアメリカ発の金融危機は、グリーンスパン前FRB委員長が「1世紀に一回あるかないかの危機」と評したと言われるが、この大恐慌を念頭に置いていることはいうまでもない。

  金融関係者ならずとも誰もが思い浮かべる世界的大恐慌、1929年10月の「暗黒の金曜日」に始まり、第二次大戦突入にいたる恐慌前後の時期は、波瀾万丈、手に汗握るような時代であった。

  恐慌前のアメリカ、ふたつの世界大戦に挟まれた時期が興味深い。とりわけ、労働運動の分野で歴史に残る労働災害事件、労使対立の激化が見られた。1911年ニューヨークで、トライアングル・ファイア事件、1912年にはタイタニックが処女航海の途上で沈没、1918年、第一次世界大戦終結、1919年には第3インターナショナル(コミンテルン)が成立、ロシアではボルシェヴィキ政権の成功が、アメリカの政治家たちを不安にさせていた。1919年にはボストンで米国産業アルコール社の糖蜜タンク爆発、市警スト勃発、禁酒法が施行された。社会的不安が鬱屈、醸成されていたようだ。


  さて、この小説にはアメリカの国民的英雄ベーブルースが、いわば舞台回しのような役割を担って登場してくる。大リーグの野球というものが、当時どの程度のものであったのかを知ることもでき、大変興味深い。偶然とはいえ、本日でニューヨークのヤンキースタディアムは、老朽化に抗しがたく、86年の歴史を閉じる。球場は閉鎖されるため、最後の記念試合(ヤンキーズ対オリオールズ)が行われている。ちなみに、この球場での第一号ホームランは、ベーブルースが打った。

  この時代に起きたさまざまな出来事は、後に振り返ってみると小説以上に面白い。アメリカが生き生きと躍動していた時代であった。日本では、その題名も分かりにくく人気も盛り上がりを欠いたが、ニュー・ディール期を扱った映画「クレイドル・ウイル・ロック」とも通じるところがある。他方、デニス・ルヘインの手になる本書は歴史小説ではあるが、この映画と同様に多くの実在した人物が登場してくる。草創期アメリカ資本主義の息吹きを感じるには、格好な読み物かもしれない(この時代の輪郭を抑えていないと、読みにくく、抵抗を感じる読者もいるかもしれない)。

  ボストン市警ストが警官側の敗北に終わった後、人気が出て共和党政権で副大統領であったカルヴァン・クーリッジが、突然のハーディング大統領の死去で大統領職務代行者としての宣誓をした家は、電気、電話もなかったという。当時と比較して、今日まで確かに生活条件は大幅に改善・向上したとはいえ、人間社会として進歩しているのか、考え込んでしまう。少なくとも、この時代、人々は真正面から現実に対し真剣に生きていた。その行動は今からみれば粗野、粗暴に感じられる点も多いが、少なくも今日の世相に見るような「正気でない」時代ではなかった。

  次に起こることはなにか。アメリカ資本主義の生成期に立ち戻り、時代の先を考える材料を与えてくれる興味深い一冊だ。




#
 "There is no right to strike against the public safety by anyone, anywhere, any time.
 " 
 Telegram from Governor Calvin Coolidge to Samuel Gompers September 15, 1919.  


References

Russell, francis. A City in Terror: The 1919 Boston Police Strike. New York: Viking, 1975.
この事件の全容を知ることができる格好な一冊。

Fogelson, Robert M. ed. The Boston Police Strike: Two Reports. New York: Arno, 1971.

Harrison, Leonard V. Police Administration in Boston. Cambridge, M.A.: Harvard University Press, 1934.

 Dennis Lehane. The Given Day. 2008
.(デニス・ルヘイン、加賀山卓朗訳『運命の日』上、下、早川書房、2008年)
なお、この作品は現在、映画化が進行中。

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富豪は幸せなのか

2008年08月03日 | 回想のアメリカ


  前回から読んでいただくと、なにやらアメリカ史の一齣の解説みたいになってしまうのだが、多少の個人的感慨もあってメモ風になってしまった。まだ感受性の豊かだった?20代に、アメリカの歴史的大争議の膨大な記録に接し、強い衝撃を受けた。今では想像もつかないほど懸命にメモもとった。そして、一方の立役者が、フリックやカーネギーであったことは、その後「フリック・コレクション」や「カーネギーホール」を訪れた時に、単なる富豪の遺産という存在を超えて迫ってくるものを感じた。

    「フリック・コレクション」の優雅な雰囲気に浸っていると、ともすれば展示された美術品の素晴らしさに圧倒されて終わる。そして、メトロポリタンのような美術館でも購入できなかったような名品を、いとも容易にわがものにしていた富豪たちのすさまじくも、どん欲な富への欲求があったことを忘れてしまう。実は、その結果として、今日この壮大なコレクションが目の前にあるのだ。絵画がパトロンの庇護と助成の下に制作されていた時代から、富豪の所蔵品へ、そして公共の場へと移り変わってきた歴史を考えることになる。

仲たがいしたカーネギーとフリック
  閑話休題。両雄並び立たず、ホームステッド争議の後、さまざまなことから、カーネギーとフリックの関係も急速に悪化し、結局フリック50歳の時に二人は袂を分かつ。1899年、カーネギー製鋼所の会長はチャールズ・シュワッブとなった。

  カーネギーは大富豪でありながらも、その富の社会還元にはフリックよりもリベラルであったように思われる。貧しいスコットランド移民から巨富を成したカーネギーは、特に移民をアメリカ社会へ同化させる手段としての英語教育に多大な力を注いだ。著書『富の福音』では、富める者の社会的責任を論じている。しかし、労働者に対する考えではあまり大きな差異を感じられない。

  ホームステッド争議についても、カーネギーに対する社会的指弾もさまざまにあった。カーネギーが直接対処していたら別の結果となったろうか。当時の数々の争議を見る限り、大きな違いは生まれなかったように思える。カーネギーも当時勃興しつつあった労働組合を敵視し、非組合員を一律低賃金で雇用しただろう。当時の著名な産業資本家ヘンリー・フリック、アンドリュー・カーネギー、ジョン・D・ロックフェラー、ジェームズ・ヒル、ジョージ・プルマンなど、いずれも今日の倫理基準からすれば、粗野でしばしば非人道的な資本家たちであった。「泥棒貴族」と呼ばれた仲間だ。ただ、100年近い年月を経て、彼らを見ると「金ピカ時代」といわれた時代に吹いていた風のようなもの、そしてそれを受け止めていたそれぞれの人間の微妙な違いが感じられて興味深い。


Andrew Carnegie(1835-1919)   

  ホームステッド争議の激動を経験して、フリックは心身ともに傷ついたことは間違いないのだが、その事業欲、蓄財への執念はまったく衰えなかったようだ。自ら実際の経営の第一線に携わることをせず、多数の会社の役員を兼任し、株式投資などによる事業拡大を図り、さらに巨額の富を築く。その規模がいかなるものであったか、想像を絶するが、今に残る遺産の数々を見ることで、そのすさまじさを知ることはできる。      
  
  フリックは、事業で得た有り余る富を当時の富豪たちの流行でもあった美術品収集へと注ぎ込んでいった。その対象も広く、13世紀から19世紀のヨーロッパの絵画、彫刻、絨毯、家具、陶磁器まで及んでいる。訪れてみれば一目瞭然だが、日本で人気のフェルメール作品3点は、コレクション全体の中ではほんの一部にすぎない。フリックの買い求めた所蔵品の中には、かなり「がらくた」もあったようだ。フリック自身が美術品鑑識の素養があったとは到底思えない。収集を始めたのも40代半ば頃からであった。大邸宅や美術品が富豪の位を決める基準になっていたから、高値で買ってくれる富豪は画商にとって、願ってもない顧客だった。フリックの指南役となったのは、あの画商デュヴィーンJoseph Duveen とフライ Roger Fryであったようだ。彼らはフリックの意図と資金力を確かめつつ、ヨーロッパとアメリカの間で、美術品の仲介を行った。     

  世間からは冷酷・非情な資本家経営者の権化のように見られていたフリックだが、私生活は恵まれなかった。1891年、92年には幼い長女と次男を相次いで失った。ペンシルヴァニア州クレイトンに、広大な私邸を持ち、家族と暮らしていたが、1892年にはニューヨークへ転居し、1914年フィフス・アヴェニューに面した豪邸を収集品で飾り立てていた。彼の死後、父親の遺志を継いだ娘のヘレンが、1935年に美術館として一般公開するようになった。これが、現在の「フリック・コレクション」The Frick Collection である。クレイトンの私宅は、今日では、Frick Art & Historical Center として一般公開されている。双方訪れたが、その規模と豪華さに驚かされた。その源泉は過酷な労働者の労働以外にないことを知っていたからだ。

平穏ではなかった心の内
  一時期は共同経営者としてカーネギー鉄鋼の経営に当たっていたアンドリュー・カーネギーとの関係も、争議の後は極度に悪化していたらしい。その事実を客観的に知ることは今となってはかなり困難なのだが、伝えられる逸話から類推するしかない。晩年、カーネギーはかつての盟友フリックとの和解を求めたらしいが、フリックは「地獄で会おう、二人ともそこに行くのだから」"I will see him in hell, where we are going." と答えたといわれる。この言葉、しばしば引用されるのだが、二人の富豪の歩んだ人生を見る限り、きわめて意味深長なものがある。物質的にはなにひとつ不足のなかったはずの彼らの人生、しかし、その心の中は外から見るほどに恵まれてはいなかったのかもしれない。ちなみに、年齢はカーネギーの方が14歳ほど年長だったが、没年は1919年と同じだった。

  アメリカのフィランソロピーの潮流には、富める者の罪の意識があるのではないかと指摘する者もあるが、この時代の富豪経営者の心の深層に流れていたものがいかなるものだったか、十分解き明かすことはできない。しかし、残された断片は現代のわれわれにさまざまなことを考えさせる。

  マンハッタンの真ん中、セントラル・パークに面し、これ以上はないと思われるフリック・コレクションの豪華な環境の中で、フラ・フィリッポ・リッピなどのイタリア美術品の数々、レンブラント、ベラスケス、ターナー、エル・グレコ、ティツィアーノ、フラゴナールなどを見た後、外に出て5番街のざわめきへ戻ると、あの製鉄所を囲んだ労働者の叫び声や銃撃の音が遠くに聞こえるような気がした。


Reference

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巨富を築いたフリック

2008年08月01日 | 回想のアメリカ

  日本人にフェルメール好きが多いことは、改めていうまでもない。個人的には、最近の相次ぐ客寄せ「フェルメール展」に食傷気味である。高額の貸出料が見込める海外所蔵家やディーラーは、ほくほくだろう。何しろ、日本にはフェルメールは1枚もないのだから。17世紀美術には、他に多数の名品があるのにと思わないでもない。

  それはともかく、フェルメール作品を収集した人物については、ほとんど知られていない。フェルメールの作品は、今日ではヨーロッパとアメリカにほぼ二分したように分布し、所蔵されている。その中で、ニューヨークにある8点のうち、「兵士と笑う女」、「女と召使」、「稽古の中断」など3点は、「フリック・コレクション」が所蔵している。しかし、このコレクションの所蔵する作品はすべて、その収集家であったヘンリー・クレイ・フリック Henry Clay Frick(1849-1919)の遺言によって、館外に貸し出しが禁止されている。

  したがって、フェルメール・フリークは全作品を見たいと思ったら、どうしてもニューヨークへ行き、この「フリック・コレクション」(旧フリック邸を美術館に改装)を訪れねばならない。フェルメールは関心はあるが、とりたててフリークではないので、全点を真作で見たいとも思わない。幸い実際には、ほとんどの作品を各地で見ることが出来た。

     フェルメール・フリークではないこともあって、例の野口英世がニューヨーク時代に、フリック邸でフェルメール作品を見たかもしれないといった仮説は、それ自体なにも知的好奇心を引き起こさない。

  それよりもはるかに知りたいのは、当時メトロポリタンのような一流美術館でも到底手が届かなかったような豪華絢爛たる美術品を、次々と買いあさった実業家ヘンリー・フリックは、いかなる人物であり、どれだけ美術品の鑑識眼があったのか、なんのために収集したのかという方がはるかに知りたいことだ。一般の旅行者などは、「フリック・コレクション」の豪華、華麗な豪邸のたたずまいと作品に圧倒されて、その背後にあった事実などを考えることは少ない。日本でも、フリックは「鉄鋼業で巨富を成し、それを美術品収集に注ぎ込んだ」程度しか、紹介されていないが、それだけでいいのかと思ってしまうことがある。
 
  少し長くなってしまうのを覚悟の上で、その理由を記しておこう。折りしも、新日鉄八幡製鉄所のコークス工場の火災が報じられているが、フリックは最初コークス業で名を成したのだった。

辣腕経営者としての生い立ち
  実は私が最初にヘンリー・フリックの名を知ったのは、前回記したように、この華麗なコレクションの創始者としてのフリックではなく、アメリカ労働運動史上、稀にみる暴力的な争議として知られる1892年のホームステッド争議(Homestead strike)を指揮した経営者としてであった。


  当時、フリックは後にUSスティールの前身となったカーネギー鉄鋼の会長兼工場長として、経営の責任を負っていた。ちなみに、この争議はアメリカ史上、きわめて著名な出来事であり、今でも多くの人が学んで知っているはずだ。日本だったら、戦後の三井三池争議などに相当するような、経営・労働史上で大きな転換点を画した争議であった。実業家としては、大成功をとげ、死後のことにはなるが、フィランソロピストとして膨大な私財の多くを美術館などの形で、社会へ公開したこの人物については、なかなか頭の中で同一人物としてイメージがつながらなかった。

  フリックの生い立ちはかなり波乱に富んでいた。父親はスイスからの移民で、ヘンリーはペンシルヴァニアで生まれたが、父親の醸造所が破産し、大学も1年で辞め、不安定な仕事を転々としていた。フリックは、仕事熱心で、商機を見る才能などがあったのだろう。その仕事ぶりの熱心さなどを評価し、仕事を斡旋し、取り立てた人もいたようだ。

  いくつかの仕事の後に、いとこや友人とピッツバーグで、1871年に小さなコークス会社を始め、瞬く間に成功を収め、30歳にしてすでに「コークス王」としてミリオネアの名を得ていた。財政的には長年の友人であった資産家トーマス・メロンの支援が大きな支えであったようだ。顧客はカーネギー製鋼など、大手の鉄鋼企業であった。1880年にはペンシルヴァニア州の石炭生産の8割近くを自らの手中にしていた。「アメリカン・ドリーム」は、この時代、確実に生きていた。

  余談となるが、はるか後年、1970年代初めに、ペンシルヴァニアのスクラントン炭田(露天掘り)の実態を見学する機会などもあり、その規模に圧倒されたことがあった。日本の炭鉱はエネルギー政策の転換で、斜陽の色濃く、鉱山の閉鎖が相次いでいた。海底奥深くまで掘り進まないと炭層に行き着かない日本の炭鉱と比較して、巨象と蟻くらいの差異を感じていた。

  さて、当時の鉄鋼王アンドリュー・カーネギーとヘンリー・フリックは、1881年ニューヨークで会い、意気投合したようだ(フリックは新婚旅行の途中だった)。カーネギーは当初フリックのコークス企業を買収・統合したいと考えたようだが、フリックに譲る意思がなく、不可能であることを知り、当時40歳のフリックをカーネギー鉄鋼の共同経営者に迎え入れた。カーネギーが1889年に引退した後、フリックはカーネギー製鋼の会長となって、世界一といわれた鉄鋼・コークス生産企業の経営に辣腕を振るった。フリックは、すでに当時勃興していた労働組合運動にきわめて厳しく当たる、こわもての経営者として、知られていた。

「ジョンズタウン大洪水」のあらまし
  フリックはカーネギー鉄鋼やコークス事業拡大の傍ら、中心的な投資家としてペンシルバニア州ジョンズタウンの近くに、当時の名士からなる閉鎖的なクラブ South Fork Fishing and Hunting Club を設立・運営していた。会員はペンシルヴァニアの名高い人物60人あまりであり、フリックの親友であったアンドリュー・メロン(メロン財閥の創始者)やアンドリュー・カーネギーも入っていた。クラブは、仲間で狩猟や釣りを楽しむために当時世界でも最大といわれた土石ダムで、川をせき止めた人工湖を持っていた。

  ところが、1889年5月31日、このダムは保守の怠慢、集中豪雨などが原因で決壊し、2千万トンともいわれる水と土砂で渓谷を埋め尽くし、推定2200人ともいわれた多数の死傷者を出した。ダム決壊の一報を受けたフリックたちは、緊急救済委員会を設置、厳重な情報統制の下で、犠牲者救済などの手だてを尽くした。クラブ会員だった弁護士は、法廷訴訟の道を巧みに封じ、本来ならば全米を揺るがす一大社会問題となったであろう責任問題も抑圧、回避した。クラブは告訴されたが、裁判所は自然の不可抗力であったと退けた。下流にあった商売敵のカンブリア鉄鋼会社への補償も怠りなかった。

  もし、メディアなどが大々的に報じていたら、アメリカを揺るがす大変な社会問題となっていたことは間違いない。会員たちの社会的地位も大きく揺らいだことだろう。アメリカ史上、もっとも巧みに隠蔽された事件とされ、後年、「ジョンズタウン大洪水」 the Johnstown flood として知られるようになった不名誉な出来事だ。フリックはその当事者として中心的人物だった。ここまで、カーネギーはフリックの豪腕ともいうべき実行力を買っていたようだ。


Henry Clay Frick(1849-1919)

ホームステッド・ロックアウト
  しかし、この事件の後、カーネギーとフリックの関係を決定的に引き裂く事件が続いて起きた。1892年にカーネギー鉄鋼のホームステッド工場で、合同鉄鋼労組 Amalgamated Iron and Steel Workers Union との間で、激烈な労働争議が勃発した。発端は競争相手の企業への対抗上、フリックが労働者の大幅一律賃金カットを行ったことだった。

  カーネギー鉄鋼の経営者でホームステッドの工場長も兼ねていたフリックは、強力な反組合の経営者として知られていた。工場の周辺に有刺鉄線を張り巡らし、銃を持った警備員を配置し、組合員の労働者全員を工場外へロックアウトした。当時、工場は「フリック砦」と呼ばれていた。この時代の労働争議というのは、文字通り資本家と労働者の力による激突ともいうべき様相を呈していた。

  フリックはアメリカ史上も悪名高い300人の武装したピンカートン探偵(一種の暴力団)を、7月5日、工場の傍を流れるオハイオ川を経由して、はしけで夜陰に乗じて工場内に導き入れようとした。スト破りを雇い入れ、非組合員で操業しようという算段だった。気づいた組合員との間に銃撃戦が起こり、労働者、市民を含み10人以上の犠牲者が出る暴力争議となった。町には戒厳令が布かれ、紛争は最終的にはペンシルヴァニア州知事の命令で、8500人の州兵が出動して収束した。そして、工場は非組合員を主体に運営されることになった。組合は破れ、旧組合員の多くは非組合員となることで、賃率も下げられて雇用されることになった。

  争議は経営側の勝利に見えた。しかし、この時代はアメリカも燃えていた。「資本家の時代」は、「労働者の時代」でもあったのだ。フリックの手段を選ばない厳しい対応は、世論の批判の的となった。労働組合は弾圧されたが、その後フリックの企業は組合組織化の目標とされた。当時、カーネギーは表向きは経営から引退し、スコットランドの城で過ごしていた。しかし、世論はカーネギー鉄鋼の総帥であり、アメリカを代表する企業の経営者としてのアンドリュー・カーネギーへ向けられた。カーネギーはフリックよりもリベラルな考えを持っていたと思われており、以前の言説との違いを突かれて、偽善者という指弾も受けた。

暗殺を免れたフリック
  冷酷・非常な経営者と見られたフリックもついに暴漢に襲われることになった。争議が収まっていない1892年7月23日、ピッツバーグのオフィスに進入したアナーキスト、バークマンによってピストルで2発撃たれた。幸い、同室していた副社長(後に社長)のジョン・ジョージ・アレクサンダー・ライシュマンの手助けでとどめの3発目を免れ、命をとりとめた。フリックは深手を負ったにもかかわらず、気丈に暴漢に立ち向かい、急を聞いてかけつけた従業員や警官によって暴漢は取り押さえられた。フリックは暴漢を射殺せず、法廷の場へ突き出せといったらしい。暗殺者バークマンは22年間の刑に処せられたが、支持者たちの運動もあって1906年に出獄した。

  一時は経営側に分が悪くなりかけたこの争議は、フリック暗殺未遂についての経営側のネガティブ・キャンペーンなどで、労働側の敗色が濃くなり、労働者2500人は解雇され、残った労働者の賃金も半分に減額された。ちなみに、この争議後も多くの出来事があったが、鉄鋼業は1930年代末まで労働組合が組織できない産業であった。1901年にUS Steel が設立されたのが象徴であるように、資本側の力は強大であり、強力・専制的な資本主義の時代が展開していた。

  さて、この後、カーネギー、フリックの人生にも新たな転機がやってくる。長くなったので、一休みしよう。

  

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リズ・テイラー:断片を寄せ集めて

2008年03月25日 | 回想のアメリカ

  「文藝春秋」4月号で、たまたま評論家・翻訳家の芝山幹郎氏が、エリザベス・テイラーを「スターは楽し」の23回目として取り上げていた。一時期、「世界一の美女」と呼ばれていたようだ。柴山氏は「匂いがよくて甘美な生クリーム」と表現されているが、なんとも表現しがたいイメージの女優だった。美人であることは言を待たないが、人気ランキングの上位にはランクされないような、取り付きがたいようなイメージも残っている。

  以前記した
「陽のあたる場所」のようなアメリカ資本主義の盛期を象徴的に描くコントラストの強い作品には、合っていたのだろう。この作品、当時の上流階級の令嬢を演じるにはぴったりの適役であった。世代的にも遠近感のつかみにくい女優だ。クリント・イーストウッドより2歳年下というから、団塊の世代より一回り上だった。子役でデビューしていたので、女優人生が長く見えたのだろう。「ハリウッド黄金期を体験した最後の女優」といわれる。

  とりたてて、エリザベス・テイラーのファンというわけではないのだが、彼女の出演した映画が2、3本、記憶に残っている。アメリカという国を理解するに、かなり豊富な情報を注入してくれた。柴山氏は「陽のあたる場所」、「ジャイアント」、「バターフィールド8」をベスト3に選んでいるが、残念ながら「バターフィールド8」は見ていない。

  子役時代の「緑園の天使」(1944)なども見たような記憶はあるが、これもほとんどかすかな残像しかない。「ジャイアンツ」(1956)は、牧童役を演じたジェームズ・ディーンの遺作となった大河ドラマで、テーマ音楽は割合よく覚えていた。これも「陽のあたる場所」のように、アメリカ資本主義の盛衰の舞台が印象的だった。牧童がかつての雇い主を上回って見返すまでの大石油王にのしあがるストーリーだった。地平線の彼方まで続く原油井戸には驚かされた。アメリカが産油国であることを認識させる衝撃的なイメージだった。

  柴山氏は挙げていないが、「バージニア・ウルフなんかこわくない」が記憶に残っている。 この映画、実はよく分からなかった。60年代末に友人夫妻に誘われて、ニュージャージー、イースト・オレンジという小さな町の映画館で見た。英語が難しくて半分も分からなかった。観客が盛んに笑うのだが、理解できず、大変落胆したことを覚えている。後で友人に聞いたところ、きわどいスラングなどが多くて、分からなくて当然と云われ、それならなぜ誘ったのと恨めしく思ったほどだった。中年大学教授夫妻の凄まじいばかりのやり取りだったのだ。題名のバージニア・ウルフの意味するところがいまひとつ分からず、作品を読み始めるきっかけになったから、分からない映画も無駄ではなかったか。

  その時、主演女優がエリザベス・テイラーで、男優が当時の夫リチャード・バートンということを知ったのだが、エリザベスの容貌が「陽のあたる場所」で見ていたイメージとまったく違ったので驚いた。これも、引き受けた彼女が大変張り切って役柄に合わせ、わざわざ容貌まですっかり変えたとのこと。スター稼業も大変なのだという印象が残った。

  映画は大変好評を博し、エリザベス・テイラーは2度目の主演女優賞を受けた。後になってストーリーの細部を知る機会があり、誘ってくれた友人が分からなくてもいいと云っていたのは、なるほどこういう意味だったのかと思い当たる部分もあった。



Who's Afraid of Virginia Wolf? (1966)

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名画再見:「陽のあたる場所」

2008年02月13日 | 回想のアメリカ

 この映画については前に記したことがあった。今日では、実際に観た人も少なくなった。半世紀前、まだ白黒時代の映画である。しかし、その残像は、長く網膜に残っていた。たまたま衛星TV*で放映されることを知り、懐かしさも手伝って観てしまう。

 20世紀半ば、アメリカの「良き時代」がまだそこにあった。懐かしいモノクロの映像が流れていた。カラーになっていたら観なかっただろう。モノクロの美しさを改めて感じる。

 モンゴメリー・クリフト、エリザベス・テイラー、「だれ、それ」といわれてしまいそうだ。半世紀近く経っているのだから無理もない。エリザベス・テイラーはこれでスターの座を確保した。当時18歳、なんとも表現しがたい美しさだが、映像で見ると宇宙人のよう。別世界、上流階級の令嬢。ただいるだけでよい存在。   

 それに引き換え、田舎から出てきたジョージは、世慣れず、ぎこちない、ただ美貌であるだけの若者だ。叔父ジョージ・イーストマンが経営する水着工場で働くことになるが、特技もなく、包装部門で箱の整理係。しかし、イーストマン家の甥であるというつながりだけで、幹部への将来が約束される。

  ジョージは、まもなく同じ職場のアリス・トリップと映画館で偶然隣り合わせる。「世の中狭いわね」 "small world" という表現は、この時覚えた。エルム通4433が彼女のアパート。どこにでもいるような孤独でひたむきで、いじましいような女性、アリス役のシェリー・ウインターズは、役柄に徹した名演だった。

 その後、まもなくイーストマン家のパーティで、ジョージは名家の令嬢アンジェラ・ヴィッカーズ(エリザベス・テイラー)に出会う。輝かしい上流階級への道が目の前に開ける。アリスの存在が急に重荷となってくる。アリスは妊娠している。

 人気のない湖のボートでの事故死にみえるアリスの溺死。そして、裁判へ。殺意を否定するジョージ。状況証拠は明らかにジョージに不利。陪審員は被告を第1級の有罪と認める。

 電気椅子へ向かう直前。「心で殺人を犯した」という牧師の言葉を否定しないジョージ。そして、アンジェラの言葉、「私たちはお別れをいうために出会ったのね。」

*「陽のあたる場所」 衛星第2 2008年2月12日

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アメリカにもあった「癒しの道」:アパラチアン・トレイル

2007年09月13日 | 回想のアメリカ

    このところ、著名な人物や政治的主導者にかかわる衝撃的な出来事が続く。横綱朝青龍の挫折に、身体の大きさと精神の強靭さの間には何の関係もないのだと気づかされる。土俵上でのふてぶてしいばかりの顔とその後は、あまりに対照的だ。続いて、昨日9月12日、安部首相の突然の辞任表明にまた驚く。

  社会的人気や名声の頂点を極めたような人を含め、いかなる人間にも苦悩の時や挫折の時がある。生まれた時からなんの憂いや悩みもなく、順風満帆といえる人生を過ごしてきた幸せな人もいるかもしれない。しかし、そうした人はむしろ稀なのかもしれない。サンジャック・デ・コンポステーラへの旅、熊野古道や四国霊場めぐりなど、世界にはさまざまな心の救いや癒しを求めての旅の場がある。今年巡ったアルザス・ロレーヌにも中世以来の巡礼の道が残っていた。

  たまたま安部首相辞任表明の前日に見たTVに、アメリカ東部アパラティアン山脈の山中を徒歩で旅する人々の姿が映し出されていた。*  登場した人々はそれぞれに人生の煩悩や苦悩を背負っていた。若い頃に犯罪を犯し、その罪を償う更生のために、集団で旅する若者も映されていたが、多くは一人旅であった。数は少ないが、女性も含まれていた。20キロを越えるザックを背負い、テントや避難小屋で夜を過ごす旅をしていた。鳥や鹿、栗鼠など心を和ませる触れ合いもあるが、熊やがらがら蛇も出てくるかなりの難路でもある。アメリカには「公認」された「癒しの道」や霊場のたぐいはないと、なんとなく思っていたので、認識を新たにした。


  旅に出た動機はそれぞれ個人的に異なったものだが、仕事上の挫折を含め人生の途上で直面した問題をそれぞれに考え直す時間を持つという点では共通していた。朝鮮戦争やヴェトナムそしてイラク戦争で受けた心の傷を癒そうとする人々、自分の代わりに戦死した同僚たちへの贖罪を求める人、企業社会での激しい競争に心身ともに疲れきった人々の姿が印象的だった。戦争やグローバリズムの苛酷な展開は、人々の心に容易には癒しがたい、深い傷を残している。幸い、映し出された人々はそれぞれに立ち直りや希望への道筋を見出しつつあるようだった。

   1960年代末、友人とこのトレイルの一部、ベア・マウンテンに登ったことがあった。ニューヨークから60キロくらいの所である。当時はヴェトナム戦争でアメリカの敗色が濃厚になりつつあった頃だったが、このトレイルがTVで伝えられたような癒しや社会復帰を求める場にまではなっていなかったように記憶している。山頂で会った人は数少なかったが、純粋のトレッキングを楽しんでいるように見えた。だが、本当のところは分からない。

  一時期、寄宿舎で部屋をシェアしていた友人が朝鮮戦争のヴェテラン(帰還兵)で、そのトラウマに悩まされていたこともあり、戦争の暗い影がアメリカ社会に深く影を落としていることには気づいていた。ヴェトナム戦争で戦死した卒業生の名前が学生ホールの壁に刻まれ、次第に増えていった。

  アパラチアン山脈については、山麓の繊維企業や炭鉱の調査に何度か訪れた。ここでも想像を超えた経験をした。さまざまな記憶がよみがえるが、ここで記すには長すぎるので、別の機会にしたい。

  しばらく忘れていた、あのはるかに霞んだような山並みが、ズームアップしたようにまぶたに浮かんできた。戦禍や競争社会に傷ついた人々を受け入れ、癒し、新たなきっかけを与える懐の深い自然な山がそこにあった。


* BS 9月11日 「アパラチアン山脈3500キロの旅:人生のロング・トレイル」

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グッゲンハイム追憶

2007年09月05日 | 回想のアメリカ


グッゲンハイム美術館内部

 
  届いたばかりの『芸術新潮』(2007年9月)が、ニューヨークの美術館の特集をしていた。数ある美術館の中から15の美術館が取り上げられている。そのうちのいくつかは関心の違いもあって、訪れたことがないが、ほとんどはよく知っている場所で大変懐かしい。

 なかでも強い印象が残っているのは、グッゲンハイム美術館である。メトロポリタンよりも先に、ニューヨークで最初に訪れた美術館であったこともあるが、なににもましてそのユニークな外観と内部の構造に衝撃を受けた。

  今でこそ世界にはさまざまな斬新な美術館が生まれているので多少のことには驚かないが、60年代当時は展示室が同じ階に並列的に並んでいて、次の階の展示へ行くには階段を上り下りするという構造が見慣れた美術館のイメージであっただけに、この時受けた印象は大変強かった。

  外観はなんと形容したらよいだろう。巨大な植木鉢のような、今ならば宇宙ステーションのようなといったらよいだろうか。周辺の建物を圧してきわめて斬新である。内部へ入るとまた驚かされた。中央に巨大な吹き抜けが天井部まであり、館内が大変明るい。柱がなく、建物を支える壁面部分に沿って緩やかなスロープが上方へ向かってらせん状に続いている。



  観客はこのスロープの壁面に展示された作品をゆっくりと移動しながら鑑賞する仕組みである。つなぎ目のない展示であり、伝統的な美術館とは大きな違いである。

  アメリカに行ったばかり、当時の日本ではなかなか接する機会がなかったカンディンスキー、シャガール、モディリアーニなどの作品が目の前にあり大変感動した。最初訪れた時、館内にはバックグラウンドでムソルグスキーの「展覧会の絵」がかなり大きく響いていた。もしかすると生のピアノ演奏だったかもしれない。そのこともあって、今でもこの曲を聴くと、グッゲンハイムのイメージが反射的に思い浮かぶほどだ。フランク・ロイド・ライトの名作ということも知って、かなり頻繁に訪れたお気に入りの場所となった。ニューヨークで書店巡りなどをする折に、度々立ち寄った。

  グッゲンハイムの開館は1959年10月とのこと。施主のグッゲンハイムも、設計者のフランク・ロイド・ライトも完成を見ることができなかったようだ。今は老朽化が進み、外壁は大改装工事が行われているが、来年には再びあのユニークな外観を楽しむことができるようだ。

  この時の印象は深く脳裏に刻まれており、後年開館したばかりの上海博物館(人民広場)を見たとき、すぐにこれはグッゲンハイムの影響を受けていると思ったほどだ。ちなみにこの博物館は外観は中国の祭器とされる鼎の形状を模しているが、内部はまったくグッゲンハイム型である。吹き抜けの部分にエスカレーターがあるが、内部の雰囲気はグッゲンハイムとほとんど同じイメージである。博物館の開館数日後に訪れたが、カンディンスキー特別展を開催していた。不思議な経験だった。


Solomon R. Guggenheim Museum  107 15th Avenue at 89 Street, New York, NY

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サラトガ・スプリングスの紅葉

2006年11月28日 | 回想のアメリカ

  毎年、紅葉の時期になると思い浮かべる光景がある。そのひとつはかつて何度か訪れたニューヨーク州北部アディロンダック国立公園の紅葉である。日本の紅葉も実に美しいが、この地域の秋も視界全面、目を奪うばかりに紅葉して素晴らしい。

  今回は箱根の紅葉と温泉からの連想で、同じニューヨーク州北部のサラトガ・スプリングスの思い出の一片を記してみたい。場所はニューヨークから車で3時間くらい、サラトガ・スパ州立公園の中にある。その名前から連想できるように、ここにはアメリカでも珍しい間歇泉の温泉がある。ニューヨーク子やニューイングランドの人々のリゾート地である。またアメリカ最古の競馬場があり、独特の華やかな雰囲気をかもし出している。近くには、ギデオン・パトナム・ホテルというジョージアン風の素晴らしいホテルもある。

  この地を訪れることができたのは、まったく偶然であった。いまや生涯の友人であるB夫妻の奥さんが、サラトガ・スプリングスにある名門スキッドモア・カレッジ Skidmore College の卒業生だった。今では男子学生も4割近く入学しているが、1960年代の終わり頃は全学生1000人ほどの女子カレッジだった。一緒にニューイングランドの秋を楽しんだ時、キャンパスへも連れて行ってもらった。当時は男子禁制だったが、特別に見せてくれた。ドミトリーなど、高級ホテルに見えるほどの設備が準備されていた。学生が髪を洗うのに楽なように洗面台を設計したなどの説明を受け、そこまで配慮するアメリカの豊かさを感じた。そして、キャンパスの紅葉が実に美しかった。

  サラトガ・スプリングスの競馬は大変有名であり、Mさんは大学卒業後も、ニュージャージーで3人の子供を育てながら、しばらく乗馬クラブやスキーなどの競技会に出ていた。文学評論にも通じていた。アメリカの中産階級の人たちの人生とはこういうものかと思ったが、その後の人生にはかなり大きな波乱が待ち受けていた。

  サラトガ・スプリングスを訪れた頃、アメリカはベトナム戦争にかかわり敗色濃く、社会は急速に変化していた。少し経って振り返ると、アメリカの良き時代の終わりのひとこまを垣間見たような思いがした。

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追悼ウイリアム・スタイロン(3)

2006年11月22日 | 回想のアメリカ

  11月3日に取り上げたウイリアム・スタイロンの作品『ナット・ターナーの告白』 The Confessions of Nat Turner (1966)について友人から尋ねられた。この作品を読んだのは、ずっと昔のことなので、その後邦訳の出版があるか調べたことがなかった。インターネットで当たってみると、1979年に大橋吉之輔氏の訳で河出書房新社から刊行されていることが分かった。しかし、今は残念ながら、古書扱いのようである。

  あれだけ著名な作家なので、スタイロンの訳書もかなりあり、当然楽に手に入るものと思っていたが、まったくの誤算であった。不思議なことに、日本での知名度もいまひとつのようなのだ。立ち寄った新宿の著名な大書店では、『暗闇に横たわりて』(須山静夫訳、白水社、新装版)だけが在庫にあったが、なんとフランス文学のコーナーに入っていた。最近はしばしば見かける「作家追悼コーナー」もなかった。個人的には、ノーベル文学賞が授与されても不思議ではないと思う作家なのだが。

  一寸ショックを受けて、自宅の書棚にあった書籍を引っ張り出した。これはさすがに「リストラ?」されずに残っていた。1968年刊行、赤い表紙のPB版である。スタイロンがピュリツアー賞を受賞した後の版である。

  懐かしくなって、ページをめくってみる。記憶が蘇ってきた。この版には、Author's Note (1967)がついている。主題は、アメリカ史でも著名な1831年に起きた「ナット・ターナーの反乱」である。ヴァージニア州サザンプトンの農園で働いていた奴隷のナット・ターナーが指導者となって起こした反乱事件で、仲間の奴隷とともに彼らの所有主であった家族を含め、50人以上の白人を殺害した。その鎮圧のために軍隊が投入された。ナットは当時28歳。きわめて優れた若者で聖書にも詳しかった。彼は白人牧師の語る「奴隷制度の正当化」に納得できずにいた。そして、ある日、神の啓示を受けて(ここはひとつの論点)、奴隷たちを解放することを決意する。そして、仲間を集めて大反乱を起こした。

  スタイロン自ら、小説ではあるが史実に基づいて描いたと語っている。冒頭に To the Public と題して、捕らえられた首謀者の一人ナット・ターナーの告白にかかわった7人の判事たちの立証文書が掲げられている(この告白はいわゆる『告白原本』として、後の論争のベースとなる)。ナット・ターナーを含む首謀者たちは逮捕され、全員縛り首の刑となったが、それ以外に120人を越える黒人が殺害された。

  この反乱の重要な意味は、過酷な労働、重圧に耐えかねた黒人奴隷の農場主などへの怒りの爆発という次元を超えて、「神の啓示」が背景にあったという点において、深刻な衝撃をアメリカ社会に与えることになった。

  スタイロンのこの作品が出版されてから、ターナーに回帰する新たな論争がアメリカ社会に起きていた。「アンクル・トム」とはまさに対極の奴隷イメージの「ナット・ターナー」像をめぐって、激しい論争がキャンパスでもあったことを思い出した。友人のパーティで紹介されたアメリカ奴隷制と知識人に関する著作を出版したばかりのS教授(いただいた著書を持っているのだが、見つからない)の話も、かなり鮮明によみがえった。いずれメモを記すことがあるかもしれない。奴隷制と知識階層との関わり、奴隷制の評価、ヴェトナム戦争を背景として、白人よりも黒人の徴兵率が高い、などの論争も行われていた。遠い昔のことだが、昨日のことであったような気もする。


*
 William Styron. The Confessions of Nat Turner. A Signet Book, The New American Library, Inc. New York, N.Y., 1968.

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17歳の決断:アメリカ軍のリクルート

2006年11月18日 | 回想のアメリカ

    11月17日の「追悼ウイリアム・スタイロン」の記事の中で、かつて若い頃、アメリカの大学キャンパスで目にしたROTC(Reserve Officers' Training Corps:予備役将校訓練部隊)について言及した。ところが、翌日の18日、ふと見たBSドキュメンタリー「高校生を獲得せよ:米軍リクルート活動」*で、ジュニアROTCをとりあげており、あまりのタイミングの合致に目を疑った。

  イラク戦争に深くかかわっている米軍は、多数の兵員を必要としている。そのために、1960年代から、Junior ROTCと称する高校での軍事教育訓練を実施している。現在では全米で3000校、高校生40万人が参加している。ニューヨークでは、米軍はブロンクスなど黒人、ヒスパニックの多い地域で、重点的にリクルート活動を行っている。貧困な家庭のため大学に行かれない高校生を、除隊後の奨学金、在役中の安定した給与で誘っている。

  数は少ないが、軍のリクルーターを生徒に近づけないよう追い返しているしっかりとした校長もいないわけでない。しかし、人生経験の浅い17歳の高校生は、リクルーターの執拗な勧誘で入隊を決めてしまう

  9.11以後、愛国心に訴えるリクルーターに誘われて、軍隊に入ったところ、たちまちイラクへ送られ、幸い帰国し、除隊した若者の1人が、これではまるで「貧困者に的を絞った徴兵制度」 economic draft だと述べていたことに共感した。

  現在では海外派兵の対象とはならないと思われていた州兵も海外へ派遣される。さらに、「落ちこぼれ防止法」No Child Left Behind Act という驚くべき法律が軍リクルートを支えるひとつの背景になっていることを知り、さらに愕然とした。「教育基本法」審議の現状を目の前にして、しばらく不眠につながる原因が増えてしまった。


* 「高校生を獲得せよ:米軍リクルート活動」BSドキュメンタリー・シリーズ、2006年11月18日

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追悼ウイリアム・スタイロン(2)

2006年11月17日 | 回想のアメリカ

  11月1日に亡くなったウイリアム・スタイロンを偲ぶ論評がいくつか見られるようになった。この作家の作品は大変好きなのだが、読むたびに大きな衝撃を受け、いつも立ちすくむ思いがしてきた。

  スタイロンほど人間や歴史の深部、とりわけ暗黒部に深く切り込み、正面から立ち向かった作家はあまり多くない。ある弔辞が記していたように、人種問題やホロコーストなど、他の作家が避けて通るような重く難しい問題ばかり選んで対決して来たようなところがある。スタイロンの作品はかなり読んできたが、作家自身の人となりや人生の歩みについては、比較的最近まであまり知らなかった。
  
  若くしてその才能を認められたスタイロンは、作家として恵まれた出発をしたと考えられる。最初の小説『闇の中に横たわりて』"Lie Down in Darkness"が刊行され、大きな賞賛を受けたのは1951年、26歳の時であった。ヘミングウエイ、フォークナーを引き継ぐ作家として、期待されてきた。しかし、スタイロンは自分がフォークナーの継承者あるいは「南部派作家」として定型化されることをひどく嫌った。それにもかかわらず、スタイロンはさまざまに南部の精神的風土や問題と深く関わり合ってきた。作品の舞台が南部であっても、スタイロンが描いたのは「不信と絶望」が支配する現代社会なのだ。

  ヴァージニア州ニューポート・ニューズの造船所で働く父親を持った作家は、そこから離れ、距離を置いて南部を考えたいと願っていたようだ。そして、ニューヨーク郊外へと移り、1952年にはパリにも旅した。ヘミングウエイの人生とも重なり合いそうな部分もある。スタイロンは、第二次世界大戦で海兵隊員として軍務に服し、1945年には沖縄にいたこともあった。海兵隊員は前線で最も危険にさらされる軍務である。

  『ナットターナーの告白』(1967)は、文壇に大きな衝撃を生み、多大な讃辞の反面で、白人が黒人の心を描くことは出来ない、史実に不正確だなど、激しい批判の嵐にあった。それでも、ピュリツアー賞が授与された。この作品が出版されてから、およそ40年の年月が経過した今日、振り返ってみてもアメリカ文学史上大変重要な作品だという思いは強まるばかりである。アメリカという国の実態が少しずつ分かりかけてきた私にとっても、その理解を大きく深めてくれた一冊である。当時は、ヴェトナム戦争が展開しており、それと重ね合わせて、読者としても重い課題を背負った。

  この頃、私が在学した大学院宿舎で一時期ルームメートであった学生ジムは、アメリカ陸軍で軍役に服した後、除隊しヴェテラン(退役軍人)としての教育上の優遇措置を得て、大学院へ入学してきた。私より年上、30代のやさしい静かな男だった。しかし、彼も自ら語りたがらない過去を背負っていた。夜中に夢遊病者として歩き出してしまうほど、トラウマに苛まれていた。一般のアメリカ人学生とも離れ、ただ黙々と勉強していた。彼がその後どんな人生を送ったか、音信が途絶えてしまった今でも時々頭をかすめることがある。

  大学キャンパスには、ROTC(Reserve Officers' Training Corps:予備役将校訓練部隊)が置かれ、絶えず軍事訓練が行われていた。キャンパス内に軍服姿の学生を見るのはきわめて異様であった。アメリカにとって「正義のない戦争」という前線のイメージは、テレビや増える一方の戦死者などを通して、キャンパスへも次第に浸透してきた。ヴェトナム戦争で敗北したアメリカは大きな転換期を迎えたのだが、その後イラク戦争を始めたことで、さらに癒しがたいほどに自らの傷を深める道を今も進んでいる。

  スタイロンは作品テーマの苦悩と自らの苦悩を重ね合わせていたようなところがあった。作家はグスタフ・フローベルの言葉にならい、自らの生活を律することが、読者を大きく揺り動かす、ヴァイオレントで独創的な作品を創ることができると努力を続けていたらしい。

  60歳の時、それまで愛していた「アルコール」と決別する。その後、大きな欝が襲いかかった。最後の作品となった『見通せる闇』 Darkness Visible(1990) は、まさに「絶望の先にある絶望」についての作家自身の果敢な闘いともいえる作品となった。

  しかし、スタイロンの晩年の作品には絶望的な闇の中に、張り詰めた救いのなさをわずかに和らげるような人物やプロットが登場する。『ソフィーの選択』にナレーターで半ば傍観者として登場するスティンゴがそれである。アウシュビッツの苛酷な刻印を心身ともに刻み込まれたポーランド人女性ソフィーへの性的衝動に駆られているひとりのやや滑稽な青年の存在である。奈落へと進んで行くやりきれないストーリーを辛うじて支えている。しかし、結果としては何の救いともならない。破断の結末が待ち受けている。精神を病んだ1人の若者と彼を愛する心に深い傷を負っている美貌の女性。二人のどこまでが真実で、どこからが虚構や病んだ心のもたらす部分なのか、スティンゴには分からない。しかし、もはや癒しがたいまでに深く精神が傷ついている二人に先はない。女性だけでも救おうとするスティンゴの努力も徒労に終わる。

  スタイロン自身が1985年には自決を考えたという。しかし、それをまっとうするに適切な遺書の言葉が浮かばず、思いとどまった。この作家には自分自身と作品世界を重ね合わせたようなところがあった。世俗的な成功にもかかわらず、スタイロンは長年にわたり、心身ともに苦悩を背負っての作家生活を送ったらしい。厳しい作品を書くためには、自らを襲う苦悩にも、決してひるむことのない生き方をしようと苦しみ続けた稀有な作家であったであったようだ。

  
* "William Styron: As a writer, wilful and unrepentant." The Economist November 11th 2006.

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