ウイリアム・スタイロン William Styron が11月1日亡くなった。享年81歳。深く心に残る作家であった。アメリカという国の複雑さと奥深さ、そのどこかに潜む苦悩と狂気を実感したのも、この作家の作品を通してであった。
1968年のピュリツアー賞の受賞作『ナット・ターナーの告白』 The Confessions of Nat Turner を読んで以来、スタイロンはアメリカ文学の中では最も好きな作家の一人となった。この作品は文壇の常として、たちまち毀誉褒貶の波にさらされた。スタイロンには、やはり白人の目からであり、真の黒人や南部を描いていないとの厳しい批判もあった。しかし、幾多の批判を超えて、この作品はやはり素晴らしかった。
一時期、ニューイングランドからアメリカ南部へ移った繊維工業や反労働組合風土の調査をしていたこともあり、しばらくこの作品の世界に没入したこともあった。アメリカの深奥に潜む闇を教えてくれた作品だった。当時は南部を旅すると、とりわけ人種問題については複雑な思いをしたことも多かった。スタイロンの作品には南部に関連した主題が多いが、彼自身は「南部派」と呼ばれることを好まず、舞台は常に「不信と絶望」の現代世界を描いたと述べていた。
今日までの人生で、スタイロンほど影響を受けた作家はそれほど多くいない。どうしてそれほどまでに強い衝撃を受けたのか、自分でもよくは分からないが、遠因をたどると、子供の頃、母親の書斎にあったハリエット・ストウ夫人の『アンクル・トムズ・ケビン』を読んだ時の衝撃が、スタイロンまでつながっていたような気がする。フォークナーを読んだのは、スタイロンを読んでから後になった。スタイロンの作品は、人種差別やホロコーストなど、きわめて難しい対象へあえて深く切り込んで、傷も露わに問題を提起する。決して読後感はさわやかというわけには行かないが、心の底から揺り動かされる。
スタイロンの作品はこうしてかなり読んだが、なんといっても『ソフィーの選択』 Sophie's Choiceが与えた衝撃は、近時点ということもあって圧倒的であった。あのソフィーとネイサンがある晴れた日に選んだ破断の時、それと9.11がどういうわけか頭の中で重なってしまった。そのあらましは以前にブログに記した。スタイロンの文学史上の評価などは、まもなく始まるだろう。今はただこの偉大な作家を偲びたい。
失業率統計の重み
アメリカの経済界で、失業率の変動は大きな注目を集める。株式市場でも投資家はその動向に絶えず着目している。経済指標として失業率、そして雇用統計への注目度は、日本よりはるかに大きいといえる。
しかし、失業率はどの程度正確に労働市場の需給を反映しているのだろうか。注目度が高い割には、不完全な指標ではないかという疑問が高まっている。
アバウトな指標では
アメリカの労働市場は、実際どのくらいの需給度なのか。大統領選挙の前は、ワシントンで、かなりの話題となったが、ブッシュ再選決定後、注目されなくなってしまった。 2005年6月の失業率は5%に低下し、2001年9月以来の水準となった。アラン・グリーンスパンは、下院での最後の出席となると思われる報告で、労働市場のスラック(「逼迫度」)について言及した。アメリカの単位労働コストが最近上昇に転じたからである。
アメリカの失業率に関する分析は数限りなくあるが、どういうわけか、視野から脱落している部分がある。The Economistがとりあげた最近のK.Bradburyの論文は、その点を指摘している。
ブラッドベリーは、失業率は労働市場のスラックを示すについて、プアーな尺度かもしれないという。彼女の基準では、510万人くらいの失業者が統計上、表に出ていない。かれらは仕事の機会が生まれそうならば、また求職者の列に戻るかもしれない人たちである。もしそうであれば「真の」失業率は8%以上であった。
そうなると、失業者の数も750万人ではなく、1260万人となる。 求職をあきらめる人たち仕事を求める活動にはかなり時間をとられる。多くの求職者はあきらめて途中でやめてしまう。苦労して探すことをしない。こうしたいわゆる「求職意欲喪失労働者」discouraged workersのある者は、パートナーとか配偶者の所得に依存して生活する。学校へ戻る者もいる。政府の給付をあてにして、その条件を探す者もいる。こうした人たちは定義上、労働力ではないので失業者でもなくなる。
そして、統計上は労働力率の下降の要因のひとつとなる。この下降は2001年の不況時からはっきりしてきた。2001年の3月、経済がピークであった時は16歳以上のアメリカ人で仕事についているか、探している者の比率は67.2%だった。しかし、過去18ヶ月近くこの数値は大体66%にはりついていた。生産活動が上昇しても反転しなかった。この違いは小さなものに見えるかもしれないが。100人のアメリカ人について1.2人、270万人以上である。
元気な高齢者
過去の回復時には、「就業意欲喪失者」は仕事の機会の拡大や賃金の上昇とともに市場へ戻った。今回との違いはどこにあるのか。ブラッドベリーはこの点を精査した。景気上昇期には若年者や中年者は、特に仕事を求めるわけでもなかったが、高齢者は驚くほど働きたがった。もし、このパターンならば、55歳以下のさらに510万人が労働力に加わっていよう。若者、中年者の不足は高齢者の増加で相殺された。
となると、ふたつの質問が生まれる。55歳以下の不明な数百万人は労働力化するのか。55歳以上はどうか。
後者の質問に、ブラッドベリーは肯定的である。高齢者の勤勉さは仕事の拡大やベビーブームに関係しない。過去数年の間に、戦後最初のベビーブーマーは55歳になった。55歳以上の層は肉体的にも精神的にも予想以上に若い。次の数年に大きく変化することはありそうにない。
最初の質問への回答はやや難しい。2001年の不況は、戦後の景気として最長記録となることを妨げた。当時は学生は勉強を途中でやめたり、中年者は退職時を延ばしたりした。ピークはもう戻らないだろうと、ブラッドベリーは指摘する。そうなれば、510万人のアメリカ人労働者は戻ってこない。
働く女性の行方
もうひとつのミステリーは女性である。1960年代以降の40年間にアメリカの女性の労働力化は進んだ。不況で労働力率が変動したことはあっても傾向は変わらなかった。さらに上昇が続くだろう。 ブラッドベリーの計算でも、女性は大きな役割を果たしている。実は510万人の不明な人口のうち430万人は女性だ。この大きなギャップは、女性労働力が2001年3月よりも220万人近く増加したことを意味する。 しかし、ブラッドベリーはこの考えはあてはまらないとあっさり譲歩している。
労働市場に参加している女性の60%とともに、彼女たちの労働市場参加への長い旅は終わろうとしている。これからは女性労働者は男子と同様に景気の変動とともに、上下してゆくだろう。このシナリオだと、おそらく不明な410万人の女性のうち、130万くらいだけが、経済回復とともに市場へ戻ることになろう。これは労働者全体として510万人ではなく、230万人の不足ということになる。
もしブラッドベリーの推測が正しいとすると、アメリカの完全雇用は現在見えている水準よりもずっと遠い目標となる。彼女の計算では、アメリカ経済は連邦準備委員会が労働力不足、賃金上昇、インフレ圧力を憂慮するまでには、かなり成長余地を残していることを意味している。 ブラッドベリーの指摘は、別に目新しいものではない。discouraged worker 仮説が提示された後、たびたび論議の俎上にあがってきた。
それよりも、これだけ複雑化した現代の労働市場の需給度を測定し、判断指標として公表するについて、失業率が示す理論と現実のギャップは、次第に大きくなっているように思える。乱気流の多い現代経済を、単純な気圧計を頼りに飛行しているような感じさえする。といって、すぐに補完的な指標が見つかるわけではないことは、十分承知の上ではある。
実は、私が学生として最初にアメリカ・労働経済学のセミナーに出席した時、提示されたテーマがこれであった。当時は、「失業率4.6%は危険水域か」という議論であったのを思い出した。日本の完全失業率は1.1%の時代であった。 なにが変わって、なにが変わらないのだろうか。届けられたばかりの「国勢調査」の調査票の説明を読みながら、よけいなことを考えてしまった。
Reference
Katharine Bradbury, Additional slack in the economy: the poor recovery in labour force participation during this business cycles,” Federal Reserve Bank of Boston
It’s the taking part that counts, The Economist, July 30th, 2005
地球温暖化の影響か、このごろの気象は異常続きである。日本海側では豪雨があったり、並行して6月なのに東京で35度を越えるというのは、尋常ではない。こうした時はなかなか予定の仕事もはかどらない。身体を動かすこともかねて、山積みになった書籍などの整理を始める。といっても、なつかしい表題の本などが出てくると、思わず見入ってしまうので、目指した成果は上がったことがない。表題を目にすると、さまざまな思いにとらわれるので、目を瞑って古書店に部屋中の書籍を引き取ってもらったことも一度や二度ではない。しかし、前回のフランソワーズ・デポルト『中世のパン』のように、忘れていたなつかしいものに出会うこともあるので、かなり決断がいる。
ジョン・バエスのLP
あまり聴くことがなくなり処分を考えたレコード、CDの中に、ジョン・バエスのLP盤レコードがあった。といっても、今の若い人たちで彼女の名を知る人や弾き語りに接した人はきわめて少ないのではないだろうか。かつて、フォークの女王と言われ、一世を風靡した歌手である。(今でも多くのCDが出てはいるが。)ジョン・バエスというと、すぐに、「ドンナ・ドンナ」、「雨を汚したのは誰」、「勝利を我らに」など懐かしい歌の数々が思い浮かぶ。
私がジョン・バエスの歌を聴くようになったのは、1960年代後半であり、ヴェトナム戦争最中の頃であった。当時高まりつつあった反戦運動の中で、彼女のギターと歌は、強い哀愁の感とともに圧倒的な迫力があった。ニューポート・フォーク・フェスティバルでデビュー したのは、多分20歳代初めの頃であったろうか。メキシコ系で長い髪の毛をトレードマークとした彼女が颯爽と現れると、どこも熱狂的な歓迎の嵐であった。60年代のヴァンガード時代は、プロテスト・ソングは少なく、フォークの中でも比較的新しい曲を歌っていた。野性的で力強さがある魅力的な歌手であった。
ヴェトナム戦争の影
アメリカにとってヴェトナム戦争がもはや正義の戦争でないことが分かり始めた60年代後半、キャンパスでも徴兵カードを燃やしたり、カナダへ脱出する学生が話題になっていた。成績が悪いと退学、徴兵が待っているので、学生たちも必死に勉強した。その合間に学生が歌い、聞いていたのは圧倒的にフォークであった。労働歌もよく歌われていた。日本では、ほとんど知られていないが、「ジョー・ヒル」は1930年代の労働運動のヒーローを歌ったもので、映画化もされた。
この当時は、黒人運動もピークを迎えていた。「熱い夏」と呼ばれた1967年だったろうか、ニュージャージー州ニューワークでは大きな黒人暴動があり、戦車が出動して鎮圧した。後日、現地を訪れた時、町の大きな一角がまったくなくなってしまっていた。州兵の戦車が砲撃で破壊してしまったのである。黒人運動の集会では必ず「勝利を我らに」We shall overcomeが力強く歌われていた。内容からすれば、「おれたちはきっと勝つ」とでも訳した方がよいだろう。
遠い夏の日
こうした環境で、バエズは反戦運動の活動家デイヴィッド・ハリスと結婚したり、離婚したり、空爆下の北ヴェトナムを訪れたり、反戦歌手としてさまざまな活動をしていた。ジョン・バエズのレコード、CDともに持っているが、聞いてみて迫力のあるのは、ヴァンガード時代のレコードである。70年代にA&Mに移籍しているが、その後のCDは同じ歌でもなんとなく訴えるものが少なくなっている。声質も変わったようだ。60年代は彼女にとってもピークの時だったのだろう。
この時代を境に、アメリカ社会は大きく変わった。ヴェトナム戦争が与えた影響は実に大きかった。さまざまな光景が思い浮かぶ。志願兵となった友人、ヴェテラン(復員軍人)として大学院に戻ったが、戦場の幻影にいつも悩まされていたルームメート、学業を続ける気力を失い退学をしていった学生・・・・。アメリカ社会は大きく揺れ動いていた。暑い夏の午後、耳を澄ますと、どこからかあのWe shall over come, we shall overcome, we shall overcome someday………の力強い歌声が聞こえるような気がする。
Joan Baezにさらに関心ある人は、次のサイトをご覧ください。
http://baez.woz.org/jbchron.html
http://baez.woz.org/index.html
旧HPから加筆の上、転載(2005年6月29日記)
WE SHALL OVERCOME SOME DAY
(Horton, Hamilton, Carawan, Seeger)
We shall overcome, we shall overcome,
we shall overcome, some day
Oh, deep in my heart I do believe
That we shall overcome someday.
We'll walk hand in hand, we'll walk hand in hand,
We'll walk hand in hand, some day.
Oh, deep in my heart I do believe
That we shall over come some day.
(Additional verses)
We shall overcome, etc.
We shall live in peace......
The truth will make us free...
We shall brothers be...
連載の第一回は、この地を渡辺氏が自ら訪れ、その体験、印象を記したものである。ブルダホフは近代世界の利便性の多くを受け入れることを拒否し、原始キリスト教や聖書本来の教えに忠実な自分たちの協同生活を営んでいる。
1960年代の終わり、ニューヨーク州北西部のイサカで学生生活を過ごしていた私は、少し長めの休日などで時間的な余裕ができると、ニュージャージー州に住むホストファミリーでもあった友人の家で過ごし、休み明けにキャンパスに戻ることが多かった。その道すがら、ペンシルヴァニア州を経由するため、1979年に歴史に残る大事故を起こしたスリーマイルズ・アイランド原子力発電所の傍を通っていたことや、友人に連れられてアーミッシュ・コミュニティであるランカスターを訪れたことなどを思い出した。スリーマイルズ・アイランドの巨大な冷却塔は、今でも目に浮かぶ。
よみがえる記憶
アーミッシュについては、さらに記憶を新たにすることがあった。最近になってアメリカで長らく暮らしていた日本人の友人市橋氏夫妻が帰国し、お土産にと下さったプレート皿である。この手作りの重厚なプレートは、ペンシルヴァニア州グローブ・シティのアーミッシュ・コミュニティが収入活動の一環として開設した工房(ウェンデル・オーガスト、1923年設立)で作成された。図柄は、昔見たことのあるような素朴な馬車と家屋が描かれている。この工房はオハイオ州ベルリンにもあり、ヨーロッパから移住した時代から受け継いだハンマーと鉄床を使って打ち抜いた金属板をひとつひとつ手で加工し、プレートを作成している。裏側には金型の制作者と加工職人のイニシャルとホールマークが入っている。
アーミッシュの由来
アーミッシュはキリスト教再洗礼派(アナバプティスト)に属し、16世紀のマルティン・ルターらによる宗教改革の過程で、ヨーロッパに生まれた。彼らは幼児洗礼を認めず、成人して自らの意志で洗礼を受けることから「再洗礼派」Anabaptistとよばれるようになった。そのため、初期の信者たちは、異教徒として時代の宗教の主流である旧教そして新教の双方から迫害される存在であった。かれらはスイスや南ドイツに逃れ、ひっそりと暮らしていたらしい。
実は、アーミッシュの歴史を振り返ってみると、このサイトでも取り上げている画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの活動舞台であるロレーヌにも一部関連していることが分かり、興味が増し、手元の資料などをひっくり返してみた。
アーミッシュは起源をたどると、16世紀のメノナイトMennoniteといわれるコミュニティにまで遡る。30年戦争(1618~48年、ドイツを舞台にヨーロッパ各国を巻き込んだ宗教戦争)の後、彼らは迫害を逃れ、戦火で荒廃したパラティネイト(ドイツ南部、プファルツ)、アルザス・ロレーヌなどに移り住んだ。しかしそこでも自由は得られず重税を課され、迫害の的となった。
その後、17世紀末にアルザスなどに入植していたスイス・メノナイトの指導者で、教会のあり方や教義などに疑問を抱いたヤコブ・アマンに率いられたアマン派(アーミッシュ)は、メノナイトから分離した。この二つのグループはその後何度か集散を繰り返したらしいが、洗礼、非抵抗、初期聖書重視という点においては同じ思想を共有している。しかし、現実の生活様式、礼拝の仕方、聖書解釈などでは異なっている。
新天地を求めて
アルザスは1712年にフランス領となり、ルイ14世によって追放されたアーミッシュたちは近隣に逃れたが、同じ平和主義のクェーカー教徒であるウィリアム・ペンの誘いに応じ、宗教の自由を求め、現在のアメリカ、ペンシルヴァニア州への移住を決めた。ウィリアム・ペンは開拓の基盤としてアーミッシュの優秀な農業技術に期待したようだ。
アーミッシュもメノナイトもペンシルヴァニアに、ウイリアム・ペンの宗教的寛容さの「聖なる実験」の一部として、ヨーロッパから移住した。ランカスター地域に移住したのは、1720年代頃ではないかと推定されている。
彼らの末裔であるアーミッシュは、北米ではアメリカ22州、カナダ・オンタリオ州にコミュニティを持っている。とりわけ、オハイオ州、ペンシルヴァニア州に多い。北米全体で14万人くらいになるといわれる。最も古い歴史を持つグループはペンシルヴァニア州ランカスター・カウンティに居住している。16000人くらいのコミュニティである。
彼らは家族やコミュニティを重視し、現代文明を拒み、平和主義を貫く人々の集団である。歴史的に国家と教会の分離を唱え、政治的な専制や戦争を拒否し、絶対平和主義を貫いてきた。
平和主義を奉じる人たち
時間が経過したので、記憶が薄れていたが、渡辺氏の「ブルダホフ・コミュニティ」やプレートの絵を眺めているうちに、かつて訪れたランカスターの情景が戻ってきた。当時は、ヴェトナム戦争の最中であり、送られてきた徴兵カードをライターで燃やしたり、カナダへ逃げる学生のことが大きな話題となっていた。平和主義者のアーミッシュが、兵役免除となることも議論になっていた。友人に連れられ、ランカスターまで行ったのも、一部はそのことに関連していた。しかし、最大の関心は、現代文明からできるかぎり自らを隔離して生きる人たちとは、いかなるものかという素朴な点にあった。
素朴な生活
ランカスターで会った男たちは一様に伸ばしたあご髭と襟なしの黒い上衣を着ており、女性は長いワンピースに同じキャップをつけていた。コミュニティの一般の家庭にはラジオもTVもなかったと思う。農業や木工で生活し、自動車は使わず、馬車で移動する質素な生活を送っていた。コミュニティ内の道路もまったく舗装されていなかった。広い畑の中に貧しい木造の家屋が点在していたのを覚えている。
渡辺氏の「ブルダホフ・コミュニティ」を読んで、コミュニティがまったくアメリカ移住時の生活水準や内容で止まっているのではないことが分かった。外界の激しい変化に対応して、コミュニティの維持のために、住宅を初めとして、最低限必要と思われる「ベイシック」な対応はなされており、住民の雇用機会の維持に必要な新しい技術や生産様式の導入が行われていることを知り、なるほどと感じる点が多々あった。
グローバル化の滔々たる流れの中で グローバリゼーションの一ウオッチャーとして、こうしたコミュニティがいかなる役割を果たし、どれだけ生命力があるのか、十分な判断はできない。しかし、すでにかなり長い時間の経過の中で存続してきたという事実は、無視できない重みを感じる。といっても、こうしたコミュニティがさらに拡大するという可能性はむしろ低い。したたかではあるが、決して強靱な存在ではないという印象を持つ。こうした生き方を選択する人は、きわめて少ないだろう。しかし、ともすればグローバル化の激流に押し流されかねない世界で、新しい方向を試みる多様な実験がなされることは十分評価したい。かれらを最後のところでつなぎとめているのは、やはり信仰の力なのだろうか(2005年4月29日記)。
前回取り上げた「クレイドル・ウィル・ロック」の焦点は、同名のミュージカルが当時の非米活動(反アメリカ的活動)にあたるとされ、非米活動委員会の命令で突如上演禁止となる点にあった。「赤狩り」ともいわれるこの悪名高い委員会は、アメリカの多くの知識人・文化人を窮地に追いつめ、多数の犠牲者を出した。
記憶に刻まれた映画
この委員会に関連して、私にとって今に残る一本の映画がある。「陽のあたる場所」(A Place in the Sun)という作品だが、この映画を実際に見た人は今ではきわめて少ないだろう。なにしろ、1951年の作品なのだから。私も実際に見たのは、高校生時代が最初で、その後、銀座の名画座で60年代中頃だったろうか、英語の習得を兼ねて2ー3回は観た記憶がある。
原作はセオドア・ドライサーの『アメリカの悲劇』であり、この原作は高校時代に英語の担任であったT先生に勧められて『シスター・キャリー』に続いて読んだ。大部な小説でひどく骨折った記憶が残っている。辞書からの訳語の書き込みでページの余白がなくなるほどだった。今思うと、なぜこんな難しい作品を読ませたのかと思うのだが、不思議と苦労したものほど後になって思い出すことになっている。同じ時期に読んだ『オー・ヘンリー短編集』などと併せて、英語そしてアメリカ社会を理解する重要な手引きとなった。
社会主義的思想の作家
セオドア・ドライサー(1871-1945)は、インディアナ州の貧困な家庭から身を起こし、新聞記者、フリーライター、編集者などの仕事をしながら、アメリカ社会を鋭く観察した小説を残した。処女作は『シスター・キャリー』(1990)で、その後1925年の『アメリカの悲劇』 によって作家としての地位を不動のものとした。しかし、アメリカ社会のさまざまな運動にも加わり、共産党員であったこともある。
アメリカン・ドリームとその陰影
映画化は二度目であり、1951年の2作目は円熟したジョージ・スティブンス監督によって制作された。題名に『アメリカの悲劇』を採用し なかったのは、反米映画とみなされることを恐れたからといわれる。
筋書きは単純である。企業家として成功し、シカゴに大企業を経営する叔父を頼って中西部の田舎から出てきたまじめな青年ジョージ(モンゴメリー・クリフト)が、工場で働くうちに上流階級の娘アンジェラ(エリザベス・テイラー)と恋に落ちる。ところが、ジョージにはすでに工場で知り合った娘アリス(シェリー・ウインタース)がいて、彼女は妊娠していた。しかし、美しいアンジェラを前にして、ジョージのアリスへの愛はさめてしまっていた。ジョージは叔父のおぼえももめでたく、出世の階段をトントン拍子にかけ上っていた。アンジェラ との将来も開けてきた。 ジョージは、ラジオでふと耳にしたことをきっかけにアリスを殺害することを思いつく。そして、ある日アリスを森の中の湖のボート遊びに誘う。湖上で別れ話を持ちだしかけた時に、思いもかけず、ボートが揺れ、アリスは湖中に転落、溺死する。 裁判で、ジョージは事故死を主張するが、神父の一言に「心の中でアリスを殺していた」ことを思う。そして、電気椅子へと向かうのである。(この映画のことを考えると、どういうわけか、1969年7月18日ケネディ大統領の弟、エドワード・ケネディ上院議員が深夜、チャパキディック島に架かる橋で自動車事故を起こし、助手席に乗っていた秘書メアリー・ジョー・コペニクが死亡した事件を思い出してしまう。同上院議員は懲役2ヶ月(執行猶予付き)の判決を受けた。)
アメリカ資本主義の原風景
最初に映画を見た頃は、今ほどアメリカについての情報が豊かではなく、映画が提供してくれる情報はとても貴重なものであった。アメリカ資本主義の興隆期ともいうべき時代を背景にしたこの映画は、私にとっては大変影響力があった。田舎出の青年ジョージ(実在のモ デルが存在したといわれる)が野暮ったい身なりで叔父の会社を尋ねる光景、発展の途上であったシカゴのビルの林立、叔父の経営する工場の風景、そこに形成されていた上流階級の隔絶されたような社会、そしてその象徴がアンジェラであった。エリザベス・テイラーは 当時19歳、上流階級の令嬢というのは、こういう人かと思わせる美しさであった(その後、8回も離婚したとは信じられない)。対するジョージは、心理的にも屈折した弱々しいところがある青年だが、モンゴメリー・クリフトは実に巧みに演じていた。まだ、大型車が流行 していた頃、ジョージが乗る大衆車とアンジェラの乗る高級車の対比がいかにもアメリカらしかったのを覚えている。そして、アリスを演じたウインタースという女優の巧さは、後になるほどわかってきた。エリザベス・テイラーの引き立て役だったのに、役柄に徹していた。
アメリカを考える手がかりに
原作は社会派ともいうべき内容なのだが、映画は貧困から身を起こした青年が、成功にもう少しというところで、暗転、挫折するというアメリカ的なメロドラマ構成である。しかし、この時代のアメリカの一面が実に生き生きと描かれていた。あのモノクロの写真がなんともいえず、忘れがたい。映画は監督、脚本など6部門でアカデミー賞を受賞、ゴールデン・グローブ賞でも作品賞を受賞した。監督、主演男優、女優ともに絶頂期の作品であったといえる。その後、間もなく、アメリカに行くことになった私にとって、『陽のあたる場所』 はいつの間にか、アメリカ社会を考えるひとつの重要な手がかりとなっていた(2003年8月5日記)。
旧ホームページから一部加筆の上、転載。
このところ、古くなった話題ばかりで恐縮です。HPを閉鎖してブログに移行すると、これだけは残しておきたいと思うトピックスもないわけではありません。というわけで、「復刻版」?が時々登場しています。もう少しお付き合いください*。
今回は、世界大恐慌の時代のアメリカを描いた映画「クレイドル・ウィル・ロック」です。これまで、取り上げた映画と同様に決してメジャーな作品ではありません。
世界大恐慌が背景
1929年10月29日の「暗黒の火曜日」に始まる世界恐慌については、知らない人はいないでしょう。と思ったのですが、時の流れとともに遠い過去の出来事になりつつあります。時代の経過とともに、緊迫感は薄れてゆきます。タイトルも苦労したとみえて、英語のままです。これも日本では、あまり注目を集めなかった一因かもしれません。
「大恐慌」自体について私が最初に知ったのは、中学の世界史か社会科の時間が最初ではなかったかと思います。その後、R.ネイサンの『いまひとたびの春』One More Spring、J.K.ガルブレイスの名著『大恐慌』The Great Crashなどを読む過程で深入りし、その後は興味のおもむくままに当時の状況を描いた著作や写真集など、かなりの数を目にしてきました。
ちなみに、ガルブレイスの『大恐慌』は、数年前に著者の解説付きの新版が出ました。あとがきに、この本は新版もベストセラーとなったが、空港売店には置いてなかったと書いてあります。
1960年代、最初に留学した大学院時代、労使関係学部のファカルティ・ルームでF.D.ルーズヴェルト大統領の政権下、女性で始めて労働長官となり、大学でも教壇に立ったF.パーキンス女史の肖像画に接したこと、指導教授の多くが多かれ少なかれ、ニューディールに賛同し、その活動のさまざまな面に関わった人々であったことなど、1930年代の大恐慌の実態について興味を呼び起こす出来事に出会いました。ニューディールはこの人たちにとっては若い情熱を燃やした大きな出来事だったのです。
長年の友人の両親で、私の滞米中、物心両面で親にも等しい心配りをしてくれたB夫妻も典型的中流階級といってよい暮らし振りでしたが、大恐慌期を経験した人々でした。1930年代の不況の間、毎日の食事にも事欠くような経験をしたという夫妻は、アメリカ人は物を大切にせず、浪費してばかりいると、当時の豊かなアメリカを批判していました。ガルブレイスの「豊かな社会」Affluent Society,1958がベストセラーとして一世を風靡していたことも思い起こします。
『いまひとたびの春』
「大恐慌」の時代を描いた作品は数多いのですが、度々思い出すことがある『いまひとたびの春』は、岩波現代叢書というシリーズにも入っており、何度も読みました。出版事情も最悪の時期の刊行物であったために、活字が薄れ、ページが黄ばんでしまって読みにくくなってしまい、買いなおしたいと思っていました。しかし、残念ながら絶版で古書店でもなかなか見つからないのです。数年前にやっと一冊入手しました。
この本に出てくる恐慌で破綻した銀行頭取が自殺しようとする場面など、バブル崩壊後の日本の状況と重なるような気もします。
豪華・絢爛たる登場人物
「クレイドル・ウィル・ロック」The Cradle Will Rockは、登場人物がとにかくすごい。1930年代のアメリカ史の壮大な絵巻物という感がします。ロックフェラー財閥の御曹司ネルソン・ロックフェラー、『市民ケーン』のモデルともなり、後には孫娘誘拐事件でも 知られる新聞王ウイリアム・ランドルフ・ハースト、ムッソリーニの宣伝活動家で元愛人のマルゲリータ・サルファッティ、映画監督オーソン・ウエルズ、ミュージカル作家・作曲家のマーク・ブリッツスタインなど、豪華絢爛たる人物が登場します。
これら一騎当千の強者たちを見事に指揮するのが、監督ティム・ロビンスです。「ボブ・ロバーツ」、「デッドマン・ウォーキング」などの監督をつとめ、現代アメリカ映画界で最も多才で知性あふれる監督といわれており、今回は自ら脚本も書いています。俳優としても、抜群の演技力を発揮してきた彼は、監督として観客を瞬く間に時代の現場へと引き込んでゆきます。
ホームレス、娼婦、失業者といった社会の底辺に集まる人々から、大不況などどこ吹く風といった大富豪、上流階級の人々にいたるまでのさまざまな人々を登場させ、見事にそれぞれの世界を再現しています。この時代は、大不況期ではあったが、芸術活動という点では.多くの才能が花開く時代でもありました。原題の「クレイドル」(ゆりかご)はそうした、現代の演劇、映画、絵画などが、この時代に育ちつつあった状況を意味していると思われます。
ニューディール
1930年 代の大不況の下、失業者が急増し、労働者のストライキが続発する状況で、当時の政府はF.D.ルーズヴェルト大統領の下、ニューディール政策の一環として、「フェデラル・シアター・プロジェクト」FTPを発令し、失業中の数万人もの演劇人を本業に戻そうとする夢のような計画を企画しました。『クレイドル・ウィル・ロック』を上演する企画は、プロジェクト891と呼ばれました。ストーリーは、この現実的とも理想主義的とも言い切れないプロジェクトをめぐって思いもかけない方向へと展開します。
マッカシー委員会
大不況のありさまを寸描した最初のプロットが過ぎると思っていたら、映画は息をもつかせぬ速度で走り出しました。この頃、弱冠22歳のオーソン・ウエルズは、このプロジェクトで採用されたマーク・ブリッツスタインのミュージカル問題作『クレイドル・ウイル・ロック』の演出を担当していました。しかし、この作品は反米的な内容であるとの理由で、政府は突然、初演の前日に上映禁止にしてしまうのです。その背景には1938年5月に、議会の非米活動調査委員会が発足したことが関わっています。悪名高いマッカシー上院議員の赤狩り旋風の舞台となったものです。
WPA(雇用促進局、後に公共事業促進局となる)の演劇部門の長ハリー・フラナガンは、この非米活動調査委員会に召喚され、懸命に実現のための努力を続けます。
他方、この劇作のために、女優を目指す貧しい少女オリーヴ・スタントン(主演女優エミリー・ワトソン)、アル中の腹話術師、多くの芸術家たちが、自分の力を表現する場と生活のために必死の努力を続けていました。実際、この時代は、失業保険もなく、最低賃金も福祉も保証されない時代でした。組合の集会が警官の暴力で解散させられる場面も出てきます。リハーサルの間に頻発する「ユニオン・ストップ」という俳優組合の休憩時間の要求は、アメリカの労働組合が労働者の味方として、社会運動の前衛であったこの時期を目の前に彷彿とさせてくれます。
生き生きとしていた時代
1930年代は、労働者は労働者らしく、資本家は資本家らしい活力に充ちたアメリカン・ルネッサンスとも言われる時代だったといえましょう。 架空の人物ですが、カーネギーなどを彷彿とさせる鉄鋼産業のキングともいうべきグレイ・マザーズ、その妻でありながら芸術愛好家として、階級を越えてFTPを援助するラグランジェ伯爵夫人、新聞というメディアを駆使して言論界を支配しようとしていたウイリア ム・ランドルフ・ハーストなども、要所に登場する。
とりわけ、ラグランジェ伯爵を演ずるヴァネッサ・レッドグレイヴが好演していました。『ハワーズ・エンド』、『キャメロット』、『ダロウエイ夫人』など、幾多の映画で名女優の令名をほしいままにしてきた彼女はここでも存在感十分の大女優でした。映画で一見したとき、どこかで見た女優と思ったが、すぐに『ダロウエイ夫人』を演じたヴァネッサ・レッドグレイヴと分かりました。その存在感はすばらしい。
そして、主演女優として歌手を夢見る若き劇場の掃除女オリーヴ・スタントンを演じたのは、女優としてのデビューでも、オーディションで初演の映画『奇跡の海』の主演女優に抜擢されたというエミリー・ワトソンでした。この映画さながらの幸運なキャリアを歩んだわけです。『クレードル・ウイル・ロック』では、劇場の掃除女から大抜擢される。幼さと笑窪の残る一見すると頼りなさげな容貌をしているが、才能豊かな女優であることを思わせる名演技を見せていました(『アンジェラの灰』にも出ていました)。
そして、ミュージカル『クレイドル・ウイル・ロック』の作者でもあり、作曲家でもあったマーク・ブリッツスタイン として舞台回しの役を果たしているのが、ハンク・アザリアです。ブリッツスタインは、レナード・バーンスタインの友人でもあったといわれますが、目立ちすぎず、しかし、要所要所でストーリーを引き締める助演俳優としての役割をしっかりと演じていました。
芸術と政治の一騎打ち
『クレイドル・ウィル・ロック』の究極のテーマは、芸術と政治の葛藤を描くことにあったと思われます。ネルソン・ロックフェラーが、メキシコの画家ディエゴ・リヴェラにロックフェラー・センターの壁画を依頼するが、自分の気に入らないテーマであると知ると、壁画を打ち壊してしまいます。ロックフェラーにとっては、芸術家なんて金次第でどうにもなる存在なのです。ミュージカル『クレイドル・ウイル・ロック』も、政治家の目から見ると、自分たちの体制批判のとんでもない作品なのでしょう。かくして、突然に上演禁止とされた『クレイド ル・ウイル・ロック』は、行き場を失いますが。思いもかけない形で大団円が訪れます。
その結末が、予想もしなかった感動的なものとなるこの映画は、それを見る人の背景や思い入れによって評価が異なるでしょう。私には、久しぶりに生命が躍動するような思いがしました。監督ティム・ロビンズの制作に注いだ熱気が伝わってきました。
ただ才気と熱気が先走り、多くのことを詰め込みすぎたという感じは否めません。制作者たちの熱意がそうさせたのでしょう。1930年代という時代を今に生き返らせようという思いが、画面から溢れていました。
時代背景を良く 知らない日本のとりわけ若い世代の観客には、その点が読みきれなかったかもしれません。紹介した私の学生諸君の反応もいまひとつで、私のひとり騒ぎのようでした。この映画は、さまざまな角度から見ることができます。特に、アメリカ経済、労使関係の歴史的側面に関心を持つ者にとっては必見の作品といえるでしょう。アメリカ資本主義の興隆期における資本家や労働者たちがいかなる動機で活動をしていたかが、見事に描き出されています。大きく揺れ動きながらも、今に続くアメリカ社会のダイナミズムの根源がどこにあるのかを、圧倒されるような迫力で提示しています。今日のアメリカにはほとんど感じられなくなったエネルギーです。
大恐慌の最中、多くの人々は悲惨な状況から這い上がろうと、それぞれ努力をしていました。決して、住みやすい時代ではありませんでした。しかし、この映画を見ていると、なにかわれわれが失ってしまったものが、そこには生き生きと息づいているような感じがしました。(2000年12月5日記)
* 旧ホームページから一部加筆の上、再掲載。
在りし日のワールド・トレードセンター遠望
2001年9月11日。その日、ニューヨーク、マンハッタン島の上空はよく晴れていた。それだけに、TVを通してリアルタイムで放映されたあの衝撃的な映像は網膜にしっかりと焼きついてしまった。
惨劇の舞台となったワールド・トレードセンターには、少なからぬ思い出がある。1960年代後半の最初の留学生時代には、ミノル・ヤマサキ氏によるデザインが示された段階だったが、間もなく、マンハッタン島の南端にその巨大な姿を現した。その後、しばらく多国籍企業で仕事をするようになって、提携企業のあるモントリオール、ニューヨークなどへの度重なる出張の時に、トレードセンターや近くにオフィスを持つ企業を訪問するために、この場所は何度となく訪れた。トレードセンターのビル自体は目立ちすぎるようで好みではなかったが、逆に海側 に向かって、近くのバッテリー・パークから眺める自由の女神像の遠望は、アメリカのひとつの象徴的光景であり、深く脳裏に刻まれている。とりわけ、春の日射しが柔らかく射し込み、木漏れ日が柔らかに照らすパークのベンチに座り、なんとなく一時を過ごしている近くのオフィスワーカーや住人たちの光景は、心の和むものであった。
研究者としての生活に入ってからは、テロで破壊されたビルの残骸の置き場となっているスタッテン・アイランド(移民労働研究の研究機関がある)やエリス島移民博物館に行くことが増加し、南端にそびえるセンター・タワーのひときわ目立つ情景をたびたび 目にするようになった。とりわけ、エリス島へ渡るフェリーからのマンハッタンの眺望は忘れがたい。
留学生としてアメリカに来たばかりの頃は、日本から友人・知人が来ると、マンハッタン島を一周する「サークル・ライン」という観光客向けの遊覧船に誘ったことがよくあった。実は、この遊覧船はニューヨークの地理的状況を最初に直感的に理解するには、大変適した手段なのである。出発の桟橋は西47丁目であったろうか。2時間くらいのハドソン川のクルージングで、マンハッタン島の主要部を一回り外周部から眺望することができる。
ニューヨークに来た時は、摩天楼の偉容とともに、ハドソン川にかかる多くの橋が大変美しく 、よく見て回った。ニューヨークは大変橋が美しい市街であるという印象は当初から持っていた。とりわけ、フェリーから見た橋は美しかった。ひときわ目立つワールド・トレードセンターは、大きなアトラクションのひとつであった(画像はエリス島行きボートから望んだありし日のワールド・トレードセンター)。
「ソフィーの選択」
今回の事件でTVに映し出されたバッテリー・パークの映像を見るうちに、私の脳裏にはそれまでほとんど思い出すことがなかったひとつの映画の光景が浮かんできた。1982年に映画化された作家ウイリアム・スタイロンの問題作「ソフィーの選択」 (Sophie's Choice) である。ちなみに、アメリカ社会派ともいうべきスタイロンの「ナット・ターナーの告白」 (THE CONFESSIONS OF NAT TURNER, 1967)は、私の愛読書の一冊である。
ストーリーは、フォローするのが耐え難いほど陰鬱である。主人公のソフィー(映画はメリル・ストリープが熱演、アカデミー主演女優賞)という女性はホロコーストの生存者として、誰にも語ることの出来ない地獄の過去を持っている。今は移民してアメリカにいる ソフィーは、かつてユダヤ人女性として第二次大戦中ポーランドにおけるナチスのユダヤ人収容所にいる間に、生涯癒しがたい精神的傷を負うことになった。自分の子供である男の子と女の子のいずれかをナチス将校の脅迫の下で、アウシュビッツ収容所のガス室に送らね ばならないという選択を迫られたのであった。
映画では、この回想部分はセピア色の単色で映されていた。この深い傷は、アメリカに来ても絶えず彼女を絶望的な苦しみに追いやる。こうした過去を持つ美貌の女性ソフィー、そして、その恋人であるが精神に異常を来して いるユダヤ人ネイサン(ケヴィン・クライン)がブルックリンで同棲している。そして、同じ下宿に住み、ソフィーを愛するスティンゴという南部出身の小説家志望の青年が奇妙な三角関係を作り出す。ソフィーの父は、当初反ナチの闘士ということであったが、その後反 ユダヤ主義者であったことが分かる。ソフィーの言葉自体もどこまで信用できるのだろうか。
ともするうちに、ソフィーは親しくなったスティンゴにすこしずつ心を開き、自らの暗黒面を語りながらも、ある日、狂気の高じたネイサンと衝撃的に自殺してしまう。花々が美しく咲き乱れた朝であった。
今回のテロ事件とは何の関係もない筋書きである。なぜ、突然この映画の場面が浮かんできたのかも分からない。ただ、現代の文明社会を深い部分で蝕みつつある狂気のようなもの、それが積もり重なり、ある曇りなく晴れた朝に、ひとつの破断に至るという点なのかも しれない (2001.10.7記)。
旧大学ホームページから転載