時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

画家と政治家

2008年01月15日 | レンブラントの部屋

 Rembrandt.Andries de Graeff(1611-79)
Canvass, 200x125cm. Bredius 216
Kassel, Gemaldegalerie Alte Meister

 
推理の力
    グリナウエイ監督の新作映画「レンブラントの夜警」は、主要紙のほとんどが映画評に取り上げた。それだけ注目を集める内容であり、単なるミステリー、エンターテイメント次元の作品ではないことが伝わってくる。とはいっても映画は見ていないのだが、画集で「夜警」の細部を改めて見てみると、これまで気づかなかったレンブラントを考え直す新しい材料が多数含まれていることに驚く。今までなにを見ていたのだろう。

  映画の方も記録ではなく興行を目的とする作品である以上、多くの推理で構成されていることはいうまでもない。しかし、脚本作成に際しては、最新のレンブラント研究の成果が十分に考慮されていることが推測できる。同時代の画家と比較すれば、格段に史料も多く、研究も進んでいるレンブラントだが、断片的史料の間隙を埋めるのは推理の力である。レンブラントはこの作品を制作するについて、かなりはっきりとした論理を組み立てていたことは確かである。しかし、さすがに大画家であった。その論理を読み取ることはきわめて難しい。かなり細部にわたって綿密な計算が仕組まれている。


政治との係わり合い
  この時代に限ったことではないが、画家が世に出るためには、有力なパトロンの確保が大きな鍵を握っていた。「夜警」をめぐる人物の複雑な関係が示すように、多くの画家は処世の上でも政治とさまざまな係わり合いを持っていた。アムステルダム市の政治世界の中に、レンブラントも確実に身を置いていた。それがどの程度のものであったかについては、推測の域を出ないが、世に出るまではともかく、ひとたびその名が知られるようになると、これだけの力量を持つ画家を世の中が放っておくわけもなかった。

  駆け出しの画家は、自らパトロンや顧客へのつながりを求めるが、レンブラントのように名を成した大画家になると、自分の肖像を描いて欲しいという有名人は数多かった。その範囲もオランダにとどまらず、ヨーロッパ全域にわたっていた。しかし、肖像を描いてもらう側からすると、画家が自分が期待するように立派に?描いてくれるとの保証はもらえない。

作品を受け取らなかった男
  中には自分で肖像画を依頼しておきながら、作品が気に入らないと返却し、代価を支払わないという者まで現れてくる。レンブラントの場合、よく知られているのが、アンドリュー・デ・フラー
フ Andries de Graeff(1611-1778)というアムステルダムきっての資産家といわれた男である。後に同市の市長にもなったようだ。財力、権力ともに持ち合わせていたことは疑いない。

  1639年、レンブラントが33歳の時、全身の肖像画を依頼される。当時の肖像画はほとんど半身像である。ひとつの理由はコストのためと思われる。全身像は作品が大きくなり高くつくので、財力や権力を誇示する目的でもなければ半身像が普通だったのだろう。

  このフラーフの場合、依頼しておきながらなにが気に入らなかったのか、作品は返却され、報酬の支払いもなかった。推測されているのは、比較的単純な理由で、フラーフの顔の頬がやや赤く描かれ、酒を飲んで酔っ払っているようにみえ、背景に描かれている鉄の扉が同市の知られた酒場の前であることを暗示しているとの推測がなされたためと言われる。

謎の手袋
  現存する作品を見てみると、確かに指摘されるような部分は見受けられるが、酒を飲んでいることを暗示するのか、同時代人でないと判断しにくいほどのものである。ただ、描かれたフラーフの右手の武闘用の手袋がわざわざ脱ぎ捨てられ、足元に放置されているという謎の部分もある。画家がフラーフの男らしさを強調する意味で、あるいはなにかへの挑戦(フラーフが酔っ払っていることを揶揄?など)を暗示するために、こうしたポーズを選んだとしか思われない。

  レンブラントは、このアムステルダムでも数少ない実力者に画家は敢然と立ち向かい、裁判に持ち込み、勝訴し、報酬を支払わせた。この画家はかなりの自信家でもあり、強い信念を持っていた。
  
  ちなみに、この係争事件以降、フラーフ一族からレンブラントへの注文は途絶えたようだ。そして、さらに謎を呼ぶのは、フラーフと「夜警」に描かれた中心人物バニング・コック隊長は義理の兄弟だったということが判明している。「夜警」ではコック隊長は左手の手袋を外している*

 

* 隊長が右手に持っているものが、自分の手袋なのか、地面に落ちていた右手用の手袋を拾い上げたものかは、確認できない。もし、後者だとするとコック隊長がフラーフに代わって画家に挑戦するという含意があるとも考えられる。


Reference
Rembrant's Universe:His Art, His Life, His World by Gary Schwartz. New York: Abrams, Hardcover, Sep 2006.

 

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塗り込められた陰謀?:「レンブラントの夜警」

2008年01月11日 | レンブラントの部屋

The Nightwatch, 1642
Oil on canvas, 363 x 437 cm
Rijksmuseum, Amsterdam
Detail 


  映画「レンブラントの夜警」の監督ピーター・グリナウェイ氏のインタビューが、「日本経済新聞」2007年1月7日夕刊に掲載されていた。短い記事なので一般読者には分かりにくいが、「この絵(「夜警)には陰謀が塗り込められている」と、監督は大胆な仮説に基づく今回の新作を表現する。  

  確かに「夜警」(通称)は、レンブラントとその作品を多少なりとも知っている人にとっては、画家が作品に籠めた真意を推測するについて、理解しがたい謎めいた部分があることを感じさせる。しかし、この作品が圧倒的に素晴らしい傑作であり、オランダの国家的遺産ともいうべき存在であることに異論を唱える人は少ない。  

レンブラントはなにを考えていたか
  監督はこの作品には51の謎が含まれていると言う。それが何であるかは別として、この画家の制作意図を推定することは興味深い。1645年当時、「火縄銃手組合」から依頼され、クロフェニールスドゥーレンの大広間に、「夜警」を含む6枚の絵画が掲げられた状況が、今日ではコンピューター・グラフィックスなどで再現されている*。   

  それによると、レンブラント以外の画家の手になる5枚の作品は、当時流行のグループ肖像画のお定まりの構図が採用されていた。他方、レンブラントの「夜警」の構図は際立って特異であり、図抜けて迫力があった。「夜警」と比較すると、他の5枚はトランプのカードのように平板だとさえ言われてきた。   

  他の作品では依頼者の肖像だけが描かれているのに対して、レンブラント作品では、謎の少女を初めとして、「火縄銃手組合」の構成メンバー以外の人物が描かれている。しかも、組合員と思われる人物でも顔面部分のみ、あるいは人物が同定できない程度の鮮明度でしか描かれていない。これは依頼者との関連においても、不思議な感じを呼び起こす。描かれる人物にこれほどのウエイトの差がつけられるとすれば、当然その扱いの軽重に不満も生まれよう。他のグループ肖像画では、これほどの差異はつけられていない。この点は「トゥルプ博士の解剖学講義」、「織物商組合幹部」など、レンブラントの他の作品についてもいえることである。 「夜警」だけが際立ってドラマティックである。

当初の作品依頼者は
  この作品をレンブラントに依頼するについて、1640年当時、最初に交渉に当たったのは、火縄銃手組合の側はキャプテン、ピールス・ハッセルブルフ  Captain Piers Hasselburghと副官イエーン・エフレモント Lieutenant Jean Egremontであり、間に入ったブローカーは、レンブラントの画商を務めたこともあったヘンドリック・アイレンブルフ Hendrick Uylenburghであった。しかし、アイレンブルフは実際のレンブラントとの交渉はお気に入りの姪サスキアに依頼していたようだ。サスキアは当時の女性としては珍しいといわれる読み書き、算術などの能力に長けており、制作ばかりで家政や工房の経営などが不得手なレンブラントを助けてきた。

  隊長ハッセルブルフと副官エフレモントは、1638年、フランスの王母マリー・ド・メディチのアムステルダム訪問に公式につき添った。彼女はフランス王室と対決の関係にあり、富裕なオランダに支援を求めていた。これは火縄銃手(当時はマスケット銃へ移行)組合にとっても重要で名誉ある仕事だった。彼らは王室から多額の資金を受け、さらに信頼という得がたいものを獲得した。それによって組合のメンバーはアムステルダム市の政治できわめて早い昇進の道をたどることができた。

「フランス派」対「イギリス派」の反目?
  ハッセルブルフとエフレモントは、追放されたフランス・ユグノーの子孫だった。父親と祖父はオランダに避難の場を求めた。しかし、当然ながらフランスへの愛着もあった。他方、誠実に彼らに名誉と安全を保証したオランダへの忠誠心も強かった。こうした経緯もあって、彼らは火縄銃手組合のメンバーの間では「フランス組」として知られていたようだ。  

  実は、当時アムステルダムには、もうひとつの国家的訪問があった。イングランドのチャールスI世の娘、王女メアリー・スチュワートでだった。彼女は婚姻の関係でフローレンス・メディチ家につながっていた。メアリーはアムステルダムのオレンジ公ウイレム2世に輿入れすることになっていた。イングランドで王は議会と対決していた。王は来るべき市民戦争への資金を必要としていた。その目的で、娘をアムステルダムへ送り、資金調達を図ろうとした。英国王の王冠の宝石類の質入れが考えられていた。
 
  この取引には、レンブラントの「夜警」で、最重要人物として描かれているバニング・コック Frans Banning Cocq の一族が関係していた。バニング・コックは1642年当時、アムステルダムのマスケット民兵組織6隊のひとつの隊長だった。香料や薬の貿易で財をなした富裕な商人の息子だった。バニング・コックとその取り巻きはマスケット隊の中では「イギリス派」の代表だった。

  映画は、レンブラントの「夜警」は、マスケット隊組織における「フランス派」と「イギリス派」の血みどろな抗争の顛末を凝縮して描いたものとして、展開するようだ。レンブラントは誠実なハッセルブルフと快活なエフレモントと親しかったらしい。作品の画家への依頼時は、二人が当事者だった。しかし、この二人の運命はその後、驚くべき経緯へとつながる。彼ら二人は「夜警」ではどこに?

レンブラントのその後
  レンブラントの「夜警」の完成後、バニング・コックはアムステルダムの市政において市長を務めるという順調な栄達への道を確保した(なぜ、ハッセルブルフではなく、バニング・コックが隊長になっているのか。)他方、レンブラントの画家生活は反転、窮迫化する一方だった。有能で画家の足りない部分を補い助けた愛妻サスキアもこの年に世を去った。なにがそこで起きたのか。

  さらに、グリナウエイ監督は、レンブラントは17世紀当時、一般家庭に蝋燭が普及し始めた頃であり、自然光に新しい可能性を見出し、絵画において映画的な実験をいち早く行ったと述べている。いわば、現代の映画化を油彩画作品で実現したものだと評価している。確かに、この一枚の作品の中に登場人物をめぐる複雑な関係が光の明暗の中に、濃密に描きこまれている。こうした効果を、すべてカラバッジョの影響とする風潮も一部には感じられるが、イタリア行きを断固として断ったレンブラントは心に期したものがあったに違いない。

  レンブラントのこの作品を見た同時代の人々は、それぞれにストーリーを思い浮かべつつ、画面に見入ったものと思われる。いずれにせよ、今回の映画化が、レンブラントという偉大な画家の人生、制作態度などについて、新しい切り口を導入するきっかけになることは予想される。しかしながら、グリナウエイ監督も自認するように、かなり大胆な仮説に基づいた映画化であり、今後のレンブラント像の修正にどの程度結びつくのか、興味ある点である。



* Gary Schwartz. The Rembrandt Book. New York: Abrams, 2006.p.175.

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この少女は誰?

2008年01月03日 | レンブラントの部屋


The Nightwatch, 1642
Oil on canvas, 363 x 437 cm
Rijksmuseum, Amsterdam

  

レンブラントの大作「夜警」を主題とする映画が、新年に上映されることになり、話題を呼んでいる。レンブラントはラトゥールと同じ17世紀の大画家であり、ごひいきにしてきた最たる画家のひとりだけに、脚本の概略はすでに知ってはいる。数多いレンブラントの作品の中でとりわけ「夜警」」(より正しくは、「市民隊フランス・バニング・コック隊長と副官ヴィレム・ファン・ライテンブルフ」)だけは、オランダ国外に出展されることはないとされてきたので、アムステルダム滞在の折など機会があるとかなり注意して見ていた。オランダの国民的遺産という点は別にしても、あの大きさを前にするだけで、移動展示の可能性がいかに乏しいかも直感する。

自らを貫いた画家
    レンブラントに強く惹かれるのは、栄光の頂点から零落しようとも、人生の最後まで自分を貫いた強い精神力である。それは画家が残した数多くの自画像が直裁に語っている。若く光り輝いた時代には、自信に満ちて得意然とした姿を描き、老いて貧窮のきわみに落ち込んでも飾ることなく、そのままに描いている。いかに大きな精神的打撃が画家を打ちのめそうと、あるがままに自らを描きぬいた。

  「夜警」の映画を特に見たいとは思わないのだが、怖いもの見たさの要素がまったくないわけではない(原作を上回る映画があるとは思えないが)。これまでの「夜警」の印象が多少揺れ動くことは確かだろう。レンブラントの「夜警」を見た時に、初めはその臨場感に衝撃を受けただけだったが、次第にこれはパトロンからの依頼で描いた単なるグループ肖像画ではないと感じるようになった。何か形容しがたい不気味ともいえるメッセージが、画面から見る者に伝わってくる。

謎を秘める作品
  この作品には映画や小説の種になりそうな謎めいた、不明な部分がかなり含まれている。作品に秘められた寓意やストーリーなどは、同時代人であったならば、画家の言動、依頼者との応対などを通して流布していたうわさ話を知っていたかもしれない。しかし、その後4時代の経過によって、歴史の闇に埋もれてしまい、後世の人たちにとっては断片的資料から推測するほかはなくなってしまった。

  不思議な点のいくつかは、この巨大な作品を一見しただけで気がつく。たとえば、画面のほぼ中心部に二人の少女が描かれているが、誰なのだろうか。火縄銃手の隊員たちといかなる関係があるのか。唐突に隊列出発の場面に放り込まれたようにも見える。だが、その一人は明らかに中心人物として光の中にいる。単なる通りすがりの少女ではないのだ(油彩画面ではやや左寄りに見えるが、後に述べるように原画の左側が後年大きく切り取られたので、最初はもっと中心寄りであった)。もう一人の少女はよく見ないと分からないが、その背後で顔の一部だけが見えている。大きく描かれた少女は、画家の最初の妻サスキアがモデルとの説もあるが、そうではないだろう。そして、左下隅に描かれている、サイズの合わない大きなヘルメットを被ってまさに走り出そうとしている少年の正体も分からない。

  とりわけ、画家が作品の中心にこの少女を配した真の理由が、よく分からなかった。少なくとも、依頼者の「火縄銃手組合」の隊員たちだけを集めて描くというグループ肖像画の「常識」とはきわめて異なった、緊迫したドラマ性が画面から強く伝わってくる。この少女は、作品においてきわめて重要な役割を担った人物であることが次第に観る側に分かってくる。彼女はいったい何者なのか。


  
    この作品、「夜警」と通称されているが、実は夜間のパトロールが始まったのは、まだ市民隊がなんとか存続していた、ずっと後年の1800年頃以降のことらしい。これに加えて、「夜警」の名が生まれたのは、画面を覆っていた黄色の鉛分の多いニスの暗さが、経年変化が付け加わって、さらに暗さを増してきたことに由来するようだ。この暗い画面に光を当てられて浮かび上がった中心人物と他の人物が織りなす劇的な効果は、当時のグループ肖像画の域を脱して、レンブラント独自の絶妙な世界を創り出している。

  この作品の依頼者は「火縄銃手組合」(実際にはマスケット銃)といわれる市民の安全を守ることを目的とする民兵のような一種の自衛組織であった。1630年代、火縄銃手組合の組合長は本部が置かれることになった新たな会館クロフェニールスドゥーレン(Kloveniersdoelen) の大広間に、仲間の肖像を絵画として掲げることを企画し、当時6つあった分隊ごとに、レンブラントを含むアムステルダム屈指の画家6人に制作を依頼した。

  当時、およそ200人いた火縄銃組合員の中で120人が肖像を描かれることを望み、費用負担をした。画家に依頼した際の契約書は残っていないが、幸い当時の状況を推測するに十分なかなりの文書が残っていた。後年1659年に記された重要文書では、一人平均100グルデンを支払ったことになっている。作品で自分が描かれる位置などによって、支払い額には違いがあったようだ。別の文書には、レンブラントの「夜警」の作品に合計1600グルデンが支払われたと記されている。100グルデンは当時のレンブラントの引き受けたひとりの半身の肖像画の相場だった。

  描かれる隊員たちは、あらかじめ自分がどの位置に置かれるのか大体知っていたらしい。この作品のX線像には大きな修正の跡はなく、レンブラントはほとんど完全な素描を準備し、依頼者には概略は説明していたと推測されている。制作は1638年から42年末にかけて行われた。

マリー・ド・メディシスが見ていた
  この作品を生み出すことになったと思われる重要な出来事もあった。1638年9月1日、フランス王の元摂政で亡命中であったマリー・ド・メディシスがアムステルダムを訪れ、盛大な歓待を受けた。当時の市民隊は市の城門警備と秩序の維持を任務としてきたが、17世紀にはその役割はほとんど名目化していたともいわれる。それにもかかわらず、このマリーの訪問時の警備はきわめて名誉あるものとされていた。この時、城門内部などの警備は作品に描かれている第2地区隊が当たり、マリーと市民の前で行進をして見せた。作品は、あたかも隊長バニング・コックが副官ファン・ライデンブルフに出動の指揮命令を下した瞬間を描いたようだ。

  これらの出来事を背景に、「夜警」は1642年に作品が完成した。レンブラント36歳の時であった。この画家の生涯を通してみると、この時が人生、画業のいずれにおいても絶頂の時であった。この年、最愛の妻サスキアは世を去り、画家の生活も急速に反転、下降の軌道へ向かった。単なる偶然とは考えにくい部分もある。

  いったい、なにがあったのだろうか。「夜警」についても、客観的な証明資料はないが、絶賛を得たというわけではなかった。ひとつには当時のグループ肖像画のイメージからは、きわめて逸脱していて、直ぐには受け入れがたかったのだろう。推理を生むに格好なさまざまな材料が存在することもあって、映画化するには格好なテーマであることは確かである。    

時代を先んじていた画家
  当時のグループ肖像画と比較して、レンブラントの個性が強く発揮されたがために意図が十分理解されず、描かれた側の満足度が高くなかったとの説もある。レンブラントは一人一人の肖像よりも、全体の構図や劇的効果を大事にしたこともあって、明暗の点で描かれた一部の隊員を同定するのが困難な結果にもつながった。少女のスポットライトを当てられたような鮮明な容貌と比較して、ほとんど判別しがたい人物もいる。しかし、それらの隊員の不満などを直接示すような証拠は残っていない。少なくとも、バニング・コック隊長はある程度満足しており、この作品の模写の制作を別の画家に依頼し、さらにその水彩画を自分の記念帳に貼り付けていた。確かに、隊長は場面の中央で光を浴びて衣装なども、それらしい「品格」?で描かれてはいる(この世の中、「品格」ほどあやしいものもないのだが)。

  それにしても、バニング・コック隊長や隊員などは、完成した作品を見て、中央に描かれた少女について、画家になにか言わなかったのだろうか。多くの隊員は、この少女より格段に存在感を落として描かれているのだ。映画化されるひとつの謎もここにある。画家は時代を飛び越えていた。

  「夜警」が最初に掲示された火縄銃手組合の本部が置かれた、新会館クロフェニールスドゥーレン(Kloveniersdoelen) の大広間は、当時、アムステルダム第一の名高く人気の場所であった。さまざまな機会に、多くの名士たちがここに集まった。この作品に込められた寓意を彼らがいかに話題としたか。大変興味深いところだ。

切り取られた作品
  さらに、作品が完成、展示された後にも、作品自体、さまざまな衝撃を受けてきた。この巨大な油彩画は1715年頃にアムステルダム市庁舎に、そして1885年に現在の国立美術館Rijksmuseumの前身である新設の王立美術館に移転された。この移転に際して、建築家ピエール・カイパースは、「夜警」をオランダの歴史をとどめるに最重要な場所に置くことを想定していた。しかし、原画が大きすぎて収まらないために、周囲を切り取るという、今では考えられないような荒っぽいことが行われている。とりわけ、原画の左側が大きく切り取られたために、2人の大人と一人の子供(?)の像が完全に削除されてしまった。

  さらに、驚愕する事件も起きた。1975年9月14日の日曜日、この作品)が暴漢のナイフによって大きく損傷するという事件である。損傷は大変大きく、特に中央のフランス・バニング・コック隊長の下半身と副官ヴィレム・ファン・ライテンブルフの右側部分の損傷は大きく、カンバスの裏側まで達するほどの深い傷になっていた。原画の寓意とこの犯罪的行為との間には、なにかつながりがあったのだろうか。この点も分かっていない。修復は国家的事業となり、翌日から直ちに大規模な修復事業へとつながった。その作業の過程はヴィデオに収められて、公開されている(この事業については興味ある部分もあり、後日取り上げることがあるかもしれない。)

 現在は傷ついた部分の修復も終わり、いわば仮住まいの状態である。そのため、作品と観客との距離が最初に設定されていた状況より短い形で展示されているが、2009年に完成する新国立美術館では、元通り高い位置へ戻されると予定されている。

    新年早々、長々となにを言いたいのか。一枚の絵に籠められたあまりに多くの真実と虚構。

  

References:
マリエット・ヴェステルマン著(高橋達史訳)『レンブラント』岩波書店、
2005年。pp351

Rembrant's Universe:His Art, His Life, His World by Gary Schwartz. New York: Abrams, Hardcover, Sep 2006.

http://www.wga.hu/html/r/rembran/painting/group/night_wa.html

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バタヴィアへ行った画家の娘

2007年10月14日 | レンブラントの部屋




Lynn Cullen. I am Rembrand's Daughter. Bloomsbury USA 2007, 307pp.
Cover



旅の道連れとして、
何冊かの本を鞄に放り込んで行く。ほとんどは肩のこらないエッセイや小説のたぐいである。今回はしばらく積読のままで気になっていた『私はレンブラントの娘』という小説を入れておいた。表題から明らかなように、レンブラントが出てくる小説である。というより、レンブラントの娘の目から見た17世紀アムステルダムに生きる画家の晩年の日々といったほうがより正確かもしれない。

レンブラントを主題とした小説はいくつかあるが、このブログでも、画家の最晩年に近い1667年末、トスカーナ大公コジモ3世が、ローゼンフラフトのレンブラント宅を訪問したところから始まるサラ・エミリー・ミアーノの小説『ファン・リャン(レイン)』(2006)を紹介したことがあった。あのシント・アントニディクの豪邸を競売処分し、労働者街の小さな家へ移った後のことであった。このリン・カレンの小説も、この時期を描いたものである。 

レンブラントの生涯は文字通り波乱万丈であった。その生き様は下手な小説?より格段に興味深い。ラ・トゥールやレンブラントなどの17世紀の画家に強く惹かれるのはいくつか理由があるが、そのひとつは、作品の素晴らしさは別にして、それぞれの画家の生き方にある。レンブラントは人生後半になって舞台が大きく暗転し、多額な借財を抱えて厳しい零落の道を歩んだが、それがある感動を呼ぶのは、いかなる境遇にあっても最後まで画家としての自分の信念をしっかりと貫いたことだ。

もうひとつ挙げておくべきは、彼らが過ごした人生のかなりの部分が、今日では謎に包まれていることにあり、それ自体が後世の人々にとってさまざまな推測をさせてくれる楽しみがある。レンブラントの場合、1669年の死後、作品の多くは人手に渡り、世界各地に散逸しながらも継承されて今日にいたった。しかし、この天才画家が、いかなる生涯を過ごしたかについては十分知られることなく、350年近い時が流れた。

レンブラントについては、同時代の他の画家と比較すると今日では格段に解明が進でいるといってよい。しかし、それでも多くのことが謎に包まれており、小説家が興味を惹かれるのも理解できる。「事実は小説よりも奇なり」なのだ。レンブラントの作品を見るようになってからいつしか、この天才画家が過ごした人生についても、次第に関心を抱くようになった。

レンブラントの晩年は強い哀感が漂うものがある。子どもたちのほとんどは生後間もなく亡くなってしまい、レンブラントの最晩年近くまで生きていたのは息子のティトゥスと(画家とヘンドリッキエ・ストフッエルスとの間に生まれたと思われる)娘のコーネリアであった。最初の妻サスキアとの間にはティトゥスの他にも3人の子が生まれたが、いずれも乳児の間に死んでしまった。画家はとりわけティトゥスを可愛がり、たびたびモデルとして描いている。文字通り溺愛であったのかもしれない。幼少のころの肖像などは本当に可愛く描かれている。ティトゥスはサスキアの忘れ形見であり、激動した画家の人生を支える柱のような存在だった。

しかし、不思議なことに娘であるコーネリア(1654ー?)についてはまったくとりあげていない。少なくも彼女がモデルと思われる作品は確認されていない。この点は、以前からどうしてだろうと思っていた。一時、トロントの美術館が所蔵する『犬を膝に置いた若い女性』Portrait of Young Woman with a Lapdog, ca.1662 ではないかと勝手に想像したこともあったが、年格好などからもどうもそうでもないらしい。

レンブラントはティトゥス(1641-1668)を可愛がり、晩年は財産名義を息子に変え、債権者の追求を逃れるとともに、生活も支えてもらってもいた。ティトゥスの存在はレンブラントにとって想像以上に大きなものであったようだ。しかし、この息子も1668年2月にマグダレーナ・ファン・ローと結婚して、画家と住居を別とした。そればかりか、そのわずか数ヶ月後の同年9月に急な病で亡くなってしまった。これらの出来事は画家にとっては決定的な打撃となったようだ。翌年ティトゥスと若い妻マグダレーナの間にできた娘ティティアが生まれたが、レンブラントはどんな思いで見ていたのだろうか。人生は苛酷な試練を画家に与えた。レンブラントは生きる目標を失ったかのように、翌年1669年に世を去った。マグダレーナも若い人生をこの年に終えた。

小説ではまもなく14歳になるコーネリアCornelia van Rijn が過ごす多難な日々を描く。愛する母親を数年前に失い、ただ一人わずかに明るさをもたらしてくれていた異母兄弟の兄ティトウスも結婚してしまう。家に残るのは、気むずかしい、自分本位の父親レンブラントだけ。ティトウスと自分へのレンブラントの対応はどういうわけか明らかに違っている。そして、レンブラントはティトウスが結婚して家を出て行ってから、すっかり気落ちしてしまったようだ。

このリン・カレンの手になる小説は、微妙な心理描写が大変優れている。小説家としての推理の過程が大変興味深い。普通は小説家は作品を生み出すについての発想の源や、推理の過程などは職業機密?でもあり、あまり記さないものだが、本書では「あとがき」でわざわざ短いノートとして記している(フェルメールをとりあげたトレーシー・シュヴァリエなども、同様なノートをつけている)。それによると、発想の源となったのは、レンブラントの2枚の作品『ダビデ王の手紙を読むパテシバ』)(1654年)と『ニコラエス・ブライニンフの肖像』(1652年)であるという。『バテシバ』はよく知られており、ルーブルで何度も見たのですぐにイメージが浮かんだが、後者については、ちょっと思い出すのに時間がかかった。

画集を見て、なるほどこれだったかと確認した。今日残るレンブラントの肖像画の中では珍しいほどくったくのない笑顔の美青年として描かれている。レンブラント、娘コーネリア、母親、青年などこれらの人物がいかなる関係にあったか、巧みなプロットの展開だ。



 






Rembrandt. Portrait of Nicolas Bruyningh(1620/30-1680). 1652. 
Oil on canvas. 107.5x91.5
Staatliche Kunstsammlungen
カレンが記しているように小説ではあるが、レンブラントの晩年を史料研究が明らかにしたかぎりで、忠実にフォローしている。この小説のために8年をかけたとのこと。美術史家は通常作品、資料が明らかにした範囲を出ようとしない。それでもしばしば諸説が生まれるのだが。ラ・トゥールがイタリアに行ったとの記録が残っていないかぎり、行かなかったことになっている。しかし、実際には行っているのに記録がないだけなのかもしれない。ここに想像の持つ面白さがある。


レンブラントやラ・トゥールあるいはフェルメールを主題とした小説はそれぞれ数冊づつあるのだが、いずれもこうしたいわば「虚実皮膜の間」を描いたものといってもよい。

小説の展開は読者のために触れないでおくとして、主人公でもあるコーネリアは、画家レンブラントが世を去った翌年1670年、16歳に満たない若年で結婚し、画家である夫コーネリス・スイゾフとともに、世界史に著名な東インド会社の東洋の拠点、オランダ領時代のバタヴィア(現在のインドネシアの首都、ジャカルタ)へ赴く。夫はそこで監獄の看守をしながら画業についていたと思われる。しかし、1678年二人目の息子の出産後、彼女と家族の記録は消えてしまっている。コーネリアの願いは、レンブラントのように自分も絵を描くことにあったようだ。その思いは果たされたのだろうか。

 
Rembrandt. Bathsheba, 1654, oil on canvas, 142x142, Musee du Louvre, Paris.



 

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ヴァザーリ回廊の自画像

2007年05月31日 | レンブラントの部屋

Rembrandt van Rijn?. Self-Portrait, 1665

 

  画家が自画像を描く時はなにを考えているのだろうか。10数年前のことになるが、ある国際会議のアトラクションとして、フローレンス、アルノ川に架かるヴェッキオ橋上の「ヴァザーリ回廊」の見学が組み込まれていた。通常はあらかじめ予約をとりつけておかないと入れない。得がたい機会だった。ヴァザーリ回廊は1565年に作られ、ピッティ宮殿をヴェッキオ宮殿と結ぶ特別の通路だった。

  実際に見てみて驚いたのは回廊が予想外に長かったこと、そして多数の肖像画のコレクションであった。短時間で見るには、へきえきするほどの量だった。後に知ったのだが、ここの肖像画コレクションは世界最大級のものであった。

  コレクションは、枢機卿レオポルド・デ・メディチによって1664年に始められた。現在では1630点に達し、西欧美術のおよそ6世紀をカバーしているといわれる。このコレクションの中から、芸術家が自らを描いた作品に限って厳選された50点が、ちょうど今ロンドンのダルウイッチ・ギャルリー Dulwich Picture Gallery で展示されている(「ウフィッツイからの芸術家の自画像」*)。

  展示された作品には、ヴェラスケス、フィリッピノ・リッピ、ベルニーニ、レニ、カウフマン、ドラクロア、アングル、シャガールまで含まれている。晩年のレンブラント(1655)自画像も含まれている。もっともこの自画像の制作者が、レンブラント本人であるかはいささか議論もあり決着していない。よく知られているように、レンブラントは90点近い多数の自画像を画いており、それ自体がいわば自分史となっている。画家自らが記しているように、「私がどんな人間であったか、あなたは知りたいだろう」というレンブラントの考えがこれでもかとばかりに伝わってくる。少なくも、画家の生涯について考えるきわめて重要な手がかりが与えられている。

  実は、このダルウイッチ画廊の歴史も大変面白い。フランス人、ノエル・デセンファンと若いスイス人の友人フランシス・ブルジョワの二人による画商としてスタートしている。それも、デセンファンの妻マーガレット・モリスの結婚持参金に頼ってのようだ。そして、1790年にポーランド王スタニスラス・オーガスタスからの注文で、「ポーランドの美術振興のために」、ゼロからの出発だが(イギリスのナショナル・ギャルリーのような)王室コレクションを創り出すという大仕事を請け負った。ところが、ポーランドは衰退を続け、1795年には独立国家としては消滅してしまった。王は退位し、画商は仕事半ばの収集品を手に放り出されてしまった。(スタニスラス王家については、ナンシーとの関係で以前に少し記したが)、画商がたどったその後の経緯も大変興味深い。後は画廊のHPをご覧ください。


*
“Artists’ Self-Portrait from the Uffizi”, Dulwich Picture Gallery, London, until July 15th.

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レンブラントの実像は?

2007年05月19日 | レンブラントの部屋

  過日、パリ、リヴォリ通りに面したお気に入りの書店W.H.Smithで、店頭に平積みになっている本の表紙を見た時、あれと思った。手にとってみると、やはりそうだった。レンブラントについての小説である。表題は『ファン・リャン』 Van Rijn(レンブラントは母方の曾祖母の名がなまったものらしい。ファン・リャン家)と、そのままである。

  実はレンブラントを題材とした小説は他にもあり、以前に読んだことがあった*。レンブラントはラ・トゥールと並んで、ごひいきの画家である。気づいてみると、自分の中では甲乙つけがたいほどの存在になっている。オランダに短期滞在した折、暇ができると、かなりのめり込んで作品を見たこともあった。いつの間にか、アムステルダムのレンブラント・ハウス美術館の間取りまで覚えてしまった。

  レンブラントはフェルメール、ラ・トゥールなどと並び、活動した地域は異なるとはいえ、時代の上ではほぼ同時代人である。とりわけレンブラントとラ・トゥールについては、もしかすると直接会わないまでもお互いの作品をどこかで見た可能性はかなり高い。とりわけ、このブログで追いかけているラ・トゥールを当時のヨーロッパ世界に客観的において見ようとすると、イタリアと並んでオランダなど北方世界への視野拡大が必要になってくる。

  1667年12月29日、アムステルダムの若い作家・編集者ピーター・ブラウは、フローレンスのトスカーナ大公、コシモ・デ・メディチをレンブラント・ファン・リャンの家へ案内することを依頼される。これが小説の発端である。この時のレンブラントは最晩年(1969年10月4日死去)に近く、すでに大変著名な画家となっているが、同時にもはや取り返しがたい大きな影を背負っていた。

  そこには画家の最愛の息子であるティトゥスも登場する。知られているように、画家に先立って世を去ってしまった。この偉大な画家の人生は、決して順風満帆であったわけではない。晩年は破産、不幸、世間の悪評、健康不安など多くの問題に悩んでいた。これほど大きな人生の光と影をドラマティックに背負いこんだ画家は多くはない。

  レンブラントを主題としたこの小説は、限りなく史実に近い虚構の世界である。レンブラントの作品はかなり多数残されており、現在真作と思われる作品は600点近い。20世紀初めの段階では1000点近かった。 画家個人の生活にかかわる記録もかなり残っている。さらに多数の自画像は、画家の人生の有為転変、心の内面などを微妙に伝えている。しかし、近年この偉大な画家について形作られてきたイメージを改めて見直そうとする試みがなされているように、従来のレンブラント像が必ずしも実像に近いわけではないようだ。

  概して美術史家は、こうした小説化のような試みには消極的だ。発掘、検討した資料の与える情報のかぎりで画家や作品像を構築しようとする。ラ・トゥールのイタリア行きのように、明らかにイタリア美術界の影響を作品に感じながらも、具体的な記録などが発見されないかぎり行ったことがないことにされる。ちなみに、レンブラントも、共に工房を持っていたリーフェンスも、ローマ行きを誘われたが、行く必要はありませんと答えている。オランダでイタリア絵画の傑作は見られるし、忙しくて時間がないという理由だった。

  現代においてもほんのひと世代前の人間でも、その後まったく別の見方がなされることがあるように、われわれの世界での評価の移り変わりは激しい。遠く過ぎ去った過去の作品や作者の評価となると、化石の断片から恐竜の全体の姿をイメージするようなところもある。存在しない断片を推理や想像の力で埋める作業も大きな意味がある。レンブラント好きな人には、この小説は新たな想像の世界を垣間見せてくれる。


Sarah Emily Miano. Van Rijn. London: Picador, 2006

*Renate Kruger. "Licht auf dunkelm Grund ein Rembrandt-Roman" Leipzig: Prisma-Verlag Zenner und Gurchoft, 1967. (邦訳:レナーテ・クリューガー著、相沢和子・鈴木久仁子訳『光の画家レンブラント』エディションq、1997年)。この小説については、別に記す時があるかもしれない。


  この書店の2階には、かつてパリには珍しいイギリス風のティールームがあった。フランス風カフェとは異なった別の空間を形作っていた。その後売り場拡張のために閉鎖されてしまい、大変残念な気がする。




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