時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

門戸を閉ざす国々:イギリスの政治風景

2011年11月23日 | 移民政策を追って




17世紀ロレーヌ、リュネヴィルの城砦(町は城門のある高い城壁で守られていた)。

 

 世界的な経済停滞の下で、ヨーロッパ、アメリカなどの主要国で移民(受け入れ)問題が深刻化している。日本のマスコミが提供する移民に関する情報量は、自国、他国ともにきわめて少なく、掘り下げも浅い。結果として、「木を見て森を見ず」の議論も多い。

 移民(外国人)問題の研究は、多くのことを明らかにしてきた。ブログではとても記せないが、ひとつの歴史的な経験則として、経済が拡大、活況を呈している時は移民(外国人)労働者はあまり問題にされない。人手不足で移民労働者を受け入れることに抵抗が少ないからだ。しかし、ひとたび停滞局面に入ると、事態は深刻化し、各国とも門戸を閉ざし始める。1980年代のバブル期に日本では「開国」対「鎖国」という妙な議論が行われていたが、経験を積んでいたヨーロッパなど移民労働者の受け入れ側国の政策は、決して単に国の門を開くか、閉ざすかという一方的なものではなかった。さまざまな理由で、門の開き具合(移民の受け入れ)を加減してきたというのが実態に近い。しかし、現実には門の開閉だけではコントロールはできない。壁(国境)の抜け道も多々残されている。

イスラムの力
 近年、難しさを加えたのが移民の宗教、とりわけイスラム教の問題だ。ドイツ連邦共和国のメルケル首相が「多文化主義は失敗した」と明言したように、イスラム信者の移民が多くなると、「数は力なり」の圧力が増して、対応ができなくなってくる。宗教的価値観に根ざした人間の心まで、受け入れ国の価値観に「同化」させることを求めたり、異なった価値観の生活面での共存を期待することは、理念上はともかく、現実の社会的次元では多大な軋轢を生む。数の力は、アメリカにおけるヒスパニック系移民が、その増加とともに政治的発言力を急速に拡大したことに典型的に示されている。
 
 アメリカ/メキシコ国境はブッシュ政権末期以降、物理的な障壁強化を含めて、閉鎖性が急速に強まった。保守的な共和党は移民受け入れに総じて反対色を強めている。今年初め、オバマ大統領が、共和党は不法移民の流入を阻止するには、国境にアリゲーター(北米南部に生息する鰐、ワニ)が多数泳いでいる堀割を作るまで満足しないだろうとジョークをとばしたほどだ。大統領自身、公約としてきた包括的移民法改革にいまだ手をつけられずにいる。

 高齢化の重圧が年々厳しくなる日本だが、政府もマスコミも移民受け入れ問題には深入りしない。いつも表面的な議論だけで、本質的な次元へは踏み込むことを回避しているとしか思えない。1980年代以降、ほとんど同じレヴェルでの議論の繰り返しである**

内務大臣も窮地に
 しかし、国によっては移民政策への対応いかんが、大統領の地位を揺るがしたり、担当大臣の更迭問題など、重大な政治責任のレベルにまで達する。最近イギリスの内務大臣が直面している問題はその一例だ。長い話だが、少しだけ要点を記そう。*
 
 イギリスでは11月3日、ヒースロー空港その他で、危険な状況になりかねないほどに長くなった行列に対応しようと、入国管理官が入国審査基準を緩めて運用していたことが判明した。彼らはテロリストなど「(入国が)望ましくない人物」についても、常に指紋照合を行ったり、その他の「危険人物情報」などの詳細部分を確かめていたわけではなかった。

 移民担当国務大臣(Minister of State for Immigration)として独自の権限を持ちながら、組織上は内務大臣の管掌下にあるブロディ・クラーク と他の二人の管理者は職を解かれ、クラーク氏は間もなく辞任に追い込まれた(その後、クラーク氏はアンフェアな解職だとして、政府を相手取り告訴している)。イギリスにとって「望ましくない人物」が実際に入国管理の規制をくぐり抜けて入国したか否かは分からない。しかし、この問題をめぐる政争は激しくなり、移民政策を管掌する内務大臣(Home Secretary)のテレサ・メイ女史の進退問題までに発展した。メイ女史は、クラーク氏が内務大臣の指示したガイドラインを超えて、入国審査を緩めて運用してきたのが問題という見解だ。クラーク氏は指針の範囲内だと反論している。しかし、議会、世論は騒がしい。デイヴィッド・キャメロン首相は、数少ない(現在5人)女性閣僚を辞任させて新たな論争の火種は作りたくない。

移民減少を目指す
 ちなみに昨年イギリスが受け入れた(出入国を調整後の)ネットの移民はおよそ24万人だった。現政権はこの数を減らすことを明言してきた。マリー大臣はイギリスが導入した「ポイント・システム」だけでは、この目的に十分有効ではないとして、労働、学生ヴィザなどを含めて、総体として入国管理を厳しく運用すると述べている。そして、使用者が自国民の失業者および外国人ですでにイギリス国内に居住している人々の雇用を優先するよう指示してきた。

 内務大臣の発言の裏には、保守党として年間のネットの移民数を20万人台から10万人台へ減らすと公約していた事実がある。イギリスの移民受入数は10年ほど前から急速に上昇してきた。その後、抑制されてはいるが、さほど減少していない。イギリスの人口を2027年時点で、7千万人まで増加させるべきではないとの署名も増加してきた。その結果、EU域外からの入国希望者、家族の再結合を求める人々などへの風当たりは厳しくなった。

 内務大臣は入国管理にあたる係官が、より疑わしい人物に集中して審査するために、両親に伴われて入国する子供を含めて、ヨーロッパ域内の人々には軽い審査を実施することを認めていた。女史によると、EU域外などの国からの入国希望者にはそうした権限を認めていなかった。こうした目標を定めた審査はいうまでもなく、ほとんど内密に行われ、全体に同じ努力をする方法よりは効率が高い。

 現在の暫定推定値では、2010年末でイギリス国内の移民は575千人としている。国外への人口流出は336千人で2008年の427千人より減少している。結果として、ネットの移民は前年の20%減の239千人である。

 政府構想が進めば移民数は少し減少するだろう。しかし、目標値の達成はかなり難しいと見られている。なかでも、イギリスで就学したい若者の数は多く、その中のかなりの部分は目的を達した後でもイギリスから離れない。不法あるいは隠れた移民を排除することはきわめて難しい。

 状況は混迷しているかに見えるが、明瞭なことは開かれた国を標榜してきたイギリスもいまや門戸を閉ざしつつあることだ***。しかし、その道は険しい。自由貿易主義への批判が強まる中で、人の移動には明らかな変化が生まれている。働き手が少なくなり、活力を失ってゆく日本は、どうしてもこの問題に正面から対してゆかねばならないはずだ。



*  「シリーズ イスラム激動の10年 第3回 ドイツ 移民社会“多文化主義”の敗北 」 
NHK BS 2011年11月20日

** 'He says, she says’ The economist November 19th 2011

"Waving them in" The Economist November 12th 2011

***1990年代中頃、管理人がイギリスに滞在した折、(あらかじめ書類を整えていたこともあるが)ヒースローの入国審査は1分くらいで、係官から笑顔で「ウエルカム、エンジョイ UK ステイイング」と言われ、ちょっと驚いた。長い行列に並んでいる間に、10分以上にわたり係官と深刻な顔で質疑を交わしても許可が下りないようで、別室に連れて行かれる人たちをかなり見ていたからだ。その時渡された滞在要件に6ヶ月以上滞在する家族は、1ヶ月以内に居住地の警察に本人自らが届け出るように(登録費用30ポンド?)との記載があった。そこで、警察へ行ってみると、「あなたは来なくてもよかった」といわれあぜんとしたが、しばらく別室で係官とにこやかに世間話?をして出てきたことを思い出した。後になって、この国らしい巧妙な管理だなあと思わされた。このたびのイギリスの論争の経緯を追いながら、思い当たることが多い。


#  このトピックスについて、その後の事態、詳しい説明をお知りになりたい方は、とりあえず下記BBCのサイトをご覧ください。

  

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潮の目変わるか、移民の流れ

2011年08月31日 | 移民政策を追って

 


移民の流れは変わったか

 日本は今、移民(外国人)労働者について、国民的レヴェルで真摯な議論ができる状況にない。福島第一原発、東日本大震災、超円高問題、世界が危惧する膨大な国家債務など、どれをとっても国家の屋台骨を揺るがすような重要問題が山積しているからだ。それでなくとも、日本はこれまで移民問題を国民的議論の対象とすることを極力避けてきた。しかし、ヒト(人)は、この地球を構成する最重要な資源(人的資源)であり、その動向は世界のあり方を定める。人類あっての地球なのだから。その中で、移民労働者はしばしばその行方を見定める先端指標の役割を果たしている。戦後最大の国難の時とはいえ、日本が世界に一定の影響力を持つ国として存在するかぎり、世界の移民の動向がいかなる状況にあるかは、把握しておかねばならない重要課題だ。  

  今年に入っても、アフリカ・中東での民主化抗争、ノルウエーでの惨劇、アフリカからの不法移民のEU圏流入、メキシコからアメリカへの不法移民、密貿易問題など、移民は世界のいたる所で問題の発火点としてジャーナリズムの前線に登場してきた。注目すべき点は、移民問題が政治、経済、文化、宗教などにリンクして、きわめて複雑になってきたことだ。

 一般にヒト、モノ、カネといわれる生産要素の中で、ヒトは自らの意志で独自の行動を起こすので、モノ、カネなどの移動と比較して、はるかに複雑な現象を呈する。その動向も読みがたいところがある。移民あるいは彼らにかかわるグループの政治・経済・文化、そして宗教などについての考えの差異から、しばしば党派的対立、偏執的行動なども生まれる。
 
 ノルウエーでの無差別テロは、そのひとつだった。こうした事件が起きると、受け入れ国は本能的ともいえる対応で、移民受け入れに制限的になり、人々の考えは保守化に傾く。こうした世界のヒトの動き、移民を生み出し、阻止している根源的問題について、多少なりと説得的議論をするとなれば、かなり多くの文献・根拠を視野に入れねばならない。


限界的移民労働者の典型
 最近の
The Economist が挙げている一例を取り上げてみよう。それによると、2000年代半ば、ポーランドからロンドンへ家事労働者(家政婦)として働きに来た女性がいた。当時、ほどほどに活況を呈していたロンドンでは、中産階級の家族は所得増加を目指して、競って働きに出たため、その後を支える家事労働者を必要としたのだ。彼女はそうした家庭を背後で支える家政婦として働きながら、英語学校へ通うだけの収入があった。

 
 ところが、その後の不況で所得は減少し、家政婦の収入だけでは足らず、駅のトイレの清掃をして僅かな金を稼いでいた。しかし、生活はさらに困窮化し、母国ポーランドで教師として働く姉が逆に不足分を仕送りするまでになる。しかし、それでも状況の改善は期待できず、彼女は
2010
年末にあきらめて帰国する。結局、イギリスでは低熟練の家政婦の仕事についただけで、母国にも仕事がないことを知りながらの帰国となる。

 この例は典型的な限界(マージナル)労働者の姿だ。出稼ぎ先国の経済活動の縁辺部門で、調整自由な労働力として本国と出稼ぎ先を行ったり来たりする。これは本人が勝手にとった行動で、送り出し国、受け入れ国の政府や企業などの関係者は責任がないとする単純な見方は、もはや今の世界では通用しない。

渦巻く新たな流れ 
 
他方、視点を変えて、彼女が出国するロンドンの空港では、上海の金融界で一旗揚げようと考える若いイギリス人、カナダのIT
産業で働こうと考える中国人技術者、テロ事件で世界を驚愕させたが、産油ブームで活況を呈するノルウエーへ行こうと考えるポルトガル人労働者など、新しいタイプのヒトの流れが渦巻いている。
移民という大河の流れは、新しく生まれた奔流で絶えず入れ替わっている。その変化は、ミクロ水準に下りるほど激しい。

 たとえば、伝統的な移民送り出し国であったアイルランドは、1989年以降、金融・土木建設産業の興隆で、アメリカなどから帰国する移民、ヨーロッパ諸国からの人材流入で、史上初めて流入が純増を記録するようになった。しかし、2009年以降、金融危機の悪化とともに再びアイルランドからの流出は増加し、昨年も移民フローでは純減が記録された。

 こうした流れを注視すると、現在は移民史におけるひとつの転換期に遭遇しているのではないかと思う点がある。急速な発展を続ける中国、インドなどの新興大国の反面で、アメリカ、ヨーロッパ、日本などの先進国は、おしなべて厳しい苦境に直面している。先月の連邦債務問題の議論が示すように、超大国を誇ったアメリカも没落の道を進んでいる。

日本に加わった大きな重荷
 日本の立場は特別な面がある。深刻な経済停滞に加えて、東日本大震災、福島原発事故で、日本人が就きたがらない底辺部分の労働を支えてきた外国人
(労働者)が大挙帰国してしまった。総体として日本から多数の外国人が退去してしまった。他の先進国のように、移民労働者の帰国促進を図ったり、受け入れ制限的措置の導入に踏み切る以前に、外国人の方が自主的に逃避してしまったのだ。

 総じて、これまでの先進国は、急速に移民労働者受入に制限的になっている。典型的なイギリスを見てみよう。イギリスはEU域外からの労働者受入に上限”migration  cap” を設定した。キャメロン首相になって、不熟練労働者の受け入れはしない、受け入れる労働者には学力、職歴などでポイントを付して判定するポイント・システムを採用、学生ヴィザも以前より発行・運用が厳しくなった。

 最近のイギリスでは、新たに創出された雇用の半数以上が移民労働者によって占められているとの政府筋の発表をめぐり、賛否の議論が湧き上がった。特に経営者側にとっては、新たに生まれた雇用は、高い技能を持った移民労働者を意味することが多いことが、その背景にある。

 EU27カ国中23カ国の間には、パスポートなしの自由移動を認めるシェンゲン協定が存在するが、これについても実施面で制限を求める国が増加している。たとえば、デンマークのように犯罪防止と密輸対策の面から、国境管理を厳しくするという動きが出ている。その背後では、デンマーク国民党のような反移民的右翼政党の発言力強化も働いている。

 リーマンショック後の不況過程で、スペイン、デンマーク、日本などは母国へ帰国する意思を示した移民労働者に本国までの帰国費用を助成したが、効果は少なかった。スペインの場合、20104月までに11,400人の申し出しかなかった。情報の流通速度が飛躍的に高まった今日では、出稼ぎ先で帰国後の雇用状況までかなり把握できるようになり、帰国助成があっても簡単には帰国しないのだ。

 唯一、例外は日本だった。福島原発事故の放射能汚染に関わる情報は、驚くべき早さで在日外国人の間に伝わり、予想を超える外国人が急遽離日した。放射能の恐怖は、帰国助成という政策効果の比ではないという日本にとって予想外であり、そして悲しい効果をもたらした。

 放射能汚染の問題が存在するかぎり、日本の外国人を誘因する魅力は著しく低下し、その抑止効果はかなり長期にわたり継続するだろう。日本以外にも選択肢は多い。少子高齢化に伴い、将来にわたり日本人学生の増加が期待できない国内の多くの大学・大学院は、中国などアジアからの留学生増加に期待してきた。しかし、その期待は一部を除き、足下から崩れている。たとえば、大学院生は中国系がほとんどという大学院も多かっただけに、再構築は大変だろう。

拡大する中国
  
他方、オーストラリアの有名国立大学の責任者を務めるある友人は、一時は中国人留学生を学生不足対策の最重要因のひとつとして積極的に受け入れてきたが、今は学内に中国人学生があふれ、英語も話さないでキャンパス生活を送る学生まで現れ、対応に躍起となっている。短時日の間に、中国人の卒業生も急増し、この大学では北京での同窓会を人民大会堂で開催するほどになり、現実にその光景を目のあたりにした大学関係者は驚愕したようだ。

 世界最大の移民受け入れ国であるアメリカが移民問題で苦悩していることは、ブログでも再三記してきた。さらに書くべきことは余りに多い。オバマ大統領も「落ちた偶像」になりかかっている。かつてのあの生気に満ち、世界を魅了した演説も神通力を失った。難航した財政債務問題もあり、このままではアメリカも「日本病」になってしまうとの批評すらある。

 このように、移民の現状をグローバルな視点で俯瞰すると、2009年から世界全体の移民数は初めて純減したのではないかと推定されている。しかし、移民には移民先国でほぼ定住し、そこに生活の場を確率して動かない部分と、経済変動の緩衝材として流出入を繰り返す部分が併存している。すべてが砂のように流動する存在ではない。

 雇用環境の悪化に加えて、経済不振、テロの続発などで、人々は移動を控えるようになっているようだ。それが一時的なものか、かなり継続するものかは、判定にもう少し時を待たねばならない。しかし、人が移動しない世界は、停滞につながる。新しい考え、異なった考え、そして文化を持った人々が、共に活動することで、世界は活性化する。

 1ドル=360円時代の海外生活を体験した者として、現在は隔世の感に堪えないが、この円高が大きく円安に振れるとは当面考えられない。企業の海外移転、直接投資は不可避的に進行するだろう。流出する日本の雇用機会をなにで代替し、支えて行くか、次の世代にとって考えねばならない国民的課題だ。中央政府、首都機能のかなりの部分を、東北被災地域に移転し、復興活動を助け、雇用機会を創出し、かつ日本の国家的安定化を図るなど、大胆な構想とその具体化が必要に思えるが、日々伝えられる現実はあまりに遅遅としており、革新的試みが少なすぎる。復興構想会議の内容は、いかに具体化されているのだろうか。国民にはほとんど見えていない。

 

 

Reference
“Let them come”,  “Moving out, on and back,” The Economist August 27th 2011

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オスロの鎮魂を祈りながら

2011年07月25日 | 移民政策を追って

 今年2011年は後世の歴史家にとって、いかなる年として記憶されるだろうか。これまで世界に起きた出来事をみるかぎり、「大きな災厄と政治変動の年」になりかねない。考えられないような出来事が次々と起きている。

 中国の列車脱線・衝突事件と並んで発生した、ノルウエー、オスロの爆弾テロ・銃乱射事件のニュースを見ていて、ある記憶が戻ってきた。1994年のことである。フィンランドのヘルシンキでヨーロッパの学会があった。イギリスに在外研究で滞在していたので、ロンドン北部のスタンステッド空港から出かけてみた。その途上、友人の誘いでオスロに立ち寄り、ベルゲンなどへ足を運んだ。爽秋というには、かなり冷気を感じるような天候で、頭上は厚く灰色の雲で覆われていた。オスロもベルゲンも市内は人影少なく、旅の寂寞感が深まる北の町という印象だった。北欧はそれまでにも何度か訪れていたが、この時はかなり陰鬱な思いがした。続いて起きた出来事の予感だったのか。

港で見た船
 
ヘルシンキでの学会は無事に終わり、ロンドンへ
戻る日が迫っていた。ホテルは港に近く、この時、停泊していた大きなフェリーボートが印象に残っていた。数階建てのビルのような巨大なクルーズ・フェリーだっだ。船名は、MS Estonia (エストニア号)。間もなく詳細を知ることになるのだが、1980年にノルウエーの船主がドイツの造船所へ発注し、建造された船舶だった。第一印象は、巨大で見上げると威圧感はあるが、なんとなく不安定な感じを受けた。

  友人がこの船に自分の車を乗せるから、一緒にバルト3国の旅をしないかと誘ってくれた。スエーデン人で、この数年前にシドニーの友人LRの家で会い、シドニー近辺の小旅行をしたことがあった。その後、ある出版物の共著者ともなって、親交を深めていた。

不幸な出来事
 バルト三国は当時はなかなか行く機会がなかったので参加したかったが、すでにロンドンでの予定が入っており、残念な思いでお断りした。イギリスへ戻って数日が経過したころ、TVのニュースを見て仰天した。バルト海上、エストニアのタリンからストックホルムへ向かう海洋上で、深夜、巨大フェリーが転覆、沈没し、多数の死傷者が出たことを報じていた。遭難した人のリストに、友人O・ハマシュトロームの名もあった。平和時の海難事件としては、1912年のタイタニック号遭難に比較される、20世紀最大規模の大惨事(日本語による別の解説)となった。こうした事情でたまたま日本にいなかったので、日本でどの程度報道されたのかよく分からない。後に聞いたかぎりでは、日本ではあまり詳細が知られていないようだが、1994年9月28日の出来事である。852人の尊い人命がバルト海の暗い海で失われた。当日は天候は荒れ模様ではあったが、航海上、支障が生まれるほどの状況ではなかったと伝えられた。そのため、後にはテロリストや国際的な陰謀が介在したのではないかとの推測も生まれた。事故調査委員会の報告書は公表されたが、真相は必ずしも明らかではない。

深い人種的偏見 
 
このたびのオスロでの悲惨な出来事については、すでにさまざまなことが報じられている。それによると、この惨劇を起こした容疑者は、増加しつつある移民、とりわけイスラム系移民への強い嫌悪を抱いていて、それが動機になっているらしい。近年、EUの基軸国で増えつつある極右思想の持ち主と伝えられている。ノルウエー政府の移民への寛容的政策に反発し、この残虐な犯行に及んだという。いずれ、捜査が進むにつれて、真相が浮かび上がってくるだろう。

 確かにノルウエーでは移民労働者は、このところ顕著な増加をみせていた。2008年には66,900人の入国が記録されていた。(出入りがあるので、純増分は43,600 人)。しかし、ノルウエーはこれまで移民受け入れで、さほど大きな話題となった国ではなかった。人口に占める外国生まれの比率は、2008年でおよそ11%で、EU諸国の間では、それほど高いとはいえない。

 「ヨーロッパ社会調査」European Social Survey によると、2008年時点でノルウエーは調査対象17カ国の中で、スイスに次いで、国民が移民(労働者)の経済の影響を「積極的」positive にとらえる比率が高い国である。また、国の文化生活 cultural life への影響については、デンマーク、ポルトガル、スペインなどに並び、ほぼ中位に位置している。フィンランド、スエーデンのように、北欧諸国は総じて移民の影響をプラスに受け入れており、寛容な政策をとってきた。

遠い「ヨーロッパ市民」への道
 ノルウエーへの移民労働者の3分の2は、EU諸国からの流入だ。ポーランド、ドイツ、リトアニア、スエーデンなどからの入国者が多い。その多くは、雇用を求めての労働移動である。ノルウエー企業が欲しがる高い熟練を体得している労働者は、インド、ロシア、中国、アメリカ、フィリピンから出稼ぎに来ている。

 フランス、ドイツ、イギリスなどの事情と比較すれば、ノルウエーでは、イスラームの影響が伝えられるほど大きいとは感じられない。事件の容疑者は、EUの近年の変化により強く影響を受けているのかもしれない。世界は明らかに激動の時を迎えているが、真相の分からないことも数多い。十分な調査と的確な政策の提示を期待したい。

 

Source:
OECD. International Migration Outlook: SOPEMI 2010, Paris, OECD, 2010.

 

 

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遅すぎたオバマ移民制度改革の今後

2011年05月13日 | 移民政策を追って

 

壊れてしまった移民システム 
 
東日本大震災の後、さまざまなことが去来して、ひとつのことに集中できる時間が減ってしまった。意欲はあっても身体がついてこない。 

 ブログからも離れる時が来ていると感じていたが、最初から柱の一本としてきた移民(外国人)問題のフォローだけは定点観測の意味で、簡単でもメモ代わりに記しておきたいと思っていた。皮肉な結果とでもいいようがないが、今回の大震災で日本は移民も来ない国になってしまった。

 

エルパソ演説
 
CBSなどのアメリカのメディアが伝えるところによると、510日オバマ大統領は、ニューメキシコ州エルパソで移民法改革について大統領就任以来、ほとんど初めてその構想を語り、実現には超党派の協力が必要なことを述べた。このブログでも再三記してきたが、あまりにも遅すぎたとの感をぬぐいきれない。福島原発の例を持ち出すまでもなく、大規模な社会システムが壊れた場合、最悪の事態を予想して迅速に対応しないと、波及的に破損が進み、手がつけられなくなる。大統領自ら認める通り、有効な改革に後れをとったアメリカの移民システムは、決定的に壊れてしまっている。

 
President Obama Fixing Immigration Reform New Policy El Paso Texas

 

 

 ブッシュ大統領が、政権末期でなんとか人気挽回をねらって試みた「包括的移民法改革」 は、結局実現できず失敗に終わった。この段階で、オバマ大統領が移民改革を持ち出したのは、来年の大統領選に向けて、移民制度改革をひとつの争点とし、大票田のヒスパニック系などの支持をなんとかつなぎとめたいという考えがあるようだ。

  大統領選の過程では、移民制度改革を大きな政治課題として早急な取り組みを約していたオバマ大統領だが、当選後はほとんどさしたる対応がなされることなく放置されてきた。当然、事態は改善されず放置されている。

腐敗・犯罪増加が目立つメキシコ
 
他方、最大の問題の焦点であるメキシコとの関係についてみると、メキシコ国内の麻薬、銃火器などをめぐる犯罪・腐敗は急速に悪化し、無法状態といわれるまでになった。たとえば、今回大統領演説が行われたエルパソと国境を介在して位置するメキシコ側の都市シウダ・パレスは、腐敗と暴力が蔓延して手がつけられないとまでいわれる。

  エルパソでの演説内容は、ブッシュ政権当時から議論されてきた「包括的移民政策」の内容とほとんど変わることがなかった。演説の柱は、国境管理を厳しく行い、すでに国内にいる不法滞在者は、犯罪歴、英語能力その他を条件に、厳しい査定を経て順次アメリカ市民へ組み入れる、そして優れた能力を持つ移民は積極的に受け入れるという内容だ。演説収録を見てみたが、これまでの流れの繰り返しで新味はなかった。

具体性を欠くオバマ演説
 
コメントした公共ラジオ局フロンテラスのH.ローゼンベルグ氏によると、国境管理の実態、移民法政策としても具体性を欠き、不満足なものだという。国境管理については、適切にコントロールされているのは、およそ3000キロメートルのうち、わずかに120キロ程度にすぎないとまでいわれる。ナポリターノ国土安全保障長官は、移民受け入れは家族受け入れを含めて秩序を維持しており、国境管理も改善していると豪語しているのだが。

 また、ミッシェル・マリスコ氏によると、2005年、1996年不法滞在者の強制送還は増加しているが、国境での逮捕者数は減少している。入国に必要な書類を持たない不法入国者も減少しているようだ。しかし、それが事実としても、こうした変化を生んでいる背後の原因として、不況がもたらしたものか、移民管理システムが機能しているためか、はっきりしないという。国内における不法滞在者数についても、一時1200万人といわれていた数字が1100万人(2010)に減少しているが、ひとつの研究所の推定に過ぎないという。政府側には信頼しうるデータベースはない。ある推定では2000万人ともいわれる。

  中間選挙で上下院ともに大幅に議席を失っている民主党としては、大きな支持基盤となっているヒスパニック系(5050万人、人口の16%)が求める移民制度改革は避けて通れない重要課題だ。

的はヒスパニック票田の確保
 
移民制度改革には共和党の協力をとりつけなければ、実現は期待できない。しかし、民主党を含め、移民の増加について慎重論が強まっており、オバマ大統領が目指す移民改革はきわめて困難と見られる。

 本年5月にホワイトハウスは今後の移民政策に関するひとつの報告書をまとめたが、内容に新味はない。柱となっているのは次の4点である:

1.国境を守る連邦政府の責任

2.法を破り、アメリカ人労働者の雇用基盤を脅かし、入国審査に必要な書類を保持しない労働者を搾取するビジネスを取り締まる

3.アメリカが目指す価値と多様化したニーズにこたえうる、合法的移民を受け入れるシステムを創り、國際競争力を強化する

4.不法にアメリカ国内に居住する人々が合法資格を与えられるまでに果たすべき義務と責任
 
 この報告書のより詳細な評価については、別の機会に待ちたいが、最も対応が困難と考えられるのは、このブログでかなり細部まで立ち入っているように、すでにアメリカに居住する不法滞在者に対する具体的次元での政策対応である。膨大な数の不法在留者をいかなる基準で選別すべきか。その道は遠いが、ブッシュ大統領の再選を占う最重要課題のひとつだ。

  

Building a 21st Century Immigration System, May 2011.

 

 

 

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断裂深まるアメリカ(7) 

2011年03月02日 | 移民政策を追って

西部国境異常あり 
 動乱や戦争は、平和時には隠れて見えなかった社会の暗部を白昼の下にさらけ出す。内戦に近い
すさまじい事態が展開しているリビアでは、150万人近い外国人労働者が、社会の底辺部門で働いているという事実が明らかにされた。アフリカや中東諸国あるいはフィリピン、中国など、アジア諸国から働きにきていながら、帰国の手段もない人々が問題になっている。

 BBCによると、リビアからチュニジア側へ避難する外国人労働者・難民が大きな危機に瀕してる。リビアの西部国境では、7万人近い避難民が国境近くで入国許可を待っているという。チュニジアは受け入れ能力がなくなり、入国管理も放棄しているようだ。国際移住機関IOMによると、リビアから逃れてきたエジプト人、バングラデッシュ人、ヴェトナム人などの出稼ぎ労働者が、戦火から難を逃れて国境近辺に集まっている。彼らの多くは母国へ帰るすべもなく、夜は道路に寝ているという。

 海外出稼ぎ労働者が多いフィリピンは、政府がリビア、バーレーンなどで働きたいという労働者の就労申請を凍結するとともに、これらの国で働く自国労働者を帰国させることにした。しかし、救援は実態に追いつけない。1990年の湾岸戦争の時に、外国人労働者や自国民の帰国支援のために、各国が多くの救援機を送ったことを思い出す方がおられるかもしれない。

高まる反移民の動きと国家の対応 
 こうした中、アメリカ、EU、そして日本でも外国人(移民)労働者受け入れへの反対が強まっている。アメリカではヒスパニック系移民、EU主要国では、フランス、オラン
ダ、ドイツなどで、主としてイスラーム系移民への反対が高まっている。日本では管内閣は「第三の開国」を標榜しながらも、労働力の本格的受け入れは避けて通っている。中国人観光客の購買力や富裕層のメディカル・ツーリズムなどには大きな期待をしながらも、労働者は受け入れないというのは、かなり矛盾した話だ。人はいらない、金だけ落としてくれというようなものだ。

 世界の移民の長期的な流れを観察すると、好不況の波を反映して、移民の数は波動を示しながらも、長期的な傾向としては着実に増加してきた。グローバル化が進行すれば、不可避的に移民労働者も増加する。たとえば観光査証で入国し、期限が失効後も帰国せず、居住してしまう「不法残留者」と呼ばれる人たちが増加することは避けがたい。

 多くの先進受け入れ国が、こうした不法残留者の増加を経験している。不法残留者はどこの国にもいるが、ある限度を越えると、国家の秩序維持上もさまざまな問題の種となる。強制送還という強硬策に訴える場合もある。他方、アムネスティ(恩赦)と呼ばれる対策で、一挙に国民に組み入れてしまう手段もあるが、次のアムネスティ発動を期待してかえって不法入国が増加することが懸念され、安易に発動はできない。日本がとっているようなケース・バイ・ケースの対応も、公平性の維持などの点で、透明さに欠ける、裁定をめぐる裁判なども増加し、社会的コストも大きい。

 アメリカの状況が示すように、「不法(不規則)残留者」から合法的立場へ移行を認める場合には、従来以上に公平な基準と社会的開示が求められるようになった。

保守化した世論
 最近目にしたアメリカでのある世論調査では、移民に対する国民の保守化傾向が目立つ。政府に求める施策で最も高いのは「国境管理の安全性の強化ならびに移民法の強力な施行」であり、回答者の35%近くになる。続いては、すでにアメリカ国内に居住している不法残留者に対して「合法的な地位を与える道を開く」ことで、回答の20%近くを占める。上記施策の二つとも「必要度は同じ」とする回答は、およそ42%である。注目すべき点は国境の障壁を強化する政策について、保守党支持者(賛成55%)、民主党支持者(賛成22%)と大きく対立していることだ。

 総体として、かつてのような「開かれたアメリカ」というイメージからは大きく後退、保守化している。その背景として、国内雇用の低迷、麻薬・銃砲などの密輸犯罪の増加、人種的対立などが深刻化していることを指摘できる。

 「不法滞在者」について一般的に指摘できることは、滞在時間(年数)が長期化するとともに、いかなる状況で入国したかという問題は、重要さが減少する。たとえば、1970年代のヨーロッパ諸国で採用された「ゲストワーカー」といわれる期間を限定した労働者受け入れ制度は、一定期間の労働の後に帰国を義務づけられた。しかし、石油危機後の混乱の過程を通して、帰国しない者が増加し、なし崩し的に定住者が増加した。

判定基準の具体化へ
 その後不法入国阻止のための障壁は高まり、管理体制は強化された。しかし、
国内で不法残留者として摘発された場合、定住者として認めるか否かの裁定で、入国時の事情は重要度を減じた。これまでのブログ記事でいくつかの事例を見たが、入国審査を受けないで(あるいは査証など必要書類不保持で)入国したことが後に発覚したからといって、直ちに送還ということでは必ずしもなくなってきた。言い換えると、不法残留者であっても現在働いている国で、どれだけ社会の構成メンバーとしてのコミットメントを深めているかという点に裁定の重点が移っている。

 アメリカの事例で見てきたように、入国時は必要な書類不保持で国境を越えているなどの事情があっても、15-20年間、現在いる国で犯罪などにかかわることなく働いてきたという事実があれば、定住を認めるようになっている。その結果、最近は10年ならばほとんど認められるが、1-2年ではまったく認められないというような事例の蓄積を通して、許容できる条件を求めて収斂が進んできた。

 こうした推論の政策的含意は、大規模なアムネスティ(恩赦)やケース・バイ・ケースの裁定は望ましくないが、5-7年くらいの期間、犯罪歴もなく、妥当と見られる雇用記録があれば、不法滞在者の状態から市民権付与など、合法的な定住を認める段階への移行を認めてもよいのではないかという考えだ。

 不法残留者の場合、その国で経過した時間自体が重要なのではなく、そこでの社会的関わり合い(コミットメント)の程度、結婚、雇用など人間的・社会的生活の形成の実態が重視されるようになってきた。しかし、多数の人たちが対象だから、複雑なアプローチは行政的な点からも効率的ではない。条件が複雑であるほど、裁定に時間を要し、恣意性も介入してくる。アメリカのように1100万人に近い不法残留者に、いかなる具体性を備えた基準をもって対応するかという問題が次の課題として浮上してくる。(続く)。

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断裂深まるアメリカ(6):国民への道を定めるものは 

2011年01月25日 | 移民政策を追って

 

今年いただいだ寒中見舞いの中に、ブログのタイトルの意味が多少分かってきましたという添え書きのついた一枚があった。有り難うございます。とはいうものの、本人も分かっていないところもある()。いったい、なんでこんなことをくどくどと記しているのかと思われる読者の方も、多くおられるはずだ。他方、対面しての交流ができない以上、もっと書かないと真意は伝わらないとも感じている。しかし、気力、体力ともに続かない。もともと、老化防止のメモ代わりでもあるので、ご勘弁を。


国家形成にかかわる移民問題
 この移民問題のディテールも、そのひとつだ。広大な問題領域であり、しかもかなり深く入り込まないと正解は見えてこない。ひとつには、国家の存否、形成にかかわる難しさにつながっているからだと思う。

 日本にしても、人口減少がさらに進んでも、政治経済的コントロールが適切に行われれば、中規模国として存立していくことは可能だろう。しかし、さらに高齢化が進み、人口の3人に1人が高齢者ということになったら、今でさえ大変な状況なのに、いかなることになるか。移民受け入れは不可避な選択肢となるだろう。しかし、その現実と具体化は生やさしいものではない。政治家はそれを予知してか、国民的議論の場に乗せることはしない。

ロボット輸入ではないヒトの受け入れ
 人口減少以上に高齢化は対処が難しい。「移民」といってもさまざまな形があるのだが、ロボットを輸入するわけではない以上、国民の間で長い試行錯誤の段階が不可欠になる。移民に長い歴史を持った欧米諸国でさえ、厳しい経験を繰り返してきた。時には、フランスの「郊外」暴動、アメリカの9.11との関連など、移民は国家の屋台骨を揺るがすような問題にもなった。

 国境の「完全開放」も「鉄の扉」も選択できないとすれば、その間の政策的選択肢は無数に存在する。どこで、いかなる推論の上で、ある折り合いをつけるかという問題となる。アメリカの移民政策をめぐる議論には、長い時間をかけた国民的な試行錯誤のやりとりが含まれている。

 このブログでも時々記しているように、現時点で最大の問題は、アメリカについてみれば、移民で国家形成をしてきた国として、今後どれだけ移民を受け入れることが可能か、そして、すでに不法滞在している
1100万人近い社会の表に浮上できない人々への対応だ。全員の救済(アムネスティ)が不可能となれば、国民が合意できる基準での選択的合法化が残された道となる。

 オバマ大統領の今年の一般教書においても、短い表現ではあったが、高い創造性などの能力を秘めた外国人の留学生を受け入れ、卒業後も国内に留まってもらうことについての言及があった。超党派での移民法改革の必要にも触れていたが、後手を踏んだ大統領としては、それ以外にない。しかし、東京都の人口にも匹敵するような不法滞在者すべてにアムネスティ(恩赦)を与えることは、民主党が下り坂の政治環境では考えられなくなった。

 これまでは、犯罪歴などがなく、ある程度の雇用記録などがあり、10年近く実質上、アメリカ国内に居住していれば、かなり厳しく、時に恣意的な選別の上に、合法的居住者としての道が開かれてきた。

どれだけ受け入れ国に根を下ろしたか
 重要なことは、合法市民化を認めるか否かの基準として、単に(滞留)年数という時間の経過が重要なのではなく、本人あるいはその家族がいかなる社会生活をしてきたかという点の重みの評価だ。言い換えると、本人の活動、地域の受け取り方の面からみて、社会的メンバーとしていかなる位置づけがなされてきたかということにある。

 社会的メンバーシップとは、本人は不法滞留者であったとしても、その後の合法生活者(アメリカ市民)との結婚、入国後今日までの雇用(仕事)の内容、地域社会での活動などを通して、どれだけ米国社会の構成員になっているかとの評価になる。しかし、その状況は個人差が大きく、実務上の判定も恣意的になりがちで、判定に時間もかかり効率的ではない。近年、市民権取得が困難になっている理由のひとつではある。

現実の複雑さをいかに処理するか
 筆者の知人(日本人)が、アメリカ人と結婚したが、アメリカ入国後、ことあるごとに偽装結婚ではないかと入国管理官から監視されているようだとこぼしていた。この問題をテーマとした数々の映画、たとえば『グリーンカード』もあるほどだ。

 市民権付与の判定について、入国管理官などの現場に裁量権を与えると、対応が複雑化し、差別的になりかねない。時間もかかり効率も低下する。しかし、1100万人にアムネスティは出せないとなると、なんとか、多くの国民が合意、納得できる選択基準を設定したいというのが、移民問題をめぐる議論のひとつだ。移民受け入れの経験が少ない日本では、国民の間に、こうした問題について地に着いた議論をする土壌はほとんど形成されていない。したがって、狭い個人的経験などを背景にした粗雑な議論が横行する。

 滞留年数は移民(不法滞留者)の社会的同化の程度を示す尺度として、どの程度つかえるだろうか。アメリカのような移民で立国、国家形成をしてきた国では国民の間での
時に激しいやりとりを通して、今日のごとき枠組みが形作ってきた。その仕組みをいかに組み立て直すのか、もう少し考えてみたい。(続く)

 

 

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断裂深まるアメリカ(5)

2011年01月11日 | 移民政策を追って

  
 
最近、このブログで、アメリカに移民政策に起因する人種的、そしてそれに基づく政治的分裂の可能性が高まっていることを指摘してきた。このたびのアリゾナ州における民主党ギフォーズ下院議員などに対する銃乱射事件は、この予想が不幸にも的中したことを示している。

  事件の真相は未だ不明だが、南のメキシコ側から進入してくる不法移民の増加が、それまでの住民との間にさまざまな軋轢を生み、保守派の強い反発を招き、不満が高じた結果、こうした不幸な事態へとつながる風土を生み出した可能性が高い。オバマ大統領の医療制度改革への反発もその一環だ。移民政策への着手が遅れたオバマ大統領にとっては、厳しい試練が加わったといえるだろう。すでにオバマ再選不可能説すら議論されている。しばらく目が離せない。

 
外国人(移民)労働者問題は、多くの国民が自分の体験や見聞などから、ある考えを抱き、発言できるようにみえるが、それをもって国民として妥当な公平性のある見方とは直ちになしえない難しさがある。人生経験や立場によって、極端に異なる考えが生まれる。このところ取り上げている不法滞在者について、いかなる立場をとるかという問題も、そのひとつだ。現在の段階では、日本は比較的不法就労者は少ないが、本質的にはどの国にも適合する問題だ。

 いずれにせよ、世界が事態にいかなる対応をしているかを、辛抱強く、しかも広い視野を確保して見なければならないことは明らかなようだ。時間を要するが、さまざまな移民現象の根底に流れる本質的問題を熟考する必要がある。各国の対応と経験の蓄積を客観的に観察すべきだろう。その範囲はミクロとマクロの双方にわたる。
前回に引き続き、欧米諸国の事例をもう少し見てみよう。


事例3
 
ヒュー・ルイ・ング Hiu Lui Ngはヴェトナム生まれで、17歳の時に両親に伴ってアメリカへ来た。その時は観光査証での入国であった。査証の滞在期限が失効した後、難民としての庇護申請を行った。申請の審査が行われている間、彼には労働許可 work permit が付与されていた。しかし、結果として難民申請は却下されてしまう。

 
その後、いわば不法滞在の形であったが、彼は勉学を続け、コミュニティ・カレッジでコンピュータ・エンジニアリングを学び、エンパイア・ステート・ビルで働いていた。そしてアメリカ市民の伴侶に出会い、結婚し、二人の子供を得た。2007年、彼の存在はアメリカ移民局の役人が注目するところとなる。ングは適切でないアドヴァイスを受けてグリーンカード(永住許可証)の申請を行うが、移民・入国管理局 Immigration and Custom Enforcement は彼に国外退去を求めた。しかし、ングはその前に失望と肝臓がんのために死んでしまった。

 
この経緯はニューヨーク・タイムズ紙の注目するところとなった。移民局の決定に反対する運動が始まった。ングは法的な問題を除けば、あらゆる意味でアメリカ人になっていた。なぜ、彼は強制退去の対象とされたのか。

 
事例2で取り上げたグリモンの場合とどこが異なるのか。ングはグリモンのように子供の時にアメリカに来たわけではない。そのために、子供の時代に受け入れ国での社会的経験は少ない。他方、青年になって入国したxングは、アメリカ市民である女性と結婚していた。

 とりわけ移民の場合、結婚はその国の人との深いつながりを強化するばかりか、配偶者の背景につながる人々との関係の輪に入ることになる。ヨーロッパの多くでは、家庭生活の基盤は基本的人権として守られている。家族の靱帯をまもる家族の再結合の道は、最重要な原理であり、配偶者と子供たちを結びつけるものとして守られてきた。そのため現在居住する国に合法的な地位を持つ親は、海外にいる配偶者や子供を呼び寄せることができる。実際ングはこの点を基礎にアメリカへの定住許可を求めていた。彼はアメリカ人女性と結婚しており、彼女はこの国を人生の基盤とし、彼もまたその範囲に定着していた。配偶者がアメリカ市民あるいは永住権を保持する場合、その人と結婚している者を海外へ強制退去させる対象とすべきではないという考えは、どこの国でもかなり有力で根強い。

 
ングはこの点に加えて、すでにきわめて長い期間にわたって、アメリカに居住していた。グリモンのように70年近くも相手国に滞在していたわけではないが、15年間も問題を起こすことなく、学び、働き、社会的関係を築いてきた。人間の生涯で15年は中途半端な長さではない。

 
こうして不法に滞在しているからとして、彼らの出身国へ送還しようとする当該国の権利は、滞在している時間が長くなるに従い、後退して行く。彼らが滞在していることはその国の法に反しているかもしれないが、窃盗、殺人などの犯罪者ではない。確かに、不法滞在者の中には、犯罪を犯す者もいるが、不法であれ合法であれ、外国人・移民を受け入れているということは、人間のすべてを受け入れていることに等しい。言い換えると、移民を受け入れることは、労働力の部分だけを切り離して受け入れるわけではない。

 
こうしてみると、入国の経緯はいかなるものであれ、時間の経過とともに、これらの外国人の社会的メンバーとしての重さは変化を生む。時間は二つの方向へ切り込む。本国送還は望ましくないと考えられる期間はどのくらいだろうか。これまで見てきた僅かな事例からも、犯罪歴などがなければいかに保守的な立場でも、市民権付与の道へ導く期間として、5-7年、最大限でも10年あればほぼ条件を満たしていると考えられるのではないだろうか。

 
他方で、市民権付与の道を開くにはいかにも短すぎるという年数もあるだろう。1-2年では認められないというのが、多くの国の基本的考えだ。

 この問題については、さらに考えたい問題もある。すでに制限字数を大きく越えでしまった。次回以降にまわすが、こうしたルールを社会的な対話を通して確立して行き、市民権付与への安定した道を準備することは欠かせない。欧米諸国は長い年月にわたる試行錯誤を通して、今日の政策形成に至っている。日本人がお好みのどこかの国の制度を移植してくればといった安易な方法は、まったく通用しない領域だ。いずれ人口の3人に1人近くが65歳以上になる日本が、外国人を受け入れることなく、社会を維持し、活性度を保ってゆくことなど、到底できるはずがないことは、さまざまな現場で体験してみれば直ちにわかることだ。(続く) 

 

Carens (2010) pp.13-17

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潰えた夢:アメリカ移民法改革の断面

2010年12月21日 | 移民政策を追って

  最近のブログ記事でとりあげているアメリカ移民法改革にかかわる問題のひとつが、CBSニュースで話題となっていた。あのDream Actが上院を通過できず、成立しなかった。CBSは「夢法案、上院に死す」DREAM Act Dies in the Senate と報じている。この法案はアメリカへ16歳以前に「不法」に入国した者に審査の上、市民権取得への道を開こうとしたものだった。

 ほとんどの日本人が関心を寄せないようなトピックスばかり、なぜ書いているのかと思われよう。理由を記せば長い話になってしまう。しかし、30年後、あるいは50年後になると、日本も同様の問題を避けては通れないだろうとの思いが頭の片隅をよぎるためだ。管理人本人は間違いなくこの世にいないから、余計な心配にすぎないことは承知の上でのことだ。

 余談はさておき、上述のDream Act 法案、下院は通過したのだが、上院で主として共和党議員の反対で、議事妨害 Filibuster のため成立を拒まれた。このことはオバマ大統領の下で、移民法改革が進展しないことにいらだっていた人たち、特にヒスパニック系の活動家にとって、大きな失望を生んでいる。新年に入り、共和党優位の議院体制となれば、こうした法案が復活する可能性はなくなってしまう。

 法案はもともと子供の頃、親などに連れられてアメリカへ入国し、高校あるいは同等の教育を終了、アメリカ国内へ少なくも五年間居住していた者が対象になっている。さらに犯罪歴がなく、さらに2年間の大学課程あるいは軍役につくことに合意した者に限られている。応募者はそれでも市民権を得るため10年間は待たねばならず、遡及して租税を支払い、履歴についての審査をクリアしなければならないという内容だった。反対にまわった共和党議員の考えは、この法案はアムネスティ(恩赦)に近く、さらに不法移民の入国を招くにすぎないというものだった。他方、その内容から、共和党員の中にも法案主旨に賛成する者もいて、党派を越えた投票が行われた。

 法案が成立しなかったことで、移民とりわけ不法在住者の多数を占めるヒスパニック系には不満が高まっており、いかなる動きが生まれるか。彼らにすれば、このままでは「二流市民」の苦難な時期が続くだけだ。

 新年になり下院が共和党優位に移行する前に、少しでもポイントを稼ぎたいオバマ政権には苦しい結果になった。オバマ大統領も失望の色を隠せなかった。もっとも、民主党員の中にも、包括的移民法案が生まれるためには国境管理の一層の改善、不法移民を雇用した使用者への厳しい罰金が課せられるべきだとの強い主張もある。さらに市民権を望む者は、英語の習得、罰金の支払いも必要だとの考えも提示されている。

 いかなる形であれ、包括的移民法が新議会で成立するには、もはや超党派での対応しかないと考える民主党議員もいる。今のところ、こうした考えには賛成者は少ないが、人権、居住の権利など問題の内容、ヒスパニック系の影響力などから、可能性が消えたわけではないとの観測もある。

 かつては、白人対黒人の対立問題が、今では白人、黒人、ヒスパニックと多様化し、人種グループ間の亀裂の拡大は複雑になった。 数が少なかったころは「物言わぬ民」であったヒスパニック系が大きな発言力を持った今日、対立修復のルール作りはそれほど容易なことではなくなった。近い未来のアメリカのあり方に深くかかわるからだ。人々が思い描くアメリカ国家像は収斂にはほど遠い。

 

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断裂深まるアメリカ(4)

2010年12月19日 | 移民政策を追って



「不法滞在者」といわれる人々
  
外国人(移民)労働者の分類カテゴリーのひとつに、「不法滞在者」illegalsといわれるグループがある。彼らの多くは仕事の機会を求めて、越境してきたとみられる。不法滞在者と見られる人たちは、相手国に入国する際に要求される旅券、査証、身元引受書などの書類を保持することなく、書類の提示を求められる国境線上の税関、入国管理事務所などを回避し、あるいはそれらの書類は保持し、最初は合法的に入国するが、その後は、在留が認められている期限や目的の範囲を越えて、当該国に滞在している。 しかし、現実の世界に入ると、不法滞在する動機などもさまざまであり、近年は「不規則移民」irregular migrants という表現も使われるようになった。しかし、あまり分かりやすい表現ではない。

  前回の事例からも想定されるように、「不法滞在者」といわれる人々の背景はきわめて多様で、客観的な区分も容易ではない。そのため、ある程度多くの事例を蓄積、観察する必要が生まれる。彼らの数が少ない間は注目を集めないが、ある水準を超えると社会的問題として浮上する。

 アメリカに限ったことではないが、多数の「不法滞在者」をそのままの状態で放置しておくことが適切でないとの段階に達すると、多くの国は彼らを国民として受け入れるか、出身国へ送還するかの選択を迫られる。しかし、入国の経緯に大きな個人差がある以上、すべての「不法滞在者」を一括して扱うことは多くの場合不可能に近い。二者択一の扱いはできなくなり、一定のルールの設定と導入、さらに国家形成の思想が問われることになる。

ルールが生まれるまで
 そのために、現実の「不法滞在者」の中から国民が合意できるようなルール・範疇を抽出する努力が必要となる。アメリカあるいはヨーロッパのいくつかの国で、この方向に添った議論が行われてきた。日本でも法務省などでは検討が行われているようだが、国民の間に開かれた議論とはなっていない。当然、国民の多くが関心を抱くにはいたっていない。この点、欧米の移民が多い国では、ある社会的「常識」が形成されてきている。

前回に続き、別の事例を見てみよう。

事例2
マーガレット・グリモン Margaret Grimond の場合

 マーガレットはアメリカに生まれたが、まだ幼い時に母親とスコットランドへ渡った。その後ずっとスコットランドで暮らし、80歳になった時、これまで知らない外国で家族の休暇を楽しみたいとオーストラリアへ旅した。実は彼女にとって、これはイギリスを離れる最初の経験だった。その時、新しく入手したアメリカ合衆国の旅券を使用した。休暇を楽しみ、オーストラリアからイギリスに戻り入国審査を受けると、この旅券ではイギリス滞在は認められない。四週間以内に退去するように指示された。

 彼女はイギリス入管法の扱いでは、これまで「不規則移民」irregular migrant として滞在していたことになる。他方、マーガレット・グレモンはアメリカ旅券を取得したことで、自分がイギリス国民ではないことを知っていた。しかし、イギリスにいる間、その点の変更を求める行動も起こしていなかった。
 
QUESTION
 さて、ここで読者の皆さんに質問をひとつ。 皆さんだったらマーガレット・グレモンにいかなる裁定を下すでしょう。そして、その理由は?
 
 
話を戻すと:
 結果として、彼女のニュースは国際的な新聞種になった。そこに展開した社会的議論の結果が反映して、グレモンはイギリス滞在を認められることになった。多くのイギリス人は、入管法のルールがいかなるものであれ、一部の官僚は別として、これほど長くイギリスに住んだ人を退去させる道徳的不合理さを感じただろう。彼女はたしかに不規則移民ではあったが、この時点まで来ると、そのことは問題ではなくなっている。
   
 グレモンにはイギリスに定住する道徳上の権利が生まれているとみられる。なぜなら、彼女は1)幼い時に両親に伴われてイギリスに入国しており、その時の責任はない。その後イギリスで生育したことで法的立場にかかわりなく、実質的にイギリス国民となっている。2)大変長くイギリスに住んでいた。

 社会的メンバーシップの概念は、イギリス国籍法 British Nationality Act of 1981 で暗黙裏に認められているが、市民権取得への道にはなお多くの制限がある。とりわけこの法律は「領土内で生まれた者はすべて市民とする」(the jus soli rule:出生地ルール) という伝統ルールを否定している(アメリカ、カナダは維持)。市民権の自動的取得は、1)市民の子供たちと、2)永住者のみに限られている。それにもかかわらず、この法律は例外をイギリスで生まれた者のすべてと人生の最初の10年間に成長した者に与えている。イギリスは国と強いつながりを持った者を退去させようとはしなかった。

 BNAの10年ルールは強制的なものだ。しかし他国がその通りにしているわけではない。一般に、その国で生まれてはいないが、子供時代の10年を過ごした者に同じ論理がさらに強く当てはまるとみられる。6-16歳(または8-18歳)の10年は、1-10歳よりも当該国にとっては意味がある。これらの若者に国外退去を強制するのは残酷と考えられる。しかし、アメリカ、EU諸国の多くは今でもこれを要求している。
 
 その国で生まれていなくとも6-16歳という少年に重きを置く理由は、この時期に子供とその地域社会における重要な社会的関係が形成され、対応する教育も行われる年齢であるという点にある。両親がたとえばマーガレット・グリモンをその地に連れてきただけという理由で、彼女をその地から引き離すのは道徳的にも好ましいことではないという考えだ。「不規則な」状態は、幼少の頃に両親に連れられてきた子供にとっては、年数の経過とともに意味が薄れることになる。
 
居住年数の評価
 それと同時に、グリモンの事例の第二の条件、受け入れ国であったイギリスに何年いたかという年数の絶対的な長さが問題になる。不法に入国していても、国外退去を命じるには適当でない年齢が、社会的に生まれてくるのではないか。それでは何年くらいの年数が考えられるか。これはかなり難しい点ではある。ただ、15-20年その地に住めば、入国の際の不法性は十分相殺されていると考えられる。グレモンの場合も、イギリス永住を認めるかの審理が終わった時、彼女は「アメリカに戻っても、知人も友人もだれもいないことを心配していた」と述べている。彼女の場合は、幸い社会的注目を集めたがために、特別の計らいを受けた。しかし、もし注目をひかなかったら、官僚的な手続きで送還されていたかもしれない。
 
 これらの事例を通して、不法滞在者であろうとも、出生国へ送還することが適切であるか否かに関するあるルール作りの輪郭が見えてきた。しかし、現実はさらに複雑だ。引き続いて、事例を見てみたい。
 
 
 この事例および解説は、前回同様 Carens(2010, 8-13)に依拠している。

 

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断裂深まるアメリカ(3)

2010年12月12日 | 移民政策を追って



人気復活は可能か

 政治の世界は、一寸先は闇なのかもしれない。あの全米を覆った熱狂的支援の下で選ばれたオバマ大統領だが、その後の人気失墜ぶりはすさまじい。ひとたび落ちた偶像が、再び台座に戻るのはきわめて大変なことだ。今はひたすら下院で多数派(2011年1月議会から)となった共和党に譲歩して自らの危機を乗り越えようとしている。最近の税制改革での妥協に如実に見られるように、政策も鋭さを失い、迫力がなくなった。当然の結果だが、目指す方向とは異なった道を選ばねばならない。

 このブログでテーマとして注目してきた移民法改革もそのひとつだ。オバマ大統領は2年前の選挙運動中は、移民法の抜本的改革を課題のひとつに掲げ、ヒスパニック系移民から絶大な支持を受けた。しかし、就任後二年間ほとんどなにもなしえなかったことへの反動は大きく、深い傷を負ってしまった。

 連邦の無力に業を煮やしたアリゾナ州などでは、不法移民に対する厳しい州法が制定され、連邦対州の対決という困難な課題まで抱え込んでしまった。本来、出入国管理は連邦の管轄下に入る。アリゾナ州、テキサス州などの国境周辺州では、不法移民の大多数を占めるヒスパニック系に対する住民の反発は急速に高まった。本来移民の国として人種の融和が前提のアメリカにおいて、ヒスパニック系対白人・黒人という新たな人種間対立が深まるという事態まで生んでいる。

ぎりぎりの選択
 今となっては、ブッシュ大統領政権時に構想されたが未成立に終わった「包括的移民法」の方が、はるかに一貫性を維持していた。追い込まれたオバマ大統領としては当面ブッシュ大統領の構想を、ひとつずつばらばらに立法化するという道しかなさそうだ。とりわけ困難な課題は、1100
万人ともいわれるすでにアメリカ国内に居住する不法移民とその家族に、いかに対応するかという問題だ。不況が長引き、彼らが国内労働者の職を奪うという反発も高まっている。

 オバマ大統領と民主党は、議席が共和党優位に入れ替わる来年の新議会前に、「優良な不法移民」に永住権を与える DREAM法(the Development, Relief and Education for Alien Minors Act: the DREAM Act)と称する法案の制定に期待し、努力している。しかし、共和党員の反対で成立は難航している。

 この法案の対象は、16歳までにアメリカに入国し、高卒か同等以上の学歴を持つ不法移民で、幼少の時に親に連れられて入国したなど、本人に不法滞在の責任を問えない場合だ。犯罪歴などがなく、「素行善良」of good moral character ならば、永住権を申請できる。


 オバマ大統領は、不法滞在者のほとんどを対象に、犯罪歴などを審査の上で段階的に市民権を付与する(合法移民化)ことを考えていた。しかし、共和党員の強い反対を考慮して、こうした限定的法案とした。それでも、共和党の支持は得られていない。

 DREAM法案が今後どんな帰趨をたどるかはまだ分からない。法案も複数提案されている。しかし、対象が不法移民の一部であれ、ほぼすべてであれ、今後の議論はいかなる基準の下で、不法滞在者を選別、区分するかという点に収斂してゆくだろう。すでに議論が始まっている。そこで、それらの議論の紹介も兼ねて、具体的レヴェルへ下りてみよう。その結果は、不法滞在者の数は少ないが、本質的には同じ問題を抱える日本あるいはヨーロッパにとっても示唆を与えてくれるはずだ。

 この問題の難しさはどこにあるのか。具体的事例で、そのありかを考えてみたい


事例(1) 
 メキシコに生まれ育ったミゲル・サンチェスは、メキシコにいる頃は、貧乏で税金も払えないほどだった。アメリカへ出稼ぎに行こうと思い、何度か入国査証の発行を求めたが認められなかった。そこで、
2000年に密輸業者の手を借りてメキシコ国境を徒歩で越境し、アメリカに不法入国した。親戚のいるシカゴへ行き、建設工事現場で働き、メキシコの父親へ送金した。週末はダンキン・ドーナッツでアルバイトし、夜学で英語を学んだ。2003年に近所のアメリカ生まれの女性と結婚した。その後、息子が生まれたが、ミゲルは送還の恐れをいつも感じて生活していた。
 
 
  運転免許証も取得できないので自動車での遠出もできず、航空機にも乗らなかった。息子はメキシコにいる祖父に会ったことがない。今は自宅も保有し、税金も払っている。ミゲルさんのアメリカでの滞在年数は10年を越える。ミゲル・サンチェスに、アメリカ市民権は与えられるべきか。もし、与えるとするならば、いかなる論拠によってか。

救済の道は

  現在のアメリカにはミゲル・サンチェスのような状況にある人々の地位を合法化する手立てはない。アメリカには事情は異なっても、正式の滞在許可に必要な書類をなにも所持しない人々が、1100
万人近く居住している。彼らはその事実が発覚すれば、本国へ強制送還されることを心のどこかで感じながら毎日を過ごしている。同様な人々は、ヨーロッパ諸国そして数は少ないが日本にもいる。数の点を別にすれば、根底にある問題は同じだ。

 こうした人々が抱える問題にいかに対処すべきか。
これまで試行錯誤で行われてきたのは、ある年数が経過した後、過去の違法行為を帳消しにしてアムネスティ(恩赦)を与える方法だ。しかし、アムネスティの大きな問題は、一度実施するとそれを期待して不法越境し、次の実施をじっと待つ人たちがかえって増えてしまうという現象が起きる。実際、フランスやアメリカでアムネスティを実施した後、不法滞在者の数は増加した。そのため、安易には導入できない政策手段だ。アメリカでは共和党員のみならず、民主党員の間にも、アムネスティ発動には反対する議員が多い。

 代替的手段として浮上したのは、不法移民がある水準に達した段階で、それまで社会的には「隠れた存在」である彼らを審査の上で、段階的に市民権を付与し、目に見える存在へと組み替えることだ。DREAM法案はそのひとつだ。不法滞在者の個別的な背景はかなり異なり、多様化している。論理的な整理が不可欠だ。政策の基本的構成要因となるのはなにか。現在の議論はいかなる段階に来ているのか。いくつかの事例を通して、少しずつ解きほぐしてみよう(続く)。
 

 

 



主な事例は下記の著作および管理人が企画し、実施した日米共同研究の成果に依存している。
* Joseph H. Carens. Immigrants and the Right to Stay, Mass.; MIT Press, 2010.

 

 

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アメリカ移民法改革:打開の道は

2010年11月29日 | 移民政策を追って

 アメリカの移民法改革は急速に推進力を失ってしまった。最大の原因はオバマ大統領が就任後、アフガニスタンでの戦争、メキシコ湾原油流出、医療改革などに手間取ってしまい、主要な政治課題である移民法改革に、ほとんど着手できなかったことだ。さらに、中間選挙で上院、下院の双方で議席を大幅に失った民主党政権にとって、構想としてはほぼ出来上がっていた包括的移民法改革だが、その線に沿った立法化はきわめて困難になってきた。すべて、政治的決断の時を誤った結果だ。

 
現在、アメリカが直面する移民問題は大別すると、解決すべき4つの主要領域から成っている。第一は、南のメキシコとの国境から不法に越境入国する移民の阻止、第二は、従来から主としてメキシコなどヒスパニック系労働者に依存していた農業、果樹栽培、建築業など、総じて不熟練労働分野で働く労働者の受け入れ、第三にアメリカのIT産業などが必要とする高度な熟練を持った労働者、技術者の受け入れ、そして第四に、最も難題とされるのが、その数1100万人ともいわれる入国に必要な正式書類を保持せずに、アメリカ国内に居住している人たちへの対応だ。この不法滞在者といわれる人々の多くは、すでにかなり長くアメリカに滞在し、しばしばアメリカ人がやりたがらない仕事を引き受けてきた。

 こうした問題は、人口減少、少子高齢化が切実な課題となっている日本にとっても基本的にあてはまるものだ。しかし、日本ではこれまで枠組みの提案はあっても、具体的な次元まで見通した政策としては、ほとんど詰められていない。たとえば、高度な技能・技術を持つ技術者、専門家の受け入れ拡大が提唱されても、現実には日本の高等教育・研究機関を第一志望としたり、定着する高度な人材は決して多くない。日本の大学、研究機関、企業などが彼らにとって十分魅力ある存在となりえていないことが原因のひとつだ。一流の外国技術者、研究者は、日本を選ぶ前に欧米諸国へ流れてしまう。移民(受け入れ)政策には、高等教育・研究機関などの世界的レヴェルへの質的向上など、単なる国境管理段階の政策にとどまらない総合的な政策としての視点が不可欠なのだ。

 
さて、オバマ政権にとっては、上述の四本の柱から成る移民政策を一体化して、包括的移民改革として制度化できれば、ブッシュ政権がなしえなかった改革に目途をつけることができると思われていた。しかし、共和党が多数を占める下院を前にして、この方向を貫徹することはきわめて難しくなっている。共和党議員が増加した上下院では、熟練度の高い技術者・専門家などを受け入れる部分については、産業界の要望もあって賛成者も増えるかもしれない。不熟練労働者を受け入れる問題については、かつてのブラセロ・プログラムのような一定数の限定的受け入れというような妥協が可能かもしれないが、アメリカ経済が不振をきわめている現段階では、積極的に議案を詰めようという機運に欠けている。

 第四の不法移民への対応について、オバマ大統領は犯罪歴、アメリカ在住歴、職歴などを審査の上、順次アメリカ市民権を付与する方向を考えているようだが、共和党員の間には強硬な反対もあり、これだけを立法化するだけでも問題山積といえる。改選によって議席を去る民主党議員が在籍している間に、包括的移民改革法に近い議案を強行成立させる道もないわけではないが、任期後半に入り追い込まれているオバマ政権にその覚悟はあるだろうか。恐らく、個別の領域ごとに立法化、制度化を図るという道をとらざるをえないだろう。この領域に存在する問題の実態、政策方向を少しずつ検討してみたい(続く)。




Reference
”Let them have a DREAM” The Economist November 27th 2010.

 

 

 

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多文化主義の彼方には

2010年11月21日 | 移民政策を追って

閉ざされる国境

 アメリカのみならず、ヨーロッパのドイツ、フランスなどで移民受け入れの道標としての「多文化主義」 multi-culturism が揺らいでいる。それぞれの国が直面する問題の背景には各国固有の問題があるが、異なった文化を背負った移民とそれを受け入れている側との間に、摩擦や断裂が目立ってきた。受け入れ国側が「多文化主義」を標榜していると否とを問わず、国境の扉は閉じられようとしている。

  その中で注目を集めているのが、1990年10月3日に東西ドイツが再統一してから20年が経過したドイツだ。EU最大の政治・経済力を手中にしたドイツは、域内での発言力を強めた。東西ドイツの統一は、なんとかコントロールできる範囲にまでになった。しかし、他方では依然として大きな問題もある。しかも、国家的管理可能な域を逸脱しかねない難しさを含む。

 そのひとつは移民問題である。問題に難しさを加えた根底には、キリスト教とイスラム教の間の壁が横たわっている。多文化主義を掲げた統合は機能せず、ただ分かれて住んでいるだけという現実が存在する。もっとも、ドイツの社会にこうした現実が根を下ろしてから、すでにかなり長い年月が経過している。管理人が移民問題に関心を抱くようになったきっかけのひとつになったのも、この国の移民受け入れの実態と政策のあり方だった。

変容する多文化主義の街

 ひとつの例として、フランクフルトの南西の都市、ウイスバーデンのことを思い出した。目抜き通りウエルリッツ街には多くの移民が商店などを開いている。その数は100店以上。40年前はほとんどドイツ人の町だったという。しかし、1968年中頃にゲストワーカーとしてやってきたイタリア人のピザの店が開店後、住人の国籍は増加し25カ国以上になった。トルコ、モロッコ、アフガニスタン、コンゴ、イタリア、パキスタン、ポーランド、アルバニアなどである。しかし、まもなくケバブの店に圧倒され、今日、通りは実質トルコ人の掌握するものになっているとのこと。

 ウイスバーデンに限らず、ドイツは大戦後、多くの移民を受け入れてきた。2009年の時点で、人口に占める外国人比率は11.6%とフランスを上回り、アメリカに次ぐ。とりわけトルコからの移民は多く、移民の中でも最大の比率になる。その中にはドイツのパスポートを所持し、なめらかにドイツ語を話すが、どこにいてもヒジャブを着ている「ゲストワーカーの子供」といわれる人たちがいる。彼らはドイツにいながらも、どこかでドイツ人になることを拒否している。

築かれるモスレムの壁

 こうした状況で、イスラムの移民と最下層階級の度を過ぎた増加が、近年のドイツの低落をもたらしていると非難する出版物が現れた。その代表例が、最近までドイツ連邦銀行理事だったザラツイン氏の見解だが、多数の賛成者を得た反面、同氏は理事の座を失った。

 最近では、メルケル首相までもが「多文化主義はまったく失敗だった」と発言するまでになっている。ここでの「多文化主義」とは、簡単にいえば、移民はドイツにおいて彼らの独自の文化を再生させることができるという意味だ。たとえていえば、ドイツという花瓶の中で、それぞれの花を咲かせることができるというイメージと考えられる。しかし、ドイツに限ったことではないが「多文化主義」は機能していない。人々は分かれて住んでいるにすぎない。表面的な断裂ばかりでなく、精神的基層は冷え切っている。

 他方、ドイツには移民を経済力維持の戦略的要因としなければならない事情がある。ドイツの労働力は減少に向かっており、とりわけ今後の発展を担う熟練労働力の不足は厳しい。これは、ドイツばかりでなく、日本を含めてこれまでの先進国が負う課題でもある。すでに躍進目覚ましい中国やインドに迫られ、追い抜かれつつある。優秀な外国人を誘引するどころか、日本の高度な技術者などが逆に引き抜かれる始末だ。

 ドイツへ働きにきた移民の2世、3世の実態は、はかばかしいものではない。教育水準でも、ドイツ人の平均に遠く及ばない。いずれは母国へ戻ると思われた外国人肉体労働者の子供たちが、ドイツの社会の主流へ加わることはきわめて困難だろう。

イスラムといかに生きるか

 ドイツ人になろうとしないイスラム教徒への風当たりは強いが、すべてのイスラム教徒が非難の対象になっているわけではない。問題とされているのは、一部の原理主義者、そしてキリスト教、ユダヤ教さらに民主主義への反対者など限られている。ドイツは2000年に移民が市民権を取得する道を開いた。2005年以降、移民は600時間のドイツ語習得を含め「統合へのコース」を受講することを求められている。貧しい国からの配偶者は到着前にドイツについての知識を習得しなければならない。

 「ドイツ人であるとはいかなることか」とのドイツ人の考えも変化しなければならない。しかし、多くのドイツ人はその準備ができていない。メルケル首相は「モスクはドイツ文化の「原風景」となるだろう」と述べ、イスラム教徒に対する理解を示しているが、ドイツ人の多くがそこまで達観できるまでには多くの山を越えねばならないだろう。

 「統合」 integration、「共存」 co-existence そして「隔離」segregation という概念の相互関係がいかにあるべきか、その答はまだ得られていない。「人種の坩堝」化と「ゲットー」化を生み出す要因はどこにあるか。

 先進国の中で、移民問題を国民的論議の課題としてとりあげていないのは日本ぐらいだ。一部の外国の人口学者などからは、人口減少社会を迎え、活力の低下が著しく、将来に不安感が色濃く漂う日本は、移民を受け入れない限り、活力再生の切り札はないとまでいわれている。世界の高いレベルの科学者、専門家、技能労働者を吸引できるような拠点構築を、国家的視野から実施しないかぎり、縮小、衰退の道から脱却することはきわめて難しい。しかし、この国の政府は外国人労働者、移民の問題を国民的議論の課題とすることを極力回避してきた。他の問題と同じように、なるべく大きな議論とせず、なし崩し的に対応することで本質的課題には踏み込まないという姿勢だ。

  政治家の質の劣化に国民の失望がつのるばかりのこの頃、移民問題を国家戦略の次元で考えることなど当面考えられないのが、日本の現実だ。他方で人口減少、高齢化は容赦なく進む。日本の高齢化は、すでに危機的段階に達しており、他国がその轍を踏まないようにとの例に挙げられているほどだ。人口に占める外国人比率は、まだ西欧社会よりはるかに低く、受け入れのあり方を検討する余地は十分にのこっているのだが。壁を高く維持するばかりでは、相互理解は決して進まない。しばらくドイツのお手並みを眺めているしか道はないのだろうか。




References

* Thilo Sarrazin (Autor). Deutschland schafft sich ab: Wie wir unser Land aufs Spiel setzen, 2010.

'Multikulturell? Wir? 'The Economist November 13th 2010.

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断裂深まるアメリカ(2)

2010年11月13日 | 移民政策を追って

アメリカ移民法改革を脅かす影

 

麻薬は人間ばかりか社会、国家を破壊する。人生のさまざまな苦しみ、苦難から逃れようと深く考えることなく、そして多くは単なるはずみで麻薬に手を伸ばし一時の快楽を得たとしても、問題はなにも解決しない。それどころか次第に深みにはまり、人間の肉体も精神も蝕まれ、挙げ句の果てに破壊される。

 こうした人間の弱みにつけ込む麻薬ビジネスが次第に蔓延する。さらに暴利を求めて、麻薬シンジケート間での激しい抗争が生まれる。こうした組織犯罪集団の間での争いは、次第に激しさを増し、組織間の覇権を争って、贈収賄、殺人などの犯罪が、警察や軍隊、そして政治家、企業家など社会の上層部まで深く浸透する。行き着く先は社会の深部からの退廃、国家の崩壊・破滅へと進む。このような論理で麻薬が国家を破滅に追い込むと考える人は多くないかもしれない。しかし、アヘン戦争の歴史を顧みるまでもなく、麻薬はしばしば国家の破綻に関わってきた。そして、今でも国家崩壊の淵にさらされている国がある。

 
麻薬がもたらす社会への害悪は、ある段階までは善良な市民の目には見えない。しかし、次第に直接、間接に市民生活に弊害を及ぼすようになる。近年、コロンビアなどの南米諸国、メキシコ、アフガニスタンなどでみられる事態は、まさにこうした国家を破滅に導きかねない舞台の一場と考えられている。とりわけ、最近のメキシコの麻薬禍は「麻薬戦争」といわれるまでに拡大し、この国を急速に衰亡させている。

 メキシコの人口は世界で11位、経済規模では14位に位置する。一時はBRICsの後を追うといわれていたが、いまやその勢いはない。そして、大麻、コカイン、LSDなどの多種、多様な麻薬の不法貿易は、メキシコの貿易収入の半分近くに達するといわれる巨額なものになっている。

 

長年にわたる麻薬問題の撲滅を宣言して、200612月カルデロン大統領が政権に就いて以来、麻薬をめぐる抗争のために、およそ28千人が死亡したといわれ、大統領は、事態の収拾と犯罪・暴力防止のために5万人の軍隊を展開している。

 

メキシコで麻薬密貿易が注目され始めたのは、かなり以前のことである。このブログでも再三にわたりその一端を記したことがあるが、1970年代にはすでに大きな問題となっていた。しばらくの間はアメリカ・メキシコ国境近辺に集中した国境密貿易に関わる犯罪と見られてきた。しかし、現実には組織犯罪は、地方政治、警察、軍隊などを蝕み、その解決を日に日に困難にしてきた。組織の魔手は中央政府にまで延びていた。そして、彼らのビジネスもグローバルな次元へと拡大した。  

 たとえば、カンナビス
(インド大麻)といわれる麻薬の原料は、シンジケートが保有するメキシコ国内の秘密の栽培地ばかりでなく、世界の麻薬の主たる供給地のひとつコロンビアからセスナ機などで輸送され、メキシコ国境近くの砂漠の拠点に供給されたりもする。

 麻薬問題がかくも拡大した背景としては、多くのことが指摘されているが、重要な問題のひとつは、麻薬犯罪を取り締まる法制度とその執行がきわめてずさんであり、銃砲などの所持についても野放し状態であったことにある。さらに、究極の問題として誰が麻薬を必要とし、その拡大に関わっているかについて探索・撲滅のメスを入れることを怠ってきたことにあるといわれる。カルデロン大統領は警察組織の中央集権化、分散した地方の裁判所の整理などをおこなっているが、さしたる効果が上がっていない。

 

結果として、メキシコには世界でも最も強力な麻薬のシンジケートが拡大、はびこってしまった。政治とシンジケートの関係は中央政府にまで深く潜伏して進行し、贈収賄、拉致、暴力行為などを伴い、警察、軍隊にまで影響力を持つまでになった。カルデロン大統領は、警察力では制圧不可能とみて、軍隊を投入し、撲滅作戦に当たっているが、その効果がいつ出てくるか、まったく定かではない。国内に仕事が無く、隣国へ不法移民をしなければならない若者たちが、麻薬取引を仕事としないように、教育や社会政策も根本的改善が必要だ。

 そして最も重要だが困難なことは、最大の麻薬消費地であるアメリカがいかに麻薬の害悪を認識し、それから脱却できるかという点にある。ペンタゴンはメキシコが麻薬のために、「
破綻国家」 failed stateとなる可能性まで示唆しているのだが、当のアメリカが全体として麻薬問題をいかに考えているかについては、メキシコとの間で距離があるようだ。不法移民問題の根は、雑草のごとく執拗に広がり、改革は先延ばしにするほど難しくなっている。移民法改革の行方は、アメリカという大国の根幹に関わっている。

 

 



References

‘Mexican waves, Californian cool: Drugs and security in North America’ The Economist. Oct 16 2010.

 ‘Organized Crime in Mexico Under the Volcano’ The Economist

 

Malcolm Beith. The Last Narco: Hunting El Chapo, the World's Most Wanted Drug Lord,

Grove and Penguin, 2010.

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断裂深まるアメリカ(1)

2010年11月07日 | 移民政策を追って


失意の中から
  アメリカ中間選挙の結果は、政権の座にあるオバマ大統領にとって、2年前のあの熱狂は幻のように見えたのではないか。大統領にしてみれば、想像を大きく上回る敗北だったのだ。かなりの落胆ぶりが映像でもみてとれる。高揚が大きければ、失速の落差も大きい。

 今回の上下院における大敗北は、後半の政権運営をきわめて厳しいものにした。医療保険制度改革を始めとして、オバマ政権が最大の柱として苦労して積み上げた成果が押し戻される、あるいは殆ど解体されてしまう可能性も高まってきた。

 しかし、共和党が逆手をとって「進路を変える」Change the Courseとした方向に光が見えるわけでもない。民主、共和両党間の政治的抗争は膠着し、泥沼化する可能性が高い。さらに勢力を取り戻した共和党自体、一枚岩ではない。なかでもティーパーティ・グループは、思想的、論理的基盤においてかなり異質の存在だ。こうした政党、グループ間の思想的乖離はきわめて大きく、政治上の妥協を求めることもかなり難しい。 長らく父親が共和党の有力者でもあったある友人は自分も共和党員であることを公言しているが、ティーパーティは共和党ではないという。共和党として統一性を保って行くのは、かなり大変なようだ。アメリカは政治的にも社会的にも統合失調症状態にあるとの評も聞かれる。

 他方、オバマ政権にとって、今回の選挙の最大の敗因とされる経済の回復の遅れにしても、政策の再構築は至難なことだ。中国などからの低価格品の輸入がアメリカ国内の雇用を奪っているとの声に対応できる政策の構築と転換は、短期間には達成できない。アメリカ産業の國際競争力はかなり脆弱になっている。保護主義の動きがさらに強まるだろう。貿易に限らず、外交、移民政策などでも、アメリカは一段と閉鎖性を強めることになりそうだ。


追い込まれての移民法改革
 オバマ政権が任期後半の2年間に対応しなければならない問題は数多いが、焦眉の急の経済問題に続いて、大統領の任期前半になにもできなかった移民法改革にはどうしても着手しなければなるまい。中間選挙においては、この問題を避けて通った民主党政権だが、そのためにヒスパニック系選挙民の多くはかなり冷めた対応をしたと考えられる。大統領選の時にはオバマ政権はヒスパニック系を票田として大きく頼ったのに、その後はなにもしてくれないのだと思ったかもしれない。

 他方、アリゾナ州における不法移民への厳しい州法導入にみられるように、不法移民が国内労働者の仕事を奪っているという受け取り方は、当否は別として経済停滞の要因のひとつとしてかなり広く信じられている。

 メキシコ経済の不振もあって不法移民の流入と集中は絶えることなく続き、アリゾナ州の州都フェニックスのように、住民の40%近くがヒスパニック系という状況が生まれている。ヒスパニック系への市民の目は次第に厳しく、冷たくなっている。不法移民として保安官に逮捕されると、テント仕立ての刑務所へ収監され、男子でもピンクのシャツ、靴下、一日二食の粗食など、屈辱的な待遇を受ける。二度と越境をさせないような罰則的意味を持たせているというが、アメリカでもまだこうしたことが許容されているとは、信じがたいほどの対応だ。

 アメリカが受け入れている移民の主流となっているのは、人道上の観点から家族のつながり family reunificationである。すでにアメリカに合法居住している市民の家族、配偶者を優先的に受け入れている。短期農業労働者受入のブラセロ・プログラムがなくなった今日では、農業などの不熟練労働者は、合法的経路では受け入れていない。ヒスパニック系を中心とする不法入国者が主として就労している。

 アメリカの産業競争力を回復、強化する上で産業界から要望が強い、高い熟練、専門性を持つ外国人労働者を雇用することについては比較的異論が少なく、特別の割当枠を設定して受け入れている。しかし、これについても、優秀なインド人が来なくなったなどの変化も指摘され、新たな議論が生まれつつある。

 これらの諸次元を包括する移民法改革は、ブッシュ政権末期に実現はしなかったが、輪郭はほぼ描かれている。オバマ政権になっても、今年3月民主党と共和党上院議員による超党派の包括的移民法案の素案が検討のため提示された。かつて、故ケネディ上院議員とマケイン上院議員が提案した案に近い。この考えは現代のアメリカが抱える移民の多様な問題へ包括的に対応しようとしたものだ。国境管理を厳しくする一方で、不法滞在者に市民権獲得の道を準備する。そして産業界の要望に応える道として、アメリカの大学で科学、技術、数学などの学位を取得した学生に自動的なグリーンカード(定住認可)を供与することにし、従来の国別グリーンカードの割り当てを廃止するという内容だ。この考えにオバマ大統領は直ちに賛意を表したといわれるが、未だ法案にもたどりついていない。その後、見解の相違点が生まれ、草案作成者の一方であったグラハム共和党議員が手を引いてしまったためだ。

 オバマ大統領が今後いかなる形で移民法改革に着手するか。いまや明らかなことは、下院の過半数を占めることになった共和党との協力関係を確立せずして実現は期待できないことだ。高度な熟練・専門性を持った労働力、不熟練労働力の受け入れについても、ビジネスに近い改革案の方向が模索されるだろう。しかし、不法滞在者の合法化のあり方、不熟練労働者の確保など、個別的分野でも難問は多い。

 日増しに高まる他民族間の軋轢を緩和、回避しながら、移民法改革を達成することができるだろうか。そして、アメリカ自らを統合する精神的・文化的靭帯を再びしっかりと確保できるだろうか。
これらの点については、今後少しずつ確認してみたい。



Reference
‘Green-card blues’ The Economist October 30th 2010.

BS1 「今日の世界」2010年10月
 23日


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「数は力なり」の強さと怖さ

2010年09月30日 | 移民政策を追って


 移民の流れは、いつも決まった方向に流れる平静なものではない。しばしば波風が立ち、時にはせき止められ、逆方向に押し戻されることもある。このところ、アメリカ、EUの主要国などでは反移民の動きが高まっている。

 今回はアメリカについて管理人の記憶の断片を含め、少し記すことにしたい。振り返ってみると、1960-70年代のアメリカにあって、その後のアメリカ政治・社会の行方を定めるのは、African-American と呼ばれる、祖先がアフリカ系のいわゆる黒人といわれた人たちの動向次第とされていた。公民権運動が盛り上がっていた時代だ。彼らは主として南部諸州に居住していた。ニューヨークやシカゴなどの大都市ではともかく、当時過ごしたニューイングランドの大学町などでは、彼らはまだ明らかに少数派だった。それでも1960年代末には学生ホールを黒人学生が占拠し、メディアが大きく取り上げる事件も起きた。白人対黒人の対立は、都市を中心に激化の度を加えていた。とりわけ1966-67年の夏は「熱い夏」といわれ、いくつかの都市暴動も起きた。

 しかし、その後、アメリカの人種問題をめぐる焦点は大きく変わった。その対象は、急速に増加したメキシコ人を始めとする「ヒスパニック」Hispanic あるいは「ラティーノ」と呼ばれる中南米系の人たちである。より個別的には「メキシカン」、「チカーノ」、と呼ばれることもある。他方、過半数を占めていた旧ヨーロッパ大陸からの移民の子孫が多い非イスパニック系の白人は、強いて区別するとすれば「アングロス」Angros などと呼ばれるようになった。いわゆるWASP(ホワイト、アングロサクソン、プロテスタント)の系脈につながる人たちである。

 ヒスパニック増加の最大の要因は、アメリカとメキシコが地続きであり、長らく農業労働者を受け入れていたことにある。「ブラセロ・プログラム」といわれる短期の農業労働者受入れ策は、J.F.ケネディ大統領の時代に廃止されたが、その後も南部諸州、カリフォルニアなどの農園は、彼らの季節労働に大きく依存し、彼らなしには存立できなくなっていた。メキシコを中心とする中南米諸国からの入国者は、査証など入国に必要な書類を保持することなく国境を越え、次第にアメリカ国内に居住し、不法滞在者として、一時は1200万人近くに達した。

 アメリカのヒスパニック系不法移民をめぐる問題は、歴代大統領が有効な実効策を講じることがないままに、政治の行方を左右する重みを持つまでになってしまった。オバマ政権としても中間選挙を目前にしては、得票を左右しかねない政策は打ち出せない。民主党の大敗すら予想されている現在、ヒスパニックの票田をつなぎとめておくことは、オバマ政権には最重要な要件のひとつだ。

 オバマ大統領は、大統領選の間、移民法改革を重要課題と公言しておきながら、就任後今日までほとんど着手してこなかった。中東撤兵、医療改革、メキシコ湾石油流出問題など、想定外の大問題が台頭したとはいえ、移民改革に本格的に取り組んでいるとはいえない。現在のところでは、ひたすら国境の壁を高くし、国境パトロールを強化するなど、包括的移民改革とはほど遠い、一時しのぎの策に終始してきた。これはブッシュ政権末期の政策の踏襲にすぎない。

着実に増えるヒスパニック
 他方、アメリカ・メキシコ国境の壁の高まりにもかかわらず、アメリカ国内に居住するヒスパニック系の数は着実に増えてきた。2009年時点で、アメリカ国内に居住するヒスパニック系は合法・不法を問わず約4840万人、アメリカの総人口のおよそ16%に達すると言われている。ピュー・リサーチ・センターによると、2050年までに、ヒスパニックの比率は人口の29%、他方で白人は47%と過半数を割ると予測されている。「白人のアメリカ」の時代は終わりを告げることになる。個別の都市や学校についてみると、すでに非白人の比率が過半を占める例は珍しくない。

 ヒスパニックが内在する問題は、大多数がアメリカ国内に不法に滞在していることだ。現在、およそ1110万人と推定される不法移民の80%近くは、中南米諸国から移住してきたとされる。そのうち、60%はメキシコからと推定されている。彼らの多くは、米国社会では日陰の存在である。しかし、アメリカの農業、建築・土木、清掃、ベビーシッターなど、アメリカ人がやりたがらない仕事を引き受け、実質的に支えているのは彼らなのだ。しかし、彼らの多くは自動車の運転免許すら取得できず、社会給付の対象にもならない。

 ラティーノの数が少なかった頃は、彼らの州や地域レベルでの政治面の影響力も限度があった。しかし、その数が増加するとともに、カリフォルニア、テキサスなどいくつかの州では大きな政治問題の火だねとなった。しかし、近年、ヒスパニック系が多数居住する州はアリゾナ、ジョージア、ノース・カロライナ州などへと拡大している。それに伴って、それまでの住民と新たに移動してきたヒスパニック系の移民たちとの間に、さまざまな軋轢が生まれている。

新たな人種問題の台頭
 ヒスパニックばかりではない。イスラム系住民への感情も急速に悪化している。あの9.11の悪夢が直接的背景であることはいうまでもない。中東撤兵に踏み切ったアメリカだが、「内なる戦い」が激しさを増している。建国以来のアメリカの伝統的精神構造は明らかに引き裂かれつつある。アメリカが目指した「人種の坩堝」は、遠いものになってしまった。アメリカの知人、友人たちと話をしていると、彼らの行き場のない悩みがひしひしと伝わってくる。近い将来、アメリカにヒスパニック系住民の特別州やイスラム系住民の居住州が生まれることになるだろうか。現実にはそれに近い地域も生まれている。  

 かつて、「数は力となる」とこのブログに記したことがあったが、最近ではアメリカのジャーナリズムまでもがそう言い出した。今はアメリカ国内で不法滞在者として、厳しい環境に耐えているヒスパニックやイスラム系住民も、数が増えれば、発言力も増えると信じている。それが実現するまでの道程は厳しく遠い。しかし、黒人霊歌 We shall overcomeの心は、ここにも生きている。ヒスパニック系の運動でも、歌われるようになった。かつてはじっと耐え、発言をしなかった人々が、アメリカの行方を左右する日が近づいている。


 

References 
'The law of large numbers' The Economist September 11th 2010.

『クローズアップ現代 アメリカ:激化する”反移民”』2010年9月30日(追記)

大学院のクラスメートだった黒人学生のTは、偶然にも寄宿舎でも隣室だったが、西インド諸島トリニダッド・トバコからの留学生だった。彼自身はアメリカ人ではないだけに、かえって率直にアメリカにおける黒人の実態と彼らの考えを、客観的に聞くことができた。当時、白人には到底聞かせられないような心の深部に立ち入った話だった。余談だが、その後、TはUniversity of West Indies の学部長となった。この大学は平和賞を別にすると、黒人で初めてノーベル経済学賞を授与された著名な経済学者アーサー・ルイスが教鞭をとっていた名門大学である。Tとは、約20年後にブリュッセルで開催された國際会議で偶然にも感激の再会をすることになる。Tのたどった人生は、開発途上国からの留学生が母国に貢献するにたどった道として、大変興味深いのだが、本題を外れるので別の機会を待ちたい。

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