時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ブログの背景色

2006年08月12日 | 絵のある部屋

  この「変なブログ」を始めるに当たって、そのデザインに多少迷ったことがあった。ブログに移行する前に、若い学生諸君の手助けでホームページを開設していた。その時は記事だけ書いて、後は日常の運営管理もまかせっきりであった。
 
  毎年、管理者が代わり、模様替えが行われた。年々若くなる世代のデザイン・センスの良さに感心したことも多い。その後、自由度が多く操作も容易なブログなるものを知り、見よう見まねで始めてみたが、デザインについてはお仕着せテンプレートのまま今日にいたっている。

多少のこだわり
  ブログに移行するに際して、少しこだわったのは背景の色であった。実はシンプルなオフ・ホワイトか透明系を使いたかったのだが、試してみてどうも収まり具合がわるいと思うことがあった。文字中心なら問題はなにもないのだが、記憶の再現、備忘録も兼ねて画像イメージも残したかった。

   たとえば、ラ・トゥールのイメージを伝えるのにオフ・ホワイト系の背景では、画像が浮いてしまってどうも落ち着かない。 もちろん、ブログのイメージなど、本物の作品を思い浮かべるためのヒントにすぎないのだが。

  この画家の作品展などに行かれた方は、お気づきかもしれないが、全体に照明が暗く、隔離された部屋の方がはるかにふさわしく、作品も生きてくる。オランジュリー展も東京展もそうであったが、かなり照明度を落としての展示だった。作品の細部を見ようと思ったら、ぐっと近づいて見なければ分からない程度の明るさである。もともと、そうした時代環境の中で描かれた作品である。  

「赤」の画家
  17世紀は、現代社会のようにまばゆいばかりの人工光が輝いていた時代ではない。画家のアトリエも日没後は、ラ・トゥールのように蝋燭の光にかかわるような画題をとりあげるのでもなければ、とても仕事はできなかったろう。

  こんなことを考えながら、背景としては重いなあと感じながらも選んだのが今の色である。元来、青色系は比較的好きではある。他方、以前のブログでもとりあげたように、ラ・トゥールの現存する作品で青色系が使われているのはきわめて少ない。ラ・トゥールは「光と闇」の画家であるとともに、「赤の画家」である。 この点は美術史家などもあまり指摘していない。 

  16世紀末から17世紀にかけて、コチニールの赤色がかなり普及し、この色を使う画家が増えたと思われる。ティントレット、フェルメール、レンブラント、ルーベンス、ファン・エイク、ヴェラスケス、カナレット、ラ・トゥール、ゲインスバラ、スーレ、ターナーなどの画家がかなり使っている。その中で、ラ・トゥールの赤色、赤褐色系の多用はかなり目立つ。

 現代は「青」?
  画家がいかなる画材を使ったかという点の分析が進んだのは、比較的近年のことであるといわれる。美術史の論文などにも、画家とその画材をとりあげるものも見られるようになった。最近読んだ 『青の歴史』の著者ミシェル・パストゥローは、実は赤の歴史を書きたかったらしいが、出版社から懇願されて青の歴史を書いたと記している。

  「赤」という色から連想するイメージもさまざまである。熱情、華麗、高貴、気品、権力、護符など、時代や状況によってかなり変化してきた。 12世紀には「赤」は高貴な色であり、権力のイメージでもあったようだ。法王、枢機卿などの衣裳などにも長く使われてきた。

  その後、「青」も人気を得るようになり、現代の色は「青」ともいわれる。いずれまた取り上げてみたいが、色は時代の動きを敏感に感じ取るバロメーターのようなところもある。


References
ミシェル・パストゥロー(松村恵理・松村剛訳)『青の歴史』筑摩書房、2005年
徳井淑子『色で読む中世ヨーロッパ』 講談社、2006年

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画家とパトロン(3):時代の目

2006年07月31日 | 絵のある部屋

Botticelli, The Annunciation (about 1490), Florence, Uffizi, Panel.   


  優れた画家とはいかなる資質を持った人なのだろうか。作品の優劣評価は、何によってなされるのか。これはきわめて本質的な難しい問題である。美術についての好み(taste)は、時代とともに変遷をとげてきた。時代を超越して好まれる作品があることはいうまでもないが、それぞれの時代を支配した主流があり、固有な「時代の目」ともいうべき評価の基準が存在すると考えられる。極端なことをいえば、ピカソやマティスの絵画が17世紀の西欧美術界に提示されたとしても、恐らく一顧だにされないだろう。

  前回7月2日の記事でとりあげたが、15世紀イタリア絵画界における最も重要な変化は、画材の品質から画家の熟練・技量の質・水準重視への移行であった。

  それでは、当時「時代の目」は、なにを基準としていたかということになるが、これはきわめて難しい問いで、とても容易に答は得られない。

「受胎告知」のテーマの具象化
  ただ、以前から不思議に思っていたことがいくつかある。そのひとつは、15世紀イタリア絵画などに多数見られる「受胎告知」Annunciation(「ルカ福音書」1:26-38)というテーマの扱い方である。「受胎告知」は、神と人間の仲介を行う役割を担った大天使ガブリエルによる聖母マリアへのお告げというキリスト教においてはきわめて重要な主題である。大天使は、マリアに「あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい」と告げる。キリスト教美術では、何度となく扱われてきた著名なテーマである。一人の画家が何点も描いていることも多い。世界に「受胎告知」を取り上げた作品がいったいどれだけあるのか、想像がつかない。

  キリスト教史では、キリストの「托身」(神がキリストの姿をとること)は、この時に行われたと考えられている。従って、受胎告知の祝祭は、キリスト降誕からちょうど9ヶ月遡った3月25日に行われる。

作品を解く鍵の存在
  大変興味があるのは、受胎告知を扱った作品はこのように数限りなくあり、ヴァリエーションも多いが、作品を見るものをして、あのテーマだと直感させる一定の約束事が含まれていることである。慣れてくると、作品に接した瞬間にすぐに分かる。

  「受胎告知」における重要な3要素は、天使、聖母、そしてしばしば彼女に向かって降りてくる聖霊の鳩である。この主題は、ゴシック聖堂美術の中に最初に登場したと考えられている。興味を惹くことは、「受胎告知」の場面を描くにあたっての約束事がどのようにして生まれ、具象化され、美術界へ伝播していったのかという点にある。

  「受胎告知」の時を描くに際しては、上記の3要素に加えて、象徴的な小道具、アトリビュートが付け加えられてきた。そのいくつかは、外典福音書および「黄金伝説」から採られたものである。たとえば、百合の花については、聖ベルナルドゥスは、この出来事が春に起こったことを強調しており、ここから花瓶に挿した花のモティーフが生まれ、後に百合となり、聖母の無垢の象徴へと展開してゆく。さらに、糸巻き棒、書物なども書き込まれている。大天使ガブリエルは翼をつけ、伝統的に白い衣をつけている。描かれている場所としては、ルネッサンス期には屋外の回廊あるいは中廊が設定されていることが多い。

  主たる登場者である大天使ガブリエルと聖マリアの関係についても、興味ある点が見られる。多くの場合は、大天使は跪きお告げを奏上する姿勢をとり、聖マリアは直立して、真摯な表情で耳を傾けている構図がとられている。大天使や聖マリアの指先の仕草にも約束事がある。

画家の創意は
  他方、フラ・アンジェリコのサン・マルコ美術館(フローレンス)のように、大天使は直立し、聖マリアが身をかがめるようにしてお告げを聞いている構図やボッティチェリの作品(フローレンス、ウフィツイ)のように、聖マリアが身をよじるように複雑な姿勢をとっている作品もある。これらは、一定の約束事の範囲で、画家が創意を発揮した部分である。

  大天使と聖マリアが位置する空間にしても、大変古典的な印象を与えるドメニコ・ベネチアーノDomenico Venezianoの作品(about 1445, Cambridge, Fitzwillian Museum) のように 中間に遠くまで見通せる回廊を挟んで、両者の間に長く距離をとったものもある。他方、ウフィツイが所蔵するボッティチェリの作品のように、両者が近接し、指が触れ合いそうな構図もある。

  しかし、いずれにせよ、「受胎告知」という主題について知識を持つ者にとっては、ほぼ瞬時に含意を読み取りうる工夫がこらされている。この一定の知識とは、言い換えれば優れた作品の鑑識力discriminationであるといえる。こうした知識は時と共に伝承され、社会に沈殿していった。画家とパトロンの関係からすると、この時代にこれらの鑑識力を持っていたのは、画家そしてパトロンとその周囲にある特定の人たちであった。社会的にも上流階級である。

  一般民衆の水準まで、こうした知識が浸透するには多くの時間が必要であったと思われる。とりわけ宗教画が多かったことを考えると、この「時代の目」は、洗練された鑑識の力を蓄えたパトロンと画家などの芸術家の関係を軸に形成されていったのだろう。教会、修道院などが大きな役割を果たしたことはいうまでもない。その過程についても、さまざまな問いが浮かび上がり、興味は尽きない。

 

Reference
Michael Baxandall. Painting and Experience in Fifteenth-Century Italy. second edition, Oxford University Press, 1972, 1988.

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画家とパトロン(2)

2006年07月02日 | 絵のある部屋

    美術品をめぐる売り手と買い手の関係は、なかなか興味深い。取引の仕組みの源流を尋ねているうちに、いつの間にか15世紀イタリアについての資料までさかのぼることになってしまった。この時代の画家とパトロンの関係は、現代の社会で市場や取引として思い浮かべるような内容とはきわめて異なっていた。その仕組みは、なかなか面白い。

強大な力を持ったパトロン
  当時のパトロン(あるいは顧客クライアント)は、多くの場合画家の制作過程のすべてにかかわる存在だった。主題の設定から具体化、いかなる対象を描くか、画材の品質、報酬の支払い方法まで、制作活動のほとんどすべてに介入していた。その後、両者の関係は時代を経るにしたがって変化してきた。その移り変わりは、イタリア美術界ばかりでなく、フランスなどにおいても、基本的に同方向をたどったと思われる。

  当時の資料によると、あの大画家フラ・フィリッポ・リッピFilippo Lippiまでもが、丁重な手紙と下絵をパトロンに送り、それでよいかと、あらかじめ承諾を求めるようなことを行っている。ほとんどの場合、画家とパトロンあるいは顧客クライアントという当事者間では契約が交わされていた。契約書の様式まで定まったものは発見されていないが、文書に含まれた事項はかなり一致していた。前回ブログに取り上げたダ・ヴィンチの作品集にも収録されている。

契約の要件
  それらの契約にふくまれていた基本的な要件は、1)画家が描くべき主題、対象はなにか、それをどう描くか、2)画家は作品をいつ引き渡し、報酬はいつ、いかなる方法で支払われるか、3)画材、とりわけ金とウルトラマリンの品質が維持されること、という点は、ほとんど常に含まれていた。

    この契約要件でとりわけ興味深いことは、依頼者がさまざまな要求を出していることである。この時期の絵画を見ていて、しばしば画面に隙間なくさまざまなものが、ごたごたと描きこまれていることを不思議に思っていた。時代も下るが、最小限のものしか描かれていないラ・トゥールの「荒野の洗礼者聖ヨハネ」などとはまったく異なる点である。時代と地域が異なると、どうしてこれほどまでに違うのだろうと思っていた。しかし、次第に謎が解けてきた。

画家の技量を試す?
  たとえば、当時の著名画家ギランダイオにフィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェラ教会の聖歌隊席のフレスコを依頼するに際して、パトロンである依頼者のジョヴァンニ・トルナブオニは「人物、建物、城砦、町、山岳、丘、平原、岩石、衣裳、動物、鳥、できるだけ多くの獣」を含めることを求めている。この問題は、当時の依頼者の絵画についての嗜好の水準を示しているといえる。画家にとっては、芸術が分からない奴だなと思っても、パトロンの依頼とあれば仕方ない。ご要望に応じて書き込んだのだろう。パトロンは、画家の腕を試したかったのかもしれない。

  大変興味あることは、金、銀に次いで、ウルトラマリン(特にラピスラズリ)の品質が重要な条件になっていたことである。当時、ウルトラマリーンは高価なラピスラズリの鉱石粉末から抽出していた。厳しいクライアントの場合は、その過程で「一番絞り」(?)とまで条件をつけていた。実際に、最も美しいウルトラマリンは最初の抽出で得られる。聖マリアを描くウルトラマリンは1オンスあたり2フローリン、その他の個所は1オンスあたり1フローリンでよいという条件をつけたものまであった。ヨーロッパ絵画史の資料をアマチュアの目でみていると、こうした予想もしない面白い事実に出会う。

画材の質から画家の熟練へ
  そして、時代が進むにつれて、金やウルトラマリンの問題は次第に前面から後退してゆく。金は絵画の材料よりは額縁に使われるようになる。金の世界の産出が需要に追いつかなくなったことも背景にあった。絢爛豪華でひと目を惹く作品から地味で審美的な aesthetic 作品への世の中の流行の変遷などもある。

  最も重要な変化は、画材の品質から熟練・技量の質重視への移行であった。優れた画家とはいかなる資質を持った者をいうのか。作品の評価は何によってなされるのかという本質的な難しい問題である。美術についての好み(taste)は、時代とともに変遷をとげてきた。それぞれの時代に固有の「時代の目」ともいうべき評価の基準があったようだ。それでは、「時代の目」は、なにを基準としていたかということになるが、これはかなり難問である。しばらく考えてみたい。な難しい問題である。美術についての好み(taste)は、時代とともに変遷をとげてきた。それぞれの時代に固有の「時代の目」ともいうべき評価の基準があったようだ。それでは、「時代の目」は、なにを基準としていたかということになるが、これはかなり難問である。しばらく考えてみたい。

Reference
Michael Baxandall. Painting and Experience in Fifteenth-Century Italy. second edition, Oxford University Press, 1972, 1988.

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神は細部に宿る:プラド美術館展を見る

2006年06月17日 | 絵のある部屋

茶碗・アンフォラ・壺 (Taza, anfora y cantarilla) 1658-1664年頃
46×84cm | 油彩・画布 | プラド美術館(マドリッド)

Courtesy of Olga's Gallery of Art:
http://www.abcgallery.com/Z/zurbaran/zurbaran16.html

  梅雨入りの休日、東京都美術館展で開催されている「プラド美術館展」を見てみようと思い立った。2002年の「プラド美術館展」が好評だったので再び企画されたらしい。プラドはかつて在欧中に2度ほど訪れたことがある。現代の美術館としては、展示システムはややクラシックな感じがしたが、その作品の質の高さ、充実ぶりには圧倒された。

  当然のことだが、今回の展示にプラドの誇る重量級の作品は必ずしも多くない。しかし、出展数は81点、長い行列もなく、比較的ゆっくりと見ることができた。人ごみに疲れることもなく落ち着いて鑑賞できるという意味では、適度な規模だったかもしれない。会期が延長になったのも、満足度が高いからだろう。

  ティツィアーノ、ベラスケス、ルーベンス、ゴヤなどを含めて、黄金時代のスペイン、16-17世紀のイタリア、フランドル・フランス・オランダのバロック、18世紀の宮廷絵画、ゴヤという区分で、展示がなされている。作品数との兼ね合いでは、グルーピングが苦しいが、少数の作品をゆっくりと細部まで鑑賞できたのはよかった。まずまず充足感のあった展示内容だった。

  いくつか興味をひかれた作品があった。ルーベンスの「フォルトゥーナ」などごひいきを別にすると、とりわけ、ボデゴンbodegónといわれるスペイン独特の静物画が良かった。ボデゴンは、語源が1590年代までの下層の居酒屋を称したものであり、転じて居酒屋内部の情景、野菜・果物、什器備品、厨房内部などを描いた静物画を意味するようになった。今回出展されたボデゴンの数は少なかったが、スルバラン、ルイスの素晴らしい作品に出会えたのはうれしかった。

    フランシスコ・デ・スルバランは、セビーリャ派の巨匠とされ、黄金時代と呼ばれるスペイン17世紀前半という画家である。ほぼ同時代のラ・トゥールの作品が、スルバランではないかとされたこともある。人物を主題とした作品についてはラ・トゥールの方がはるかに上回っているが、ボデゴンにこめられた深い精神性という点では、どこかでつながる部分があるような気もする。

  たとえば、ここに示す4つの食器を描いた作品のひとつ『茶碗・アンフォラ・壺』。その前に立つと、その写実に富んだ卓越した描写から、深い精神性を感じさせる静謐さが伝わってくる。フランドルやオランダなどの静物画にはない深く訴えるものを持っている。実に見事な作品である。プラドの名品といってよいだろう。同時に展示されているルイス・メレンディスの『プラム、イチジク、小樽、水差しなど』も絶品である。

  対象の一点、一点が精魂込められて描かれている。どれも日常の生活になじんでいるものであり、注意しなければただの食器である。しかし、こうして描かれてみると、そのひとつ、ひとつが命を持っているようだ。神は細部に宿っているという思いが伝わってくる。小さな安らぎの一隅を見た。

  

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ウッチェロの評価:初期ルネッサンスの画家たち

2006年06月04日 | 絵のある部屋

Courtesy of
http://www.wga.hu/html/u/uccello/4battle/1battle.html 

  そろそろ、ラ・トゥールのゆかりの地、リュネヴィルでの話に戻ろうと思っていた矢先、再びわき道に入ることになる。
前回のブログで、ウッチェロに言及した後、友人からこの画家の他の作品、評価などについて聞かれ、ひとしきり話の種となった。ウッチェロは、ラ・トゥールよりさらに古い時代、15世紀イタリア・初期ルネッサンスの画家である。日本では美術史などの専門家は別として、ラ・トゥール同様知る人は少ない。

  ウッチェロの作品を最初に見たのは、70年代頃であったと思う。ロンドン・ナショナル・ギャラリーであった。「サン・ロマーノの戦い」と題した作品である。もとはフィレンツェのメディチ宮殿のために描いた作品(3部作)が、ロンドン、パリ、フィレンツェに分かれて所蔵されている。独特の構図にひきつけられ、大変面白いと思った。いつか、暇ができたら画家の背景なども知りたいと思っていた。その後、オックスフォードのアシュモリアン博物館で『森の狩』に出会い、さらにこの画家への関心は深まった。

  日本では知る人も少ない。しかし、15世紀のイタリア美術史の文献を見ていると、頻繁に登場する著名な画家である。一時はモザイク画家あるいは数学者あつかいもされていたようだ。ヴァザーリの『美術家列伝』にも登場する。初期にはあの名だたるギベルティ工房で活動していた。透視画法(遠近法)に寝食を忘れて没頭していたという逸話もあり、さもありなんと思ってしまった。

  その後、ふとした折に、ジョバンニ・サンティGiovanni Santiという同時代の画家が、当時のイタリア、オランダなどで活躍する著名画家を詩の形で取り上げたリストに出会った。ちなみに、サンティは画家としては凡庸だが、詩などの才能に優れた教養人と評されてきた(わずかに残る絵画作品の写真などをみると素晴らしい絵と思うのだが、美術家の世界も毀誉褒貶が激しい)。

  この詩には、フラ・アンジェリコ、マザッチオ、フィリッポ・リッピ、カスターニョ、ボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ヤン・ヴァン・アイク、ピサネーロ、ベリーニなど、きら星のごとき画家たちが並んでいる。別に美術史を専門にしているわけでもなく、自分だけの好みで見ているので、なんのさしつかえもない。しかし、ちょっとうれしい思いがした。ごひいきの画家が評価されていたからである。ご参考までに、このリストを記しておこう。

Fra angelico (c.1387-1455)
Paolo Uccello (1396/7-1475)
Masaccio (1401-1428?)
Posellino (c.1422-1457)
Filippo Lippi (c.1406-1469)
Domenico Veneziano (died 1461)
Andrea del Castagno (1423?-1457)
Botticelli (c.1455-1510)
Leonardo da Vinci (1452-1519)
Filippino Lippi (1457/8-1504)
Jan van Eyck (died 1441)
Piero della Francesca (c.1410/20-1492)
Melozzo da Forli (1438-1494)
Cosimo Tura (c.1425/30-1495)
Ercole de' roberti (1448/55-1496)
Perugino (c.1445/50-1523)
Luca signorelli (c.1450-1523)
Rogier van der Weyden (1399/1400-1464)
Gentile da fabriano (c.1370-1427)
Pisanello (1395-1455/6)
Mantegna (c.1431-1506)
Antonello da Messina (c.1430-1479)
Gentile bellini (c.1430-1516)
Giovanni Bellini (c.1429/30-1509)

From the prose by Giovanni Santi quoted in Baxandall

Reference
Michael Baxandall. Painteing and Experience in Fifteenth Century Italy. Oxford:Oxford University Press, 1972, 1988(second edition).

 

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ラ・トゥールとウッチェロ

2006年05月29日 | 絵のある部屋

一人の愛好家として、ラ・トゥールという画家に関わるさまざまな断片を記してきた。美術史家でもないので、かなり自由な視点で、人生の途上でめぐり合ったことを含めて、心覚えのメモのようなものである。こうしてブログに書き出したりすると、自分でも予想しなかったほど、この画家とはつながっていたのだと改めて思う。

ラ・トゥールの他にも好きな絵は多いが、ラ・トゥールの作品には深い心の安らぎを与えてくれる不思議な力がある。その力は、文字通り時空を超えて人々の心を打つ。どちらかというと、大美術館の華やかな雰囲気の中で見るよりは、小さな美術館や教会、修道院の一部屋などで1-2点、一人静かに対面するに適した作品が多い。美術館の雑踏の中ではどうしても印象が薄くなってしまう。作品も世界に知られるようになり、現代社会ではかなえられない願いである。それにもかかわらず、この画家が描いた作品の多くが秘める深い精神性は、人々の心を強くとらえてきた。

作品以外には画家本人が記した資料はほとんどなく、あくまで他者が記した文書の断片などからの推測にすぎないのだが、激動の乱世に過ごしたこの画家の生き様にも大変興味がある。

ラ・トゥールより少し時代が下がるが、しばしば引き合いに出されるフェルメールとは画家としての人生の過ごし方もかなり異なっている。フェルメールも好きな画家だが、ラ・トゥールのような厳しさ、精神的深みはあまり感じられない。彼らの生きた時代環境の反映でもある。市民生活が確立していたオランダと戦乱のロレーヌという風土の違いは大きい。

17世紀バロック美術の流れにおいても、ラ・トゥールは今やフランス画壇の主流に聳える柱の如き存在だが、長年に渡り、どちらかといえば傍流の方に位置づけられてきた。このブログでも取り上げたヴーエやプッサンのようにルーブル宮殿や大伽藍の天井画、壁画を飾ったような華やかな画家でもない。作品の多くは個人的パトロンなどの依頼に応じて、制作されたものである。

今日ここにご紹介するひとつのブログは、ジャック・エドゥアルド・バーガーという美術愛好家の生涯と事業を記念してのものである。美術好きの人はすでにご存じだろう。バーガーは1945年にスイス、ローザンヌに生まれ、その人生を美と美術の追求のために過ごしてきた。残念なことに1993年に心臓病で急逝してしまった。日本を含め、東洋美術への関心と造詣も深かった。その生涯の間に125,000枚を越えるカラースライド・コレクションも残している。

この人生を美の探求に捧げた人物を記憶にとどめるために、彼の名前を付した財団JACQUES-EDOUARD BERGER FOUNDATIONが創設され、素晴らしいサイトが運営されてている。実はバーガーが最も好んだ画家の一人が、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールであった。すでに14歳の時に、ラ・トゥールに関するエッセイを記している。サイトには、彼の美術をめぐるさまざまな跡が残されている。画像の画質はデジカメ時代の初期のものもあり、かならずしも良好とはいえないが、ラ・トゥールについての講演(オーディオ・レクチャー、フランス語)なども収録されていて、非常に興味深い。

そして、現在のサイトのカバーページを飾っているのが、このブログでも紹介したことのある15世紀の画家ウッチェロ Paolo Ucchelloの『森の中の狩』である(6月1日からカラバッジョに代わっているが、ウッチェロ、ラ・トゥールもワン・クリックで見られます)。さらにサイトの今週の画家(painter this week)はこのブログでも少し触れたことがある大画家プッサンである。世界に数ある絵画の中で、どうしてこれほど関心が重なり合ったのか、不思議に思う。


本ブログ内関連記事
http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/e/3a7b58fe8e09d6493ab8364ddf945a1f

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キルヒナーを東京で見る

2006年03月19日 | 絵のある部屋

 キルヒナーという画家は見る側からすると、大変好き嫌いの振幅が大きいようだ。嫌いな人にとっては、陰鬱、不気味、退廃的な画家に映るらしい。しかし、この画家をポジティブに評価する人からすると、キルヒナーほど時代の持つ意味を深く体得し、鋭く表現した画家はいないということになる。生涯を通して、画風や対象には大きな振幅があった画家だが、特にベルリン時代の作品に優れたものが多い。戦車や軍靴の響きが聞こえてくる暗い時代を予告するような不気味さ、都市の深層に流れる底知れぬ暗い潮流を鋭利にえぐり出している。

「ポツダム広場」を東京で
 さて、今ならばキルヒナーの作品のいくつかを東京で見ることができる。以前にこのブログでもとりあげた、あの「ポツダム広場」や「日本の芝居小屋」が含まれている。キルヒナーだけではない。日独の多くの芸術家の作品が展示されており、東京とベルリンという東西の2都物語を楽しむことができる。この二つの都市は、予想外に複雑に交錯する時代的空間を共有していることが分かる。もっとも、展示作品にはどうしてこのテーマに関連するのかと思うものもあり、企画・選定にかなり無理が感じられた。「日本におけるドイツ年」の最後の催しである。

 ベルリンという都市は、東京とは違った意味で変化の激しい都市であると思う。訪れるたびにその変貌ぶりに驚かされる。最初に訪れたのは、まだ「壁のあった」時代、テンペルホフ空港で目にした空港守備隊の戦車と兵士には、心臓が止まりそうな思いをしたことを今でも鮮烈に思い出す。駐機場に置かれた戦車の砲身はしっかりと到着したばかりの航空機に向けられていた。「百聞は一見にしかず」と立ち寄ったカフェ・クランツラーで単なる旅行者にすぎない私に、こちらがひるむくらいの熱心さで、東ベルリンの惨状と分かれて暮らす叔母のことを語った隣席の若者も忘れられない。同世代と思ったからだろうか。

爽やかな緑
 そして、今は緑の美しい都市である。キルヒナーの緑とは異なる爽やかな色である。東京と比較すると、中心部でも人が少ない。大都市ではあるが、繁華街であるクーダム近辺を歩いても東京のような喧噪は、まったく感じられない。東京のような雑踏、ざわめきがない落ち着いた都市である。そして、なによりも、あの充実した美術館の集積には圧倒される。美術が好きな人にとって、ベルリンはパリやロンドンと並んでもはや絶対に欠かせない場所である。そして、現在さらに充実の過程にある。


Berlin-was nun?


*「東京ーベルリン/ベルリンー東京展」(森美術館、東京・六本木ヒルズ森タワー、5月7日まで)。
http://www.mori.art.museum/html/jp/index.html

本ブログ内関連記事
http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/e/e1a81c052671165965ac489fe66b9967

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キルヒナー:音楽的表現

2005年12月30日 | 絵のある部屋

  年末、身の回りの片づけをしていると、しばらく忘れていたCDなども見つかる。その中にロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ(RAA)が、「キルヒナー特別展」のために作成したKirchner Music Expressions と題した一枚があった。

  何回か聴いたことはあるが、その後は機会もなく、積み重ねられたままであった。早速、バックグラウンドで聞くことにした。 キルヒナー(1880-1938)は、時の経過をおいてみれば、ドイツ表現主義芸術家の旗手ともいえる存在であった。作品は画家の生涯を通してみると、かなり画風が変化してはいるが、総じて力強く情熱的な色彩感で満ちている。時には素朴なまでの荒々しさが感じられる。

  キルヒナーが生きた同時代のドイツの音楽界においても、絵画と同様にさまざまな新しい動きが展開していた。ダイナミックな音の流れの中に、人間の情緒と自然な世界の変化を新しい形で表現しようとする試みが盛んに行われた。キルヒナーの絵画同様に、フレッシュで、オリジナルな音楽が創り出された。

  このCD一枚を通して聞いてみると、ひそかに忍び寄る時代の不安の中で、新しい芸術の先端を切り開こうとする芸術家たちの息吹きのようなものが感じられる。ほとんど聞いたことのない曲もあるが、オルフの「カルミナ・ブラーナ」のようになじみのある作品も含まれている。シェーンベルグのSolidarityのように、オットー・クレンペラーが合唱には難しすぎて、よほどのリハーサルなしには演奏できないと厳しいクレームをつけたSix Pieces for Male Choir の一部*などが入っているのは幸いである。 印象など詳細はまたゆっくり書ける時があるかもしれない。とりあえず、収録されている曲名だけでも記しておこう。


At Play in the Waves, Reger
Royal Concertgebouw Orchestra, Neeme Järvi, conductor

*Solidarity, Schoenberg
The Sons of Orpheus, Robert Sund, conductor

Elegie, Rheinberger
Paul Barmit, violin, Christopher Herrick, organ

Silence, Reger
Danish National Radio Choir, Stefan Parkman, conductor

Transfigured Night-Adagio, Schoenberg
Orster Orchestra, Takuo Yuasa, conductor

The Berlin Requiem-Ballad of the Drowned Girl, Weill
The Sons of Orpheus, Uppsala Chamber Orchestra, Robert Sund, director

Evening Song, Reger
Danish National Radio Choir, Stefan Parkman, conductor

Pastorale, Rheinberger
Paul Barmit, violin, Christopher Herrick, organ

Passacaglia for Orchestra, Webern
Scottish National Orchestra, Mattiase Bamberk, organ

Nobilissima Visione-Introduction and Rondo, Hindemith
BBC Philharmonia, Yan Pascal Tortelier, conductor

Carmina Burana-O Fortuna, Orff
Slovak Philharmonic Chorus, Slovak Radio Symphony Orchestra, Stephen Gunzenhauser, conductor

Evening, Strauss
Danish National Radio Choir, Stefan Parkman, conductor

 

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キルヒナーとベルリン時代(3)

2005年12月10日 | 絵のある部屋

 
Credits:
Ernst Ludwig Kirchner, The Drinker; Self-Portrait, 1914/16 Nuremberg, Germanisches Nationalmuseum (Left)

Ernst Ludwig Kirchner, Self-Portrait as a Soldier, 1915, Oberlin, Ohio, Allen Memorial Art Museum (Right)

  キルヒナーの研究者であるヴォルフ Norbert Wolf が形容したように、時代とともに、画家自身も「時の奈落の淵」On the Edge of the Abyss of Timeに立っていた。 キルヒナーの画風は、20世紀初め、世界の存亡をかける最初の大激変の時代に生きた画家として激しく変化している。ほぼ一貫しているのは色彩の使用が大胆、エネルギッシュで、迫力がある点であろう。とりわけ1905年から1918年にかけての時期は、画家として最も充実していたといえる。この間に画家は、ドレスデンからベルリンへ活動の中心を移している。

  特に、今回取り上げたベルリン時代は、この世界的な大都市の複雑でダイナミックな特徴を背景に、きわめて興味が惹かれる時期である。 キルヒナーはその生涯にかなり多数の画家の影響を受けている。作品を通してみると、どの画家の影響が強かった時期か、ほぼ類推ができる。とりわけ、ヴァン・ゴッホ、ゴーガン、セザンヌ、マティス、カンディンスキー、ムンク、あるいはアフリカン・アートなどの影響を強く受けている。ロイヤル・アカデミーの特別展にも出品されていたが、ジャポニズムの影響も受けたようで、ドレスデン時代の1909年には 歌舞伎の舞台を描こうとしたと思われる「日本の劇場」Japanese Theatre と題する作品を残している。(ドレスデンでの歌舞伎興行?を見ての作品らしい。しかし、この作品も見ているとエキゾティックという次元を超えて、不気味な感じが漂ってくるような気がする。)

危機と不安の中で
  1911年にベルリンに移ったキルヒナーは、この時代の先鋭さと大戦前の緊迫した状況から衝撃といってよい影響を受けた。ベルリンでは芸術の世界もきわめて競争的であるとともに実験的・前衛的雰囲気に満ちていた。この時期の作品は全体に重苦しい陰鬱さと複雑さに満ちている。特にベルリンの街路の光景を描いた一連の作品は、洗練された町並みの背後に潜む時代の緊張と恐れ・不安、そして退廃性を鋭く伝えている。これらは最もキルヒナーらしい作品といえるかもしれない。 

  1915年にキルヒナーはハレの砲兵師団に徴兵(最初は画家自身が「非自発的に」自発的応募したと表現している)されるが、まもなく心身ともに疲労、精神に異常を来たし、肺の疾患と病弱を理由に兵士に適さないと除隊を宣告される。キルヒナーは多数の自画像を残しているが、アブサンのグラスを前にした自画像は、やつれた容貌で、倒錯した生活を送っていたことを直感させる。ネグロイドの容貌で描かれ、アフリカン・アートの影響がうかがわれる。

心を病んで
  特別展の一番最後に配置されていた著名な「兵士としての自画像」は、軍隊生活経験後の精神的な苦悩を明らかに示している。キルヒナーの着ている軍服には所属した砲兵師団番号の75が肩章として記されている。背後のヌードは彼のよりどころである愛人と芸術へのこだわりを象徴しようとしたのだろうか。 あたかも切断されたような右手は、奪われつつある制作活動を象徴しているのかもしれない。形容しがたい不安と倒錯した感情が漂っている。

  この後、画家は精神障害が激しくなり、スイスなどで療養生活を過ごす。その間にいくつかのグラフィックな作品などを残している。しかし、ドレスデン・ベルリン時代のような卓越性と集中力は次第に褪せている。晩年の作品などは、一見するとムンクの筆になるものではないかと思わせるほどであり、キルヒナーらしい先鋭な個性が消えている。   

  ナチスから退廃的な芸術家とされ、ベルリン・美術アカデミーからも追放された。そして、作品は1937年の「退廃芸術展」に退廃的作品の例示のために出品された。これは、画家のナチス・ドイツにおける所在の否定となり、その後の挫折と1938年の自殺へとつながることになった。

  軍靴の響きは近づいていたのだが、ベルリン市民はほとんどそれに気づいていなかった。後で回顧してみれば、戦争が現実のものになるまでは、沈んだ時代を鼓舞するような響きさえ持っていた。しかし、作家でダダイズム詩人のメーリングWalter Mehringが感じていたように、ベルリンは「サーベルの音とともに、死が忍び込み、舞踏する都市」へと変化していた。
*

*Norbert Wolf, Ernst Ludwig Kirchner, Taschen, 2003

Jill Lloyd (Editor), Magdalena M. Moeller (Editor) Ernst Ludwig Kirchner: The Dresden and Berlin Years , The Royal Academy, 2003.


本ブログ内関連記事

http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/e/e1a81c052671165965ac489fe66b9967.

http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/e/5039e416147af86491c41e35d0a51b21

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キルヒナーとベルリン時代(2)

2005年12月02日 | 絵のある部屋



Special Exhibition:Kirchner: Expressionism and the City Dresden and Berlin 1905-1918, Royal Academy of Arts (Left)

Ernst Ludwig Kirchner, Potsdamer Platz, Berlin, 1914 Berlin, Staatliche Museen zu Berlin- Preussischer Kulturbesitz, Nationagalerie  (Right)
http://www.artsci.wustl.edu/~mjkrugle/Kirchner%20bit.JPG


  「緑」色が不気味な色であるとは、それまで考えたこともなかった。ロンドン・ロイヤル・アカデミーで、キルヒナーの特別展の垂れ幕が緑色であるのに気づき、最初はキルヒナーはアイルランドと関係があるのかなと思ったくらいである。しかし、作品を見ているうちに、この「緑」色の秘めた色調がただならぬものであるのに気づいた。

  特別展は、キルヒナーが画家として活動した舞台であるドレスデンとベルリン時代の作品に焦点を当てていた。とりわけ20世紀初めのベルリンは、ロンドン、パリに次いでヨーロッパ3番目の大都市であった。芸術面でもきわめて突出していた。芸術・文化の新分野において、いわばメルティング・ポットの様相を呈しており、さまざまな前衛的・創作実験の場となっていた。政治的にも文化的にも、かなりリスクの大きなさまざまな運動が展開していた。

  1912年にベルリンに移ったキルヒナーにとって、この大都市はアンビバレントな存在であったようだ。革新的、斬新な試みを受け容れる反面、自分の作品が広く認められないことにも焦燥感を持ったようだ。

噴火口での舞踏
  結果として、画家は深く鬱積した精神的状況から抜け出ようと、さまざまな試みをしたが、芸術家の世界は必ずしも彼を暖かく迎えなかった。作品も売れず、結果として、キルヒナーは時代を超えた前衛的な創造力を極限まで発揮しようと苦しんでいたようだ。そして時代は大きな転換期、やがては破滅へとつながる時にさしかかっていた。


  ベルリン時代のキルヒナーの作品はかなり多様にわたっている。ロイヤル・アカデミーの特別展は、当時の画家の活動をさまざまに語っていた。 その中からひとつの作品を取り上げてみたい。

「ポツダム広場」
  ドイツの大都市を表現主義の視点から描いた絵画の象徴といわれる「ポツダム広場」Potsdamer Platzと題された作品である。キルヒナーのアトリエからは、地下鉄ラインでポツダム駅へ15分ほどであった。このポツダム駅とフリードリッヒ・シュトラッセのライプジッヒ広場までは、キルヒナーが好んで歩いた道として知られている。大都市ベルリンのいわば心臓部ともいえる地域である。

  この作品もなんとも表現しがたい雰囲気を漂わせている。ポツダム駅の赤い煉瓦を背景に、二人の女、おそらく娼婦が描かれている。画面左の黒衣の女の顔は横顔で、しかもヴェイルのために正面の女ほどはっきりとはしないが、片一方の白い手だけが際だって目立つ。寡婦のヴェイルをまとっているとされている。

  正面を向いた女は、衣装などは一見貴婦人風だが、その顔は、見るからに異様で不気味に描かれている。決して昼間の顔ではない。 この作品は1914年8月、第一次大戦勃発直後に描かれたと推定される。その時以降、娼婦はベルリンでは兵隊の寡婦のような身なりを要求されたという。そして、警察の規制にしたがって「レディのように」に歩くことになっていたともいわれる。

  女の後ろには顔は分からない黒い背広の男が描かれている。男の立つ歩道は鋭角的に描かれており、他方、正面の女の立つ交差点の場所は、円形の舞台を思わせる。男が渡ろうとしている街路は、足を踏み外したら奈落の底に落ち込んで行きそうな感じがする。そして、画面を不気味に退廃的な緑色が覆っている(この緑色は、気づいてみると特別展の垂れ幕の色でもあった。) 今日の視点からすれば、大戦勃発当時の不安と不気味な陰鬱さに充ちたベルリンのある光景を象徴的に描いた作品という評価がされている。しかし、作品が発表された当時は画壇でも嘲笑の的だったといわれる。

アブサンの色
  大戦勃発当時当時、キルヒナーと同棲していた愛人エルナは、彼らの唯一安らぎの場であったフェーマン島 Fehman Islandに滞在していたが、島が軍の規制地域となったため急いでベルリンへ戻った。一時、スパイとして拘留されたようだ。 その後は自分の作品が反時代的、「退廃的」とみなされたこともあって鬱屈し、徴兵を待つ時を過ごしていたといわれる。強い酒アブサン absintheを 一日1リットルも飲んでいた時があった。緑色はこの色でもあった。


「キルヒナー:表現主義とドレスデン、ベルリン 1905-1918」 Kirchner: Expressionism and the City Dresden and Berlin 1905-1918

Phicture
Courtesy of
Staatliche Museen zu Berlin- Preussischer Kulturbesitz, Nationagalerie

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キルヒナーとベルリン時代 (1)

2005年11月30日 | 絵のある部屋

Ernst Ludwig Kirchner, Friedrichstrasse, 1914, Staatsgalerie Stuttgart #

  ヨアヒム・フェストの『ヒトラー最後の12日間』を読んだ友人と感想を話す機会があった。ゲッべルスについての話から、たまたま20世紀前期の画家エルンスト・ルートヴィッヒ・キルヒナー(Ernst Ludwig Kirchner, 1880-1938)に話が及んだ。実はこの退廃的印象を与える画家は、かなり私の脳裏に深く食い込んでいた。そして、ヒトラーと画家のつながりにも改めて気づかされることになった。

  ゲッべルスについての記憶は、おそらく最初は父親の書斎の一隅にあった『宣伝の威力』を覚えていたことくらいから生まれたのだろう (残念なことに処分してしまって、現物が手元にない)。とはいっても表紙のデザイン(お定まりのハーケンクロイツがあったと思う)以外に内容はほとんど記憶がない。その後、ヒトラー、第三帝国などに関する書籍を読む間にかなり知識が蓄積されてきた。 (映画「ヒトラー最後の12日間」のゲッべルスのイメージは、少し違った。もっと雄弁ではないかという先入観があった。)

ヒトラーと退廃芸術展
  当時、ドイツ第3帝国宣伝相であったヨゼフ・ゲッべルスはヒトラーの意を受けてか、1937(昭和12)年6月、プロイセン美術院総裁アドルフ・ツィーグラーに《退廃美術(堕落した美術)》を美術館から没収し、それらをまとめて公衆の目に曝すための展覧会を開催するよう委嘱した


  これに先立って強行された1933年5月10日ベルリンをはじめとする大学都市で反ドイツ的とナチスが看做した書物を燃やした悪名高い《焚書事件》が、いよいよ美術作品にも及んできたのだ。ナチスによって《退廃美術》の烙印を捺された美術はキュビスム、ダダイズム、表現主義、抽象、シュルレアリスムなど近代美術全般に及んだ。ゴッホの自画像やピカソ、クレー、エルンスト、カンディンスキーなど近代美術の先駆者たちの多くの作品が含まれていた。

キルヒナーの生涯
  年譜によると、キルヒナーは1880年、ドイツのアシャッフェンブルクに生まれた。1901年、ドレスデン工科大学で建築を学んだ後、1903年から1904年にかけてミュンヘンで美術を学んでいる。1905年、ドレスデンにてヘッケル、シュミット=ロットルフらと画家グループ「ブリュッケ」(「橋」の意)を結成した。「ブリュッケ」の画家たちは、共通の表現様式や主義をもっていたわけなく、従来のアカデミックな芸術に反抗する若手画家の集団であった。


  キルヒナーは1911年、他の「ブリュッケ」の仲間らとともにベルリンに移住し、1912年には、カンディンスキー、マルクらの結成した「青騎士」グループの展覧会にも出品している。「ブリュッケ」には後にエミール・ノルデらも誘われて参加するが、1913年には解散した。(カンディンスキーとのつながりもここで分かった。)

  キルヒナーは第一次世界大戦に参加するが、神経衰弱がひどく除隊になり、フランクフルト近郊のサナトリウムで療養生活を送った。大戦後も制作活動を続けるが、1930年代半ばからは心身の衰弱がさらに激しくなった。自分の作品が「退廃芸術」とされたことにもショックを受け、1938年に自ら命を絶った。

作品との出会い
  キルヒナーの絵と最初に出会ったのは、記憶が定かではないが、1970年代初めのニューヨーク現代美術館かベルリン(現在のNeue Nationalgalerie)ではなかったかと思う。好きな絵画ではないが、第一印象は大変強くかなり後まで残っていた。比較的足繁く通ったグッゲンハイム美術館でよく見たカンディンスキーと似たところがあるという印象もあった。 強烈な原色が使われ、その独特なイメージとともに、当時のドイツ社会の不安と退廃を象徴的に示していた。一見して時代の不安が伝わってくるような感じを受けた。(キルヒナーの若い頃の写真をみると、神経質そうでニヒルな感じもする。)

  その後、特に意図したわけではないが、キルヒナーの作品とはさまざまな機会に出会った。最近かなりまとまった形で作品を見たのは、お気に入りのロイヤル・アカデミー・オブ・アーツで 「キルヒナー:表現主義とドレスデン、ベルリン 1905-1918」 Kirchner: Expressionism and the City Dresden and Berlin 1905-1918 と題して、2003年6月から9月にかけて、イギリスで最初となる大きな展覧会 Exhibition が開催された時であった。この展覧会については、長くなったので別に記すことにしたい。


Reference

関楠生『ヒトラーと退廃芸術---〈退廃芸術展〉と〈大ドイツ芸術展〉』(河出書房新社、1992).

Jill Lloyd (Editor), Magdalena M. Moeller (Editor) Ernst Ludwig Kirchner: The Dresden and Berlin Years , The Royal Academy, 2003.

Norbert Wolf. Ernst Ludwig Kirchner 1880-1938, On the Edge of the Abyss of Time, Koln:Taschen, 2003.

#
エーバーハルト ロータース (編集), Eberhard Roters (原著), 多木 浩二 (翻訳), 梅本 洋一 (翻訳), 持田 季未子 (翻訳) 『ベルリン―芸術と社会 1910‐1933』
ちなみに本書の表紙には、キルヒナーのこの作品が使われている。

Exhibition
Kirchner: Expressionism and the City Dresden and Berlin 1905-1918
http://www.royalacademy.org.uk/?lid=933



 

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移ろいやすいは世のならい(II)

2005年10月02日 | 絵のある部屋

 


Joseph Mallord William Turner. Waves Breaking against the Wind  circa 1835, Tate Collection.


    画材の質が、作品のその後に大きな影響を与えることについては、前回に記した。そのことを知っていて、顔料、絵具などの選択に細心の注意をする画家がいる一方で、画材の質などにほとんど関心を寄せない画家もいるようだ。

  イギリスの国民的画家であるターナーJoseph Mallord William Turnerは、どうも後者のようである。1835年頃、「風にくだける波」Waves Breaking against the Wind*を描いたとき、日没に向かう太陽の最後の光が雲に映える様子が赤色の絵具でほのかに描かれていたはずであった。

画材を気にかけない大家
  しかし、今日この作品を見る限り、画家がイメージしたようなカーマイン(深紅色)の部分は褪せて失われてしまっているようだ。偉大な画家たちはあまり画商などの言葉に耳を傾けなかった。

  ターナーはいくどとなく、褪色する絵具は使わない方が良いといわれたらしい。しかし、1835年頃の制作当時、ピンク色の日没と荒波の情景を思い浮かべていた画家は、それがいずれ褪せるということは知っていて、輝いた赤を選んだ。もしかすると、色が褪せるという考え自体を好んでいたのではないかとも思われる節がある。

  ターナーの作品は時代によって大きく変化している。画家の描く空や波は、絶えず変化する対象である。カンバスの上に描かれた対象も時とともに変わるというのは、画家の想念のどこかにあったのかもしれない。

  ひとつの逸話として残るのは、ターナーが現在も存在し、著名な画材商であるウインザー・ニュートンWinsor & Newtonで絵具を求めた時、店主のウインザー氏がそのいくつかについて、色は長持ちしませんよと注意したところ、「自分の商売を考えろ」と答えて、相手にしなかったことがあったという(Finlay 148-149)。

  テートで、ターナーの作品の修復・保持にあたるタウンゼント Joyce Townsend博士によると、ターナーは制作の仕方が気ままでであったことに加えて、国家への遺贈品となった彼の作品が、制作当時と比較してかなり褪色していることを指摘している。

    ターナーは自分の作品を所有する誰かが、油彩や水彩の褪色やひび割れに手を加えてほしいと持ち込んでもとりあわなかったらしい。画家は自分の作品のその後については、ほとんど関心がなかった。批評家のジョン・ラスキンは、ターナーの作品は描かれて1月もすると、ひび割れその他が目に見えてくるとまで言っている。

その一瞬にかけた画家
  画家は80年いや180年後の自分の作品がどうなるかといったことについては、まったく関心がなかったといってよい。まさに、画家が対象とした自然と同じように、作品自体も変わってしまうものだということを悟っていたのだろう。自分の作品の保存や将来について、ほとんど関心を持たなかったターナーにとっては、キャンバスを前にした制作の一瞬こそが大事だった。目の前に浮かんだイメージを描き出すに必要な画材さえあれば、それで十分だったのだ。


*この作品の詳細については、
http://www.tate.org.uk/servlet/ViewWork?workid=14887&searchid=25577&tabview=image

Reference
Victoria Finlay. Colour, London: Sceptre, 2002.

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移ろいやすいは世のならい( I )

2005年09月30日 | 絵のある部屋

Vincent van Gogh. Roses, 1890, Gift of Pamela Harriman in memory of W. Averell Harriman 1991.67.1 National Gallery of Art, Washington, Gift of Pamela Harriman in memory of W. Averell Harriman

あなたの見ているゴッホの色は?

  今、見ている絵画の色は、画家が実際にキャンバスに向かって描いた時の色だろうか。こんなことは、美術館で作品を見ている時には、あまり考えたことがなかった。しかし、今年の夏、暑いオックスフォードで調べものをしている時にふと思い当たった。いつもの悪い癖なのだが、本来の仕事を放り出して、いくつか資料を読んでいると、実は時の経過とともに、絵画は著しく変色、褪色してしまうことを改めて知らされた。

  やや誇張していう
と、作品によっては、画家が絵筆を振るった一瞬がイメージした真の色であり、完成してしばらくすると、もう古くなっているのだ。作品は「生鮮品」であるといえる。作品がどれだけ制作時の「鮮度」を残しているかは、さまざまな要因によって決まる。保存状態、経過した時間の長さ、画材など、複雑な要因が介在している。このあたりは修復学では、多くの蓄積があるのだろう。 

ピンクであった白いバラ
  ひとつの例をご紹介しよう。ワシントンの国立美術館が所蔵するゴッホ Van Goghの「白いバラ」White Roses と題されたよく知られた作品がある。画
家が精神に異常を来たして収容されていた時の作品である。しかし、制作時の1890年頃には病状も落ち着いてきたこともあって、大変美しい静物画である。 
  この作品について1990年代末ごろにひとつの事実が明らかになった。どうも制作時は、一部におそらくあかね色 madder red が使われていたらしい。そして、バラの色もピンクであったようだ。最近では作品名も「バラ」roses になっているが、美術館の所蔵する古いポスターには画家が使った褪色する前の色が残っているらしい。

品質の悪い絵具 
  なぜ、こうしたことが起きたのか。その最大の原因は、絵具・顔料にあるらしい。ゴッホは作品に使う絵具を、パリのジュリアン・タンギー Julien Tanguy (この画商は出入りの画家に大変愛された人物で、ニックネームの「ペレ」で知られていた)という画材商(14 rue Clauzel) から購入していた。ポール・セザンヌなどもお得意だった。ゴッホはこの画商の肖像画を3枚も残している。
  画材商の妻は、ゴッホがかかえている画材の借金の返済を促すよう夫にいつも迫っていたらしい。他方、ゴッホの方は、絵具の品質には強くこだわっており、タンギーの画材のいくつかには不満を持っていたようだ。


  このブログでとりあげているラ・トゥールの作品発見の過程でも、後年のさまざまな修復や加筆によって、真作・贋作の判別に困難を来たしたり、結果として作品が大変荒れてしまったものもあることを思い出した*。「移ろいやすいは世のならい」は、芸術の世界も例外ではないようだ。

 

* 下記の「手紙を読む聖ヒエロニムス」で触れたことがある。

http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/e/78ad356559daedf2280f2cee61dc0b11

Image: courtesy of the National Gallery of Art, Washington, D.C.

http://www.nga.gov/education/vgt_slide17.shtm 

Reference

Victoria Finlay. Coloour, London: Sceptre, 2002.

 

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久しぶりのアシュモリアン(2)

2005年09月22日 | 絵のある部屋

J.F. ルイス、「マンティラをまとったスペイン少女の肖像」
 

John Frederick Lewis, Head of a Spanish Girl Wearing a Mantilla, ca. 1838,Presented by Prof. Luke Herrmann through the National Art Collections Fund (from the Bruce Ingram Collection), 2002  

  世界屈指の学術都市だけに、オックスフォードの芸術的環境も大変素晴らしい。そのひとつの中心がアシュモリアン美術館である。かつては「ユニヴァシティ・ギャラリー」と呼ばれていただけに、大学との関連は深い。美術、博物の研究者にとっては垂涎ものの展示物も多い。

  一部の特別展示などを除くと、観客の数は少なく、静かな環境で作品鑑賞ができる。前回紹介したウッチェロの「森の中の狩」なども、同美術館の誇る展示物のひとつだが、特に人だかりなどがあるわけではない。絵の前にある長いすに座ってゆっくりと鑑賞することができた。
 
  ひとつひとつ見てゆくと、小品ながら思いがけない大家の作品などがさりげなく展示されている。エル・グレコ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロなどの作品に出会い、ここにあったのかと認識を新たにすることも度々である。 

  ここで紹介するイギリス19世紀の画家J.F.ルイスの「マンティラをまとったスペイン少女の肖像」も、アシュモリアンの所蔵する隠れた名品である。18世紀末から19世紀初めにかけて、美術家のエキゾティックな対象への関心は高まった。John Frederick Lewis (1805-1876) もカイロに10年近く住み、オリエンタリズムへの関心に支えられた多くの作品を残した。特に、ルイスの作品には日常接する人々や情景を描いたものが多い。

  とりわけ、1833-34年、スペイン旅行の際に描いたスケッチや水彩に印象に残る作品が見られる。この作品はルイスがスペイン旅行から帰って4年後に、セヴィリアの少女を描いた同様な構図のリトグラフ(Sketches of Spain and Spanish Character,1836)からインスピレーションを得て、描いたものである。

  画家が少女の顔の部分について大変細部にこだわって描いた美しい作品である。頭部は黒いレースのヴェイル(マンティラ)で覆われ、17世紀のヴェラスケス、ムリリョ、スルバランなどの作品を思わせる雰囲気が漂っている。これまでもアメリカを含めて、海外からもたびたび出展を望まれた作品である。

  マンティラは教会の礼拝や往復などにまとうことが多く、宗教的な背景を感じさせる。 彼女の衣装は現代スペインに近いとはいえ、イスラーム世界、そして遠いキリスト教の過去へのつながりを思わせる。


Image: Courtesy of the Ashmolean Museum, Oxford

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森の中の狩

2005年09月17日 | 絵のある部屋

Paolo Uccello (Florence 1397-1475) The Hunt in the Forest

Tempera and oil on panel (composed of two poplar planks) 73.3:177 cms (A79), Probably painted around 1470, Ashmolean Museum, Oxford

モダーンな印象 
  おびただしい数の狩人と犬が、森の中で獲物を追っている。獲物は鹿か猪か。おそらく鹿だろう。この光景を見る人の視線は、自然に森の奥、獲物の逃げている方向へと導かれる。きわめて巧みに計算された構図である。
  しかも、狩人や犬、馬、木々などはアニメ化されたように見事に様式化されて描かれている。狩人たちの赤い衣服、白い犬が月光に照らし出された森に映える。全体の印象はきわめてモダーンである。中世をテーマとした現代絵画といわれたら、信じてしまうかもしれない。とても15世紀の絵画とは思えない。

綿密に計算され尽くした作品
  この絵は1850年、イタリア滞在の外交官で美術に造詣の深かったフォックス・ストラングウエイス卿Hon.W.T.H. Fox-Strangways からアシュモリアン博物館に寄贈された。画家はイタリアのパオロ・ウッチェロ(Paolo Uccello, Florence 1397-1475)であることも判明した。制作は1460年代後半であると推定されている。ウッチェロは幾何学と遠近法に強い関心を持っていた。
  横長の独特のスタイルを持つこの絵画は、「スパリエラ」(spalliera 「肩」を意味する)という様式が採用されており、ある部屋の肩の高さに掲げられていたと考えられる。アシュモリアンには、同じ画家ウッチェロの手になると思われる『受胎告知』の絵も所蔵されているが、こちらはきわめて古典的な構図、技法で描かれており、すぐには同一人物の作品とは分からないほどである。

  ラトゥールやカラヴァッジョのような天才的画家は、しばしば大きな「革新」を試みる。 ウッチェロも大変な力量の持ち主であったと思われる。狩人の衣装は現代的で、15世紀フローレンスにおける室内画の伝統を引き継いでいる。狩の状況を描いた図は、他にもあるが、これだけ見事な作品はほとんど見当たらない。

画家を熟知したパトロンの存在
  作品を依頼したと思われるパトロンは、ウッチェロの作風と力量を熟知していたと思われる。パトロンが誰であったかについては、いくつかの推測はあるが、確定されていない。しかし、富裕で高い鑑識眼のある貴族の邸宅の一室に掲げられていたものであることは、ほぼ確かである。この一枚を見るだけで、私はいつもアシュモリアンに来てよかったと思う。

綿密な下地作業
   1987年、作品はケンブリッジ大学のHamilton Kerr Instituteにおいて保全・修復の作業がなされた。この時、X 線による分析なども行われ、それまで分からなかった多くの点が明らかにされた。この分析で、画家が下地の処理に細心の注意を払い、二枚のポプラの板の継ぎ目、節目や傷の補填にさまざまな対応をしていることが明らかになった。そのため、画板の表面がきわめてなめらかで、こうした美しい作品を生み出すことができたと思われる。

十分に計算された構図と色彩
  画家はもちろん、それらの問題を十分承知の上で地味な作業に時間をかけたのだろう。 さて、この絵は現実の狩の有様を描いたのだろうか。それとも、仮想の作品だろうか。この点についても、考証が行われており、現実とファンタジーを巧みに混合したものであることが判明している。
  森に射し込む月光の効果を計算して、木々の上部をみると森の奥ほど暗い闇が支配し、近くになるほど葉の緑や花の色の明るさが増している。狩に参加している貴族たちの衣装や馬や犬の配色にも光の効果が計算されている。

  狩の獲物として彼らが追っているのは、間違いなく鹿であると考えられる。当時、鹿は高貴な動物とされ、鹿狩りには特別な重みがあった。 ウッチェロは幾何学と遠近法をLorenzo Ghibertiから習得し、Donatelloの友人であった。二人とも、ルネッサンス芸術に革新をもたらしたきわめて著名な人物であった。
  描かれた人物、馬、樹木などにも幾何学的な単純な線が多用され、写実性は後退している。実際にも狩場の木々は、移動や見通しを容易にするために下枝が伐採されていたが、この作品ではそうした点も、かなり様式化されて描かれている。犬も狩猟用のグレイハウンドであろうか。  

  ウッチェロはその人生で数多くの作品を制作したが、今日まで残るものは少ない。とりわけ、フレスコ画の多くは損傷したり、離散してしまった。ウッチェロについては、あの著名なヴァザーリの『芸術家列伝』(Vasari Lives of the Artists, 初版は1550, 拡大版 1568)に記されている。 この『森の中の狩』を静かな部屋で見ると、なんとなく幻想の世界に引き込まれているような思いがする。アシュモリアンを訪れるたびに、心が清爽となるような絵の代表的な一枚である。

Reference
Catherine Whistler. The Hund in the Forest by Paolo Uccello, Ashmolean Museum, Oxford, 2001.

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