時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

桜とレンブラント

2007年05月01日 | 絵のある部屋

青柳邸内展示パネルの一枚 
レンブラントの模写部分についてのパネル説明文は、次のように書かれている:
(Rembrandt)レンブラント(オランダの有名な画家・1606年-69)筆の人体解剖図を写す。        Ayata?(模写内署名)



  
桜見物のために角館を訪れていた時のこと。公開されている武家屋敷のひとつ青柳家で屋外に置かれた展示物を見ていると、思いがけないつながりに驚かされた。日本の蘭画画家としての小田野直武についてのパネルがあった。小田野直武の名は聞いたことがあったが、その生い立ちや活動についてはほとんど知らなかった。

  杉田玄白の名は『解体新書』(安永3年、1774年)とともに、日本人の間ではあまりにも
著名だが、小田野直武はその図版(挿図)を担当した画家であった。画家が表紙絵と図版を描いた初版の『解体新書』は庭園内「ハイカラ館」に展示されている。  

  当時、角館の主藩であった久保田藩は、財政立て直し政策の一環として鉱山開発を企図、この事業に精通している平賀源内と鉱山技師の吉田理兵衛を1773年(安永2年)に藩に招いた。滞在中に小田野の屏風絵などを見て、画家としての才能を見出した平賀源内が江戸へ連れ出し、杉田玄白に推薦したようだ。

  小田野直武(1749~1780)は角館城代・佐竹義躬(よしみ)の槍術指南役を勤めていた下級武士、小田野直賢(なおかた)の四男として生まれた。  

  小田野家と青柳家は姻戚関係にあり、公開されている青柳邸内で、小田野直武の胸像が置かれた付近に、かつて小田野家の本家、即ち、直武の生家があったらしい。その胸像近くのパネルには、小田野直武の一生がわかりやすく説明されている。年少期より画才を発揮し、15歳で久保田藩の御用絵師から狩野派の画法を学んだ。直武と同じ年の城代、義躬が直武の後ろ盾となり、その才能を発揮させるよう助けたようだ。 

  屋敷内の素晴らしい桜に魅せられて、展示を見ている人は少なかったが、展示パネルにここに掲げる模写図が含まれていた。屋外に設置されていることもあって、あまり立派な展示ではない。しかし、模写の原画は明らかに、レンブラント Rembrandt Harmenszoon van Rijn (1606-1669)の
『テュルプ博士の解剖学講義』 *である。レンブラントは1632年にこの作品を描いた。きわめて短い期間に、当時のオランダ美術界の流行、最先端技法を身につけ、グループ・ポートレイトと言われるジャンルでの代表的作品として知られている。 

  描かれているのは、当時のアムステルダムの有名外科医ギルドの主要メンバーである。テュルプ博士の卓越したスキルを驚嘆の目で見つめる医師たちの表情が、新たなジャンルの肖像画としての特徴をもって生き生きと描かれている。日本に来たオランダ人医師などが持ち込んだ模写図などを見て、誰かが描いたのだろうか。展示には、その点についての説明はなかった。 

  レンブラントは17世紀を代表する画家であり、ラトゥールと同様に「光と闇」の描写をひとつの特徴とした。生年はラ・トゥールよりほぼ13年若いが、ほとんど同時期の画家である。オランダとロレーヌと、活動の場は異なったが、共にカラバッジョの影響が見出されるなど共通している点もある。レンブラントについては、ラ・トゥールの作品を見る時に、暗黙のうちに、ひとつの比較基準として考えてきた。それだけに、レンブラントとその作品についても多くのことが思い浮かぶ。レンブラントも知名度の割には謎が多く、近年、新しい視角からの大規模な見直しが行われている。いずれ、その一端を記すこともあるかもしれない。ひとまず、桜が想起させたレンブラントと日本の画家との不思議な縁を記しておきたい。

*
Rembrandt Harmenszoon van Rijn . The anatomy lesson of Dr. Nicolaes Tulp (1593-1674), Amsterdam reformed prelector in anatomy and future burgomaster Inscribed Rembrandt f: The Hague, Koninklijk Kabiner van Schilderijen Mauritshuis

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中世の生活を偲ぶ

2007年04月22日 | 絵のある部屋

 


  

    今回の旅の途上、パリで宿泊したホテルは、サン=シュルピス広場の近くであった。部屋数も少なく、表通りから引っ込んでいて概観もまったくホテルらしくないところが気にいって、10数年前からここに決めていた。ところが、例の「ダビンチ・ブーム」が起きて、この辺りのホテルは星が増えるなど、グレードアップしたところが目立つようになった。競争も激しくなったのか、インターネット・サービスを始めとして設備や内装が改善されたのは喜ばしいが、宿泊料もかなり上がったので痛し痒しである。

  国立中世美術館(クリュニー館)Musée National du Moyen Age, Hôtel de Cluny が眼と鼻の先なので、久しぶりに出かけてみた。内外装ともかなり改装されて、全体に非常にきれいになり、一段と整備・充実した感じがする。

  この美術館をすっかり有名にした「一角獣を連れた貴婦人」のタビスリーも、展示室の表示や照明も新しくなって、10数人の子供たちが座って先生の説明を聞いていた。海外の美術館では良く見かける光景である。子供たちも自然に楽しんでいる雰囲気が伝わってくる。 美術館が教育の中に溶け込んでいる。フランスの美術館では、小、中学校などのグループ鑑賞を積極的に歓迎しているところが多い。特別展で長い行列ができていたギメ美術館でも、別の入り口からかなりの数の小、中学生を受け入れていた。

  それでも、このクリュニー館の場合は、混んでいるという雰囲気には程遠い。ほとんど誰もいない展示室もある。外観同様に地味な美術館である。 この美術館、もともと外壁は石造りだが、内部には多数の木材が使われており、親しみやすい。ステンドグラスだけの部屋もある。各地の聖堂から集められた断片が展示されているが、聖堂で見るのと違って近くで楽しむことができる。

  この美術館の展示物は、タピスリー、彫刻、ステンドグラスだけでなく、当時の民具のようなものまで含んでいて幅が広いので、肩がこらず親しみやすい。なにげなく置かれている展示物にも、色々なことを考えさせられる。

  タピスリーの話は長くなるので、別の機会にするとして、小さな感想をひとつ。見ている人は少なかったが、このアダム像(1階ca.1260)、なかなか素晴らしいと思った。13世紀の作品で、かなり修復の手が加えられていると
思われるが、大変洗練された美しいフォルムである。すこし女性的でひ弱な?アダムだが、背景の壁とも良くマッチしていた。


 

  出口のところにある井戸も良く見ると、なかなか趣があった。ガーゴイルも時を経て風化を重ね、いい表情になっている。この井戸は、クリュニー修道院長の邸宅で使われていたのだろうか。たまたま届いたばかりの書籍「中世の都市の一日」*の中に、市民が井戸を使っている光景を描いた一枚がある。井戸は中世都市の公共設備の中でもきわめて重要度が高いものであった。この井戸はどのように使われていたのだろうか。時代のテープをまき戻して見たい気がする。ここは、サン・ジェルマン・デ・プレ界隈の賑わいから切り取られたような別世界である。


 
Photos : Y.Kuwahara

*
Chiara Frugoni, Arsenio Frugoni (Introduction), William McCuaig (Translator) A Day in a Medieval City. Chicago: University of Chicago Press, 2006.

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また引き離された姉と弟?:ゲインズバラの家

2007年04月18日 | 絵のある部屋

  2006年9月15日の記事で思い出した「ゲインズバラの家」サイトに掲載されていた「姉と弟」の復元予想図が、どういうわけか取り外されてしまっていた。しばらく前までは、確かにサイトの「教育」 Education の所に掲載されていたことは間違いないのだが。そして、この「姉」と「弟」の作品自体は、このGainsborough's House の目玉であり、現にポスターやパンフレットの表紙になっている。実際、わざわざ自分で田舎道を車を運転して見に行ったこともあるので作品の印象も鮮明に残っている。

  幸い保存しておいた画像は、この通りである。弟の方はご覧の通り全身像だが、姉の方は上半身像となっている。ゲインズバラの家は、画家の生家で美術館として運営され、保存や考証もしっかりしていると思われる。弟の像に一部残る姉の衣裳の跡などからも、画家が描いた原画はあらまし、このようなものであったと推定されている。弟の側に残されている部分をみても、原画が切断されたことはほぼ間違いない。実際、ゲインズバラの作品にはよく知られた「アンドリューズ夫妻」*など類似の構図も多い。

  折角、再会した「姉と弟」はどこへ行ってしまったのだろうか。「再会」の背景もミステリアスであったが、今回の突然の失踪も謎である。


*  Mr and Mrs Andrews, Oil on canvas, 70 x 119 cm, National Gallery, London 

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パリ:行列のできる展覧会(2)

2007年03月11日 | 絵のある部屋



  オランジェリーの特別展は終了したが、パリにはもうひとつ長い行列ができる展覧会が開かれていた。国立アジア美術館(通称ギメ美術館)が開催している「アフガニスタン:再発見されたカブール国立博物館の秘宝」という特別展*である。2002年に開催され、高い評価を得た「アフガニスタン:1000年の物語」を受けての特別展示である。

  こちらは4月末までの会期だが、平日でもえんえん長蛇の列である。このギメ美術館は特別の思いがある場所だ。かつて、仕事でパリに長期に滞在していた頃、この美術館のあるイエナ広場、美術館と道を隔ててほとんど直前にあったホテルに、次の住居が決まるまでかなり長く滞在していた。いつもギメ美術館を見下ろして、催事の垂れ幕や案内を眺めていた。暇ができると道を渡って見に行っていた。1分で美術館という環境だった。特に入口を入ったところに設けられていたクメール美術の展示が抜群にすばらしかった。日本の仏像とも異なる穏やかな彫像を眺めていると、騒がしい俗界からはまったく別の世界にいるような感じを受けた。それまでほとんど知ることがなかったクメール美術への理解と、その文化を生みだした人たちへの尊敬の念が生まれ育っていた。このあたりの景観は今もほとんど変わっていないが、当のホテルはオフィスとアパートに変わってしまっている。

  今回のギメの特別展は、平日なのに入館するまで約1時間近い行列であった。ここは、日本人観光客はきわめて少ない。ルーヴル、オルセー、オランジェリーなどの西洋美術の展示へ行ってしまうからだろう。この長い待ち時間をじっと耐えて待つ人々の背後には、展示内容の素晴らしさがすでにさまざまに伝わっていることに加えて、アフガニスタンが今日直面しているきわめて困難な状況への思いがあることはいうまでもない。長い列に並んでいる間、このブログでも話題とした「カイト・ランナー」のカブールの情景が眼に浮かんできた。

  もうひとつ驚いたのは、入館後も参観者の数を厳しく制限していることであった。受付から最初の展示品を目にするまで30分近くかかっただろうか。その意味はすぐ分かった。

  展示の前半に素晴らしい出品のオンパレードがあった。そのかなりのものは、豪華絢爛たる金銀、ラピスラズリなど貴石を散りばめた装飾品である。文字通り目を奪われる品々が、ウインドウ内に展示されている。観客は吸いつけられたように動かなくなる。特に発掘された高貴な人々たちが身につけていたまばゆいばかりの装飾品の豪華さは想像を超えた。これらを前にすると、とりわけ女性は磁石にひきつけられたように動けなくなってしまうようだ。皆、待ち時間の長さを忘れて見入っている。すごい迫力を持った出土品の数々である。1メートル進むのに5分くらいかかった。

  出土品は、アフガニスタンの1000年の歴史を象徴するかのような光彩を放つ財宝の数々である。今回の展示品は、220点近くに及ぶといわれる。フロル Fulol, アイ・カノウム Aï-Khanoum, ティラ・テペ Tillia-Tepe ベグラム Begramの4ヵ所から発掘された品々である。出土品は想像していた以上に豪華で、われわれがあまりよく知らない中央アジアから北インドにわたるアフガニスタンの王朝の栄華の歴史を物語っている。青銅器時代からクシャン王朝 Kushan Empireまでの歴史をカヴァーしている。

    アフガニスタン文化は多様な文化の影響を受けてきた。イラン、中近東、インド、中国、そしてヘレニスティックな文化を取り入れてきた。そのために、東西文明を取り結ぶような強い力がある。出品された品々をひと目みるだけで、この地が東西文明を広く取り入れ、その十字路にあったことが直ちに分かる。

  カブール国立博物館がフランス、日本などの協力を得て発掘、収集してきた貴重な出土品だが、そのありようが安泰とはほど遠いものであることを歴史は物語ってきた。今回の展示品の中には、度重なる戦火の中で、焼失、略奪などでほとんどが失われたといわれたカブール国立博物館の所蔵品のいわば精華とも言うべきわずかな品々が、博物館員などの良心と努力で、密かに隠匿されてきたものが、含まれている。アフガニスタンの現状に鑑みると、その将来は決して楽観できない。そのためにも、この貴重な人類の財産を確実に次の世代へと継承して行く上で、こうした特別展は大きな意味を持つと痛感した。

 

*
Afghanistan, rediscovered treasures, Collections from the national museum of Kabul 6th December 2006 – 30th April 2007

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パリ:行列のできる展覧会

2007年03月06日 | 絵のある部屋


  パリにはいくつの美術館があるのか正確には知らないが、平日でも行列のできる所は稀である。世界中から観光客が押し寄せるあのルーヴル、オルセー美術館でも、よほどの特別展でもないかぎり、平日の入館に30分以上も並ぶということはない。

  この2月から3月にかけて、1時間近い入館待ちだった二つの美術展がある。ひとつはこのブログでも話題としてきた「オランジェリー、1934年:現実の画家たち」であり、本日で閉幕である。もうひとつは東洋美術の国立ギメ美術館で開催されている「アフガニスタン秘宝展」 Afghanistan: les trésors retrouuvés である。それぞれ期待にたがわぬ素晴らしい展示であった。後者については改めて書くことにする。

  「オランジェリー」展は30分から1時間待ちであった。春とはいえ、寒風が吹きすさぶ屋外に延々長蛇の列が見られた。この美術館は内部はすっかり改装され、モネの「睡蓮」の大展示室の完成もあって、モネ好きの日本人に大変人気の場所である。しかし、ほとんどの日本人観光客はモネがお目当てであり、特別展が長い行列の原因であることを知らないようだった。「モネって人気があるのね」という会話が頻繁に聞かれた。

  しかし、会期の間、パリ市内にはいたるところに、ジョルジュ・ド・ラトゥールの「天使と聖ヨゼフ」とレネ・マグリッテのローソクとトルソをテーマとした「オランジェリー、1934年:現実の画家たち」特別展のポスターが掲げられていた。サンジェルマン・デプレ界隈の著名書店でも、分厚いカタログが平積みになって関心を集めていた。

  フランスの美術館は、フラッシュを使わないことと、他の観覧者の鑑賞を妨げないかぎり、館内の撮影も認めるという寛容な所が多いが、この特別展は撮影禁止である。 特別展の入り口を入った所に、1934年の展示を3D再現した映像が上映されていた。1934年展示当時の再現をかなり強く意識した今回の特別展である。その反対側には、34年展の際の企画のプロセス、募金、コメントなどを示す多数の書簡や資料まで展示されていて興味深かった。しかし、この特別展の設定意義、前評判を知って来館していた人たちがどれだけいただろうか。この導入部を興味深く見ていたのは、フランス人でも全般に年齢の高い層の人々であった。多くの入館者は、すぐに作品の方に流れていたのは、「1934年展」の再評価にテーマ設定を行った主催者にとっては残念なことだったろう。

  しかし、展示作品はさすがに素晴らしい第一級品が並んでいた。ジョルジュ・ド・ラトゥールやル・ナン兄弟の「発見」の契機となったといわれる「1934年展」の再生の意図は十分に達成されていた。ラトゥールの作品は何度となく対面しているが、とりわけエピナルの「妻に嘲笑されるヨブ」Job raillé par sa femme、ストックホルムの「枢機卿帽のある聖ヒエロニムス」Saint Jerôme pénitent など、比較的訪れる機会の少ない美術館からの出展は有り難かった。しかも十分に細部まで見ることが出来て、大変充足感は高かった。ニコラ・プッサンの「自画像」Portrait de l'artiste などが、部屋の出口にさりげなく掲げられていたりして、主催者の心配りを感じた。

  ル・ナン兄弟の作品も、その後の研究の成果も付け加えられ、大変興味深い。この画家には、ラトゥールとは別の関心を抱いて注目してきたので、楽しんで見ることができた。「農民画家」と言われてきた彼らが、作品に意図したものはなんであったのか。誰が注文主であり、なにを描こうとしたものか。「労働」、「市民」という観点からみると、この画家には新たな興味が生まれる。

  この「2006-07」年展については、今後さまざまな論評もなされるだろう。多くのことを考えさせる素晴らしい展示であったと思う。それらの点については、いずれ記すこともあるだろう。今はただこの歴史的な展示に接し得た幸運の余韻を味わいたい。


Photo: Y.Kuwahara

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戦火の下のラピスラズリ:アフガニスタン

2006年12月09日 | 絵のある部屋

    長らく戦火が絶えないアフガニスタンが、豊富な鉱物資源を埋蔵していることはあまり知られていない。実は、この国は天然ガス、石油、石炭、銅、クロム、タルク、硫黄、金、鉛、亜鉛、鉄鉱石、岩塩、宝石・貴石(ラピスラズリ)などの地下資源がきわめて豊富である。このブログでも話題とした高価な青色顔料のラピスラズリ Lapis Lazuli も良質な鉱床があることが、古代からよく知られている(上図、タジキスタン、パキスタンに近い所に鉱床が多い)。

  ラピスラズリの鉱床が発見されて、世界各地へと伝播して行くプロセスは、それ自体ひとつのストーリーが書けそうな多くの歴史を含んでいる。この紺青色(ウルトラマリン)の美しさは多くの人々を魅了し、さまざまなドラマを生んできた。「ラピスラズリが来た道」は今日まで続いている。

  ラピスラズリは宝飾品や工芸品だけではなく、絵画の顔料として洋の東西を問わず最も高貴な青の顔料として珍重されてきた。ラピスラズリの透明な紺青色の美しさは、言葉に尽くし難いものだ。しかし、今日では人工顔料が生産されるようになり、絵画材料としてはほとんど使われていない。ロンドンの絵画材料店では今でも取り扱っているようだ。ラピスラズリの美しさは比類がなく、価格の点で人工の合成材料と競争できれば、顔料に使う画家もいるかもしれない。

    ラピスラズリは鉱石が原材料ということもあって、経年による退色がなく、美しさが維持される。この点は、同じテーマで描かれたラ・トゥールの作品でも、ラピスラズリが使われているか否かで、美しさがいかに異なるかが実感できる。
  
  ラピスラズリに限らず、アフガニスタンの復興のためには、この国の鉱物資源の開発に大きな期待がかけられている。

  こうした天然資源の鉱山は全国で200近くに達するといわれているが、未だ地方軍閥の保有になっているものもある。しかし、鉱山は長引く戦乱で荒廃をきわめ、未だつるはし程度の採掘道具、坑道も木材などでかろうじて維持されている。

  アフガニスタンの今後の復興において、鉱物資源は大いに期待されている。たとえば、銅山の開発だけでも2000人の鉱山労働者の仕事、45,000-60,000人分の補助労働の仕事を創り出す。

  しかし、開発には膨大な投資が必要であり、新規採掘が開始されるのも、6-10年後ともいわれている。現在トン当たり7000ドル近い銅価は5年前は1300ドルだった。アフガニスタンの鉱山開発はギャンブルに近い。銅価格が下降する可能性はきわめて少ない。中国、インドなどの急速な経済発展などもあって、希少な資源である鉱物価格の上昇は避けがたいようだ。ラピスラズリの美しさも、あまり見られなくなるのだろうか。


"Copper bottomed?" the Economist November 25th 2006.

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スポットライトの中の仏たち

2006年12月02日 | 絵のある部屋

  展示終了も間近い東京国立博物館『特別展:仏像 一本にこめられた祈り』を見る。予想通り、長蛇の列であった。11月末で入場者30万人を越えたとのこと。最近では珍しいほどの人気である。館内でスポットライトが当たった仏たちは、いつもと違った場所でどんな気持ちなのだろうか。

  今回の特別展の特徴は、日本に固有ともいえる木像一本彫の仏たちである。薄暗い堂内や埃だらけの道端に据えられた像とは異なり、今日は表裏の細かい所までライトが当てられている。

  一体、一体、それぞれに考えるところがある仏たちだが、展示の後半に置かれた円空、木喰の作品に深く惹かれるものがある。とりわけ、円空の洒脱で素朴、人間味のある仏たちは、素晴らしい。仏教が国家や支配階級のものから、ようやく庶民の生活の奥深く行き渡ってきた時代、日本人の心の源があるかに思える。

  展示の後半、木喰の「12神将像」、「十王坐像」を見る。神将といいながらも、一人一人笑みを浮かべた和やかな顔に彫られている。冥界の番人といういかめしい身なりにもかかわらず、どこにもいそうな穏やかな表情の人たちである。楽しく眺めていると、なんとなくラ・トゥールの「キリストと12使徒」と重なってきた。思いもかけなかった連想に戸惑いながら、夕闇迫った上野の山を後にした。

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物置から出てきたカラバッジョ

2006年11月12日 | 絵のある部屋

  イギリスのメディアTelegraph、CBCなどが伝えるところでは、11月10日、イギリス王室Hampton Court Palaceの物置に眠っていた絵画の中に、16-17世紀に活躍したイタリアの画家カラバッジョ(1571-1610)の作品があったことが公表された。王室は約400年ほど前に入手したが、これまでは模作と考えられてきた。しかし、ほぼ6年間の修復作業などの後、このたび真作と判定されたようだ。画題は「聖ペテロと聖アンデレの招命」であるらしい。

  ネット上でみるかぎり、修復前の作品はかなりひどい状態であったようだ。カラバッジョの真作は50点ほどしか現存せず、メディアによると、現実にはありえないが、もし絵画市場に出せば5千万ポンド(1億800万ドル)近い価格がつくとも推定されている。

  カラバッジョはラ・トゥールよりも少し前の画家だが、当時のヨーロッパ絵画の世界への影響力は大変大きかったことは、このブログでも記したことがある。

  この作品は11月21日からローマで開催されるカラバッジョ展でお目見えするらしい。そして来年3月にはバッキンガム宮殿で開催される「イタリア・バロック・ルネッサンス」展へ出品される予定とのこと。一寸見てみたい気がする。

  カラバッジョに限らず、この時期の画家の作品にはもしかするとまだ発見されずにどこかで眠っている作品がある可能性はかなり高い。イギリス王室だけでも7000点の作品を所有しているという。発見されれば今回のように大きな騒ぎとなる。
 
小説の種となったラ・トゥール
  後世における有名画家の作品発見は、しばしば小説や劇作などのテーマにもなる。カラバッジョもラ・トゥールもしばしば登場する人気画家?である。ひとつの例を挙げてみよう。

    アメリカの作家ディアンヌ・ジョンソン Diane Johnson の小説『離婚』Le Divorce (1997) *の中に、似た話が出てくる。パリに住むアメリカ人(カリフォルニア育ち)の女性ロクサーヌ・ド・ペルサン(ロキシー)とフランス人の夫シャルル・アンリが離婚の危機を迎える。夫妻には3歳の娘がおり、ロクサーヌは妊娠している。双方の両親がなんとかよりを戻すよう頭を痛める。 

  この小説のいわば触媒のような役割を果たしているのが、ロキシーの居間にかかっている古い絵画である。画題は「殉教者聖ウルスラ」  St. Ursula である。これは彼女が継父からもらったもので、結婚の時に夫アンヌにプレゼントしたことになっている。その時はたいした価値はないと思われていたが、その後、ラ・トゥールの弟子の作品、もしかするとラ・トゥール本人の作品ではないかとの噂が広がり、ゲッティ美術館から展示のために貸して欲しいとの要請もある。そして、絵の推定価格が上がるにつれて、あたりにいる人々の反応もおかしくなる。 

  夫のアンリは離婚の際に、この絵の所有を放棄したが、彼の側の家族は離婚が成立するまで、ゲッティ美術館の展示へ貸し出すのは見合わせたらとご丁寧に忠告する。アンリの母親は「とどのつまり、あの絵はフランスの絵よ」と言い出す始末。そして、ラ・トゥールの真作かもしれないという噂が出るにいたって、夫妻の家族関係者のどん欲さは高まるばかり。さて、その結末は。

    

LE DIVORCE By Diane Johnson. A William Abrahams Book/Dutton, 1997. 

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ツタンカーメン王のマスク

2006年10月12日 | 絵のある部屋

http://www.egyptianmuseum.gov.eg/home.html


 エジプト、カイロの国立考古学博物館に所蔵されている有名なツタンカーメン王のマスクに使われている青(ブルー)の顔料について興味ある記事*が掲載されていた。マスクにはかなり多くの着色がなされているが、とりわけ青の成分についての分析である。 いつか、ベルリンのごひいきのひとつ「ネフェルティティ」 Büste der Königin Nofreteteについて書きたいと思っていたこともあって、興味深く読んだ(ネフェルティティについては、後日としたい)。

 ミシェル・パストゥローの『青の歴史』にも、古代エジプト人は銅のケイ酸塩から素晴らしい色合いの青と青緑を作ったことが記されている。当時のエジプト人は、自然の青色顔料としては藍銅鉱、ラピスラズリ、トルコ石を知っていたが、ケイ酸銅からも人工青色顔料を製造する技術も持っていた。さらに磁器化の原理も知っていた(パストゥロー邦訳、20-22)。 

 記事で取り上げられているツタンカーメン王は紀元前14世紀のエジプト王である。父とされるアクエンアテン王は多神教から一神教へのアマルナ改革で知られる。アクエンアテンは新しい青を多用した。「アマルナ・ブルー」といわれ、組成と構造は2002年に宇田応之氏が決定した。

 総重量11キロのマスクを彩る 胸飾りの赤はカーネリアン、薄い青はアマゾナイトという天然鉱物であることが分かっていた。しかし、頭巾に使われていた濃い青とつげひげの灰色ぽい緑は、これまで報告例のない顔料であり、宇田応之氏はこの濃い青の成分解析を行った。

  古代エジプトでは金、銀に次ぐ大切な色だった青の原料のラピスラズリは主としてアフガニスタン産であった。しかし、原石を見ると分かるが、かなり硬い鉱石であり、採掘・輸送などコストがかかり、高価で入手が難しいこともあって、古代エジプト人は代用品として「エジプシャン・ブルー」を合成したらしい。

 アマルナ改革に失敗した父の後をうけたツタンカーメンは王位につくと、父の作った制度を元に戻した。この時、アマルナ・ブルーも廃止し、新しい青を作り出したのではないかと宇田氏は推定している。その理由として、頭巾の青には、エジプシャン・ブルーとアマルナ・ブルーの構成元素すべてが含まれている。そのうえエジプト特有の焼き物の組成も含まれている。宇田氏は「ツタンカーメン・ブルー」と命名したいと述べている。

 最近、相次いで「色」の歴史についての研究書が刊行されているが、こうした地道な研究から新たな発見が生まれることを知ることは楽しい。


References
*
宇田応之「ツタンカーメン合金で薄化粧:王のブルー新たに合成」『朝日新聞』夕刊、2006年10月10日

Michel Pastoureau. Bleu, Histoire d'une couleur. Paris: Le Seuil, 2000(邦訳 松村恵理・松村剛『青の歴史』筑摩書房、2005年)

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人間としての画家:ターナー再訪

2006年09月24日 | 絵のある部屋



  絵画作品から画家の人となりや個性を推量することは、かならずしも容易なことではない。とりわけ同時代人でないほど、問題は難しくなる。この点は、17世紀の画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの研究においても大きな関心事のひとつであった。しかし、ラ・トゥールについては、画家自身が残した言葉や日記のようなものはなにもない。

  作品と画家の個性などは別のものと考え、作品だけを鑑賞すればいいではないかという考えの方もおられよう。しかし、作品と画家の人間的側面、生涯などが分かれば、さらに興趣が深まるだろう。

  先日J.M.W. ターナーについての文献を見ている間に、実はこのイギリス最大の国民画家ともいうべき人物のイメージと実像の間の乖離が、時が経つにつれて大変大きくなっていることに興味を惹かれた。実際、ターナーという画家には、かなり現実とは離れたイメージが意図的あるいは巧まずして形成された面がある。前者については、このブログでも触れたことがある。国民的画家としてかなり意識的にイメージ作りが行われたこともあって、才能と環境に恵まれ、「銀の匙」をくわえて生まれてきたような画家というイメージを持つ人もあるらしい。

  ターナーはその生涯を通して、そして死後も名声赫々たる人物であるから、さぞかし華やかで社交的で、際だった個性の画家と思うかもしれない。自画像(1799年、24歳時)などを見ると、なかなか好青年に描かれている。しかし、これまでターナーについての研究は汗牛充棟ただならぬものがあるが、画家の個性や人となりについて掘り下げた文献はそれほど多くない。

  イギリスにいる間に興味にまかせて、少し資料を渉猟してみたが、どうもこの画家はその多彩で膨大な作品と比較して、人間として記すべきものが少なかったらしい。ある資料は次のように述べている:

「実に困ったことは、ターナーは書くことがないきわめてつまらない人物であることだ(a very uninteresting man to write about)。人物という点でも生活においても、なにも、ひと目をひくような、ロマンティックな、あるいはわくわくさせるようなことがない。この画家の特徴であり、欠点でもあるのは退屈な人間ということである。彼はあらゆる点で卑俗 plebeianであり、どこにもいる労働者や商人であった。......唯一興味あることは、彼がターナーの絵を描いた男だということだ。」*

  なんともイギリス人らしい皮肉ではある。しかし、ターナー自身は世渡りは大変うまかったようだ。なにしろ、1799年にはロイヤル・アカデミーの準会員、1802年には27歳という史上最年少の若さで会員に選ばれている。選ばれるまでは大変に人当たりもよかったらしい。しかし、ひとたび会員となった後は、愛想の良さはどこへやら、マナーも悪かったようだ。へきえきしたアカデミー会員のフランシス・ブルジョワ卿が「小さないやな奴(は虫類)」a little reptile と評したところ、ターナーが返した言葉は「でかいいやな奴」a great reptileであったとの逸話**が残っている。

  とりわけ、ロンドンのコベントガーデンで生まれ、コクニーとして育った若い頃は行動は粗暴で、負けず嫌い、野卑なところが多かったようだ。さすがに、歳をとり、人生後半になると穏やな面も見られるようにはなったらしい。

    しかし、遺書に書かれるまで、二人の娘がいることも隠されていたし、その娘たちを暖かに遇したこともなかったようだ。遺産相続でも自分の作品の保存には大きな関心を持っていたが、娘たちに特別な配慮はしていない。

  負けず嫌いなことであったことも、いくつかのエピソードで分かっている。1832年のロイヤル・アカデミーの展示の際、ターナーは自分の淡い緑色で描かれた海の絵が、ライヴァルのカンスタブルが描いた鮮やかな「ウオーターロー橋の開通」の隣に掛けられているのを見るや、自室にとって返し、パレットをとってくるや一言も発することなく、自分の作品の上に赤い絵の具を塗りたくった。さすがにその後で、この部分を浮標(ブイ)の形に描き直したらしいが。びっくりしたのはカンスタブルで、「彼はここにきた。そして銃をぶっ放した」というのがやっとだった。

    ターナーのこうした粗野、粗暴ともいえる行動がなにに起因するかは、必ずしも明らかではない。しかし、これまではあまり注目されなかった画家の労働者階級としての出自
によるところが多分にあるように思われる。コベントガーデンの理髪屋の息子として生まれたターナーは、やはりイギリス的階級社会のひとつとしての労働者階級の特性をかなり継承していたと思われる。加えて、ターナーの家庭も、家業の理髪店は父親の人付き合いのよさなどで、なんとか維持されていたが、母親が精神を患い常にさまざまな騒ぎが絶えず、入退院を繰り返すなど、およそ正常な家庭の態をなしていなかった。

  ターナーも成人して、社会的地位を確立し、栄誉に囲まれる段階になると、対人関係などにおいても奇矯な行動も少なくなり、普通の人間らしさを取り戻している。しかし、社会的階級の特徴が強く根付いていた150年ほど前の時代においては、自らが育った社会的条件から完全に自由となることは難しかったのだろう。画家としての生々しい人間像が明らかにされたからといって、それでこの偉大な画家の作品評価が変わるわけではない。しかし、希有な天才という光り輝く部分が前面に出ていた画家のイメージを、より陰翳と深みを持って描きなおすことができるのではないだろうか。
  

  長い間、栄光と賛美に包まれていたターナーだが、死後150年余の年月を経て、作品と人間を統合した画家の実像が少しずつ明らかになっている。


References
*
Quoted by Andrew Wilton in Turner and His Time, London: Thames and Hudson, 1987, pp.6-7.

**
James Hamilton. Turner. London:Random House, 2004

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楽園はいずこに

2006年09月17日 | 絵のある部屋

  秋晴れにはほど遠いが、大分過ごしやすくなった日の午後、竹橋の東京国立近代美術館へ出かける。『モダン・パラダイス』と題する特別展を見ようと思った。大原美術館と東京国立美術館のいわば目玉作品の共同出展といってよい。

  『モダン・パラダイス』の主題の下で、油彩、日本画、写真、ブロンズなどを含む作品は、5つのサブ・テーマに分類されて、展示されている:
  I       光あれ
  II     まさぐる手・もだえる空間
  III     心のかたち
  IV     夢かうつつか
  V     楽園へ

  「東西名画の饗宴」と題されているが、ややオーバーな表現ではある。そして、メイン・テーマとサブ・テーマの関係も、分かりにくい。テーマにこだわると見る方が混乱してしまう。なぜこの作品を、ここに置くのかという思いが先にきてしまう。作品の印象はかなり受け取る側の状況で左右されるからだ。「モダン・ケイオス」ではないかと揶揄したくなる。

  途中からテーマ説明を忘れて、虚心坦懐に鑑賞することにした。テーマと作品選択がうまくフィットせず、全体としての満足感はあまり高くない。

  それでも、菱田春草「四季山水」、安井曽太郎「奥入瀬の渓流」、ジョヴァンニ・セガンティーニ「アルプスの真昼」、ジョルジュ・ルオー「道化師」、中村彝 「エロシェンコ氏の肖像」、岸田劉生「麗子肖像(麗子五歳之像)、富岡鉄斎「蓬莱仙境図」など、久しぶりに再会できて懐かしかった作品もあった。藤田嗣治「血戦ガタルカナル」まで出品されていた。かなりのエネルギーが傾注されたと思われる凄絶きわまる作品である。この制作をした時の藤田の心情はどんなものだったのだろうか。

  常設展の方へもまわったので、思いがけずも見ることになった鶴田吾郎の戦争画「神兵パレンバンに降下す」などとも重なり、「モダン・パラダイス」のイメージは、ついに浮かばずじまいだった。


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再会できた姉と弟:ゲインズバラの家

2006年09月15日 | 絵のある部屋

  ターナーカンスタブルについて書いてみると、ゲインズバラThomas Gainsborough(1727-88)についても触れないわけにはいかない。風景・肖像画家としては、ゲインズバラの方が時代の点でも50年近く先に生まれている。ゲインズバラもイギリス人の大変好む画家である。

  この画家の生地は、かつて仕事で訪れたエセックス大学(コルチェスター)の近くでもあり、「カンスタブル・カントリー」ともきわめて近接しているので、何度か訪れた思い出の地でもある。イースト・アングリアののどかな田園地帯を楽しみながら、ドライブしていった。

  ゲインズバラの生まれた場所は、カンスタブルが生まれた場所と大変近いサフォークのサドベリーである。ここに「ゲインズバラの家」Gainsborough's House として生家が保存されている。今は画家の作品や制作状況を保存する画廊・美術館になっている。版画などを制作する教育用の工房なども併設されている。イギリスの大画家の生家で、今日公開されているのはゲインズバラの家だけらしい。サドベリーのマーケット・ヒルには、この町が生んだ著名画家として、ゲインズバラがパレットを持った銅像が建っている。

  画家の実家は服地商であった。当時としてはかなり裕福な家であったと思われる。現在の家は父親がジョージアン・ファサードをつけたりしているが、500年以上経ったイギリス家屋の伝統を受け継いでいる。庭には桑の木が多数植えられており、トマスの生まれた頃には、すでにかなり大きくなっていたと思われる。

  母親が大変教養深い女性であり、子供の画才を認めて幼いトマスに花の絵などを教えていた。トマスも画家として身を立てることを考えて、1740年、13歳の時にロンドンに出て、何人かの画家の工房で修業した。フランスの版画家グラブロにも師事した。ゲインズバラの作品には、銅版画も含まれている。

  ゲインズバラは、とりわけ肖像画と風景画に優れた才能を発揮した。1768年にはロイヤル・アカデミーの創立会員の一人となっている。この画家についても、色々と興味深い事実を知ったが、ここでは、「ゲインズバラの家」を紹介するポスターとなっている少女の肖像(画像イメージ)の背景について書いてみたい。

  実はこの美しい少女の肖像画は、元は少女(姉と思われる)と少年(弟)が同じ画面に描かれていた。なんらかの理由で二つの作品に切り離された。1740年代、ゲインスバラが10代の修業時代の作品である。描かれているのは、姉と弟であると思われている。しかし、それが誰であったかは分かっていない。少女の肖像画が発見された6年ほど前から、少年の肖像画は「ゲインズバラの家」にあったことが知られている。そして、今は最初に画家が描いたように並べて展示されている。

  ゲインズバラの「姉と弟」はこうして再会することになった。ミステリーは、なぜこれが切り離されたのだろうかということある。大変美しい作品であり、さらに探索してみたい気になった。

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コンスタブルの世界

2006年09月12日 | 絵のある部屋

John Constable
Dedham Val
1802, Oil on canvas, 145 x 122 cm
Victoria and Albert Museum, London



  ターナーとコンスタブル John Constable (1776-1837)は、両者ともにイギリスを代表する風景画家である。コンスタブルはターナーより1歳年下である。二人とも、イギリス人が好む画家の5指に間違いなく入るだろう。しかし、以前のブログに記したように、コンスタブルが王立アカデミー会員に推薦されたのは53歳であり、同様な出発をしたターナーが27歳で会員の栄誉を受けたことと比較すると、同時代の評価にはかなりの差があった。ジョン・ラスキンなども、コンスタブルのやや保守的な画風に批判的であった。しかし、コンスタブルの風景画は一貫してたんねんに描かれ、画風が大きく変転したターナーにはない素晴らしさがある。

  その風景画は日の光や雲とともに移ろう自然の美しさを新鮮な筆致でとらえ、イギリスよりもむしろフランスで高い評価を得ていた。ロマン派やバルビゾン派に影響を与え、印象派の先駆ともなった。製粉業者の息子として生まれたコンスタブルは、生まれ故郷サッフォークをこよなく愛していた。この地域は、今ではコンスタブル・カントリーと呼ばれ、美しい自然を残している。

  今年の8月末まで、テート・ブリテンで「コンスタブル:素晴らしい風景画」Constable The Great Landscape と題した特別展が開催されていた。今回の見物は、この画家の作品の特徴のひとつである6フィートの大カンバスである。画家自らが「6フィートのカンバスを前にしないと仕事をしているような気がしない」(ジョン・フィッシャーへの手紙、1821年)と述べているように、画家が生涯で最も力を入れた作品である。

  これらの作品はコンスタブルの制作活動の中心を構成していたが、画家の活動していた時代にすべてが集められたことはなかった。今回の特別展では同寸大の下絵(スケッチ)も同時に展示され、こちらの方が筆触が伝わり、感動が大きいほどである。

  展示は9作品について、スケッチとの対比がなされ、合計で65点が出品された。ハイライトはストアー渓谷 Stour Valleyを描いた連作で、画家の生地でもあり、長い制作活動の拠点でもあった場所が情感豊かに描かれている。ターナーと見比べていた頃は、コンスタブルは少し退屈な絵だなと思ったこともあったが、年齢を重ねるとともに段々好きになってきた。

  コンスタブルが主として描いた地域 Constable Countryは、1990年、1994-5年にケンブリッジからボロ車を運転して何度か訪れた地であり、思い出が深い。コンスタブルときわめて近くのサドバリー Sadbury, Suffolk に、50年ほど先に生まれたゲインズバラの家を訪ねたこともあった。ゲインズバラも好きな画家の一人だが、これは改めて書くことにしたい。


Reference
Anne Lyles and others eds. Constable The Great Landscapes, London: Tate, 2006, 219pp.
本書は今回の特別展のカタログとして編集されたもので、大変美しい仕上がりで、コンスタブル愛好者には一見をお勧めする。

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創られる巨匠:ターナー(2)

2006年09月03日 | 絵のある部屋


  視点を変えると、ターナーという巨匠のイメージはかなり変わってくる。この画家については、生前からかなり積極的にそのイメージをある鋳型に入れ、定型化することがなされてきた。ターナーのイメージづくりに大変貢献した人物として、ジョン・ラスキンがいたことはよく知られている。ラスキンは自らターナーの助言者(メンター)、父親代わり、そして批評家役をもって任じていた。ラスキンはターナーを生前から一貫して賞賛し続けた。ラスキンは、ターナーが国民的大画家として名を上げ、浪漫な作風で目を楽しませ、作品が国家的財産となることを望んでいた。

  しかし、イメージづくりの過程でラスキンはターナーの別の側面をあえて無視していた。ラスキン はターナーの天才性を見抜いていたが、それがどこからくるものかは分かっていなかったと評論家のA.A.ジルは言う。

ラスキンの功罪
  前回記したように、ターナーには暗い印象を与える絵や官能的な作品が存在することは知っていたが、ラスキンはこれらをあえて無視して評価しなかった。そして、これまで浸透してきたターナーのイメージは、おおかたこのラスキンの鋳型に鋳込まれたものだった。とはいっても、ターナーという巨匠を記憶に残すために、ラスキンが果たした大きな役割も十分認めなければならない。

  しかし、ラスキンがターナーを評価したあまりにその実力がなかなか認められなかった同時代の画家もいた。ターナーはわずか27歳の時、王立美術院の正会員に推挙されたが、一歳年下のカンスタブルが正会員に選ばれたのは、26年後、画家が53歳の時であった。(ちなみに今年6月1日から8月28日までテート・ブリテンで、著名な6フィート・カンバス six-foot canvasを集めたカンスタブル特別展が開催されていた。これについても、いつか記してみたい。)

時は移ろう
  しかし、ジルが指摘するように、ターナーについてはこうして創られ世に広まったイメージとは別の側面があったようだ。ジルによると、ターナーの画風にはイギリスのもうひとつの伝統でもある、ラディカリズム、非国教主義、不調和、神秘主義的側面などが深く関わっていた。それは前回に記したターナーの労働者階級という出自にもよるのだろう。

  ターナーの作品はあまりに多く、油彩画約300点の内、半分くらいしか展示されたことがない。水彩画、スケッチなどは70点くらいしか展示されていないという。この画家は国民のために、すべての作品を残していったのだ。ターナーの死後これまでに実物を見た人が100人に充たないような作品も多いといわれる。
 
  ターナーを国民的芸術家に仕立て上げるため、ラスキンはかなり取捨選択をしたようだ。ターナーが常に身辺に携えていたスケッチブックも、ラスキンの好みで優れた作品を抽出するためにばらばらにされたという。元来、旅好きの画家が特定のテーマで描いたスケッチブックの体裁が壊れてしまった。幸い、作成年月日などが付されているので、復元され新たなターナーの発見が始まっているようだ。

  この画家は生涯を通して絶えず描き続けていたらしい。宴席でも退屈すると、すぐにスケッチをしていた。そのため、スケッチブックには、ワインの飛び散った跡、いたずら書き、ベルタワーや牛だけを描いた手帖もあるという。旅路の途上などでも、ある瞬間の情景をさっと描き、移ろう自然の有様を記録している。以前にもこのブログで記事にしたこともあるが、移ろい行く瞬間に画家の目と手が直ちに反応したのだろう。ターナーはその後のことなど眼中になく、まさにその一瞬を描きたかったのだ。

水彩を見る目 
  ターナーは油彩よりも水彩画家として著名で尊敬されていた。英国の水彩画は19世紀を通して栄えたが、その後アマチュアの引退後の楽しみになってしまった。しかし、ターナーの水彩は素晴らしいものであった。 水彩は油彩と比較して、退色が早く進む。今ではかなり色あせてしまった作品もあるらしい。とりわけ、この画家は赤色が好きであったらしい(この点もかつてブログで書いたことがある。)しかし、いずれにせよ、ターナーの水彩技法は空前絶後のものであった。

  水彩画を鑑賞するには、油彩画とは違った見方が必要であるとジルはいう。「水彩画を見る最も良い方法は、ガラスを通さず、近づいて見ることだ。絵の力、輝きと親密さがあなたの頭脳を燃え上がらせ、目をきらきらさせるだろう。」

 

References

ターナー References オリヴィエ・メスレー(藤田治彦監修、遠藤ゆかり訳)『ターナー 色と光の錬金術』創元社、2006年 (Olivier Meslay. Turner: L’incendie de la peinture. Paris: Gallimard)

"Turner The Making of a master "by A.A.Gill. The Sunday Times Magazine, June 4, 2006.

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創られる巨匠:ターナー(1)

2006年09月03日 | 絵のある部屋
  夏の間に読もうと思って積んでおいた書籍や資料の山はなかなか小さくならない。それどころか、部屋中にアメーバのように繁殖し始めた。もともと暇ができたら読もうと思っていたものだから、読むこと自体は楽しみなのだが、取り崩す以上に増えてくる。消化能力?も落ちてきたらしい。いつものように、山の前に陣取って整理にとりかかるが、少しもはかどらない。

  上の方に置かれていたThe Sunday Times Magazine のターナー特集*が目について、座り込んで読んでしまった。「巨匠が創られるまで」と題した同誌の批評家ジルA. A. Gillによる巻頭論文である。(この号には「女系が昇る国」Land of the Rising Daughterと題した日本の皇室をめぐる興味あるレポートも掲載されている。)

型にはまったイメージ
  イギリス近代絵画史における最大の巨匠ともいえるターナーについては、これまで画壇を含めてかなりはっきりしたイメージが浸透していた。夏目漱石の「坊ちゃん」にまで登場するのだから、日本人の間でも良く知られている。「ターナーの絵のようだ」とはそこに、あるイメージが作られて存在していることが前提になっている。日本語の文献もかなりの数に上る。しかし、この研究し尽くされたと思う大画家にも、まだまだ多くの謎の部分が残されているようだ。

  ターナーは、生前は芸術家としてこれ以上ないほどの名声をほしいままにし、作品は遺言によってイギリス国民に残された。ターナーほど自分の死後、作品がいかにあるべきかを考えていた画家はないといわれる。彼は遺言書に作品を保存するためのギャラリーを作るように記し、1851年に死去した時、140,000ポンド(今日の額で1100万ポンド)というそれに十分な資産も残した。しかし、例のごとく相続人たちが遺言書に異議を唱え、判決の結果、ロンドンのナショナル・ギャラリーに作品展示のためのギャラリーが恒久的に設置された。そこには約300点の油彩画と2万点近いデッサン、スケッチが収められた。

  しかし、ターナーの作品は実際には3万点近くあったのだ。このターナー紹介論文を書いたジルは、テートのギャラリーは狭すぎて、「ソーシャル・サービスのドロップイン・センターに美しい陸上競技選手が列をなしているようだ」と、辛辣な批評をしている。

  ターナーは油彩画ばかりでなく、多数の水彩画も制作していたことで知られている。水彩画は生涯を通して描いている。むしろ水彩画を通して、この画家の真髄は知りうるといえるのかもしれない。ジルは、水彩、デッサン、スケッチなど、あまり実物に接した人のいない作品群を見ると、ターナーの別の世界が見えてくるという。

労働者階級としての血のつながり
  事実としてはよく知られていることだが、ターナーは1775年コベントガーデンの理髪師の息子として生まれた。階級社会のイギリスの分類では、イーストエンドの労働者階級に属することになる。家庭は決して平穏で安定していたわけではない。父親の店自体は繁盛していたが、母親は鬱病で入退院を繰り返していた。しかし、父親は息子の才能に気づき、画業で身を立てることを勧めた。そして、理髪店をやめて、息子の工房を設け仕事を探した。Turner & Son.工房?である。母親とは惨憺たる関係であったが、この父と息子の関係は大変良かったらしく、父親は息子の生活に付き添い、金銭管理からアトリエの整理まで面倒をみていた。

  職業は代わったが、労働者階級としての出自は、息子ターナーにとって重要な意味を持っていた。美術は彼の新たな職業となったが、労働者階級としてはぐくまれた意思のあり方、志や誇りを持っていた。画家として大成し社交界でも一大名士となるが、ターナーは騎士道気質は持っていなかったし、上流社会とは本質的な所で距離があったようだ。

  画家としての生涯で、作風も大きく変わったことはよく知られている。とりわけ、1829年の父親の死に大きな影響を受けた。実物を見たことはないが、ゴヤのようなイメージの作品もあるという(Death on a Pale Horse)。

  ターナーは世の中で知られている作品とはかなり異なる暗い絵や官能的な作品も制作していた。さらに、この画家は正式な結婚はせず、生涯独身とされてきたが、遺言書には二人の娘がいることが記されていた。われわれが知るターナーは、どれだけこの画家の真のイメージに近いのだろうか。長くなりすぎたので、次回のお楽しみに。

References
オリヴィエ・メスレー(藤田治彦監修、遠藤ゆかり訳)『ターナー 色と光の錬金術』創元社、
2006年 (Olivier Meslay. Turner: L’incendie de la peinture. Paris: Gallimard, 2004.)
最近、日本語版が刊行されたが、同じシリーズの『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール』と同様に、ハンディで良くまとまっている。しかし、基本的スタンスはこれまでのターナーのイメージを踏襲している。
*
A.A.Gill.  "The Making of A Master." The Sunday Times Magazines, June 4, 2006
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