時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

黄金時代のフランス美術(1)

2012年12月08日 | 絵のある部屋

 

アントワーヌ・ル・ナン 『3人の楽師』(部分)
Antoine Le Nain, Three Young Musicians (detail)
Pierre Rosenberg, France in the Golden Age
Seventeenth-Century French Paintings
in American Collections (cover)

 

 日本で開催される美術展も年々数が増え、充実した展示が多くなったことは喜ばしい。しかし、中には企画力が貧しく、一般受けする目玉作品を入れて、集客数確保だけが主目的であるような商業主義的な催しも依然多い。満員電車のような混雑の中で、作品を見せられても感動は湧かない。企画・内容が充実していて、結果として集客数が多かったという美術展は好感度が高く、望ましい。小規模でもよく準備された珠玉のような展示に出会うと、救われた感じがする。

 美術展の歴史は古く、しばしば美術館の歴史とリンクしている。美術展と併せて、管理人が楽しみにしているのは、刊行されるカタログ(目録)だ。よく準備され、内容のあるカタログは、混雑した会場ではなかなか読み取れない来歴、説明などを補てんしてくれて、展覧会の滋味をゆっくりと味あわせてくれる。加えて、カタログ、とりわけ学術的内容を備えたカタログは、作品研究の最先端を知るうえで大変重要な意味を持っている。しかし、カタログについての考えは、美術館主催者(コミッショナー)、学芸員の水準などによって大きく異なる。ちなみにフランスにおける美術展カタログの草分けは、1673年のパリ・サロンのlivretsとされる。もちろん、内容は当時の時代環境におけるものであり、今日のカタログにとって直接的な意味での嚆矢というわけではない(Rosenberg、1984)。

  偶然、こうした問題をめぐるひとつの論文に出会った。前ルーヴル美術館長ピエール・ロザンベールPierre Resenbergが、1984年にニューヨークのメトロポリタン美術館のジャーナルに寄稿したものだ。その内容は2年前の1982年にアメリカ各地およびフランス(パリ、グラン・パレ)で開催された『アメリカのコレクションにおける17世紀フランス絵画』"La Peinture francaise du XVIIe siecle dans les collections americaine”*1と題した美術展のいわば補遺として寄せたものだ。ちなみに、この美術展はそれまでしばしば軽視され、十分に整理されていなかったアメリカに流出した17世紀フランス絵画のほぼ全容を明らかにし、多くの人々に提示するという意味で、大変意義あるものであった。

 この美術展が開催されるまでは、アメリカにある17世紀
フランス絵画はヨーロッパにある作品と比較すれば、その多くは画家の最重要作品ではないとさえ考えられてきたふしがあった。これには、自国の画家の作品をアメリカに流出させてしまったという悔しさのような感情もあったようだ。しかし、冷静に調査をしてみると、当該画家の最重要な作品もヨーロッパを離れていたことが判明してきた。たとえば、レンブラント、ラ・トゥール、フェルメールなどの作品を考えてみれば、すぐに分かることである。ラ・トゥール、フェルメールについてみれば、ほとんど半数近い作品がアメリカの美術館あるいは個人の所蔵するものになっている。特別な企画展などの場合でないかぎり、アメリカとヨーロッパの美術館の双方を訪れないと、作品を見ることができない場合もある。ロザンベール氏の著作のひとつの表題にあるように、まさに「アメリカにしかない」 Only in America フランス絵画の名品も多い。

 ロザンベール氏の論文の標題は『黄金時代のフランス:ひとつの追記』となっているが、あのジョルジュ・ド・ラ・トゥールの研究史で有名なシャルル・ステルランCharles  Sterling が ポウル・ジャモ Paul Jamot と共に企画した『17世紀フランスの現実の画家たち』、”Les Peintres de La realite en France au XVIIe siecle"*2という大変著名な美術展を回顧して寄稿したものだ。とりわけ、この記念すべき美術展のカタログの大部分を制作したステルランに捧げられている。この美術展については、本ブログに経緯を記したこともある。時は1934年、場所はパリ、オランジェリー美術館であった。この美術展の際に刊行されたカタログは、現代的な観点からして最初の学術的作品と評される出来栄えとされる。解説部分はほとんどステルランが書き、出展作品のほとんどすべてが収録されている。

 

 

拡大はクリック

ORAMGERIE, 1934:
LES "PEINTRES DE LA REALITE"
1934年オランジェリーで開催された展覧会
『現実の画家たち』を、当時と同じ形で再現
する試みが2006年11月ー2007年3月に、同じ
オランジェリーで開催された時のカタログ表紙


  展覧会の歴史の長さと比較すると、展覧会のカタログはきわめて歴史が浅いといわれている。当初のころは単に出展作品の基本的属性だけを記したパンフレットのようなものが多かった。しかし、今日では美術に関心の深い人にとって、カタログを読むのは大変楽しみなことだ。とりわけ、小規模でも良く企画された展覧会に出会うと期待は高まる。カタログもよくできていることが多いからだ。

 
カタログは展示されている画家の作品や経歴、そしてしばしばその最先端の研究状況を知らせてくれる。カタログの中には、単に海外の展覧会のカタログの該当部分を翻訳、転載したようなものも多いが、主催者側が力を入れて、新しい研究成果などを掲載しているものに出会うと大変うれしい。日本で開催される展覧会の場合、主催者側に展示される制作者や作品の研究者が加わっていると、当然ながら内容も充実していることが多い。

 さて、ルーヴル美術館長をつとめたロザンベール氏が”黄金時代のフランス絵画”*3を、いかなる内容をもって構想していたかは、きわめて興味深いテーマだ。大変壮大なテーマでもある。ちなみに、この時の英語版カタログは397ページもある立派なものだ。

 興味を抱かれる読者は下記の参考文献を読んでいただきたいのだが、師走で皆さんお忙しい折(?)、次回にその輪郭だけをご紹介することにしよう。フランスに傾きすぎ?の日本では、必ずしも知られていない話なのでご期待を。それにしても、大層なブログ・タイトルですね(笑)。


 
*1 'France in the Golden Age' Paris, Grand Palais, Jan. 29-Apr. 26, 1982; New York, MMA, May 26-Aug 22, 1982: Chicago, Art Institute, Sept.18-Nov.28, 1982.

Pierre Rosenberg, France in the Golden Age: Seventeenth-Century French Paintings in American Collections, The Metropolitan Museum of Art, New York, 1982. pp.397

French title of the exhibition, "La Peinture francaise du XVIIe siecle dans les collection americaines."

*2 Pierre Resenberg, "France in the Golden Age: A Postscript."Metropolitan Museum Journal 17, 1984.

*3 より正確にはロザンベール氏が述べているように、主としてアメリカにあるコレクションから見た黄金時代のフランス絵画、ということになる。展覧会はパリとニューヨーク、シカゴなどのアメリカの都市で開催された。当然ながら、パリの展示はアメリカでの内容とは異なったものとなった。

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パンの重さ:シャルダン『市場から帰って』

2012年11月02日 | 絵のある部屋

 



ジャン・シメオン・シャルダン
『買い物帰りの女中』
1739年、油彩、カンヴァス
47x38cm

パリ、ルーヴル美術館

La pourvoyeuse
Huile sur toile
Paris, Musee du Louvre




 
シャルダンの作品は、そのほとんどが眺めていて一種の精神安定剤のような効果を与えてくれる。作品を見ていると次第に心が落ち着き、なごやかな感じが漂ってくる。作品自体が見ている人になにかを押しつけようとする、あるいは画中の人物などが迫ってくるような感じがない。当時の日常の一齣を描いた風俗画にしても、その世界に自分も入り込んでいるような思いもしてくる。

 シャルダンのことは書き出すときりがないので、書くつもりはなかったのだが、ある調べごとをしているテーマとの関連で、一枚の作品のことが頭をよぎった。

 シャルダンの『市場から帰って』(『買い物帰りの女中』)という有名な作品だ。市場へ買い物に行って帰ってきたばかりの召使い(お手伝い)が、買ってきた品物をキッチンの棚の上に置いた瞬間の光景が描かれている。これから奥に見える同僚に、話をするのだろう。

 この主題は3点のヴァリアントが現存している。実は4点あったのだが、4点目はロスチャイルドのコレクション(Henri de Rothchild)に含まれていて、第二次世界大戦中に火災で焼失してしまったらしい。今回の『シャルダン展』に出品されているのはルーヴル美術館が所蔵している一枚である。1867年の年記があり、現存する3点の中では最後に制作された作品だ。

 鳥の腿肉がそのまま飛び出ている買い物袋を持ちながら、食器棚の上に二つのパンを置いた時の一瞬を描いたものだ。描かれている主人公は、多少重い買い物などでも、一向に気にかけないような体格の堂々とした女性だ。おそらくこの家の女主人は、とても重い物など持てないような華奢な人なのだろう。

 この主題、複数のヴァリアントがあるように、画家は主としてさまざまな配色の効果を試したかったようだ。前回のブログに記したパリ、ワシントンなどでの巡回『シャルダン大回顧』展では現存する3点が並列展示されていたが、今回はルーヴル美術館所蔵の1点だけが展示されている。実は3点とも人物や什器、器物などの配置はほとんど同じなのだが、画家は微妙な配色、陰影の効果などを確かめたようだ。どれもそれぞれに持ち味があって興味深いが、今回出展されたルーヴル・ヴァージョンは色合いが全体にはっきりしていた、迫力がある。現存する3点の微妙な違いは、画家がなにを考えて描いたのかを想像させて大変興味深い。その中で、ルーヴル・エディションは、最後に描かれただけあって、完成度が高い気がする。全体の色合いも他の2点と比較してやや濃い。

 当面、筆者が注目するのは、彼女が食器棚の上に置いたふたつの大きなパンの塊だ。フランスのパン屋の発達史を多少調べてみた時に分かったのだが、この作品が制作された18世紀、1867年、そしてあの生家がパン屋であったジョルジュ・ド・ラ・トゥールが生きた17世紀の間に、フランスではパンの製法にはほとんどさしたる変化がなかったことが推定されている。パンは当時も今も主食なのだが、当時はパンの種類も少なく、製法も比較的単純であったこともあって、伝統的な工程には大きな変化がなかったようだ。

 17-18世紀のフランスのパンには、地方によって製法や形状にそれぞれ特異な違いが見いだされるが、注目されるのはその形状と大きさだ。今日の社会で消費されるパンの種類は、消費者の嗜好もあって、きわめて多様なものだ。しかし、シャルダンの時代にあっては、パリでもこうした大型の塊のようなパンが、市民の主食であったことがわかる。主食である以上、その重さが重要な意味を持っていた。

 17世紀においても、パン屋の信用は多分に店で売っているパンの重量が正しく守られていたかという点にあった。ロレーヌの農民などは、とにかく大きなパンを買ってきて、せいぜいスープに浸して食べていたらしい。したがって、パンの形状などは二の次で、まるで不揃い、パンかまどに入れる前に簡単に形を整えたくらいで、凸凹な塊のようだ。問題は重量にあり、パン屋が秤量をごまかさないかという点は、消費者にとって大きな問題であった。

 多くの場合、毎朝焼き上がったばかりのパンを買いに行ったので、その大きさで何人家族かというようなことまで推定できるようだ。

 同じ時代にロレーヌでパンを買って帰る女性と子供たちを描いた絵がある。これを見ると、当時のパンがいかに大きなものであるかが分かる。子供が大事そうに抱えているのは、彼女の分け前なのだろうか。

 

source
Gerald Louis. Le Pain en Lorraine
クリックすると拡大します


 シャルダンの絵を見ると、重い買い物袋を持った上に、これほど大きなパン二つを抱え込んで市場(いちば)から帰ってきた女性は、一家の買い物担当だけあって、さすがにたくましい。今日でもバケットなどを紙に包むこともなく、無造作に買い物袋に突っ込んで歩いている人をパリなどでも見かけるから、紙に包んだり、袋に入れるなどという慣習は、このころのパリでももちろんなかったのだろう。日本とは大きな違いだ。

 一枚のなんでもないような風俗画だが、よく見ているといろいろなことを考えさせられる。
 


日本で開催中の『シャルダン展』では、『買い物帰りの女中』という画題がつけられている。もともと、シャルダンは画題をつけていないのだが、当時のフランスではプールヴォワイユーズ La pourvoyeuse〔配達人,供給者の意味) と呼ばれる召使いは、特に市場や店で、買い物を担当する役割を負っていた。1999-2000年の『シャルダン大回顧展』では『市場から帰って』 Return from marketという画題であった。今ではこちらの方が良いと思うのだが

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シャルダン『羽根を持つ少女』:心を癒す今日の一枚

2012年10月22日 | 絵のある部屋

 

 

Jean-Simeon Chardin
Une petite fille jouant au volant, dit aussi
La fillette au voltant
(Girl with Shuttlecock)
Canvas, 81 x 65cm
1737,
Paris, collection paticuliere (Private collection)



 降って湧いたような国境をめぐる執拗な争い、絶えることのない悲惨な内戦など、世界に平穏な日々は訪れてくれない。国内外に不安の種は絶えない。多くの人が、この国、そして世界の行方に一抹の不安を抱いて日々を過ごしている。

 そうした折に眺めて、しばらく心が癒され、至福の時を過ごせる絵がある。こうした作品や音楽をいくつか知っていると、つらいことや、いやなことがあっても、乗り越えられるかもしれない。真作のほとんどは美術館や個人蔵ですが、一度でも真作を見ていると、コピーやイメージでもかなり満足できますよ。

 今日のおすすめの一枚は、18世紀のフランス画家ジャン-シメオン-シャルダンの『(バドミントンの)羽根を持つ少女』だ。前回記したように、たまたま、東京でこの画家の企画展が行われている。シャルダンの知名度は、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールよりも高いかもしれないが、それでもこの画家のことを知る日本人は大変少ない。日本における西洋美術の紹介あるいは受容の仕方にきわめて大きなバイアスがあったと私は思っている。

 それはさておき、このブログの柱(?)の一本であるジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品の多くが、しばしば主題との対話、深い思索を見る人に迫るのとは別の意味で、シャルダンの作品は、ただ眺めていて落ち着いてくる。果物などを描いた静物画を見ても、実際の桃や林檎よりも目に優しく思える。(筆者のやや苦手なのは、フランス人の好きな食用にする死んだうさぎが描かれている静物画が多いことだけだ)。

 シャルダンは人物を描いたかなり多数の風俗画を残しているが、これもきわめて興味があり、とりわけ働く人々の日常をさりげなく描いた作品については、なにかの折に一枚ごとに見直し、掘り下げてみたいと思ってきた。

 シャルダンの作品にいつから関心を抱くようになったのか、正確には思い出せない。ラ・トゥールのような強い衝撃を伴って接することはなかった。いつの間にか、抵抗なく私の生活の中に入ってきて、ひっそりとそこに座っていたという感じであった。それでも強いて思い出せば、ひとつのきっかけは、1999年のパリでのこの画家の没後200年の大回顧展(1999-2000年にわたり、ワシントン、ロンドン、デュッセルドルフなどでも開催)であったのではないかと思う。少なくとも、まとまってシャルダンの作品を見ることができた。まだ忙しく世界を動き回っていた時代だった。あまり一枚の絵に浸っている時もなかった。

 この『羽根を持つ少女』は、ひと目見てほのぼのとした思いが画面から伝わってくる作品だ。しかし、よく見るとなんとなく実在の人間の子供ではないような不思議な顔だちでもある。人形を模写したような可愛らしさがある。ラ・トゥールの『聖ヨセフの夢』に描かれた天使とどこか通じるような実在の人間ではない感じすらある。あるいはトロニーなのかもしれない。

 シャルダンはこの作品を1737年のパリのサロンに、これも今は大変有名な『カードの城』(ワシントン、国立美術館蔵)を含む8点の作品を
出品したが、ほとんど関心を惹かなかったといわれる。ちなみに、この作品にはふたつのヴァージョンがあり、今回の東京展に出展されているのは、パリの個人蔵とフィレンツェのウフィツィ美術館が所蔵する作品である。研究者の間では話題になってきたようだが、個人蔵のヴァージョンの方が、できが良いといわれてきた。私の印象でも、個人蔵の方が仕上がりがよいと思う。ウフィツィ所蔵の方は色合いも淡く、比べてみると迫力がいまひとつだ。それでも、共に愛すべき一枚であることに変わりはない。

 シャルダンが画壇のアカデミーの固定した風潮に密かな不満を抱いていたらしいことは、前回のブログにも一端を記したが、いくつかのことから、ある程度うかがい知れる。この画家の研究でも、第一人者であるピエール・ローザンベールが指摘するように、シャルダンの絵画は寓意がない。図像学に縛られず、面倒なアトリビュートはいっさい
場では認めていながらも、自らは低位に位置づけられる静物画、風俗画を淡々と制作していた。位階の理論は時の経過とともに、崩れ去る。シャルダンがその行方を自覚していたとは思えない。しかし、この画家は静かに自ら描きたい対象を描いていた。シャルダンのどの作品を見ても、壁にさえぎられることなく、その世界を共有できるのは、このためなのだろう。

そこには画家が描きたい対象だけが描かれている。静物画、風俗画、肖像画、歴史画と主題に位階をつけた、あの権威主義的な位階の理論の存在をシャルダンは自らの作品をもって、破壊したのだ。



Chardin, Exhibition Catalogue, cover
Royal Academy of Arts
The Metropolitan Museum of Arts
1999-2000

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画架の裏側:画家の娘たち

2012年10月08日 | 絵のある部屋



ジョルジュ・ド・ラ・トゥール『女占い師』
パリ、ルーヴル美術館
サイン右上、右下に拡大部分
クリックすると拡大します



 これまで真作と思って見ていた絵画作品が、実は別人の手になるものであったとわかったら、皆さんはどんな気持ちになるでしょう。たとえば日本人に大変人気のあるフェルメールの『女主人と召使い』 Mistress and Maid (New York, Frick, Collection), 『若い女性の肖像』 Portrait of a Young Woman, (
New York Metropolitan Museum of Art, など長らく画家ヨハンネス・フェルメールの作品とされてきたものが、実はフェルメールの娘、マリアの作品ではないかとの研究*1があります。筆者もその可能性ありと思っていました。この点に限らず、近年新たな発見や仮説が提示されていて、さまざまに興味を呼び起こされ、脳細胞が活性化する気がします。蛇足ながら、日本で多数刊行されている「フェルメール本」?は、大方はブーム便乗目当てのため、通俗的で退屈です。

画家の名声と作品
 フェルメールに限ったことではありませんが、これまで真作といわれていた作品が、別の画家の作品と判明した時、あなたならどう思いますか。

 誰の作品であろうと、画家の名前など気にかけない。画家の名前よりは作品の内容・水準次第。失望して印象が薄くなる。がっかりして、以後まったく関心を失うなど・・・・・・・。反応は人さまざまでしょう。絵画市場での作品の市価は恐らく低落するかもしれませんが。

 実はこうした問題は、多数の画家の作品にありうる話です。今日はこのブログの主題のひとつ、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールに関わる同様なお話をひとつ。

ラ・トゥール研究の成果
 
ラ・トゥール研究の専門家のひとり、Anne Reinbold によると、2005年東京で開催された『ラ・トゥール展』のカタログに掲載されている30点近い作品は、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールに制作者が帰属(attribution)するものと考えてよいと記されています。言い換えると、当該画家が制作過程のすべてに関わっており、他人の手が入っていないという意味で、真作の評価が定まった作品といえましょう。

 しかし、Reinboldによると、さらに100点近く、関連して検討すべき対象があるとのことです。それらの中には、レプリカ(真作の完全に近い複製)、コピー(模写・模作)、破損したキャンバスの一部分、画家の死後、多くのアーカイブ、あるいはさまざまな文書で論及されている作品(現在は所在が不明)などが、該当します。たとえば、レプリカといっても、当該画家本人がなんらかの目的で制作した作品、弟子などが大半を制作し、一部だけ本人が手を入れた作品、画家の工房の制作になるもので、当該画家はほとんど制作に関わっていない作品、当該画家あるいはその工房以外の人物が、多くは後年になって制作したものなど、さまざまな可能性が考えられます。

意外に難しい署名の鑑定
 この問題に関連して、大変興味深い研究課題は、当該画家あるいは誰かが作品キャンバスに記した署名に関するものです。キャンバス上に残された署名といえば、これはその署名をした画家の手になる作品(真作?)と思いがちです。しかし、署名といっても、古文書に残る手書きの筆跡もあれば、上掲の作品の署名のように、カリグラフィーのような文字もあります。

 後年になって、ラ・トゥールの名前と判定できる署名が残る作品あるいは手書き文書に残る署名には、いくつかの特徴があることが分かってきました。ちなみに、Reinboldを始めとする海外のラ・トゥール研究者は、17世紀の埃だらけの古文書記録に残る読みにくい署名の綴りを判読したり、キャンバスの片隅に隠れ、画面の老朽化や度々の修復などで隠れて判読しにくくなった署名を見つけ出し、他の署名と比較するなど、地道な試みを続け、その努力ぶりには感服します。その努力は着実に成果を生んでいるように思われます。

娘は画家になった? 
 ラ・トゥールの署名問題については、とてもブログには書き切れないほどの研究蓄積があり、書き切れません。そこで、ここでは、ラ・トゥールの家族に画業の後継者がいたかもしれないという新たな発見について、書いて見ます。

 美術史家の地道な考証努力の中で、ナンシーの公証人のコレクション・リストに、1851年時点で「夕暮れの海の風景」として記録されている、クロード・ドゥ・メニル・ラ・トゥール Claude du Mesnil-la-Tourという画家に帰属する作品があることが判明しました(Thuillier, 1997, Reinbold 2012)。実は、この名前あるいは De Menil-La Tour という名前は、ラ・トゥール研究の各所で記録に登場します。しかし、その正体は分からず、Georges de La Tourの誤記だという美術史家もいます。

エティエンヌ以外の家族が画業を?
 
ラ・トゥールについて多少なりと関心をお持ちの方は、画家であるジョルジュが1652年に59歳で死去した後は、息子のエティエンヌが後を継承し、その後しばらく画業を続けたが、自ら父親のような画家としての才能がないと思ったか、貴族、そして最終的にはロレーヌ公から領主に任じられて、画家の道を放棄したということをご存じでしょう。

 実はジョルジュも画家としての徒弟修業を、どこの親方の下で行ったかが明らかでないように、エティエンヌも修業の過程が分かりません。父親ジョルジュから教えられたという可能性は高いのですが、天才画家の親の水準を超えることは至難ですね。今日に残るエティエンヌが書いた文書の筆跡、内容などから、しっかりとした教養を備えていたと推定されていますが、真相は謎のままです。父親の下ではなくて、どこかの親方に徒弟入りをした可能性もありますが、これも記録がありません。

忘れられていた娘たち
 他方、ラ・トゥール夫妻にはエティエンヌ(次男)のほかにこれまで研究者もあまり関心を寄せなかったクロードとカトリーヌという娘がいました。ラ・トゥール夫妻には生涯10人の子供がいたと推定されていますが、1648年時点(ジョルジュ・ド・ラ・トゥール55歳当時)で、生存していたのは、エティエンヌ、クロード、クリスティアーヌの3人だけでした。

 ジョルジュが死去した1649年当時にはクロードは30歳くらい、カトリーヌはそれより少し若かったと推定されています。貴族志向で、父親のような画才には恵まれず、画家にはなりたくなかったエティエンヌの陰で、娘クロード(あるいはカトリーヌも)が工房で頑固な?父親を支え、仕事を手伝いながら、画家の基礎を習得し、自らも作品を制作していたという可能性はかなり高いと思われます。レンブラント、フェルメール、ラ・トゥールなど、17世紀巨匠の工房で、画家を支えていたたち娘たちの存在を考え直すと、新しい次元が見えてきそうです。

 クロードの作品であると確認された作品はまだ発見されていません。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品として、風景画、肖像画、静物画などは、確認されていません。他方、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールに帰属される作品は、今日でも時々発見されています。次に出てくるものはなにでしょうか。


 
*1  Benjamin Binstock, Vermeer's Family Secrets; Genius Discovery, and the Unknown Apprentice, New York and London; Routledge, 2009

*2 Anne Reinbold, "Firme e attribuzione: la questione della bottega"
GEORGES DE LA TOUR A MILANO, L'Adorazione dei pastori San Giuseppe falegname, Milano: SKIRA, 2012

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ミネルヴァとの再会;ベルリン国立美術館展から

2012年08月17日 | 絵のある部屋

 

Rembrandt van Rijn
Minerva, c.1631
Oil on canvas
60.5 x 50cm
Staatliche Museen zu Berlin

拡大はクリックしてください

 

 猛暑の1日、ベルリン国立美術館展(国立西洋美術館)へ出かけた。この頃、しばしば活用している暑さしのぎの方法である。美術館はこうした日を過ごすには格好な場所だ。館内は適度に温度調整がなされている上に、作品を鑑賞している間に、かなりの距離を歩くことになるので、運動不足の解消にもなる。暑さに疲れていた頭脳も、活性化するという効果も期待できる。

 さて、肝心の展示内容だが、感想はやや拍子抜けであった。展示の思想が明確な企画展と違って、こうした総合展示は総花的で、えてして焦点の定まらない迫力の欠けたものになりがちである。今回もその点を痛感した。ベルリンの美術館群は半世紀近くにわたり、かなりよく見ており、その圧倒的充実度も実感してきただけに、少し残念な気がした。とりわけ、2015年完成に向けて中核となる壮大な美術館島計画も、いまだ進行の途上だ。しかし、そうした美術館計画の全体像も、この展示方法ではほとんど見えてこない。近未来のベルリンの美術館がどんな姿になるか、少なくも、一般の観客には伝わらないだろう。

またもフェルメールですか 
 そうした中で、集客対策とはいえ、フェルメールの『真珠の首飾りの少女』が最大のアトラクションのひとつになっていて、いささか食傷気味だ。見ていると、観客も「ああ、たしかに真珠の首飾りだね!」と、その点を確認さえすればご満足のようで、他の展示は通り一遍で素通りされる方が多い。そして多くの方が次の目標の『真珠の耳飾りの少女』を見るために、近くの「マウリッツハイス国立美術館展」(東京都美術館)へお出かけというご様子だ。フェルメールはごひいきの画家ではあるが、最近のメディアが作り出した過剰なブームにはつきあえない。


ベルリンの国立美術館では、この作品は確か同じフェルメールの『紳士とワインを飲む女』と隣り合わせで展示されていた。

 それでも、来て良かったと思う作品に出会えれば、幸いである。子細に見れば、大変感銘を受ける作品も多い。ベルリンの美術館群は、ペルガモン美術館をはじめとして、壮大な建築物、彫像、フリーズなどが重要な見物なのだが、これらは現地に行くしかない。

美しい胸像、レリーフ
 今回の展示には彫像、レリーフなどの作品で興味深い作品がかなりあった。ちなみにかつて筆者のごひいきの場所はペルガモンとすでに2005年に閉館となったエジプト美術館であった。エジプト美術といえば、(とても海外へ貸し出せる作品ではないが)ネフェルティティ像をめぐって、ドイツとエジプトの間で、紛争もあるが、そうした問題をしばし忘れて、永遠の美女(BC1350年頃)にご対面できる。


 今回の展示品の中で、ひとつの胸像が目にとまった。グレゴリオ・ディ・ロレンツォ・ディ・ヤコポ・ディ・ミーノ『女性の肖像』である(下掲)。15世紀頃のイタリアの肖像は、あの特徴のある人物の横顔を描いた作品が多いが、この作品は立体の肖像である。

 比較的小型の上半身の肖像で、最初のデッサンさえできれば、後は工房で作業し、依頼主の所に送ることができたと思われる。同時代の絵画の世界における銅販画の出現に似ているところがある。輸送、再生、頒布などが容易に行える。

 この女性の肖像は、過去に見た記憶があるのだが、依頼主と思われる女性の、穏やかな、それでいて顔の輪郭がはっきりと再現された大変美しい作品だ。正面ばかりでなく、横顔も大変美しい。実際にも美人の誉れの高かった人であったのだろう。当時の上流階級の女性だったら、だれもが胸像制作を頼みたくなるのではないか。



拡大はクリック



Gregorio di Lorenzo Di Jacopo Di Mino(Florence?,c.1436-Folil? 1504)

Portrait of a Lady
c.1470, Stucco
50.5x47x25cm
Staatliche Museen zu Belin

 絵画では、やはりレンブラント・ファン・レインの「ミネルヴァ」Minerva(上掲)が管理人のお好みだ。ミネルヴァはローマ神話で学芸の庇護者とされているが、作品には一見して不思議な印象を与える若い女性が描かれている。彼女は豪華な毛皮や宝石などで縁取りされた、暗赤色の重厚なコートをまとい、椅子に腰掛けている。背後にはミネルヴァのアトリビュートとされるメドゥーサの頭部が彫り込まれた盾が掛けられているようだが、照明の関係もあって。はっきり確認できない。この作品、一時はレンブラントの僚友ヤン・リーフェンスの作品に帰属されていたようだ。この作品は署名、年記もないが、レンブラントには、この作品から発展させたと考えられている1635年の同主題作品『書斎の中のミネルヴァ』(下掲)がある。

 後者は、あのサスキアがモデルといわれるが、今回展示の作品のモデルは誰なのだろう。様々な点で興味を惹かれる作品だ。

 ちなみに、下掲の作品は、個人によるオークションの落札価格が4500万ドルといわれ、話題を呼んだが、今回出展のミネルヴァもそれに劣らない名品といえる。



Rembrandt van Rijn
Minerva in her study by Rembrandt
1635, canvas, 137 x 116cm.

 

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シャルル・メラン;再発見される画家

2012年07月19日 | 絵のある部屋

 

 
La Charité romaine
Paris, musée du Louvre, department des Peintures
Huile sur toile; 0.97 x 0.73 (partie)

この絵をめぐる
話には、ただただ驚くばかり(いずれ種明かしを)



   前回まで記したディケンズについては、興味深い点、語るべき点は山ほどあるが、このブログの柱ではないので、ひとまず離れることにしたい。ただ、『アメリカ紀行』と並んで、ディケンズが書き残したもうひとつの紀行文『イタリアのおもかげ』Pictures from Italy (1846)からの連想で、このブログの中心的関心領域である17世紀美術をめぐるイタリア(とりわけ、ローマ)とフランス(パリ)の関係について少し記してみたい(ディケンズのPictures from Italyについては、改めて記したい)。

すべての道はローマへ

 美術などの交流という視点からすれば、古くから世界の文化の中心であったローマは、中世以来多くの文人、芸術家が訪れる光輝く憧れの地であった。そして、16世紀頃から始まったグランド・ツアーなどの影響もあって、貴族など上流階級などにとってのイタリアは、自らの教養を高める上でも一度は訪れるべき聖地のようになっていた。文人ばかりでなく、画家、彫刻家、建築家なども、しばしば徒弟修業の段階からイタリアへ向かった。

 17世紀初めジョルジュ・ド・ラ・トゥールが生まれ、育った頃は、ロレーヌを含め、フランスやオランダなど北方諸国から多数の芸術家あるいは芸術家を志す者が、イタリアを修業の地と定め、旅をした。そのうち、かなりの者は彼の地で修業の時を過ごした後、故郷に戻り、そこで斬新なアイディアの下に画業活動を始めた。しかし、プッサン、クロード・ロランのように、一時はさまざまな理由でフランスに戻っても、再びイタリアへ行き、彼の地を生涯の活動の場とする者も少なくなかった、生まれ育った故国を離れた後、イタリアに住み着き帰国することのなかった者も多い。

北と南の文化交流の道
 ジョルジュ・ド・ラ・トゥールのように、少なくとも記録としては、イタリアへの旅が確認されていない画家でも、ユトレヒト・カラヴァジェスキなどの影響を受け、イタリアの風を感じ取った画家もいる。実はこの時代に限っても、美術などの情報は、たとえば、フランスからイタリアに向かう一方通行ではなく、逆に北方フランドルなどからイタリアへの情報が流れるなど、双方向の文化交流があった。それも、単に人の流れにとどまらず、作品の売買、寄贈などによる移動、有形無形の情報の伝達などさまざまであった。この事実は、ユトレヒト・カラヴァジェスキが生まれた流れをみると明らかだ。この間の絵画マーケットの形成も注目すべきジャンルだ。

 興味深い問題は数多いのだが、今回は日本ではほとんど知られていない画家の例として、シャルル・メラン(Charles Mellin, 1597-1649)について少し記したい。ロレーヌ生まれの画家だが、イタリアへ修業に赴き、彼の地に落ち着いて再び帰ることがなかった。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールとほとんど同時代、バロック期の画家である。生まれたのは、ロレーヌのナンシーであったが、画家としての修業はイタリアで行った。あのクロード・ロランのように、メランはカルロ・ロレネーゼ Carlo Lorenese (ロレーヌのカルロ)とあだ名を付けられていた。

完全に忘却されていた画家たち
 シャルル・メランは、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールと同様に、ロレーヌの生まれでありながら、フランス美術史の上では、20世紀初めまでほとんど完全に忘れ去られていたという共通点がある。今回、取り上げるシャルル・メランにいたっては、最近漸く作品や生涯のほぼ全貌が判明し、再評価されつつ画家なのだ

 実は、最近マスコミなどの力で、ブームが作られている感じが強いフェルメールなども、しばらく前までは、ほとんど注目されない画家だった。管理人がオランダを最初に訪れた1960年代では、フェルメールの作品の前は、ほとんどがら空きだった。最近の日本では、17世紀ヨーロッパ美術の世界は、フェルメールとレンブラントくらいしか注目すべき画家がいないような、妙な雰囲気が作り出されている。相当の美術好きな人でも、ニコラ・プッサン、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールを知らない人は多い。かなり歪んだ美術観が浸透している。しかし、実際には17世紀美術の世界は、はるかに豊かで広がりがあるのだ。シャルル・メランやラ・トゥール、カロなどが生まれたロレーヌでは、後期マネリスムの時代、1580-1635年の間に限っても、ナンシーだけでおよそ260人の画家と20人の版画家たちが活動していたといわれる。しかし、そのほとんどはいまや名前も作品も分からない。この埋もれ隠された世界に多少でも入り込んでみたい。

 美術に限ったことでは必ずしもないが、もっと広いスコープで17世紀という
時代を見直したいというのが、このようなささやかなブログを続けている原点にある。そのため、多くの美術史家からすると、奇妙に思われるかもしれないことを記している。

 閑話休題。さて、メランが得意としたのは、主として壁画だった。ローマのサン・ルイギ・デイ・フランセシ教会などの壁画を描いている。メランはニコラ・プッサン、ジョヴァンニ・ランフランコなどとこの仕事を競い合った。その水準は当時、第一級の水準に達していた。プッサンのような飛び抜けた才能には恵まれていなかったが、その力量は十分に当時の先端に位置づけられる。シャルル・メランが「再発見」された2007年ナンシーでの企画展カタログでは、巻頭でピエール・ローゼンベールが、シャルル・メランとニコラ・プッサンの比較・評価を行っている。

 画家の力量、作品は、しばしば後世の美術史家、鑑識家などによって不当な評価を受ける。メランやジャック・ステラは、その点でかなり割を食ったようだ(この点は、忘れられていたメランの全体像を紹介した2007年の企画展カタログにも記されている)。

 メランは画業生活の初期の頃は、ローマにいたシモン・ヴーエの影響を受けたり、共に仕事をしたことがあった。この点は、この時期のメランの作品にはっきりと現れている。上記、カタログにも詳細な記述がある。しかし、その後ヴーエがパリに去ると、作風も変わる。ドメニチーノ Domenichino の影響も受けたようだ。

 ヴーエがローマを離れた後、メランは貴族で公爵のムティ・パッパズーリ家の専属画家となった。そして、1628年から31年にかけて、ムティ宮殿(概略は現存、下掲)の装飾を担当した、その一部は今日まで残っている。さらに、かれはムティ家の二人の息子(アマチュア画家)に絵画制作の技法を教えた。今日までムティの名で残る作品は、実際にはメランがほとんど制作したとの推測もある。

le palais Muti Papazurri, puis Balestra, Rome
クリックすると大きなイメージに 

 ローマではトリニータ・デイ・モンティ教会のフレスコ画なども制作した。1643-47年にかけては、ナポリに滞在し、教会関係でいくつかの仕事をしている。作品には壁画やフレスコ画が多いため、戦火などで滅失した作品が多い。今日残る作品を見ると、きわめて美しく、多くの点で画家の力量をうかがわせる。

 下に例示的に掲載した『聖エティエンヌ』、『ガリレオ・ガリレイ』、『若い男の肖像』などの作品を見ても、この画家の生きた世界の一端が伝わってくる。作品にはきわめて興味深いものが多い。今後、研究が進めば、17世紀の美術世界についての理解は一段と深まるだろう。


Saint Étienne
Nantes, musée-des Beaux-Arts
Huile sur toile, 0.61 x 0.485




Galileo Galilei, dit Galilée (1564-1642)
Rome, collection particuliére
Huile sur toile, 0.67 x 0.505

  

Portrait de jeune homme
Paris, musée du Louvre
Huile sur toile, 0.635 x 0.49

作品の帰属に大いに議論があった。画家の自画像である可能性も
ないわけではない。

Exhibition Catalogue

Charles Mellin, un Lorrain entre Rome et Naples, Commissioned by Philippe Malgouyres, 21 septembre – 31 decembre, 2007, Musée des Beaux-Arts de Cae Musée des Beaux-Arts de Nancy. Pp.327

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過ぎゆく日々への思い

2011年08月15日 | 絵のある部屋

  

Éduard Manet
The Boy with Soap Bubbles
1968/69
etching and aquatint on green paper
plate 25.2 x 21.4cm on sheet 40.2 x 25.7cm
Andrew W. Mellon Fund
1977.12.13



 酷熱の日射しが戻ってきた一日、暑さ逃れに美術館へ出かける。国立新美術館『ワシントン・ナショナル・ギャラリー展;印象派・ポスト印象派 奇跡のコレクション』と題する展覧会だ。印象派の絵画は、とりわけ好きでも嫌いでもない。美術に関連する仕事に誘われた時もあり、かなりの数の作品に出会ってきた。ワシントン・ナショナル・ギャラリーも、ごひいきの美術館のひとつでもあった。この地に住む友人・知人を訪ねるたびに、ほぼかならず足を運んだ。その意味で、今回展示される作品には、すでにご対面済みのものが多かった。

 今回の展示のように特定の画家やスクールの企画展ではなく、適宜見つくろいましたという一般向けの展覧会は、好みではない。展示作品も玉石混淆で、見た後の印象も薄い。集客数などの不純な動機が見え隠れするからかもしれない。見たいと思う作品は来てくれず、いくつか好きな作品に対面できたなという程度になってしまう。それでも、酷暑の中で体力も消耗し、思考力も薄れるよりは、節電とやらでいつもほど爽やかではない会場で、作品を見ていた方がはるかにましだろうと思って出かけてしまう。

 この国立新美術館、建物だけは大きいが、なんとなく軽薄な感じがする。所蔵品が少なく、歴史が短いこともあって、大型興業施設という印象だ。今後の時間がどれだけ国立の名にふさわしい重みを増してくれるか。これまでに何度か来ているが、今のところごひいきの美術館になってはいない。 

 とはいっても、見慣れている17世紀絵画と比較すると、印象派の作品は、概して色彩が明るく爽やかな感じを受けるものが多く、最近のような陰鬱な日々には、息抜きになるような思いもする。
 
 印象派以後の絵画は、誤解を恐れずにいえば、額縁の中だけが勝負だ。画題、色彩、表現などが、見る人にどう受け入れられるかで評価が定まる。歴史やアトリビュート、来歴などは特に考えないでよい。見た感じがよいか悪いかが、作品の評価に大きく関わる。いってみれば見た目がすべてだ。

 今回もいくつかの名作があった。ほとんどはここで改めてとりあげるまでもない良く知られた作品である。ここで改めて、それらに言及することはしない。今回展示されている作品の中で、小品でほとんど人々の注意を集めていなかったが、なんとなく惹かれた作品が1,2あった。上掲のマネのエッチングがそのひとつだ。これは、同じ画家の同じ構図の油彩作品(グルベンキアン美術館、リスボン所蔵)を忠実に反転したエッチングだ。所蔵者も違うこともあり、今回、油彩(下掲)は展示されていない。画題は、少年がシャボン玉を吹いている。ただ、それだけのことといえば、その通りである。



Éduard Manet

A boy blowing bubbles
oil painting, canvas  100.5 x 81.4cm
c.1867
Museu Calouste Gulbenkian, Lisbon Portugal

  マネの死後の1890年にこの版画が出版されるまで、この作品の試し刷りも発見されず、マネがこの版画を制作した意図はあきらかではない。もしかすると、推測されるように、自身の油彩画に従って一連のエッチング集を出版したいというマネのもくろみがあったのかもしれない。この作品、マネが1867年4月初旬におそらくパリのラペルリエの売り立てで見た、1745年頃作のジャン=バティスト・シャルダンの《シャボン玉》(下掲)に発想を得たともいわれるが、あくまで後世の推測だ。印象も大分異なる。このシャルダンの作品にも、少し違ったいくつかのヴァージョンがある。


Jean Siméon Chardin (French, 1699–1779)
TitleSoap Bubbles
ca. 1733–34
Oil on canvas
24 x 24 7/8 in. (61 x 63.2 cm)
Metropolitan Museum of Art
Line Wentworth Fund, 1949


   シャボン玉の麦わらはそのはかなさから、ヴァニタス(人生のむなしさ)を寓意しているともいわれるが、 画家がそこまで意識していたかは分からない。見る者としては、純粋に構図や雰囲気の美しさにひかれる。ただ、作品を見ている間に、またごひいきのエル・グレコや ジョルジュ・ド・ラトゥールの「火種を吹く少年」のことが思い浮かんだ。はかなく消えそうになりそうな火だねを、吹いてなんとか保とうとしている少年たちの姿に、シャボン玉とつながるなにかを感じていた。不安が覆う時代の空気が連想を呼ぶのだろうか。


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速やかな癒しを祈りつつ

2011年03月17日 | 絵のある部屋

 
Georges de La Tour. Saint Sebastian Tended by Saint Irene, Kimbell Museum

聖イレーヌは17世紀以来、疫病の守り神、看護婦の守護聖人とされてきた。



  明け方、余震でたびたび目が覚める。つとめて気にしないようにしているのだが、潜在意識が働き、神経が緊張しているのだろう。

 このところ、あたかも「地球最後の日」を見ているかのようだ。少し長く生きてきたばかりに、
かなりの悲惨・悲哀の現場にも出会ってきた。多少のことには動揺しないと思ってはいる。文字通り灰燼と帰したふるさとの戦後、何度かの天災、異国の地で図らずも遭遇した「大停電」から、予想もしない災厄にも見舞われ、とっさの判断で危うく難を逃れたこともあった。地下鉄サリン事件も電車一台の違いだった。9.11は映像で見たが、このたびの大震災のごとき自然の恐ろしさには比すべくもない。科学の進歩を過信し、17世紀の人たちが抱いていたような自然への畏怖の念が、薄れていたのだろうか。

  今回の事態は、これまでのいかなる経験とも異なる。あまりに冷酷・無残な衝撃だ。「
3.11」が今後人々の間にいかに受け継がれ、記憶されるかはまったく分からない。それどころか、震災は未だ終わったわけではない。現在も拡大・進行中である。いつ終息するのか、誰にも分からない。

 私自身も身辺に探し求めながら、いまだ生死が確認できない人がいる。連絡の道は閉ざされており、ついTV映像の中に目をこらしてしまう。被災地の惨状を目の前にして、羽根があれば、毛布一枚、水のボトル一本でも届けてあげたいとも思う。

 原子力発電所事故によって、あたかも自らホラー映画の主人公たちのようになってしまった人々の有りようにも言葉を失う。エゴイスティックになりがちな状況は分かる。しかし、「人の弱みにつけこむ」ほど、人間として軽蔑されるべき行為はない。為替投機についても同様だ。現実は苛酷だが、それ故に冷静な判断と暖かい対応が欠かせない。なによりも被災された人々への「人間愛」を大事にしたい。災害はいつ、誰にふりかかるのか分からない。

 
明らかに国難ともいうべき惨事だ。危機に立ち向かう国民の資質が問われている。戦後の苦難を克服してきたわれわれのどこかには、その資質が残っているはずだ。

 
今はひたすら壊れてしまった「パンドラの箱」を封じ込めることに全力を尽くそう。国民の叡智を集めれば、決して克服できないはずはない。

 

 

提案:

★「震災追悼日(週)」を設け、日本人のそれぞれがこの国や自らのあり方、行く末
を考えたらどうだろうか。適切に導入すれば、電力需要削減、被災地支援の効果も高まるだろう。日本人の誰もが、苦難を共有すべき時だ。

 

  



 

 

 

 

 

 



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17世紀のアウトサイダーたち

2011年02月14日 | 絵のある部屋

 


ジャック・カロ 『ジプシーの宴』
Jacques Callot. Les Bohemians: La halte et apprêts du festin

  年末から予期していなかった雑事が重なり、せわしない日々が続いた。そのため、ゆっくり見たいと思っていた『カンディンスキーと青騎士展』の鑑賞も、滑り込みとなってしまった。もっとも、会期末の割には観客は少なく、やや拍子抜けの思いだった。作品の選択、展示が作品提供者のレンバッハハウスに頼りすぎたためか、少し単調で、ひと工夫が欲しかっ

た。

  
 
2011年世界アルペン選手権が開催されているガルミッシュ・パルテンキルヘンの美しい冬山の景色を見ながら、そういえば、カンディンスキーの冬山を描いた作品は記憶にないなあと思ったりしている。

 

 もうひとつ見過ごすところだったのが、国立西洋美術館の小企画展『アウトサイダーズ』(よそ者)だった。このブログにもしばしば登場したジャック・カロの銅版画を中心に、そのほかにもオノレ・ドーミエ、ハンス・ゼーバルト・ベーハムなど、有名版画家の作品が展示された。ドーミエの作品を見ていて、かつて東大総長を務められた大河内一男先生がホガース(先生ご自身が銅版画の著名なコレクター)、さらにドーミエなどの作品に大変関心を寄せられ、小さな研究会の合間などに、作品やその魅力などについてお話をうかがったことを思い出した。こうした座談の折の先生は、大変楽しそうであった。

 

 閑話休題。今回の小企画展は、国立西洋美術館所蔵の作品が中心だったが、銅版画という大量頒布が可能であった作品の特徴を生かして、いくつかの場所で、同一主題の作品を見ることができる利点がある。

 展示された作品の多くは、すでにどこかで見たおなじみのものがほとんどであったが、作品を見ている時間は楽しく、心が癒される。

 今回の展示の中核となっていたジャック・カロ
(1592-1635)は、ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593-1652)とは、生年も1年違いである。カロはナンシー生まれ、町では著名な旅籠屋の息子であったから、日記などの記録はないが、この二人は必ず会っているにちがいないと思っている。ラ・トゥールは何度もナンシーへ赴いているし、二人は同時代のロレーヌを代表する著名な画家であった。
  


 

中世以来、ヨーロッパに限ったことではないが、社会の主流から外れたところで、しばしば奇異な目で見られた人たちがいた。「アウトサイダーズ」(よそ者)といわれた人々である。彼らは外国人や日常の生活ではあまり見かけない人、言動の変わった人たちなどであった。しばしば好奇の対象となり、また疎まれ、社会的差別の対象ともなった。

 ヨーロッパ中を放浪して旅するジプシー(ロマ人)はその代表的存在でもあり、ベランジェ、カロあるいはラ・トゥールなどの画家たちが好んで画題とした。アウトサイダーズは、社会的にも下層にはじき出された人たちであり、多くは放浪それも漂泊の旅をしていた。カロやラ・トゥールがしばしば描いた楽師、占い師、道化師などが多く、詩人、さらには魔女とみなされた人たちも含まれていた。

 この犬を連れた旅人の姿からは、ラ・トゥールの『犬を連れた音楽師』のイメージがほうふつとする。

 

 

 

 

 

 

 Jacques Callot. Les Gueux

  

 

 

 

 Jacques Callot. Les Gueux

 

 

 

 

 

 ロマ人問題を始めとして、「アウトサイダーズ」は、現代社会においても厳然と存在する。そうした人たちをみる時代の目がいかに変わったか、あるいは変わっていないか。彼らを描いた多数の版画は、現代人にも当時と変わらぬ厳しい問いを突きつけているようだ。



ちなみに、Briggsの著書の表紙もカロの銅版画の一枚である。

References

 

ヴォルフガング・ハルトゥング(井本晌二/鈴木麻衣子訳)『中世の旅芸人;奇術師・詩人・楽士』(法政大学出版局2006年)

 

マルギット・バッハフイッシャー(森貴史/北原博/濱中春訳)『中世ヨーロッパ放浪芸人の文化史;しいたげられし楽師たち』(明石書店 2006年)

Georges Sadoul. Jacques Callot. Paris: Gallimard, 1969.

 

 

  


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カンディンスキーの列車

2011年02月08日 | 絵のある部屋

 

 
ヴァシリー・カンディンスキー
『ムルナウ近郊の鉄道』

Murnau View With Railway And Castle. 1909
Oil on cardboard,
36х49 cm,
Munich, Stadtische Galerie in Lenbach,

 「カンディンスキーと青騎士展」(東京三菱1号館美術館)を終幕近くで見た。もっと早く見たいと思っていたが、事情があってぎりぎりになってしまった。今回の企画展は、『青騎士』 der Blaue Reiter と呼ばれる表現主義の画家たちのサークルの作品を多数所蔵するミュンヘン市立レンバッハハウス美術館の全面支援で実現したものだった。この美術館、かつて何度かミュンヘンを訪れた折に、立ち寄ったことがあった。作品を見ている間に失われた記憶がよみがえってきた。

 私にとっては、この画家ヴァシリー・カンディンスキーの作品に初めて接したのは、ニューヨークのグッゲンハイム美術館であった。1960年代、日本ではなかなか見る機会が少なかった時代だった。そのために、真作を目のあたりにした時は、頭の中の霞のようなものが一瞬に飛び去ったかのような爽やかな感じがしたことを覚えている。脳細胞もまだ若く新鮮だったのだ。アメリカ滞在中、何度か訪れた。そのことは、ニューヨーク・グッゲンハイム美術館の記憶の断片として、このブログにも記している。

 カンディンスキーの代表作品として、なにを思い浮かべるかは、恐らく見る人によってかなり異なるのではないだろうか。今回出展された作品だけを見ていても、作風がずいぶん変化していることに改めて気づかされた。私が好きなのは、カンディンスキーが、コッヘルーシュレードルフ Kochel-Schlehdorf 、ムルナウ Murnauなどで山を描いた作品だ。

  そして、さらに今回展示されていた一枚の作品『ムルナウ近郊の鉄道』を見たとたんに、思い浮かんだのが
キルヒナーとのつながりであった。ベルリンへ移ったキルヒナーは、1912年の第2回「青騎士展」」に出展している。

  カンディンスキーのこの作品では、真っ黒な蒸気機関車が画面を横断するように、ばく進している光景が描かれている。背景には煙突のある城館のような家と山が見える。カンディンスキーとミュンターが南ドイツ、ミュンヘンに近いムルナウという小さな町に住んでいた頃、高台の住居からは、いつも眼下にミュンヘンとガルミッシュを結ぶ鉄道を走る機関車を見ることができた。彼らにとって、いわば日常の光景だった。

 1980年代のある年、ミュンヘン、インスブルックに住む友人たちを訪ね、ガルミッシュ・パルテンキルヘンと呼ばれるこの地域(現在2011年世界アルペン開催中)を、車と鉄道で旅したことがあった。晴天に恵まれ、世界にこれほど美しい光景があるのかと思ったほど感動した素晴らしい旅であった。

 この地の風光絶佳な山岳風景を見ているかぎり、その美しさに魅惑されるだけかもしれない。事実、旅をしている間はそうであった。しかし、改めて、カンディンスキーの描いた背景は鮮やかに美しいが、細部は一切描かれず、ただ黒一色で塗り込められ、ばく進する機関車を目にした時、突然にキルヒナーの『ノレンドルフ広場』Nollendorfplatz (1912)という電車が、ベルリン市内のこの広場で衝突した事件を描いた作品が眼前に浮かんできた。

 カンディンスキー、そしてキルヒナーが、1912年、図らずも別々に描いた列車の行方はなにかを暗示したかのようだ。時代はまもなく、第一次世界大戦という破滅的局面に突入する。






Ernst Ludwig Kirchner (1880–1938), Nollendorfplatz, 1912,  Öl auf Lwd.; 69 x 60



 

 

 
 

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北方の光; フランス・ハルスとジョルジュ・ド・ラ・トゥール

2011年01月14日 | 絵のある部屋
新年を迎えたが、国内も海外も憂鬱でさえない話題ばかりが目立つ。少し、時代を飛んでみよう。また、17世紀への飛翔だ。

 ジョウルジュ・ド・ラ・トゥールと北方ネーデルラント美術との関連については、すでに度々記してきた。ラ・トゥールは明らかに北方美術の影響を受けている。とりわけ、この画家のリアリズムは、ネーデルラント画家たちと深い脈流でつながっている。

 特に、人物を描いた作品が注目される。たとえば、あのデカルトの風貌を知るには、
ハルスの作品が欠かせない。写真がなかった時代、肖像画が持つ情報量は大きい。ハルスは兄弟と思われるフランス・ハルス Frans Hals(1581ca-1666)とディルック・ハルス Dirck Hals(1591-1656)の存在が知られている。弟は小さなジャンル画を描いていた。知名度では、兄のフランス・ハルスの方が著名だ。ハールレムには、フランス・ハルスの名を冠した美術館がある。

 ハルスの家族は16世紀後半、ハールレムにやってきて、衣服・繊維関連の仕事をしていたらしい。当時のハールレムは商工業や美術の中心のひとつだった。フランスは人物画に秀で、当時の画家の周辺にはどこでもいたような人物を、リアルに、しかも自由で屈託のない形で描いている。しかし、彼の修業に関する背景はあまり明らかではない。後年、ギルドの親方職人になったことは判明している。1616年にはアントワープへ行ったことが分かっている。ルーベンスと会ったかもしれない。少なくも、彼の仲間には会っているだろう。生涯では、あのホントホルストやテルブルッヘンに会った可能性もある。ラ・トゥールも採用しているように、半身の人物画が多い。また、しばしばレンブラントの並んでと比較される民兵を描いた集団人物画でも著名だ。

 ハルスの作品には、当時貿易などを通して自由な空気を享受していたオランダ人の面影を伝えるような堅苦しさのない、自由闊達な市民たちの姿が躍動している。北方絵画から多くを学んだと思われるラ・トゥールもハルスに劣らないリアリズムの画家だが、ロレーヌ特有の深く沈潜した人物像だ。対比して眺めていると、さまざまなことが思い浮かぶ。脳にたまった夾雑物がすこしずつ消えて行く。

 



Frans Hals & Georges de la Tour.wmv
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もう一枚の『羊飼いの礼拝』

2010年09月16日 | 絵のある部屋


Jean Le Clerc. Adorations of the Shepherds. oil on canvas, 180 x 137 cm.

「すべての人を照らす そのまことの光が来ようとしていた」
                           (ヨハネ福音書第1章第9節)  


 17世紀前半、ロレーヌ公国が繁栄の時を享受していた頃、ロレーヌには多数の画家が活躍していた。1580年から1635年の間でも、ロレーヌにはおよそ260人の画家と20人の版画家たちがいたといわれる。その半数以上がナンシーに拠点を置いていた。彼らがいかなる活動をし,作品を生み出していたか。そのくわしい実態を知ることは今日になるときわめて難しい。400年を超える年月が経過するうちに、作品や記録の多くは滅失したり、行方不明になってしまった。  

  残された記録から推察するかぎり、こうした状況で画家が生き残るためには、画家として生まれついての天賦の才、画業修業、とりわけローマでの修業経歴、有力なパトロン、貴族階級などとの人的付き合いなど、時代の求めるものへの対応力がさまざまに要求された。

 それでも、時代を超えて燦然たる光芒を放っている画家たちもいる。生存中から華々しい名声を得ていた画家もいる反面、ラ・トゥール、ルナン兄弟などのように、生前は著名な画家であったが、その後長らく忘れ去られ、近年急速に再評価(再発見)された画家もいる。しかし、当時活動していた多く画家は、今日では名前すらほとんど知られていない。たとえば、前回記した
ポウル・ラ・タルテという画家などは、美術史家の間ですら知る人は少ないだろう。

 さらに17世紀ヨーロッパ美術の研究者や愛好者の間では知られていても、その他の人々にはほとんど無名である画家もいる。ナンシー生まれのジャン・ルクレール Jean LeClerc(1587/88ー1633)もそのひとりだが、17世紀ロレーヌ公国のバロック画家として活躍し、テネブリスト(カラヴァジェスキ風の明暗を強調した画家)として知られる。  

 ルクレールは1600年代の初期イタリア、ヴェネティアに行き、その地のカルロ・サラチェーニに学んだ。1615年、支倉常長の建長遣欧使節団を描いた画家としても知られる。彼らは当時のローマ教皇パウルス五世に謁見したといわれる。残念ながら、この画家の才能をうかがい知る作品(油彩画)もわずかしか残っていない(版画は多く残っている)。『羊飼いの礼拝』 The Adoration of the Shepherds はその数枚のうちの一枚だ。このテーマは人気があり、数多くの画家が手がけている。

 ルクレールはロレーヌ出身の画家だが、イタリアで学んだだけにその影響は明らかに感じられる。上に掲げる作品ばかりでなく、ナンシーに現存する『インド人に説経する聖フランシス・ザヴィエル』 St. Francis Xavier preaching to the Indians などを見ると、明らかに
イタリアの光が射している。それもローマとは少し異なるヴェネティアの光だ。素朴な農民の姿そのままのラ・トゥールの『羊飼いの礼拝』とも違った光だ。

 

 

 

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小さなことから広がる世界

2010年09月08日 | 絵のある部屋




ポール・ラ・タルテ(?-1636) 
『演奏会』ロレーヌ、1600-1630年頃
130.0 x 152.0cm
ヴァヴァル城

Paul La Tarte(died in 1636). Concert, Lorraine 1600-1630, Cracow, Wawel Royal Castle, inv.no. 2172.

 先日、『ポーランドの至宝 レンブラントと珠玉の王室コレクション』を見ていた時に、思いがけないことに気づいた。上掲の一枚の作品である。なんとなくどこかで見たような気もするのだが、作者名にはまったく記憶がない。楽士と思われる4人の男が、楽譜を持つ女性を囲んで、楽しげに演奏している光景が描かれている。楽器はリュート、フルート、ルネッサンス・ヴァイオリン、ハープのようだ。17世紀のこの頃には比較的よく見られた主題や構図でもあり、作品の水準としてもとりたてて印象に残る作品ではない

 しかし、短い記述だが、カタログには北方カラヴァジェスキの影響を受け、ロレーヌのジョルジュ・ド・ラ・トゥールの周辺で活動していた、あまり知られていない画家(a little-known painter from Lorraine)の作品とある。この点に興味を惹かれて、多少文献などを調べてみたが、主要な専門書にこの画家についての言及はなく、わずかに短い一編の論文に出会った程度だ。ラ・トゥールの周辺は謎の部分が多いだけに、今後も新たな情報が付け加えられる可能性は高い。これから少し注意して見てみよう。

 この時代の画家の作品は、古い民家や修道院などに、埃にまみれ忘れられた作品として残っているようなことも十分起こりうる。
最近のひとつの例が、今年ルーブルが購入したルナン兄弟の作品とされる『ペテロの否認』を主題とした絵画(下掲)だ。ルーブルには購入資金がなく、篤志家の援助で購入された。購入価格は1150万ユーロと伝えられている。Web上でしか見る機会がないが、一瞬これがあのルナン兄弟の作品?と思ったくらい、見慣れたルナンの作品とは趣をかなり異にしている。いずれ実物を見る機会があればと思う。この主題は17世紀前半のカトリック宗教改革の中で、好んで取り上げられており、ラ・トゥールも作品を残している

 

  ルーブルが取得に際して発表した内容は、フランス文化省とルーブルが17世紀ロレーヌ派の画家アントワーヌあるいはルイ ルナン Antoine or Louis Le Nain の作と見られる『聖ペテロの否認』1点を取得したというものだ。取得価格は11,500,000 ユーロ(16,560,000USドル)だが、個人の篤志家の資金で購入したとのこと。

 驚いたことは、作品はあのラ・トゥールが工房を置いていたリュネヴィルのある家の屋根裏部屋で見つかったということだ。リュネヴィルは1638年フランス軍の攻撃によって、徹底的に破壊された町だが、どこに残っていたのだろうか。興味は深まるばかりだ。かくして発見された作品は、2000年3月、ナンシーでのオークションで推定20万フランくらいの作品とされていたが、パリの画商シャルル・ベイリーが920万フランで入手していた。作品は直ちに輸出許可の対象から除外され、保険会社AXAの保険が付されている。

 最初気づいたことは小さな問題だったが、考えているうちに想像の世界はとめどなく広がってきた。ささやかな消夏法だ。

 

 *
 2009年4-7月にフランクフルトのシュテーデル美術館が企画した特別展は、この主題をとりあげたものだった。
Caravaggio in Holland: Musik und Genre bei Caravaggio und den Utrechter Caravaggistern, Städel Museum, 2009.

 

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レンブラントに酷暑を忘れる

2010年09月02日 | 絵のある部屋

Cover: Ernst van de Wettering. REMBRANT: Quest of a Genius. Ed. by Bob van den Boogert. The Waanders Publishers, Zwolle, Rembrandt House Museum, Amsterdam, 2006.  

  日本列島が亜熱帯と化した今夏の一日、酷暑を避ける場所を求めて、少し遠出をする。思いついたのが、かねてから頭の片隅にあった『ポーランドの至宝:レンブラントと珠玉の王室コレクション』なる企画展である。いつもはあまり足を運ぶことはない美術館だが、これまでにも訪れているなじみの場所ではある。

 この美術館、知名度はいまひとつだが、常設展の方にも、どうしてここにこれほどの名品がと思うような作品がさりげなく展示されている。ちなみに、日本に2点しか(2点もというべきか)ないジョルジュ・ド・ラ・トゥールの1点も展示されていることは、このブログでも記したことがある。  

 今回、思い立ったのは新聞紙上の展覧会の広告に、上掲のレンブラントの『額縁の中の少女』が使われていたことがひとつのきっかけだった。このブログでも、何度か記しているが、レンブラントの家系について興味を抱き、少し追いかけたことがあった。そのひとつにレンブラントの娘コルネリアCornelia van Rijnのことがあった。そうしたこともあって、一時期、この『額縁の中の少女』のモデルは、コルネリアかと思いかけたこともあった。しかし、すぐに別人であることが分かる。さらに最近の研究では、この作品の下地には別の女性のデッサンが描かれていることも分かっている。詳しい由来 provenanceは不明だが、謎めいたものを含む作品だ。 作品は大変美しい出来映えだ


 さらに、この作品には、だまし絵 trompe-l'œilの技法がされげなく使われており、その点でも興味深い作品だ。レンブラントは新しい試みを、ことさら目立つようには行っていない。静かに試みて、見る側の反応をみているようなところもある。

  この作品、一時期自分の仕事場にポスターを置いていたこともあり、レンブラントの中でもなじみ深い一点になっていた。 作品は1641年アムステルダムで制作され、レンブラントの署名と年記が入っている。著名なレンブラント研究者であり、あの「レンブラント調査プロジェクト」の責任者をつとめたWetering の業績を記念する論文集の表紙(上掲)にもなっている。



Rembrandt, Girl in a Picture Frame, 1641, oil on panel, 105.5 x 76.3 cm, Royal Castle, Warsaw.  (Ernst van de Wettering の編著のカヴァーとかなり色調が異なりますね。どちらが本物に近いでしょう?)。


 この企画展にはもう1点、レンブラントの作品『机の前の学者』 Scholar at His Writing Desk, 1641, Royal Castle, Warsaw が出展されている。いずれ詳細も記したい。両者とも大変素晴らしい作品で、この2点だけを見ることができただけでも、酷暑の中、ここまで出かけてきた甲斐があったとおもうほどだ。これ以外にかなり興味深い美術作品やコペルニクス、ショパン、キュリーなどポーランドが誇る有名人にかかわる展示もあり、きわめて異色の展覧会となっている。夕刻、美術館を出ると、そこは厳しい炎天の世界だった。




『ポーランドの至宝:レンブラントと珠玉の王室コレクション』東京富士美術館、2010年8月29日ー9月26日

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アメリカでしか見られない作品 

2010年08月21日 | 絵のある部屋



Vincent van Gogh. Rain, Canvas 73.5 x 92.5 cm, 1889. Philadelphia, Philadelphia Museum of Aft  
[この作品は恐らく1989年11月2日、ヴァン・ゴッホがプロヴァンスのサン・レミ療養所に入っていた時、自室から窓越しに描いたものと推定されている。Rosenberg pp196-197]


 ごひいきの画家の作品のすべてが、同じ地域のひとつの美術館などに収蔵されていることは望ましいだろうか。これについては、多くの異なった考えがあるだろう。しかし、今日の世界では作品の拡散、グローバル化を阻止することはできない。たとえば、レンブラントの作品をすべて所蔵されている現地で、自分の目で見たいと思っても、ほとんど不可能に近い。現存する作品数の少ないフェルメールやラ・トゥールでも、特別展でもないかぎり、主要作品だけでも見ることは不可能だ。 外国で開催される大規模な企画展などでも、こうした画家の作品のすべてを集めることなど、いまや不可能といってよい。せいぜいその大半を見ることで良しとしなければならない。ましてや壁画、祭壇画などでは、展示されている現地へ赴くしかない。 

 第二次大戦前、そして戦後もしばらく、ヨーロッパの知識人?の多くは、アメリカへヨーロッパの著名画家の作品が流出するのは、アメリカ人の富豪や画商が金にまかせて買いあさる結果だと憤慨し、流出してしまった作品にしても、まだ第一級の作品は旧大陸に残っているからと、自らを慰めていたようなところがあった。こうした感情はその後、かなり緩和したようだ。  

 ヨーロッパという旧大陸とアメリカという新大陸のアンビヴァレントな関係も、時代の経過とともに大きく変わった。アメリカに流出したヨーロッパ絵画をかなり落ち着いて見ることができる環境が醸成されてきたようだ。   

 たまたま、この問題にかかわる一冊の本に出会った。著者は、かつてルーブル博物館の館長をつとめたこともあるピエル・ロザンベールだ。ロザンベールは17-18世紀フランス、イタリア絵画の権威で、プッサン、ワトー、フラゴナール、シャルダンなどの研究者として著名であり、ラ・トゥールについても詳しく、著書も多い。本書はヨーロッパからアメリカに流出した著名な画家の作品の中から100点を選び出したものだ。

 「なぜこの本を書いたか」と題する紹介で、彼は次のようにいう。 第二次大戦後、アメリカの美術館は、そこを訪れたヨーロッパからの人々にとってひとつの驚くべき啓示のように思えた。ヨーロッパからの訪問者は二つのことを感じた。

 ひとつはアメリカの美術館がなしとげた成果への劣等感ともいうべきものだった。収集品の質の高さと美術館の建物や展示の素晴らしさに驚かされた。他方で、優越感も抱いた。作品はアメリカに移ったとはいえ、皆ヨーロッパの画家たちの作品ではないかという思いである。

 ロザンベールが最初にアメリカの美術館巡りを始めたのは、1962年であり、グレイハウンド・バスで主要都市をめぐって美術館を見たという。私自身それから数年後に同じようなこ経験をしたことがあり、懐かしい思いがした。今はどうなっているか知らないが、当時は99ドルでアメリカ全土乗り放題というプランがあった。  

 さて、ロザンベールの著書は、アメリカの美術館が所蔵する全部で100枚の絵画(実際は98枚の油彩画と2枚のパステル画)を選んだものだ。作品が制作された時期についてみると、期間は15世紀から1912年にわたっている。 100枚のヨーロッパ絵画というのもかなり恣意的だとピエールは言う。南米、アジア、オーストラリア、アフリカなどの作品は当初から除外されている。美術館としてもカナダのトロント美術館など優れた作品を所蔵する北米の美術館も対象外だ。もちろん、アメリカの画家も含まれていない。

 100枚というのも厳しすぎ、200―300枚ぐらいがよかったとも言う。本書を読んでみて、なるほどそうだなと思う。100枚では到底選びきれないほど素晴らしい作品がアメリカ各所に所蔵されている。選択された作品は、それぞれの画家の傑作という基準でもない。「傑作」といっても、見る人によって大きく異なるからだ。そういう意味ではロザンベールの好みで選んだ100枚といってよい。

 色々と興味深いことが頭をよぎる。とてもここには書き記せない。その中でいくつかこのブログにも関連することを記してみよう。ロザンベールといえども、アメリカのどの美術館が、いかなる画家の作品を所蔵しているか、知り尽くしているわけではない。そのため、多くの学芸員、研究者などの意見を求めている。協力者たちが最も好んで挙げたのは、テル・ブルッヘンの「イレーヌと従者によって介抱される聖セバスティアヌス」Ter Brugghen at the Allen Memorial in Oberlin だった。ロザンベールは同じ画家の「キリストの磔」の方にご執心であったようだが、多数にしたがって、前者を選んだ。結局、これが本書の表紙にも採用されている。両者ともに、このブログでとりあげている。管理人も好きな作品の一枚だ。

 ロザンベールもごひいきのラ・トゥールは当然選ばれているが、「女占い師」であり、私の好みの「ファビウスのマグダラのマリア」(ワシントン、ナショナル・ギャラリー蔵)ではない。もっとも、アメリカでラ・トゥールの作品を所蔵している美術館は少なくも9館はあるのだから、選択は難しい。

  選ばれた100枚の作品は、最初は
Robert Campin, Known as the Master of Flémalle
Valenciennes of Tournai(?), c. 1375/1379-Tournai, 1444
The  Annunciation with Saint Joseph and Couple of Donors,
or  The Mérode Triptych
Wood, Central panel 64.1 x 63.2, Wings 64.5 x 27.3
C.1425-30
New York, The New York Metropolitan Museum of Art


という大変美しい3連の祭壇画から始まり

Marcel Duchamp
Blainville, 1887-Neuilly-sur-Sseine, 1968
Nude Descending a Staircase n.2
Canvas H.146 x 89.2 cm
Philadelphia, Philadelphia Museum of Art


という現代の抽象画で終わっている。当然jなじみ深い作品もあれば、初めて見る作品も入っている。

 印象派の時代では、管理人も好きなゴッホの「雨」(上掲)なども入っており、アメリカという新大陸におけるヨーロッパ絵画の受容の歴史を展望することができる。本書を読みながら、さまざまなことを思い浮かべた。いずれ、その断片を記すこともあるかもしれない。

 ともすれば、ヨーロッパの美術館だけに目を向けがちなヨーロッパ美術の愛好者にとって、アメリカの美術館にある作品がどれだけ素晴らしいものであるかを考えさせる興味深い一冊だ。





 Pierre Resenberg. Only in America: One Hundred Paintings in American Museums Unmatched in European Collections. Milano: SKIRA, 2006.

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