時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

暗い世に光を

2010年08月06日 | 絵のある部屋

マティアス・ストーメル『羊飼いの礼拝』 1637 年頃 油彩 カンヴァス 129x181cm、
Matthias Stomer  Adorazione dei pastori
*上掲作品は今回の『カポティモンテ美術館展』に出品された作品とは、ヴァージョンが異なるものである。出品作は聖母の衣装の色が鮮やかな赤色であり、右端の人物は上半身には衣装をまとっていない。こちらを選択したのは、出展作よりよく描かれていると思った管理人の好みにすぎない。


 『カポディモンテ美術館展』には、前回話題としたエル・グレコの作品以外に、管理人の視点からは、いくつか注目を引いた作品が出展されていた。興味深い点があるので、前回に続き記しておこう。

 知る人ぞ知ることだが、この美術館が位置するナポリは、今では日本でもかなり知られるようになった17世紀の革新的画家カラヴァッジョときわめて縁の深い地であった。ローマで殺人を犯したカラヴァッジョは、逃走の途中2度(1606-97年と09-10年)にわたってナポリに滞在した。カラヴァッジョは、それまでマニエリスムの風潮が強かった、この地の画壇にリアリズムに基づく新風を吹き込んだ。

 今回の『カポティモンテ美術館展』に出品された『羊飼いの礼拝』を制作したストーメルという画家自体は、あまり知られた画家ではない。出自、来歴がほとんど分からない。このこと自体は、この時代の画家として珍しいことではないのだが。推定されるところでは、ストーメルは、自分より先に北方の地からローマに来ていて、カラヴァッジョの影響を受けた画家テル・ブリュッヘンとホントホルストの影響を強く受けている。たとえば、ホントホルストも同じ主題で制作し、作品も今日まで継承されている。

 「羊飼いたちの礼拝」は、この当時好まれた主題であり、ストーメルにとってもお気に入りのテーマだったようで、いくつかの異なったヴァージョンで制作している。制作年次の確定は年譜もなく、きわめて難しいのだが、1630年代末頃ではないかと推定されている。

  ストーメルの作品を見ると、幼子イエスの誕生のために集い、それを喜び合う羊飼いたちの嬉々とした、しかし畏敬をこめた表情がきわめてリアリスティックに描かれている。 この主題では後述するように、ラ・トゥールもほぼ同じ構図で描いている。しかし、ストーメルとラ・トゥールの作品の印象はかなり異なっている。

 ストーメルの画家としての来歴はほとんど不明である。ローマ、ナポリ、シチリアそしてイタリア北部で画業修業を行ったらしいことは推定されている。本作は画家のナポリ滞在中の末期1637年頃の作品と見られる。マリアと思われる女性の顔は光り輝いており、幼子は明るい光の中で手足を躍動させている。しかし、ストーメルが好んだ蝋燭はなく、光源は不明である。しかし、見るからに カラヴァジェスキの面目躍如たるものがある。 

 他方、ラ・トゥールの作品(下掲、ルーブル美術館所蔵)は、ほぼ同様な構図でありながらも、全体に色彩も抑えられ、静謐な空気の中に幼子の誕生を祝う素朴な農民(羊飼い)たちの姿が描かれている。ラ・トゥールらしく、身近にいる農民たちがモデルとして描かれていると思われるが、五人の男女が中央に眠る幼子イエスを畏敬の念をもって見ている光景がやや狭い空間に独特の緊迫感を持って描かれている。リアリズムで知られるこの画家だが、それに固執することなく、一定の様式化を維持し、独特の雰囲気を醸し出している。光源は右側のヨセフと考えられる男性が掲げる蝋燭の光だ。ちなみに原作はより大きなキャンヴァスであったが、後になんらかの理由で切断・縮小されている。描かれた人物の中で、マリアだけが両手を合わせ、祈っている。羊飼いが連れてきた子羊の頭部だけが、イエスをのぞき込むように描かれていて微笑ましい。

 中央に眠る幼子イエスの姿は「新生」Le Nouveau-Né、the Nativityの場合と同様に、たとえようもなく可愛い。ラ・トゥールは幼子を描くために最大の力を振り絞ったのだろう。全体として、クラシックで素朴とも思われる印象が画面から伝わってくる。両者を比較すると、太陽の光に溢れ、当時の文化の先進地であったイタリア、ナポリでこの作品を描いたと思われる画家と、暗く深い森や林が残り、曇天の日々も多く、文化的にもローマやパリに遅れていたロレーヌの画家の心象風景が反映されているような思いもする。

 ラ・トゥールの作品の抑制された画風は、画家が意図したと思われる厳粛かつ静粛な雰囲気の中に、思いもかけない将来を担うことになった幼子の誕生を祝福するという望ましい効果を上げている。この作品は、1926年頃、アムステルダムで発見され、ヘルマン・フォスによって直ちにラ・トゥールの真作と鑑定された。画家の晩年に近く、1644年頃ラ・トゥールの作品の熱心な愛好家であったラフェルテにリュネヴィル市から寄贈されたものではないかと考えられる。17世紀当時のヨーロッパにおけるこうした様式の伝播の道、範囲などについてはきわめて興味あるデーマなのだが、ここでは到底記しえない。

Georges de La Tour. L'Adoration des Bergers, oil on canvas, 107 x 137 cm. Musée du Louvre, Paris.

 さて、ほぼ同時代に同じ主題を描いたこの二枚の作品、それぞれに魅力的なのだが、皆さんはどちらがお好みでしょう。

 

 

 ちなみに今回出展された作品も掲示しておこう。かなり印象が異なると思うのですが。

 

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酷暑からの連想

2010年07月20日 | 絵のある部屋

  
  パリから着いたばかりの友人夫妻と会う。今年はフランスも大変暑いらしい。完全に夏バテ状態だったという。日本は涼しいと思っていた?が、あいにくこの列島も梅雨明け、酷暑の状態となった。ヨーロッパばかりかアメリカも暑く、先日ニューイングランドへ戻った別の友人のメールも、ひどい暑さと伝えてきた。どうも地球を熱波が襲っているようだ。酷暑で報じられる熱中症に関連して、ひとつ話題が生まれた。最近明らかにされた16-17世紀の画家、カラヴァッジョの死因についてのニュースだ。

  芸術家の場合によく見られるように、一般に時代を遡るほどに、その生涯の詳細は分からない部分が多くなる。その生涯に、ほとんど自分の作品が世に認められることもなく、一生を終わった画家も少なくない。確認することは難しいが、実際にそうした画家はきっと多いのだろう。他方、その時代には大変有名な画家であっても、時代の経過とともにすっかり忘れられてしまった場合もある。 

 有名な画家でも、最初の作品が世に認められるまでの年月になにをしていたのか不明なことも多い。このブログでしばしば登場するベランジェ、ラ・トゥール、プッサンなどにしても、その生涯の輪郭が浮かび上がってきたのは、作品が世に認められたり、成人して教会関連の代父や保証人など、記録に残るような役割をつとめた時からだ。

情報に恵まれた現代の人たち 
 大変興味深いことは、しばしばその画家と同時代 contemporary に生きていた人々よりも、現代人の方が、画家や作品についてよく知っていることだ。情報量が格段に増加、蓄積されてきた結果だ。これは美術史家、批評家、美術館学芸員、画商、鑑定者、収蔵家など、多くの人々の努力の集積がもたらしたものだ。カラヴァッジョばかりでなく、フェルメール、ラ・トゥールなどについても、少しずつ新たな知見が増えている。 

  カラヴァッジョに話を戻そう。今では16-17世紀を代表する大画家のひとりだが、画家が生存し、活動していた時にはどんな人間であるか、一部の人々の間でしか知られていたにすぎなかった。この画家に限ったことではないが、当時のヨーロッパにおける情報の普及の過程は、きわめて興味深いテーマだ。 

 カラヴァッジオは1610年7月18日か19日のいずれかにイタリア、ポルト・エルコレ で一生を終わった。画家を知るものは誰も看取ることなく、収容されていた修道院での孤独な死であったので、正確なことは伝承以上に分かっていない。しかし、今の人々は少なくもこの画家に多少の関心を持つかぎり、当時の人々よりも画家のことをはるかに良く知っている。

 近年、イタリアとマルタでの調査が進行した結果も反映している。これまで画家の死因は、灼熱の太陽の下で時に無謀とも思われる旅を続ける途上、熱病(映画などではマラリア)にかかって急死したとされていた。しかし、ローマで今年6月に発表された画家の遺骨の検視結果によると、死因は直接的には熱射病だが、すでに罹病していた梅毒と彼が絵の具に混入していた鉛中毒の結果がもたらした結果だったようだ。画家の破天荒で乱れた生活ぶりは、今日まで伝わっているから恐らくその通りだろう。 

 カラヴァッジョは死亡に先立つ9ヶ月前、自分が犯した殺人に絡み逃亡したが、復讐をはかるマルタの刺客に追われ、ひどく傷つき、ナポリ郊外の庇護者の別荘で療養を続けた。その後、ローマへ戻ることを企てた。しかし、身体は回復していなかった。ローマに近い港町ポルト・エルコレまでやっとの思いでたどりついたが、炎天下に追っ手や窃盗を避けながらの旅は厳しく、熱射病にかかったのだろう。土地の修道院で看病されたが、その効なく38歳で死亡した。遺骸の引き取り手もなく、近くの墓地に埋葬された。 今回の調査は、この遺骸を精査した結果のようだ。 

 カラヴァッジョは生存中は毀誉褒貶が甚だしい画家だった。その作品が広く評価されるにいたったのは、画家の死後かなり経った後だった。聖人を聖人らしく描かずに市井のモデルを描いたことを嫌う画家もいた。  

蓄積される知見
 ベランジェやラ・トゥールのように、日本では注目度がいまひとつの画家についても、少しずつではあるが新しい知見が付け加えられている。ラ・トゥールは夫妻ともに1652年1月に相次いで死去している。死因は公的記録では簡単に肋膜炎(胸膜炎)pleurése とされているが、当時の状況から感染症のインフルエンザなどが死因だったのではないか。享年59歳というのは、彼の生きた苛酷な時代では長生きした方であった。この時代の疫病に関する研究も進んでおり、新たな情報が付け加えられる時もくるかもしれない。

 こうした画家たちが今、自分たちの生涯の記録を見る機会があるとしたら、一体何と言うだろうか。

 

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ロレーヌの画家ベランジェを追って

2010年07月10日 | 絵のある部屋

  日本で開催される西洋美術展の実態を見ていると、選択される画家や時代がかなり偏在していると思う。時代では印象派以降がきわめて多い。画家の名前が知られ、分かりやすいこともあるが、またかと思うこともしばしばだ。オランダ絵画というと、いつもフェルメールを借りてくる。レンブラントより見た人が多いのでは。企画もマンネリ化している。最近もわざわざ時間を割いて出かけたが、失望した展示がいくつかあった。集客を第一とする企画とそれによって創り出された日本人の好みが相乗効果をもって影響していることはいうまでもない。近年は多少変化の兆しもあるが、これまでの国内研究者の専門化の弊害もかなり影響していると思う。

 こうした傾向に多少反発(?)して、日本ではあまり知られていない画家や忘れられた作品に、少々関心を持ってきた。 そのひとりが、ジャック・ベランジェJacques de Bellangeだ。17世紀最後のマニエリストといわれる銅版画家である。日本では美術史の専門家でも知る人は少ない。少し旧聞になるがその企画展が2008年から2009年にかけて、あのヴィック・シュル・セイユのMusée departemental Georges de Latour とナンシーのMusée Lorrainで開催された。

 ベランジェは、もしかしたら、あのジョルジュ・ド・ラ・トゥールがその工房で画業修業をした可能性もある、この時代(17世紀初め)の大画家のひとりだ。ロレーヌ公の画家でもあり、当時はヨーロッパでも著名な画家・銅版画家だった。しかし、時代の変化とともに、ラ・トゥールと同様に急速に忘れられていった。

 そして20世紀に入って、少しずつ注目を集め、再評価されるようになった。油彩画家でもあったが、作品はほとんど失われ、わずかに残る銅版画が今日に継承されているにすぎない。フランスでも小規模な企画展が2001年レンヌ、2004年パリで開催されている程度だ。しかし、その作品を見た人は、その絶妙な美しさに魅了される。どこの国の人を描いたのかと思われる不思議な衣装と容貌の人々。トルコなどイスラム系らしい人々の姿も描かれている。実際にモデルがいたのか、判然としない不思議な姿をした人々。宮廷人と思われる美しい貴婦人たちの不自然なほどに膨らんだ衣装。現実と空想がどの程度まで混じり合っているのか、興味は一段と深まる。



Jacques Bellange. L'Annonciation. Eau-forte rehaussé au burin
335 x 314 num au trait carré
Nancy, Musée Lorrain.


 2008年から2009年にかけて、開催された企画展カタログでは、ラ・トゥールが『辻音楽師の喧嘩』の着想を得たと思われる、あのちょっと驚く光景が表紙になっている
。ラ・トゥール研究の大御所でもあるピエール・ローザンベールが紹介を書いている。

  企画展のタイトルが「ジャック・ベランジェ:線の魔術」と題されているように、この画家の版画の線は絶妙に美しい。今日の目で見ると、エキセントリックとも思える作品もあり、決して万人向きの版画ではない。好き嫌いはかなりあるだろう。しかし、17世紀初め、当時(contemporary)のヨーロッパの人々が、どこに魅力を感じたのか、時代を遡って考えることが必要だ。ラ・トゥールと同時代の銅版画家ジャック・カロにつながるところでもある。ベランジェについては、なにしろ、ラ・トゥール以上に作品も史料も残っていないので、謎が多い画家だ。ある年彗星のように現れ、また消えていった。その有り様はラ・トゥールと似たところもある。新たなカタログでもこれまでの情報に付け加えられるところは少ないが、年譜の整理、充実などがなされている。なによりも、忘れられていた画家のひとりが新たな観点から見直され、そのあるべき場所に落ち着きつつあることが大変喜ばしい。

* Sandrine Herman. Jacques de Bellange: la magie du trait. Musée départemental Georges de Latour, Conseil Général  de la Moselle.

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さて満足度は:「ボストン美術館展」

2010年06月02日 | 絵のある部屋

 初夏を思わせる一日、『ボストン美術館展』 *へ出かけた。出展される作品については、概略は知っていた。ボストン美術館が一部改装を実施するため、その間所蔵品の一部を海外などの美術館へ貸し出すことにしたため実現したとのこと。オルセー美術館も同様な事情のため、通常では貸し出されない作品が館外へ出るとのことだ。『棚からぼた餅』のような話ではあるが、結構なことだ。貸し出される作品には日本人が好む印象派の作品が多いため、今年は便乗派?も含めて日本中に印象派の文字が溢れる。

 今回の展示は、かなりの作品がどこかで見たことがあるものだった。かなり著名な作品が含まれていることでもある。ここも印象派の作品が多い。 せっかくの機会だから、もう一度確認してみたいと思う作品がいくつかあった。17世紀オランダの画家ヘンドリック・テル・ブリュッヘンなど、オランダ画家の作品である。このブログでも紹介したことがある。 印象派マニアの日本人にはほとんど人気がなく、画家の名前さえあまり知られていない。案の定、テルブリュッヘンの作品の前には幸い?誰もいなかった。

 テルブリュッヘンは、ユトレヒト・カラヴァジェスキ、3人組(バビューレン、テルブリュッヘン、ホントホルスト)のひとりである。展示されている『歌う少年』も一見して楽しい作品だが、とりたてて深い意味があるわけではない。しかし、バビューレンも同じ主題で描いているように、当時は人気のテーマだったようだ。白と黒が多い17世紀オランダの服装からすれば考えられない、明るく華やかな色合いである。衣装のひだも陰影豊かに描かれている。茶、緑、白の配色が美しい。なんとなく南国の雰囲気を漂わせている。いうまでもないが、バビューレンは長らくイタリア、ローマで画業生活を送り、故郷ユトレヒトへ戻ってきた。明るい光のみなぎるイタリアの画風を、故郷で試そうとしたのだろう。見ていて心のなごむ作品である。

  出展された80点の作品は、次のような区分で配置、展示されていた。

I     多彩なる肖像画
II     宗教画の運命
III    オランダの室内
IV    描かれた日常生活
V     風景画の系譜
VI    モネの冒険
VII    印象派の風景画
VIII   静物と近代絵画

 何の変哲もない区分だが、主催者の自主的構想、企画に基づく特別展ではないので、しかたがないだろう。区分と内容が十分対応できていない部分もある。

  ただ、本展カタログについては苦言をひとつ。作品の説明にばらつきが多すぎることだ。ファンの多い印象派の作品は、それなりにページが埋まっているが、その他の画家についてみると、作品解説
部分のページに空白部が目立ち、大変残念な気がした。解説ページの半分から3分の1が白紙という作品がかなりある。「歌う少年」にしてもページの半分は白紙状態だ。比較のために、ボストン美術館からこの作品を借り出し展示した Städel Museum のカタログで、同じ作品部分を参照したら、しっかりとページ一杯に有益な情報が詰まっていた。あまりの違いに唖然とする。

  他方、今回の展示ではカタログの表紙だけは、3種類の中から選べる仕組みになっている。カタログを購入するほどの愛好家にとって、作品解説はきわめて重要な情報源のひとつであり、鑑賞の楽しみでもある。カタログを読み終わって文字通りしらけた思いだった。

 

「ボストン美術館展:西洋絵画の巨匠たち」森アーツセンターギャラリー

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若者の大志の行方

2010年04月16日 | 絵のある部屋

 
Frank Brangwyn. Youthful Ambition. 1917, Lithograph on paper 45.5x35.5cn, Groeningemuseum, Bruge



  若者が大志(大きな志)を抱くことは当然だし、望ましいことでもある。大きな志はそれを実現しようとする意欲の充実や努力にもつながる。若い時から「小成」(少しの成功)に安んじることはない。大志を抱けるのは若い人の特権だ。歳を重ねるごとに、現実との軋轢を重ねて、かつての大志も「小志」になってしまうことは世の常のことだ。

 一人の若者が雨に濡れる岸壁に立って、海上はるか沖を見つめている。その視線の先におぼろげに見えるのは、巨大な軍艦だ。その後方にも別の船影が見える。これはなにを主題としたものか。しばらく考えた後、画家が『若者の功名心』 Youthful ambitions と画題を付していることに気づく。きわめてあっさりと描かれたリトグラフだ。制作年次は1911年。次第に画家が考えた主題の輪郭が浮かび上がってきた。

 遠くの沖合に霞む軍艦を眺める少年の姿からは、戦争に大きな期待を抱き、自分もそこで壮大なことを成し遂げたいというような強い野心のごとき思いは感じられない。細身の華奢な身体で、ポケットに手を入れ、自分になにができるだろうかという、ややはかなげな不安と期待のようなものが伝わってくる。

 画家の名はフランク・ブラングィン Sir Frank Brangwyn(1867-1956)というベルギー、ブルージュ生まれのイギリス人である。20世紀前半、油彩画家、版画家、製図家、陶芸家、デザイナーなど、造形美術の広範な分野で活動した。生前はヨーロッパ、そして世界レヴェルでも大変よく知られた芸術家であった。しかし、画家の没後、その名は急速に忘れ去られていった。名前や作品の一部は知っていたが、特別展カタログを読んで、画家への理解はかなり広がった。

 日本との関連もことのほか深い画家であった。上野の国立西洋美術館開館50周年記念事業として『フランク・ブラングィン特別展』が開催された背景の詳細を知った。国立西洋美術館の基礎となった「松方コレクション」の充実に大きな貢献をした人物なのだ。ブラングィンは、松方の依頼を受けて広範な協力をした。造船業経営者の松方幸次郎との深い交友が「松方コレクション」、そして国立西洋美術館の今日につながっている。これらの点については、ここでは記さない。

 この画家についてまったく知らないわけではなかった。以前にかなりの関心を抱いたことがあった。作品のいくつかは、イギリスでしばらく過ごした時にロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート美術館などで見たことがあった。ブルージュへ旅した時にもいくつかの作品に接した。

 最大の関心は、ブラングィンが多才な芸術活動の一部で、「労働」というテーマに大きなかなりのエネルギーを割いていたことにあった。この画家は、短期間ウイリアム・モリスに師事した後、本格的な制作活動に入った。

  「労働」の次元では、ブラングィンはトーマス・カーライル、モーリス師などのヴィクトリア朝労働観、イデオロギーを継承し、モリスの影響も受けて、労働(とりわけ男性労働)の持つ英雄的側面、社会への自己犠牲的貢献をテーマとする作品をかなり残していた。広い意味で「働く世界」の探索を続けてきた人生で、かなり関心を惹かれ、いつか暇になったら、この画家について少し詳細に立ち入ってみたいと思ったことがあった。しかし、その時間はなかなか与えられなかった。

 ブラングウィンが「労働」を扱うテーマの対象として描いた人物は、筋骨たくましい男性が多く、同時代で女性が殆どの対象であったロセッティ、レイントンなどの作風とは顕著な対比を見せている。ブラングィンの労働観については、大変興味深い点があり、記してみたいことも多いが、今はその余裕はない。

 カタログによると、ブラングィンは第一次世界大戦中、イギリス情報省からクラウセンなど9人の画家とともに、大戦のさまざまな光景を記録する一人あたり6枚のリトグラフの制作依頼を受けていた。作品は1917年にロンドンの画廊で「大戦:英国の努力と理想」展で公開、販売された。しかし、彼らに求められたことは直接的に戦争を賛美する「戦争画家」ではなく、戦地あるいは後方で起きていることをそれぞれに描出することであった。それが戦争という難事に画家ができる社会貢献と考えられたようだ。

 この依頼にブラングィンは「船乗りを養成する」のテーマで連作を出展し、このリトグラフはその一枚として制作された。この画家が描いた力強い労働者の姿とは、ほど遠い、いまだどこへ行くか定まらないような若者の姿である。日本やドイツにも存在した「戦争画家」の作品イメージとはかなり異なっている。

 ブラングィンが抱いていた労働観は、ヴィクトリア朝の労働観・イデオロギーを継承していた。造船所経営者であった松方幸次郎が好んだ造船所の風景や筋骨逞しい労働者たちの姿は、労働が持つヒロイック(英雄的)なイメージを象徴していた。言い換えると、労働を社会への自己犠牲的貢献の行為とみなしていた。こうした画家の力強い労働者像と比較すると、この若者が体現するとみられる大志 ambition とは、画家の心底でいかに結びついていたのだろうか。ブラングィンという忘れられていたもうひとりの画家の実像を測るひとつの鍵がありそうだ。



* このブログの記事と関連して、ブラングィンの作品 Men in a Bakehouse (「パンを焼く男」:東京国立博物館所蔵、エッチング、1908年)は、しっかりと強固に描かれた厳しい労働に従事する男の姿を描いている。幸い、日本には東京国立博物館を中心に、かなり多くのブラングィン作品が残されている。



国立西洋美術館『フランク・ブラングィン展』公式ホームページ

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「最後の審判」:プランタンの祈願

2009年11月24日 | 絵のある部屋

Jacob de Backer(b.1555/60, Antwerpen, d.1585/90 Antwerpen)
The Last Judgement c.1580 Oil on panel, 140x105cm (center panel), 140x52cm(wings) O.-L.
Vrouwekathedraal, Antwerp


 クリストファー・プランタン、前回ブログで取り上げたアントウエルペン(今日のベルギー、アントワープ)を活動の拠点として、16世紀激動のヨーロッパを舞台に縦横に生き、名を成した一大印刷・出版業者である。貧しい農民の子から身を起こし、ある時は人違いといわれるが暴漢に襲われて、命にかかわるような大きな怪我を負ったりもした。カトリック信者であったが、一時は異端審問に付され、追求から逃れるためパリへ身を隠したこともあった。それにもかかわらず、終生アントワープを拠点として自ら目指した印刷・出版事業の拡大へ全力を尽くした。

 努力と強い精神力で、多くの苦難を切り抜け、成功した実業家であった。この16世紀の乱世を生き抜いた希有な人物が、その晩年に自分の死後や家族になにを望んでいたか。それが推測できれば、大変興味深い。気づいた点だけをメモ代わりに少し記したい。  

 プランタンの生きた時代は、ネーデルラント独立戦争の最中、聖俗双方の世界に関わる激しい戦いが続いていた。カトリック・スペインの支配下にあったアントワープで、プランタンは斬新な印刷技術の実用化に努め、単に印刷ばかりでなく、出版の世界でも瞠目する大きな成功を収めた。宗教的にはカトリック世界を背景に、「多国語対訳聖書」(ポリグロット・バイブル)を始めとして多くの書籍の印刷、販売を展開した。あのメルカトール図法の地図の販売も任せられていた。

 プランタンの強い進取の気性と行動力は、ローマ教皇庁やスペイン・フェリペ二世などの支援を取り付ける傍ら、スペイン支配から独立を志すユトレヒト同盟の仕事も引き受けるという、したたかな仕事を支えた。
そして1589年に死去するまで、アントワープで仕事を続け、印刷・出版の事業で大きな成果を残した。

 名声と成功の双方を手にした実業家が、晩年を迎えて考えたことは、アントワープの教会への宗教画の寄進だった。当時の成功した市民の間で見られたひとつの慣わしだった。カトリック教徒であったプランタンが考えた画題は、「最後の審判」The Last Judgementであった。祭壇画の制作を依頼した画家は、当時のアントワープですでに著名になっていた若手のヤーコブ・デ・バッカー Jacob de Backerだった。

 制作された作品は、プランタンの死後、教会祭壇に飾られる予定だったとみられる。3連から成る祭壇画の中心部分は、1589年のプランタンの死の前に完成していたとみられる。ただし、作品の両翼の部分は、恐らくプランタンの死後、寄進者の生前の意を体して別の画家によって追加されたのではないかと考えられている。ちなみにバッカーは大変売れっ子の画家であったようで、過労の故か30歳という若さで世を去っている。 

 作品「最後の審判」の場で、キリストは中心の雲の上に描かれている。周囲には多数の聖人が描かれているのが分かる。左の部分には、青色の服のマリアと赤色の服のヨハネ、右側には石版を持ったモーゼが描かれている。キリストの足下にはトランペットを吹く天使など、エヴァンジェリストの象徴が描かれている。さらに天国へ導かれる者と退けられる者が描かれている。 

 寄進者のプランタンは左翼パネルに描かれている人物である。傍らに描かれた子どもは夭折した息子クリストファーであり、それを示す赤い十字がつけられている。幼いキリストを背中にした聖クリストファーがその背後に位置している。

 右翼にはプランタンの妻と六人の娘、その内一人は夭折したといわれる。そして守護聖人洗礼者聖ヨハネが背後に描かれている。

 両翼の部分は後に追加されたとしても、16世紀末ヨーロッパという聖俗双方の世界が大きく揺れ動いていた時代を、自らの努力と堅忍不抜の精神で生き抜いた人物が、晩年に思い描いていたことが「最後の審判」であったことは大変興味深い。当時のアントワープを中心とするフランドル地方は、カトリック、プロテスタントの対立がきわめて厳しかった地域であった。とりわけ、ネーデルラント独立の宗教的支柱となったプロテスタント、カルヴァン派の教義は、勃興する資本主義の精神的基盤を準備したとまでいわれてきた。カトリック、プロテスタントが対立し、複雑な風土を形成していたアントワープの地で波乱多い人生を貫いた一人の実業家が最後に思ったことが、自分と家族の「最後の審判」の場への願いであったことは、多くのことを考えさせる。

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美女の運命やいかに

2009年10月28日 | 絵のある部屋

  ブログで話題にしたばかりのエジプト古代史を飾る王妃ネフェルティティの胸像だが、ドイツとエジプト政府の間では係争の対象になっている。車中でふと聞いたBBCによると、1907年から第一次大戦が勃発するまでの間に、彼女がエジプトのエル・アル・アマルナ砂漠の砂中から、ドイツ人考古学者ルードウイッヒ・ボルヒアルトのティームによって発掘、発見されてからおよそ100年が経過した。

 胸像自体は、古代エジプトの彫刻家で名前が確認されているトトメスが、3400年くらい昔に石灰岩の塊から制作した。発見されたのも工房跡だったようだ。この当時からエジプト政府は、自国の貴重な発掘遺産が国外に出ることに厳しい対応をしていた。王妃の胸像は「石灰岩の王妃の首」とのみ書類記載され、巧みにベルリンへ持ち出されたらしい。第二次大戦後、ベルリンのコレクションが連合国に接収された時も、この胸像だけは見つからなかった。このあたりはかなりミステリアスな話になっている。

 ネフェルティティは、今年ベルリン新美術館の屋根の下に移った。この美術館は、イギリスの建築家デイヴィッド・チッパーフィールドにより手がけられた新美術館 Neues Museumだが、完成まで10年近くを要した。

 ネフェルティティがしばらくいた美術館は第二次大戦でひどく破壊され、東西ドイツ統一時もひどい状態だった。美女の流浪・遍歴の旅は終わったわけではない。

 エジプトの古代遺物保存庁の事務総長ザヒ・ハワスは、ドイツのプレスに「私は確信しているが、彼女が合法的ではない形でエジプトを離れたのであれば、ドイツが彼女をエジプトに戻すように正式に要求する」と語った。実際、国際裁判所で係争中のようだ。ナチスが最後まで隠し通していた美女だけに、アフガンの
カーブル美術館から盗み出された至宝のようには、返してもらえないようだ。ネフェルティティは存命中も激動の日々だったようだが、今も国際政治に翻弄されている。絶世の美女の運命やいかに。

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戻ってきたアフガンの至宝

2009年10月10日 | 絵のある部屋


 ブログという奇妙なメディアにかかわってから、予想しなかった不思議な経験をしてきた。今回もそのひとつだ。アフガン文明の至宝の命運、盛衰にかかわる記事を書いた直後、BBC、Times、New York Timesなどのメディアが10月7-10日にかけて、一斉にある出来事を伝えていた。日本のメディアでは報じられていないようだ。

 アフガン戦争の過程で、国立カーブル美術館から持ち出され、行方不明となっていた所蔵品が、本来の所有者であるカーブル美術館へ返還され、その一部が公開されることになったというニュースだ。あまりのタイミングの一致に目を疑った。

 カーブル美術館は1920年代に設立され、1979年のソ連軍の侵攻までに10万点近い所蔵品を持つまでになった。ところが、その後のアフガン戦争の過程で、同美術館はアフガン戦士の防衛拠点ともなり、破壊と荒廃が進んだ。とりわけタリバンが支配した1992-95年の間に美術品の7割近くが彼らによって破壊されたり、国外流出などで失われてしまった。その後、館員の努力でわずかに救い出された逸品が、パリのギメ、ニューヨークのメトロポリタン美術館などの企画展として公開されてきた。

 今回、カーブルで展示された品々は、ロンドンのヒースロー空港で密輸品として摘発されたものが本年2月に返還されたものだ。同空港の入国管理当局による11日間の集中摘発で1500点近い密輸美術品が見つかり、押収された。その多くは、不法な発掘や窃盗行為でアフガニスタン国外へ持ち出されたものだ。一時は戦火によって消滅してしまったと考えられていた品物だった。こうした形で戻ってきたのは、幸運としかいいようがない。

 カーブル美術館に返還された旧所蔵品は、2001年にタリバンが崩壊した後、ノルウエーからもおよそ13,000点が、そしてデンマーク、アメリカなどからも返還されたようだ。日本へも持ち込まれていることは、ほぼ疑いない。もし、税関などで不法な持ち込みであることが確定できれば、同様な返還が行われることを切に期待したい。

 アフガンの戦火は未だ絶えないが、その合間にも学術的努力として考古学者による発掘なども進められているようだ。管理人の友人も参加している。他方、依然として不法な盗掘も絶えることなく続いている。アフガニスタンの文化省は、不法盗掘などを摘発するパトロールを実施しているようだが、追いつけないようだ。盗掘者たちは手榴弾、火器などで武装しているらしい。

 戦争による殺戮に加えて、人類の貴重な文化遺産までが失われることには言葉がない。今回、返還された品も、失われた全体からみるとわずかなものだ。しかし、こうした活動を通して、人類共通のかけがえのない財産として、次の世代へ継承することの重要さが少しでも共有されることを期待したい。



References

“Looted treasures return to Afghanistan” By Sarah Rainsford BBC News, Kabul
“Afghan story of recovery: Museum regains stolen artifacts” by Sabrina Tavernise, The International Herald Tribune, October 8, 2009
”Returned Artifacts Displayed in Kabul” The New York Times, Degital Edition, October 6, 2009


# 今回も、cestnormさんの貴重な情報、コメントが大変参考になった。感謝申し上げたい。

#2  折から日本の岡田外務大臣がカーブル訪問中である。たとえ不十分でも現実を見ることはきわめて大切なことだ。

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漂泊のアフガン至宝

2009年10月05日 | 絵のある部屋

ベグラム発掘の聖杯
Vase sur pied
Trésor de Begram
Verre bleu
H. 9.0cm; o 6.5cm
Photo YK



  激しい戦火による破壊と略奪の中から勇気ある博物館員の手でかろうじて救い出され、アフガニスタン、カーブル宮殿の地下深く隠されていた秘宝は、その数は少ないが、輝かしい光と壮麗な美しさで人々の目を引き寄せ、大きな感動を与えた。パリのギメ美術館で一般公開された後、トリノ、アムステルダム、ワシントンD.C.、ヒューストン、サンフランシスコ、そして閉幕したばかりのニューヨーク(メトロポリタン)と、文字通り世界中を流転する旅をしてきたのだ。メトロポリタンの次の行き先は、カナダのオタワになっている。
 
  だが、こうした企画展の背後で人間が犯した暴虐と愚行のすさまじさについて、企画展を見た人々のどれだけが、思いを馳せただろうか。展示品が素晴らしい、感動的だという印象だけでは、到底片づけられない大きな問題が横たわっている。展示品のいくつかは、タリバンによって一度は完全に破壊された聖杯や象牙の彫刻のように、残った断片からかろうじて復元されたものだ。

 東西交易の十字路に位置した古代アフガニスタンの地は、中央アジアに燦然たる文明が輝いた栄光の場でもあった。歴史の流れの中で、この地に集積した文明の遺産の数々は、そこに生きる人々の大きな誇りだった。しかし、アフガン戦争の過程で、そのほとんどは略奪の対象となり、逸失、消滅してしまった。カーブルの美術館から持ち出され、外国に流出した所蔵品もある。もしかすると日本も荷担しているのかもしれない。バブル期の1980年代に、日本や中東のコレクターなどの手に渡ったともいわれている。真偽の程は分からないが、そうしたうわさは聞いたことがあった。

 終了したばかりのメトロポリタン美術館の企画展の後、これらの至宝がどこに落ち着くことになるのか、現在は全く当てがないといわれる。戦火で破壊されたカーブル美術館は、もはやその場所ではなくなっている。アフガンの戦火が治まった後、安住の地が定まるまで、展示品は世界中をさまよう以外に道はない。オーストラリア、日本などの美術館へ旅をする可能性も残されている
。落ち着き場所が定まるのはいつの日か、まったく分からない。こうした不安定な旅を続ける間に、コレクターなどに買い取られて、脱落してゆく至宝もある。

 カーブルの至宝は、アフガン民族の栄光と誇りの象徴だ。カーブルの安住の地に収まるまで何が起きるか分からない。アフガニスタン復興のために、真に日本が寄与でき、後世ににわたってアフガンの人々から感謝される仕事は、給油活動ではなく民政や文化の分野で多数残されている。



Medallion with a bust of a youth
Afghanistan, Begram
National Museum of Afghanistan, Kabul, 04.1.17
Photo: © Thierry Ollivier / Musée Guimet


  From October 23, 2009, to March 28, 2010, in Gatineau-Ottawa, Canada. Afghanistan’s Hidden Treasures,  Canadian Museum of Civilization From October 23, 2009 to March 28, 2010

 
この博物館はオタワ近郊、ガテノー公園の一角にある。かつて若い頃キャンピングカーを駆って、宿営した場所の近くだ。夏でも明け方は寒さに凍えた。テントの前を大きなムース(大鹿)が悠々と歩いて行ったことを思い出した。自分の将来も定まらない日々だったが、不安はなく、希望と自信に満ちていた時だった。

# この記事を書くについて、有益なコメントをお送りいただいたcestnorm, R.K.さんに感謝したい。

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ネフェルティティに魅せられて

2009年10月02日 | 絵のある部屋

Buűste der Kőnigin Nofretete
Neues Reich, 18 dynaste (Armana-Zeit) um 1340 v. Chr. Kalkstein
Staatliche Museen zu Berlin-Ä
gyptisches Museum



 9月号の『芸術新潮』の特集は「エジプト美術世界一周」だった。ヨーロッパ近世以降はともかく、はるか文明の創始につながるエジプト美術は特に関心を持って調べてきたわけではない。しかし、あのH.G.ウエルズの『世界文化史大系』にのめり込んだ頃から脳裏に刷り込まれてきたのか、いわばミーハー的関心は強く持っていた。

 とりわけ、ベルリンの国立エジプト博物館には魔力のようなものを感じ、ベルリンに行く機会があれば他の場所はさておき、ここだけは欠かさずに訪れてきた。したがって、「ネフェルティティ王妃」には東西冷戦の時代から、何度となくご対面してきた。ナチスが最後の最後まで隠匿していたという至宝だ。展示されるようになってからも、最初から防弾ガラスの箱の中にお過ごしのようだった。いうまでもなく、ネフェルティティは世界史を飾る絶世の美女であることは、ほとんど否定する人がいない。もしかすると、その時代を超えての怪しい魅力にたぐられているのかと今頃になって気づいた。

  ネフェルティティはエジプト史上最激変ともいわれるアマルナ王朝、アクエンアテンAkhenatenの第一王妃といわれる。時代はBC1334-1351頃だ。像をひと目見れば、
クレオパトラに匹敵する美貌であることは間違いない。片眼が入れられていないのは、像が未だ制作途上にあるからともいわれている。脱落したのかとも思って,文献をいくつか見てみたが、完成像ではないらしい。そうだとすると、なぜ片眼を最後まで未完成のままに残したのか。もしかすると、日本のだるまさんのように、願いがかなったら入れられたのかもしれない。「王家の谷」深く放棄されたように長らく埋葬されていたミイラは、アマルナ時代の女性のファラオだったといわれる。これがネフェルティティだったとすると、彼女の目はなにを見ようとしていたのだろうか。少し考えてみると、エジプト美術では、目に不思議な力を秘めた作品が多い。謎は深くあの世まで持ち越しそうだ。

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アフガニスタンに光の戻る日を

2009年09月26日 | 絵のある部屋

アフガニスタン古宝断片*


ひげのある雄牛を描いた鉢
Bol à décor de taureaux barbus
Tape Fullol, Or, H.14.9cm
ca.2200-1900 B.C.





竜王のペンダント(片方)
Pendeloque dite "le souverain et les dragons"
Tillia tepe
Or, turquoise, grenats et lapiz-lazuli12.5x6.5 cm




魚の形のフラスコ
Flacon ichthyomorphe
Trésor der Bertram
Verre souffle, nageoires et pastillage bleus
8.7x10.7x20 cm




 ニューヨーク、メトロポリタン美術館で開催された『アフガニスタン:カーブル国立博物館の秘宝』Afghanistan: Hidden Treasures from the National Museum, Kabul の展示品は、下記のパリ、ギメ東洋博物館での企画展と、主要部分についてはほとんど同一であったと思われる。個人的な経験だが、中東の博物館関係者の日本人研究者や後援者に対する評価は、一般にきわめて高い。アフガニスタン復興へ向けての日本の貢献の可能性はさまざまに残されている。

Afghanistan les trésors retrouvés: Collections du musée national d'Afghanistan
Musée des arts asiatiques Guimet, 6 décembre 2006 - 30 avril 2007

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オランダのカラヴァッジョ

2009年09月09日 | 絵のある部屋

Dirck van Baburen
Singender junger Mann 1622
Öl auf Leinwand, 71x58.8cm
Bezeichnet auf dem Notenbuch:<T.Baburen fecit/Ano 1622>
Frankfurt, Städel Museum. Inv.-Nr.2242



 17世紀の代表的画家カラヴァッジョが、その劇的な生涯と作品を通して、イタリアのみならずヨーロッパの画壇に大きな衝撃を与えたことはよく知られている。しかし、その画風がヨーロッパの美術界に浸透するについては、いくつかの経路が想定されてきた。この画家は徒弟を受け入れる工房を持った形跡はないので、徒弟修業を経験した弟子・職人を経由して画風が継承され、伝播するという通常の経路はないようだ。それに代わって、ローマやイタリア各地でカラヴァッジョ自身あるいはその作品自体に直接接することで、大きな影響を受けた画家たちの活動を通して伝播した。いわゆるカラヴァッジェスキ caravaggeschi と呼ばれる画家たちがその主体だ。たとえば、ジェンティレスキ父娘、バルトロメオ・マンフレディ、ヴィニョン、ヴーエなどが代表的である。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールもその一人に挙げられることもある。この画家がイタリアへ行ったか否かに関わる論点のひとつで、ブログに記したこともある。

 その点にかかわる別の重要な点は、17世紀オランダ、とりわけユトレヒトにおけるカラヴァッジェスキの活動であった。ユトレヒト近傍の出身であった画家たちが、イタリアでの修業活動を終えて、ほぼ同時期、1620年頃までに帰国し、工房を開設、成果を精力的に作品として具体化してみせた動きである。バビューレン Dirck van Baburen (um 1595-1624), テルブルッヘン Hendrick Terbrugghen (1588-1629), ホントホルスト Gerard van Honthorst (1592-1656)などがその中心人物だ。彼らはそれぞれ数年から10年のイタリアでの研鑽を経て、テルブルッヘンは1614年、ホントホルストとバビューレンは1620年頃に前後してユトレヒトへ戻ってきた。彼らが活動を始めた1620年代のユトレヒトは、これらのカラヴァッジェスキが革新的な画風を実験する工房の様相を呈した。「ユトレヒト・カラヴァジェスキ」と呼ばれる由縁である。 
 
 今年4月から7月にかけて、ドイツ、フランクルトのシュテーデル美術館 Städel Museumで、『オランダのカラヴァッジョ:カラヴァッジョとユトレヒト・カラヴァジストによる音楽とジャンル』Caravaggio in Holland、Musik und Genre bei Caravvagio und den Utrechter Caravaggisternと題する企画展が開催された。

 2007年末、バビューレンの「歌う若者」Singender junger Mann (上掲図)という作品を同美術館が取得したことを契機に企画された。ちなみに、この作品はバビューレンが1620年にユトレヒトへ戻った後の1622年の作品と推定されていて、年記もあるようだ。かねてこの問題に共通の関心を抱いているドイツの友人が現地に赴き、カタログを送ってくれた。

 いうまでもなく、カラヴァッジョ自身はオランダを訪れていない。この企画展は、主としてユトレヒトで活動したカラヴァッジェスキの活動成果の現時点でのひとつの評価が展示されたものと考えられ、大変興味深い。銅板画を含めて、40点を越える作品が展示された。展示作品のかなりのものは、これまでの人生でどこかで目にしてきたが、未見の作品も含まれている。カラヴァッジョ、マンフレディなどの作品も含めて、非常にレベルの高い企画展だ。

 2007年末にシュテーデル美術館が上記バビューレンの作品(それまで個人所蔵)を取得した時点で、美術館として、いずれお披露目があることが予告されていた。大変美しい作品であり、バビューレンのイタリアでの研鑽が結実したような見事な出来映えだ。

 左手に楽譜を持ち、右手で拍子をとりながら歌う若者の半身像が、きわめてリアルに描かれている。背景はカラヴァッジョの作品によく見られるように、特に何も描かれていない。青年の被った帽子には白い羽根が美しく描かれている。市松模様の衣装も美しい。それ以上に掌の筋、肌の色、髭の生えよう、高性能なカメラでもこれだけ撮れるだろうかと思うほどのリアリティだ。

 とりわけ宗教的な含意などは意図されていない。描かれた像の美しさ以上に内面に深く引き込むものは少ない。しかし、ただ見ているだけで時間を忘れる。当時の風俗を推測するだけでも興味深く時間が過ぎて行く。

 同様な主題で、テルブルッヘン による『歌う子供』 Singender Knabe 1627 も出展されている。これはバビューレンより若いモデルだが、画面にはリリックな雰囲気も漂い、きわめて美しく愛着を覚える作品だ。

Hendrick Terbrugghen
Singender Knabe 1627
Öl auf Leinwand, 85.5x71.5cm
Bezeichnet im Bildhintergrund rechts:"HTBrugghen fecit I.6.2.7."
Boston, Museum of Fine Arts, Inv.-Nr.58.975


  今回は美術館取得の作品テーマとの関連で、カラヴァッジョ、そしてユトレヒト・カラヴァッジステルンが作品に取り上げた音楽(楽器)とジャンルが共通テーマとなっている。しかし、それだけにとどまらず、掲載された下記の7本の論文には最新の研究成果の一端も包含されていて、大変興味深い。カタログを読んでいて、新たに気づいたことも数多く出てきた。いずれ記すことにしたい。

 

Caravaggio in Holland
Musik und Genre bei Caravvagio und den Utrechter Caravaggistern 
Städel Museum
Herausgegeben von Jochen Sander,Bastian Eclercy und Gabriel Dette
Eine Ausstellung des Städel Museum,Frankfurt am Main, 1 April bis 26, Juli 2009

目次
Inhalt

Max Hollein
Vorvort

Jochen Sander, Bastian Eclercy
Einleitung

Bastian Eclercy
Erfahrungshorizont Rom.Die Musikantenbilder Caravaggios und der italienischen Caravaggisten

Wayne Franits
Laboratorium Utrecht. Baburen, Honthorst und terbrugghen im Künstlerischen Austausch

Liesbeth M. Helmus
Das früheste werk Hendrick Terbrugghens.
Materialtechnische Untersuchungen im Central Museum in Utrecht

Marcus Dekiert
"Hätte ich nun einen Burschen, der mir die laute spielte"
Vom Lautenschlagen, Saitenstimmen und Flötenblasen

Louis Peter Grijp
Musik in Utrecht zur Zeit der Caravaggisten

Thomas Ketelsen, Everhard Korthals Altes
Die Gem alde von dirck van Baburen, Hendrick Terbrugghen und Gerard van Honthorst auf dem deutschen Kunstmarkt im 18. Jahrhundert. Ein Beitrag zur Geschichte der Kennerschaft

Katalog

Literatur
Impressum
Abbildungsnachweis 

 

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デカルトの肖像

2009年06月09日 | 絵のある部屋

『ルネ・デカルトの肖像』(フランス・ハルスの原作に基づく)
Portrait de René Descartes(d'après Frans Hals)
vers 1650
Huile sur toile
78x69cm
inv.1317


  国立西洋美術館の『ルーヴル展』も閉幕(6月14日まで)が近づいた。全部で71点の展示作品の中で2点だけ、制作の時代は推定されても画家の特定ができないものが、出展されている。そのひとつは、17世紀フランスで最も著名な思想家のひとりルネ・デカルト(1596-1629)の肖像画である。「近代哲学の父」ともいわれるデカルトは、多くの画家が描きたがった「時代の人」であった。

 デカルトは、母国であるフランスを離れ、ヨーロッパを遍歴し、自由な活動ができる地を求めていた。1629年オランダに亡命し、最終的にアムステルダムに落ち着いたようだ
。最後は旅先のスエーデンで亡くなったが、寛容な空気が充ちたオランダの空気が肌に合ったのだろう。

 今回の『ルーヴル美術展-17世紀ヨーロッパ絵画』は、構成が3つの大きなテーマ、「「黄金の世紀」とその陰の領域」、「旅行と「科学革命」」、「「聖人の世紀」、古代の継承者?」から成り、デカルトの肖像画は「旅行と「科学革命」」の部門に展示されている。
 
 この肖像画(上掲)は、フランツ・ハルス(1581/85頃ー1666)の作品を基に描かれたものと推定されている。ハルスは17世紀オランダの最大のポートレート画家であった。ほとんどポートレートだけを多数描いた。ハルスはハールレムで生涯のほとんどを過ごしたようだが、その画風は枠にとらわれず、自由闊達であった。 

 このデカルトの肖像画の基は、コペンハーゲンの国立美術館が所蔵する小さな作品(下掲)とみられている。もし、これがデカルトを描いた数々の模作の原型であるとみなしうるならば、現存はしないが、より大きなサイズの肖像画が描かれていたと推測しても不思議ではない。画家名は不明だが、これがこの作品が今回も選定された理由のようだ。

 出品されたこの肖像画も原作を基に制作され、希代な思想家の面影を伝える原作に劣らない素晴らしい作品だ。

 ハルスが描いたデカルトは、才気に溢れた容貌である。そのはっきりと見開かれた両眼は、深い思索の持ち主であることを示している。デカルトは書斎に籠もって思索を重ねる哲学者ではなかったようだ。ヨーロッパ諸国を遍歴し、多くの論争を引き起こし、その過程で名声を築き上げていった。ある女性をめぐって、決闘に及んだこともあるらしい。剣士のような武断の人としての一面すら感じられる。一枚の肖像画を通して、人類の歴史に新たな光をもたらした人物の実像に思いをめぐらすことは、『農民の家族』(ル・ナン)とは違った意味で、興味が尽きない。


Frans Hals
René Descartes c. 1649
Oil on panel,
19 x 14 cm
Statens Museum for Kunst, Copenhagen

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こんにちは、ル・ナンさん

2009年06月04日 | 絵のある部屋

 
Antoine Le Nain, ou Louis Le Nain
(Antoine;1588-1648/Louis; 1593-1648)
Famille de paysans dans un interieur
Huile sur toile
113 x 159cm
R.F. 2081
Musée du Louvre

 

 国立西洋美術館で開催中の『ルーヴル展』で、ここまで来てくれたからには、もう一度良く見たいという作品もある。ル・ナン兄弟『農民の家族』だ。実際は、一度どころか何度見たか分からない作品のひとつになっている。かねてから、ラ・トゥールに抱いた関心とは少し違った意味で、この三人兄弟の画家に興味を惹かれていた。そのわけは長くなるので、いずれ記すことにしたいが、この画家の作品には、クールベにならって、「こんにちは、ル・ナンさん」と挨拶したい。

 3世代にわたるとみられる農民の家族を描いた上掲の作品(今回来日、展示)は、同じルーヴルにある『農民の食卓』(下掲)、『鍛冶屋』などと並んで、画家の代表作品とみなされている。2007年にオランジェリーで開催された特別展では、「ル・ナンの輝き」La Galaxie Le Nain と題されていた。といっても、3兄弟の誰が描いたのか、共同作品なのかもよく分かっていない。裏面に姓しか記入のない作品署名では、専門家でも判別できないようだ。1630年代には、3人が共同でパリに工房を持っていたようだから、兄弟意識も強く、お互いに絵筆を入れていたのかもしれない。最近ではLe Nain とされて、あえて誰であるかを特定していないことも多い。




 それはともかく、ル・ナンの作品は最初に出会った頃から、大分受け取る印象が変わってきた。ラ・トゥールと同様に、あの「現実の画家たち」Les "Peintres de la Réalité"の一人だ。ルーヴルには1848年から展示されるようになったらしい。

 17世紀の農民の生活情景を描いているという点で、さまざまなことを一枚の作品を通して知ることができる。貧しい農民を画題とすること自体が注目を集めた。パリ・サンジェルマンに工房があったこともあって、とりわけ、サン・シュルピス教会の聖職者の間で、議論を呼んだらしい。とにかく、それまでフランス絵画の伝統の流れには存在しなかった自然主義であり、少なくも当時のファッションではなかった。作品が発表された頃は話題を呼んだのかもしれないが、その後18世紀後半までほとんど忘れられていた。

 ル・ナンの作品を眺めているうちに、いつの頃からか、17世紀の同時期にオランダ画壇で流行していた集団肖像画ジャンルのフランス農民版といってもよい気がするようになった。時代を貫く精神が、作品の根底に流れているのだ。

 土間といってよい粗末な室内に家族が集い、中央にはこの家族の中心らしい男がパンを手に座っている。ワインのジョッキとグラスを持った男の妻と思われる女、笛を吹く子供、長女らしい娘、土間に座り込んだ男の子、後方でなにを見るともなく立っているのは孫たちだろうか。暖炉の前で背を向けて、顔さえ判別できない人物も描かれている。これは、ル・ナンの作品の中では異例だ。制作時に雇い人など、家族でない人がいたのかもしれない。前面には犬と猫も描き込まれている。家族の中のウエイトを暗示しているようだ。

 そして、ルナン兄弟の作品にかなり共通しているが、描かれた人物の立ち居、振る舞いが独特だ。自然主義の流れを示すように、大変リアリスティックに描かれている。しかし、ひとりひとりの表情が、一部の作品を除いて、なんとなく堅い。描かれることを意識して、それぞれがポーズをとっている。これが、画家の求めたものであったのか、モデルが緊張していたのか。写真のない時代、描かれる方は相当緊張していたのだろう。さらに、後年になって農民を描いたにしては衣服などが立派すぎ?、ブルジョアの田園生活の一情景ではないかとの解釈も生まれたようだ。

 ルナン兄弟の作品を通して感じることは、画風はナイーヴで静態的だが、いずれの作品も対象が歪められることなく、しっかりと描かれていて、見る人の胸を打つことだ。なによりも、描かれた人たちの真摯なまなざしが時代を超えて伝わってくる。

 

Antoine Le Nain (c.1599-1648), Louis Le Nain (c.1593-1648), and Mathieu Le Nain (c. 1607-1677),

 

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力と安らぎを:砂漠の洗礼者ヨハネ

2009年05月31日 | 絵のある部屋

Bartolomeo Manfredi (attributed)(1582-1622)
Saint Jean-Baptiste
Debut du XVIIe siècle
Huile sur toile 148 x 114 cm inv.174

 国立西洋美術館で開催中の『ルーブル展』に出展されている作品の中に、いくつか特別に興味を惹かれた作品があった(ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの「大工ヨセフ」そしてロレーヌ出身の画家クロード・ロランについては、すでに記した)。  

 気になる作品の中に、イタリアの画家バルメトロ・マンフレディの作品ではないかと推定されている『仔羊と洗礼者ヨハネ』(上掲)もあった。見るからにたくましく、健康的な若者と仔羊が対面する情景が描かれている。自然主義的な画調で、色彩も鮮やかだ。ヨハネとされる若者も、普通の人のように描かれ、特別の扱いをされているわけではない。このテーマと描き方は、17世紀カトリック宗教改革の流れの中で、教皇側が好んで推奨したものであった。  

 主題の源流は色々考えられるが、この作品の雰囲気から、ローマのカピトリーノ教会に伝わる同じ題材のカラヴァッジョ作品にたどり着くと見られてきた。そして、議論の余地はあるが、カラヴァッジョの手法を継承し優れた画家の一人に挙げられるバルトロメオ・マンフレディの手になるものとされてきた。  

 画面を圧する若者の姿は、はつらつとして真摯に描かれている。羊を見つめる容貌にも、純粋な雰囲気が充ちている。真剣なまなざしで羊と対する姿は率直で感動的だ。  

 他方、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの
『砂漠の洗礼者ヨハネ』は、同じ主題を描きながら、その与える印象はきわめて異なっている。ヨハネは若者として描かれているが、マンフレディの作品と比較して、対照的ともいえるイメージだ。

 ラ・トゥールのヨハネは、長い旅路に疲れ切った若者として描かれている。わずかに一本の杖にすがりながら、目の前にいる仔羊に草を与えている。若者は目を閉じ、なにかを想っているのだろうか。マンフレディの作品と比較すると、対照的ともいえる印象だ。使われている色彩も赤褐色系で最小限であり、不必要なものはなにも描かれていない。シンプルそのものだ。そこにはマンフレディのような明るいイタリアの太陽の光は射していない。一見すると、マンフレディの作品の方が率直に元気を与えてくれるようだ。  

 しかし、ラ・トゥールの描いた疲れきった若者を目を凝らして眺めていると、印象は次第に変わってくる。画面には、いいようのない不思議な光が射して、若者の半身を照らしている。画面全体を覆う赤褐色の色調も実はかなり異様だが
、その光源も確定できない。周囲の状況から自然光とは思えない神秘的な光だ。

 そして、この一見陰鬱ともいえる画面を見ていると、柔らかな安らぎを与えてくれる、力のようなものが伝わってくる。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールという画家の計り知れない力量を改めて感じる。  

 ある日、ヴィック・シュル・セイユの小さな美術館で、誰もまわりにいない静かな空間に一人座り、この小さな絵を見ていた。パリや東京のような都会の美術館の人混みの中では十分に伝わってこないものが、そこにあった。次々と押し寄せる不安の種に疲れた現代の若い世代の人たちにぜひ見てほしい、簡素だが珠玉のような作品だ。



 
couverture
Georges de La Tour, Saint Jean-Baptiste dans le désert, Edition Serpenoise, Départment de la Moselle, 1995.
 

*
『ルーヴル美術館展 ―― 17世紀ヨーロッパ絵画』
2009年2月28日―6月14日
国立西洋美術館

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