時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

クロード・ロラン:ロレーヌ生まれの画家

2009年04月25日 | 絵のある部屋

クロード・ロラン《クリュセイスを父親のもとに返すオデュッセウス》 1644年頃、油彩、カンヴァス
Claude Cellée, dit Le Lorrain (Chamagne, vers 1602-Rome 1682)
Ulysse remettant Chryséis a son pere
vere 1944 Huite sur toile, 119x150cm,
inv 1718
Musée du Louvre
  

 東京、上野の国立西洋美術館で開催中の『ルーブル美術展 17世紀ヨーロッパ絵画』*に、クロード・ロランClaude Lorrain (Claude Gellée or Le Lorraine: Lorraine, c.1600-Rome 1682)の上掲の作品が展示されている。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールと同時代のロレーヌ生まれの画家である。古典風景画の巨匠とされながらもラ・トゥール以上に、日本での知名度は低いのではないか。

 実はこの画家については、いくつかの点で注目してきた。先ず、ラ・トゥールとほぼ同時期のロレーヌ出身の画家であることに加えて、当時としては明らかに長寿といってよい80年近い人生を過ごしたことである。結果として、17世紀の大部分を生きたことになる。しかも、ロランはその生涯のほとんどをイタリアで過ごし、各地を旅し、カラヴァジェスキを始めとして、ヨーロッパの画壇主流の作品に触れたはずであった。その結果として、ロランが何を選んだか、興味を誘われた。

 ロランは1600年、当時はロレーヌ公国であったヴォージュのシャマーニュの町に生まれた。兄弟は5人だった。名前はクロード・ジェレが正しいが、生まれた地域ロレーヌにちなみ、愛称でロランと呼ばれていたらしい。生家は貧困で12歳の時に両親をなくし孤児となり、木版画家の兄のジャン・ジェレとフライブルグへ行った。その後、クロードは仕事を求めて1613年頃にローマへ、そしてナポリへ移った。ナポリでは1619-1621年の2年間、ワルス Goffredo(Gottfried) Wals の下で徒弟修業をしたようだ。そして、1625年4月にはローマへ戻り、かつて自分を傭ってくれた風景画家兼フレスコ画家のタッシ Augustin Tassi(ca1580-1644)の下でさらに修業した。

 ロランは、1626年には少年時代まで過ごしたロレーヌの文化の中心ナンシーで、1年近く宮廷画家クロード・デルエの工房で修業もした。カルメル会派の教会フレスコ画などを制作したとみられるが、現存していない。記録はないが、ラ・トゥールとも交流があった可能性もないわけではない。ラ・トゥールが数歳年上である。ロランは2年ほどして再びローマへ戻り、ロレーヌに戻ることはなかった。ローマの吸引力がいかに大きかったかを思わせる。

 ロランについてさらに興味深いことは、1635年頃からの制作記録が残っていることにある。贋作を防ぐために、作品制作後、自らの作品のデッサンを『真実の書』として一種の備忘録を残した。これ以前の時期については不明だが、この頃からの作品には、裏面に作品の購入者の名前も記されているらしい(通常の展覧会では作品の裏面を見る機会はまずない)。ロランは政情が安定していたローマで制作活動をしたこともあって、現存する作品も多い。画家歴約50年の間に、ほぼ200点近い制作をしたようだ。  
 

 ロランは生まれ故郷であるロレーヌを含めてイタリア、フランス、ドイツなどへ旅行した。いくつかの逸話も残っている。こうしたことから、ロランは当時のヨーロッパ画壇の主要な風を体験していたとみてよいだろう。  

 1637年頃からロランは、風景あるいは海港の景色の画家としての評判を確立した。教皇ウルバヌス8世やスペイン王フェリペ4世などの注文を受けていたことが明らかであり、著名な画家となっていた。さらに、あのニコラ・プッサンの友人となり、一緒にローマ近郊のカンパーニャを題材に古典的風景画を残した。一見すると、二人の作品にはかなり近似するものがあることを感じる。二人とも、カラヴァッジォの影響はほとんど受けていない。

 ロランとプッサンの間には、近似する要素が多いとはいえ、相違点もあった。プッサンにとっては、描かれる人物が主であり、風景は背景にすぎない。他方、ロランにとっては風景が主で、人物は副次的な扱いである。人物は自分の風景画を買ってくれた人への「おまけ」だったともいわれている。ロランは太陽の光の効果を風景画において、いかに精緻に描き出すかということを目指していたようだ。しかし、画題からも明らかなように、描かれた光景は現実の風景ではない。画家の心象風景として構築された風景なのだ。こうした制作態度から生まれたロランの作品は、古典風景画の典型として、その後の風景画家に多くの影響を与えた。今回の『ルーブル美術展』に出展されている作品も、主たる関心事は海港をあるがままに描くことを目指したものではないことが直ちに分かる。

 ちなみに、上掲作品の場面は、ホメロスの「イリアス」に基づいている。アガムメノンがクリュセイスを父親クリュセースのもとへ返すために港で見送る光景である。アガムメノンがその使命を託した男はオデュッセイスである。  

 ロラン、プッサンともに、古代ギリシャ、ローマへの憧憬が強い。そのため鑑賞する側に古典についての十分な蓄積がないと、作品主題の含意、精神性を理解することがきわめて難しい。プッサンについても同様だが、ルーブルで初めてロランの作品に接した時、作品そして画題を見ても直ちに画家が作品に込めたものを理解するに困難を感じた。今回、出展された作品についても同様であり、解題を読んだ後でも十分理解したとは言い切れない(この点については、いずれ記す機会があるかもしれない)。

 さらに、ロランについては、自らが創り出した画風の範囲がかなり限られており、生涯そのスタイルからほとんど逸脱することがなかった。しかし、その作品は古典風景画の典型として、その後の風景画家に多くの影響を残した。日本人にとっては、時に理解が難しい画題が多いが、見慣れてくるにつれて、17世紀ローマを中心とするイタリア美術界の風土、とりわけその精神世界について、新たな想像の次元が広がってくるような気がしている。



Reference
『ルーブル美術展 17世紀ヨーロッパ絵画』公式カタログ、2009年2月28日-6月14日、国立西洋美術館

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深遠・絶妙な「黒」の世界

2009年03月24日 | 絵のある部屋

 クイズをひとつ。この絵の作者とテーマは?

 
  おわかりになった方は、17世紀絵画のかなりのフリーク?と自認されてもよいのでは。 そう、やはりジョルジュ・ド・ラ・トゥールでした(下掲)。


「聖アレクシスの遺骸の発見」
Georges de La Tour, The discovery of the corps of the St. Alexis, Dublin National Gallery of Ireland  
ラ・トゥールの原作に基づく模作と考えられている(真作説もある)。


 大変美しい絵である。この世を去ったばかりのひとりの老人と少年の発見(そして別れ)の場面である。深い闇の中に浮かび上がった二人の姿には、凛として厳粛な空気が充ちている。

 ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品は、書籍などの表紙に使われることが多い。今回は「色の歴史」シリーズで、すでに『青の歴史』を刊行しているミシェル・パストゥローの2作目であり、『黒の歴史』である。

 ラ・トゥールのこの作品が、「黒」の代表作品として、表紙に使われたことには驚いたが、改めて見ると、やはり素晴らしい作品だ。確かに、絶妙な「黒の世界」の代表作である。

 「白」と同様に「黒」もイメージは別として、自然界にはそのままの色では存在しない。古来、濃い褐色と青色を混合して作られてきた。その後、炭素煤など良質なカーボン・ブラックが見いだされ,使われるようになった。  

 17世紀、顔料、絵の具などの画材は、ほとんど画家の工房で準備されてきた。製法は、しばしば工房ごとの秘密であった。原材料の顔料をそのままあるいは水や油を加えながら、大理石の板上などで、粒子が適度な段階になるまで練り上げる仕事である。大変時間も要し、力仕事のため、徒弟がいる工房では、親方の指示で若い徒弟が作業を受け持っていた。  

 ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの真作の模写とされているこの作品、改めて「黒」に着目してみると、その濃淡、色合いは絶妙だ。ラ・トゥールの研究書の表紙などにもしばしば使われている。

 
ミシェル・パストゥローは、「赤」の歴史を最初に書きたいと述べていたことを、どこかで読んだ記憶があったので、このたび「黒」の歴史が出版されたことについては、少し驚いた。しかし、「黒」の世界も、見てみると素晴らしい。闇を描くことを得意としたラ・トゥールだが、この「聖アレクシスの遺骸の発見」も絶妙に美しく、静謐な場面を見事に描き分けている。


Contents:
Introduction
In the begining was black
A fashonable color
The birth of the world in black and white
All the color of black


Michel Pastoureau. Bleu, Histoire d'une couleur. Paris: Le Seuil, 2000(邦訳 松村恵理・松村剛『青の歴史』筑摩書房、2005年)



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画家になった息子と母親:ジャック・ステラ

2009年02月25日 | 絵のある部屋

Jacques Stella (1596-1657)
Portraits de Jacques Stella et de sa mère, Claudine de Masso
Huile sur toile - 65 x 55 cm
Vic-sur-Seille, Musée départemental Georges de La Tour
Photo : Musée départemental, Vic-sur-Seille


 ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの生地ヴィック=シュル=セイユに建てられた美術館を訪れた時に、併せて展示されているラ・トゥール以外の画家の作品で、ぜひ見たいと思っていたものがいくつかあった。
   
 そのひとつが、ジャック・ステラ 
Jacques Stella (1596, Lyon-1657, Paris)という画家の作品である。17世紀フランス美術がかなりお好きな方でないとご存じないかもしれない。日本では、プッサン、ラ・トゥールよりも一般に知られていないのではないだろうか。一般向けの西洋美術史の文献などでは、あまりお目にかからない。なぜ、この画家に関心を持ったのか。実は、あることで、この画家が描いた一枚の作品に興味をひかれたからだった。

 その作品とは、画家である自分と母親とを並べて描いた自画像(上掲)であり、現在、ヴィック=シュル=セイユの美術館が所蔵している。詳細に立ち入る前に、日本では専門家以外あまり知られていないジャック・ステラについて、少し記しておこう。

 ジャック・ステラは、1596年、フランス、リヨンで生まれた。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは1593年生まれであるから、ほとんど同時代人である。彼の父親フランソワ・ステラは、フレミッシュ出身の画家であり、商人でもあったが、息子ジャックに画業を伝える前に世を去った。しかし、ジャックの兄弟など家族には画家や彫刻家などがおり、芸術家の血筋を受け継いだ家系であったようだ。

 ジャックはリヨンで修業をした後、イタリア、フローレンスへ行き、1616年から1621年まで、メディチ家コシモII世の宮殿で主に版画家として雇われ働いた。同じ時、同じ場所に、ロレーヌの銅版画家として著名なジャック・カロもいた。1621年、コシモII世が亡くなった後、ステラはローマへ移り、油彩画、石版画などで名をなし、10年ほど過ごした。

 ローマでは、ジャック・ステラは、教皇ウルバンVIII世のために作品を制作した。当時、ローマにいたニコラ・プッサンの古典主義的画風から大きな影響を受け、終世折に触れ、手紙を交わす親しい友人となった。ステラはプッサンとおそらくリヨンで出会っていたのだろう。ステラが傾倒したこともあって、後年ステラの作品は、しばしばプッサンの作品と混同されることもあったようだ。ステラの作品は、彼の生地であるリヨンの美術館をはじめとして、世界中に分散、所蔵されている。古典的な美しい作品が多いが、プッサンほど重い印象を与えない。フランスにおけるプッサンの国民的画家としての評価を考えると、ステラはもっと評価されていい画家ではないかと思っているほどだ。

 ジャック・ステラはその後、1634年にはリヨンに戻り、1年ほどしてパリへ移った。リシリュー枢機卿の推薦で、ルイXIII世の王室付画家 peintre du roi の称号を授けられ、ルーブル宮殿に作業場をもらっていたと推定されている。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールも同じ称号を授与されている。文献にラ・トゥールがこの称号を付して現れるのは、1639年頃からであり、ほとんど同世代の画家であった。

 さらに、ステラは1000ルーヴルの年金も受けていたようだ。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールも、同様な年金をもらっていた可能性が指摘されているが、確認されていない。ステラとラ・トゥールは、パリなどで会った可能性もある。少なくとも、お互いの噂などを聞いていたことはほとんど間違いない(この点、ラ・トゥールの専門研究書にも触れられていない)。

 これらの点から明らかなようにい、ジャック・ステラとラ・トゥールの人生には、かなり似通ったものが感じられる。この時代のヨーロッパの画家たちが望ましい画業生活のあり方として描いたイメージのようなものがそこにある。

 そのイメージとは、先ず、生まれ育った地で徒弟などの修業を行い、その後当時の画家、芸術家たちの憧憬の地であったイタリアへ行き、時代の先端とされたローマの空気に触れ、その成果を携えて帰郷するという経路だ。ラ・トゥールについては、イタリアへ行ったか否かの確認はできていない。しかし、カラヴァジョなど当時のイタリアの画壇の風は、しっかりと受け止めている。ステラは、イタリアへ行っていたにもかかわらず、作品を見るかぎり、カラヴァッジョの影響はほとんど感じられない。むしろ、古典的なプッサンの画風に著しく近い。

 ステラは、プッサン、シモン・ヴーエなどと一緒に、パリなどで仕事をしたとみられる。プッサンはよく知られているように、ほとんどイタリアで画家としての生活を送ったが、一時パリへ戻っている。ステラは、1644年頃にはリシリュー枢機卿宮殿の装飾も手がけた。また、ステラは、プッサン、ラファエル、ミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチなどの作品を収集していたことでも知られている。

 さて、ステラの『画家と母親の自画像』について、記したい。2007年春にヴィック=シュル=セイユのジョルジュ・ド・ラ・トゥール美術館を訪れた時、この作品はあいにく貸し出し中であった。ちょうどその時、画家が生まれ育ったリヨン(そしてトゥルーズ)の美術館で、この画家の企画展*が開催されており、貸し出されていた。

 最近、ロレーヌをベ
ースに、大変楽しく、貴重な情報源でもあるブログ、『キッシュの街角』の記事を拝見している時に、ラ・トゥール美術館内の光景が写真で掲載されており、そこでステラの作品(2番目の写真左)が戻っていることに気づいた。

 ステラは自分ひとりの自画像(下掲)も描いている。こちらの方は黒いローブを着て、免状のようなもの(画家ギルト入会許可書?)を手にしており、見るからにフォーマルに描かれている。画家としての誇りと緊迫感が伝わってくる作品だ。実は、2006-7年のリヨンでの企画展では、2枚の自画像を並べて展示することに大きな意味があった。

Attribué à Jacques Stella (1596-1657)
Portrait de Jacques Stella 
Huile sur toile - 84,5 x 67 cm
Lyon, Musée des Beaux-Arts
Photo : Service de presse 


 母親と並んでの自画像も大変興味深い。こちらは明らかに家族のためを意図して描かれた作品と考えられる。画家自身は、赤い色のチョッキを着て、少しくつろいでいるが、なかなかお洒落な格好で?描かれている。白い襟もしわが寄って、くだけた感じを与える。他方、母親は手袋を持ち、黒い衣服、帽子に白いブラウスで、なんとなく知的だが、緊張したお堅い?イメージだ。リヨンで教会などへ行く晴れ着だったのだろうか。衣装の歴史にはまったく疎いが、いつか調べてみたい。ステラの家系についても興味深い点がいくつかある。いずれにせよ、非常に興味深い作品として気になっている肖像画である。

 

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17世紀前半オランダの宗教世界

2009年01月06日 | 絵のある部屋

  これまで少しばかり覗いてきた17世紀ネーデルラントの画家の宗教と制作活動については、興味深い問題が多数残されている。いずれまた取り上げてみたいが、この辺で一休みしたい。年末に会ったオランダからの友人、17世紀美術・建築研究者との話から示唆されたこともあり、多少まとめの意味で、17世紀中ごろネーデルラントの宗教世界の輪郭を少しだけ記しておこう。

 17世紀にはプロテスタントの国として独立、発展したネーデルラントだが、今日では信者の数で見る限り、カトリックがプロテスタントを上回っているようだ。友人の話では、カトリック、プロテスタントの双方に言えることだが、教会へ行く若い人は明らかに少なくなったらしい。不安な時代とはいえ、神頼みでは解決しえないと思う人が増えたからだという。半ば冗談ではあるが、その通りだろう。  

壮絶な対立
 ここで注目しているのは、宗教が今よりはるかに大きな重みを持っていた時代の話である。といって、現代で宗教の存在が薄れたというのでは必ずしもない。宗教を背景とする戦争が今でも絶えないことから明らかだ。

 17世紀のオランダは、スペインとの戦争の過程、そしてその勝利の結果として、新教カルヴァン派を国教として奉じる国となった。自由な宗教上の選択というよりは、強制でプロテスタント化したといえる。しかし、公的には否定されたカトリックが、北ネーデルラント(オランダ)から抹消されたわけではなかった。現実には、プロテスタントとカトリックの間では、しばしば壮絶・巧妙をきわめた対立関係が連続的に展開していた。その実態は、現代人のわれわれの目からみても、きわめて興味深いところがある。  

 とりわけ、公的には存在を認められなくなったカトリック側の存亡をかけた努力は大きかった。ローマ教皇庁との関係も途絶えがちとなったオランダのカトリックは、カルヴィニスト改革による活動禁止とカトリック宗教改革の支援の狭間で、必死の生存努力を続けた。教皇庁との関係も円滑ではなくなった。こうした背景もあって、カトリック宗教改革の歴史上、ネーデルラント・カトリックの位置づけは、主流からのローカルな分岐という理解がなされがちであった。カトリック・オランダ教会は、ユニークでナショナリスティックな例外的展開のひとつと考えられ、その活動の実態は長い間、よく分からない部分が多かった。これには、当時の文書などがほとんどすべてオランダ語であり、正確な事情が教皇庁などにも伝わらなかったことも指摘されている。  

 しかし、現実にはオランダでのカトリックの動向は、宗教史上の観点から布教活動としても、きわめて注目すべき点を含んでいた。教皇庁側はカトリック宗教改革の中で、きわめて現実的に多彩な努力をしたオランダ・カトリックの経験を考え、取り入れることに失敗したともいえる。

自らの手での基盤維持
 窮地に立ったオランダのカトリック教徒および教会は、プロテスタント側からの迫害に立ち向かいながら、信仰基盤の維持のためにさまざまな対応を迫られていた。たとえば、教会財産の接収は、オランダ・カトリックの運命に重大な影響を与えた。パトロンがなくなることの危機、司祭などの国外追放による聖職者の不足などが発生した。  

 ネーデルラントのカトリックは、次第に教皇庁から相対的に切り離されて、独自の決断、活動をすることになる。幸いであったことは、改革の意欲に燃えたカトリック・リーダーが各地に出現、ゼロからやり直す決意を持って望んだ。彼らは普通の平信徒間でのエリートであり、制度化したパトロンや長い間に浸透した利害関係から独立していた。そのため、ネーデルラントのカトリック・リーダーは、トリエント改革を他のヨーロッパ地域よりも自由に実施できた面もあった。時には、従来の伝統に固執するローカルな聖職者と対立する場面もあったようだ。地域によっては、迫害、差別などが、かえって熱心なリーダーの信仰活動を促進、維持させた。女性の活動も目覚しかった。フェルメールと義母マーリア・ティンスなどの関係を見ると、こうした時代背景の一端を感じさせられる。  

生存のための現実的対応
 カトリック信者であることを選択した者は、時には罰金支払いの覚悟も辞さなかった。さらに、地域の役人への賄賂、献金、隠れた場所で時間もばらばらに礼拝すること、公的地位からの追放、逮捕、拘束、聖職者の追放、収監、教会の接収も仕方がないとするなど、他の国ではあまり見られない現実的対応が行われた。  

 こうした中で、ネーデルラントではカルヴィニストからかなりの数がカトリックへ戻ったとも報じられていた。カトリックにとっては外部からの迫害、圧力と、内部での人材養成が相まって進んだ。

国際的な活動
 この過程で、これまでほとんど気づかれなかったのは北方でのミッショナリー活動の国際的次元での展開だった。ホーラント・ミッションといわれた布教組織は、北ヨーロッパのブラッセル、ルーヴァン、ケルンなどの国外追放者が主体となった活動だった。しかし、宗教活動の体系としては、しばしば統一性、整合性を欠いたとみられ、しばしば宗派間の対立・構想を生んだ。 ホーラント・ミッション神学校における教育は、ローマン・カトリックの国際的次元を強調した。オランダにおけるカトリックの再生は、結果としてカトリック宗教改革の強みとなった。

 カトリックの観点からみると、1572年の孤立状態から、1600年時点ではほとんど機能しない、分裂状況にあった。しかし、その後上述のようなさまざまな活動が実を結び、1650年頃までには再生と活性化が進んだ。地域的差異があったにもかかわらず、オランダの経験を通してみたカトリックは、初期近代ヨーロッパにおける社会の周辺部で、少数信仰者が生存、活性化しうることを示したといえる。

 フェルメールの生きたデルフトなど都市部の実態をみると、プロテスタントとカトリックの関係は、多数者が少数者の存在を抹消することなく、相互にある距離を保ち、お互いの領域に干渉することなく、市民生活をするという状況が形成されていた。日常の生活の前線部では、迫害、差別、嫌がらせなどの小競り合いは常に起きていたようだ。しかし、それらは、さまざまな現実的対応によって緩和されていた。

 たとえてみれば、信仰背景の異なる人々がお互いに顔の見える垣根を境に同一地域に生活し、必要とあらば決まった出入り口から最低限の交流をするという社会であった。こうした経験を積み重ね、今日にいたったオランダだが、実際に住んでいる人々の話を聞くと、かなりのストレスでもあるようだ。他国へ移住する人も多い。オランダの友人は、オランダ人には住みにくく、外国人には住みやすい国になっていると、評した。

 世界の先進国の間でも、際立って寛容な社会といわれるオランダだが、そのために物心両面で多大なコストも払われている。とりわけ、2002年、移民制限を提唱した政治家ピム・フォルスタインの暗殺、そして2004年の映画監督テオ・ファン・ゴッホの暗殺は、オランダの寛容性に文字通りナイフを突きつけるものだった。とりわけ、後者の犯人がイスラーム過激派の青年であったことで、イスラームとの関係は全国民にとって寛容性のあり方自体を深く考えさせる新たな課題となった。

  新年早々、イスラエル・ハマスの泥沼化し、殺伐きわまりない戦争場面を見るにつけ、17世紀ネーデルラントの社会の有りようは決して遠い時代のものではないことを改めて思わせるものとなった。


 

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コペンハーゲンの光(2):ハンマースホイ展

2008年11月01日 | 絵のある部屋

Vilhelm Hammershoi(1864-1916)
Interior with Ida Playing the Piano, 1910
Oil on canvas, 76 x 61.5 cm
Thr National Museum of Western Art, Tokyo


 



  晩秋の一日、かねて予定していた「ヴィルヘルム・ハンマースホイ展」に行く。上野駅公園口を出ると、かなりの人混みだ。しかし、ほとんどの人は西洋美術館の前を通り過ぎて行く。お目当ては東京都美術館の「フェルメール展」や国立博物館の「大琳派展」らしい。喜んでいいのか、嘆くべきか。

 館内に入ると、後援の日本経済新聞社などが、かなりPRしていたことなどもあってか、まずまずの数の観客ではないだろうか。いずれにせよ、混雑の中で観る作品ではない。

 ハンマースホイという画家の絵具箱には、赤や黄色はなかったのではと思わせる。展示後半に画家が使用したパレットの写真が掲げられていたが、やはり明るい色は置かれていなかった。一貫して暗色の多い作品ばかりだが、静穏な雰囲気に満ちていて落ち着いた気分になる。作品全体を通して見ても、暗くて憂鬱になるということはない。





 ハンマースホイは、光と空気を描き出すのに大変長けた画家だ。部屋が明るくなるような絵ではないが、自宅の居間などに一枚あればきっと心が落ち着くと思う感じの作品が多い。時が止まったような空間に、使い込んだマホガニーの家具、ピアノやチェロの色が映えている。画家夫妻が住んだストランドゲーゼ30 (Strandgade 30) のアパートメントに実際に置かれていた。しかし、異なるのは、細部までリアルに書き込まれているようで、テーブルの脚がどうも1本(2本?)足りないような不思議な作品もある。パンチボウルも実物より大きいようだ。展示作品は個人蔵が多い。日本にも数点あるようだ。きっと熱心な愛好者なのだろう。こうした機会でなければ見られないものも多い。

 東京の前に開催されていたロンドンRA展が「物語のないありふれた風景」 The Quotidian View without Narrative と形容したように、どの一枚をとっても、そこに切り取られた空間を仮想体験するような不思議な作品が多い。とりわけ室内を描いたものはそうした印象が強い。100年前のフェルメールといってもよいような感じも受ける。

 
 この画家、パリやローマへ旅をしても、あまり彼の地に関する作品は残していないようだ。太陽がまばゆいイタリアの光は、この画家の目にどう映ったのだろうか。むしろ、ロンドンのスモッグで霞んだような風景の方がお好みのようだ。そして、やはり最後に残るのは、北欧コペンハーゲンの光なのだ。

 RA展と比較して、今回の東京展では、最後の部分に「同時代のデンマーク美術」と題したセクションが設けられ、ピーダ・イルステズとカール・ホルスーウという、ハンマースホイとほぼ画風を同じくする画家の作品が20点近く出展されている。前者のイルステズについては、出展作品14点中、
11点を国立西洋美術館が所蔵している。ハンマースホイについても「ピアノを弾くイーダのいる室内」(上掲)と題する1点は、最近当美術館の所蔵になった作品であり、ロンドンRA展にも出展された。昨今、借り物ばかりの企画展が目立つ中で、美術館の主体性が感じられる企画で少しほっとする。きっと学芸員で慧眼の方がおられるのだろう。いずれにせよ、これまで日本ではほとんど知られていなかった希有な画家の作品紹介を企画された美術館に敬意と拍手を送りたい。



#2008年11月16日NHK新日曜美術館『北欧のフェルメールといわれた謎の画家・沈黙の絵』
 

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氾濫するフェルメール

2008年09月01日 | 絵のある部屋

   
Girl Reading a Letter at an Open Window. c.1657. Oil on canvas. Alte Meister Gallerie, Dresden, Germany


     日本人のフェルメール好きは、世界でも突出している。始まったばかりの東京都美術館のフェルメール展*は、かなりの人気を呼びそうだ。『芸術新潮』『ユリイカ』などいくつかの雑誌も特集を組んでいる。フェルメールはどちらかといえば好きな画家だが、最近の〈氾濫〉ぶりにはいささかへきえきしている。

  美術館などの興行側も、フェルメールを展示すれば多数の観客が期待できるので、高額の賃借料を支払っても、採算が合うのだろう。最近では国立新美術館の『フェルメールとオランダ風俗画展』では、いわば目玉商品
一点で、約50万人を集めたといわれている。今回は会期も異例に長く、主催者は入場者100万人を目指すという(詳細は『芸術新潮』9月号をご参照あれ。) 

  フェルメールの作品は、現代の日本人に受ける条件をそなえている。宗教色が弱く、色彩がきれいで、よく描きこまれており、大作ではないため重たくなく、画題もなんとなく分かったような気になる。このように一般受けする作品となると、フェルメールやモネなのだろう。画題もほどほどに分散していて、ちょっとした話題にするに適当だ。深刻な題材ではないので、なんとなく癒される感じもするのかもしれない。現在の日本人が求める文化的水準?にほぼ合致するのだろう。

  
しかし、便乗した安易な企画も多い。例のANA機内誌『翼の王国』に連載されていた、福岡伸一氏の「アメリカの夢 フェルメールの旅」も、3回の連載で、野口英世とフェルメールの関連を訪ねることを目指したようだが、完全に的が外れてしまっていた。元来、野口英世がフェルメールを見たかという仮説自体が思いつきにすぎず、仮に見たとしても、それがどうしたということにすぎない。結局、なにも検証できず、単にアメリカへフェルメールを見に行ったエッセイに終始してしまった。いくら機内誌の連載といっても、企画を疑ってしまう。

  このブログでも少し記したが、19世紀末から20世紀初頭にかけての富豪たちと画商の駆け引きは、虚々実々で子細に立ち入ると、それだけできわめて興味深い。しかも、富豪の所有物が美術館へ寄贈・遺贈され、公有財に移行してゆく過程も、複雑なやりとりを含むものだった。大規模な企画展があれば、少しずつでもそれまでの研究成果の一部がスピルオーバーする。日本のこうした企画展では集客数など興行効果が全面に出て、新しい研究などの普及は少ない。研究者の間では知られているが、フェルメール作品が生まれた環境については、今回『芸術新潮』で朽木ゆり子氏が紹介されている、かつてモンティアス(エール大学教授、経済史家)が実施した地道な調査の成果が大きな突破口となった。新たな光は、思いがけないところから入ってくる。

  歴史の中では長らく忘れられていたこの画家。まもなく4世紀近くなる時間が経過した今日、極東の島国での思わぬ人気をどう見つめているのだろうか。今回のブームが、観客動員数だけを競う、またひとつの仇花に終わらないことを祈るのみ。



*  東京都美術館『フェルメール展 光の天才画家とデルフトの巨匠たち』8月2日ー12月14日


References
『芸術新潮』2008年9月
『ユリイカ』2008年9月
 福岡伸一「アメリカの夢 フェルメールの旅」『翼の王国』2008年6-8月
John Michael Montias. Vermeer and His Milleu. Princeton:Princeton University Press, 1989.

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オランダの光:画家の真意は?

2008年08月29日 | 絵のある部屋

Pieter Jansz saenredam (1597, assendelft-1605, Haarlem)
Interior of the Church of St.Bavo in Harlem
oil on panel, 2 x1.4m, National Gallery of Scotland, Edingburgh  

  

    退屈だといわれた17世紀、オランダ・ジャンル画について、先入観を捨てて再度見てみたいと思ってきた。美術史家ではないアマチュアの目で見たら、別のことに気づくことがあるかもしれない。実はこんな不遜な思いを多少抱いたのはかなり以前のことだ。それまで折に触れて見たり、読んだりしてきた美術史家の著作やカタログの中などに、時々どう考えても納得できない記述に出会い、作品を見直したり、知人の専門家に尋ねることで、誤りを発見したことが少なからずあったからである。老眼も、時々妙なことに気づくことがある。

  17世紀のオランダの美術界は、「黄金時代」の繁栄をきわめた。しかし、新教カルヴィニストは偶像や絵画を礼拝の対象とすることを禁じ、個人の救済は信仰にのみよって得られるとして、教会内に聖人などの偶像を置くことを禁じてきた。16世紀、とりわけ1566年頃にはイコノクラズム(偶像破壊運動)が町や村へと波及し、数多くの教会や修道院の聖像などが破壊された。絵画や装飾に比較すると、聖像は立体的で迫力があり、人々に訴える世俗的信仰の対象となりやすいこともあって、物理的破壊の対象となりやすかったらしい。

  それにもかかわらず、17世紀のオランダ美術が繁栄の時を迎えたのは、宗教色の薄い靜物画、風景画、風俗画などのジャンル画の領域へと比重が傾斜したことが、ひとつの大きな理由といえるだろう。しかし、反面で宗教画や歴史画のような、人々の心に訴えるものを次第に失っていた。おびただしい作品数にもかかわらず、オランダ・ジャンル画が平凡で退屈だという印象を創り出したのは、このためだろう。

  17世紀、オランダの画家サーンレダム(サーレンダム) Pieter Jansz saenredam (1597, assendelft-1605, Haarlem) の描いた教会画について触れたことがある。サーンレダムが描いた教会は、建築家の設計図を思わせる精密さで描かれていた。

  この画家はなにを目指して制作にあたったのか。最初はプロテスタント新教会の刷新されたイメージを精確に描くことを目指したのかと思った。描かれた作品、とりわけ教会内部の聖像や装飾が一切取り払われたクリーンな壁面は、新教徒たちの清新さを誇示するかにも思えた。内部に描かれた人々の数も少なく、時には人影も見あたらない。わずかに目立つのは、カルヴィニストにとって最も重要な説教壇 culprit くらいなものである。長く見慣れたきたカトリック教会に溢れていた聖像や装飾は、もはやそこにない。

  しかし、作品をかなり見ている間に、少し印象が変わってきた。人物が描かれている場合でも、教会全体に比して、きわめて小さく描かれ、教会の壮大さをことさら誇張しているような作品も多い。これらの例を見ると、一見正確に対象を描いたかのようにみえる教会画も、画家の意図が働いた創作であることが分かる。

  何度も目にしたハールレムの聖バーヴォ教会の内部を描いた作品(上掲)があるが、この一見して、がらんとした印象の教会は、カトリック教会を改装し、「中立的な」教会イメージとして、教会画ジャンルで、カルヴァン派教会が認めたモデル的な作品とされてきたらしい。

  ところが、西洋文化史家のピーター・バーグが、驚くべきことを述べていることに気づいた。要約すると、サーンレダムの描いた一連の教会画は、教会自体はカルヴァン派の礼拝に用いられていたものだが、カトリック教徒のような人々も描かれているという。描かれている儀式の執行者は、プロテスタントの牧師ではなく、サープリスという短い白衣とストールを身につけたカトリックの司祭だと記している(邦訳p.129)。*

  サーンレダムは、ハールレムのカトリック教徒と親しかったことが知られている、(この点は、サーエンレダムの研究者にはかなり知られていることではあった)。注目すべきことは、バーグが次のように結論づけていることだ。「ということは、画家は絵画の中で教会をかつてのカトリックの状態に”修復”してしまったのだ。したがって、サーンレダムの絵画はオランダにおける教会の当時のありさまよりも、オランダにおけるカトリックの不屈さを物語るよい証拠だといえる。それはありのままどころか、「歴史的、宗教的な含みをもたらされている」**のである。」(バーク邦訳 P.129)

  バークは、この点を先行研究者のシュヴァルツとボックから示唆された(**の部分)ようだが、この画家の作品を最初見た時とは、別の新たな衝撃を受けた。一見、新教会を精確に描くことが画家の意図であった思っていたが、もしそうであれば画家の意図はまったく異なってくる。バーグが指摘することが正しければ、これらの作品は当時の教会の忠実な描写ではなく、画家の隠された意図を含んだ作品ということにある。

  もちろん、サーンレダムにかぎらず、教会画を描いた画家たちが現実にはないさまざまなものを描き込んだり、故意に捨象していることには十分気づいていた。しかし、この指摘が正しければ、一見客観的、実証的な絵画作品の中に封じ込まれた画家の思いを読み取らねばならない。


Pieter Jansz saenredam
Interior of the Church of St Odulphus, Assendelft (detail)
1649, Oil on panel
Rijksmuseum, Amsterdam
当時の教会内部での説教風景が推測できて、大変興味深い。


  スペインとの長年にわたる熾烈な戦争を経て独立を勝ち取った新教国オランダでは、カルヴァン派は強権をもって国内の制圧・支配に当たった。特に16世紀後半のヨーロッパのカルヴァン派の地域は、「あらゆる聖像を全面的に拒絶する」という意味での「聖像恐怖」という時期でもあった。しかし、そこにおいても、カトリック教徒やユダヤ教徒がある程度の居場所、空間を保持していたことは知られている。この「共存」の関係、きわめて興味深いところがあるのだが、最近はその実態を解明しようとの研究もかなり進んできたようだ。聖像破壊運動や聖像恐怖にしても、ヨーロッパ全域に広がっていたわけではない。カトリック、プロテスタントの教徒たちの日常の生活はいかなる状況にあったのか。
これまで疑問なく見ていた一枚の教会画も、急に見え方が変わってきた。



 バークの邦訳(下掲)に掲載されているサーンレダムの作品にみるかぎりは、カトリック司祭や教徒らしき人物は十分確認できない。他の作品も検討しているが、サーンレダムの全作品を見たことがないので、バーグの主張はまだ十分納得できないところがある。しかし、きわめて興味深い謎を含んだ指摘である。
  

** Gary Schwartz and Marten J. Bok, Peter Saenredam the Painter and his Time, 1989: English trans. London; 1990.pp.74-6.

Peter Burke. Eyewitnessing: The Unses of Images as Historical Evidence, London: Reaktion Books, 2001
. ピーター・バーク(諸川春樹訳)『時代の目撃者』中央公論美術出版、2007年

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オランダ絵画は退屈か

2008年08月19日 | 絵のある部屋

Jean Miense Molenaer
The King Drinks (detail)
1636-37
Oil on panel
The Collection of the Prince of Lichtenstein, Vaduz



    17世紀オランダ美術、とりわけジャンル画は退屈だという感想を聞いた。確かに、最初レンブラント、ハルス
などの大家の歴史画、肖像画などを見ていた頃には、魅了されるばかりで、退屈さなどは感じなかった。しかし、その後、他の作家の風景画、静物画、風俗画などのいわゆるジャンル画の領域に入り込み、作品を見慣れてくると、次第に単調さ、平板さを感じるものが増えてきた。風景画や静物画にしても、大変精緻に描かれているようにみえるが、なんとなく訴えるものに欠け、印象が薄い作品がかなりある。

  オランダは「黄金時代」であり、制作された作品の数は桁外れに多かった。絵画の大量生産市場が生まれていた。その結果、当然ながら、かなりの凡作にも接することになり、こうした印象を強めたのかもしれないと一時は思った。しかし、1781年にオランダへ旅した著名なイギリスの画家ジョシュア・レイノルズ(初代のRAA院長も務めた)が、当時のオランダ絵画を渋々賞めながらも、「この派の作品が目指したのは、単に目だけのためだ」として、「退屈なエンターテイメント」barren entertainment *と評したことを知って、自分の印象もあながち的はずれではないのかと思った


  
あの人気度抜群のフェルメールについてさえ、そうである。テュイリエの辛辣きわまりない批評もある。簡単に言ってしまえば、美しい光の中にあるがままに描かれているが、ただそれだけではないかということである。フェルメールの作品は確かに美しい。使われている色数が多く、総じて華やかで、精緻に描き込まれている。しかし、それから先へ進まないのだ。描かれた情景に接した時に、一瞬の美しさを感じることはできるのだが、そこでとどまってしまう。別にこちらが、作品に哲学・教訓や深遠な含意を求めているわけではないのだが。

  ピーテル・ヤンス・サーエンレダムに代表される教会画にしても、まさに設計図のような美しい線で描かれている。しかし、画家はそれによって、なにを訴えようとしたのか。しばらく考えていたことがあった。

  17世紀オランダの精神世界を支配したのは、なんといってもカルヴィニストの影響だった。カルヴィン個人の美術に関する具体的考えは、必ずしも明らかではないが、改革教会を通してのカルヴィニズムが、時代の風土形成に与えたものがきわめて大きかったことは改めていうまでもない。この時期のオランダ美術の環境条件を形作ったと考えられる。カルヴィニズムが偶像や人物画を崇拝の対象とすることを禁じたこともあって、宗教画が描きにくくなったのもひとつの結果だろう。静物や風景、世俗の情景を描くジャンル画といわれる領域が生まれた一因でもある

  この時期のオランダ絵画の特徴をなんと表現すべきなのか、美術史家ではないので分からない。しかし、興味にまかせて、いくつかの文献を見ていると、この問題の解釈はかなり複雑であることも分かってきた。絵画を評価するメンタリティ自体が17世紀とその後ではかなり異なっていた。
17世紀には、時代特有のさまざまなシンボルや暗喩・隠喩などが含まれていたことも事実だろう。

  ただ、17世紀のほぼ3分の2近い時期を通して、オランダ・ジャンル絵画の大きな特徴は、自然主義 naturalism とされてきたが、それは必ずしも好意的な評価ではなかったようだ。

  「自然主義」 naturalism という概念は、1672年に理論家ベローニ Belloni によって、カラヴァッジョおよびその追随者カラヴァジェスティに与えられた、対象の美醜にかかわらず、ディテールにこだわった作風を指してのコメントであった。しかし、この概念が、美術批評において重要な意味を持ち出したのは、19世紀になってからだ。

  時代の経過とともに、「自然主義」という概念の精緻化も図られた。科学的正確さをもって、外部世界を描くということがその真髄となった。エミール・ゾラの思想などが影響したのだろう。文学における’自然主義’は科学的な正確さとほぼ同義と考えられた。人間行動の原因と結果を支配するものを、科学的に示すことが意図された。

   しかし、それだけにとどまらない。「自然主義」は、「リアリズム」の緩やかな定義に近いものとなった。19世紀になると、「自然主義」あるいは「自然主義的」という概念は、時代を超えて、あるがままに描く作風について使われた。クールベなどがその例とされている。しかし、一見するとあるがままに描かれているかに見えても、画題の選定の過程における価値判断がかかわる。

  こんなことを考えながら、10年ほど前から、それまでやや遠ざかっていたオランダ・ジャンル画を見る機会があるごとに、なるべく既成観念から離れてみようと思った。
オランダ社会や歴史についての理解が多少深まったこともあって、単調さを感じていた作品にも新たな面白さも見えてきた。作品評価は、見る側のあり方で大きく変わるものだということを実感している。17世紀北方絵画の世界は、かなり面白く見られるようになってきた。
  

* Quoted in Sverlana Alpers, The Art of Describing: Dutch Art in the Seventeenth Century (University of chicago Press, 1981), pp. xvii-xviii.

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フェルメールとアメリカ (2)

2008年07月23日 | 絵のある部屋

Johannes Vermeer
Lady with Her Maidservant Holding a Letter (detail) 
c. 1667 Oil on canvas Frick Collection, New York


  ANAの機内誌『翼の王国』に掲載されていた福岡伸一氏の「アメリカの夢 フェルメールの旅」の続きを読む。6,7,8月の3回連載の中編である。

  前回記したように 、アメリカに移ったフェルメールの作品をニューヨークに長らく居住した野口英世が見たかという仮説を、福岡氏がいかに検証するかという点に興味があった。   

  結論からいうと、拍子抜けという感を免れない。福岡氏の推理は、次のようなものだ。野口英世のニューヨーク在住年数は20数年と長く、自分の研究の場であったロックフェラー研究所の近くにあったフリック邸の存在を知らないわけはないはずだとする。ちなみに、フリック Henry Clay Frick (1849-1910)は、鉄鋼業で巨富を成した人物であり、このブログにも記したことがある。今日「フリック・コレクション」The Frick Collection として知られる絢爛たる美術作品を購入、所蔵していた。  

  この豪邸では、フリックがフェルメールの作品などを入手した折には、しばしばパーティなどを催し、著名人などを招待していた。当時すでにノーベル賞候補に名が上がるほどの著名人であった野口英世が、フリック邸に招待された可能性はかなり高い。おそらく、こうした機会に野口はフリック邸で、フェルメールを見たに違いないという推理だ。   

  野口英世は、1911年、結婚を機に新居を設け、同じアパートに住んでいた日本人画家(後年写真家)の堀市郎から筆や絵の具などをもらい、絵を描くことを唯一の趣味としていたようだ。他方、フリックの死後、娘が大邸宅を改装し、それまで収集してきた美術品が、美術館として一般公開されたのは、1935年であった。野口英世はこれに先立つ7年目、アフリカで黄熱病に感染し、世を去っていた。したがって、野口英世がフェルメールを見たとするならば、作品が未だフリックの私邸に飾られていた時期である。    

  ここまでの福岡氏の推論は、かなり思いつきの感を免れないが、可能性としてはありうることだ。しかし、仮説は推論、実証の詰めを欠いている。フリック・コレクションのアシスタント・キュレーターに会い、当時の招待者の名簿も現存していることを聞きながら、時間の関係か?確認されていない。これでは、まるで宝の山の前まで行きながら、手をこまねいて帰ってきたに等しい。科学者としては、仮説を立てたからには、結果のいかんを問わず、実証結果までたどりついてほしかった。福岡氏は、今後の可能性を残したと記しているが、読者としてははぐらかされたようで、満たされない思いだ。 

  もっとも、野口英世がフェルメールの作品を見たとしても、それによって野口英世観が変わるわけでもない。この時代、アメリカには野口英世以外にもかなりの数の日本人がいたし、その中には画家も含まれていた。フリック・コレクションに限らず、この時代に次々と公開されていった富豪の美術品を、彼らがどう見ていたかの方が知りたい。    

  野口英世の描いた作品の実物は揮毫以外に見たことはないので、憶測にすぎないが、絵画作品を写した写真などを見る限り、かなり自己流に近く、フェルメールなど特定の画家の影響を受けている可能性はきわめて少ないようだ。恐らく野口英世は、同じアパートに住んだ日本人画家・写真家で、将棋の相手でもあった堀市郎から絵画制作の手ほどきを受けたのではないか。  

  さて、フリック・コレクションは、これまで何度か訪れたことがある。ニューヨークへ行く機会があると、やはり見ないではいられない場所のひとつだ。その規模は実際に訪れてみると分かるが、1ブロックすべてを占めるほどの広大なものだ。大富豪の邸宅がいかなるものであったか、実際に訪れてみると、その壮大・華麗さに圧倒される。邸内には豪華な噴水、パイプオルガン、ロココ調の絢爛たる部屋などもあり、アメリカ資本主義黄金時代のひとつの象徴のような感じがする。フリックは、かつては志を共にし、鉄鋼会社を共同経営していたカーネギーとも袂を分かち、「カーネギーの家など炭坑夫の小屋」に見えるほどのものを造るのだといっていたらしい。 

  フリックは企業経営、株式投資などによって得たありあまる資金にまかせて、美術品の収集にのめりこんだ。しかし、彼が真に美術品を見る目があって、そうした行動をしたのか、疑問がないわけではない。初期に集めたバルビゾン派の作品などは、あっさりと売却されてもいる。

  実は、私が最初にフリックの名を知ったのは、この美術品コレクションのためではなかった。若い頃から「コークス王」といわれ、鉄鋼王アンドリュー・カーネギーの鉄鋼会社に共同経営者として迎えられた経営者としての側面からであった。そして、アメリカ労働運動史上、最も暴力的な争議のひとつとして記憶されている「ホームステッド大争議」 Homestead Lockout (1892年)などでの非情な経営者としての姿である。フリック自身、この争議の過程で暗殺者に襲われるが、一命を取り留めた。

  こうした非情な経営者としてのフリックと美術品収集に没頭したフリックのイメージは、最初はなかなか結びついてこなかった。この話、実はかなり興味深いのだが、長くなるので今日はこれでおしまいに。  


* 福岡伸一「アメリカの夢 フェルメールの旅 中編」『翼の王国』2008年7月

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コペンハーゲンの光

2008年07月18日 | 絵のある部屋

Vilhelm Hammershøi (1864-1916)
Interior. Young woman seen from Behind, c.1904
Oil on canvas, 61 x 50.5 cm
Randers Kunstsmuseum, Randers


    やはり、あの画家だったのか。ヴィルヘルム・ハンマースホイ Vilhelm Hammershoi (1864-1916)というデンマークの画家のことである。

  はるか以前に遡るが、1980年代、コペンハーゲンの美術館で偶然、この画家の作品を見た時、なにか強く惹かれるものがあった。しかし、当時は、この画家の名前は覚えがなく、展示されていた年譜などを見ただけだった。それ以前から魅せられていたラ・トゥールのようには、深く追いかけることもなく時が過ぎた。

  しかし、イメージは記憶細胞に生きていた。ロンドンのロイヤル・アカデミー・オブ・アーツで、この画家の回顧展が開催されていることを知った。たちまち、記憶がよみがえった。「ヴィルヘルム・ハンマースホイ:静寂の詩」Vilhelm Hammershoi: The Poetry of Silence (終了後東京へ移動) という特別企画展だ。副題が適切にこの画家の特徴を伝えている。目前に霧に包まれたようなこの画家の作品が、ほうふつとして浮かんできた。


  
ハンマースホイは、風景、室内、人物などを描いているが、いずれをとっても、暗色系の抑えられた独特な色合いと静謐さが画面に満ちている。風景画も独特の美しさなのだが、このあまり知られていない画家の特徴が最も現れているのは、室内画ともいうべきジャンルだ。

  室内画といっても、フェルメールのように、画面一面に色がちりばめられているという印象ではまったくない。むしろ、その対極にあるといってもよいだろう。この画家のパレットには、赤とか黄色など明色系の絵の具はなかったのではないかと思ってしまう。コペンハーゲン育ちの画家なのだが、この画家の心象風景は、やはりオランダやベルギーの画家たちのそれとはかなり異なっている。どことなくメランコリックな、デンマークの光なのだ。しかし、北方の画家として、基調には多くの共通するものを感じる。これは作品を見ていると、すぐに伝わってくる。フェルメールがこの時代に生きていたら、もしかすると、こんな絵を描いたかもしれないと思わせるほどだ。ハンマースホイが、作品のイメージを、しばしばフェルメールやレンブラント、サーレンダムなど17世紀オランダ画家の作品から着想したことは明らかにされている。

  ロンドンでは、71点の作品が展示されているが、そのうち21点は画家の故郷コペンハーゲンから、15点は他のスカンディナヴィアの美術館などから、そして20点は個人の所蔵である。この絵に魅せられたら、いつも自分の近くで見ていたいと思うだろう。個人の所蔵の比率が高い。ネットで見た限り、日本にも数少ないが熱心なファンがいるようだ。

  室内を描いた作品は、どれも絶妙な光とそれが織り成す影が特徴になっている。カーテンの掛けられていない明るいガラス窓から差し込む日の光が、これもカーペットもない床や壁を映し出している光景だけしか描かれていない作品もある。しかし、画題にあるように、差し込んだ暖かな日の光に暖められ、空気に舞う塵までが描かれている。「人物のいないフェルメール」といえば、少しこの画家の特徴を言い表せるかもしれない。

  

Sunbeams or Sunshine, Dust Motes Dancing in the Sunbeams, 1900

  このように、なんの変哲もない光景と思うのだが、一瞬息を呑むほど素晴らしい。写真より現実に近いとも思える。写真では写しきれない日光の暖かみ、それにより空気中に踊っている塵の動きまで伝わってくる。

  この画家、少しあまのじゃくではと思うのだ。人物が描かれている作品もある。たとえば愛する妻イダを描きこんだ作品もいくつかあるが、しばしば後ろ姿しか描かれていない。この回顧展のポスターにも使われている作品のように、美しいうなじを見せている女性が、落ち着いた、沈んだような色調の中に描かれている(顔の見える作品もありますよ)


  風景画でも、ロンドンの大英博物館の近くの
光景を描いた作品など、スモッグが空を覆い、いつもどんよりとしていたかつてのロンドンを、見事に目前に彷彿とさせる。しかし、ここにも人物は登場しない。あの教会画のサーレンダムやド・ウイッテなどの作品と共有する所が多分にある。画家自身がモティーフを選ぶ動機は「イメージの建築的コンテクスト」だと述べているように、描かれた線が整然としており、実に美しい。



Street in London, 1906
Oil on canvas, 58.5 x 65.5 cm
NyCarlsberg Glyptotek, Copenhagen
 

  これらの作品の一枚でも手元にあったら、どんなに目も心も休まるだろうと思う静謐な美しさだ。この画家の名前も作品もあまり知られていない。フェルメールやレンブラント、あるいは印象派の画家のように人目につく華やかさがいっさいないからだろうか。

  このブログで取り上げているラ・トゥールもそうだが、どうして多くの人の目から隠されていたのだろうかと思うほどだ。きっと万人好みの画家ではないのだろう。実際、この画家の個々の作品については、批評家の論争が絶えず、アカデミーが主催する美術展でも度々選外に落ちていた。時代の好みではなかったのだ。画家はその後、アカデミーから離れた個別の流れに移行する。

  このあまり知られていない画家の作品展、実は9月30日から東京の国立西洋美術館へ旅してくる。出展作品数もRA展より増加するらしい。素晴らしい企画展になると思う。秋が待ち遠しい。

ヴィルヘルム・ハンマースホイ展

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イタリアの光・オランダの光(9)

2008年07月02日 | 絵のある部屋

Pieter Saenredam. Interior of the Church of St.Bavo in Haarlem, 1648. Oil on panel, 2x1.4m. National Gallery of Scotland, Edingburgh.


    一枚の絵とはいえ、つぶさに見ると、時代の変化の深部が垣間見えることがある。前回も取り上げた教会画という17世紀オランダ美術のジャンルもそのひとつだ。遠く過ぎ去った時代の息吹きを、改めて追体験、実感することもできそうだ。

  宗教改革という基本的には精神世界での大変革が、広く人々の生活様式を変え、さらに波及して美術のあり方にまでいかなる影響を及ぼしたか、興味は尽きない。宗教間の抗争は、キリスト教の宗教改革に限らず、しばしば激烈な対立となる。宗教改革におけるカトリックとプロテスタントの対立も、今日の想像を超えるすさまじい様相を呈した時もあった。

  オランダでプロテスタントの主流となったカルヴィニズムは、宗教世界における絵画、偶像の役割に否定的だった。しかし、それにもかかわらず、17世紀オランダ美術界は繁栄の時を迎えていた。なぜだろうか。

  この点を解明するには、この時代を支えた基軸的価値観の大転換の次元まで立ち入らねばならないようだ。そのことを見定めるひとつの場が教会である。 サーエンレダムなどの教会画が示すように、当時のプロテスタント教会内部には見通す限り、祭壇や聖像らしきものは、ほとんど見えなくなった。このハールレムの聖バーヴォ教会(上掲)も、1566年の偶像破壊運動 iconoclasm の嵐が襲う前は、63の祭壇、そして多数の聖像や装飾で堂内が覆い尽くされていたという。 (外観参照図

  カルヴァン派の場合、宗教的指導者であったカルヴァン自身が聖像や祭壇画などに対して、厳しい考えを持っていた。ルターと比較してもきわめて厳格であった。

  カトリック、プロテスタントの対立は、基本的には信仰の根源をどこに求めるかという点にあった。聖書は論争の中心的対象だった。ルターもカルヴァンも聖書に絶対的権威を見いだし、信仰の基点を置くことを主張してきた。そのために、分かりやすい言葉で、神の教えを説くことができる牧師と聖書の大衆への普及・拡大が強調された。とりわけカルヴァン派では、牧師はカトリックのように神と信者の間に立つ代理人や仲介者ではなく、信徒の間で最もよく聖書を学び、理解した人と位置づけられた。 

  カルヴァン派は、カルヴァンの説くところに従い、聖人の像、絵画などを排除することに努め、その動きはしばしば暴力的な「聖像破壊運動 」iconoclasm の形をとった。ネーデルラントではとりわけ1566年に町から町へと教会、修道院などで聖像の破壊が拡大していった。こうした異端排斥の実態は、カルヴァン派が市政などの主力を握ったジュネーヴの場合のように、きわめて苛酷で容赦ない対応となった。

  その後、新教側の教会が次第に勢力を拡大し、組織化が進むにつれて、暴力的破壊は次第に減衰をみせる。しかし、カトリックが支配的であった時代と比較すると、絵画や立像、装飾品への需要のあり方は大きく変容した。

  カルヴァンの『キリスト教綱要』(1536年)が発行されると、改革派教義の体系的理論書となった。カルヴァンの神学は、ルター、ツヴィングリ、プツァーらの思想を継承したものだが、『綱要』が判を重ねるごとに深化していったが、同時にルターやツヴィングリなどの考えとも離れていった。

  ほとんど聖人像や壁画など装飾の類を排除したカルヴァン派プロテスタント教会で大きな役割を占めたのは説教壇であった。牧師は説教壇から教会へ集まった人々へ教えを説いた。このハールレムの聖バーヴォ教会(上掲)は、カルヴァンが‘中立的な’教会の有り様として認めていたようだ。 カルヴァンがパイプオルガンなど楽器による音楽の位置づけをいかに考えていたのかは、明らかではない。絵画や偶像のように積極的な排除の対象とはされなかったようだ。イメージほど布教の障害とはならないと考えられたのだろうか。 この絵のように、オルガンが撤去されることなく置かれている情景などを見ると、否定されることなく黙認されていたのではないかと思われる。
  
  当時の教会画には、プロテスタンティズムによって刷新された教会の新たな価値観を印象づけるためか、人物などが描きこまれていない場合もある。描かれていても、上掲の作品のように、右隅に小さく描かれ、教会堂の規模がやや誇張されていることも多い。そして、全般にカトリック教会の重厚さ、華麗さなどを備えた旧来の宗教的雰囲気が薄れ、公会堂のような空気が漂っているのが感じられる。プロテスタントの教会では、カトリック教会に見られた宗教色に代わって、人々が集う場としての空気が醸成されていることを感じる。

  事実、当時のプロテスタント教会は、次第に人々の集まる公共の場としての役割も強めていたようだ。ウィッテが描いたデルフトの著名な教会堂の作品を見てみよう。あれ! この子供たち、そしてワンちゃんは神聖な場で、いったいなにをしているのでしょう (落書きは人間のさが?)。

  こうした作品が制作され、容認されたことは、教会が開かれた公共の場と変化し、新たな市民たちの教会イメージが生まれつつあることを如実に示しているようだ。そこは「イタリアの光」はもはや感じられず、明らかにオランダ、ネーデルラントの光が差し込む空間となっていた。教会画を含むオランダ美術については、「不毛な自然主義」という厳しい批判も提示されたが、この問題についてはいずれ改めて考えよう。




Emmanuel Witte. Interior of the Oude Kerk, Delft 150-52. Oil on panel, 48 x 35 cm, Metropolitan Museum of Art, New York.(detail)

Reference
Mariet Westermann. A Worldly Art: The Dutch Republic 1585-1718, Yale University Press, 1996.


 

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イタリアの光・オランダの光(8)

2008年06月28日 | 絵のある部屋


Pieter Jansz Saenredam. Interior of the Choir of St Bavo at Haarlem, Panel, 82 x 110 cm. Philadelphia Museum of Art, Philadelphia, Penn., 1631. 

  初めてこの画家の作品に接した印象は、文字通り衝撃的だった。教会の内部であることは分かったが、まるで現代のコンクリート打ち放しの建物のように見えた。しかし、すぐに17世紀前半に描かれた宗教改革後のオランダ、プロテスタント教会の内部であることに気づく。  

  17世紀のヨーロッパ美術に多少のめりこんで見ていると、いつの頃からか画家や作品と宗教の関わりを思うことが多くなった。この時代、精神世界も文字通り大転換期だった。ながらくヨーロッパ世界を支配してきたカトリックの基盤は、プロテスタントの台頭により根底から揺らいでいた。なかでも、ヨーロッパの新教世界の中心的地位を占めるにいたったオランダ(ネーデルラント)の変化は劇的だった。  

  聖像、祭壇画などで埋め尽くされたカトリック教会を見慣れていると、この時期に描かれたネーデルラントの教会画は衝撃としてか言いようがない。教会は社会変化の基点だった。

  この当時描かれた教会の多くは16世紀半ばまでは、カトリック教会であったものであり、長年にわたり祭壇、聖像などの装飾で充たされていた。しかし、80年戦争ともいわれる新旧教対立の間にプロテスタントのものとなり、カトリック色は一掃された。

  1566年、カトリック教会の聖画像を破壊する「偶像破壊運動」iconoclasm によって、ほとんどの装飾は取り払われ、天蓋、壁面も白色に塗り改められた。描かれた教会の多くは、こうした改装なって日が浅いものと思われ、プロテスタント、とりわけカルヴァン派の教会のあるべき姿を具現している。聖像、装飾で埋め尽くされたカトリック教会を見慣れていた人々の目には、今日われわれが感じる以上の壮絶な衝撃であったことは想像に難くない。描かれた教会は、今日訪れてもいずれもかなり大規模なものであり、改修にも多大な年月、費用を要したものと思われる。 

  この時代の教会、市ホールなど建築絵画の専門家として、多数の作品を残しているピーテル・ヤンス・サーエンレダム Pieter Jansz Saenredam (1597, Assendelft-1665, Haarlem)は、精密なデッサンに基づき、きわめてモダーンな印象を与える教会画を描いた。時には実測までしたらしい。15歳の頃からハールレムに移り住み、死ぬまでそこに住んだ。父親は版画家で印刷屋だったらしい。イタリアなど外国へ行った様子はない。10年ほどグレバー Frans Pietersz.de Grebber の工房に弟子としていたようであり、1625年に画家ギルド、聖ルカ組合の組合員になっている。  

  活動した時代は、ほぼレンブラントと同じ時期である。この時代の宗教環境を推察するに貴重な記録である。サーエンレダムは自分の好んだ教会を対象に、鉛筆、ペン、チョークなどによる精密なデッサンに、絵の具で色彩を加え、陰影の微妙な変化を描いた上で、自分の工房で油彩に仕上げたらしい。  

  文字通り、建造物を描いた「教会画」ジャンルの先駆者であり、専門画家だった。画家の作品は50点近くが現存しているが、ほとんどすべてが教会を描いたものだ。アッセンデルフト、ハールレム、アムステルダム、ユトレヒト、アルクマール、ヘルトーヘンボッシュ、レーネンなど、対象が確認できる精確な作品群を残している。作品は実に詳細に細部まで書き込まれ、画家が制作過程に費やした時間と労力を髣髴とさせる写真のごとき見事さだ。ユトレヒトの教会を描いた作品(下掲)など、建築家が職業上、設計のために描いたのではないかと思うほどだ。


  
Drawing by Pieter Janszoon Saenredam  (1597-1665): Interior of the St. Martin's Dom in Utrecht

  とりわけ、画面全体に漂う空気の静謐な爽やかさであり、光と影の微妙な美しさが印象的である。サーエンレダムとその仲間の画家たちは、かつての教会画に特有な宗教性よりも、教会建築が見せるバランスとシンメトリーを重視した。サーエンレダムの作品には教会外部より内部を描いたものが多いが、オフ・ホワイトな天蓋や壁面が作り出す独特の美しさが印象的だ。視線を低いところから上方を見上げる構図で、教会の空間の広さ、壮大さを強調している。教会内にいるはずの人物なども、しばしば描かれず、建造物自体の美しさや雰囲気の再生に力点が置かれている。    

  改革者としてのカルヴァンが考えていたことが、どれだけこうした現実の教会に具現していたかは、必ずしも分からない。しかし、この教会画に見る光と陰影、それらが一体となった斬新なアイデンティティは、新教国として独立したオランダが目指したものであった。中世以来の重厚、華麗な教会を見慣れた人々の目に、この簡素な空間に光が差し込んだ教会は、新生オランダ共和国のあり方を象徴する場として清爽な印象を与えたに違いない。

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イタリアの光・オランダの光(7)

2008年06月22日 | 絵のある部屋

Prometheus Being Chained by Vulcan by Baburen, dirck (Jaspersz) van, 1623, Oil on canvas, 202 x 184 cm. Rijksmuseum, Amsterdam  

   17世紀への興味は尽きない。 テル・ブリュッヘンについては、最近、興味深い新たな知見も得て、一段と関心も深まった。好奇心を呼び起こしてくれる画家の一人だ。次の連想につながる材料も多い。しかし、17世紀ユトレヒトのカラヴァジェスティは、テル・ブレッヘンばかりではなかった。  

  17世紀初めのイタリアは、その盛期は過ぎたとはいえ、ヨーロッパ中から画家など多数の芸術家を誘引していた。テル・ブリュツヘンと並び、バビュー
レン、ホントホルストの3人がほぼ同じ時期にローマへ行き、ユトレヒトへ戻ってきた。とりわけ、バビューレン(バブレン) Dirck Jaspersz. van Baburen (c. 1595 – February 21, 1624) は、ユトレヒトへ戻り、おそらくテル・ブリュツヘンと一緒に工房活動をしていたと推定されている。今日、残るバビューレンの作品は少ないが、この画家の手による上掲のような作品を見ると、一瞬これはカラヴァッジョではないかと思うほどだ。カラヴァジェスティの面目躍如?ともいうべきか。

  バビューレンの作とされる、この「ヴァルカンによって鎖につながれるプロメテウス」。カラヴァッジョの「聖パウロの回心」(Santa Maria del Popolo, Rome:下掲)の逆さまになった聖パウロを、バビューレンの主題では天上から火を盗み人間に与えたために罰せられたプロメテウスに置き換えている。マーキューリーが眺める中で、火の神ヴァルカンはプロメテウスを岩に結びつけようとしている。鷹が肝臓をむさぼる責め苦に耐えるプロメテウス。この神話の題材で、バビューレンは光と影を巧みに駆使し、日焼けしたふつうの人間の群像として描いている。構図は疑いもなくカラヴァジェスティのものだが、カラヴァッジョよりも陰影のコントラストが穏やかであり、自然な感じを与える。その代わり、カラヴァッジョのような強烈なインパクトはない。生まれ育ったオランダと、憧れて滞在したとはいえ異国の地、太陽が燦然と輝くイタリアの光の違いが、画家の本性の部分を支えているのだろう。(汗をかく前に蒸発してしまうのではと思うほどの強い日差しの下、ジェラートとミネラルウオーターの瓶に支えられて、炎天下を歩き回ったローマの旅を思い起こす。ローマは訪れるたびに暑くなっている感じがする。)



Caravaggio (Michelangelo merishi), The Entombment 1602-03 Oil on canvas, 300 x 203 cm Pinacoteca, Vatican

  記録によると、バビューレンは1611年にユトレヒトの聖ルカ・ギルドにパウルス・モレールス Paulus Moreelseの弟子として、加入している。このモレールス自身、イタリアへ旅したようだ。後にユトレヒトの市長になっている。残念ながら、この親方の作品を見たことはないが、カラヴァジズムがしっかりと刻み込まれた弟子の作品とは、対照的で、バビューレンがかつて親方の下で徒弟修業をしたとは考えられないほどの違いらしい。

  バビューレンは、1612年から1615年の間のどこかでローマへ出立した。ローマでは、(ほとんどなにも記録が残っていない画家だが)同郷のダヴィッド・デ・ハエン David de Haen と共に仕事をした。そしてカラヴァッジョにきわめて近い信奉者だったバルトロメオ・マンフレディBartolomeo Manfredi (1582-1622)の画家グループに入り、同じ教区であったこともあって親しくなったようだ
。 マンフレディはカラヴァッジョの最初でしかも最も独創的な信奉者として知られる。従来の神話や宗教画ばかりでなく、音樂師、カードプレイヤーなどを題材にカラヴァッジョ・スタイルを積極的に持ち込んだ。後に17世紀ドイツ人画家で評論家のサンドラールトによって「マンフレッド技法」 Manfrediana methodus ともいわれる独特な領域を切り開いた。

  ローマに住んだバビューレンは、美術品収集家やパトロンとなったギウスティニアーニ、ボルゲーゼ枢機卿などが注目を寄せる画家となった。そして、多分彼らの推薦で、1617年頃にローマ、モントリオのサン・ピエトロ、ピエタ礼拝堂の祭壇画を描いたらしい。

  バビューレンは17世紀のローマで活動していたオランダ語を話す芸術家で「同じ色の鳥たち」"Bentvueghels" と言われている仲間の一人だった。さらに、ビールの蝿"Biervlieg" とあだ名がつけられたほど、酒飲みでもあったらしい。 1620年の後半にバビューレンはユトレヒトへ戻り、、1624年に死ぬまでの短い期間に、主として神話や歴史画、そして音楽師、カードプレイヤー、娼館の女(女衒)など世俗的な主題のジャンルで先駆的な作品を制作した。この画家についても残る記録は少ないが、あのコンスタンティン・ホイヘンスは、バビューレンを17世紀初期の重要なオランダ画家の一人にあげている。

  バビューレンのよく知られた作品の一枚「娼館の女将」The Procuress (Museum of Fine Arts, Boston:下掲)は、かつてフェルメールの義母が真作(あるいはコピー)を所有しており、フェルメール作品(「ヴァージナルの前に座る女」と「合奏」)の中に描き込まれている。フェルメール自身、同じ主題の作品を試みている。当時流行のテーマであり、無視できなかったのだろう。ところで、バビューレン作品で、右手に描かれた人物の性別は

  この主題の作品の出来映えは、フェルメールよりバビューレンの方が、一枚上という感じがする。両者の作品の美術史上の評価については専門家*に任せるとして、フェルメールのこの作品は2番煎じの感があり、平凡で迫力がない。他方、バビューレンの作品は簡明直裁、ダイナミックだ。カラヴァッジョ、マンフレッディの画風を受け継ぎ、ユトレヒトに斬新で、革新的な画風を持ち込んだ画家の活力が伝わってくるようだ。


Dirck van Baburen The Procuress 1622; Oil on canvas, 101.5 x 107.6 cm; Museum of Fine Arts, Boston


Vermeer van Delft, Jan
The Procuress, 1656
Oil on canvas, 143 x 130 cm
Gemäldegalerie, Dresden
 

? 美術史家によると、old-woman とのこと。

* たとえば、小林頼子『フェルメールの世界』日本放送出版協会、1999年、pp.49-50

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フェルメールとアメリカ

2008年06月17日 | 絵のある部屋
 

 梅雨入りを前に北方へ短い旅をした。退屈しのぎに機内で手にしたANA広報誌『翼の王国』(6月号)で、「アメリカの夢 フェルメールの旅」という一文を読む。といっても、実際にはこれから6-8月、3回に分けて連載される予定の第一回である。筆者紹介によると、福岡伸一さんという分子生物学者が書かれている。最近、『生物と無生物のあいだ』(講談社現代親書、2007年)という書籍で、第29回サントリー学芸賞を受賞された方のようだ(といっても、私はまだ読んでいないし、著者についても寡聞にして知らない)。

 このところのフェルメール・ブーム*で、またかという思いが一瞬頭をかすめたが、それだけになにか新しいことが書かれているのではと思い、読み進める。アメリカには、フェルメールのおよそ37点といわれる現存作品の実に15点がある。ワシントンD.C.に4点、ニューヨークに8点、その他に3点と分布している。どうも、著者のねらいは、このアメリカが所有するフェルメール作品を訪ねる旅にあるようだ。ただ、それだけでは、同様なテーマの書籍もあり、興味は湧かない。もう少し読むと、どうやらフェルメールの作品が大西洋を渡り、アメリカの画商や富豪の所有になった20世紀初頭にスポットライトが当てられるようだ。そして、同じ時期にはるばる太平洋を渡り、日本からアメリカにやってきた野口英世との関係に、テーマ設定がされるようだ。「されるようだ」というのは、まだ連載の1回目なのでやや見えないところがある。今回はワシントンD.C.の国立美術館 National Gallery of Art 所蔵のフェルメール作品が主たる話題とされている。

 どうやら、野口英世はフェルメールを見ただろうかという謎解きがなされるようだ。野口英世については、改めて記すまでもないだろう。日本銀行紙幣の肖像にも使われた日本の誇る偉人だ。年譜によると、明治9年(1876)に会津、現在の猪苗代町に生まれ、1900年に渡米し、特にニューヨークで20数年を過ごした。1915年に一時帰国した以外は日本に帰ることなく、1928年アフリカで研究対象の黄熱病に罹患し、51歳の人生を終えた。小学校の教科書にも頻繁に出てきた、世界を舞台に縦横な活動をしたスケールの大きな日本人だ。

 かつて、10代の頃、福島県土湯峠近くの温泉宿をベースに、近くの吾妻小富士、一切経山、吾妻山などに何度か登ったことがあった。その折、土湯峠から猪苗代湖側に降りて、野口英世の生家を訪ねたこともあった。土湯峠からは眼下に猪苗代湖などが光って見えたことが残像として残っている。吾妻スカイラインという回遊道路が存在しなかった時代である。そういえば、野地温泉から鬼面山、箕輪山、鉄山、安達太良山へと縦走したこともあった。安達太良山は今はロープウエイもあって観光地になっているようだが、当時は人影も少なかった。なんとなく、懐かしい気持ちも生まれてきた。

 閑話休題。福岡さんがフェルメールを野口英世は見ていたと推理するのは、可能性としては十分ありうることだ。このブログでも、メトロポリタン美術館がその初期からオランダ絵画の収集にきわめて力を入れていたこと、同館がいかにしてレンブラントやフェルメール作品を所有するにいたったかなどを記したことがあった。ニューアムステルダムの市民は、当然オランダの美術に大きな関心を抱いていた。しかし、野口英世がワシントンD.C.でフェルメールを見た可能性はきわめて薄い。

 野口英世の趣味のひとつが油彩画を描くことであったことは知られており、そのつながりから当時、ニューヨークの富豪の邸宅などに飾られていたフェルメール作品などを目にしたことは十分ありうることだ。野口英世はこの時代の多くの知識人がそうであったように、生活や研究のあれこれを子細に記録していたようだ。もしかすると、日記などに記されているのかもしれない。

 さらに、野口英世の趣味のひとつは油彩画であった。ニューヨークの邸宅で制作をしたらしい。野口英世の揮毫は見た記憶があるが、残念ながら油彩画は見ていない。しかし、この多忙な人物が油彩を趣味にし、ニューヨークに活動の本拠を置いたとなると、福岡さんの仮説はかなり確実に立証できそうな気がする。いずれ連載を読む機会があるだろう。楽しみにとっておきたい。

 19世紀末から20世紀大恐慌までのアメリカは、実にダイナミックで興味深い時代だ。次回には、フェルメール作品の取引に絡んだ今も残る画商ノードラーの話も取り上げられるようだ。読んでいる間に、脳細胞が刺激を受け、あの富豪たちと画商の駆け引きなどが目前に浮かんできた。画商デュビーンについても、いずれ掘り下げてみたい気がしている。


*  今夏から年末にかけて、東京都美術館で「フェルメール展」が開催される。
http://www.asahi.com/vermeer/

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お見落としなきよう:メトロポリタン

2008年04月25日 | 絵のある部屋

Johannes Vermeer(Dutch, 1632-1675). A Woman Asleep at Table, c. 1657
Oil on canvas, 87,6 x 76,5 cm
Metropolitan Museum of Art, New York


  メトロポリタン美術館などニューヨークの美術館に関しては、個人的には興味深いことが多々あるのだが、少し深入りしてしまった。折からのゴールデン・ウイーク、この辺で中休みとしよう。それでも、この連休にメトロポリタンを訪れる方もおられるかもしれない。ひとつだけ記しておきたい。

  メトロポリタンのヨーロッパ美術、とりわけオランダ絵画部門は大変充実しており、「オランダ回廊」Dutch Galleries があり、「フェルメールの部屋」もある。この部屋には、レンブラント、フェルメールを始めとして、多数のオランダ絵画が展示されている。しかし、日本からはるばる見に行った知人から、メトロポリタンは大きすぎて疲れる、フェルメールにしても、同じ部屋になぜ全部一緒に展示していないのかという感想を聞いたことがある。確かに同館所蔵のフェルメールの作品は全部で5点(5点も!)なのだが、「フェルメールの部屋」にそのすべてが展示されているわけではない。

  メトロポリタン(所蔵点数200万点を越える)に限らず、ルーヴル、プラドなどの大美術館は時間に限りのある旅行者としてみると、展示点数が多すぎて疲れるし、見たい名画も多く注意力も散漫になる。あらかじめ、お目当ての作品に目星をつけて観ることにして、後は時間と気力・体力が許す限りにするのがよいかもしれない。個人的には小さな美術館がはるかに好きだ。

  5点のフェルメールのうち、
1点だけ別の部屋、「アルトマン回廊」 Altman Galleriesに展示されているのは、メトロポリタン発展の歴史を知る上で興味深い。ブログにも記したが、遺贈者アルトマンからの条件として、作品を館内でばらばらにしないでほしいとの制約がつけられていた。そのため、遺贈目録に含まれていたフェルメールの「眠る女」A Maid Asleep(上掲イメージ)だけは、近くの「アルトマン回廊」に展示されている。メトロポリタン美術館にとってアルトマン遺贈は、空前絶後の大規模な遺贈でもあり、その絶大な好意に応えたのだ。こうした例としては、同様な大遺贈でもある「ロバート・リーマン・コレクション」(いずれ記すことがあるかもしれない)などがある。

  こうした遺贈・寄贈者の遺志や希望は、今では必ずしも受け入れられないが、「ロバート・リーマン・コレクション」や
「アルトマン回廊」は特別の計らいであった。それだけ、これらの遺贈がもたらした重みが大きかったといえよう。別の美術館の例になるが、メトロポリタンの近くにある「フリック・コレクション」のように、所蔵作品を門外不出とする条件がついているような場合もある。

  さて、メトロポリタンが今日所蔵する5点のフェルメール作品の中で、一番新しく追加されたものが、「ある少女の像」Study of a Young Woman (下掲)である。

  


  

Johannes Vermeer(Dutch,1632-1675), Study of a Young Woman, ca.1665-67. Oil on canvas. 17 1/2 x 15 1/4 in.(44.5x40cm). gift of Mr.and Mrs. Charles Wrightsman, in memory of Theodore Rousseau Jr.,1979 (1979.396.1)

  第二次大戦後、メトロポリタンへの遺贈・寄贈はピークは過ぎたが、1970年代におけるひとつの注目すべき高まりが、この作品を含めたライツマン夫妻 Charles and Jayne Wrightsman の寄贈であった。石油産業で富を成し、長らく同美術館の理事も務めていたライツマン夫妻は、このフェルメール作品を含めて、およそ60点の作品を寄贈してきた。戦後ではかなり大規模な寄贈者になる。

  この「ある少女の習作」は、フェルメールが描いた3点の「トローニー」 tronie (オランダ語)の一枚ではないかとされてきた。「トローニー」は今は使われなくなった用語だが、17世紀オランダで、頭、顔あるいは表情を意味する人物画のひとつのタイプを意味している。レンブラントやそのグループの作品にその例が見られる。オランダのトローニー作品は、ほとんどモデルがいたといわれているが、通常の肖像画とは異なる。

  後者は、しばしば依頼に基づいており、描かれたモデル(model, sitter)にどれだけ近似しているかが、ジャンル判別の特徴である。さらにモデルの尊厳の維持が暗黙に問われている。他方、前者トローニーは一見肖像画に見えるが、画家の目指すところは習作にあったと思われる。そこで追求されたのは、人物の表情、タイプ、画家に興味ある容貌(外国人、若い女性?など)であった。さらに、モデルが身にまとう衣裳の珍しさ、外国風、古風、高価で豪奢なこと、そして画家が自らの技術の高さを示すに都合がよいと思うものなどが選ばれ、作品として描かれた。美的洗練度、普遍性、美術的実験など、「モデルへの近似性」以外の要因のウエイトが大きい。17世紀オランダには、トローニーへの需要はかなりあったようだ。特定個人に帰着する肖像画と違って、美術市場での商品性も高かった(肖像画の場合でも、実物以上に見目良く描かれている場合が多いが、究極には依頼者など、特定のモデルにどれだけ似ているかが、問われたと思われる)。

  1696 年にアムステルダムで行われた、美術界では著名なディシウス Dissius の競売の際の説明に、フェルメールの作品の中に3点のトローニーが含まれていると記されていたらしい。そのうち1点は古風な衣裳で描かれていたともいわれる。しかし、ここに掲げた作品が、それに該当するか、実際のところはよく分からない。

  1829年までこの作品が、ベルギー、ブラッセルのアレンベルグ公 Prince auguste d'Arenberg のコレクションに含まれていたことはほぼ確からしい。1850年代末までは作品の所在は判明していたが、第一次大戦勃発とともに、アレンベルグの子孫たちが、収蔵品を安全に確保するためにヨーロッパにあった城に隠匿していたようだ。アレンベルグは大戦中もドイツ国籍を所持していた。戦後、これらの収蔵品は押収され、「敵性財産」として売却されたが、フェルメールのこの作品はどういうわけかその対象指定から免れていたようだ。1950年代半ばに突如として市場に姿を見せた。そして、1955年にアメリカの富豪チャールス・ライツマンがアレンベルグの子孫から$325,000で購入した。

  この作品、フェルメールの作品の中では保存状態がよいといわれている。実物に接してみて、確かに画面が大変美しく保たれている。しかし、少し注意深くみていると、なんとなく不気味な感じがしないでもない。実際にこうしたモデルがいたのだろうか。あの「真珠の耳飾の少女」これもクローニーとの推定もある)とも異なる雰囲気が漂っている。実際の人間ではなく、別の世界から来たようにさえ思える。少女を描いたようではあるが、顔がのっぺりとしていて、少年でもよいような、なんとなく中性的な感じだ。じっと見ていると、魅入られるような気持ちになってくる。そろそろ退散しよう。

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