時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

よみがえったブルッヘン

2008年04月13日 | 絵のある部屋

The Crucifixion with the Virgin and Saint John, ca. 1625
Hendrick ter Brugghen (Dutch, 1588�1629)
Oil on canvas; 61 x 40 1/4 in. (154.9 x 102.2 cm)
Funds from various donors, 1956 (56.228)



  美術館が所蔵する作品の中には、数奇な運命を辿ったものもある。作品の来歴 provenance を見ることで、時には思いがけないことを知ることができる。波乱万丈の自伝を読むような気がすることもある。メトロポリタン美術館の歴史にそのひとつの例を見た。

  1956年、メトロポリタン美術館は、カラヴァッジォの流れを汲んだユトレヒトの画家ヘンドリック・テル・ブルッヘンHendrick ter Brugghen(1588-1629)の手になる「キリストの磔刑」The Crucifixion with the Virgin and Saint John (ca.1624-25)を購入した。この作品、テーマやイメージから見て個人の礼拝堂か“隠れた”カトリック教会の祭壇を飾っていた作品と考えられている。一見して、その古風な様式や雰囲気から、このブログでも話題としたことのあるアルブレヒト・デューラー(1471-1528)やマサイアス・グリューネヴァルト(1475・80―1528)を思い起こさせる。実際、そう考えられたこともあるらしい。さらに、ブルッヘン自身もカトリックではないかと推定された(今日では、誤りとされているようだ)。

  よく見てみると、グリューネヴァルトの作品にも大変似た様式で描かれたものがある。しかし、陰鬱な印象が強いグリューネヴァルトと比較して、こちらは色の使い方、光など、なんとなく新しさを感じる。実はブルッヘンは、友人であったホントホルストと並び、かなりごひいきの画家なのだが、この絵はあまり好みではない。

  この作品、実は初期の来歴は闇に包まれている。最新の調査の結果では、1624-25年頃の作品と推定され、19世紀後半から20世紀中頃まで80年近くの間、ロンドンのサウス・ハックニーにある小さなヴィクトリア風の教会クライスト・チャーチの小礼拝堂に掲げられていたことが分かっている。ルーベンスの「キリストの降架」Deposition のコピーと並んで掲げられていたらしい。その当時は作品自体がかなり汚れており、ラベルもなにもついていなかった。クライスト・チャーチ最後の司祭の息子にあたるニジェール・フォクセルNigel Foxell によると、イタリア、カラッチ派の画家の作品とされてきたらしい。

  これから明らかなように、当時は作品につけられていたブルッヘンのモノグラム HTBに、誰も気づいていなかった。このモノグラムは後になって発見されたのだが、作品に描かれている十字架の下部、頭蓋骨の上辺りに記されていた。なぜ、モノグラムに気づかなかったのだろうか。保存状態があまりよくない教会堂で、画面が汚れており、読めなかったのかもしれない。確かに、この部分は暗色に塗られていて気をつけてみないと分からないと思われる。

  クライスト・チャーチは第二次大戦中に爆撃を受け、その後、1955年に撤去され、教会自体が消滅してしまった。幸いブルッヘンの作品とルーベンスのコピーは、画家や来歴などを調べられることもなく、近くのより大きな教会であるセント・ジョン教会に移管された。戦後のどさくさで余裕もなかったのだろう。

  その後まもなく、フォクセルがこの教会に立ち寄り、自分の父親の教会にあった、あの「カトリックのような」“popish” 絵画はどうなっているか調べたところ、教会身廊nave の聖具室の屋根に画面を上にして放置されていたのを見つけた。漆喰や塵が作品の表面を覆っていたけれども、幸い特に損傷していないことが分かった。そこで、フォクセルは牧師に80ポンドという当時としてもささやかな額を差し出し、この絵を引き取った。

  その後、1956年の秋のこと、著名な競売会社サザビーズのスタッフがこの絵を鑑定し、ブルッヘンの作品であることを確認した。それを知って、フォクセルはこの作品をロンドンのオークションに出品した。結果として、ニューヨークのメトロポリタン美術館が、美術品ディーラーのハリー・スパーリングを介して落札した。価格は15,000ポンドという破格な高額だった。フォクセルは、この取引で得た利益をロンドンの教区へ寄付した。

  ブルッヘンは、時に作品がラ・トゥールと間違えられたこともあるホントホルスト Cerrit van Honthorst(1592-1656)などと同時代人である。ハーグに生まれ、1590年代にユトレヒトへ移った。この時代の多くの画家の憧れの地であったローマへ画業の修業に行っている。時期は1606年頃ではないかとみられ、カラヴァッジォが活躍していた時期と推定されている(カラヴァッジォは罪を犯し、1606年にローマから追放された)。その後、1614年にユトレヒトへ戻ると、伝統的なオランダ絵画の主題に新たな試みを持ち込み、宗教的あるいは世俗的主題において、当時の最新のイタリアの様式を導入した。それはカラヴァッジョの作品から学んだラディカルな自然主義とドラマティックなキアロスクーロ(明暗法)だった。ブルッヘンは蝋燭あるいは油燭の明かりによる独特な雰囲気を生み出した。

  かくして爆撃を受けた廃墟からよみがえった作品は、オークションという場を介して、大西洋を渡った。ブルッヘンは、ユトレヒト、オランダの画壇においても、アウトサイダーであり、孤立した存在だったとされている(しかし、研究は必ずしも十分なされているとはいえない)。この作品からは想像しがたいが、他の作品におけるリア
リスティックな描き方、光の使い方などから、ユトレヒトにおけるカラヴァッジョ風の画家と考えられている。その後のオランダ絵画への影響力はさほどではなかったが、その光と色の扱い方は、レンブラントやフェルメールの先駆者とみなされている。(ラ・トゥールとも大変近い点が処々に感じられるが、その問題はいずれ記したい。)

  ブルッヘンの「オランダ的でない」祭壇画は、自然な風景や人物画を好んだ19世紀末から20世紀初頭のアメリカの古い世代のコレクターにはアッピールしなかったようだ。当時の富豪や画商の「お買い物リスト」にも載らなかった。この意味でメトロポリタンがブルッヘンのこの作品を取得したことは、時代の嗜好の変化を示すものとして注目される。メトロポリタン美術館は、次第に自らの収集方針を明確にし、ある程度は自力で作品を購入できるまでに充実してきた。実際、このブルッヘンも、多数の個人の寄付金で購入されている。メトロポリタンは、富豪たちに支えられてきた状況から、自らの方針を持った美術館として独り立ちする日を迎えていた。画期的な転機が間もなくやってくる。



Reference
Walter Liedtke. Dutch Paintings in The Metropolitan Museum, Yale University Press, 2007.



  

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虚々実々:富豪と画商

2008年04月11日 | 絵のある部屋

The Allegory of the Faith
1671-74
Oil on canvas, 114,3 x 88,9 cm
Metropolitan Museum of Art, New York
    


 20世紀初頭、アメリカの富豪の財力には、改めて驚かされるものがある。いまや世界の美術館の羨望の的であるフェルメールの作品にしても、メトロポリタン美術館はこれまでついに自力では一点も購入できなかった。云ってみれば、富豪たちが代わって買ってくれたのだ。フェルメール・ファンが多い日本だが、かつてバブルに沸き立ち、ミリオネアが続出したにもかかわらず、国内には所蔵品は一点もない。企画展のたびに海外から借りてきて観客を集めている。貸し出す側にとっては、たぶん大きな収益源なのだろう。  

 アルトマンの画期的な遺贈に続いて、1920年代から1930年代にかけて、さらに多くのオランダ絵画の名作が、メトロポリタン美術館のコレクションに加わった。その中でも特記すべきは、アルトマン百貨店 B. Altman, Co.の経営者であったアルトマンの甥にあたり、共同経営者として、そしてアルトマン没後は後継者として経営の任にあったマイケル・フリードサム Michael Friedsam (1585-1931)の遺贈だった。   

 1931年にフリードザムも亡くなると、オランダ絵画の名作を含む150点近い作品がメトロポリタンへ遺贈された。オランダ、フレミッシュ絵画に加えて、イタリアの貴重な絵画も含まれており、当時の価格で10,000,000ドルと評価された巨額な遺贈だった。オランダ絵画の中には、ルイスデールの「穀物畑」、ファン・デル・ネールの「本を読む女性」、レンブラントの「ベローナ」Bellona などの逸品も含まれていた。 とにかく、この時代の富豪の力は驚くべきものだった。その蓄財の秘密は、これまた大変興味深いテーマなのだが、ここでは立ち入ることを控えて、絵画の世界へ注目する。

大富豪が興味を示さなかったフェルメール  
 さて、このフリードザム遺贈には、メトロポリタン美術館にとっては、4枚目となるフェルメールの作品「カトリック信仰の寓意」 Allegory of the Catholic Faith も含まれていた。この作品は来歴 provenance を辿ると、最初1699年にアムステルダムで売りに出された後、いくつか所有者が転々とした後、オランダ美術の最初の専門家として知られるブレディウス Abraham Bredius が、1899年ベルリンの画商から購入した。購入価格はおよそ700ギルダーくらいと推定されている。当時は、フェルメールではない別の画家(Eglon van der Neer)の作品とも思われていた。

 ブレディウスは、当時ハーグのマウリスハイツ美術館の館長で、オランダ絵画の著名なコレクターでもあった。彼は作品を見るなり、フェルメールの手になったものと直感したらしい。しかし、ブレディウスは、この作品は好みでなかったらしく、「大きいが大変不器用なフェルメール」‘a large yet very awkward Vermeer.’ と評していた。   

 この絵はフェルメールの作品の中では数少ない宗教的テーマを扱ったものだが、他の作品ほど含意が見る者に伝わってこない。カトリック信徒である個人のパトロンあるいは小さな「隠れ」教会などが依頼したのものと推定されている(ちなみに、フェルメールはカルヴァン派であったが、結婚などを機にカトリックに改宗したのではないかとの議論がある)。フェルメールの現存する作品の中では、数少ない宗教的寓意を扱ったものだが、あまり人気を集めてこなかった。 確かに、美しく描かれてはいるが、訴えるものが少ない。画面には多くのものが描きこまれているが、散漫な感じがする。しかし、フェルメールの宗教的背景を推論するには大変興味深い作品として印象に残った。
  
 作品の解釈は専門家に任せるとして、印象としては富裕な「隠れ」カトリック教徒の家で、祭壇画風に飾られていたのではないかという気がする。プロテスタントの国オランダでは、十分ありうることではないか。そのために、依頼主の要請もあってやや過剰に、さまざまな寓意を籠めたものが描きこまれているような気がする。

モルガンはなぜ買わなかったか  
  さて、1911年12月ブレディウスは、この作品を鉄鋼業で財をなした富豪コレクターの J.P. モルガンに見せた。この頃までに、フェルメールの作品はアメリカでも人気が高まり、記録的な価格がつけられるようになっていた。モルガンは決断の早い人物といわれていたが、この作品には関心を示さなかった。モルガンは自分の好みに合わない作品は、世間でいかに人気があっても手を出さなかったようだ。ブレディウスが、「信仰の寓意」 について、いかなる評価をしていたのか、正確なところは分からない。しかし、フェルメールの作品であることを交渉材料に、どこかの富豪か画商に売りたかったのだろう。   

 この年は数少ないフェルメール作品が動いた年で、1月、フィラデルフィアのコレクター、ワイドナー P. A. B. Widenerは、フェルメールの「天秤を持つ女」 (現在National Gallery of Art, Washington, D.C. 所蔵)に115,000ドルの価格をつけ、相応する4点の作品と交換した。 同年、これも著名なコレクター、ヘンリー・フリック(フリック・コレクションの創設者) は、彼の2枚目のフェルメールとして、「士官と笑う女」 (Frick Collection, New York所蔵)に225,000ドルを支払った。   

 ブレディウスが1899年に入手した「寓意」の価格は、大変安く、700ドイツマルク以下だったといわれる。モルガンに売りそこなったブレディウスは、結局パリの画商に手放してしまう。そして、ほぼ30年後の1928年、マイケル・フリードザムは、300,000ドルというかなりの額を支払って入手した。 この作品も、フリードサムの死後、メトロポリタンに遺贈されたことは前回に記した。

絵画コレクションは富豪の条件?   
 この時代、アメリカには数多くの富豪が生まれていたが、その多くが絵画の収集を行っていた。それが純粋な美術への愛好によるものか、有り余る資産の保有形態のひとつとしてなのかは、即断はできない。しかし、美術品収集は、この時代の富豪たちの多くが行っていた時代のファッションだった。アンドリュー・メロンやヘンリー・C・フリックのように、自ら大西洋を渡って状況視察や買い付けを行っていた者もいた。ニューアムステルダムといわれたニューヨークでは、オランダ絵画の収集欲は大変高まっていた。その中でも、レンブラント、フェルメール、ルイスデール、ハルズなどの巨匠の作品は、所有しているだけでもコレクションの価値がランクアップすると考えられ、驚くべき高額で取引されていた。しかし、舞台裏では悲喜こもごもなエピソードもあった。その一つを記しておこう。

画商デュヴィーンの掌の上?    
 株式ブローカー、ジュレス・バチェJules Bache (1861-1944) も著名な画商ジョセフ・デュヴィーンを介して、コレクションを築いていた。この画商は、当時の美術品取引の多くの場面にその名が出てくる著名人物である。以前に記したように、ヨーロッパと新大陸を股にかけて、大きな事業を展開していた。旧大陸の没落貴族と新大陸の新興富豪が、彼の重要な顧客だった。アメリカの富豪で、デュヴィーンを介して美術品を購入しなかったのはないくらいだった。デュヴィーンの片腕として働いたベルナール・ベレンソン Bernard Berenson は、時には怪しげで、後に疑問符がつくようなお墨付きまで添えて、作品を売りまくった。画商と顧客としての富豪の関係は、虚々実々、騙し合いのようなところがあった。富豪も画商なしには、作品の在り処や真贋を確定することはできなかったし、画商は高く買ってくれる顧客としての富豪は、おろそかにはできない存在であった。   

 デュヴィーンは、ヨーロッパ美術市場の細部にまで通暁した辣腕の画商とも言わていた。かなり強引な取引もしたようだ。他方、作品や位置づけについては、他の画商より抜きん出た情報を持っていた。そのため、多くのコレクターがこの画商に依存していた。このデュヴィーンという画商は、毀誉褒貶の多かった人物であり、オランダ系ユダヤ人が出自のイギリス移民だった。同じく美術品のディーラーだった父親の後を継いで、美術品取引の世界に入るが、それまでの画商のイメージとは大きく異なる路線を歩いたようだ。これも、大変面白い部分であり、いずれなにかの折に立ち入ってみたい。   

 他方、バチェはまったく自分の所有欲や満足感のために絵画を収集し、それを公開することなど考えていなかったようだ。しかし、デュヴィーンの美術作品についての目利き、評価については、絶大な信頼を置いていた。その後、画商デュヴィーンの巧みな説得が功を奏して、次第に考えを変えていった。デュヴィーンは時代の流れを読み、美術品の私有から公有、公開への道を示唆していた。画商として、かなり開けた考えも持っていたようだ。   

 バチェの死後、5年が経過した1949年、遺言に基づき、メトロポリタンは、彼のコレクションから60点以上のヨーロッパの古い巨匠の作品の寄贈を受けた。その中には、数点のオランダ絵画の名品も含まれていた。

高くついた授業料?    
 バチェのメトロポリタンへの寄贈の中には、2点の“レンブラント”と言われた作品、そして ”フェルメール”では、といわれた作品も含まれていた。レンブラントと言われた作品については、学者や鑑定家などのお墨付きもつけられていたようだが、後年、真作ではなく、同時代の画家の作品とされた。生前、バチェはかなりの高額をもってこれらの作品を入手したのだが、その後2点ともに真作ではない、あるいは明らかな贋作であったことが判明している。富豪もかなり高い「授業料」を支払ったようだ。   

 バチェはことのほかフェルメールがお気に入りで、この画家の作品を取得できれば、自分のコレクション自体が一段とレベルアップすると思っていたらしい。 1928年という年は、画商デュヴィーンにとって大きな商談が成立した年といわれているが、顧客であったバチェも、待望の“フェルメール”を入手できたと思った年だった。しかし、それはまもなくぬか喜びに終わることになる。   

 画商デュヴィーンは、アメリカの富豪たちに作品を売りつける反面で、かなりのフィランスロピックな寄付もした。イギリスの多くの美術館に美術品を寄付したり、美術館や画廊の補修や拡大のための助成もしている。こうした貢献が認められて、1919年にはナイトの称号を授与され、1933年にはバロンになっている。   

 バチェが、ウイルダーシュタインという画商から134,800 ドルという高額を支払って入手した「本を読む若い女」A Young Woman Reading という作品があった。これについても著名な学者、鑑定家の積極的評価がつけられていた。しかし、その後の鑑定で、バチェが取得した1928年の少し前に作られた現代の贋作であることが判明した。当時のアメリカ美術市場での過熱した「フェルメール病」につけこんだものと推測されている。   

 大変興味深いことは、これら問題の贋作は、公開されることはないが、メトロポリタン美術館の倉庫に保管されているらしい。巨匠の名前だけを追った富豪たちの美術熱も、危うい部分を含んでいることを如実に示している。ともすれば、資金力に物言わせた買い漁りといわれてきたアメリカの富豪コレクターの美術趣味も、時にはこうした手痛い経験をしながらも1940年代には、ヨーロッパと十分に肩を並べる水準に達したといわれるまでになった。   

 第2次大戦後になると、アメリカの美術館のコレクションの充実も地に着いたものとなり、メトロポリタンにとどまらず、公私多数の美術館が生まれ、バランスの取れたコレクションが生まれるようになった。遺贈・寄贈は美術界での大きな流れとなるとともに、美術館自体の基金も個人の寄付金などによる支援体制が充実・拡大し、安定した運営が行われるようになった。富豪やその身近にいる人々以外、見ることができなかった名作の数々は大邸宅を出て、市民が集う美術館へ滔々と大河のように流れ出した。

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後の世に名を残す方法

2008年04月06日 | 絵のある部屋


上掲の作品は、今どこにあり、誰が寄贈したものでしょうか。この問に直ぐに答えられ方は、相当の美術館通でしょう(答は以下に)。

富豪たちの競う場 
  アメリカには実に多数の美術館があるが、その代表というべきものが、ここで話題としているニューヨークのメトロポリタン美術館である。ルーブル、プラドなどと並ぶ世界的な美術館である。美術館としては、巨大すぎて取りつきにくいのだが、さまざまな点で別の興味を引き出してくれる。いわば百科事典のような存在だ。個人的にも思い入れのある場所である。脳の奥底に埋もれてしまった記憶を引き出す糸口として、書き出したら次々と思い出すこともあり、止まらなくなってしまった(?)。

  この巨大なメトロポリタン美術館も、1872年にニューヨーク市5番街681番地のダンシング・アカデミー跡に開館した時の所有点数はわずか174点だった。それが、今では200万点を超えるというから信じがたいほどの驚異的な増加である。その発展の過程で個人などの寄贈、寄付が果たした役割はきわめて大きいことはこれまでにも記した通りである。

  寄贈者の名前が記されている銘板を見ると、富豪や名士ばかりではない。しかし、第二次大戦前についてみると、アメリカ史を飾る大富豪たちが所蔵していた素晴らしいコレクションが遺贈、寄贈などの形で美術館へ譲り渡され、その後の発展の基盤を築いたといっても過言ではない。 とりわけ、ここでとりあげているレンブラント、ヴァン・ダイク、フェルメールなどの17世紀オランダ絵画の名品は、富豪たちが競って収集する対象であった。

「金ピカ時代」の産物
  多数の富裕層が登場、活躍した「 金ピカ時代 Gilded Age (ca. 1875–1900)」と呼ばれる繁栄の時を含む19世紀末から20世紀初頭の美術品市場は、こうした富豪たちの財力、知力を駆使しての競り合いの場だった。その内側を少し覗き込んでみると、興味深い事実が浮き上がってくる。

    日本人が好きなフェルメールを例にしてみよう。現在、フェルメールの真作とみられるものは世界で35点前後といわれているが、アメリカ国内には12点が所蔵されている。そのうち8点はニューヨークにあり、その中の5点はメトロポリタン美術館が所蔵している。残りの3点は、フリック・コレクション(The Frick Collection, 1 East 70th Street, New York, N.Y., www.frick.org)の所蔵である。ちなみに、フリック Henry C.Frick(1949-1919) は、20世紀初頭に鉄鋼業で財を成した実業家である。

  さて、メトロポリタンの所蔵するフェルメールはすべて寄贈あるいは遺贈によるものだ。最初の寄贈は1889年、今のところ最後の寄贈は1979年ということになっている。参考までに、年代順に記すと:

「水差しを持つ若い女」1889年、ヘンリー・G・マルカンド寄贈

「リュートを弾く女」1900年、コリス・P・ハンティントン遺贈

「眠る女」1913年、ベンジャミン・アルトマン遺贈

「カトリック信仰の寓意」1931年、マイケル・フリードサム遺贈

「若い女の肖像」1979年、ライツマン夫妻寄贈

  こうした絵画のコレクターであった寄贈者たちは、いずれもアメリカ史に残る実業家たちであったが、その仕事の傍ら美術品の収集に力を入れてきた。その動機は個人的な楽しみ、投機的な対象、自らのコレクションの評価を向上させるためなど、さまざまであった。 マルカンドのように、純粋に美術を愛し、1870年の美術館設立の際に、1000ドルの寄付をしていたほどの富豪もいた。

  2点目のフェルメール寄贈者コリス・P・ハンティントン(1821-1900)については、以前のブログで記したが、成功した鉄道経営者だった。彼の妻のアラベラは、コリスのコレクションを充実させるに力を注いだ。1900年にハンティントンは亡くなったが、遺言でコレクションのすべてをアラベラに、アラベラの死後は息子アーチャーに、さらにその後はメトロポリタン美術館に寄贈するようにと、最終的な落ち着き先まで記されていた。こうなると、相続人も大変ですね。

  ベンジャミン・アルトマン(1940-1911)についても、前回記した。3点目の寄贈者である。アルトマンは、仕事以外は趣味の美術品収集だけが関心事だったともいわれる。とりわけレンブラントがお気に入りだった。アルトマンは1913年に亡くなる以前にコレクションのメトロポリタンへの遺贈を決めていた。その数は実に1000点以上、総額1500万ドルに達した。文字通り、美術館もびっくり! 

  彼の事業を引き継いだのは甥のマイケル・フリードサム(1860-1931)だった。彼は美術への関心もアルトマンから受け継いだようで、4点目のフェルメールは彼の寄贈となっている。

  そして5点目は戦後であり、オクラホマの石油王チャールズ・B・ライツマン(1895-1986)の寄贈によるものだった。ちなみに夫妻は共同して多数の名品を獲得し、作品をメトロポリタンへ寄贈した。ルーベンスの「ルーベンスと妻と息子」、ラ・トゥールの「悔い改めるマグダラのマリア」*も、このライツマン夫妻の寄贈である。

The Penitent Magdalen 1638-43 Oil on canvas, 133,4 x 102,2 cm Metropolitan Museum of Art, New York


  もちろん、メトロポリタンについても、富豪ばかりでなく、美術を愛好する一般市民を含め、寄贈、遺贈、寄付など、さまざまな形で貢献した人々は、数え切れないほど多い。しかし、美術館の創成期の基盤が、多くの富豪たちの善意によって築かれたことは、ほとんど明らかである。現世の毀誉褒貶を帳消しにし、後の世にその名が残る確実な方法だ。世のお金持ちの方々に、ご一考をお勧めしたい。

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北方への旅終着:フェルメール

2008年02月18日 | 絵のある部屋
The Little Street (detail) 1657-58 Oil on canvas Rijksmuseum, Amsterdam  

  「光の旅」第4回(2月18日「日本経済新聞」日曜日連載)は、やはりフェルメール Johannes Vermeer(1632-75)だった。今は大人気のこの画家も、不思議なことに20世紀初めまで長らく歴史の闇に埋もれて忘れられていた。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールやル・ナン兄弟と同じように「再発見」された画家の一人である。  

  ラ・トゥールの作品に最初に魅せられた頃、フェルメールも未だあまり知られていなかった。オランダでもニューヨークでも、美術館のフェルメール作品の前は、特に人が多かったわけではなく、きわめて楽に観ることができたことを思い出す。

  しかし、その後の人気の上昇ぶりは目を見張るばかりだった。今では大変集客力のある画家になっているだけに、美術館なども企画展を計画しやすいのだろう。今年も、東京都美術館などがすでに予定しているようだ。  

  1875年7月、オランダの美術紀行を著した、フロマンタン*も、フェルメール(ファン・デル・メール)については、次のように、きわめて短くしか記していない: 「「ファン・デル・メール」[フェルメール]はフランスではまだほとんど知られていない。そして、彼のものの見方にはオランダの画家の間でさえ非常に風変わりなところが多々あるので、オランダ美術の中のこの特異な存在についてぜひ詳しく知りたいと思う人にとっては、かの地へ旅行してみるのも無駄ではあるまい。」(邦訳p286)。  

  訳者によると、フロマンタンはルーブルなどが所有する作品に加えて、このオランダ旅行で他のフェルメール作品を見ており、「牛乳を注ぐ女」、「デルフトの小道」などの感想を本書の覚え書に、「ボンヴァン風、ミレー風、現代の素朴派風。抑制された雰囲気」[牛乳を注ぐ女の]手の色調――これこそ、今この画家がたいへんな人気を呼んでいる理由であることは間違いない」(邦訳 p286注)と記している。しかし、訳者注(上巻pp346-347)によると、フロマンタンは完成稿では、フェルメールについての論評部分を残していない。

  今の人々には不思議に思えるかもしれないが、1875年の段階ではフェルメールについての評価は、今日とはかなり異なったものであることを推測させる。この点は、ラ・トゥールについてもいえる。  

  他方、フロマンタンはライスダール、カイプ、フランス・ハルス、レンブラントなどには多大な紙数を割いている。画家の評価が時代によって大きく揺れ動くことが分かる。  

  フェルメールについての評価は、20世紀に入って急速に拡大する。しかし、その評価は必ずしも手放しに高いというわけではない。美術史家エリー・フォール**は次のように評している:
 
  デルフトのフェルメールはオランダを要約する。彼はオランダ人のあらゆる平均的な性質を持つが、それらをひとつに集中させて一回の筆さばきを最高の力までに高める。この男は、絵の具のもっとも偉大な巨匠だが、なんら想像力を有していない。自分の手の触れるものも彼方に行こうという欲求を彼は持たない。彼は人生を全面的に受け入れている。彼はその人生を確認する。彼は自分と人生の間に何も割り込ませず、熱烈な注意深い研究によって発見されたその輝き、強度、密度の最大限をそれに返すことに集中する。まさにレンブラントの対極である。レンブラントは、その時代にあって、彼を取り巻く市民階級の壮麗な物質的な流れをただ一人さかのぼり、それを通して、その力を全身に浴びながら、瞑想の無限の国々に到達しえたからである。 (エリー・フォール邦訳p113)

   受け取り方によっては、フェルメールにかなり厳しい評ともいえる。この画家についてはもう少し時間をとって考えてみたい。   


* フロマンタン(高橋裕子訳)『オランダ・ベルギー絵画紀行』上、下(岩波文庫、1992)

** エリー・フォール(谷川渥、水野千依訳)『美術史:近代美術[I]』(国書刊行会、2007)
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画家の命運:レンブラントとラ・トゥール

2008年01月07日 | 絵のある部屋
REMBRANDT Harmenszoon van Rijn
(b. 1606, Leiden, d. 1669, Amsterdam)
Self-Portrait, 1659
Oil on canvas, 84,5 x 66 cm
National Gallery of Art, Washington

    天才を見出した人々について記したことがある。まだ原石のうちに、秘められた宝石の輝きを見出しうる能力を持った人々である。しかし、画家の場合、そうした稀有な鑑識力のある人々の目にとまって幸い世に出たとしても、時代の経過とともに忘れられてしまうことも少なくない。ドゥ・メニル(ジョルジュ)・ド・ラ・トゥールはそのひとりであった。

  優れた美術史家エリー・フォールは、その壮大な「美術史」においてこの画家について触れ、「偉大な人間というものは、自分の立場でしか物事をみないどんな者たちの視線からも逃れてしまうのだ。痛ましい悲痛なる歴史。」(p175)と記している。このブログの読者はすでにご存知のとおり、ラ・トゥールという天才画家はその死後、急速に忘れ去られ、20世紀初頭になって闇の中から再び見出されるまではほとんど知られることがなかった。

    ラ・トォールについての認識度はその後急速に上昇していると思われるが、同時代の画家ではしばしばニコラ・プッサンのそれと比較されることが多い。プッサンが天才的な画家であることはいうまでもない。そして、フランスで生まれながらも、その生涯のほとんどをイタリアで過ごしたにもかかわらず、フランス人好みの画家でもある。フォールは「プッサンが存命中に体験した運命は、その才能の性質それ自体に帰せられるべきではなく、イタリアへのーーーーーその自発的な亡命、さらにまた彼をきわめて強く特徴づけている絵画とは別の力にも負っているといえよう。」(p174)といささか皮肉めいた論評を残している。

  フォールはさらにラ・トゥールについて、つぎのように言っている:

  「ここには同じようなものは何もない。世界に直接触れ、その視覚的感情のほかにはなんら媒介するもののない人間。彼に関しては、宗教画、あるいはむしろ《宗教的主題》、羽を欠いた天使などが語られてきた・・・・・・。それがわれわれにいったいどんな関係があるというのだろうか。どんな《主題》も、宗教をもって存在や事物に接近するものにとっては宗教的である。彼は聖人伝に人間性を感じるがゆえに、聖人伝をやすやすと人間性へ移し変える。ドゥ・メニル・ド・ラ・トゥールは、その時代にただひとりレンブラントと共に、おそらくジョット以後ただひとりレンブラントとともに、人間の心と肉体のなかに神々しさを見出したのだ。まさに奇蹟といえよう。彼は奇蹟以外のなにものでもない。《ロココ》と《バロック》、《明暗》と《現実》との和合をわれわれにもたらすのだから。現実こそは、われわれが体験し、力や愛とともに表現することのできるすべてなのだ」。(エリー・フォール邦訳、pp175-176)

  レンブラントとラ・トゥールを対比させ、論じている美術史家はきわめて少ない。しかし、この二人の天才は私にとっては、時に同一の人物ではないかと錯覚しかねないほど、多くの部分で重なっている。とはいっても、二人は同じ17世紀のほとんど同じ時期に(ラ・トゥールは12歳年上)その生涯を送ったが、同じヨーロッパとはいえ、オランダとロレーヌと主たる活動の地は離れ、相互に直接的交流があったとは思われない。お互いの存在自体を知っていたかも明らかではない。しかし、レンブラントの作品は数多く、当時のヨーロッパ世界に広がっていたので、少なくもラ・トゥールはレンブラントという画家を知っていた可能性は高い。

  二人の画家活動を取り囲む環境条件は大きく異なっていた。たとえば、ラ・トゥールはレンブラントが得意とした肖像画のジャンルでは、ほとんど作品を残していない。それにもかかわらず、この二人の個性的な画家の間には目に見えない血脈のようなものが感じられる。

  レンブラントは、修業時代を別として、アムステルダムというヨーロッパ有数の大都市の中で、前半の成功、栄光の座から後半の零落、貧窮という波乱の人生を過ごした。しかし、彼の画家としての基本軸は大きく揺れ動くことはなかった。世俗の生活面ではすさまじい変動を経験したとはいえ、レンブラントは画家としての姿を最後まで堅持した。

  他方、ラ・トゥールは戦乱、悪疫などがしばしば襲ったロレーヌの地で、画家としての環境は決して恵まれたものではなかった。その中で、画家は日常生活においては、時には傲慢とも見られかねない強い意志と対象への深い沈潜によって、激動の社会を生き抜いた。

The Quarrel of the Musicians. Detail. c. 1615. Oil on canvas. J. Paul Getty Museum, Malibu, CA, USA.


   レンブラントとラ・トゥールというそれぞれに個性の強い画家を比較することは、少なくとも今の課題ではない。 しかし、二人ともに、現実を鋭く直視し、人間の肉体と心の中に神性を見出した稀有で偉大な画家である。これまでの人生の途上で、この画家たちに出会い、少しばかり?のめりこんできたことが、単なる偶然ではなかったことを喜んでいる。

 

エリー・フォール(谷川握・水野千依訳)『美術史:近代美術[I]』(国書刊行会、2007 

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また忘れられた画家

2007年10月05日 | 絵のある部屋

Nicolas Poussin. The Shepherds of Arcadia. 1638. Oil on canvas. Louvre, Paris, France. 



    ある日深夜のBSハイビジョン、『あなたの知らないルーブル美術館』
という番組を放映していた。たまたま目にしたにすぎないのだが、表題ほどのことはなく、どこか別の番組で見たようなルーブルの表通りのイメージ紹介が多い。『あなたの知っているルーブル』といいたいような映像の連続。この頃、NHKは制作番組のPRと、同じテーマの繰り返し放映がかなり目につく。

  それでも、このブログにも登場する画家との関連で、記憶の再生に役立つ映像もなかったわけではない。番組の中、17世紀の紹介で、ルーベンスの連作「マリー・ド・メデシスの生涯」、レンブラント「バテシバ」、フェルメール「レースを編む女」が紹介された。

  ところがその後、「17世紀絵画展示室」まできたところ、「ここは観客が少ないのでゆっくり見られます」との解説。多分、他の展示室の作品より時間をとって放映してくれるのかと思ったところ、期待は見事裏切られてしまった。

 そこで紹介されたのは、クロード・ロラン「クレオパトラのタルサス上陸」、プッサン「アルカディアの牧人」、そしてル・ナン兄弟「農民の家族」だけであった。それにしても、プッサンの作品は主題を理解するのに、見る側の蓄積が要求されますね。

 今年オランジェリーは、「オランジェリー1934年:現実の画家たち」の特別展まで開催したのに、ラ・トゥールは素通り。1934年の特別展で「発見された」画家の代表は、ラ・トゥールとル・ナンだったはずなのだが。日本ではやはり知名度が低いことを再認識。なんとなく彼我のバイアスを感じてしまった。


*BS『あなたの知らないルーブル美術館」』(2007年10月2日)

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美術の秋に: ふたつのオランダ美術展

2007年09月28日 | 絵のある部屋

Flora
Rembrandt van Rijn
(Dutch, 1606-1669)
probably ca.1654, oil on canvas

100 x 91.8 cm.
Metropolitan Musem of Art, New York

  

    熱暑も過ぎて、秋の気配。「美術の秋」らしく、いくつかの美術展などの案内が届く。このところ自分で時間を割り振る自由が生まれてきて、ほっとする時が増えた。「忘れていた」自分が戻ってきた感じさえする。いくつか見てみたい美術展などもあるのだが、あの混雑を思うと二の足を踏む。

  国立新美術館では『フェルメール「牛乳を注ぐ女」とオランダ風俗画展』も始まったようだ。日本人は、フェルメール好きなのでさぞ混雑するだろう。サイトを見てみると、ただ今の混雑状況というのが分かるようになっている。親切な試みなのだが、これだけで、いささかへきえきしてしまう。人々の背中越しに見るフェルメールは、考えただけで足が遠のく感じ。

  折しも、ニューヨークのメトロポリタン美術館で9月18日に始まったばかりの『レンブラントの時代』The Age of Rembrandt: Dutch Paintings in The Metropolitan Museum of Art の案内が届く。さすがに、これはすごい。同館が所蔵するレンブラントばかりでなく、フェルメールの作品も勢揃いしている。「窓辺で水差しを持つ若い女」、「窓辺でリュートを弾く女」、「眠る女」、「カトリック信仰の寓意」、「少女」と所蔵全作品が出展されている。HP上での主任学芸員の話によると、このテーマの下で出展されているのは、同館所蔵の228点である。

  レンブラントの作品はこれまでかなりよく見てきたつもりだが、今回の展示品には、再度見てみたいものがある。前回、話題にしたばかりだが、別の「フローラ 」Floraも展示されている。ニューアムステルダムの残した遺産は、さすがに素晴らしい。そして、メトロポリタンの底力。この案内を見ると、国立新美術館の企画展もかすんでしまうようだ。

  それにしても、どうして同じ時期にほとんど同じような企画をするのだろうか。グローバル化の時代、美術館同士がお互いに情報交流し、企画展として独自性を出すようにすれば、作品の融通も楽になるだろうと思うのだが。なんとなく、美術館の力関係や舞台裏までが見えてしまう。

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画家と妻の持参金

2007年09月25日 | 絵のある部屋

Rembrandt van Rijn
Saskia as Flora (detail)
1634
Oil on canvas
The Hermitage, St. Petersburg
    

   
先日も話題とした西洋美術史家池上英洋氏による「剥き出しのヨーロッパ史十選」『日本経済新聞』の9月24日付記事では、結婚に際しての持参金にかかわる作品が取り上げられている。

  今回は、ルーカス・クラナハ(父)の『不釣合いなカップル』(1520年代、ウイーン美術史館蔵)という作品に象徴的に描かれているような夫と妻の年齢差が大変大きな場合、あるいは沢山の持参金を持った妻を娶った夫のイメージの背景が解説されている。 実はこれも面白いトピックスであり、かねてから多少注目していた。
 
  美術史の解説書などを読んでいて時々出会うのは、才能には恵まれているが貧乏な画家が、持参金を沢山持った女性にめぐり合い、その助けで後顧の憂いなく?天賦の才を開花させるというような話である。しかし、実際にはなかなか解釈が難しいケースも多いことが分かった。  

  ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの場合、パン屋の息子であった画家ジョルジュと貴族の娘ネールとの結婚を、平民と貴族の結婚という「逆玉の輿」であったとする解説によく出会う。言い換えると、「女氏(うじ)無うて玉の輿に乗る」の逆のイメージである。確かにこの点だけに注目すると、ジョルジュの生家はパン屋であった。この結婚で、貴族階級の一端に連なることになる利得をジョルジュが考えなかったわけではないだろう。しかし、他の側面を見ると、この解釈にすぐには賛同できないところがある。

  結婚式が挙げられた1617年7月、ジョルジュは24歳(1593年3月生まれ)の画家であり、新婦ディアンヌ・ル・ネール(1591年10月生まれ)は25歳と1歳半ほど年上でもあった。当時のロレーヌ女性の結婚年齢としてはかなり晩い方であった。といって、新婦の側になにか問題があったとする記述はなにもない。むしろ、二人の間には10人の子供が生まれ、夫妻が世を去ったのもほとんど同時であった。


  確かに、当時の社会階級の観点からすれば、異なった階級間での結婚の例は少なかった。それだけに注目も集めただろう。そして、彼女が持参金(dowry)として、両親や親族などから継承し、新家庭に持ち込んだ財産は当時の社会の平均的イメージからすれば少なからざるものではあった。しかし、貴族としてはむしろ控えめなものであったとみられる。

  結婚証明書に記された内容によると、持参金の内容は、(両親ではなく)彼女を大変可愛がっていたと思われる資産家の叔母からの贈り物として500フラン、2頭の乳牛と1頭の若い雌牛、若干の衣類と家具類だった。新婦の両親には合計12人の子供が生まれており、ネールだけ特別扱いをすることもなかっただろう。

  他方、新郎ジョルジュの側もあまり持ち物がなかった。慣習に従って、父親が結婚式の費用と息子の衣類、基本的な家具と、相続手続きが完了するまで父親が負担するわずかな金ぐらいだった。そして、しばらく新郎側の両親と共に、あるいは近くに居住するという当時の慣行で、ヴィックに新家庭を持った。

  結婚式の参列者などは明らかに両家の社会的関係を反映していたが、ジョルジュが新婦の持参金や貴族という階級に期待して結婚したような形跡はなにもない。それよりもはっきりしていたのは、この時期にジョルジュは、ロレーヌで将来が期待される才能ある画家として注目されており、画業で身を立てて行くだけの実績をすでに残していたということである。それは画家としての自信にもつながっていただろう。

  もしかすると、ジョルジュが独身時代、画業修業をした工房かもしれないのだが、当時、ナンシーで活躍していた画家(油彩・銅板画)ジャック・ベランジュの場合は、別の意味で興味深い。この画家は1612年にナンシーの富裕な薬剤師ピエールの娘クロード・ベルジェロンと結婚している。画家は1575年頃の生まれと推定されているので、37歳近い。他方、新婦は17歳だった。彼女の持参金は6000フランを下らなかったと記録に残っている。さらに新婦の両親が亡くなった場合、新夫妻は両親の田舎の土地などを継承することになっていた。ネールの場合と比較すると、破格な持参金だが、商人の富裕さと貴族でも必ずしも富裕ではなかったことを示唆しているかもしれない。

  ベランジュ新夫妻はまもなく3人の息子に恵まれたが、3人目の息子が生まれて1年もたたないうちに当のジャック・ベランジュが世を去ってしまった。気の毒に21歳で寡婦となってしまったクロードは、その後1625年にナンシーの宮廷の召使として勤めている間にシャルルIV世のお手つきになり、さらに5人の子供を生んだことになっている。豪商の娘であっただけに、史料も残っていたらしい。

  このベランジュの結婚の背景も、想像してみると面白い。確かに、ベランジュの結婚相手はナンシーで知られた富裕な商人の娘であったが、ベランジュ自身すでにロレーヌでも著名な画家・銅板画家として名を成していた。しかし、夫妻の年齢差は20歳近く大変大きい。 不釣り合いなカップルのようだが、当時はさほど珍しくはなかったようだ。

  このブログでも時々登場しているレンブラントの場合も、さらに興味深い。この画家の生涯は波乱万丈で、それ自体興味が尽きない。よく知られているようにレンブラントは、あの『トゥルプ博士の解剖学講義』の制作で大成功を収め、一躍脚光を浴びた。そして美しい女性サスキアに出会い、結婚にこぎつける。彼女の父(生前はレーワルデン市市長)はすでに世を去っていたが、末娘のサスキアも4万グルデンという当時としては莫大な遺産を相続していた。もちろん、法律上はこの金はサスキアに帰属していた。17世紀半ばのアムステルダムでは、500グルデンで普通の家庭は1年を裕福に暮らせるといわれていた。

  レンブラント自身も画業は絶頂期を迎え、収入も多かった。ただ、この画家は制作のための資料収集もあったが、かなり浪費癖もあったようだ。晩年はそれが大きな暗転をもたらす。他方、サスキアは画家によって「花の女神フローラ」のモデルにもなっており、大変美しい人であったことがうかがわれる。そして、レンブラントも画家として心身ともに充実した時代であった。

  しかし、「禍福はあざなえる縄のごとし」。1642年サスキアは、30歳の若さで病を得て世を去った。遺言書によって遺産4万グルデンはレンブラントと息子のティトゥスに残された。ティトゥスが成人するか結婚するまでは、レンブラントは自由に使うことはできたが、レンブラントが再婚すればこの条項は適用されないことになっていた。

  その後の顛末は、この画家の後半生を大きく暗転させた。興味深く考えさせられることも数多く、記してみたいこともあるのだが、とても書き尽くせない。ただ、これら画家たちの事例をみるだけでも、人間の生涯の有為転変とそこに含まれるさまざまなドラマに驚くばかりである。

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ラ・トゥールならどう描いただろうか

2007年09月19日 | 絵のある部屋

リュネヴィルへの道 Photo:Y.Kuwahara  


  今日9月18日、『日本経済新聞』朝刊の美術欄で、気鋭の西洋美術史家池上英洋氏が「剥き出しのヨーロッパ史十選」と題したシリーズの第一回に、ニコラ・プッサン 「アシドドのペスト」 
 (1631、ルーヴル美術館蔵)を取り上げ、解説されている。

  
プッサン(1594-1665)は、このブログにも再三登場させたが、ラ・トゥール(1593-1652)とまったく同時代の画家である。もしかするとローマにいたプッサンがフランス王室から招かれ、仕事をせかされ、予想外の人間関係の軋轢なども加わり、嫌々ながらルーヴル宮で仕事をした当時(1640-42年)、王室画家として二人が出会った可能性はかなり高い。少なくもお互いの仕事は十分承知していたことは間違いない。新聞紙上で紹介されている作品はプッサンの比較的初期のものだ。

  プッサンが旧約聖書『サムエル記』の物語を主題に描いた悪疫ペストの蔓延は、14世紀以来繰り返しヨーロッパを襲った恐怖の疫病であった。黒死病(ブラック・デス)といわれ、戦争と並び恐れられた最たるものであった。1348年当時のフィレンツェでは、市民の二人にひとりがこの疫病で死んだとまで言われている。

  プッサンやラ・トゥールの生きた17世紀前半にも、ペストはしばしばヨーロッパを襲った。とりわけ、1620-30年代にかけて、ロレーヌでは再三ペストが蔓延した。ラ・トゥールの徒弟で甥の一人でもあったフランソワ・ルドワイヤンがこの病で急死したことは、ラ・トゥールの研究史でもよく知られている。

  記録が残っていないだけで、ラ・トゥールの身内でも犠牲になった者がいるかもしれない。たとえば、ペストではないが、1648年8月にはラ・トゥールの末娘マリーが12歳で天然痘で命を落としている。 疫病はその正体が見えないだけに、戦争よりも恐ろしかっただろう。そのため、さまざまな信仰、呪術、魔術に頼る人も多かった。ペストが流行すると、恐怖や不安に駆られ、さまざまな異常行動に走る人々がいた。(なにやら今日の世界に似たところもある。人間は本質的に変わりえないのだろうか。)

  
プッサンとラ・トゥールはこうした時代状況を共有していた。しかし、その生き方、制作環境などは大きく異なっていた。ある意味で対照的であったといって良いかもしれない。プッサンの作品は華麗で古典的であり、当時のヨーロッパを代表するイタリア絵画の主流を継承していた。まさにバロックの大きな流れに位置していた。

  他方、ラ・トゥールはバロックの時代にありながら、それとはかなり遠いところに位置していた。この画家は、制作の思想においてゴシックの流れを忠実に体現していたといえる。当時の主流であったイタリア美術の風を明らかに感じながらも、ラ・トゥールはそれとは異なる独自の道を選んだ。

  ラ・トゥールもプッサン同様に古典には通暁していた。この時代の芸術家にとって、古代ギリシャ、ローマの歴史、そして聖書は必須の教養であった。ラ・トゥールは画業に入る前から小学校でラテン語を習っていたようだ。この画家のいわば精神的後ろ盾でもあったロレーヌきっての教養人ランベルヴィリエールの影響もあって、多くの古典も読んでいたと考えられる。ラ・トゥールの作品主題の選択、断片的な文書などから、その一面をうかがい知ることができる。

  ラ・トゥールは長らく忘れられた画家であったが、プッサンはノルマンディに生まれながら、その生涯の重要な時期をローマで過ごし、時代の寵児でもあった。プッサンの作品は総じて華麗な中にも人文主義的教養に支えられた深い思考に基づく精神性が感じられ素晴らしい。ただ、ラ・トゥールやル・ナン兄弟など「忘れられていた」画家の作品と比較すると、プッサンのある時期の作品は、とりわけ現代人にとっては重い、あるいは過剰な感じ、時には衒学的ともいえる印象を与える。しかし、時代はプッサンを求めていた。

  現存するラ・トゥールの作品には、プッサンのここに例示された古典的主題に題材をとった悪疫流行の様相、あるいはより直接的にはカロのように、ロレーヌの経験した戦争や悪疫などの惨禍を推測させるものはない。制作したのかもしれないが、今日残っていない。しかし、時には悲惨きわまりない風土の中でも、しっかりと生きていた人々の姿を目の当たりにするような作品が、時を超えて現代人の共感を呼ぶのだろう。

  

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ルイXIII世の音楽世界(2)

2007年08月17日 | 絵のある部屋

L'ORCHESTRE DE LOUIS XIII (1601-1643) *
Recueil de plusieurs airs par Philidor L'Aisne
Le Concert des Nations
Manfred Kraemer Concertino
JOEDI SAVALL
ALIAVOX

 

  30年戦争や内乱などがあっても、17世紀フランスという大国の王の日常はかなりのんびりしたものだったらしい。政治・外交の世界は、辣腕のリシリュー枢機卿と配下の指揮官たちがこなしており、ルイXIII世は自ら関わって積極的な提案をしたり、意思決定することはあまりできなかったようだ。もっとも戦争などで王の権威が必要な時には、前線へも出向いてはいた。

  しかし、王としてはかなり不満を感じていた面があったようだ。とりわけ正式の王座に就くまで、摂政であった強い母親、うるさい顧問たちなどへの反発、フラストレーションがあったらしい。そのひとつのはけ口が、狩猟やバレー音楽などに向けられていた。

  これらの活動は、美食と運動不足の生活への対応という意味もあったが、そればかりではなかったらしい。そのことは、バレー・ダンスで王が選んだ役割などから推測もできる。そのひとつの例として挙げられているのは、Ballet de Madame(1615)でルイXIII世自身が太陽の神に扮して踊ったことである。権力や栄光への渇望があったのだろう。この役割はルイXIV世の時代によく知られている「太陽王」のイメージにまで拡大されたことはいうまでもない。

 

  

 『ルイXIII世のオーケストラ』というCD版*をたまたま持っていた。Le Concert des Nations というちょっと大げさなタイトルがついている。収録されているのは主として当時の宮廷バレー音楽である。前回記したように、王自身が大変な音楽好きであり、ダンスはそれほどではなかったとはいえ、バレーについても幼少の頃からほとんど身体で覚えていたようだ。とりわけバレーについては、王自ら出演していた。

  17世紀前半、画家たちのローマへの旅が慣例化するほど文化的先進国でもあったイタリアではオペラが隆盛していたが、フランス人はあまり関心を示さなかった。代わってフランスの宮廷で好まれていたのは「バレー」(バレー・ド・クール)といわれる特有の舞踏劇であった。

 この宮廷バレーは、劇、、歌唱、ダンス(舞踏)、音楽の混合したものであり、すぐれて貴族的・王宮的な雰囲気から成っていた。庶民の音楽世界とはまったく別の次元である。バレー・ダンスは当時の貴族階級にとっては必修科目のひとつでもあった。このCDは今日まで継承されてきたものを再現しようとした一つの試みである。

  宮廷バレーは、通常次のような構成で上演されていた。それぞれの場面で最初にレシタティーボ(叙唱)、続いて詩の朗読、対話(ダイアローグ)、コーラス、ダンスかパントマイム、そしてグランド・フィナーレとしてのバレーが、仮面をつけた貴族たちとプロ・ダンサーによって披露された。ルイ13世は少なくとも年1回は自ら踊ったらしい。

 こうした慣わしが定着するにつれて作曲家(歌唱および楽器)、演出家、記録係り、振り付け師、舞台監督などの役割が生まれ、総合ドラマ化への道を進んでいった。現在では、残念なことに音楽楽譜などの大部分は消滅して継承されていないが、わずかに残った部分が、フランス国立文書館などに所蔵されている。こうした記録をつなぎ合わせ、当時の状況を再現しようとする試みがいくつか行われてきた。

 さて、しばらくぶりに聴いてみる。華やかではあるが、反復も多くやや単調な感はぬぐいがたい。しかし、17世紀の宮廷に響いていた音の世界を追体験することはできる。

 ルイVIII世は1643年5月14日になくなったが、息子にフランス国王の座ばかりでなく、音楽とダンスへの情熱を残した。

 この17世紀へのタイムトラベルも、記録的な酷熱の前に消夏の効果はあまりなかったが、夏の夜の夢の一端を体験することはできた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ルイXIII世の音楽世界(1)

2007年08月15日 | 絵のある部屋

Louis XIII de France, Philippe de Champaigne, 1655,  Oil on canvas, 108 x 86 cm Museo del Prado, Madrid  


 酷暑の峠も、もう少しの辛抱とのこと。暑気払い?に、少し時代を飛んで音楽の世界へ。  

  バロック音楽は宮廷文化の繁栄とともにあった。17世紀、ラトゥールがパリのルーブル宮を訪れた頃は、ブルボン朝ルイ13世(1601-1643, 在位1610ー)の時代であった。ラ・トゥールは王室付き画家の称号を与えられたほどであり、王のお気に入りの画家のひとりであったことは間違いない。 しかし、この王についても、不思議とあまり知られていない。この時代に活躍した芸術家たちと王との関係も、その実態はあまり明らかではない。  

 ルイ13世は歴史上は太陽王ルイ14世の輝きの前に、「ヨーロッパの歴史でもほとんど目立たない王の一人」とされ、あまり評価されることのない王となっていた。「ルイ14世の父親」、「3銃士の時代の王」という揶揄も横行している。  

 しかし、その後の研究などで、少し距離をおいて見ると、それほど凡庸な王というわけではない。人に厳しく当たったなどうわさ話の類はあるが、歴代のフランス王の中では、とりたてて変わった性格といったわけではなかったようだ。むしろ「公正な王」Louis VIII, The Just といわれるように、自ら宗教的戒律にも厳しい、ブルボン朝では、どちらかというと地味な王であったようだ。  

 ルイ13世は父であるアンリIV世の死去に伴い、1610年10月17日、ランスでフランス国王として戴冠したが、成人に達していなかったので母親マリー・ド・メディシスが摂政を務めた。その後、王は1614年10月2日に正式に成人を迎えた。しかし、実際にルイ13世の時代となったのは、コンシーニの暗殺と1617年4月24日のクーデターの後だった。1615年11月23日には、ボルドーのサン・アンドリュース寺院でオーストリア王室の皇女アンネ との結婚式が行われた。しかし、これは形だけで、実際の結婚認知は1619年1月25日まで待たねばならなかった。  

 この時代、政治・外交は、あの辣腕の宰相リシリューがとり仕切っており、王の出番は少なかった*。そのこともあって、文化政策の当事者として、フランス文化を華々しく展開するという役割も果たせなかった。宗教的にもカトリック宗教改革の支持者であり、厳格なジャンセニストに近く、王としては派手好みというわけではなかったようだ。ヴェルサイユ宮は当時は狩猟用の山荘の扱いだった。  

 しかしながら、ブルボン朝の例として、王としてのルイ13世は宮廷文化の象徴のごとき存在であった。王はさまざまな芸術、文化の領域に関わっていた。ルイ13世はことのほか音楽を好んだ。幼少の頃から、リュート、ヴァイオリン、歌唱などに親しんだ。  たびたび引用される侍医 ジャン・エロール の日誌によると、幼い頃から「王は音楽を愛し、熱心に耳を傾け、陶酔したように高揚し、じっと聞き入っていた。椅子に座り込み、歌唱やリュートに聞きほれて、その他のことは上の空のようだった」と記されている。食事の間もずっと演奏を続けさせていた。  

 画家フィリップ・シャンパーニュ特別展が最近開催されていたことは前々回のブログに記したばかりだが、ルイ13世もお気に入りの画家が描いた肖像画が残っている**。ルーベンスの手になる同様な作品もあるが、肖像画はやはりシャンパーニュの方が一段抜けている。画家自身は必ずしも目指した方向ではなかったようだが、肖像画家としては当代第一流といえる。  

 ルイ13世は音楽にはかなり入れ込んでいたらしい。 楽器も狩猟用のホルンやリュートを自分で奏でていた。作曲などもしたようだが、曲は残念ながら残っていないらしい。王が好んだ狩の光景がイメージされていたようだ。   

 王が音楽へのめりこんだ背景には、摂政時代の強力な母親のイメージと顧問役たちからのさまざまなプレッシャーから逃れたいとの思い、アンリIV世の死後失われたフランスの安定を取り戻すに力を注ぎたいと願ったが、なかなか実現できず鬱積したさまざまなフラストレーションなどがあり、音楽はそのはけ口でもあったようだ。  

 ダンスも特に好きというほどではなかったようだが、1年に最低1度は自ら踊っていた。1919年の12月1日、王は初めて妃を伴い、バレーの宴に臨席し、一緒に踊った。  

 こうしたことから推測されることは、政治・外交の次元では宰相リシリューにかなり引っ張られながらも、ジャンセニストに近い宗教観を持っていた比較的地味な王のイメージが浮き上がってくる。次回ではこのルイ13世が聴いていたという音楽について触れてみたい。



* 近年、リシリュー側からの史料ばかりでなく、王の側からの新たな史料などで、従来とは少し違った王のイメージが生まれているようだ。

** この肖像画はシャンパーニュによって描かれ、オーストリアの王女、ルイ13世の妃アンネから、スペイン王フェリペIV世へ贈られた。

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宮廷画家の世界から:シャンパーニュ

2007年08月12日 | 絵のある部屋

  このブログにも何回か登場した17世紀のフランス宮廷画家の代表ともいえるフィリップ・ド・シャンパーニュPhilippe de Champaigne (1602-74)の大回顧展がフランス、リールの美術館で開催されている。8月15日までであり、残念ながら見ることはできなかった。

 シャンパーニュは、あのリシリュー枢機卿のごひいき画家であった。ブリュッセルで生まれ、19歳でパリに出る。その後、まもなくして1629年、フランスに帰化した。パリに出てきた時に、折りしもイタリアへ画業修業に赴こうとしていたニコラ・プッサンに出会った。シャンパーニュ自身は生涯イタリアへ行くことはなかったが、後年二人はパリ、ルーブル宮で宮廷画家として再会する。その経緯もブログに書いたことがある。

 シャンパーニュは、ルイ13世の母親で摂政であったマリー・ド・メディシス、その後リシリュー枢機卿、ルイ13世の知遇を得て、宮廷画家として活躍した。
プッサンと初めて会ったリュクサンブール宮殿の装飾なども担当した。シャンパーニュが描いたリシリュー枢機卿は、いずれもあの枢機卿の赤い帽子と衣裳が特徴だが、引き締まった威厳のある容姿で描かれており、実物以上?と思われる。このあたりが、お気に入りの理由だったのだろう。

 フランドル絵画の緻密さと写実性を併せ持った作風は、冷徹な政治家リシリューのお好みであり、肖像画だけでも11点残っている(ルイ13世については2点)。ブルボン朝の華麗な肖像画家として知られるが、後半生は厳しい戒律で知られるジャンセニズムに傾倒し、宗教画を多く残した。「シャンパーニュのブルー」といわれる鮮やかな青が素晴らしい。この時代、青色の顔料はラピス・ラズリに代表されるように高価なものが多かったが、宮廷画家の地位にあれば画材の値段などは考えなくてもよかったのだろう。

 シャンパーニュの名作としてよく知られている『二人の尼僧』(仮題)は、パリのポートロワイヤル修道院の尼僧であった妹が奇跡的に重病から回復したことを神に感謝して描いたものである。敬虔な祈りと喜びが画面に溢れている。

 シャンパーニュはラ・トゥール同様に日本ではあまり知られていないが、17世紀中葉のフランス絵画界を代表する画家の一人であり、思想的には同時代のパスカル、デカルト、コルネイユなどと共鳴するところがある。ラ・トゥールとはお互い、ルイ13世に宮廷画家として任ぜられたこともあって、もちろんよく知っている間柄なのだが、ルーブル宮で会ったか否かは今のところ謎のままである。暑さしのぎに、時空を超えてタイムスリップしてみるのは楽しいかもしれない。

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アルビの名物は?

2007年08月02日 | 絵のある部屋

    深夜に近く、ほとんど見るともなしにつけたTVに、どこかで見たような光景が映った。このブログで度々触れたラ・トゥールの「キリストと12使徒」シリーズが掲げられていたアルビの城塞のような大聖堂、そして市立トゥールーズ・ロートレック美術館の館内だった。南フランス、ミディ・ピレネー Mid-Pyrenees と呼ばれるスペイン国境に接するフランスの地域の紹介だった。

 アルビは、キリスト教異端のカタリ派の拠点として、知られてきた。カタリ派は善悪二元論を中心とした信仰に帰依し、カトリックから激しい弾圧を受け、十字軍によって破壊された。そして、カトリックの権威を示すために建立されたのがサント・セシル大聖堂だった。「キリストと12使徒」シリーズは、ある時期、具体的にはフランス革命の1795年段階までは、この大聖堂の内陣、第6番の礼拝堂に掲げられていたことが判明している。しかし、その後忽然と姿を消してしまった。その経緯は、このブログでも記したことがある。この画家の作品と推定されるものは、このシリーズの一部を含めても今日40点程度しかない。

  他方、アルビは、アンリ・ド・トゥルーズ=ロートレック Henri de Toulouse-Lautrec(1864-1901)の生まれ故郷として知られる。ロートレックが36歳の若さで死去したのち、残っていた作品は、母親の手で故郷であるアルビに寄贈された。ロートレックの生家は、旧市街のトゥルーズ=ロートレック通りに残っている。日本人はロートレックが大変好きなことは良く知られているが、この画家の愛好者にとっては、必見の場所である。作品は、トゥルーズ・ロートレック美術館として、1922年に元司教館を改装しオープンした。画家の作品の6割近いといわれる1000点余の作品が収められている。トゥルーズ=ロートレックは多作な画家として知られるが、これだけでも驚嘆すべき数である。しかし、一般によく知られた名作はほとんどオルセーなどが所有している。

  ラ・トゥールの「12使徒シリーズ」は、一部の未発見品を含めて、ほとんど世界中に散逸した状況だが、2点はここに展示されている。最初の依頼主はアルビ大聖堂とは関係がないと見られており、ヴィックやロレーヌの教会、修道院などから転々と所有者が移った可能性も高い。もしかすると、ラ・トゥールが画家として手ほどきを受けた可能性がある、ヴィックのドゴス親方の工房が請け負った作品群かもしれない。ドゴス親方の作品として確認されるものはなにひとつ発見されていない。しかし、祭壇画や聖人の絵などを得意としていたらしいことが記録から類推できる。「12使徒シリーズ」の制作から再発見までの経緯は不明だが、かなり謎めいている。今後、新たな史料などが発見されるかも知れず、興味深い。

  さて、TVの方はというと、トゥルーズ=ロートレック、ラ・トゥールいずれの作品にも触れることなく、この地方の特産であるアーティチョーク、ブロッコリー、大蒜などを紹介し、出演者が名物料理のカスレcassoulet を食べている場面を映して終了。やはり「花より団子」なのか。 

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工房の風景:キンベルの至宝(3)

2007年06月27日 | 絵のある部屋


Jean Siméon Chardin (French, 1699-1779)
Young Student Drawing c. 1738
 
Oil on panel
8-1/4 x 6-3/4 in. (21.0 x 17.1 cm)
Acquired in 1982
Kimbel Art Museum

  17世紀当時の画家の工房(アトリエ)の状況には、徒弟制度を通しての熟練養成という点からも関心を持っていた。このブログでも少しばかり取り上げたこともある。工房の情景が描かれた絵画作品はよく調べたわけではないが、かなりの数があるように思われる。ここで紹介するひとつの例は、工房かアカデミーでの画学生の制作風景を描いた作品であり、例のキンベル美術館が所蔵する名品のひとつである。

  これまで主としてスコープを充てていた17世紀から少し時代は下り、18世紀初めにフランスの静物画、風俗画の名手シャルダンが描いた「制作する画学生」と題する作品である。画面中央に座りこんだ画学生は後ろ姿であり、容貌は分からない。描かれる唯一の人物が最初から、背中を見せているという大変ユニークで、しかも深く考えられた構図である。後ろ姿とはいえ、彼が一心不乱に制作に没頭している有様は見る人に直接伝わってくる。きっと暖房もなく寒い工房の片隅なのだろう。毛皮の襟のついたコートを着込み、床に座り込んで制作に没頭している。彼が描いているのは、どうも人物らしい。

  壁にはキャンバスがこれも裏を見せた形で立てかけられている。また、模写用の手本だろうか、人物のデッサンがピンで止められている。足下には制作に使うナイフが置かれている。

  シャルダンは早くから画才が認められ、画家のギルドである聖ルカ・アカデミーの会員として受け入れられた。そして、1728年には王立絵画アカデミーの会員に選ばれる。後年にはアカデミーの収入役などの重要ポストにも就いた。当初は「動物と果物」の画家として知られたが、後にジャンルの分野へも対象を広げた。ほとんどパリに住んでいたらしい。大変洗練された画風であり、きっとパトロンも多かったのだろう。いずれの作品も、見る人の心がなごむような落ち着いた雰囲気を醸し出している。しかし、世の移り変わりも激しく、この画家の晩年は恵まれず次第に忘れ去られ、その作品が「再発見」されたのは19世紀中頃になってからであった。

 シャルダンは熟達した画家の例にもれず、直接にカンヴァスへ向かって制作した。この若い画学生がまさに行っている作業だ。こうした光景は、きっと当時の工房などで日常見られたのだろう。あるいは若き日の画家のイメージなのかもしれない。

 作品の色調は大変落ち着いている。その中で、画学生の靴下の青さとポートフォリオの間からみえる画材の青色、着衣の裏地の赤と背中の破れた穴から見える赤色、防寒用の帽子と襟の毛皮の黒色などが、さりげなくアクセントとなり効果をあげている。

  作品は大変小さいのだが、居間に置いていつも見てみたいと思わせるような、落ち着いた感じの良い一枚である。想像される通り、こうしたジャンルは大変人気があり、とりわけヨーロッパの王侯、上流階層が好んで求めた。同一のテーマで画家はかなり多数の作品を残したとみられる。有名な「カードの家」などの構図も複数のヴァリエーションがある。作家・思想家として「百科全書」編纂に当たったディドロ Denis Diderot が「偉大な魔術師」と絶賛した才能を持っていた。フェルメールの画風との近似点も感じさせるものがある。

  シャルダンの作品の独特な色合いは、画家自身がかなり工夫して職業秘密にしていたらしく、後年の分析で画材の顔料にチョークを混入させ、立体感を持たせるなどの工夫がなされていることが分かっている。

  X線分析の結果、この作品の下地には座っている女性が別の構図として描かれていることが分かっている。シャルダンは、この「制作する若い画学生」と対 pendantになる作品 として、女性をモデルとしての構図でも描いたようだ。実物をみたことはないが、ストックホルムの国立美術館が所蔵する「刺繍する女」は、そうした構想に近い作品といわれている。しかし、明確に関連性が確認されたわけではない。いずれにしても、この作品はシャルダンが画学生として過ごした日々を思い浮かべつつ制作したのではないかと思われ、小品ながら大変味わい深い作品である。
 

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炎が創り出すもの

2007年05月04日 | 絵のある部屋
  この画像、なんでしょう。そうパン屋の店頭。パリの町中を歩いていて偶然出会った。ことさらに伝統的な製法を継承しているようで、古いパンの抜き型なども並べられている。店はすでに閉店していたが、ウインドウを通して店内を覗いてみると、パン窯もかなり使い込んだらしい煉瓦と石積みである。照明も意図的に暗くしているようだ。外から見ると、窯に燃える赤い炎だけが目を惹く。なかなか効果的だ。パンや陶磁器を焼く窯の炎はなんとなく暖かさや親しみとともに不思議な力の存在を感じさせる。  

  ふと見たTV番組*で、これまで人の目に触れたことがないといわれる炎があることを知った。陶磁器を焼く登り窯の最奥で燃え盛る高温の炎である。こうした炎を、「大口」といわれる窯の入り口の所では見たことのある人もいるかもしれない。しかし、「一の間」、「ニの間」、「三の間」、「四の間」と高温になる上方の窯の内部で、装填された作品に炎が作用する光景は、これまで人間が見たことがなかったあるいは見ることができなかったものだった。窯へ装填したら、その後の過程は「神の手」に委ねられる。土器が陶器へと変容する過程であり、制作の主体が人間の手から離れる瞬間である。   

  TVでは益子焼の登り窯へ耐熱チューブカメラを入れ、ハイスピードカメラで撮影していた。2度と同じ形をとることなく、めらめらと燃えている。神秘とも奇怪とも思われる光景である。  

  炎が繰り返し押し寄せる波濤のように、作品をなめるように繰り返し覆っている。温度は1200度近い。温度がある段階に達すると、器が発光する現象がみられる。炎の色が暗い赤色から明るいオレンジ色へと変化して行く。釉薬がかけられている場合には、ガラス質の釉薬に含まれる銅などの発色剤が変容して絶妙な色となる。釉薬によっては、「ぬか白」といわれ、白く焼きあがる場合もある。こうした発色の有り様については、これまでの長い経験からかなりの程度、陶芸家がコントロールできる範囲ではある。しかし、最後にどんな作品が出てくるかまでは分からない。  

  陶磁器やパンを焼く窯の中の炎、蝋燭の焔など、それぞれ考えてみると、そこには人間の手のおよばない神秘的なものがひそんでいるようだ。「創造過程というものはつねに神秘的な世界のうちに留まっているのである」というケネス・クラークの言葉を思い出す。ラ・トゥールの作品に描かれた蝋燭の焔に、画家はなにを感じていたのだろうか。



* BSTV:4月17日『アインシュタインの眼 陶器誕生:炎の美』
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