Georges de La Tour, The Magdalene at the Mirror(The Repentant Magdalen), c.1640、The National Gallery of Art, Washington, D.C., Alias Mellon Bruce Fund
ひとりの女性が、わずかに蝋燭の光が映し出す明かりの中で、一枚の鏡を前になにか物思いにふけっている。長い髪の毛はすべて後ろに流れ、メランコリックな雰囲気の漂う横顔を現している。彼女のあごは掌と机についた右肘で支えられている。閉じられた分厚い書物の上には、頭蓋骨が置かれている。光源となっている油蝋燭は頭蓋骨と書物の背後に隠れているが、焔は彼女の呼吸で揺らいでいるかにみえる。
前面に置かれた鏡の鏡面には、頭蓋骨と書物の一部が映し出されている。鏡の向こう側には、物入れのかごの一部が見える。おそらく香油などのびんが入っているのだろう。 鏡に映された頭蓋骨は人生の虚しさを象徴しているかのごとくであり、女性の来し方を物語っているかのようにも感じられる。それは、われわれの人生の幻影なのかもしれない。わずかに闇を照らし出している蝋燭の光が救いのようにみえる。
この女性がマグダラのマリア(*1)であることは、もはや明らかである。発見された当時から、この作品はラ・トゥールの手になる真作であることに異論はなかった。「大工聖ヨゼフ」などと同様に、真作が持つ強い迫真力があるからだろう。「鏡を前にしたマグダラのマリア」と呼ばれることが多いこの作品は、19世紀半ばまでコーラインクール公爵夫人が所蔵していたが、1936年収集家ファビウスA.Fabiusの所有となり、その後1974年にはアメリカ・ワシントンの国立美術館の所有に移った。そのため、「ファビウスのマドレーヌ」の名でも知られてきた。
ラ・トゥールの描いたマグダラのマリアにも、いくつかの異なった構図による版があることが知られている(*2)。それぞれに特徴があり、興趣が尽きないが、個人的には、この全身像(実質的には上半身像)の構図および半身像の「書物のあるマグダラのマリア」(ヒューストン、個人蔵)が好みである。両者ともに大変簡素な構図だが、後者は顔のほとんどが髪で隠され、表情は読めない。今回、とりあげる全身像のマグダラのマリアは容貌を含めて、全体に落ち着きが感じられる。とりわけ、顔の部分が隠されていないため、表情が読み取れる。画面の下半分がほとんど闇に包まれているため、一見すると物足りないように思えるが、静謐でクラシックな感じがする。
描かれた当時は、もう少し鮮明な部分があったのかもしれない。(他の版では女性のスカートの赤い色、結ばれた縄など、アトリビュートが目立つ。)ラ・トゥールの作品でもっとも「叙情的」lyricとする批評家(J.Thuillier)もいる。
この「鏡を前にしたマグダラのマリア」についても、ラ・トゥールの手によるものと考えられる作品がいくつかある。この絵は、その中で最も優れているように思われる。
マグダラのマリアについての解釈、位置づけは時代とともにかなり揺れ動いてきた。ラ・トゥールの時代には、カトリック宗教改革の潮流の中で新たな神学上の評価がなされ、信仰熱が高まってきたものと思われる。多くの作品の制作が、そのことを裏付けている。ラ・トゥールが最も多く取り上げた画題であろう。悔悛の後に、キリストへの最も純粋かつ永遠の愛を示したマグダラのマリアは、おそらく当時の人々に最も好まれた画題であったにちがいない。
この絵も宗教的含意を持ちながらも、そうした印象を与えない。もしかすると、自分の近くにいるかもしれない普通の人を描いている。そこに、この画家の制作に当たっての深い思索の姿を感じる。不安と混迷で先が見えない現代人の心にも訴えるものをもった、時空を超える名画である。
*1 マグダラのマリアについては、次の書籍が見事な展望を行っているので、ここでは子細については触れない。岡田温司『マグダラのマリア:エロスとアガペーの聖女』中公新書、2005年
*2 「鏡の前のマグダラのマリア」については、半身像の銅版画(フランス国立図書館蔵)および模作が存在する。
Image: Courtesy of the National Gallery of Art, Washington, D.C.