時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

豪邸を出て「フローラ」は

2008年03月17日 | レンブラントの部屋

Rembrandt
Self-Portrait,1660, Oil on canvas, 80,5 x 67,5 cm
Metropolitan Museum of Art, New York
 
 

  19世紀後半以降、ヨーロッパ大陸から新大陸アメリカへ滔々として流出した美術品について、ともするとヨーロッパ側の美術関係者の評価が低いことがあると前回も記した。19世紀末以降、「エクソダス」とも評されたヨーロッパの名作の数々が、大西洋を渡ってしまったことへの悔しさが、時にこうした形でにじみ出ることは十分理解できる。しかし、客観的な評価とはいえない。  

  実際、アメリカに渡った美術品には、当時のヨーロッパの第一級作品が多数含まれていた。今日まで時代が下れば作品の評価もあらかた定まり、より公平な評価が可能になっている。しかし、次々と名品の流出が続く最中では、冷静な評価も難しかったことは想像に難くない。   

  ここではアメリカを代表する美術館のひとつ、メトロポリタン美術館が20世紀初頭までに入手した美術品が、いかに質の高いものであったかを少し記しておこう。前回との関連から、範囲はオランダ美術に限っている。

絢爛豪華な特別展  
  レンブラントの名作「アリストテレス」をメトロポリタン美術館が取得したのは、1961年になってからだった。しかし、この作品がアメリカ市民の目に触れたのは、それよりかなり前の1909年のことである。この年、新大陸アメリカが所有するにいたったオランダの主要美術品を、初めて公開展示する豪華な展覧会が開催された。この催しは、「ハドソン=フルトン記念行事」 Hudson-Fulton Celebration の名の下に、そのひとつの重要行事として一般公開された。その名から推測できるように、この記念事業は、アメリカ史の二つのモニュメンタルな出来事を記念しての一大催事であった。   

  そのひとつは、今日その名がニューヨークの中心部を流れるハドソン河に残る、著名な探検家ヘンリー・ハドソンの探検活動からほぼ300年が経過したことを記念し、その業績を後世に伝えるためであった。この探検は、オランダ東インド会社の支援で実現した。オランダ美術の作品展示を行うことになったのは、そのためである。* アメリカ最初のオランダ美術の「豪華ショウケース」と云われた。


  もうひとつは、建国以来のアメリカの絵画、家具、装飾類を展示することにあった。これは発明家として著名なロバート・フルトンの業績を記念するものとして企画された。フルトンは、1807年にハドソン河の航行を可能とした蒸気船の発明に成功した。   

  かくして、大西洋を渡り、オランダからもたらされた絵画作品と新大陸アメリカの風土で生まれた美術品が「ニューアムステルダム」の地で、併せて展示されるという企画となり、アメリカの美術史上でも画期的なイヴェントとになった。

若き学芸員の活躍  
  この「ハドソン・フルトン記念展覧会」を企画したのは、ドイツ人でオランダ美術研究者だった、当時メトロポリタン美術館の29歳、若き学芸員ウイルヘルム・ヴァレンタイナー Wilhelm Valentiner (1880-1958)だった。彼はアメリカのコレクターに大きな影響を与えたウイルヘルム・ボーデ Wilhelm Bode の個人的助手であり、被後見人だった。それにしても、これだけの仕事を29歳の若者が中心になって、企画、実行したということは、アメリカが「若い国」であることを物語っている。ヴァレンタイナーは、企画の実現のために、両大陸の研究者、画商、鑑定家、美術品を所蔵する富豪たち、さらには有名人などを訪ねて東奔西走、出品を依頼する。   

  この展示が画期的であったことは、J.P.モルガン、ヘンリー・フリックなどの大富豪たちが、自らの所有作品を初めて展覧会のために貸し出したことにもあった。この時代の主要美術品は美術館ではなく、こうした大富豪たちが資産として所有していた。そのため、富豪の家族や友人などは目にすることがあっても、一般市民からは遠ざけられていた。それらの多くは、純粋な美術愛好者あるいはコレクターという動機にとどまらず、富豪の莫大な利益の一部を有形資産化するという目的でも所有されていた。彼らは、「金ぴか時代」(Gilded Age: 1865-1900年頃)に象徴されるような大好況期などに、事業を通して莫大な利益を上げ、多くの美術品を競って買い入れていた。

富豪の屋敷を出た名作  
  「ハドソン=フルトン記念展覧会」は明らかにひとつの時代を画した。一人の若い学芸員の企画と依頼に動かされて、当時のアメリカにおけるオランダ絵画の所蔵者のほとんどが、なんらかの形で彼らの私有していた作品を展覧会へ貸与することに応じた。これらの美術品が富豪の私邸を出て、多くのアメリカ市民の目に触れた意義はきわめて大きい。   

  J.P.モルガンはメトロポリタンの理事長だったこともあり、最多の15点を提供した。ハンティントン夫人はレンブラントの「アリストテレス」を含む8点、ヘンリー・フリックは、レンブラントの「自画像」(1658年)を含む8点、そしてハヴマイヤー夫人はレンブラント2点、ピーテル・デ・ホーホ1点を貸し出した。   

  この展覧会は構想も壮大だったが、成果も大きかった。2ヶ月半の期間に、288,103人という当時としてはきわめて多数の観客を動員し、大成功を収めた。出展されたオランダ絵画作品149点のうち、少なくも37点はレンブラントの手になるものとされた。当時、アメリカにあるレンブラント作品は約70点余とされていたから、半分強が出展されたことになる。すでにその名声が新大陸でも広がっていたレンブラントを見たい市民は数多く、この展覧会の最大の吸引力となった。ちなみにフェルメールは当時アメリカにあった7点のうち6点が出展され、これも注目すべきことだった。

  私的財として富豪の邸宅奥深く私蔵されていた美術品が、展覧会という形で市民に公開されることで公共財へと転化することになった意義は大変大きい。この後、しばらくして最初の所有者であった富豪の死去に伴って、所蔵美術品を遺言によって美術館へ遺贈 bequeath することが次々と行われた。時には篤志家の寄付によって、競売に出された作品を美術館が取得するという動きも見られるようになった。

  レンブラントの美しい「フローラ」(1919年ハンティントン夫人が取得、所蔵)も、ニューヨークのハンティントン邸**を出る日が来た。アラベラは1924年に世を去り、1926年、「父、コリス・ポッター・ハンティントンの追憶のために」として、子息のアーチャー・M.ハンティントン氏からメトロポリタン美術館へ「フローラ」は遺贈された。


*
余談ながら、このハドソン河探検の歴史は実に面白い。以前から気になっているセント・ローレンス河の探検史とともに、いつかメモを整理してみたいと思っているが、実現するか?

** 「フローラ」、「アリストテレス」、「ヘンドリッケ・ストッフェルス」のレンブラント作品3枚は、ニューヨーク、(2 East 57th St.)のハンティントン家の書斎の壁にしばらく並んで掲げられていた。


Reference The Age of Rembrandt:Dutch Paintings in The Metropolitan Museum of Art. 2007

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