時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

幸福を育むものは

2010年05月04日 | 午後のティールーム

鎌倉鶴岡八幡宮大銀杏(Photo:YK) 

 

 連休を挟んで、外国からの友人の来客があった。その一人、オランダのSさん夫妻は長年の友人でもあり、このところ毎年のように会っている。今回は「幸福」についての国際会議に出席のため来日した。自然、話題はそれから始まる。

 世界第三位の経済大国でありながら、日本はどうも元気がない。大都市デパートの雑踏などをみるかぎり、不況の影響など感じられないという。それなのに、日本人はあまり現状を幸せとは感じていなという。なぜなのだろうと聞かれる。適切な答はとても思いつかない。人々の心の底はそう簡単には読めない。

 政府の「新成長戦略」にも新たな視点が求められている。これまでのように、GDPなど、経済指標の大きさだけでは、国民の政策への満足の程度は計り得ない。「幸福度」(well-being)という主観的な指標の導入も議論されている。人間の幸福とはなにか。 先が見えない不安な時代、人はなにを考えて生きているのか。幸福とはいったいなんだろうか。人が幸福と感じるのにはなにが必要なのだろうか。この哲学的な問いにはとてもすぐに答えられない。

 幸福については、
このブログでも取り上げたことはあるが、しっかりと議論するのはかなり難しいテーマだ。しかし、「幸福」についての研究は、このところファッショナブルなようだ。経済学の分野でも「幸福研究」happiness research は、注目を集めている。たとえば、最近話題になっているリチャード・イースタリン教授(南カリフォルニア大学)の幸福の形成についての研究はそのひとつだ。 「イースタリン逆説」といわれるものがある。経済成長は、必ずしも人生の幸福度を増加させないという内容だ。イースタリンの研究は物質的な富の水準が上昇しても、必ずしも人生の幸福度(well-being)を増加させないということを示している。もう少し説明を加えると、社会で相対的に豊かな者は、平均的には幸福度もそれだけ高くなる。しかし、ひとたび基本的ニーズを満たすある厚生水準が達成されると、経済成長がさらに進んでも個人あるいは社会的幸福度はそれ以上増えることがないという意味である。

 経済的に豊かな国の国民が、その豊かさに対応した幸福度を感じるわけではない。高い所得を得ても、周囲のグループとの比較で低ければ、主観的な幸福度は影響を受けて低くなる。さらに所得が上昇すると、人々の要求水準も高くなり、富の増加が必ずしも幸福度の増加につながるわけではなくなってくる。経済的に豊かな国の国民は、所得が上昇し、衣食住などの点で十分な水準まで達すると、貧しい国の国民と比較して、マクロの水準に見合った高い生活上の幸福度を感じるわけではない。 例えば、所得の額や失業は、本当に幸福に影響するだろうか。インフレや不平等はどうだろう。仕事の仕方、雇われているか、自営の仕事かの違いは、幸福にどの程度関わっているのだろうか。  

 こうした考えは、これまでもさまざまな機会に提示されてきた。それ自体ほぼ推測できることであり、新味を感じない。世の中の常識?である程度類推がつくともいえる。しかし、経済学のような制度化が進んだ学問領域では、主観的な概念である幸福度のような尺度が、主題として導入されるようになることは、かなり大きな変化である。新しい研究分野が開かれる可能性は高い。 「幸福」という概念を構成する要素が分析され、関連データ(たとえば、World Data Base of Happiness) が充実してくると、興味深い研究が生まれてくる可能性は高い。


References
Richard A. Easterlin. Population, Labor Force, and Long Swings in Economic Growth, 1968.
________. Happiness in Economics. Edgar, 2002. 
________. "Building a Better Theory of Well-being. In Economics and Happiness. Framing the Analysis. ed. L.Bruni and P. Porta, Oxford University Press, 2005.

大竹文雄「研究進む『幸福の経済学』」『日本経済新聞』2010年5月3日


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