時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

仕事と道楽

2010年07月15日 | 労働の新次元


 雇用情勢の厳しさは、緩和されることなく続いている。政治の行方はまた混迷してきた。こうしたことを反映してか、就職にかかわる相談やプロジェクトが増えてきたような気がする。

 最近は、その中で仕事にやりがいを感じられないという訴えに注目してきた。人生における仕事の占める重みは大きい。仕事がつまらない、関心が持てないということは、働く本人にとっても、経営者にとっても不幸なことだ。自分のしていることが、社会の役に立っているのか分からなくなったという感想も聞かれる。

 世の移り変わりとともに、仕事そして職業の内容も大きく変化してきた。当然、労働者や経営者の仕事についての考え方も変化してきた。その中でどうすれば、自分の仕事や職業にやりがいを見いだせるのだろうか。毎日が充実し、楽しくてしかたがないという恵まれた仕事はなかなか見つかるものではない。仕事がやりがいがないという問題にどこで線を引くかは、判定上かなり難しいところがある。さまざまなことを考慮しなければならない。答は簡単には見つからない。

 しばらく前から少しずつ読み直している夏目漱石の著作で、興味深い小品に出会った。『道楽と職業』というタイトルで、明治44年8月に明石で行われた講演を書き下したものだ。「道楽」と「職業」という一見奇妙な組み合わせに惹かれた。この作品、時代が時代だけに、今日では不適切と思われる表現も含まれているが、その点に留意して少し紹介してみる。(ここでとりあげる問題以外にも興味深い点が数多く含まれているが、詳細は原作をお読みください)。そこには現代にも十分通じる労働観や仕事観が平易な言葉で述べられている。

 漱石は冒頭、次のように云う。「道楽」という言葉が与える意味は、受け手によってかなり変わるかもしれない。そして、次のように述べている。「道楽と云いますと、悪い意味に取るとお酒を飲んだり、または何か花柳社会へ入ったりする、俗に道楽息子と云いますね、ああいう息子のする仕業、それを形容して道楽という。けれども私のここで云う道楽は、そんな狭い意味で使うのではない。もう少し広く応用の利く道楽である。善い意味の道楽という字が使えるか使えないか、それは知りませぬが、だんだん話して行く中に分かるだろうと思う。」 

 このように、飄々として行方定まらぬような出だしから、結論につなぐ話し方は、さすがなものだ。漱石は先ず、日本に今(明治末の段階)職業が何種類あって、それが昔に比べてどのくらいの数に増えているかということを知っている人は恐らくないだろうと述べ、産業の発展に伴い、多数の新しい職業が生まれていることに言及する。そして、学卒者などの仕事を求める人が、その変化に対応できていないことを指摘する。せっかく苦労して大学などを卒業したのに、職に就けず親元で無為に過ごしたりしている人たちである。明治末年、100年近い昔にも似たような問題はあったのだ。

 この問題に対応するために、漱石は「かつて大学に職業学という講座を設けてはどうかということを考えた事がある。」と述べる。別にこの考えにならったわけではないが、今日多くの大学は「キャリア教育」などと称し、学生に世の中の職業に関わる情報を提供するサービスを行っている。それがどれだけ信頼に足るもので、意義があるかはかなり問題なのだが、ここではとりあえず触れない。

 さて漱石は、専門化の進展とともに、博士の研究のように「多くは針の先で井戸を掘るような仕事をする」ことが増え、「自分以外に興味もなければ知識もないような事項を穿鑿しているのが大分あるらしく思えます。」と、「末は博士か大臣か」といわれた当時の世の風潮を皮肉っている。博士を拒否したといわれる漱石の面目がうかがわれる。

 他方で、文明が発達して行くにつれて、人間の相互の依存関係も深まり、「自分一人ではとても生きていられない人間が増えている。」、そして 「内情をお話すれば博士の研究の(中略)現に博士論文と云うのを見ると存外細やかな題目を捕らえて、自分以外に興味もなければ知識もないような事項を穿鑿しているのが大分あるらしく思えます。」 とも述べている。こうして一方では便利になる反面、暮らしにくくなる世を乗り切る道として、「我田引水のように聞こえるが、本業に費やす時間以外の余裕を挙げて文学書を御読みにならん事を希望するのであります。」と述べる。ここまできて、漱石先生の掌中に取り込まれたなと思い当たる。

 漱石はさらに続けて、「文明が発達して行くにつれていやしくも道楽である間は自分に勝手な仕事を自分の適宜な分量でやるのだから面白いに違いないが、その道楽が職業と変化する刹那に今まで自己にあった権威が突然他人の手に移るから快楽がたちまち苦痛になるのはやむをえない。」 ここで、読者は「道楽」と「職業」の間に惹かれた厳しい一線にはたと気づかされる。

 この厳しい世の中で道楽を追求するには、自分の意志の確立と対象への専念が不可欠だ。自分の仕事に興味を見いだせない人は、この点を良く考えてみることが必要なのだろう。道楽という概念、思想を、現代の職業の中にどれだけ取り込むことができるか。先が見えなくなり、やりがいが感じられなくなっている仕事に光を取り戻すために、道楽の要素をどれだけ取り込めるか考えることは、大きな意義があるように思える。


 

夏目漱石『道楽と職業』、明治44年8月明石にての講演

コメント
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