時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

速やかな癒しを祈りつつ

2011年03月17日 | 絵のある部屋

 
Georges de La Tour. Saint Sebastian Tended by Saint Irene, Kimbell Museum

聖イレーヌは17世紀以来、疫病の守り神、看護婦の守護聖人とされてきた。



  明け方、余震でたびたび目が覚める。つとめて気にしないようにしているのだが、潜在意識が働き、神経が緊張しているのだろう。

 このところ、あたかも「地球最後の日」を見ているかのようだ。少し長く生きてきたばかりに、
かなりの悲惨・悲哀の現場にも出会ってきた。多少のことには動揺しないと思ってはいる。文字通り灰燼と帰したふるさとの戦後、何度かの天災、異国の地で図らずも遭遇した「大停電」から、予想もしない災厄にも見舞われ、とっさの判断で危うく難を逃れたこともあった。地下鉄サリン事件も電車一台の違いだった。9.11は映像で見たが、このたびの大震災のごとき自然の恐ろしさには比すべくもない。科学の進歩を過信し、17世紀の人たちが抱いていたような自然への畏怖の念が、薄れていたのだろうか。

  今回の事態は、これまでのいかなる経験とも異なる。あまりに冷酷・無残な衝撃だ。「
3.11」が今後人々の間にいかに受け継がれ、記憶されるかはまったく分からない。それどころか、震災は未だ終わったわけではない。現在も拡大・進行中である。いつ終息するのか、誰にも分からない。

 私自身も身辺に探し求めながら、いまだ生死が確認できない人がいる。連絡の道は閉ざされており、ついTV映像の中に目をこらしてしまう。被災地の惨状を目の前にして、羽根があれば、毛布一枚、水のボトル一本でも届けてあげたいとも思う。

 原子力発電所事故によって、あたかも自らホラー映画の主人公たちのようになってしまった人々の有りようにも言葉を失う。エゴイスティックになりがちな状況は分かる。しかし、「人の弱みにつけこむ」ほど、人間として軽蔑されるべき行為はない。為替投機についても同様だ。現実は苛酷だが、それ故に冷静な判断と暖かい対応が欠かせない。なによりも被災された人々への「人間愛」を大事にしたい。災害はいつ、誰にふりかかるのか分からない。

 
明らかに国難ともいうべき惨事だ。危機に立ち向かう国民の資質が問われている。戦後の苦難を克服してきたわれわれのどこかには、その資質が残っているはずだ。

 
今はひたすら壊れてしまった「パンドラの箱」を封じ込めることに全力を尽くそう。国民の叡智を集めれば、決して克服できないはずはない。

 

 

提案:

★「震災追悼日(週)」を設け、日本人のそれぞれがこの国や自らのあり方、行く末
を考えたらどうだろうか。適切に導入すれば、電力需要削減、被災地支援の効果も高まるだろう。日本人の誰もが、苦難を共有すべき時だ。

 

  



 

 

 

 

 

 



コメント (4)
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