時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

フェルメールの帽子(1):すべての道は中国に

2011年03月10日 | フェルメールの本棚

 
 

   『フェルメール《地理学者》とオランダ・フランドル絵画展』(3月3日―5月22日、東京、渋谷 Bunkamura ザ・ミュージアム)が開催されている。

 またフェルメールですか(笑)という気がしないわけではないが、日本にはフェルメールが好きな人が多い。17世紀オランダ美術の企画展にはフェルメール、印象派の展覧会にはモネが入らないと観客数を稼げないともいわれている。

 『地理学者』1669年頃、53×46.6cm、油彩・画布、フランクフルト、シュテーデル美術館


 今回、出展されているフェルメール作品『地理学者』(上掲、1669年頃)は、室内の男性だけを描いた2点のうちの1点だ(もう1点は『天文学者』として知られる作品)。この『地理学者』も、これまで何度か見ているのだが、同じ画家の他のジャンルの作品に比して、どこか迫力に欠ける気がする。

 
なぜなのか、そのわけを考えてみた。ひとつの原因は、作品自体が比較的小さいことに加えて、描かれた男性の顔に陰影が少なく、単調に見えることだ。あるいはモデル自身が実際にこうした容貌だったのかもしれない。あまり日の当たらない部屋にこもって、研究していた学者のイメージだからだろうか(笑)。モデルとしては、フェルメールと同年にデルフトに生まれ、顕微鏡を発明したことで知られるアンソニー・ファン・レーウエンフックではないかとの説もあるが、レーウエンフックの肖像画は別の画家によって制作されてもいて、管理人は最初に見た時からトロニーではないかと思った(その理由は、長くなるので別の時に)。

 フェルメールの室内風俗画の作品の多くは、自宅工房の同じ部屋で描かれたものだが、左側の窓から射し込む光の明度の点からすると、他の作品よりも室内に広く光が射し込み、全体に明るく描かれている。新しい方向を模索する画家の意図があったのかもしれない。地理学者の身につけたガウンに代表される明暗の表現は、本作以降の作品に共通する最も大きな特徴のひとつであるとされている、また、地理学者の背後の棚に置かれているのは、おそらく『天文学者』に描かれる天球儀の作者と同じアムステルダムの地図製作者ヨドクス・ホンディウスの手による地球儀であると推測されている。画面右部には地図が配されている。後述するが、両作品を含めて地球儀や地図に示されている部分、そして品物の配置と含意はきわめて興味深い。 


 この『地理学者』と『天文学者』は、研究者間に異論もあるが、それまでの女性を中心に愛や恋をモチーフとして描いた風俗画ジャンルの作品と一線を画して、フェルメールが別の方向への転換を模索した結果ではないかとの解釈も提示されている。

世界史への展望
 それは、現在はオックスフォード大学の中国歴史学の教授であるティモシー・ブルック『フェルメールの帽子:17世紀グローバル世界の暁』で展開した世界でもある。この著作は2007年に刊行され、世界的に大きな話題を呼んだ。

 フェルメールに関する書籍はすでに数多いが、経済史家の観点からフェルメールの家庭、とりわけその財政基盤に深く接近したモンティアスの画期的な著作などを別にすれば、多くは美術史や美学の立場からの研究であり、やや行き詰まった感がすることを否めなかった。ブルックの著作はフェルメールに関する美術史的視点というよりは、専門の中国学をベースに、フェルメールの作品に描かれているものを手がかりとして、17世紀当時の世界史的意義を考察した著作である。その材料は別にフェルメールでなくとも良かったと、ブルック自身述べている。フェルメールの絵画論や美術史論と思って、本書を手にとられると、期待を裏切られるかもしれない。

フェルメールの帽子
 ひとつの例を紹介しておこう。フェルメールの作品『士官と笑う女』Officer and Laughing Girl (上掲書籍表紙)は、一人の半ば後ろ向きの男と若い女性が対面している光景である。さしずめ、若い男女のデートの光景を描いたとみられる。当時よく見られた光景のいわばスナップ写真のようなものだ。女性の明るい笑顔が印象的だ。他方、オランダの海軍士官と思われる若い男性は、横向きで表情はあまり分からない。ブルックは絵画的側面にはほとんど立ち入らず、男がかぶっている大きな毛皮の帽子に着目する。
 
この帽子はビーバーの毛皮をなめすことなくそのまま使った高価なもので、当時の流行であった。かぶっている男も恐らく得意なのだろう。帽子の原料であるビーバーは、17世紀当時未だ探検中であった新大陸カナダのセントローレンス川・5大湖地域を中心に、先住民インディアンとの交易を通して、ヨーロッパにもたらされたものであった。大量のビーバーや狐などの毛皮がヨーロッパへ持ち込まれた。
 
フランスのサミュエル・シャンプレーンを始めとする各国からの多くの探検者が、新大陸を目指していた。1534年にはジャック・カルティエがガスペ湾に十字架を立てている。セントローレンス川、ハドソン川流域の探検・開発については、このブログでも記したことがある。セントローレンス川に流れ込むサガニー川流域もビーバーの多く生息した所であり、多数の毛皮商人が入り込んだ地域だ。先住民族との接触などを通して、推測を含むさまざまな興味深い話が生まれた。

新大陸の先にみえる世界
 注目すべき点は、こうした探検家や冒険家の究極の目的は、北米の新大陸ではなく、さらにその先にある中国であった。ヨーロッパから西へ西へと向かえば、中国に到達することができると考えられていた。その考えは誤りではなかったが、道は遠かった。アフリカ喜望峰をまわる道の方が早く開かれることになった。ポルトガルは1517年に明との貿易を開始している。
ブルックが、フェルメールの作品に描かれた細々とした物品に着目しているのは、それらから推察できる、フェルメール(1632-1675)、レンブラント(1606-1669)、そしてオランダ・フランドル地方の画家たちが活躍した17世紀の世界史的意義をひもとくためである。まさにこの時代に、世界がひとつのものとして認識される「グローバル時代」の暁が訪れようとしていた。

 フェルメールが生涯を過ごしたデルフトも、その世界のひとつの拠点であった。ブルックは、フェルメールの作品「デルフトの眺望」を題材として著作を書き出している。かつて、オランダのティンベルヘン研究所に短期間招かれた折にデルフトも訪れたが、現代貿易の中心はすでにロッテルダムなどへ移り、フェルメールの時代とさほど変わりはないのではと思えるほど静かな町だった。

 
新大陸、そしてそのはるか彼方にある中国に着目していたのは、東インド会社に代表されるオランダばかりではなかった。ポルトガル、スペインなどヨーロッパの有力国は虎視眈々と東方への道を狙って、16世紀以来、航路開拓を続けてきた。ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593-1652)が、フランス王室付き画家であった時の宰相リシリューは、カナダ植民へ大きな野望を抱いていた。探検家ジャック・カルティエがガスペ湾を発見した1534年から、1763年のパリ条約締結までの期間、フランスは北米に大きな勢力圏「ヌーベル・フランス」を擁していた。
 
 フェルメールの作品の室内への光は、グローバル化を迎える新しい時代の曙の光だった。絵を見ることは、考えることだという思いが一段と強まる。


 

 トロニー(tronie)、オランダ語で「顔」の意味。17世紀オランダの画家が描いた、印象深い容貌や珍しい衣装の人物の顔や胸像。それ自体はモデルに基づくことが普通だが、肖像画として描かれたものではない。
 
Timothy Brook. Vermeer’s Hat: The Seventeenth Century and the Dawan of the Global World. New York, Berlin, London: Bloomsbury Press, 2007.pp.372.

ちなみに、著者のティモシィ・ブルックはカナダ人で、研究領域には中国明王朝の社会史、第二次大戦中の日本の中国占領、世界史における中国の歴史的位置などを含む。現在は Shaw Professor of Chinese at the University of Oxford and Principal of St. John College, University British Columbia.



このたびの東日本大震災で被災された皆様に、お見舞い申し上げると共に、不幸にして震災の犠牲になられた方々には、心からお悔やみ申し上げます。

 


 

コメント
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