思いがけないことから、マーガレット・サッチャーを知らない人々の時代にいることに気づかされた。その折、ふと思い出したのは、ヴァージニア・ウルフの名作『ダロウエイ夫人』 Mrs Dalloway(1925年)*だった。これまで文学とはおよそほど遠い分野で仕事をしてきたが、いわば人生の舞台の幕間に出会い、印象に残る文学作品のひとつであった。加えて、最近、ロンドンのビッグベンの内部見学を初めて許された日本人(40年以上にわたり京都大学時計塔守をしていた方)の話が『朝日新聞』(2011年10月29日夕刊)で報じられ、思い浮かんだこともある。
ウエストミンスターに20年以上にわたって住む主人公ダロウエイ夫人は、鐘の音を聞くたびにさまざまなことを思い浮かべる。鐘の音は帰らぬ時を告げる響きでもある。この作品の象徴的なシーンだ**。
1997年に映画化され、こちらも大変感銘を受けた。ダロウエイ夫人を演じたヴァネッサ・レッドグレイヴが素晴らしかった。さすがに両親、家族などの多くがスターである家系に咲いた大輪の花だ。舞台、スクリーン上では、すでに数々の栄誉に輝いていた大女優だが、この作品では特に大きな受賞はしていない。しかし、光と陰影が深く混じり合った役柄を見事に演じていた。ウルフの原作が忠実に描かれていたと思う。ヴァネッサ・レッドグレイヴには、個人的にも不思議と思い浮かぶことが多いのだが、ブログではとても書ききれない。
最初の出会い
この作品を初めて手を取ったのは40歳代の頃だったろうか。大変緻密に考え抜かれた構成だが、なんとなく女性作家らしい繊細さを含みつつも憂鬱な作品だなあという読後感だった。これは同じ時に前後して読んだ『灯台へ』 To the Lighthouse についてもそうだった。それが、変わってきたのは、1990年代半ばにイギリスにしばらく滞在した頃からだった。
せわしない日本の日々から解放され、人生に幾度もない貴重な幕間の時間を楽しんだ。ケンブリッジやロンドン市内の書店や画廊に時には週に2-3度足を運んだ。その折、書店のモダーン・クラシックスの棚で目にとまり、違った環境でもう一度読んでみようかと思い、手にした一冊だった。ヴァージニア・ウルフが、経済学者J.M. ケインズも属していたブルームズベリー・グループの一員であったことも、再読を促した背景にあった。
第一次世界大戦後のロンドンでのクラリッサ・ダロウエイの一日が描かれている。イギリスの6月は光溢れ、爽やかで大変美しい。花々も一斉に咲き誇る。人々は、その時を待って薄暗く陰鬱な長い冬を耐えているかのようだ。政治家を夫に持つダロウエイ夫人は、その日、夫のためにパーティを開く予定を立てている。その一日の中に、彼女の人生の過去、現在、そして避けがたく忍び寄る老いと死が実に見事に重層的に描かれている。
すべてを一日の中に
一日の中に人生を描き出す構成は、今まさに国家破綻の瀬戸際にあるギリシャの名映画監督テオ・アンゲロプロスによる『永遠と一日』(1998年、ギリシャ・フランス・イタリア合作)でも使われていたアイディアでもある。イギリスの政治家の夫人、バルカン半島の現代移民の前線と、背景はまったく異なる。唯一共通しているのは、作品を鑑賞する側の人生の年輪次第で印象が大きく異なってくることではないか。これほど人間の熟成度が問われる作品に出会うことは、そう頻繁にあることではない。
生来かなりの「本好き人間」であることは自認するのだが、近頃の書店で平積みにされている書籍のほとんどは手に取ることはない。書棚であまり人目につかない分野や片隅に押しやられているようなタイトルに関心を持ってきた。
この作品『ダロウエイ夫人』には実は多くのversions、そして翻訳があるようだ。最初に手にしたのは、Penguin Modern Classics に含まれた一冊だった。邦訳もいくつか存在するが、手元にあるものは、下記の丹治愛氏翻訳による一冊である。きわめて丁寧な翻訳に加えて、「訳者あとがき」には、作品ならびにヴァージニア・ウルフとその時代環境について、詳しい解説も付されている。混迷と不安に覆われる今日、人生の持つ意味、そしてその微妙に流れゆく世界にしばし浸ってみたいと思う方に、お勧めの一冊である。
* ヴァージニア・ウルフ(丹治愛訳)『ダロウエイ夫人』集英社、1998年。
そういえば、ケンブリッジでこの名作を翻訳された丹治ご夫妻にも、お会いしていた。せっかくの環境にいながら、ウルフについて詳しいお話をうかがう機会を逸したことを悔やんでいる。
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Mrs Dalloway STIFFENED on the kerb, waiting for Big Ben to strike. There! Out it boomed. She loved life;all was well once more now the War was over.