フクシマのイメージは、歳末といわれる今日まで、ほとんど常に頭のどこかにあって、消えることがない。手仕事や思考が一段落した折には、かならず浮上してくる。これまでは、「忘却」という便利なステップが大脳の片隅へ追いやってくれたのだが、今回はまったく機能してくれない。例年のように、ブログを訪れてくださる皆様への年末のご挨拶も書けそうにない。
日本という国と日本人のあり方について、これほど考えさせられた年はついぞなかった。ジャーナリズムでは「平成が終わる日」(『文藝春秋』2012年新年特別号)が語られつつあるが、3.11は「平静が終わる日」でもあった。敗戦後、朝鮮戦争、石油危機など、この列島を揺るがす出来事がなかったわけではない。しかし、この小さな国は総じて恵まれていた。戦火を回避し、一定の振動域内に収まった、いわば日だまりのような平静を保ってくることができた。外国が自国の発展を目指すモデルと見た時期もあった。しかし、歴史の逆転の歯車は、20年ほど前から作動していた。3.11はそれを決定づけた。
平静な時代が長くなるほど、社会に制度的桎梏のようなものが蓄積され、さらなる発展を阻害する。第二次大戦後、日本、ドイツ、イタリアという敗戦国が大きな発展をとげたのは、日本の財閥に象徴される戦前の旧制度、軍需産業に代表される旧設備の多くが崩壊し、世界の先進性を体現したものへ生まれ変わったからだという議論が、経済理論の世界で注目を呼んだことがあった。日本は敗戦によって図らずも、国家体制のシステムがほぼ根本から革新された。しかし、半世紀を超える年月が経過すれば、知らず知らずの間に、多くの「旧制度」が生き返り、自らの手では変えがたいほどに積み重なり、深く社会に根を下ろしていた。
「大阪都」、「中京都」がジャーナリズムの話題に上りながら、なぜ「東北都」を創り出そうという発想が政治家たちの間に生まれないのだろうか。東北とその他の地域が断絶し、国民に大きな不安の源を残しながら、この国の再生などありえないことはさらに言を要しない。大地震の可能性がある地域が西へ拡大されたことを考え併せても、東北に発展の重点を移すことは大きなリスク回避にもなる。終戦直後の首都をイメージさせるほどの被災地の光景。これをこの国の復興・創成の場面に変える機会は今しかない。
今年はことのほか多くの先達、知人、友人たちを失った年でもあった。その中にはこれ以上、この国の崩壊を見たくないと言われてきた方も含まれる。
年末、身辺でひとつの出来事があった。首都の名実ともに中心部で、40年余の歳月、開所当時のままに維持されてきた小さなクリニックが閉じられた。創設者の医師が急逝されたことによる。開設以来、一貫して同じ空間、同じ設備で変わることなく診療を続けると宣言され、信じがたいほどの強い信念の下で、医療の前線で活動されてきた。自ら重大な病を抱えながら、亡くなる数日前まで診療に当たられていた。このブログ管理人も、相談に乗っていただいた。
さまざまな鎮魂の思いを込めて、新しい年を迎えたい。