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猛暑の日々も峠を越えたのか、暑さのなかにも秋の気配が感じられるようになった。晩夏の時である。この意味を実感するようになって、かなりの時が経過している。気温が下がり、脳内温度?が低くなったからか、思いがけない記憶が戻ってきた。
以前に、シュティフターの『晩夏』について短いメモを、このブログに記した時には思い出すこともなかったことである。それが今頃になってまったく突然、閃いたのだ。そのこととは、文芸評論家の高橋英夫氏が書かれた「『晩夏』の無限時間 シュティフターを読む」*と題したエッセイを読んだ記憶が、前後の脈絡もなくよみがえってきたことだ。すでに10年以上も前に手にした書籍である。しかし、その内容はかなり鮮明に記憶に残っていた。人間の頭脳の仕組みの複雑さを改めて実感する。
後回しにすると、たいていは遠い彼方へ記憶が飛び去ってしまう。急ぎ思い浮かんだことのメモをとる。書棚に二重・三重に書籍が押し込まれ、奥の方の書籍は表題が見えなくなり、いまやほとんど本来の役をしなくなっている書庫に向かう。文字通り書棚の片隅ではあったが、案に反して意外に簡単に見つけることができた。
エッセイは、高橋氏が某大学のドイツ文学科で毎週1回、学生とともに『晩夏』を読まれていたことから始まる。ドイツ語の本文だけで725ページもある著作であり、大学院生といえども、到底1年で読み通せる代物ではない(邦訳では文庫本二冊に収まり、大冊という感じはない)。現に高橋氏のエッセイが初出の『群像』に掲載された1992年時点で、購読開始後7年目になり、ようやくこの長大な著作のほぼ半分に達したところだと記されている。一年間で50ページ弱の進度だから、読了するまでには後7、8年はかかりそうだと記されている。
もちろん、高橋氏は読了されており、それだからこそ思うことがあって、テキストに採用されたのだろう。しかし、もし学生がこの授業だけで読むとなると、15年近く在学しなければならないことになる。髪が白くなりそうで気の遠くなる時間である。もちろん、高橋氏自身、一年間で読了することなどはお考えになっていないようで、仮に一章しか読めなくても、折に触れて全体について適切な説明、補填はされていたのだろう。
この作品、読んでいて時間が経過しているのか、ほとんど意識できない。高橋氏が「無限時間」と形容されているように、作品には悠久の時が流れ、ストーリー自体把握するに長い時間と忍耐を必要とする。シュティフターの構想とテーマ展開のあり方に改めて、考えさせられる。インターネット時代の人々にとっては、ほとんど耐えがたい緩やかさかもしれない。
部分的にほぼ同様な経験をした筆者ではあるが、到底ドイツ語で一冊読み通してみようという意欲はまったく起きなかった。その後、藤村宏氏の翻訳が刊行されて、ようやく全貌を見通せるようになった。ドイツ語学習のテキストに、難解で主題の全容もほとんど分からないこの著作のわずか一部分を使用することは、他にいくらでも適当なテキストがあるのにとその時は思った。しかし、ドイツ語の能力は進歩しなかったが、この難解な作品の存在については、記憶の片隅にはっきり留められていた。脳細胞のどこかにかすかに生き残っていたのだった。
本書を使ってドイツ語の購読を担当された先生は、その後若くして世を去られたが、高橋英夫氏同様、心中なにか期することがあって、テキストとして採用されたのだろう。
夏の終わり、西の空の美しい夕焼けを見ながら、また一章でも読み直してみるかという気持ちが生まれている。
*高橋英夫『ドイツを読む愉しみ』講談社、1998年