時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

17世紀のヨーロッパを見る目

2012年10月14日 | グローバル化の断面

 

 

Le singe antiquaire ('The Monkey Antiqarian')
oil on canvas, in a painted oval, unframed
32½ x 25¾ in. (82.5 x 65.4 cm.)
Paris, Musee du Louvre

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 東京で『シャルダン展』(三菱1号館美術館)が開催されている。出展されている作品は、シャルダンの全作品数と比較すると、決して多いとはいえないが、この画家特有の落ち着いた穏やかな色彩の静物画や世俗画を好む人には、見逃せない展覧会だ。静物画にしても、セザンヌともスルバランとも異なる、見る目に優しい、穏やかな色彩だ。見ていて心が休まる。かなりのシャルダン・フリークでもある筆者にとって、記したいことはきりがないのだが、今回は世の中にあまり知られていない作品との関連に触れたい。シャルダンの作品の中では、注目されてこなかった一枚の作品である(上掲)。

 シャルダンJean Siméon Chardin (Paris 1699-1779) の『猿の骨董品屋』なる作品を見てみたい
。シャルダンには『猿の画家』なる作品もある。いずれも立派なガウンなどを着こんだ猿が、もっともらしく骨董品のメダルを拡大鏡で調べていたり、絵画の制作をしている光景が描かれている。美しい静物画や世俗画を好んで描いた画家が、なぜ突然、それから逸脱したようなこうしたテーマを描いたのか、気になっていた。

 残念ながら、今回の東京展の展示品にも選択されていない。シャルダンの主要な制作ジャンルからは外れていて、あまり紹介されることがない。手元にあった2000年にパリ、デュッセルドルフ、ニューヨーク、ロンドンで開催された
「シャルダン展」のカタログを開いてみたが、作品の記述はあるが、図版は含まれていなかった。うろおぼえだが、1997年の東京都美術館での『ルーブル展』では見たような気がする。しかし、その頃はとにかく忙しく走り回っていた時でもあり、詮索してみる時間もなかった。

 少し、話を進めると、シャルダンの生きた18世紀から、1世紀ほど前、「危機の時代」ともいわれた17世紀ヨーロッパが、グローバリゼーションの黎明期であったことは、これまでも断片的ながらも、何度か記したことがある。単なる日常の生活の一齣を描いただけに見えるフェルメールの作品も、別の目で眺めてみると、それまで見えなかった世界が見えてくる。

希有な天文・博物学者ペイレスク
 17世紀、電話もインターネットも未だなかった時代であったから、主たる情報の伝達は、手紙、人の移動による交流、書籍、絵画などの文物による情報の移送などが主たる手段であった。たとえば、カラヴァッジョの画風がいかなる経路と手段によって,ヨーロッパに伝播したかという問題は、それ自体きわめて興味深いテーマであり、すでにかなりの研究成果が蓄積されている。17世紀まで、長い間世界の文化の中心として光り輝いていたローマから新興の都市パリへ、さまざまな文化的情報や美術品が移転する過程(ヨーロッパの文化センターの移転)についても、最近研究者の関心が高まっていることについては、このブログでも一端を記したことがある。

 

Nicolas-Claude Fabri de Peiresc


 今回取り上げるのは、ペイレスクあるいはペイレシウス Nicolas-Claude Fabri de Peiresc (December 1580-24 June 1637)と呼ばれる希代の人物である。プロヴァンスの富裕な家に生まれ、エクサン・プロヴァンス、アヴィニオンなどで教育を受け、17世紀ヨーロッパきっての天文学者、考古学者、骨董品収集研究者、学識者として知られていた。博物学者といえるかもしれない。とりわけ、その骨董品収集の熱意と規模は想像を絶するものがあり、骨董品への趣味を博物学の次元にまで引き上げた偉大な功績を残した。

 特に,通信手段が未発達な時代に、自らの知的活動の手段として実に1万通を越える手紙を、ヨーロッパのほぼ全域そしてビザンチンにわたる各地の知識人と送受信していた。これらの手紙はそのほとんどが幸いにも記録として継承され、研究対象になっている。ペイレスの交信相手にはグロティウス、デュピュイ、リシユリュー、ガリレオ、ルーベンスなど、当時の政治家、学者、画家など多数の知識人が含まれている。タイプライターすらなかった時代、すべて手書きでの仕事であった。ひたすら感嘆するしかない。

 
 ペイレスクは当時は珍しかった天体望遠鏡観測をしており、1610年にはオリオン大星雲を発見している。月食も観測し、あのクロード・メランと月面の地図を制作していたが、作業半ばで世を去っている。この人物の60年に満たない生涯における活動を、今の時点で回顧、展望してみると、その視野の広さ、博識、そして時代の文化的主導者への刺激などに驚かざるをえない。短い人間の一生に、これほど広範囲なことができるのかと思わされる。



Peter N. Miller, Peiresc’s Europe, Learning and Virtue in the Seventeenth Century


ラ・トゥールとのかかわり
 
ジョルジュ・ド・ラ・トゥールについて、ある程度ご存じの方は、パン屋の息子であったジョルジュの秘められた才能を見出し、さまざまな支援の手を差しのべて、17世紀フランス絵画の巨匠といわれる今日の評価につなげた人物のひとり、ロレーヌの代官アルフォンス・ド・ランベルヴィレールの名をご存知かもしれない。代官は友人のニコラ・ド・ペイレスクと美術品などの交換もしていた。ある時、ペイレスクはジャック・カロの作品を入手した。それをみて代官は「ペイレスクは生まれつきの鑑識眼があるな」と誉めたという。そして、ラ・トゥールの作品も買ったらどうかと勧めた」ともいわれている(Thuillier, 1992)。

 
 シャルダン研究の第一人者ピエール・ローザンベールは、ここに取り上げた猿のモティーフは、いずれも伝統的な制作モデルに適合さえしていれば、高く評価されていたパリの美術界のエスタブリシュメントに対する批判であるという。当時のパリの画家たちが束縛されていた、古い慣行や風潮が風刺の対象になっているようだ。自由な芸術活動に制約となるアカデミーの実態を暗に批判しているのかもしれない。旧態の踏襲は、しばしば創造よりも重視されていた。骨董品屋についても、絵画の収集家や専門家たちへの風刺なのだろう。ロザンベールは、シャルダンは、モチーフを1世紀前、17世紀のフレミッシュの画家たちの作品から借りていると記している。すでにシャルダンの生きた18世紀には、17世紀のアイディアを借りることは、流行になっていたらしい(Rosenberg, 224)。

 絵画や骨董品の収集、古代趣味などが風刺の対象になっているようだ。古代の文物などを絶対視し、それに取り囲まれていることが目的となり、新しい時代を見通す創造的で真に哲学的なあり方を忘れている風潮だ。

 しかし、すべての収集家にこの風刺は当てはまらない。ペイレスクは単なる骨董収集家の次元を越えた17世紀では稀有な博物学者ともいえる存在であった。ヨーロッパ全域にわたる広範な知的視野と活動は、驚嘆に値する。後世には公的な博物館などが行った収集活動を個人の力でなしとげたといえる。シャルダンとペイレスクが直接関わるわけではない。この時代の文化・芸術活動の精神的次元にもう少し入り込んでみたい気がしているのだが。




Pierre Rosenberg, Chardin:1699-1779, Paris: Editions de la Reunions des musees nationaux, 1979, 224.

Peter N. Miller, Peiresc’s Europe, Learning and Virtue in the Seventeenth Century, New Haven and London: Yale University Press, 2000.

Chardin, exhibition catalogue organized by Royal Academy of Arts, and the Metropolitan Museum of Arts, 2000

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