Planet of the phones
The Economist, cover
このトピック、これまでブログにも記したし、それ以上に雑談などの折に話題としてとりあげ、その場で他の人たちの感想を聞いたりしてきた。しかし、ほとんど賛同者に出会ったことがなかった。
時は桜花爛漫の入学式の時期、うれしそうに輝いた顔の新入児童や新入生の顔が映し出される。心も高揚する。
4月6日、なんとなくTVニュースを見ていると、「スマホやめますか、それとも・・・・・」という衝撃的な?キャプション(見出し)が映った。思わず、目をこらすと、信州大学の入学式の光景であった。学長式辞で新入生、父兄などの参列者?に向けて、スマホに熱中しすぎると大切なものを失いますよとの学長のお話であった。(キャプションの「それとも・・・・・」の部分は正確には「信大生やめますか」という新入生は一瞬息を呑むようなお言葉だったようだ)。
我が意を得たり! やっと同考(同好)?の士に出会えたとの思いがした。これまでの人生で、多少、辞書編纂や新語の採否にかかわってきたこともあって、最初はスマホ、ケータイという言葉には、一時期「鳥肌が立った」。なぜスマートフォン、携帯電話と正しく書かないのかと。今は慣れてしまってはいるが、ある原稿に携帯電話と書いたところ、ケータイと赤字で直されてきたのには、言葉を失った。その後はケータイと書かないと採用されないかもしれないと、ケータイ(携帯電話)と多少反発心をこめて記すこともある。
実はこれまでスマホなるものに触れたことはない。ケータイにしても、職業上の必要で所持はしても、電源を切っていて、ほとんど使用したことはない。土日も仕事で働いていたような多忙な時もあったが、なんの不都合もなかった。
電車などに乗ると、向かい側の席に座った乗客のほとんどがスマホ、ケータイの画面に没入している光景は、もはや日常のことだ。今でも異様な光景、社会的病理現象?ではないかと思うが、「ケータイ無携帯」の少数派ゆえにあきらめている。
それでも、最近、テニスのマイアミ・オープンであったか、試合途中でプレーヤーがプレーを中断して、満員の観客席に向かって、なにやら注意している光景を目にした。観客の中にスマートフォンを使っている人がいて、その音にプレーヤーが平静さを乱され、注意したのだった。プレーヤーがどれほど神経を集中して試合に臨んでいるかを明瞭に伝えた光景だった。コートは一瞬静まりかえり、注意された人はばつが悪そうにしていた。
信州大学の学長が述べられたことは、1-2分の短いTVニュースだったので、正確に理解しえたか心許ないが、スマホにあまり熱中すると、大切な自ら思考する力を失いますよ、それよりも学生ならばこの人生の貴重な時期にもっと本を読み、友人と対面して話しをし、自ら考えなさいというお話のようであった。
普通の人は、聖徳太子ではないから、同時に多くのことはできない。スマホに没入している時間は、思考が浅いか停止している。スマホの文字は瞬時に消え去るから、書籍の文字のように脳細胞に長く残らないのではないか。ほとんど本を読まないという若い人たちが増えてから、ゼミなどでの議論が面白くなくなった。議論が展開してゆかない。知らないことはスマホで調べればいいという思いもあるのだろう。少し難しい言葉などが出てくると、すぐにスマホに手が伸びている。スマホに脳細胞を吸い取られてしまったのではないかと、思ってしまう。
世界は「フォーンの惑星」Planet of the phones (The Economist)と化して、スマホで覆い尽くされているから、いまさらスマホから離れなさいといっても仕方がないのかもしれない。就職活動もスマホに依存する時代になっている。実際、学長式辞の感想を求められた学生の顔には困惑、反発の色もあったようだ。しかし、一度スマホから離れてみる勇気も必要ではないか。きっと、新しい機会、世界が見えてくると思うのだが。