Claude (Claude Lorrain, 1604/5?-1682), A Seaport, 1644
クロード(クロード・ロラン) 海港風景
映画『ナショナル・ギャラリー:英国の至宝』National Gallery(制作2014年)を見る。昨年末ころからメディアの話題となっていたので、いずれ見てみたいと思ってはいた。映画の主題は、ロンドン、ナショナル・ギャラリーそのものだ。ナショナルの名が冠せられているだけに、国家的威信もかけた多くの名画が集まっている世界的な美術館だ。
個人的にも訪れた回数は、1960年代末から今日までかなりの回数になり、人生の中では断片とは言い難い重みを感じる。とりわけ、在外研究などでイギリスにいた頃は、ロンドンに出る機会があれば、しばしば足を運ぶ場所であった。もっともイギリスには若いころからのお気に入りの美術館が他にあって、訪問回数はそちらの方がかなり多い。
この映画、触れ込みによれば巨匠フレデリック・ワイズマン監督が、実に30年の構想を基に制作されたとのこと。2014年ヴェネティア国際映画祭栄誉金獅子賞を受賞している。巨匠には勲章が必要なのだろう。かなりの水準の作品と期待して見に行った。実際には、期待が大きすぎたのかもしれないが、やや拍子抜けした。1824年創立で、すでに190年の歴史を誇る重厚な建物に多くの名画を収め、連日世界中から多数の訪問者を受け入れる、この輝かしい大美術館の表ばかりでなく舞台裏も隠すことなく映し出してみせるというスタンスが、この映画の売り物とされていた。
確かに、この美術館に限らず、ひとりの観客として、展示されている作品だけを見て帰る人たち(実際にはほとんどがこの範疇に入るのだが)にとっては、ナショナル・ギャラリーというひとつの巨大な美術館の内実を少なくも映像の上では、かなり包括的に見せてくれるので、興味深い作品であることは間違いない。この一度や二度訪れたのでは、とても全体をイメージすることなどできない巨大な美術館を、なんとなく分かったような気にさせてくれる効果はある。ロイヤル・バレーまで登場させてくれる。今後のキャリアとして大きな美術館の学芸員などを志望する若い世代にとっては、新入館員教育プログラムのような役割をしてくれるかもしれない。
他方、すでに厳しい批評もあるようだ。「腐ったトマト」というのは最も酷な批評だろう。3時間近い映画であるにもかかわらず、あまり強い印象を与えない。カメラがこの巨大な美術館の表面を一点にとどまることなく、足早になめているような感じがする。多少美術史や美術館経営などを見聞きしている管理人などにとっては、3時間で見られる良く編集された美術館ガイドのような感じもした。う少し焦点を絞り込んだら、きっとはるかに面白い作品に仕上がったのではないかという贅沢な思いもある。たとえば、ある画家の作品の修復作業の過程がどれだけ長い時間をかけて行われているのか、表には出ることのない地味な作業がいかに深い熟練を要するかをみせてほしい。実際、上映後の周囲の人々の会話が耳に入った。テンポが早すぎてよく分からなかった、期待ほどではなかったという声が聞こえてきた。
とはいっても、次々と移り変わる画面を見ていると、色々考えさせられることも多い。突然、長い回廊のはるか向こうに、フィリップ・ド・シャンパーニュの『リシュリュー枢機卿』の立像が見えて、この作品はここに掲げられていたのか(同一主題の作品は複数ある)ということなどを改めて思い知らされる。何度も見たような気がする作品だが、脳細胞に残っているのは、どこの作品であったかと画面を見ながら考えるうちに、次々と映像は移り変わってしまう。同様に、ヤン・ファン・エイクの『アルノルフィーニ夫妻像』(1434)、カラヴァッジョ『トカゲに噛まれた少年』(1594)、プッサンの『パンの勝利』(1635--36)、クロード・ロランの『海港』 (1644)など、画面は観客に考える余裕を与えず、移り変わる。監督はいったいいかなる基準で作品を整理しているのだろう。美術史の記憶テストのような感じもする。
この映画で興味深いのは、もしかすると、映し出される名作よりも、人間の多様さかもしれない。美術館を訪れる人たちの表情や行動だ。たとえば、欧米の美術館では子供のころから先生に引率され、作品の前の床に座り込んで興味深くみている子供や絵にはまったく興味なくせわしなくあたりを動きまわっている子の姿をよく見てきた。美術館にはありとあらゆる老若男女が訪れる。そうした人たちがいかなる作品あるいは作品のどこに興味を感じてみているのか、この映画は流れが早すぎて、そうした関心にはまったく答えてくれない。
この映画を見るよりは、実際に美術館で作品に接した方がはるかに有益という厳しい批評も少なくない。それでも、この世界的美術館に行ったことのある人、ない人を含め、入場券代の価値は感じるのではないか。これも厳しい批評かなあ。