時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ロウソクはなぜ燃えるのか

2018年04月06日 | 書棚の片隅から

 

ジョルジュ・ド・ラ・トゥール作品部分
Q. 作品名はなんでしょう? 
 

 

17世紀初めのフランスでは、燃えている薪などの焔は身体に悪いといわれていたらしい。アンリIV世の侍医であったデュレ医師は当代きっての名医と言われていたが、暖炉の残り火が燃えているとすぐに水をかけて消したといわれる。ロウソクを見ても、身震いしたほどだと伝えられる。火が燃えるという現象が分からず、説明できない恐怖や神秘的なものを感じていたらしい。確かに、闇の中で焔が揺らめいているのを見ると、神の存在などを思ったのかも知れない。

このくだりを読んで、すぐに頭に浮かんだのは、子供の頃読んだマイケル・ファラデーの『ロウソクの科学』だった。小学生の頃は理科好きで、6年生の学芸会で塩素酸カリウムと二酸化マンガン(触媒)を反応させ、酸素をつくる実験をしたことなどを思い出した。今でも化学反応式や装置を思い出すことはできる。『ロウソクの科学』を読んだのはその頃だろうと思い、調べてみたところ、日本語訳と年代から『ロウソクの科学』矢島祐利訳(岩波文庫、1933年)であったと考えられる。当時はかなり読まれたのではないかと思われる。ファラデーの名はよく知られ、実際、世界中で理科への入門書として使われていた。ただ、肝心の内容については、あまりよく覚えていない。「ロウソクの画家」ともいわれた「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール」のことも思い出し、もう一度読んでみたいと思っていた。

素晴らしい新訳
過日、書店でたまたま新訳『ロウソクの科学』(竹内敬人訳、岩波文庫、2010年)が目に止まったので早速購入し、読んでみた。驚いたのは、懇切丁寧で目配りのきいた素晴らしいい一冊であることだった。なぜ、もっと早く読まなかったのだろうという思いがした。ファラデーの6講にわたる講演もさることながら、訳者の『ロウソクの科学』ができるまで〜訳者前書きに代えて〜、「ファラデー 人と生涯」、文献・資料、「訳者後書き」が実に充実しており、感激した。昨今、しばしば見られる粗雑な翻訳書とは明らかに一線を画する、それ自体ファラデーの研究書のごとき印象を受けた。読後、大きな充実感とともに、多大な努力を傾注された訳者に感謝の思いでいっぱいであった。

柱となる6つの講義は、ファラデーが行った青少年のためのクリスマス講演の講義録であった。その部分も大変わかりやすく、改めて若い世代への講演のお手本のような感を受けたが、ブログ筆者がとりわけ訳者に感謝の思いを抱いたのは、ファラデーの生涯についての詳細な解説・記述であった。少し、その概略を記してみる。

ファラデーこと、マイケル・ファラデー (Michael Faraday, 1791-1867)は、サリー州の村で生まれ、父親が鍛冶屋であった。出自は労働者階級といえる。ファラデーが生まれた頃に田舎からロンドンへ移住した。産業革命が展開し始めた頃であり、多くの人がロンドンなどの都市へ移住していた。

ファラデーが受けた学校教育とはせいぜい読み書きの手ほどき程度であり、13歳の時に書籍商で製本業も営むリボーという名の店に使い走りとして無給で雇われ、約1年後の1805年に製本工見習いとなり、約8年を過ごした。当時の徒弟制度ではごく当たり前の経路だった。この頃、仕事で目にした電気関係の書物に興味を惹かれ、化学と電磁気学に関心を持つようになっていた。大変仕事熱心だったので店主のリボーや顧客からも目をかけられていたらしい。

才能を見出した人
リボー の店の上得意で富裕な紳士であり名高い音楽教師であったダンスから、ある日、当時ロンドンの名物でもあった王立研究所教授のハンフリー・デイヴィー(Sir Humphry Davy, 1778-1829)の最終公開講演シリーズの入場券(4回分)をプレゼントされた。ダンス氏もファラデーの日頃の働きぶりを見ていたのだった。この講演は当時ロンドン社交界の名物行事となっており、入場券も徒弟見習いの身ではとても手が届かないものだった。ファラデーはこの好意が大変嬉しかったのだろう。克明にノートを取り、お得意の技術で立派に製本化した。

進学の道も閉ざされていた徒弟のファラデーは、製本のために送られてきた文献や大英百科事典(Encyclopaedia  Britannica)の記述を読んで独学で知識を蓄積していたようだ。余談だが、ブログ筆者も戦後出版物が十分なかった頃、平凡社と富山房の百科事典を楽しみに読んでいた。インターネットなき時代、これ以上の情報源は他に見当たらなかった。

科学の道への勉学の思いが絶ち難かったファラデーは、その後王立研究所の会長やデイヴィー教授に仕事の可能性を尋ねる書簡を送ったが、当時の階級社会ではほとんど実現されない、不可能な願いだった。その中で、デイヴィー教授はその熱心さに好感を抱いたようだが「科学の道は厳しい。自分の仕事(製本工)に専念するのが良い」との書簡を送っていた。

思わぬ幸運
しかし、まさに幸運というべきだろう。デイヴィー教授の助手が喧嘩が原因で解雇され、助手が必要になった。ファラデーは急遽採用され、週給25シリング、研究所内の居室と石炭、ロウソク込みで雇われることになった。1813年3月1日に正式辞令が交付された。デイヴィー教授の父親も労働者階級の木工であったことなども、ファラデー採用に影響していたかもしdれない。

王立研究所は財源確保のために、富裕な上流階級を対象に研究所の教授が最新の科学情報などについて講演をしており、デイヴィー教授はそのためにも大変めざましく活躍していた。広範な研究活動の成果の一つとしての坑夫用安全燈デイヴィー・ランプの発明でも知られている。

他方、ファラデーは研究所の下級職員ではあったが、人生を託する所を得て真摯に研究に励んだ。そこへ再び思わぬ幸運が舞い込む。大陸フランスで科学研究に大きな関心を寄せていたナポレオンは、仏英が交戦中であったにもかかわらず、デイヴィー教授に入国許可と様々な恩典を与え、フランスへ招聘する。ファラデーも一行に加えられ、形の上ではデイヴィー教授夫妻の従僕としてではあったが、当時としては莫大な資金を要するグランド・ツアーに随行することになった。正規の高等教育も、外国語教育も受けることができず、社会的活動の機会もなかったファラデーにとっては、このツアーはその後の活動に多大な財産となった。デイヴィー教授はこの旅行の途上、ファラデーにとって個人教師のような立場にあり、ファラデーにとってはまたとない機会となった。ファラデーにとっては名実ともに「グランド・ツアー」であった。

ファラデーはその後着々と業績を上げ、1824年にはイギリスの科学者にとって最高の名誉である王立協会会員に選ばれた。しかし、世俗的な栄誉や地位には恬淡としていた。ナイトの称号も、王立協会の会長職もすべて辞退して、「ただのマイケル・ファラデーでいたいのだよ」と知人に述懐したと伝えられる。ブログ筆者のごひいきの画家L.S.ラウリーの人生観に近いものを感じる。

ロウソクに火をつける人
ファラデーの生涯を振りかえると、階級の壁などの限界を乗り越えるための本人の絶えざる努力が大変印象的である。いかなる時でも諦めることなくたゆまぬ研鑽、努力を続けた。そして、その誠実な人柄、秘めたる能力、とりわけ、ファラデーの才能を見出し、その発揮のために支援の手を差し伸べた人々の存在が印象に残る。ファラデーはそうした恩人の好意に最大限の努力と成果で応えている。
なんとなく、パン屋の息子として育った画家ラトゥールの隠れた才能を見出し、さまざまに支援した教養人ランベルヴィエールを思い起こさせる。逆境にあっても努力を怠らない人の隠れた才能ともいうべき「ロウソク」を見出し、それが輝くように火をつけた人の存在と役割を十二分に感じる。現代に置き換えると、教師を軸とする教育の本来あるべき役割、奨学制度などの社会的意義も含めて多くのことを考えさせるファラデーの人生であった。

最後に、若いファラデーを科学史の上で今日に残る金字塔としたクリスマス講演、正式には「少年少女の聴衆のためのクリスマス講演」が今日まで当時と同じ形で6回の連続公演として、年末から年初にかけて行われているということに、イギリスという国の持つ大きなレガシーを感じる。減少著しい若い世代の活躍に未来をかける日本のことを考えると、教育の持つ重みと広がりにさまざまなことを考えさせられる。

 

* Pascal Quignard, Gerges de La Tour, Flohlic  Eitions, Paris, 1991, p.2

ファラデー著(竹内敬人訳)『ロウソクの科学』岩波文庫、2010年
本書には日本で出版されたファラデーに関する邦訳、関連文献、海外で刊行された主要な海外文献リストも掲載されており、若い世代を含めて教育関係者にとっても極めて有益である。




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