Rembrandt van Rijn(Dutch, 1606-1669), Flora, probably ca.1654, Oil on canvas, 39.2/8x 36.1/8 in.(100 x 91.8 cm). Gift of Archer M. Huntington, in memory of his father, Collis Potter Huntington, 1926 (26.101.10).
かなり寒い日もあった今年の冬だが、一雨ごとに暖かくなっている。花と春の女神フローラのお出ましも近い。フローラで思い出すのは、やはりレンブラントだ。「フローラ」(上掲作品)が、波風高い大西洋を越えてニューヨーク、メトロポリタン美術館に落ち着くまでの来歴を見ていると、実にドラマティックで思わず引き込まれてしまう。これだけで一編の物語が十分書けるほどの面白さがある。メモ代わりに触りだけ記してみた。
レンブラントは、サスキアをモデルとしたかもしれないと思われる「フローラ」を2点描いている。1点は、ロンドン、ナショナル・ギャラリーが所蔵しており、もう1点はニューヨーク、メトロポリタン美術館が所蔵している。
ナショナル・ギャラリーの「フローラ」(下掲作品)は、サスキアの肖像画を兼ねていたようでもあり、しっかり描き込まれている。他方、メトロポリタンの「フローラ」(上掲)のモデルは、もしかするとヘンドリッキェかもしれないが、あまり似ていない。画家の想像上のイメージのようにも思える。花を差し出す女性の横顔が、のびのびと描かれており、花と春の女神のイメージによりふさわしい感じがする。
17世紀の画家の中でもレンブラントの作品は、幸いかなり多数残っており、情報量もかなり豊富だ。画家の活動の中心が17世紀、隆盛を極めたアムステルダムであり、画家の名声が生前からヨーロッパ全域に広く伝わっていたことが大きな原因だろう。
Flora
1635, oil on canvas
123.5 x 97.5 cm.
National Gallery, London
ニューアムステルダムの栄光
今日残るレンブラント作品は世界中に分散してはいるが、真作とみなされる作品は600点余とされている。そのうち70余点がアメリカにある。もちろん、すべてが傑作というわけではない。それでも、ニュー・アムステルダムといわれたニューヨーク、メトロポリタン美術館には名品が多く所蔵されている。
昨年から今年にかけて、「レンブラントの時代:メトロポリタン美術館のオランダ絵画」 "The Age of Rembrandt: Dutch Paintings in The Metropolitan Museum of Art" と題して、かなり大きな企画展が開催された。この展示については、別に記すことにしたい。
レンブラントの「フローラ」がメトロポリタンに収まるまでは、かなり多くの波風を経験している。あの「クレードル・ウイル・ロック」の時代を挟む時期が、とりわけ大きな意味を持つ。 アメリカ史の最も面白い時代のひとつであり、アメリカ社会は発展への躍動感に満ち溢れていた。美術との関係では、この時期に驚くほどの財を成した実業家たちの遺産が、格別の意味を持っている。
鉄道王のコレクション
20世紀初め、アメリカ西部開拓に大きな役割を果たした鉄道事業の立役者の一人コリス・ハンティントン Collis Potter Huntington(1821 – August 13, 1900) から話を始めよう。
鉄道事業で巨額の富を蓄積したハンティントンは、有り余る富の一部で美術品コレクションを始めていた。その妻アラベラ・ハンチントンArabella Huntington は、夫コリスが1900年に亡くなった後、その遺産を継承し、アメリカで最も富裕な女性の一人となった。
1910年代に、アラベラは、自ら素晴らしい美術品コレクションを創ろうとした。1908年頃から、夫の甥で同様に鉄道事業で財をなしたヘンリー・ハンチントンHenry E..Huntington(1850-1927)とともに、後のヘンリー・E.ハンチントン美術画廊 Henry E. Huntington Library and Art Gallery in San Marino, Californiaの創設に力を尽くした。ちなみに、二人は1913年に結婚している。
大画商の力
そして 1907年に、アラベラはおよそ250万ドルという巨額を、パリの一大コレクターであったロドルフ・カンRodolphe Kann(1844-1905)のコレクションである家具と絵画作品の購入に投じた。カンはドイツ・フランス系の鉱山主であった。彼は、後のベルリンのカイザー・フリードリッヒ美術館の創設者でもあったウイルヘルム・ボーデ Wilhelm Bode の力を借りて、自らのコレクションを充実してきた。
実はボーデは、カンの収集したオランダ絵画を自分の美術館のために購入したいと思っていた。しかし、カンの遺言にはコレクションについての指示はなく、資力のある画商のデュヴィーン兄弟会社 Duveen Brothersが、この17世紀オランダの最も素晴らしいコレクションを購入することになる。彼らはコレクションを新大陸アメリカへ移転することを図る。
このコレクションには、愛好家たちが新大陸への流出は、ヨーロッパ美術界にとって一大災難と悲嘆するほどの名品が多数含まれていた。コレクションの購入については450万ドルというとてつもない額が支払われたが、画商のジョセフ・デュヴィーン(1869-1939)にとっては、最初の大勝利ともいえるものになった。この取引に成功を収めたことで、彼は瞬く間に新旧大陸を通して、20世紀初頭の最有力画商のひとつとして台頭する。
ヨーロッパの美術愛好者たちは、その後次々と海を渡る名品に切歯扼腕する。彼らにとって、アメリカは金に糸目をつけず、貪欲に芸術品を買いあさるマンモン(財神)の権化みたいに見えたのだろう。こうしたうらみは今も続くのか、ヨーロッパの美術評論家の中には、アメリカに流れてしまった作品には一切言及しないか、低くしか評価しないというバイアスすら感じられる。
この成功に続いて、デュヴィーンは多数の作品を新大陸に移し替えた。少なくとも24点のオランダの名作が彼を介して大西洋を越え、アメリカの美術館に収まった。デュヴィーンは、美術界におけるビジネスマンとして、図抜けた才能とエネルギッシュな活動で知られたが、彼の伝記作家ベアーマンは、デュヴィーンは若い頃から常々「ヨーロッパは多数の美術作品を持っており、他方、アメリカには多額の金がある」と言っていたが、彼の成功はこの単純な観察を実行に移した結果だと記している。 文字通り、マンモンが今日の膨大な文化遺産を生んだのだ。
レンブラントはアラベラへ
さて、アラベラ・ハンティントンの所有した絵画の中には、彼女がデュヴィーンを通して入手したカンのコレクショにあった2点のレンブラント作品が含まれていた。そのひとつは、サスキア亡き後、画家の内縁の妻となったヘンドリッケ・ストフェルズ Hendrickje Stoffels を描いた1660年の作品であり、アラベラはこれに135千ドルを支払った。
もうひとつは「ホメロスの胸像に手を置くアリストテレス」 Aristotle with a Bust of Homerとして知られる1653年の作品(下掲)である。これにいくら彼女が支払ったかはわからない。いずれにせよ、この2点はカンのコレクションの中でも白眉といえる世界的な名作であった。レンブラントの唯一の外国のパトロンであったシシリアの収集家ドン・アントニオ・ルッフォDon Antonio Ruffo (1610/11-1678)の依頼による作品だった。彼は画家の提示した500フローリンという大金を値切らず支払っている(その後、ひと悶着あったのだが)。
1660年代初め、ルッフォはレンブラントに「アレキサンダー大王」(その後逸失)と「ホーマー」(ハーグ、Mauritshuis所蔵)を依頼している。
「アリストテレス」は、18世紀後半まではルッフォ家が相続、継承してきた。その後、1810年、この作品はロンドンの競売市場に現れ、レンブラントの作品として79.16ポンドの値がついた。そして、ブラウンロウ伯爵 Earls Brownlowの著名なコレクションに入り、さらに1894年にはロドルフ・カンに売却された。
その中から、ハルの「ポウルズ・ベルシュミュール」、 レンブラントの「ヘンドリッケ・ストッフェルス」、そして、「フローラ」は1919年にハンティントン夫人の手中に入った。
安住の場を見いだした「フローラ」
そして、アラベラの死後、息子のアーチャー・ハンチントン Archer M. Huntington(1870-1955) によって、1926年にその他の作品とともにメトロポリタンに寄贈された。大西洋を越えてきた「フローラ」も、やっと安住の地を見出した。
Rembrandt van Rijn (1606-1669), Aristotle with a Bust of Homer, 1653. Oil on canvas, 56 1/2 x 53 3/4. Purchase, special contributions and funds given or bequeathed by friends of the Museum, 1961(61.198).
ただ、「アリストテレス」だけは、メトロポリタンのコレクションに入るまで、さらに35年ほどかかった。母親の死後、息子のアーチャーは、レンブラントの作品を自宅に掲げていた。2年後、彼はデュヴィーン・ブラザースに作品を売り戻した。そして、まもなく1928年11月、ニューヨークの新たな世代の画商となる広告王のアルフレッド・エリクソンAlfred Erickson (1876-1936)が、75万ドルで「アリストテレス」を取得した。 しかし、1929年の大恐慌のために、エリクソンはレンブラントをデュヴィーンに50万ドルで売り戻すことを余儀なくされる。その後、デュヴィーンが死ぬ直前、エリクソンは今度は、59万ドルでこの作品を買い戻した。そしてエリクソンの没後、寡婦となったアンナが1961年まで保有していたが、メトロポリタンは数人の篤志家の寄付によって、この作品を落札・入手することができた。「アリストテレス」もやっとしかるべき場所に落ち着くことになった (この経緯はいずれ記したい)。
~続く~