時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

メランコリックな時代に

2017年01月08日 | 絵のある部屋

 

国立西洋美術館の『ルーカス・クラーナハ展』も終幕が近い。この画家の作品は必ずしも好みという訳ではないが、アルブレヒト・デューラーやマルティン・ルターとの関係などもあって、画家の辿った人生経歴や同時代の人的な交流にかかわる興味はかなり強く今日まで続いてきた。

 先行き不安で明るい話題が少ない中で、ゆったりと新年を迎えるという気分が薄れてきたこの頃だが、いつものように床に積み重なり、崩れている重い画集や紙の束を少し整理する。実際には一つの雑然が別の雑然に変わるだけなのだが(笑)。断捨離は簡単ではない。心の底に残っていた記憶や思い出まで捨ててしまう感じがするためだ。16-17世紀のドイツ画家たちの画集なども目にすると、再び懐かしさがかき立てられる。

 ルーカス・クラーナハというと、なんとなくコルマールを連想する。小さいが美しい町だ。かつて須賀敦子さんの未発表のエッセイとの関連で記したこともある。町にある美術館 UNTERLINDEN MUSEUM も中世、ルネサンスから印象派、現代美術まで一通り揃っている。

 その中でも最も有名な作品といえば、通称マティアス・グリューネヴァルト(Mathias Grunewald, c.1470/1475-1528)の手になる『イーゼンハイム祭壇画』だろう。この時代、政治環境もあって地味な感じがするドイツの絵画史上、最も優れた作品の一つと位置付けられる。この画家の生きた時代はドイツ・ルネサンスの巨匠アルブレヒト・デューラーとほとんど同時代なのだが、作風からすればルネサンスというよりはゴシックという位置づけが適切だろう。作品を見ればすぐにわかる。

祭壇画の宝庫:アイゼンハイム祭壇画
 
この時代、祭壇画の黄金期であった。コールマールの美術館でもいくつか重要な祭壇画を見ることができるが、その中の白眉はイーゼンハイム祭壇画 The Isenheim altar piece の名で知られる作品である。制作年次は、c.1512-16年頃と推定されている。一見して傑作であることはわかるが、キリストの磔刑の描写がリアルすぎて、たじろいてしまう。現在はコルマールのウンターリンデン美術館の所蔵になっているが、元来コールマールの南方20kmほどのイーゼンハイムの聖アントニウス会修道院付属の施療院の礼拝堂に置かれてあった。施療を求める病んだ人々を慰める目的もあって、キリストの肉体も美化されることなく、凄烈、過酷に描かれている。施療を受ける患者が自らの苦難をキリストのそれと重ね合わせ耐え忍ぶ意味もあって、キリストの肉体も苛酷で生々しく描かれている。いつも見ていたいと思う作品ではない。

時代のメランコリア:デューラーとクラーナハ
  コールマールの美術館ではデューラーとクラーナハの『メランコリア』を比べてみることができる。巨匠デューラーの作品『メランコリア』(銅版画)は、極めてよく知られているが、メランコリア(憂鬱)は16世紀ドイツ画壇の主流のテーマだ。デューラーの作品は哲学的、象徴的な複雑さで、メランコリックな状態にある天才の心的風景を描いたと考えられている。それとともに当時の人文学的雰囲気を濃密に伝えている。この作品についてはすでに多くのことが書かれているので、そちらに詳細は任せよう。

 他方、クラーナハは、1528-1533年の間にこの主題で4部作を製作している。銅版画と油彩画(板材)の違いはあるが、与える印象もかなり異なる。右側の翼を背にした女性、犬など同じものがアトリビュートとして描かれているが、後景には黒雲に乗った悪魔や異形な姿が描かれ、その前に並ぶ子供(キューピッド)の姿にも暗示を与えるようだ。迫り来る時代の不安のようなものも感じる。デューラーの作品世界とはかなり異なった印象をうける。クラーナハの作品からは、何か不穏な空気が迫ってくる。メランコリーは基本的に 'acedia' と呼ばれる精神の弛緩した病的状態であり、精神的な前進が停滞し、鬱屈した状態を意味するとされてきた。しかし、画家の受け取り方はそれぞれかなり異なるように思われる。

 

 

Albrecht Durer(1471-1528) Melencolia 1
1514, engraving on copper
23.5 x 18cm,, purchase, 1986

 

Luccas Cranach the elder (1472-1553) Melancholy
1532, Oil on panel, 76.5x56cm Purchase 1983

 こうして並べてみると、同じ主題でありながら印象はかなり異なる。クラーナハの作品はデューラーよりも20年近く後に製作されたようだが、何がその違いをもたらしたのだろうか。現代人から見ればデューラーの作品は銅版、単色であることもあって陰鬱感は根底から伝わってくるが、クラーナハの作品はその含意を感じ取るにはかなり苦労する。翼を背負った女性の表情もメランコリックなものを感じさせない。精神的に弛緩した鬱状態というよりは、なにかこの時代に忍び寄る暗鬱な脅威のようなものを筆者は感じる。世界の近未来になにか不穏な、出口のない環境を感じる現代は、まさにメランコリアそのものである。 

 

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