ヴィットーレ・カラパッチオ《書斎の聖アウグスティヌス》
Vittore Carapaccio
St Augustine in his Study
c. 1502
Tempera on canvas, 141 x 240cm
Venice, Scuola of San Giorgio
[説明は本文最下段]
イタリア・ルネサンスの時代、画家を志す者は工房に徒弟として入り、職人として必要な知識・技能を体得することが必要だったことはすでに述べた。石工、大工、鍛冶屋、パン屋などの伝統的職業は、それぞれ固有の熟練を体得せずには、社会的に職業として自立することはできなかった。それぞれの職業の技能水準の維持と平準化には、職業ごとに設立されたギルドが職人の技能の認定を行なっていた。
工房に入る
画家としての技能形成を達成するためには、かなり長い年月をかけた修業が必要とされた。工房によっては、自立するまでには10年近い修業年月が必要と主張する親方、マスターもいたが、普通は、それよりはるかに短い期間で親方になる以前の段階としての職人(遍歴職人: journeyman)となることができた。多くの職人はそのまま工房で働き、さらに経験を積んだ上で、独立した工房を開設することもあった。
徒弟はgarzoniと呼ばれ、親方の家に住み込み、寝食を共にし、家事を手伝い、ほとんどいつも家族と一緒だった。徒弟訓練は若いうち、時には10歳前から始まることもあったが、ほとんどの少年は13から14歳で徒弟入りした。ミケランジェロは例外で13歳まで学校へ行った。その後、ドメニコ・ギルランダイオの工房へ入った。
息子を徒弟にしたい親は息子の衣食住費を親方に支払ったが、親方が逆に徒弟に賃金を払った場合もあった。親方の評判や地域によって、親が支払う費用は異なった。これらは全て契約書に記された。
工房での修業期間は、職業や地域によって差異があった。ヴェニスでは画業を志す徒弟は2年間で、遍歴職人 に移行できた。パデュアでは最短の徒弟期間は3年間だった。その間、親方は他の若者を誘うことは禁じられていた。現在修業中の徒弟の教育をおろそかにしないための配慮だった。そして訓練期間がどうであれ、職人ならば、画家として要求される仕事を完璧にこなせなければならなかった。
徒弟は通常は親元を離れ、工房入りをしてから1年程度は、親方の家に住み込み、家事を手伝いながら、傍で画家になるために必要なさまざまな熟練の習得を目指した。
仕事を通して身につける
工房での徒弟の教育に決まった教程があるわけではなかった。しかし、長年の経験で、技能習得に関わる過程の概略はほぼ定まっていて、親方の判断と指示で、全て進行した。
例えば、最初の1年間は、小さなパネルでデッサンの仕方を学ぶ傍ら、画板に麻や亜麻の布地を張ったり、画布に下地 gessoesをひくことを学んだ。さらに、顔料の粉砕、絵の具の作り方なども必須の仕事だった。
さらに進んでは祭壇画などの背後の飾り anconas の制作などを修得、親方の判断で、限定された部分を担当した。こうした過程を経てようやく画家として画法、彩色などの基幹部分の技能を習得するのが例であった。
大壁面、天井画の制作などは、系統立って教えることはなく、そのつど親方や職人の仕事を見ながら、体得するという現代のOn-the-Job-Trainingに近かった。親方が仕事ぶりに満足すれば、画面の一定部分の描写を完全に任せることは、通例のことであった。
工房の徒弟や職人は、画家であれ彫刻家であれ、必要とあらば他の分野の仕事、例えば祭礼の準備なども臨機応変にこなさなければならなかった。ティティアンのようにガラス工芸のデザインまで手がけた場合もあった。
コピーは工房の宝
徒弟や職人が技能の熟達を目指す上で、工房での習作、名画の模写はきわめて大事なことと見做されていた。有名な工房には、多数の名作のコピーが保蔵されていた。徒弟にとって、これらは恰好な教材だった。
モデルが必要な場合は、工房の若者が務めることも多かったようだ。多数の画家志望者がイタリア行きを目指したのは、町中に溢れる芸術作品の数々と併せて、こうした工房が蓄えた美術習得のための有形・無形の財産だった。
イタリア・ルネサンス工房の作品は、ほとんどが共同作業の結果であり、中心人物、顔などの重要部分のみ親方が描き、残りの部分は工房職人が描くのが通例であった。その結果が、工房の基準に達していれば親方がサインをするという段取りであり、作品が全て親方の手になるという意味での真性さ authenthisity は、さほど問題にされなかった。
このように、イタリアの有名工房は多数の徒弟、職人を抱え、大規模な作品制作にも応えることができた。この点、大きな作品の制作依頼が稀にしかないイタリア以外の地域では、多数の職人や徒弟を抱えることはできなかった。ロレーヌなどの場合、工房の徒弟はほとんど一人か二人だったようだ。
工房に入る
画家としての技能形成を達成するためには、かなり長い年月をかけた修業が必要とされた。工房によっては、自立するまでには10年近い修業年月が必要と主張する親方、マスターもいたが、普通は、それよりはるかに短い期間で親方になる以前の段階としての職人(遍歴職人: journeyman)となることができた。多くの職人はそのまま工房で働き、さらに経験を積んだ上で、独立した工房を開設することもあった。
徒弟はgarzoniと呼ばれ、親方の家に住み込み、寝食を共にし、家事を手伝い、ほとんどいつも家族と一緒だった。徒弟訓練は若いうち、時には10歳前から始まることもあったが、ほとんどの少年は13から14歳で徒弟入りした。ミケランジェロは例外で13歳まで学校へ行った。その後、ドメニコ・ギルランダイオの工房へ入った。
息子を徒弟にしたい親は息子の衣食住費を親方に支払ったが、親方が逆に徒弟に賃金を払った場合もあった。親方の評判や地域によって、親が支払う費用は異なった。これらは全て契約書に記された。
工房での修業期間は、職業や地域によって差異があった。ヴェニスでは画業を志す徒弟は2年間で、遍歴職人 に移行できた。パデュアでは最短の徒弟期間は3年間だった。その間、親方は他の若者を誘うことは禁じられていた。現在修業中の徒弟の教育をおろそかにしないための配慮だった。そして訓練期間がどうであれ、職人ならば、画家として要求される仕事を完璧にこなせなければならなかった。
徒弟は通常は親元を離れ、工房入りをしてから1年程度は、親方の家に住み込み、家事を手伝いながら、傍で画家になるために必要なさまざまな熟練の習得を目指した。
仕事を通して身につける
工房での徒弟の教育に決まった教程があるわけではなかった。しかし、長年の経験で、技能習得に関わる過程の概略はほぼ定まっていて、親方の判断と指示で、全て進行した。
例えば、最初の1年間は、小さなパネルでデッサンの仕方を学ぶ傍ら、画板に麻や亜麻の布地を張ったり、画布に下地 gessoesをひくことを学んだ。さらに、顔料の粉砕、絵の具の作り方なども必須の仕事だった。
さらに進んでは祭壇画などの背後の飾り anconas の制作などを修得、親方の判断で、限定された部分を担当した。こうした過程を経てようやく画家として画法、彩色などの基幹部分の技能を習得するのが例であった。
大壁面、天井画の制作などは、系統立って教えることはなく、そのつど親方や職人の仕事を見ながら、体得するという現代のOn-the-Job-Trainingに近かった。親方が仕事ぶりに満足すれば、画面の一定部分の描写を完全に任せることは、通例のことであった。
工房の徒弟や職人は、画家であれ彫刻家であれ、必要とあらば他の分野の仕事、例えば祭礼の準備なども臨機応変にこなさなければならなかった。ティティアンのようにガラス工芸のデザインまで手がけた場合もあった。
コピーは工房の宝
徒弟や職人が技能の熟達を目指す上で、工房での習作、名画の模写はきわめて大事なことと見做されていた。有名な工房には、多数の名作のコピーが保蔵されていた。徒弟にとって、これらは恰好な教材だった。
モデルが必要な場合は、工房の若者が務めることも多かったようだ。多数の画家志望者がイタリア行きを目指したのは、町中に溢れる芸術作品の数々と併せて、こうした工房が蓄えた美術習得のための有形・無形の財産だった。
イタリア・ルネサンス工房の作品は、ほとんどが共同作業の結果であり、中心人物、顔などの重要部分のみ親方が描き、残りの部分は工房職人が描くのが通例であった。その結果が、工房の基準に達していれば親方がサインをするという段取りであり、作品が全て親方の手になるという意味での真性さ authenthisity は、さほど問題にされなかった。
このように、イタリアの有名工房は多数の徒弟、職人を抱え、大規模な作品制作にも応えることができた。この点、大きな作品の制作依頼が稀にしかないイタリア以外の地域では、多数の職人や徒弟を抱えることはできなかった。ロレーヌなどの場合、工房の徒弟はほとんど一人か二人だったようだ。
私的な書斎の重要性
美術品の世代的な継承が行われる場所は、それらが描かれている教会や聖堂の壁面、祭壇画、工房や個人などの所蔵など、多数の場所に分散していたが、ルネサンス後のイタリアで長年にわたる美術の世代を経ての劣化、散逸が激しかった場所の一つが studioli と呼ばれる貴族、高位聖職者、知識人などの私的な書斎であったと言われている。最盛期には多くの絵画、彫刻、内装、家具、科学的な装置などあらゆるタイプの貴重な品々が、収集されてそこに置かれていた。これらは私的な収集、博物館的コレクションとして維持されてきたが、16世紀には骨董市での対象となったり、骨董品の展示場 Wunderkammer となっていった。
上掲の作品は、こうした良き時代の書斎の状況を描いた一枚であり、当時を偲ぶ貴重な一枚である。
続く
美術品の世代的な継承が行われる場所は、それらが描かれている教会や聖堂の壁面、祭壇画、工房や個人などの所蔵など、多数の場所に分散していたが、ルネサンス後のイタリアで長年にわたる美術の世代を経ての劣化、散逸が激しかった場所の一つが studioli と呼ばれる貴族、高位聖職者、知識人などの私的な書斎であったと言われている。最盛期には多くの絵画、彫刻、内装、家具、科学的な装置などあらゆるタイプの貴重な品々が、収集されてそこに置かれていた。これらは私的な収集、博物館的コレクションとして維持されてきたが、16世紀には骨董市での対象となったり、骨董品の展示場 Wunderkammer となっていった。
上掲の作品は、こうした良き時代の書斎の状況を描いた一枚であり、当時を偲ぶ貴重な一枚である。
続く