Rembrandt van Rijn The Conspiration of the Bataves 1661-62 Oil on canvas, 196 x 309 cm Nationalmuseum, Stockholm
上に掲げたレンブラントの絵を見て、なにをテーマとしたものか、すぐにお分かりの方は、かなりのオランダ通あるいはレンブラントに造詣の深い方でしょう。
それはさておき、17世紀の画家の作品あるいは文献は、つれづれに見ている間にも興味深いことが次々と浮かび、あたかもミステリーを読んでいるような思いをすることがある。たとえば、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールが当時の画家たちにとって、憧憬の地であったイタリアへ行ったことがあったかという問題は、この画家にまつわる謎のひとつであり、このブログでも少し記したことがある。
当時の時代環境からすれば、ロレーヌの画家たちにとって、イタリア、とりわけローマへの旅は、画家の修業の一端として、ほとんどお定まりの経路だったとする美術史家も多い。たとえば、ブログで記した17世紀フランス美術史の大家テュイリエなどは、ラ・トゥールのイタリア行きをほとんど当然のこととしている。
その推論の根拠となっているのは、若き日のラ・トゥールの手になったものかもしれない一枚の作品だ。イタリアの地方の小さな教会に残っている。しかし、画家の署名もなく、作品移動の経緯も不明のままであり、決定的な論拠とはなりがたい。謎はまだ解かれていない。しかし、具体的な証拠がないからといって、画家がイタリアへ行かなかったという証明にはならない。作品や資料などの欠如や散逸は避けがたい時代であった。この問題も、新たな史料や作品が発見されないかぎり、謎のままに今後の研究者へ継承されている。
レンブラントはオランダを離れただろうか
実はラ・トゥールと比較すると、格段に記録が残り研究も進んでいるオランダの巨匠レンブラント(1606~1669)についても、外国への旅をめぐる同様な謎があることを知った。それは、「レンブラントはイギリスへ行ったことがあるか」という問題だ。
レンブラントは、ラ・トゥールよりほんの少し後の画家だが、ほとんど同時代人といってよい。 レンブラントは、当時画業を志すオランダの若者たちが、続々とイタリアへ行ったにもかかわらず、その必要はないとしてアムステルダムに留まって活動したことで知られてきた。オランダ国外へは出たことはないと考えられてきた。当時のすぐれた教養人でオラニエ公の秘書官であったホイヘンスは、若い才能溢れたレンブラントとリーフェンスにイタリア行きを勧めたが、二人ともその必要はありませんとそっけなく答えている。著名な逸話だ。
そのレンブラントが晩年ではあるが、イングランドへ旅し、しばらくの期間滞在していたという話は、にわかに受け入れがたい。なぜなら、この画家は「アムステルダムは世界の美術の中心」と考え、外国にまで出かける必要はないと考えていたからだ。
レンブラントがイギリスへ行ったかという疑問は、この画家が1662年頃イングランド、ヨークシャで1年半くらいを過ごしたとの短い記述が、18世紀のある個人の日記に残っていることに端を発している。そして、レンブラントによるロンドンの描写が残っているとの主張が、1897年にある研究者から提示されたことにあった。第二次大戦前には、多くの研究者がこの推論を支持していた。しかし、作品は後から簡単にコピーできるし、レンブラントのイギリス滞在を確認するより確かな証拠が発見されないこともあって、反対者も多く、その後は問題にされなくなっていた。言い換えると、レンブラントは、生涯オランダを離れたことがなかったという認識が今日まで定着していた。
しかし、最近ポール・クレンショーというアメリカ人研究者が、一度は捨てられた仮説に再び挑戦している*。クレンショーは、フェルメールの研究に大きな貢献をしたモンティアスと同様にアメリカ人である。少し詳しく記してみよう。クレンショーが依拠する史料は、以前の論争で否定されたものと同一である。
これまでの論争の根拠は、唯一、レンブラントが世を去った後に、ある人物が1713年に残したVertue’s Diaries という日記の一節に、「レンブラントRembrandt Harmensz. van Rhine はイギリスにおり、ヨークシャーのハルに16ー18ヶ月滞在し、数人の紳士、船員を描いた。そのうちの一枚をダール氏が所有していた。船長を描いたもののようであった。それにはレンブラントの名と1662あるいは1661年とも読める年記があった」という短い記述の真否に関わっている。しかし、この記述に該当する作品は、発見されていない。仮にそれらしき作品があったとしても、容易に模写はできるという主張の前には、強い説得力を持ち得ず、議論は展開せず潰えてしまった。
新しい推論
それでは、なぜ研究者ポール・クレンショーは、今の時点で、すでに否定され、答が出てしまったようなテーマを再び持ち出したのか。別に新たな史料や証拠が発見されたわけではない。新しいといえば、推論の仕方にある。レンブラントの個人史を振り返ると、1656年に「財産譲渡」の処分を受け、全財産の競売が始まった。その原因は作品が当時の流行に合わなくなり、売れなくなったこともあるが、主として豪華な個人住宅の債務の累積によるものであったとされている。 破産後、画家はローゼンフラフト街の小さな借家に移り、1969年63歳で世を去るまでそこで過ごした。しかし、画家の作品はこの頃を転機に、急速に人気がなくなり売れなくなった。あのアムステルダム新市庁舎を飾るはずであった『クラウディウス・キウィリスの謀議』(上掲)も不評で、数ヶ月は掲げられたが、レンブラントに返却されてしまう。
この時期、オランダにおけるレンブラントの制作活動が、急速に低下したかにみえる現象は、もしかすると、この画家が精神的な立ち直りを図るため、あるいは世俗的な不評の高まりなどを一時的に回避するため、しばらくアムステルダムを離れたことによるのではないかとの推論は、可能性としては十分ありうるだろう。いかに著名な画家とはいえ、あるいはそれゆえに、アムステルダムが居心地の良い環境ではなくなっていたとも思われる。実際、この時代のオランダでは、個人破産した当事者は、ほとんど人目に触れないよう町を去った。
画家や作品についての理解は、時に思いがけないことから進む。ラ・トゥールやフェルメールの研究の進展も、発端は小さな発見から始まっている。フェルメールについても、モンティアスによる従来の美術史家がほとんど注目することのなかった家計資料の発掘から、知見は大きく充実した。モンティアスは、1960-70年代は、イエール大学でソ連邦の経済システムの研究者として知られていた。
レンブラントやフェルメールのように、すでに良く知られた画家や作品について、新たな発見があるのを知ることは素晴らしい。作品を眺めたり、文献を見ていると、時にミステリーを読んでいるような興味が生まれる。 衰える脳細胞の活性化にも、多少は効果があるようなのだが?
* Paul Crenshaw. “Did Rembrandt Travel to England” in In His Milieu: Essays on Netherlandish Art in Memory of John Michael Montias, Edited by A. Golahny, M.M. Mochizuki, & L. Vergara Amsterdam: Amsterdam University Press, 2006.
ちなみに、本書はモンティアス教授(1928~2005)の追悼記念論集として、刊行された論文集であり、フェルメールを中心に、17世紀オランダ画家に関する興味深い論文が含まれている。
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