時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

森鴎外と西周:両雄並び立たず?

2022年08月12日 | 午後のティールーム



2022年は森鴎外(1862〜1922年)の生誕160年、没後100年を記念する年となり、多くの行事、出版、報道などが行われている。

ブログ筆者は森鴎外の著作には、戦後の文字に飢えていた頃に惹きつけられ、当時人気だった大部な文学全集などを通して、主要な作品に親しむと共に、鴎外生誕の地、津和野や文京区の記念館などを訪れたりしてきた。

他方、コロナ禍が始まるかなり前から、重く扱い難い文学全集などを整理する傍ら、いつのまにか近年刊行された未読の短編や周辺の資料などを手にとっていた。断捨離どころか、軽くて読みやすい新訳の文庫版などが増え始め、何をしているのか分からなくなってきた。

西周邸に寄寓した林太郎
ここにいたるには、いくつかの動機があった。そのひとつに森鴎外と同じ津和野の出身であり、先輩でもあった西周(1829〜97年、森家の親戚で、藩の典医の家系、血縁はない)の存在があった。西周は鴎外より33歳ほど年上であり、西・森の両家は極めて近い関係にあった。西周は明治日本の啓蒙思想家の一人であり、西洋哲学者でもあった。しかし、(最近の状況はよく分からないが)同じ津和野の出身でありながら、西周の旧居(生家)跡を訪ねる人は少ないようだ。

森林太郎(森鴎外の本名)が上京し、修業時代の一時期、家族から離れ、ひとり西周邸に住み込んでいた時期があったことは知っていた。公務から解放された後、西周と森林太郎の人的関係は実際にはどんなだったのか、知りたくなった。

偶々、筆者は西周が初代校長を務めた獨逸学協会学校の流れを汲む学園で教育・運営の任を負ったことがあった。その折、公務の傍ら、周囲にあった公刊されていた文献のかなりのものは目を通した。しかし、多忙であったため、いくつかあった疑問を探索し、整理・解明する時間はなかった。


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西周は文久2(1862)年、津田真道、榎本武揚らと共にオランダに留学し、法学、哲学、経済学、国際法などを学び、慶応元年(1865)年に帰国し、徳川慶喜の側近となり、明治になってからは明治政府に出仕し、兵部省、文部省、宮内省などの官僚を歴任した。東京学士会院第2代及び第4代会長、獨逸学協会学校の初代校長を務めた。啓蒙思想家、西洋哲学者。
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1872(明治5)年6月、森林太郎は父に伴われ津和野を離れ、東京へ向かった。そして、森家は故郷津和野の家を引き払い、林太郎の母、祖母、次弟と妹共々、上京し、林太郎だけは父が探してくれた獨逸語を学べる「進文学社」(私塾、本郷壱岐坂)に通うに便利な西周宅(神田西小川町)に寄寓することになった。1872年(明治5年)、西周は43歳、林太郎は10歳であった。西邸にいたのはいつまでか正確には分からないが、たまたま同居していた相沢英次郎*1の記憶では、林太郎は明治6年に西家を去ったとあるので、主人の西周との交流は1年程度であったようだ。

林太郎が西邸に住んだ当時、西周は、すでに留学先のオランダから帰国し、兵部大丞として、宮内省に関連し、官僚として多忙な日々を過ごしていたと思われる。その傍ら、家の造作から食生活までヨーロッパでの体験をさまざまに導入していたようだ。西と夫人升子の日常から林太郎を始めとする西邸に寄寓していた住人は、有形無形に多くを学んだことと思われる。西周が『明六雑誌』(1874年3月創刊)で活躍する直前のことである。働き盛りの西周から見れば、10歳そこそこの若者は、対等の話し相手とはならなかったろう。

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*1
ここで大きな情報源となったのが、近刊の宗像和重編に所収の相沢英次郎「西周男と鷗外博士」と題した1章である。西周男とは、西が1897(明治30)年に男爵に任じられていることによる。相沢英次郎(1862~1948年、敬称略)は、宗像編によると、教育者、歌人であり、少年時代に叔母升子が嫁した西周邸に預けられ、森林太郎と起臥を共にした。後に三重県師範学校長などを歴任した人物であった。

相沢英次郎「西周男と鷗外博士」(原典『心の花』1926年6月)宗像和重編『鷗外追想』岩波文庫(2022年)
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林太郎が同郷の親戚としての西周に頼り、東京の西邸に寄寓したのは、西周が43歳頃のことであった。同郷の親戚、年長者などを頼って、書生、家事見習いなどの名目で、住み込んだのは、戦前までは一般に珍しいことではなかった。西周は帰国後、先進国西欧を知る数少ないエリートとして、文字通り働き盛りであった。神田小川町にあった広大な屋敷は、内部は西欧風に設えられていて、生活、とりわけ食生活なども西欧風に変えられていたようだ。相沢がコンデンスミルクやビスケットを味わったのも、西邸であったと記されている。さらに、西は津田真道、加藤弘之、福沢諭吉、神田考平、箕作秋坪などの学者を自邸に招き、料理人を呼んで会食などもしていたようだ(相沢、50〜51ページ)。

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相沢によると、林さん(鷗外博士の当時の呼称)は明治5年に西邸に寄寓し、1歳年下の相沢と同じ室に寝起きしていたようだ。さらに同居していた西の養子の紳六郎(後の西紳六郎男爵、海軍中将)は、林さんの1歳年上という間柄でもあった。相沢は西邸に足掛け5年ほど寄寓していたようだ(宗像、50ページ)。三人ともほぼ10歳近辺の少年であったが、現代の同年代と比較すると、やや長じていたようだ。時には悪戯をして、西男爵に叱られたことも記されている。
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鴎外と西周の関係に大きな影響を与えたのは、よく知られた林太郎がドイツから帰国した後に起きたドイツ人女性との問題だった。エリーゼ・ヴィーゲルトは、1888(明治21)年、林太郎(26歳の時)の帰国と相前後して来日するが、間もなく帰国している。この出来事が一段落した後に林太郎の結婚を急いだ両親に周旋を頼まれた西は、赤松登志子との関係を取り持った*2

その後間もなく1890年に、林太郎は登志子と離婚、それが原因で西の不興を買い、絶縁状態になってしまったと推定されている(中島、18ページ)。離婚の原因、経緯は不明だが、いわば仲人役をした西周の心情はほぼ推測できるような気がする。

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*2 
1889年、林太郎と登志子は結婚、二人は上野花園町(現在の上野池之端)に住んだ。1900年、離婚した登志子が死去。鷗外は翌年40歳で荒木志げと再婚している。
余談だが、ブログ筆者は子供の頃、不忍池周辺に住んだいとこたちとボート遊びなどをした思い出があり、横山大観邸などの記憶を含め、さまざまなことが思い浮かぶ。
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森鴎外が評した西周
西周が亡くなったのは、1897(明治30)年、鷗外35歳頃であったと推定される。状況からして、西周と鴎外の関係が冷却していたことは分かるが、当時二人は日本を代表する知識人でもあり、実際にいかなる公私の関係にあったのかは必ずしもはっきりしなかった。しかし、幸い最近刊行された上掲の宗像編著所収の相沢の追憶が、この疑問にかなりの示唆を与えることが分かった。

さらに、新刊の中島國彦『鷗外〜学芸の散歩者』(岩波新書、2022年)に下記の興味深い記述があることを発見した。

西の没後の1909(明治42)年、鷗外47歳の時、在東京津和野小学校同窓会での講演の際、郷土の先人西周の名を挙げて、鴎外は「あの先生は気の利いた人ではない。頗るぼんやりした人でありました。そのぼんやりした椋鳥のやうな所にあの人の偉大な所があった」と述べている(中島、19-20ページ)。

この時点で、西周は没しており、鴎外も同郷の先人に対しては冷静に畏敬の念を表するまでになっていたのだろう。ここで興味深いのは西周を「ぼんやりした椋鳥のやうなところにあの人の偉大な所があった」と評していることにある。

実は、鷗外が西周を評した「椋鳥のやうな」*3という言葉の意味するものがすぐには浮かんでこなかった。椋鳥と「ぼんやりした」という表現がうまくイメージとして取り結ばなかった。

池内紀*3によれば「椋鳥」は江戸時代によく使われた表現で、「田舎者」を意味しているとされる。鴎外は西周をその言葉通りの意味で評したのだろうか。鴎外ほど多彩な公私に渡る広範な活動ではなかったとはいえ、西周が残したさまざまな社会的活動、論説などから推測すると、やや複雑な思いがする。西周もオランダに学び、当時としては日本屈指の西欧通であり、『百学連環』などに展開されているように広い視野の持ち主であったからだ。

ちなみに、鷗外が西周の死去とほぼ同時に執筆を開始した海外雑録のような膨大な記述には『椋鳥通信』の標題が付けられている。現代に引き戻すと、その内容はあたかも海外情報ブログのような印象でもある。この時期、「椋鳥」の語に、鴎外はいかなる思いを込めたのだろうか。


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鴎外は1909年『椋鳥通信』と題した膨大な海外通信を始めた。公務で多忙であった鴎外が、こうした海外雑録通信のようなものを書き出した背景は、同書上巻巻末の池内紀氏の大変興味深い解説に詳しい。
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参考文献
森鴎外『椋鳥通信 上・中・下』(岩波文庫)、2014〜15年
ハンディな文庫版とはいえ、3冊の文庫に凝縮された内容は驚くばかりである。編纂、注釈の任に当たられた池内紀氏の適切な解説なしには、とても読みこなせないが、鷗外が楽しみながら書いたと思われる本書は、歴史年表を傍らに時間をかけて読むと実に興味深い。


宗像和重編『鷗外追想』岩波文庫(2022年)
本書だけでも十分に興味深いが、最近、森鴎外に宛てた書簡が、新たにおよそ400通発見されたと報じられており、いずれ公開されると本書と併せ、鴎外の個人的生活の側面に一段と光が当たるだろう。

中島國彦『鴎外〜学芸の散歩者』(岩波新書、2022年)
森鷗外に関する出版物は汗牛充棟ただならぬものがあるが、本書は今日、森鷗外に関心を抱く人々にとって、ぜひ一読をお勧めしたい新たな評伝である。多くの貴重な情報が凝縮されており、日常、手元におきたい一冊である。



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