La Charité romaine
Paris, musée du Louvre, department des Peintures
Huile sur toile; 0.97 x 0.73 (partie)
この絵をめぐる話には、ただただ驚くばかり(いずれ種明かしを)
前回まで記したディケンズについては、興味深い点、語るべき点は山ほどあるが、このブログの柱ではないので、ひとまず離れることにしたい。ただ、『アメリカ紀行』と並んで、ディケンズが書き残したもうひとつの紀行文『イタリアのおもかげ』Pictures from Italy (1846)からの連想で、このブログの中心的関心領域である17世紀美術をめぐるイタリア(とりわけ、ローマ)とフランス(パリ)の関係について少し記してみたい(ディケンズのPictures from Italyについては、改めて記したい)。
すべての道はローマへ
美術などの交流という視点からすれば、古くから世界の文化の中心であったローマは、中世以来多くの文人、芸術家が訪れる光輝く憧れの地であった。そして、16世紀頃から始まったグランド・ツアーなどの影響もあって、貴族など上流階級などにとってのイタリアは、自らの教養を高める上でも一度は訪れるべき聖地のようになっていた。文人ばかりでなく、画家、彫刻家、建築家なども、しばしば徒弟修業の段階からイタリアへ向かった。
17世紀初めジョルジュ・ド・ラ・トゥールが生まれ、育った頃は、ロレーヌを含め、フランスやオランダなど北方諸国から多数の芸術家あるいは芸術家を志す者が、イタリアを修業の地と定め、旅をした。そのうち、かなりの者は彼の地で修業の時を過ごした後、故郷に戻り、そこで斬新なアイディアの下に画業活動を始めた。しかし、プッサン、クロード・ロランのように、一時はさまざまな理由でフランスに戻っても、再びイタリアへ行き、彼の地を生涯の活動の場とする者も少なくなかった、生まれ育った故国を離れた後、イタリアに住み着き帰国することのなかった者も多い。
北と南の文化交流の道
ジョルジュ・ド・ラ・トゥールのように、少なくとも記録としては、イタリアへの旅が確認されていない画家でも、ユトレヒト・カラヴァジェスキなどの影響を受け、イタリアの風を感じ取った画家もいる。実はこの時代に限っても、美術などの情報は、たとえば、フランスからイタリアに向かう一方通行ではなく、逆に北方フランドルなどからイタリアへの情報が流れるなど、双方向の文化交流があった。それも、単に人の流れにとどまらず、作品の売買、寄贈などによる移動、有形無形の情報の伝達などさまざまであった。この事実は、ユトレヒト・カラヴァジェスキが生まれた流れをみると明らかだ。この間の絵画マーケットの形成も注目すべきジャンルだ。
興味深い問題は数多いのだが、今回は日本ではほとんど知られていない画家の例として、シャルル・メラン(Charles Mellin, 1597-1649)について少し記したい。ロレーヌ生まれの画家だが、イタリアへ修業に赴き、彼の地に落ち着いて再び帰ることがなかった。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールとほとんど同時代、バロック期の画家である。生まれたのは、ロレーヌのナンシーであったが、画家としての修業はイタリアで行った。あのクロード・ロランのように、メランはカルロ・ロレネーゼ Carlo Lorenese (ロレーヌのカルロ)とあだ名を付けられていた。
完全に忘却されていた画家たち
シャルル・メランは、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールと同様に、ロレーヌの生まれでありながら、フランス美術史の上では、20世紀初めまでほとんど完全に忘れ去られていたという共通点がある。今回、取り上げるシャルル・メランにいたっては、最近漸く作品や生涯のほぼ全貌が判明し、再評価されつつ画家なのだ*。
実は、最近マスコミなどの力で、ブームが作られている感じが強いフェルメールなども、しばらく前までは、ほとんど注目されない画家だった。管理人がオランダを最初に訪れた1960年代では、フェルメールの作品の前は、ほとんどがら空きだった。最近の日本では、17世紀ヨーロッパ美術の世界は、フェルメールとレンブラントくらいしか注目すべき画家がいないような、妙な雰囲気が作り出されている。相当の美術好きな人でも、ニコラ・プッサン、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールを知らない人は多い。かなり歪んだ美術観が浸透している。しかし、実際には17世紀美術の世界は、はるかに豊かで広がりがあるのだ。シャルル・メランやラ・トゥール、カロなどが生まれたロレーヌでは、後期マネリスムの時代、1580-1635年の間に限っても、ナンシーだけでおよそ260人の画家と20人の版画家たちが活動していたといわれる。しかし、そのほとんどはいまや名前も作品も分からない。この埋もれ隠された世界に多少でも入り込んでみたい。
美術に限ったことでは必ずしもないが、もっと広いスコープで17世紀という時代を見直したいというのが、このようなささやかなブログを続けている原点にある。そのため、多くの美術史家からすると、奇妙に思われるかもしれないことを記している。
閑話休題。さて、メランが得意としたのは、主として壁画だった。ローマのサン・ルイギ・デイ・フランセシ教会などの壁画を描いている。メランはニコラ・プッサン、ジョヴァンニ・ランフランコなどとこの仕事を競い合った。その水準は当時、第一級の水準に達していた。プッサンのような飛び抜けた才能には恵まれていなかったが、その力量は十分に当時の先端に位置づけられる。シャルル・メランが「再発見」された2007年ナンシーでの企画展カタログでは、巻頭でピエール・ローゼンベールが、シャルル・メランとニコラ・プッサンの比較・評価を行っている。
画家の力量、作品は、しばしば後世の美術史家、鑑識家などによって不当な評価を受ける。メランやジャック・ステラは、その点でかなり割を食ったようだ(この点は、忘れられていたメランの全体像を紹介した2007年の企画展カタログ*にも記されている)。
メランは画業生活の初期の頃は、ローマにいたシモン・ヴーエの影響を受けたり、共に仕事をしたことがあった。この点は、この時期のメランの作品にはっきりと現れている。上記、カタログにも詳細な記述がある。しかし、その後ヴーエがパリに去ると、作風も変わる。ドメニチーノ Domenichino の影響も受けたようだ。
ヴーエがローマを離れた後、メランは貴族で公爵のムティ・パッパズーリ家の専属画家となった。そして、1628年から31年にかけて、ムティ宮殿(概略は現存、下掲)の装飾を担当した、その一部は今日まで残っている。さらに、かれはムティ家の二人の息子(アマチュア画家)に絵画制作の技法を教えた。今日までムティの名で残る作品は、実際にはメランがほとんど制作したとの推測もある。
le palais Muti Papazurri, puis Balestra, Rome
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ローマではトリニータ・デイ・モンティ教会のフレスコ画なども制作した。1643-47年にかけては、ナポリに滞在し、教会関係でいくつかの仕事をしている。作品には壁画やフレスコ画が多いため、戦火などで滅失した作品が多い。今日残る作品を見ると、きわめて美しく、多くの点で画家の力量をうかがわせる。
下に例示的に掲載した『聖エティエンヌ』、『ガリレオ・ガリレイ』、『若い男の肖像』などの作品を見ても、この画家の生きた世界の一端が伝わってくる。作品にはきわめて興味深いものが多い。今後、研究が進めば、17世紀の美術世界についての理解は一段と深まるだろう。
Saint Étienne
Nantes, musée-des Beaux-Arts
Huile sur toile, 0.61 x 0.485
Galileo Galilei, dit Galilée (1564-1642)
Rome, collection particuliére
Huile sur toile, 0.67 x 0.505
Portrait de jeune homme
Paris, musée du Louvre
Huile sur toile, 0.635 x 0.49
作品の帰属に大いに議論があった。画家の自画像である可能性も
ないわけではない。
*Exhibition Catalogue
Charles Mellin, un Lorrain entre Rome et Naples, Commissioned by Philippe Malgouyres, 21 septembre – 31 decembre, 2007, Musée des Beaux-Arts de Cae Musée des Beaux-Arts de Nancy. Pp.327