Michelangelo Merisi da Caravaggio,The Gypsy Fortune Teller,detail.
これはなにをしているのでしょうか。答えは下段文中に。
カードのギャンブル(賭け事)が大好きだったらしいデル・モンテ枢機卿だが、素行不良の無頼な画家カラヴァッジョのパトロンになって自邸へ住まわせたり、当時ローマで設立された芸術家支援と埋もれた才能を開発するのための聖ルカ・アカデミアを主宰したり、世俗の双方に通じていた。聖職者でありながら、当時としては稀に見る広い視野を持ったかなり寛容な人物だったようだ。
とりわけ、カラヴァッジョという美術史上にその名を燦然と輝かせた希有な天才画家の埋もれた才能を見出し、世に送り出した影の功績者であることは特筆されてよい。このヨーロッパ世界に鮮烈な衝撃を与えた画家を支援し、その後の革新的な業績を残した大画家への道を開いただけで、聖職者なのに賭け事が好きだったことぐらいは忘れてしまう。
かくして、カラヴァッジョの名画『いかさま師』は、デル・モンテ邸の一室に掲げられて、その後行方不明になるまで、しばらく安住の所を得たようだ。
ひとりの教養人の姿
デル・モンテ枢機卿は、ヴェネツィア生まれでパデュア、ウルビノなどで聖職者としての修業時代を過ごした後、1572年頃、ローマへ赴任してきた。彼は、ヴェネツィア美術のエッセンスをローマに持ち込んだ。さらにフィレンツエ・メディチ家フェルディナンド1世の政治的な指南役をしたり、美術顧問のような役も務めた。さらに、この時代の教養人のひとつの特徴として、絵画ばかりか、彫刻、骨董、貴石、楽器、陶器、ガラス器、マーブルなどにも関心を寄せ、収集していた。とりわけ東方への関心は深く、2枚のトルコ絨毯まで所有していたようだ。カラヴァッジョは抜け目なく、自らの作品の片隅に描き込んでいる。
デル・モンテ枢機卿のこうした博物的な関心と収集意欲は、あのラ・トゥールの精神的支援者であったランベルヴィレールやその友人であったヨーロッパ中に知られた博物学者、ペイレスクなどと共通するものがある。広く世界に目を配り、さまざまなことに関心を抱き、根源を探求し、真に良質なものとそうでないものを見極める鑑識眼を涵養していた。
この点は、若いころから専門化して、ともすれば広い世界が見えなくなってしまう現代人の生き方、知識基盤の形成の仕方とは大きく異なっていた。天文学から路傍の草花まで、好奇心を常に抱いて生きた。こうした基盤は一朝一夕に身につくものではない。絵画にしても、できるかぎり多数の対象を見ることを通して、玉と石とを判別することができるようになる。売り込む側の画商も、その点は十分心得ていて良質の作品を持ち込んだのだろう。
カラヴァッジョの『いかさま師』は、同じ主題を描いた同時代以前の他の画家の作品と比較して、際だって美しく、洗練された作品に仕上がっている。描かれた場面は、当時のローマの市井のあちこちで見られたいかさまの光景だ。実際はきわめて薄汚い、いかがわしい場面のはずだ。しかし、ひとたび名画家の筆になると、枢機卿そして後世の人々の目を惹きつけるだけの迫力がある。人物のポジション、色彩の美しさ、明暗など、単純なテーマであるにもかかわらず、見る人を強く魅了するカラヴァッジョの初期の名品の一枚といってよい。
『(ジプシーの)女占い師』
さて、カラヴァッジョは、この『いかさま師』と並んで、大変著名な『(ジプシーの)女占い師』といわれる作品を制作していた。『いかさま師』と『占い師』のいずれが先に制作されたかは、定かではないが、画家の生涯の早い時期であることは明らかになっている。
『女占い師』については、2点のやや異なったヴァージョンが残っており、今日では、パリのルーヴル美術館とローマのカピトリーニ美術館がそれぞれ所蔵している。
ローマに残る一点は、画家の友人でもあった画商スパッタ Constantino Spataが、『いかさま師』と同様に、デル・モンテ枢機卿に売り込んだ可能性が高い。この画商は枢機卿の邸宅近くに店があり、カラヴァッジョなる当時はまったく無名の画家を見出し、顧客に紹介したり、作品を持ち込んでいたようだ。いうまでもなく、ローマにはパトロンのいない貧窮した画家たちが多く、それぞれにその日暮らしのような生活をしていた。カラヴァッジョも、強力な庇護者に見出されるまでは、そのひとりだった。
まず、ルーヴル所蔵の作品『女占い師』から見てみよう。この作品は、制作時点からみると、2点のヴァージョンの内、最初に描かれたといわれるが、実際は定かでない。
「カモ」とみなされた青年を誘惑するジプシーの女性の顔が丸顔で輝いて、だまされる青年の顔も表情がそれらしく?、全体として画面が明るく、作品としては上質との評価が高いようだ。他方、カピトリーニ版(本ページ最下段)は女性の顔がやや暗く、若者の顔もいまひとつという評がある。要するに若者を誘惑する女性の魅力が、当時の世俗的観点から問題にされているようだ。それ以外で両者に際立った優劣はつけがたい。
カラヴァッジョ「(ジプシーの)女占い師」、ルーヴル美術館蔵 画面クリックして拡大
Michelangelo Merisi da Caravaggio (1571-1610), The Gypsy Fortune Teller, c. 1594, oil on canvas, 99 x 131cm, Muse du Louvre, Paris
ジプシーは今日ではロマ人と呼称されるようになっているが、ヨーロッパの歴史の中では、しばしばマイナスのイメージで語られることが多かった。漂泊の民として、キャラバンで各地を移動する有様は、ジャック・カロの版画などにも詳細に描かれてきた。他方で、文学、劇作などの主題に取り上げられることも少なくなかった。
たとえば、劇「ジプシー」は16世紀当時、著名な劇作家ジャン・アントニオ・ギアンカルリによって、メディチ家当主フェルディナンドI世とクリスティーヌ・ロレーヌの結婚式に上演され、大評判となった。デル・モンテ枢機卿も招かれ、出席していた。枢機卿にとってみれば、『いかさま師』と『女占い師』の2点を自邸の壁に掲げることができれば、大満足だったろう。
変わりゆく世俗画のイメージ
両者共にいわゆる世俗画のジャンルに入り、聖職者の邸宅の壁を飾るにはいかがなものかと思われるかもしれない。カードゲームで世の中の事情にうとい若者がカモにされたり、若くて美しいジプシー女の占い師に、目がくらんでいる間に金品を奪われるといったプロット自体は、はるか古い時代へさかのぼる。若く、ハンサムで、ナイーヴで、上等な衣服を着ている男が世俗の世界に溺れ、財産を失ってしまう(ルカ伝15:II)。放蕩息子の寓話であり、ほとんどのギャンブル、だまし、ジプシーの占い師などに関わる話の根底に暗黙に想定されている。
『女占い師』では二人の男女が描かれ、若い世の中を知らない若者の手をジプシーと思われる若い女が、手相を見ての占いをよそおいながら、あわよくば高価な指輪を抜き取ろうとしている場面が描かれている。当初は上述の「放蕩息子」の含意が予想されていた主題であったが、この時代には、ローマなどの都市社会に蔓延していた退廃した世俗の光景の一画面となっていた。
現実のこうした犯罪的行為の光景は、およそ美術の対象にはなじまないものであったに違いない。しかし、カラヴァッジョに代表される画家たちは、それらを見て楽しめる美術の世界へと移し替え、それぞれの階層の人々が、さまざまな思いで楽しんでいたというのが実情だった。
いつの間にか「いかさま」「ごまかし」「占い」「貧困」「華美」などのイメージは当時の人々、とりわけ画家や劇作家の心中で相互につなぎあわされ、単なる宗教的教訓といった次元を超えて、新たなイメージの世界を創りあげつつあった。
カラヴァッジョ「女占い師」(ローマ、カピトリーニ美術館) 画面クリックで拡大
Michelangelo Merisi de Caravaggio, The Gypsy Fortune Teller, c.1595, oil on canvas, 115 x 150cm, Pinacoteca Capitalina, Musei Capitolini, Rome
続く