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『刀狩り:武器を封印した民衆』

藤木久志、2005、『刀狩り:武器を封印した民衆』、岩波新書

子供のころ、自宅で短刀を見たことがある。また、サーベルもおいてあった。さすがに真剣の短刀をもてあそんだことはなかったが、儀礼刀の刃のないサーバルは格好のおもちゃだった。もちろん、子供にとっては重く、振り回すまでにはいたらなかった。本書を読んでいてふと自宅にあった刀のことを思い出した。

本書の冒頭、堀田善衛の『海鳴りの底から』で、天草の乱のキリシタン農民たちが、島原藩の武器庫をおそって武器を手にするというところから物語がスタートすることが紹介される。秀吉の刀狩りによって武装を解かれた農民が素手で武器庫を襲って武器を手にするというのである。
また、宣教師たちの記録を踏まえて、日本の農民の武装状況が点検されたのち、黒澤明監督の映画「七人の侍」が紹介される。武装しない農民が用心棒の侍を雇うのである。しかし、映画の途中、武装していないはずの農民が奪った落ち武者の武器や装束が侍たちの目に止まる。

著者は秀吉の刀狩り以降、侍以外の庶民は非武装であったと言うが、果たしてそうかという疑問から出発し論をすすめる。日本史上の三つの刀狩り、すなわち、秀吉のそれ、明治維新政府の断髪廃刀令、そして、太平洋敗戦時のマッカーサーによる非武装化、これらについて、吟味をくわえ、日本の庶民が非武装であったことはなく、現在も含め数多くの武器を持ちながらも、それらを主体的に使用しないという選択をしてきたことを重要視する。秀吉をはじめ、各時代の為政者も刀狩りと言いつつも実際に庶民を非武装化したことはなく、むしろ、一定の階層に帯刀を許可したり、祭礼等の特別の機会に履刀を認めたり、鉄砲も害獣を撃つための農具としての所有を許可していた。現在でも、許可制の形をとっているが、数多くの日本刀や銃砲が民間に所有されているのである。決して非合法な武装勢力が違法に武器を所持しているばかりではないことに注目したい。

自衛権を所有することは究極の人権である。しかし、自衛のための武器を持ちつつも、究極の状況以外での使用を行わないこと、これが、重要なのである。秀吉の刀狩り以降、各種の農民一揆にあっても鉄砲や刀剣が農民により大量に所有されているにもかかわらず、これらを武器として使用せず、莚旗をたて鍬や鎌で武装したのであるという。こうした状況と武装蜂起である憲法第九条を含む憲法を押し付け憲法であるといって、改憲しようとする政権が誕生しようとする今、改めて、刀狩りをそして日本の庶民史を武装非武装に関連付けて再びひもといてもいいのではないか。
つまり、問題は武器を持つ持たないではなく、武器を使用するしないの問題であることである。自衛隊は明らかに質量とともに日本のGDPにふさわしい近代的軍隊である。これを軍隊であるか否かの議論は、まったく不毛である。さらに、これを合法化するために改憲しようとするというのも不毛である。なされなければならないのは、もうひとつの議論、武力を使用するしない、こちらのほうの議論が重要なのではないのか。

本書を読むきっかけになった『百姓から見た戦国大名』について書評していますので、あわせて読んでください。

刀狩り:武器を封印した民衆

岩波書店

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2006-09-11 23:28:20 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


池下「広島焼 じゃけん」

今日は三日目(最終日)のリトルワールド。今日も2週=5キロ。

帰りに仕事場によって緊急の仕事を処理したので、おそくなり、自宅近くの「広島焼 じゃけん」に久しぶりに行った。若いけれど、こだわりのある亭主。いちど、行って見るとよろしかろう。またされたり、満員だったりするけれど。

2006-09-11 20:05:07 | 夕食・外食 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『百姓から見た戦国大名』

黒田基樹、2006、『百姓から見た戦国大名』、ちくま新書

本書は、いわゆる戦国時代における戦国大名と百姓をめぐる社会システムについて、洗い出そうという試みである。
われわれが、陥りがちな歴史観は英雄史観である。戦国時代であれば、上杉謙信や武田信玄であり、織田信長や羽柴秀吉、徳川家康である。また、だれもが知っている、彼ら戦国大名の有名な武将たちである。かれらの活躍が歴史を作り上げたように映る。しかし、当たり前のことだが、歴史は、名前を知られる彼らだけが動かしたのでも、作り出したのでもない。名もない百姓や町人の日々の暮らしが歴史を作ってきたのである。本書は、あらためて、そうしたことを思い起こさせてくれる。
百姓たちは、自分たちの田畑や里山を守るために隣接した村と争論を繰り返し、また、武装し他村の合力をえて村を自衛してきた。領主たちはこうした争論を治め、調停することが領国の安定に通ずるとして、「目安」制度という裁判制度を整えてきた。また、飢饉や疫病にあっては領民を守るため「徳政」といった緊急の金融制度をととのえた。このような制度をととのえて百姓を守ることが、領国の確保や安定につながるとしてきたのである。
こうした百姓の活動を基盤にして、戦国大名は群雄割拠することができたのである。当時の戦争は、田畑を荒らし、敵国の領民をさらい、売り飛ばしすることでもあったので、そうしたことから領民を守ることのできる戦国大名が百姓にとっても望ましい大名であったのである。しかし、かといって百姓の大事は自らの村を守ることであって、大名を守ることではない。有力な進駐者があらわれれば、さっさと、旧主のもとを去ったのである。

こうした村を守る百姓の動きは、戦国時代のものとして見るだけではなく、現代にも通ずるものとして見るべきであろう。言い方をかえると歴史において主体となること、これをわれわれは忘れてはいないか。つまり、われわれは、常に戦い、主体的に選択することによって歴史に関与するのだと言うことを。政治は政治だけの世界ではない。われわれの生きている世界そのものなのだ。そのことを忘れてはならないのだと思う。

本書のなかで言及された『刀狩り』についても書評しているので、読んでみてください。

百姓から見た戦国大名

筑摩書房

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2006-09-11 01:50:31 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )