『インターネットの法と慣習:かなり奇妙な法学入門』
白田秀彰、2006、『インターネットの法と慣習:かなり奇妙な法学入門』、ソフトバンク新書
この夏、オーストラリアとニュージーランドを仕事で旅をしたのだが、国境を越えるのは面倒だ。ニュージーランドはビザは不要だが、オーストラリアは必要だ。また、出国手続きや入国手続き、通関、検疫などのプロセスもある。パスポートが必要になる。
日本でインターネットに接続すればオーストラリアやニュージーランドのサイトに簡単にアクセスできる。検閲があるかもしれないけれど、メールもそんなことは気にせずやりとりできる。ところが、コンピュータを持って移動して、先方でインターネットにアクセスしようとすると、ちょっと面倒だ。日本の仕事場や自宅でブロードバンドでアクセスしていたものが、うまく行けばホテルのホットスポットが利用できる。しかし、宿のランクにもよるが、まだまだ、ダイヤルアップでとても遅い。もちろん、それ相応の金を払えば、宿泊先のホテルからは自由にアクセスできる。かといって、宿以外の訪問先で自由に持ち込んだコンピュータをイントラネットに接続させてはくれないだろう。
さらに、自分のウェブページを更新しようにも、セキュリティを高くしていれば、外国からダイヤルアップでつなげるのは不可能だ。また、自分のコンピュータのセキュリティにしても、ダイアルアップの場合はまだしも、ホットスポットに接続しようとすればおそらくセキュリティソフトは必須であるし、ある程度のセキュリティに関する知識は必要だろう。つまり、自分の縄張りからインターネットにアクセスするのは相当に自由だが、ひとたび、自分の縄張りを離れると相変わらず不自由である。
前置きはともかくとして、本書はこの手の卑近な例を解決しようとしているのでは毛頭ない。むしろ、法とは何かについて、インターネットの時代にあって再考しようと言うのが本書の趣旨である。だから、本書は、法の淵源から解き起こされる。英米法と大陸法、これは、知識の外だった。ポリシー・ローンダリングと言うのも。
終章で17世紀イギリスの「コーヒー・ハウス」が例に出されて、議会民主主義の萌芽とネットワーク社会の萌芽がアナロジーとして語られる。この文脈としては、ネットワークの時代のとしての現代を重要なターニングポイントとしてとらえ、同時にネットワーク以外の政治と非ネットワークの現実政治をいかにして統合するのか、これが現代的課題との考えを提示しているかに見える。しかし、その前の章で、著者は、現代ネットワークが政治的空間か否かについて、多数派はネットワークが非政治的であると考えているとの認識を示した上で、政治的消極派の三類型が示す。
(1)その人なりの政治的立場はあるがネットワークが非政治的空間と把握していて遠慮している人たち、(2)もとより政治的志向がまるでない人たち、(3)政治的な立場としてネットワークから政治的なものを排除しようと主張している人たち、である。そして、この三番目が数は少ないものの声が大きく、かえって、新たにネットワークに参加する人々を(1)もしくは(2)の類型においやっているとする。しかも、(3)は両極の立場を包括しているとするのである。つまりは、リバータリアニズム(自由主義)とアナーキズム(無政府主義)であるというのである。
これらの議論にはたして、ネットワーク上の「コーヒー・ハウス」において、これらの人々に共通の土俵はありうるのか。さらに、ネットワーク利用者はいまだ多数とはいえず、現代の「コーヒー・ハウス」において、世論は形成できるのであろうか。ややもすると、こうした議論の行方は、ネットワークの最大の特性である越境性をそぐような境界性の強化をもたらしてしまうのではないのか。法学にはまったくの素人ではあるが、国際法の新しい展開や境界性を越えるための法学的な議論について、さらに、知りたいところである。
ただ、国際法といっても、所詮、各国の国内法を前提としているわけだし、この際、いい意味でポリシー・ローンダリングをしてくれるといいのだけれど。そんなことは、ない、な!?
Nikkei Business:談話室たけくま:http://business.nikkeibp.co.jp/article/person/20060904/109190/?P=1
白田の情報法研究報告:http://www.welcom.ne.jp/hideaki/hideaki/indexj.htm
Hotwired連載:白田秀彰 の 「インターネットの法と慣習」:http://hotwired.goo.ne.jp/original/shirata/index.html
ロジーナ茶会:http://grigori.jp/
この夏、オーストラリアとニュージーランドを仕事で旅をしたのだが、国境を越えるのは面倒だ。ニュージーランドはビザは不要だが、オーストラリアは必要だ。また、出国手続きや入国手続き、通関、検疫などのプロセスもある。パスポートが必要になる。
日本でインターネットに接続すればオーストラリアやニュージーランドのサイトに簡単にアクセスできる。検閲があるかもしれないけれど、メールもそんなことは気にせずやりとりできる。ところが、コンピュータを持って移動して、先方でインターネットにアクセスしようとすると、ちょっと面倒だ。日本の仕事場や自宅でブロードバンドでアクセスしていたものが、うまく行けばホテルのホットスポットが利用できる。しかし、宿のランクにもよるが、まだまだ、ダイヤルアップでとても遅い。もちろん、それ相応の金を払えば、宿泊先のホテルからは自由にアクセスできる。かといって、宿以外の訪問先で自由に持ち込んだコンピュータをイントラネットに接続させてはくれないだろう。
さらに、自分のウェブページを更新しようにも、セキュリティを高くしていれば、外国からダイヤルアップでつなげるのは不可能だ。また、自分のコンピュータのセキュリティにしても、ダイアルアップの場合はまだしも、ホットスポットに接続しようとすればおそらくセキュリティソフトは必須であるし、ある程度のセキュリティに関する知識は必要だろう。つまり、自分の縄張りからインターネットにアクセスするのは相当に自由だが、ひとたび、自分の縄張りを離れると相変わらず不自由である。
前置きはともかくとして、本書はこの手の卑近な例を解決しようとしているのでは毛頭ない。むしろ、法とは何かについて、インターネットの時代にあって再考しようと言うのが本書の趣旨である。だから、本書は、法の淵源から解き起こされる。英米法と大陸法、これは、知識の外だった。ポリシー・ローンダリングと言うのも。
終章で17世紀イギリスの「コーヒー・ハウス」が例に出されて、議会民主主義の萌芽とネットワーク社会の萌芽がアナロジーとして語られる。この文脈としては、ネットワークの時代のとしての現代を重要なターニングポイントとしてとらえ、同時にネットワーク以外の政治と非ネットワークの現実政治をいかにして統合するのか、これが現代的課題との考えを提示しているかに見える。しかし、その前の章で、著者は、現代ネットワークが政治的空間か否かについて、多数派はネットワークが非政治的であると考えているとの認識を示した上で、政治的消極派の三類型が示す。
(1)その人なりの政治的立場はあるがネットワークが非政治的空間と把握していて遠慮している人たち、(2)もとより政治的志向がまるでない人たち、(3)政治的な立場としてネットワークから政治的なものを排除しようと主張している人たち、である。そして、この三番目が数は少ないものの声が大きく、かえって、新たにネットワークに参加する人々を(1)もしくは(2)の類型においやっているとする。しかも、(3)は両極の立場を包括しているとするのである。つまりは、リバータリアニズム(自由主義)とアナーキズム(無政府主義)であるというのである。
これらの議論にはたして、ネットワーク上の「コーヒー・ハウス」において、これらの人々に共通の土俵はありうるのか。さらに、ネットワーク利用者はいまだ多数とはいえず、現代の「コーヒー・ハウス」において、世論は形成できるのであろうか。ややもすると、こうした議論の行方は、ネットワークの最大の特性である越境性をそぐような境界性の強化をもたらしてしまうのではないのか。法学にはまったくの素人ではあるが、国際法の新しい展開や境界性を越えるための法学的な議論について、さらに、知りたいところである。
ただ、国際法といっても、所詮、各国の国内法を前提としているわけだし、この際、いい意味でポリシー・ローンダリングをしてくれるといいのだけれど。そんなことは、ない、な!?
Nikkei Business:談話室たけくま:http://business.nikkeibp.co.jp/article/person/20060904/109190/?P=1
白田の情報法研究報告:http://www.welcom.ne.jp/hideaki/hideaki/indexj.htm
Hotwired連載:白田秀彰 の 「インターネットの法と慣習」:http://hotwired.goo.ne.jp/original/shirata/index.html
ロジーナ茶会:http://grigori.jp/
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