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表現が飛躍するとき

2015年05月22日 | 読書
 【2015読了】44冊目 ★★★
 S9『指導案づくりで国語の授業力を高める』(岩下修 明治図書)


 「指導案づくり」が「授業力を高める」ことにつながるためには以下の点が重要であると考えた。

 一つには、授業の構造化を図るために発問・指示を明確にすること。

 そして、その過程で技術・原則を導きだし、汎用性や他への転移性を意識すること。


 Ⅱ章「指導案の応用の技術」に書かれてあることは、岩下先生が自らに課してきた「指導案づくり」の成果が、はっきり見えてくる。
 「指導案は忘れて知覚全開」とした授業の様子は、視点を明確にして指導案づくりに勤しんできたことが、見事に身体化しているといっていいだろう。


 かつて自分は生意気にも「すべては技術に落し込める」とうそぶいていた時期があった。
 この本で岩下先生が自らの授業行為をどこまでも技術・原則に照らし合わせようとしている姿に、今もって強い共感を覚える。
 もちろん、それはどこまでもいっても未達であり、その自覚がありなお、という姿勢に惹かれるのである。


 実はこの本の前半部にある「発問・指示」に、違和感を覚えた。
 そしてそのことは、すでに雑誌連載を読んだときに感じたことだった。
 ブログを検索してみたら、書いていた


 「ごんぎつね」の読みとりである。

 発問1 二の場面は、とても不思議なところがあります。
 指示1 一緒に考えてくれますか。


 かなり特殊な区分と言えよう。
 岩下先生は、同じⅠ章の前半部でこう書いている。

 発問…思考内容の提示
 指示…思考方法の提示


 上の発問・指示の文言は、明らかに異色と言えないか。

 これは、言ってみれば、岩下学級にしか通用しない言葉なのである。

 「教師」が不思議なところがあると言えば、それが「問い」という形に昇華される「知」があり、「一緒に考えて」と言えば、「集団思考」という方法をイメージできるからなのである。単に形式的に言葉を置き換えているわけではない。
 教師側に、子どもが「そこ」へ向かう身心になっていると確信があるからだろう

 ここに見られる論理から表現への飛躍は、おそらく「指導案づくり」の積み重ねによって形づくられてきたのだ。